「翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~」(2023日)
ジャンルコメディ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 埼玉県民は麻実麗率いる埼玉解放戦線の活躍によって自由と平和を手に入れた。しかし、地域間の対立は未だ冷めやらず、麗は県民の心を一つにするべく越谷に海を作ることを宣言。早速、美しい白砂を求めて和歌山へと旅立った。ところが、途中で船は難破してしまい、九死に一生を得た麗はそこで滋賀解放戦線のリーダー桔梗と出会う。
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(レビュー) 埼玉県を愛ある(?)ディスりでネタにした伝説のギャグ漫画「翔んで埼玉」の実写映画化第2弾。
今回は関東地方から飛び出して関西を舞台に捧腹絶倒な笑いの世界が繰り広げられている。バカバカしくも下らないギャグの中に、関西人に対するディスりネタが豊富に仕込まれていて中々楽しめた。
メインとなるスタッフ、キャストは前作と同じなのでテイストはしっかりと引き継がれている。前作が楽しめた人なら今作も十分に楽しめるのではないだろうか。むしろスケールという意味では前作以上にパワーアップしており、このままシリーズ化を狙っているかのような勢いが感じられた。
物語は、例によって埼玉在住の一組の家族のドラマを起点としながら、ラジオから流れてくるカオスな世界が軽快なテンポで語られていく。ネタの伏線と回収も見え見えながら無理なく張られているし、終盤の盛り上がりもよく考えられていると思った。
個人的には、滋賀発祥の”ある看板”の意外な(?)活躍と、前作でも盛り上がった有名人対戦に笑ってしまった。また、埼玉県ネタは今回は舞台が関西ということで少ないのだが、それでもクライマックスにかけて大いに盛り上げてくれる。ここも楽しく観ることができた。
一方、ここはもう少し毒があった方が良かったのに…と思う個所も幾つかあった。
例えば、白い粉の扱いなどは明らかに麻薬的な何かのように描かれているが、コンプライアンス的な問題でこの辺りが表現の限界なのだろう。甲子園のネタにしてもそうなのだが、各方面に遠慮しているような向きが感じられた。
大規模公開のエンタメ作品ということを考えれば、余り過激な表現が出来ないというのも分かるが、どうせ続編を作るのならもっと攻めた姿勢も見せて欲しかった。
尚、劇中には様々な映画のパロディも登場してくる。中には劇場公開に合わせたかのようなタイムリーなネタも出てきて、このあたりは実に商売上手である。
キャスト陣は前作同様、夫々に奮闘している。中でも今回のヴィラン役片岡愛之助の嬉々とした怪演が印象の残る。
逆に、麗役のGACKTと共に前作を大いに盛り上げていた桃美役二階堂ふみは出番が少なくて少し残念である。
「トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン」(1980米)
ジャンル戦争・ジャンルコメディ
(あらすじ) ベトナム戦争の真っただ中。古びた古城に精神科医のケーン大佐がやって来る。そこは兵役を逃れるための詐病を鑑定する軍の施設で、様々な患者が収監されていた。ケーン大佐はそこでロケットの発射直前に発狂したアポロの宇宙飛行士カットショーを始め、様々な患者達と奇妙な交流を始めていく。
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(レビュー) 霧に包まれた古城を舞台に繰り広げられるシュールでブラックな寓話。
「エクソシスト」(1973米)の原作者として知られるウィリアム・ピーター・ブラッティが自らの原作を製作、監督、脚本を兼ねて撮り上げた作品。一部でカルト視されているだけあって、何ともシュールでナンセンスな怪作である。
例えば、巨大な月が地上に迫り来るカットショーのシュールな悪夢を筆頭に、自分をシェイクスピアやスーパーマンだと思い込む者、ナチスの軍服を着てハイテンションな挙動をする者、突然奇声を発する者等。そうした患者たちとケーン大佐の間で行われ意味不明なやり取りを中心に物語は展開されていく。
