「ハロルドとモード/少年は虹を渡る」(1971米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 19歳のハロルドは異常に死に取りつかれた自殺願望の強い青年だった。自殺の真似をして母親をいつも心配させていた。そんなある日、他人の葬式に出席した彼は、そこでモードという初老の女性に出会う。彼女もまた他人の葬式に立ち会うのが趣味という変わり者で、意気投合した二人は交流を重ねていく。
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(レビュー) 死に取りつかれた青年と奔放な老婆の交流をブラックなユーモアを交えながら綴った作品。
ハロルドは度々自殺の真似をして母親を驚かせるのだが、これがシュールで刺激的で毎回驚かされてしまう。首を吊ったり、喉を裂いたり、拳銃で頭を撃ったり、火だるまになったり等々。客観的に見ればどれも本当に死んでいるように見えるのだが、次のシーンになると彼は何事もなかったかのように復活しているのだ。このシュールでブラックなトーンが本作に奇妙な味わいをもたらしている。
尚、切腹するシーンもあるのだが、ハロルドが叫ぶ「ハラキリ!スキヤキ!」に笑ってしまった。
映画は、そんなハロルドと、たまたま同じ葬式に参列していた初老の女性モードの交流で展開されていく。
モードはハロルドと正反対にバイタリティに溢れた女性である。その一挙手一投足は破天荒で、他人の車を盗んだり、ヌードモデルになったり、とにかくぶっ飛んでいる。ハロルドはそんな彼女に自分にはない物を感じ、惹かれていくようになる。
ハロルドは経済的には満たされているが、すべてにおいて母親の言いなりになって生きてきた青年である。そんな窮屈な人生から抜け出したいと願うのだが、一方で今の裕福な暮らしにしがみつきたいという未練も捨てきれないでいる。外の世界に出ていく勇気がないのだ。
そんな時に出会ったのが破天荒に生きるモードだった。ハロルドは彼女から、本当に生きるということの意味、人生の楽しみを教わりながら母親のしがらみから解放されて自律していく。
印象に残ったシーンは幾つかあるが、例えば車を盗んで警官の追跡を振り切るシーンなどは、さながらボニー&クライドのようで痛快であった。また、花を愛で、風の匂いを感じ、太陽の光を浴びるデートシーンも大変美しく撮られていて心に残る。墓地のシーンの壮大さや、二人並んで夕焼けを見るシーンの美しさも格別だった。
かくして二人の交流はユーモアとペーソス、更にはクスリとさせるようなロマコメ・テイストで描かれていくが、結末は意外にもビターに締めくくられる。賛否あるかもしれないが、自分はこの結末で良かったと思う。
思えば、ハロルドとモードの間には生と死、若さと老い、モラルとアンモラルといったパラドクスの構造が常に忍ばされていた。これだけ正反対な男女が容易に結ばれてしまっては、それこそご都合主義という感じがしてしまう。ちょっぴりほろ苦いエンディングかもしれないが、ドラマ的なリアリティを考えれば、このあたりに着地するのは納得である。
監督は「さらば冬のカモメ」(1973米)や「チャンス」(1979米)等のハル・アシュビー。
彼は元々「シンシナティ・キッド」(1965米)、「夜の大走査線」(1967米)、「華麗なる賭け」(1968米)といった傑作で編集を務めた映像職人である。本作でも要所の映像センスに唸らされるものがあった。
一方で、ラディカルさを伴うオフビートなテイストが独特の作風を形成しており、中々一筋縄ではいかない作品でもある。ドラマ自体は哀愁漂うメロドラマで大変親しみやすく作られているが、こうした癖の強い作りが観る人を選ぶかもしれない。
いずれにしても、この特異な作風、普遍的なドラマ等、彼のフィルモグラフィーの中では「さらば冬のカモメ」と並び、アメリカン・ニューシネマを代表する珠玉の1本になっていると思う。
「マイ・エレメント」(2023米)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー・ジャンルロマンス
(あらすじ) エレメント・シティで暮らす火のエレメントのエンバーは、父が経営する雑貨屋を手伝いながら忙しい日々を送っていた。短気な性格が玉に瑕だが、父はいつかエンバーに店を継がせたいと思っていた。そんなある日、店の水道管が破裂して水漏れが発生してしまう。そこでエンバーは水のエレメントの青年ウェイドと出会う。彼は検査官で老朽化した店の営業停止を役所に提出してしまうのだが…。
