「ゴジラ-1.0」(2023日)
ジャンルアクション・ジャンル人間ドラマ・ジャンルSF
(あらすじ) 元特攻兵の敷島は、戦友をゴジラに殺されたトラウマを抱えながら荒れ果てた戦後の東京に戻ってきた。ある日、幼子を抱えた典子と出会い一緒に暮らすことになる。東京湾の機雷除去の仕事に就き、徐々に元の日常を取り戻していく敷島。しかし、そんな彼の前に再びゴジラが現れる。
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(レビュー) 「ゴジラ」誕生70周年を記念して製作されたシリーズ第30作目。
「シン・ゴジラ」(2016日)とはまた違った意味で、ゴジラシリーズを新しいレベルに引き上げた作品ではないだろうか。
いわゆる着ぐるみゴジラからの脱却を狙った「シン・ゴジラ」は、それだけで新機軸だったわけだが、それでも庵野秀明と樋口真嗣の”特撮愛”は画面の端々に感じられる作品だった。それに比べると本作は温もりのある昔ながらの特撮という印象はほとんど感じさせない。完全にCG全盛のハリウッド版ゴジラを意識したかのような作りになっている。
VFXを手掛けるのは、本作で監督、脚本を務めた山崎貴が率いる白組。現在の邦画界ではトップレベルのVFXプロダクションであり、ゴジラの凶暴な造形、銀座の急襲シーンやクライマックスの討伐作戦の迫力は素晴らしい出来栄えである。また、冒頭の大戸島に現れたゴジラはまだ核実験の影響を受ける前の姿であり「ジュラシック・パーク」のような恐竜のような外見で新鮮だった。
時代設定を戦後直後にしたのも中々に上手いやり方だと思った。
「シン・ゴジラ」は東日本大震災を意識しながら国防という観点から”対ゴジラ”を描いた所が画期的な作品だった。もし現代にゴジラが現れたら?という空想科学的な面白さを詰め込み、これを超えられる現代を舞台にしたゴジラ映画は中々作りづらい状況になってしまった。であるならば、初代ゴジラよりも前の時代設定にすることでシリーズの新機軸を打ち出すというのは面白いアイディアである。
その結果、家族を失い、戦場のトラウマを引きづる市井の人々を主役にした大変暗く重苦しいドラマとなった。戦争の傷が癒えない日本に核実験の犠牲となった、ある意味で戦争の”影”を象徴したゴジラが襲い掛かる…というドラマは反戦メッセージを強く打ち出しており、ゴジラ第1作へのリスペクトも感じられる。
ただ、そうは言っても、戦後間もない頃の日本は武装解除をさせられているので武器をほとんど持っていない。どうやってゴジラの脅威に対抗するのかという所が問題になってくるのだが、そこを本作は武器ではなく人間の知恵と勇気で乗り切るという所で勝負している。ゴジラ第1作では”オキシジェンデストロイヤー”という兵器が登場してゴジラを葬り去ったが、本作ではそのような超兵器は出てこない。第1作をリスペクトしつつも、それとはまったく異なる方法で”対ゴジラ”を描いており、クライマックスを上手く盛り上げていると思った。
その一方で、本作は敷島と典子のささやかなロマンス、戦災孤児・明子を含めた疑似家族愛といった人間ドラマも描いている。戦後の貧しい日本に生きる人々の悲しみと苦しみ、助け合う姿がウェット感タップリに表現されている。
ただ、正直な所、こちらは人物描写にもう少し深みが欲しいと思った。余りにもご都合主義的で小奇麗にまとめ過ぎという気がしてしまった。
これは演じるキャストにも問題があると思う。
敷島を演じる神木隆之介は戦場のPTSDに苦しんでいる割に全くやつれてないし、貧しさに喘ぐ戦後間もない頃に無精ひげすら生えてないという不自然さで、これではキャラクターとしてのリアリティがまったく感じられない。
それと、これは脚本の問題なのだが、ここでそのセリフは無い方が良いのに…と思う個所が幾つもあった。苦しい、悲しいと口に出して吐露するのは、観客にとっては確かに分かりやすいのかもしれないが、すべからく説明されてしまうと、かえって興を削がれてしまうものである。
クライマックスの展開も意外性が全く感じられない。これも前段で説明しすぎた結果であろう。
ラストのサプライズは賛否分かれそうな気がする。個人的には否定派なのだが、しかしこれに関しては別の見方をすれば大変不気味な終わり方という捉え方もできる。「シン・ゴジラ」のラストのように考察しがいがあるオチで、一概に全否定とは言い切れない面白さも感じた。