一方のケーン大佐もどこか精神的に壊れた人間である。患者たちの奇行やぶしつけな態度を受け流しながら、何を考えているのかサッパリ分からないという有様なのだ。
何を言われても無表情のケーン大佐。奇行に走る患者たち。両者のかみ合わない会話を延々と見せられるので、感情移入しようにも出来ず、結局最後まで翻弄されっぱなしだった。
また、ドラマらしいドラマも余りなく、中盤まではストーリー的な動きも乏しい。シュールなコント集として観ればそれなりに楽しめるのだろうが、自分にはその笑いも今一つ感性にヒットしなかった。
尚、本作を観て思い出されたのが
「まぼろしの市街戦」(1967仏英)である。この作品は、精神病患者だけが取り残された村を舞台にしたシュールな反戦映画で、これまたカルト的な人気を誇る怪作である。
確かに本作も一応、反戦メッセージは通底しており、そういう意味では共通する要素は見て取れる。戦場によるショックで精神を病んだカットショー達を見ているとどこか憐れさを覚えた。
ただ、本作はベトナム戦争という背景はそれほど大きな意味を持っておらず、代わりに人間の孤独や尊厳、神の存在といった哲学的なテーマを前面に出した作りになっている。反戦ド直球だった「まぼろしの市街戦」より捻った構成で、より多義的なメッセージを孕んだ問題作に思えた。
映画はクライマックスに差し掛かるあたりから、ケーン大佐とカットショーの友情に焦点が当てられていくようになる。そして、かなり唐突ではあるが、ラストは意外にも抒情的に締め括られている。二人の関係を”逆転”させた所に面白さを感じた。
尚、邦題ではキラー・カーンとなっているが正しくはキラー・ケーンであろう。キラー・カーンだと当時活躍していたプロレスラーの名前になってしまう。
「ハロルドとモード/少年は虹を渡る」(1971米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 19歳のハロルドは異常に死に取りつかれた自殺願望の強い青年だった。自殺の真似をして母親をいつも心配させていた。そんなある日、他人の葬式に出席した彼は、そこでモードという初老の女性に出会う。彼女もまた他人の葬式に立ち会うのが趣味という変わり者で、意気投合した二人は交流を重ねていく。
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(レビュー) 死に取りつかれた青年と奔放な老婆の交流をブラックなユーモアを交えながら綴った作品。
ハロルドは度々自殺の真似をして母親を驚かせるのだが、これがシュールで刺激的で毎回驚かされてしまう。首を吊ったり、喉を裂いたり、拳銃で頭を撃ったり、火だるまになったり等々。客観的に見ればどれも本当に死んでいるように見えるのだが、次のシーンになると彼は何事もなかったかのように復活しているのだ。このシュールでブラックなトーンが本作に奇妙な味わいをもたらしている。
尚、切腹するシーンもあるのだが、ハロルドが叫ぶ「ハラキリ!スキヤキ!」に笑ってしまった。
映画は、そんなハロルドと、たまたま同じ葬式に参列していた初老の女性モードの交流で展開されていく。
モードはハロルドと正反対にバイタリティに溢れた女性である。その一挙手一投足は破天荒で、他人の車を盗んだり、ヌードモデルになったり、とにかくぶっ飛んでいる。ハロルドはそんな彼女に自分にはない物を感じ、惹かれていくようになる。
ハロルドは経済的には満たされているが、すべてにおいて母親の言いなりになって生きてきた青年である。そんな窮屈な人生から抜け出したいと願うのだが、一方で今の裕福な暮らしにしがみつきたいという未練も捨てきれないでいる。外の世界に出ていく勇気がないのだ。
そんな時に出会ったのが破天荒に生きるモードだった。ハロルドは彼女から、本当に生きるということの意味、人生の楽しみを教わりながら母親のしがらみから解放されて自律していく。
印象に残ったシーンは幾つかあるが、例えば車を盗んで警官の追跡を振り切るシーンなどは、さながらボニー&クライドのようで痛快であった。また、花を愛で、風の匂いを感じ、太陽の光を浴びるデートシーンも大変美しく撮られていて心に残る。墓地のシーンの壮大さや、二人並んで夕焼けを見るシーンの美しさも格別だった。
