「悪魔スヴェンガリ」(1931米)
ジャンルサスペンス・ジャンル古典
(あらすじ) パリの下町に住む貧乏な音楽教授スヴェンガリは、相手を自分の意のままに操る不思議な魔力を持っていた。ある日、同じ下宿に住む若い画家たちのアトリエに行くと、そこでモデルとして日銭を稼ぐ可憐な娘トリルビーと出会う。その美しさに惹かれたスヴェンガリは、彼女をオペラの檜舞台に立たせてやろうとするのだが…。
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(レビュー) 原作は古典的な名作ということで(未読)、これまでに何度も映像化されている作品である。IMdbによれば最古の映像化は1914年ということだから、かなり古くから愛されていることが分かる。今作も戦前の作品ということで、映像や芝居は流石に古いが、ドラマ自体は今見ても十分に通用する普遍性を持っていると思った。
怪しい雰囲気を漂わせたスヴェンガリの造形から、一見すると怪奇映画のようなイメージを想像する。
確かに、スヴェンガリが白目を剥いて魔力を発動するクローズアップに、同年公開の
「魔人ドラキュラ」(1931米)のベラ・ルゴシのような恐ろしさが感じられる。しかし、こうしたハッタリを効かせたホラー的演出は極わずかで、基本的にはドラマを語ることに専念しており、分かりやすい例を挙げれば「オペラ座の怪人」のようなメロドラマとなっている。ファントム(悪魔)に魅せられた人間の悲しい性。ゲーテの「ファウスト」のようなドラマでもある。
そして、この悪魔スヴェンガリは随所でオフビートなユーモアを醸している。そのため、どこか憎めないキャラクターとなっている。ラストで彼が採った”選択”も物悲しさを覚える顛末で、そうした彼のキャラクター性が本作に一定の味わいをもたらしている。
また、ドイツ表現主義的な美術セットと技巧的なカメラワークも特筆に値する。特に、映画前半の舞台となるスヴェンガリが住む下町の造形は、総じて曲線的な作りで、それが「カリガリ博士」(1919独)のような一種異様な雰囲気を創出している。
カメラワークでは、スヴェンガリの部屋とトリルビーの部屋を繋ぐ疑似1カット映像がダイナミックで、時代を考えればかなり画期的且つ実験的な試みをしていると言えよう。
スヴェンガリを演じるのは
「グランド・ホテル」(1931米)でガイゲルン男爵を演じていたジョン・バリモア。両作品を見比べてみると、まったく方向性が違う役柄で面白い。尚、彼は現在も活躍する女優ドリュー・バリモアの祖父である。
「ピクニック」(1936仏)
ジャンルロマンス・ジャンル古典
(あらすじ) 結婚を控えた娘アンリエットとその家族が、パリから馬車で田舎町へとピクニックにやってきた。その姿を遠巻きに眺めていた地元の青年ロドルフとアンリは、都会の女性たちとひと時の恋を楽しもうと、アンリエットと彼女の母親を舟遊びに誘うのだが…。
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(レビュー) ある一家のピクニック風景を美しい映像で綴った中編作品。
モーパッサンの小説を巨匠J・ルノワールが監督、共同脚本を務めて撮り上げた珠玉の映像作品である。
何と言っても特筆すべきは、田園風景を捉えた美しい映像の数々だろう。ルノワールの父は、言わずと知れた印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールである。その父が描いた印象絵画を思わせるような美しい映像の数々に心奪われる。
特に映画序盤、ロドルフとアンリがカフェの窓を開け放つシーン。窓の向こう側からアンリエットたち一家の戯れる姿が登場してくる瞬間は、正にスクリーンの”開幕”を思わせるような絢爛さに溢れていて印象に残った。目に飛び込んでくる…とは正にこのことだろう。一気に画面の中に引き込まれてしまった。
川を舟で下る映像、陽光が差し込む森の中での男女の戯れる映像等。これらも製作された時代を考えると奇跡的な美しさと言って良いだろう。
一方、物語はいたってシンプルである。何せ40分程度の中編なのでそれほどドラマ的なうねりは認められない。