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(レビュー) 火と水という相いれない種族同士の恋愛を美しい映像で綴ったピクサー製作のファンタジー・アニメ。
火、水、土、風の4元素を擬人化したアイディアが大変ユニークである。個人的には同じピクサー製作のアニメ
「インサイドヘッド」(2015米)を連想した。「インサイトヘッド」も人間の喜怒哀楽の感情を擬人化したアニメだったが、一般的にビジュアル化するのが難しいこうした抽象物を見事に視覚化した所に現在のピクサーの底力を見てしまう。
今回は燃え盛る炎や透明な水の表現が際立っていた。「モンスターズ・インク」(2001米)の毛並みの表現に感嘆したのも遠い昔。ついに技術はここまで来たかと驚かされる。
また、エレメントたちが暮らすエレメント・シティの緻密な造形も素晴らしかった。ユーモアを凝らしたアイディアがふんだんに盛り込まれており、何度観ても楽しめる映像ではないかと思う。
一方で、エレメント・シティにはエレメント間の経済格差や差別意識がシビアに存在する。これも現在のアメリカ社会の鏡像として捉えれば実に興味深く受け止められる。ここ最近のディズニーは多様性というテーマを一つの潮流としているが、今回もそのあたりのことがしっかりと作品内で唱えられている。
物語もそつなく構成されており安定感がある。種族という障害を乗り越えて育まれるエンバーとウェイドのメロドラマ。父の呪縛に捕らわれるエンバーの自律。本作はこの両輪で構成されているが、最後まで手堅く作られていたように思う。
ただ、余りにも収まりのいい展開が続くため、クライマックスにかけて先が読めてしまうのは少々残念であった。
思うに、火と水を中心にしたドラマ作りが、若干展開を狭めてしまったような印象を受ける。他のエレメントをもっと絡めることで、更にスケール感のあるドラマにできたのではないだろうか。特に、土の存在感の薄さは勿体なく感じられた。せっかく水をせき止める砂袋のクダリがあったのだから、そこで活かせれば…と惜しまれる。
尚、個人的に最も強く印象に残ったシーンは、エンバーが幼い頃に見れなかったビビステリアの花を見に行くシーンだった。火のエレメントであるエンバーが水中深くに眠る花をどうやって見るのだろう?と思っていたら、その手があったかと膝を打った次第である。ここは美しい映像も見応えがあったし、その後の二人の触れ合いにも感動させられた。
また、ラストの一発逆転のアイディアも見事だと思った。物語を痛快に締めくくっている。
監督、原案は韓国系移民のピーター・ソーンという人である。
「カールじいさんの空飛ぶ家」(2009米)の同時上映だった短編アニメ「晴れときどきくもり」(2009米)で監督デビューした人である。その繋がりなのか、今回は「カールじいさん~」の短編アニメが同時上映としてついている。
ソーン監督は今回の物語には移民一家に生まれた自身の少年時代が反映されていると語っており、本作にかける思いも並々ならぬものがあったのではないだろうか。
音楽は、数々のピクサーアニメを始め多くの映画音楽を手掛けてきたベテラン、トーマス・ニューマン。今回は全体的にインドっぽい曲調だったのが面白かった。後で知ったが実際にシタールなどのインドの楽器が使用されているということである。これまでのニューマンの作風とはまったく違う音作りがユニークだった。
「ボーンズ アンド オール」(2022伊米)
ジャンルロマンス・ジャンルホラー
(あらすじ) 生まれながらに人を喰べる衝動を抑えられない18歳の少女マレンは、新しい学校に転入して早々、友達の指を食いちぎり父親に見捨てられてしまう。たった一人になってしまったマレンは出生証明書を手掛かりに行方知れずになった母を探す旅に出る。その先で彼女は自分と同じ衝動を抱えた若者リーと出会うのだが…。
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(レビュー) 人喰い族というホラー映画然とした要素が売りの作品であるが、本作はただそれだけの作品ではないように思う。そこにはマイノリティの苦悩が隠されているような気がした。