かくして二人の交流はユーモアとペーソス、更にはクスリとさせるようなロマコメ・テイストで描かれていくが、結末は意外にもビターに締めくくられる。賛否あるかもしれないが、自分はこの結末で良かったと思う。
思えば、ハロルドとモードの間には生と死、若さと老い、モラルとアンモラルといったパラドクスの構造が常に忍ばされていた。これだけ正反対な男女が容易に結ばれてしまっては、それこそご都合主義という感じがしてしまう。ちょっぴりほろ苦いエンディングかもしれないが、ドラマ的なリアリティを考えれば、このあたりに着地するのは納得である。
監督は「さらば冬のカモメ」(1973米)や「チャンス」(1979米)等のハル・アシュビー。
彼は元々「シンシナティ・キッド」(1965米)、「夜の大走査線」(1967米)、「華麗なる賭け」(1968米)といった傑作で編集を務めた映像職人である。本作でも要所の映像センスに唸らされるものがあった。
一方で、ラディカルさを伴うオフビートなテイストが独特の作風を形成しており、中々一筋縄ではいかない作品でもある。ドラマ自体は哀愁漂うメロドラマで大変親しみやすく作られているが、こうした癖の強い作りが観る人を選ぶかもしれない。
いずれにしても、この特異な作風、普遍的なドラマ等、彼のフィルモグラフィーの中では「さらば冬のカモメ」と並び、アメリカン・ニューシネマを代表する珠玉の1本になっていると思う。
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 貧しい家に生まれ育ったジョーダンは、ウォール街で証券マンとしての人生をスタートさせる。しかし、不幸にも株価暴落の憂き目にあい会社は倒産。寂れた田舎町で仕切り直しを図る。その後、類まれなるセールストークで頭角を現すと26歳という若さで会社を設立。瞬く間に社員700人の大企業へと成長させる。その一方で、ドラッグとパーティに明け暮れ、徐々に生活は荒んだものとなっていく。
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(レビュー) ウォール街の風雲児ジョーダン・ベルフォードの波乱に満ちた人生をシニカルな笑いで綴った実録映画。
ジョーダン・ベルフォードは実在する人物で、今作は本人が書いた原作を元にして作られている。ドラッグとセックスにまみれた私生活が赤裸々に描かれていて驚かされてしまう。果たしてどこまで真実に寄せているのか気がかりではあるが、エンタテインメントとして見れば大変面白く、3時間の長丁場をまったく感じさせない作りで最後まで楽しめた。
監督のマーティン・スコセッシの手腕も冴えわたっている。「グッドフェローズ」(1990米)や
「カジノ」(1995米)を想起させる早いテンポでグイグイと展開させながら、ジョーダンの栄光と挫折を活写している。しかも、ジョーダンを含め多くのキャラが全編ハイテンションで、この”祝祭感”はただ事ではない。映像とセリフと音楽の洪水に飲み込まれながら気付いたら3時間経っていたという感じで、終始面白く観れた。
最も印象に残ったのは、ジョーダンと盟友ドニーが期限切れのドラッグを吸ってしまい、意識朦朧の状態に陥ってしまうシーンだった。ドニーにFBIの罠が仕掛けられていることを知らせようと地面を這いつくばりながら車に乗ろうとするジョーダンに爆笑。更に、心肺停止に陥ったドニーを助けようと、テレビ画面に映る”ポパイ”よろしくコカインでエナジー充電するジョーダンに爆笑。ラリッた醜態をスペクタクルのように見せてしまうスコセッシの力業とも言える演出が凄い。
ジョーダンがナオミと出会うシーンも、まるで中学生のような青臭さに笑ってしまった。それまで人目もはばからずオフィスで堂々と腰を振っていた男が、美人の転校生に心をときめかせるウブな少年ようなリアクションを見せるのである。このギャップが可笑しい。
更に、ジョーダンとFBI捜査官の対峙を描くボートのシーンにはスリリングさが、マネーロンダリングのためにスイスの富豪と対面するシーンにはキツネの化かし合いのような滑稽さが感じられた。
このように今作は、微に入り細に入りスコセッシの職人芸が光る映画で、氏のフィルモグラフィーの中でも”手数”の多さでは一、二を争うのではないだろうか。非常に濃密な1本である。