しかし、ロドルフとアンリが夫々にアンリエットと母親をナンパするが、いつの間にかパートナーが入れ替わってしまう所にはユーモアを感じるし、終盤で物語が数年後にジャンプすることでもたらされる切なさは中々に感動的である。更に言えば、ナンパの駆け引き、スリリングさも濃密に味わえる。
尚、本作は完成する前に大戦が勃発し、監督のJ・ルノワールは亡命してしまったためお蔵入りとなってしまった。それを当時のプロデューサー、助監督だったJ・ベッケルらの手によって完成にこぎつけたという経緯を持っている。なぜルノワール自身が本作の完成に携わらなかったのかは不明だが、こうして日の目を見ることができたのは幸福なことである。
「透明人間」(1933米)
ジャンルホラー・ジャンル古典
(あらすじ) ある猛吹雪の夜、村はずれの宿屋に奇妙な男ジャックがやってくる。サングラスと包帯で顔を隠した彼は部屋に籠って化学実験を始めた。気味が悪くなった主人に退去を命じられると、ジャックは逆上して包帯を外して透明の姿を露わにした。こうして村中をパニックに陥れたジャックは、警察に追われる身となるのだが…。
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(レビュー) H・G・ウェルズの原作「透明人間」を初めて映像化した作品である。
もはや説明不要の古典であり、これまでに何度も映画化されてきたので、知っている人も多いと思う。
一番最初の映画化という意味では記念碑的な作品であり、今もって愛されるモンスターの特質が完全に確立されたという意味でも重要な作品ではないかと思う。
監督はこれまたモンスター映画の古典「フランケンシュタイン」(1931米)をヒットさせたジェームズ・ホエールということで、演出は軽快且つ明快で、実に正攻法に徹しているので安定感がある。
70分という長さも見やすく、脚本も必要十分にして無駄のない作りである。
ただ、透明になる薬を飲むと性格が凶暴になるという設定は、やや安直すぎるという気がしなくもない。そこがドラマチックさを失している部分である。原作通りなのかどうか分からないが、どうせならジャックの葛藤の中でそれを説明すべきだった。
また、これは演出上の不満なのだが、透明人間を捕獲する警察の作戦はやや朴訥としすぎている。全員で取り囲んで見えない透明人間を追い詰めるという作戦は、絵面が間抜けなせいで余り緊張感が感じられなかった。
見所はやはり特撮シーンとなろう。こちらは今見ても十分に面白い。やってることは、今と何も変わらず、他人の帽子を取ったり、箒で叩いたりといった悪戯である。そこがコメディ的な味付けにもなっている。
こうした特撮シーンには撮影のアーサー・エジソンの功労も大きいのではないかと思う。彼は
「西部戦線異状なし」(1930米)や「カサブランカ」(1942米)といった名作も手掛けている名カメラマンである。
洒落たロマコメの古典。
「新婚道中記」(1936米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ・ジャンル古典
(あらすじ) ジェリーとルーシーは新婚真っ只中である。しかし、ジェリーが出張先で羽目を外してしまう。一方のルーシーも若い音楽教師と外泊していた。それを知ったジェリーは激怒する。こうして二人は裁判で離婚を結審する。ただし、手続きが完了するまで2カ月の猶予期間が設けられた。その間にルーシーはオクラホマ出身の牧場主から求婚され…。
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(レビュー) 新婚夫婦の離婚騒動を軽妙洒脱に描いたロマンチック・コメディ。
夫婦喧嘩は犬も食わぬというが、この映画にはとてもチャーミングな犬が登場してくる。ジェリーとルーシーが飼っているミスター・スミスという飼い犬だ。離婚争議でルーシーに引き取られることになるのだが、ジェリーはスミスに面会する権利を与えられ時々ルーシーの元を訪れることになる。ミスター・スミスは離れ離れになった2人を取り持つ”きっかけ”となる重要なサブキャラであり、中々の名演を見せてくれる。調教がよく行き届ている。
物語自体は、いわゆる三角関係を軸にした夫婦のすれ違いを描く物語である。よくある話だが、所々の軽妙な会話が心地よいため終始楽しく観れた。
元の鞘に戻るハッピーエンドも想定内とはいえ収まりが良い。終盤のドアを挟んでの夫婦のやり取りに割って入る黒猫の演出が上手い。