マレンやリーのカニバリズムの衝動がどこから来るものなのか。それは映画を観終わっても良く分からなかった。ただ、遺伝が関係していることは明確に示唆されており、そこには抑圧されながら生きる被差別民の姿が投影されているような気がする。
また、食人の衝動はここでは恋愛の衝動に似た意味で語られているような気がした。
例えば、それは同族を匂いで感知するという彼らに特有の本能からもよく分かる。これはオスとメスが放つ”フェロモン”に近い生理的現象なのかもしれない。
また、彼らは生きていくために我々と同じように普通に食事をするが、人肉を喰うと特別な興奮と快感が得られるということだ。これはセックスの快感に割と近いものなのかもしれない。
こうしたことを併せ考えると、マレンとリーが惹かれあっていく今回の物語には”性的少数者”の苦悩が何となく透けて見えてくる。
人種差別やLGBTQ等、本作は深読みしようとすればいくらでもできる作品であり、単にホラー映画という外見だけで捉えてしまうには惜しい作品のように思う。物語の根底に忍ばされたメッセージを汲み取りながら観ていくと大変歯ごたえが感じられる作品である。
ただ、寓話としては面白く読み解ける作品なのだが、このカニバリズムという設定はやはり余りにもインパクトが大きい。それゆえ、どうしてもその意味については解明を試みたくなる。
しかして、本作はその本質に迫れているか?と言えば、自分はそこまでの深淵さが感じられなかった。どうしてカニバリズムなのか?その真意が読み解けなかった。
本作にはヤングアダルト小説の原作があるようだが(未読)、そちらにはマレンたちが食人になった経緯などは書かれているのだろうか?
監督はルカ・グァダニーノ。展開で首を傾げたくなる個所が幾つかあったのと、マレンの父親が残したカセットテープが余り上手く活用されていないことに不満を持ったが、演出は概ね安定しているように思った。リメイク版
「サスペリア」(2018伊米)に続き奇しくもホラー付いているが、見せ場となるようなビジュアル・シーンは前作ほどの刺激性はないものの、作品のテーマとしては十分に野心的で先鋭的で、改めてこの監督の独特な作家性には魅力されてしまう。
キャスト陣では、どうしてもリーを演じたティモシー・シャラメに目が行ってしまうが、サブキャラにも魅力的な俳優が揃っている。
特に、マレンが最初に遭遇する同族のサリーを演じたマーク・ライランスは印象に残った。自己の中に人喰いの自分とそうでない自分を抱えた精神分裂症気味な怪演がインパクト大である。
また、マレンたちに骨まで喰う恍惚感を嬉々として語るマイケル・スタールバーグ、マレンの母親を演じたクロエ・セヴィニーも少ない登場ながら印象に残る演技を見せている。
「静かな雨」(2019日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 大学の研究室で働く行助は、片足に障害があり足を引き摺って歩いている。ある日、彼はたいやき屋を営む女性こよみと出会い、少しずつ距離を縮めていく。ところが、幸せも束の間、こよみが事故に遭ってしまう。
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(レビュー) 事故の後遺症で記憶が一日しか持たなくなってしまったヒロインと、彼女を支える青年の愛を静謐なタッチで描いたロマンス作品。同名小説(未読)の映画化である。
監督、共同脚本は
「愛の小さな歴史」(2014日)、
「走れ、絶望に追いつかれない速さで」(2015日)、
「四月の永い夢」(2018日)の中川龍太郎。
短期記憶喪失障害に陥ったヒロインを主人公が献身的に支えるというプロットは、
「50回目のファースト・キス」(2004米)を連想させる。あちらは完全にウェルメイドな作りのラブコメなので、本作とはテイストは全く異なるが、基本的なプロットはほぼ一緒と言って良いだろう。
今時珍しいくらいの純愛で観ててこそばゆくなってしまった。このあたりは原作に準拠した作りなのかもしれないが、「四月の永い夢」を観ていると中川龍太郎の作家性も多分に入っているような気がする。感情を決して前面に出すわけではないが、登場人物の感傷に引きづられた行動に、正直余りリアリティは感じられない。
ただ、「四月の永い夢」ほどヘビーなテーマではない分、ドラマと演出トーンの乖離はさほど気にはならなかった。