尚、出演者の中にはカメオ出演を含め意外な人が出ていて驚かされた。画面では確認できなかったが、「鉄コン筋クリート」(2006日)を監督したマイケル・アリアスも出ていたそうである。彼はモンタージュ監修としてもクレジットされていた。
「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」(2022カナダギリシャ)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 人類が痛みや感染症を克服した近未来。ソールは体内で生み出された新しい臓器をパートナーのカプリースに摘出させるアート・パフォーマンスを披露していた。ある日、ソールにラングという男が接触してくる。彼は一人息子を死なせてしまい、その死体を使ったアートパフォーマンスの話を持ち掛けてくるのだが…。
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(レビュー) 人類の肉体進化が進む近未来を舞台に、アートパフォーマンスを生業とする男が悪夢のような体験をしていくSFクライム・サスペンス。
監督、脚本は鬼才デヴィッド・クローネンバーグ。
昨今は
「マップ・トゥ・ザ・スターズ」(2014カナダ米独仏)や
「コズモポリス」(2012カナダ仏)と少し地味な作品が続いていたが、今回は「スキャナーズ」(1981カナダ)や「ビデオドローム」(1982カナダ)といった、ある種見世物映画的な面白さを追求した初期作品のテイストに回帰している。個人的にクローネンバーグと言えば、やはりこの頃の作品に最も衝撃を受けた口なので、その流れを組む本作は大変面白く観ることができた。
尚、彼の長編2作目
「クライム・オブ・ザ・フーチャー/未来犯罪の確立」(1970カナダ)とタイトルが被るがストーリー的な繋がりはない。
ただ、近未来を舞台にしたこと、肉体の変容をモチーフにしていること、それを利用したカルト組織が暗躍するなど、幾つか本作に繋がる要素も見て取れる。両作品を見比べてみると面白い発見があるかもしれない。
それにしても、画面に登場する数々の奇妙な”マシン”の造形が悉くユニークで観てて飽きなかった。
ソールは度重なるパフォーマンスの副作用でまともに食事すら摂れない体になっている。それを補助するために奇妙な形をした椅子が登場してくる。彼がそれに座って食事をするシーンが何度か出てくるが、どこか生物的な匂いを感じさせるそのビジュアルに少し笑ってしまった。このユーモラスな薄気味悪さは如何にもクローネンバーグらしい。
あるいは、手術をする際に使用するインターフェースも機械と言うよりも生物的で、同監督作「裸のランチ」(1991カナダ英)に登場するゴキブリ型のタイプライターを連想してしまった。ハイテクでありながらアナログ感を残した造形が面白い。
また、物語は全人類に関わるようなスケールの大きさでありながら、政府機関やカルト組織、登場人物を含めかなりミニマルに限定されている。全体的に背景がボカされているため説明不足な感が否めず、いささか箱庭感を覚えるが、これも狙ってやっているのだろう。予算的な事情も関係しているのだろうが、それ以上に世界観のリアリティを排除することによって敢えて寓話として描くことで作品の普遍性を追求しているような気がした。
環境破壊、食料問題、感覚麻痺に陥ることで本来の人間性を失ってしまう人類の未来といったものが、本ドラマの根底から読み取れた。
グロテスクなアートパフォーマンスも、文化の行きつく先を皮肉を込めて描いているような気がしてならない。芸術と娯楽の境目が無くなってしまうことの危険性、警鐘が、クローネンバーグの中にあるのかもしれない。
「アトランティス」(2019ウクライナ)
ジャンル戦争・ジャンルSF
(あらすじ) ロシアとの戦争が終結してから1年後、退役軍人のセルギーは戦友イヴァンと製錬所で働いていた。ところが、PTSDにかかっていたイヴァンは自死し、工場も閉鎖されてしまう。セルキーは、トラックで各地に給水活動をする仕事を始めるのだが…。
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(レビュー) ロシアのウクライナ侵攻が始まる以前に製作された近未来SF作品。戦後の焼け野原を舞台に、元軍人の苦悩を1カット1シーンで紡いだ重厚な作品である。
