小学生のあみ子は、優しい父と面倒見のいい兄、書道教室の先生で妊娠中の母と暮らしている。いつも元気なあみ子だったが、時々相手の気持ちを慮ることができず、周囲はそれに振り回されていた。そんなある日、母が流産してしまう。
(レビュー) 周囲から浮いた風変わりな女の子の日常を描いた同名小説(未読)を新鋭・森井勇佑が監督、脚本を務めて製作した作品。
外見は児童映画のような作りに見えるが、中身はハードな展開もあり中々一筋縄ではいかな作品である。
あみ子は、他人の気持ちを理解できずマイペースな所がある。学校でも家庭でも浮いた存在で、周囲から遠ざけられたり疎まれたりしている。劇中では具体的に指摘されていないが、彼女はいわゆる発達障害なのだろう。そんな彼女の目線を通して日々の暮らしがスケッチされていく。
物語は母親が流産してしまったことで大きな転換を迎える。あみ子の空気を読まない”ある行動”によって、それまでどうにか保たれていた家族の輪が一気に崩壊し、母娘の関係も修復不可能なほど険悪なものとなってしまう。
実は、この母親は実の母ではなく父親の再婚相手という所がミソで、これがもし血の繋がった本当の母娘だったら、ここまで関係はこじれなかっただろうと思う。
映画は、この件に限らず、あみ子の奇行を様々な場面で描いて見せている。
例えば、クッキーのチョコレートの部分だけを舐めたり、それを大好きなクラスメイトのノリ君にあげたり、テストで静まり返る教室で突然歌いだしたり、いつも裸足だったり等々。
ここで先頃観た
「僕が飛びはねる理由」(2020英)というドキュメンタリーが思い出された。このドキュメンタリーは発達障害の子供たちを描いた作品だったが、その原作者も発達障害者であり、そのことを本人が自覚していた。しかし、本作のあみ子には、そうした自覚は無い。
それどころか、親や学校の大人たちも、彼女の病気をどれだけ理解していたのか、よく分からない。普通であればカウンセラーに相談するなどの描写があって然るべきだが、そういった描写も一切ない。
おそらくこれは演出上の計算なのだろう。つまり、周囲の無頓着さ、社会の無関心そのものを投影しているのだと思う。
観ててずっと、どうしてもっとあみ子のことを理解してあげられないのか?というモヤモヤした感情を抱いてしまうが、実はそれこそが本作の狙いであり、我々はそこに現実社会の冷淡さを見てしまうのだ。
森井監督はフィルモグラフィーを見ると大森立嗣監督の下で助監督を務めた経験があるそうだ。大森監督も社会派的なテーマを扱う作家であるが、この監督にもそうした資質は感じる。発達障害者と社会の関わり合い。そこに一般市民がどうコネクトしていくかという問題点を鋭く突いていて、観終わった後には色々と考えさせられた。
演出は大崩れすぐ様な個所もなく非常に安定している。ただ、一種独特の感性を感じさせる部分もある。
例えば、あみ子の妄想には、白塗りの幽霊の合唱団がよく出てくる。あるいは、あみ子が上に放り投げたミカンがいつまで経っても落ちて来なかったり、こうした非日常的でシュールな演出が散見される。
また、少しホラータッチな描写も見つかる。ある晩、部屋のベランダから奇妙な物音が聞こえるようになり、あみ子はそれに悩まされるようになる。その正体は後半で判明するのだが、しかしこれが余り現実味のない演出で表現されている。そこから考えると、実はこの物音もあみ子の幻聴だったのではないかと想像できる。
こうした現実なのか妄想なのか迷わせるような箇所も含め、森井監督の演出は中々大胆で見応えを感じた。
他に、演出上で上手いと思ったのは、トランシーバーやクッキーの缶、使い捨てカメラといったアイテムの使い方である。あみ子の心情を表現するという意味でも、中々気が利いていて良かったと思う。
また、ラストは少し切ない終わり方になっているが、同時にあみ子の成長も実感され、個人的には後味爽やかに観終えることができた。人によっては今一つスッキリしないという意見があるかもしれないが、作品の印象はこのラストによって強められたように思う。
キャストでは何と言ってもあみ子を演じた映画初出演の大沢一菜の存在感が光る。演技云々というよりも、もはや役柄そのものといった感じがして、造形面を含め強烈な印象を残している。
父親役を演じた井浦新は初め本人と分からなかったのだが、髪型が変わってようやく分かった次第である。演技自体は相変わらず達者で何も言うことがないが、今回はその変貌ぶりに一番驚かされた。