最も印象的だったのはブロッコリーのクダリである。行助はブロッコリーが苦手で、記憶を保てないこよみはブロッコリーを使った料理を毎晩のように出してしまう。しかし、それはこよみなりの別の意図があって…という所が中々泣かせる。
本作はこうした”小技”がとてもうまく行っていて、他にも行助とこよみが同じ挨拶を毎朝反復するシークエンスも巧妙な演出だと思った。ある時から二人の挨拶に少しずつ変化が訪れる。その変化に二人の距離が透けて見えて興味深い。
町の人々に愛されるたいやき屋という設定も、物語に牧歌的な親しみを与えていて◎。河瀨直美監督がチョイ役で出てくるので、その関係からどうしても彼女の
「あん」(2015日仏独)を連想してしまうが、常連客とこよみの関係を通して上手く彼女のキャラクターが醸造できていると思った。
物語の終盤に入ってくると、こよみの過去に焦点を当てた展開に入っていく。実は、彼女には他人には打ち明けられない過去があり、そのあたりの謎解きと、それを知った行助の葛藤が一つの見所となっている。
古い過去は覚えていても昨日のことは忘れてしまうこよみに対する行助の胸中は如何ばかりか。それを察すると終盤の展開は切なくさせる。
愛があればどんな障害も乗り越えられる…と言うと少しカッコつけた言い方になってしまうが、要するにそういうことでしか、こういう問題は解決できないだろう。映画はそのあたりのことを敢えてぼかした表現にとどめているが、この殊勝さは本作の美点かと思う。
観てて一点だけ気になったのは、行助の片足が不自由というハンデである。その設定が、この物語にどれほど必要だったか疑問に残った。そもそも彼自身の口からそこについての言及は成されておらず、この辺りは観終わって悶々とさせられた。
「サイの季節」(2012イラントルコ)
ジャンルロマンス・ジャンル社会派
(あらすじ) イランの詩人サヘルは愛する妻ミナと幸せな日々を送っていた。運転手のアクバルは密かにミナに想いを寄せていた。やがてイラン革命が起き、アクバルは新政府の実力者となる。彼はサヘルを投獄しミナを力づくで我が物にするのだが…。
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(レビュー) 動乱に翻弄された夫婦と運転手の愛憎を幻想的な映像を交えて綴ったドラマ。
実在するクルド系イラン人の詩人サデッグ・キャマンガールの体験にもとづいて描かれた物語ということである。自分はこの詩人のことを全く知らなかったのだが、ネットでは中々情報が見つからず、どこまで著名な詩人なのか分からなかった。もしかしたらイランではかなり有名な人物なのかもしれない。
物語は1979年に起こったイラン革命を舞台に展開される。この革命はホメイニーを指導者とするイスラム教勢力が、当時の親欧米専制から政権を奪取した動乱である。これによって当時の社会状況は大きく変わり、中には本作のサヘルのように逮捕拘留者が続出したそうである。そんな歴史的背景を知っていると、本作はより深く理解できると思う。
監督、脚本は「酔っぱらった馬の時間」(2000イラン仏)、
「亀も空を飛ぶ」(2004イラク)のバフマン・ゴバディ。彼自身イランから亡命しながら映像製作をしている作家であり、本作のサヘルに自身を投影しているのかもしれない。
ごくありふれた三角関係を描いたメロドラマは、それ自体、取り立てて新味はないが、現代と過去を交錯させた構成が、ある種の不思議な浮遊感をもたらし味わい深くしている。いかにもゴバディ監督らしい幻想タッチと映像美も、作品に独特の魅力を寄与している。
例えば、中盤で亀が空から降って来るシーンがあるが、これなどはシュールでインパクトがあった。あるいは、サイが突如として現れたり、水中のラブシーン等、非日常的な光景が、通俗的な物語に良い意味でアクセントをつけている。
また、過去編は銀残しのような渋いトーンで撮られており、これも時代の差異を明確化するという点においては上手いやり方だと思った。
キャスト陣では、ミナを演じたモニカ・ベルッチが年を重ねて尚、変わらぬ美貌で画面に圧倒的存在を見せつけている。今回は権力によって理不尽な目に合わされる悲劇のヒロインということで、終始悲哀を滲ませた演技を貫き通しており、芯の強い女性像を熱演している。特に、黒い布袋を被らされてアクバルに犯されるシーンは、体を張った熱演で見応えを感じた。