ロシアとウクライナの戦争を知る今でこそ現実感のあるドラマに思えるが、製作された当時はそこまでの緊張感を世界の人々は感じていなかったのではないだろうか。しかし、両国の因縁には長い歴史があり、ソ連崩壊後に独立したウクライナでは、ずっとロシアと緊張状態が続いていたのである。それが一気に噴出したのが現在の戦争なわけで、そのことを知っていると本作が製作された意味というのも自ずと分かってこよう。SFだからと一蹴できないリアリティが感じられる。
監督、脚本、撮影、編集はヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ。初見の監督さんだが、全編静謐なトーンに包まれた風格のある作品である。1カット1シーンのスタイルがシーンに臨場感と緊迫感をもたらしており、とりわけイヴァンが溶鉱炉の中に身を投げるシーンなどは大変衝撃的で思わず声が出てしまった。
戦争の悲惨さ、無為さもじっくりと表現されている。
例えば、戦死者の検死シーンは、淡々としているがゆえに、余計に居たたまれない気持ちにさせられる。
また、地雷除去は10年から20年、汚染水が元に戻るには何十年もかかるという劇中のセリフも印象に残った。勝っても負けても、こうした負の遺産は後世に渡ってのしかかる。何となく東日本大震災の原発事故を連想してしまった。
撮影はカッチリとした構図の連続で端正にまとめられており、中には目を見張るようなカットもあった。美しいネオンに彩られた夜の工場、溶鉱炉を屋外に排出する容器、人間の身の丈以上のタイヤを持ち上げるブルドーザー等、巨大なオブジェが人間のちっぽけさを強調し、これらダイナミズム溢れる映像の数々に驚かされる。
ラストシーンも印象に残った。雨が降りしきる中、トラックに乗るセルギーとカティンにカメラがゆっくりと近づいていき、そのまま二人のラブシーンに繋がっていくという演出。しかし、実はそこは…というオチが、死と生の相克、ささやかな未来への希望を感じさせる。
尚、本作でよく分からなかった場面が2点あった。一つは、映画の冒頭とラストを赤外線カメラの映像にした意味である。この演出の狙いが今一つ分からない。人間の体温を感知する部分は当然赤色に反応するのだが、これは戦場という死の世界における生命の崇高さを表したかったのだろうか?
もう一つは、巨大なショベルに水を張って浴槽にするシーンである。微笑ましく観れて割と好きなシーンなのだが、全体の重苦しいトーンからすると少し異質に感じた。
「アステロイド・シティ」(2023米)
ジャンルコメディ・ジャンルSF
(あらすじ) 1955年、アメリカ南西部の砂漠の町アステロイド・シティ。隕石でできた巨大クレーターが観光名所になっているこの町で、ジュニア宇宙科学賞の祭典が開かれる。その表彰式に元戦場カメラマン、オーギーが、表彰される長男と3人の幼い娘たちを連れてやって来た。彼は、同じく受賞者である娘と来ていた映画スター、ミッジと出会うのだが…。
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(レビュー) 砂漠の町を舞台に繰り広げられる騒動をオフビートなタッチで描いたナンセンス・コメディ。
ウェス・アンダーソン監督らしい遊び心に満ち溢れた作品である。
まず、映画の構造が少し変わっていて驚かされた。アステロイド・シティで起こる悲喜こもごもは劇作家が描く劇中劇という形になっている。映画はそこを中心に展開されていくのだが、その合間に劇作家自身のドラマが挿入され、更にそれをテレビキャスターが紹介するという、言わば三重の入れ子構造になっているのだ。
映像はモノクロとカラーにきっちり描き分けられており、アステロイド・シティを舞台にした劇中劇はポップで鮮やかな色彩で表現され、それ以外はモノクロとなっている。
ただ、物語に関しては、これまでの作品に比べるとかなり薄みに感じられた。オムニバス形式だった前作
「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イブニング・サン別冊」(2021米)以上にドラマは空疎で、たくさんのキャラが登場する割に余り盛り上がらない。
一応、主人公オーギーとヒロイン、ミッジのロマンスや、オーギーの子供たちの成長といったエピソードが語られるが、いずれも表層的で物足りなく感じられた。
一方、映像に関しては、これまで通りカラーパートはパステルカラーを前面に出したトーンが徹底され魅了された。完璧にコントロールされたカメラワーク。シンメトリックな構図。アートギャラリーのように配された小物。どのカットを見てもスキのない画面設計に唸らされる。