先述した飼い犬のスミスやこの黒猫、そしてジェリーの帽子など、本作は小道具の使い方も抜群に上手い。古典的な作品であるが今観ても十分に通用するエンタメ性が感じられた。
一方、ルーシーの後半の奔走については、やや説得力に欠けるという気がした。もっと丁寧に描く必要があったのではないだろうか。
製作・監督はレオ・マッケリー。彼は「めぐり逢い」(1957米)やマルクス兄弟の「我輩はカモである」(1933米)などを撮り上げた名監督である。コメディやロマンスを得意とする作家で今回も安定した手腕を発揮している。
キャストではジェリーを演じたケーリー・グラントの妙演が流石だった。
世界初のゾンビ映画。
「恐怖城」(1932米)
ジャンルホラー・ジャンル古典
(あらすじ) インドのハイチに若いカップル、ニールとマデリンがやってくる。二人はここに住むボウマント伯爵に招待されて結婚式を挙げる予定だった。実は、ボウマントには”ある企み”があった。愛しいマデリンを我が物せんと、島を牛耳る権力者と恐るべき計画を算段していたのである。その権力者は特別な妖術を使って死体を操ることが出来る殺人鬼だった。こうして結婚式は執り行われるが、その夜にマデリンは急死してしまう。ボウマントは彼女の死体を手に入れた。一方、ニールは失意のどん底に落ちて酒に溺れる。そこに現地の科学者ブレーナー博士がやってくる。ニールは彼から死体を操る権力者の話を聞かされ‥。
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(レビュー) 世界で初めてゾンビを映画に登場させたことで有名な古典ホラー。
実際にはこれ以前にも死体が蘇るという映画はあったが(例えば吸血鬼などはその典型である)、『ゾンビ』という名称が初めて使われたのはこの作品からである。世間的には本作がゾンビ映画の原点とされている。
尚、原題は「WHITE ZOMBIE」である。翻訳すれば”白人のゾンビ”ということになろうか‥。元々『ゾンビ』という言葉はブードゥー教の中で使われていた言葉である。この宗教はハイチで生まれた宗教なので、当然ゾンビも有色人種に限られている。しかし、この映画に登場してくるのは白人のゾンビ、つまり殺されたマデリンである。おそらく映画もそのことを考えて「WHITE ZOMBIE」というタイトルにしたのだろう。これは実にインパクトのあるタイトルだと思う。
ストーリーは実にシンプルにまとめられている。ただし、作りは非常に安穏としている。
一般的にゾンビ映画と言うと、人間がゾンビに襲われるという展開を想像するが、この映画に登場してくるゾンビは全然怖くない。というのも、彼らは農場の奴隷として働かされているだけで、人間を襲ったりはしないのである。それよりも本当に怖いのはゾンビを操る権力者の方であり、映画もその悪辣振りをフィーチャーしている。
したがって、本作はゾンビ映画として見てしまうと少々物足りない作品である。ただ、製作当時、ゾンビの存在そのものがまだ一般的に認知されていないことを考えれば、これはこれで仕方がないことかもしれない。ゾンビ=モンスターという構図が確立されるのは、やはりジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」(1968米)からである。
キャストでは、権力者を演じたベラ・ルゴシの怪演が印象に残った。製作当時はすでに
「魔人ドラキュラ」(1931米)が公開され、一躍人気スターの仲間入りを果たしていた頃である。今回もその時のイメージとほとんど変わらない演技を貫き通している。時々彼の目がアップで挿入されるのだが、これも「魔人ドラキュラ」とまったく同じ演出で強烈なインパクトを残す。彼が存在するだけでその場が異様な空間に様変わりしてしまうあたりは、流石に”世紀の怪優”といった感じである。
一方、演出はこれと言って際立ったものは見られないが、唯一、悲しみに暮れるニールの姿に迫るバーのシーンは印象に残った。照明に照らされた人影を駆使しながら、彼の孤独感、虚無感を少しアヴァンギャルドに表現している。また、ゾンビが歩く姿を斜め構図で切り取った映像も中々不気味で良かった。このあたりにはドイツ表現主義の影響が色濃く見られる。