キャスト陣の熱演も作品のテンションをパワフルに支えている。
ジョーダン役は、もはやスコセッシ映画の常連といった感じのレオナルド・ディカプリオが熱演。いわゆるピカレスクロマンを地で行くようなダークな側面をすべからく取っ払った演技が、本作の底抜けに明るい作風に上手くマッチしていた。リアルに見てしまえば共感性0の主人公だが、それをここまでぶっ飛んだキャラクターに造形した功績は大きい。
ナオミを演じたマーゴット・ロビーは惜しげもなく裸体を披露し、本作の輝きを独り占めするような魅力を見せている。隙あらば女性のヌードを見せびらかす本作において、やはり彼女の美しさは群を抜いていた。ディカプリオとの痴話げんかにおけるコメディエンヌ振りも見事である。
ジョーダンの上司役を務めたマシュー・マコノヒーは出番こそ少ないながら、激ヤセした姿に驚かされた。おそらくこれは同年に撮影された
「ダラス・バイヤーズ・クラブ」(2013米)の役作りのためだろう。
「アステロイド・シティ」(2023米)
ジャンルコメディ・ジャンルSF
(あらすじ) 1955年、アメリカ南西部の砂漠の町アステロイド・シティ。隕石でできた巨大クレーターが観光名所になっているこの町で、ジュニア宇宙科学賞の祭典が開かれる。その表彰式に元戦場カメラマン、オーギーが、表彰される長男と3人の幼い娘たちを連れてやって来た。彼は、同じく受賞者である娘と来ていた映画スター、ミッジと出会うのだが…。
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(レビュー) 砂漠の町を舞台に繰り広げられる騒動をオフビートなタッチで描いたナンセンス・コメディ。
ウェス・アンダーソン監督らしい遊び心に満ち溢れた作品である。
まず、映画の構造が少し変わっていて驚かされた。アステロイド・シティで起こる悲喜こもごもは劇作家が描く劇中劇という形になっている。映画はそこを中心に展開されていくのだが、その合間に劇作家自身のドラマが挿入され、更にそれをテレビキャスターが紹介するという、言わば三重の入れ子構造になっているのだ。
映像はモノクロとカラーにきっちり描き分けられており、アステロイド・シティを舞台にした劇中劇はポップで鮮やかな色彩で表現され、それ以外はモノクロとなっている。
ただ、物語に関しては、これまでの作品に比べるとかなり薄みに感じられた。オムニバス形式だった前作
「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イブニング・サン別冊」(2021米)以上にドラマは空疎で、たくさんのキャラが登場する割に余り盛り上がらない。
一応、主人公オーギーとヒロイン、ミッジのロマンスや、オーギーの子供たちの成長といったエピソードが語られるが、いずれも表層的で物足りなく感じられた。
一方、映像に関しては、これまで通りカラーパートはパステルカラーを前面に出したトーンが徹底され魅了された。完璧にコントロールされたカメラワーク。シンメトリックな構図。アートギャラリーのように配された小物。どのカットを見てもスキのない画面設計に唸らされる。
この独特な映像は
「グランド・ブタペスト・ホテル」(2013英独)、「フレンチ・ディスパッチ~」を経て完成の域に達したと思ったのだが、まだ進化の余地があったということに驚かされる。特に配色に対するこだわりは、これまでの作品の中ではピカ一ではないだろうか。
尚、個人的に最も面白かったのは、ジュニア宇宙科学賞の表彰式のシーンだった。ネタバレを避けるために伏せるが、ここでオーギーは”ある写真”を撮るのだが、これが正に衝撃的な一枚で笑ってしまった。そして、この写真は後に構図が丸被りなミッジの写真と並ぶ。そこでまた笑ってしまった。
キャスト陣は今回も豪華である。
ウェス映画の常連であるジェイソン・シュワルツマン、ティルダ・スウィントン、エイドリアン・ブロディ、エドワート・ノートン、更に今回はスカーレット・ヨハンソンやトム・ハンクスといった大物も登場してくる。
もっとも、ジェイソン・シュワルツマンとスカーレット・ヨハンソンは目立っていたが、それ以外のキャストは今一つ…。夫々の個性を活かしきれていないのが勿体なく感じられた。