この独特な映像は
「グランド・ブタペスト・ホテル」(2013英独)、「フレンチ・ディスパッチ~」を経て完成の域に達したと思ったのだが、まだ進化の余地があったということに驚かされる。特に配色に対するこだわりは、これまでの作品の中ではピカ一ではないだろうか。
尚、個人的に最も面白かったのは、ジュニア宇宙科学賞の表彰式のシーンだった。ネタバレを避けるために伏せるが、ここでオーギーは”ある写真”を撮るのだが、これが正に衝撃的な一枚で笑ってしまった。そして、この写真は後に構図が丸被りなミッジの写真と並ぶ。そこでまた笑ってしまった。
キャスト陣は今回も豪華である。
ウェス映画の常連であるジェイソン・シュワルツマン、ティルダ・スウィントン、エイドリアン・ブロディ、エドワート・ノートン、更に今回はスカーレット・ヨハンソンやトム・ハンクスといった大物も登場してくる。
もっとも、ジェイソン・シュワルツマンとスカーレット・ヨハンソンは目立っていたが、それ以外のキャストは今一つ…。夫々の個性を活かしきれていないのが勿体なく感じられた。
「爆裂都市 BURST CITY」(1982日)
ジャンルSF・ジャンル音楽・ジャンルアクション
(あらすじ) 荒廃した近未来。ロックバンド、バトル・ロッカーズとマッド・スターリンはライブ会場を巡って対立を繰り返していた。その一方で暴力団菊川ファミリーは地元政界による原子力発電所建設計画の利権に食い込もうとしていた。
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(レビュー) 世紀末の街を舞台に、ロックバンドと暴力団、政治家と警察が入り乱れる大喧騒をエネルギッシュに活写したSFアクション作品。
鬼才・石井聰亙が
「狂い咲きサンダロード」(1980日)の次に撮った作品である。前作同様、パンキッシュで活きのいい演出が横溢する痛快エンタメ作となっている。
登場人物が多いせいでストーリーがシンプルなわりに今一つ整理しきれていない印象だが、アクションとロック音楽に特化したアヴァンギャルドな作りは大変魅力的である。
疾走感溢れるオープニングシーンからして格好良いのだが、続くライブシーンもかなりアツくてテンションが高い。
コマーシャリズムでMTV的な映像演出は大変ユーモラスで、オープニングタイトル後のミュージカルシーンなどにはどこか愛嬌も感じさせる。粗削りと一蹴するのは簡単かもしれないが、楽しんで作っている感がひしひしと伝わってくるあたりは、メジャー映画では中々味わえない悦びだろう。
世紀末感漂う世界観も魅力的で、低予算のインディペンデントのわりに美術関係も意外に頑張っているのが驚きだ。言ってしまえば、照明とカメラアングルで粗が目立たないようにしているだけなのだが、それがかえって怪しい雰囲気を創出している。
また、奇妙でシュールなスラム街のキャラクターは、まるで「マッドマックス」シリーズのようなアクの強さで、ビジュアル的にも観てて楽しい。昭和の特撮番組「超電子バイオマン」でストロング金剛が演じていたモンスターのようなキャラがいたり、白塗りの日本兵がいたり、理屈無視の奇妙なクリーチャーたちが画面狭しと暴れまわる。
キャストも今観ると豪華である。
ザ・ロッカーズの陣内孝則、ザ・ルースターズの大江慎也といったミュージシャンを始め、怪優・麿赤児、コント赤信号や上田馬之助、平口広美(怪演!)といったタレント勢も奮闘している。
特筆すべきは、ヤクザのヒモを演じた泉谷しげるである。これほど胡散臭い役を上手く演じきれるのは、この人を置いて他にはいないだろう。彼は石井と共に企画段階から携わっており、本作にかける思いも相当強かったことと思う。
クライマックスにの大暴動は過激さが売りだったパンクバンド、ザ・スターリンも加わり、爆竹や豚の頭を観客に放り投げ、「狂い咲きサンダーロード」のクライマックス同様、しっちゃかめっちゃかの喧嘩祭り状態となる。荒々しくブレまくる手持ちカメラは、もはや映画というよりもライヴを見ているかのような感覚になる。wikiによればエキストラ300人、のべ3日間の撮影と書かれていたが、よく3日間で撮れたなと思うほどの熱量とカット数である。
尚、編集と美術で阪本順治監督のの名前がクレジットされている。
また、フリークスのデザイン担当は手塚眞監督が担当している。
石井監督は次作
「逆噴射家族」(1984日)で本格的にメジャーデビューするが、やはり作品のパワーと勢いが最も高かったのはこの頃だと思う。