「妖精たちの森」(1971英)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 事故で両親を亡くした幼い姉弟フローラとマイルズは、田舎の大きな屋敷で家政婦と家庭教師ジェスル、下男のクイントと暮らしていた。二人は無学で野卑なクイントを慕っていた。そんなある日、マイルズはクイントとジェスルの愛し合う姿を覗き見してしまう。
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(レビュー) 幼い姉弟が禁忌な思考に取りつかれていく様を美しい田園風景の中に描いた作品。
製作された時代を考えればかなりショッキングな内容であることは間違いない。ただし、脚本自体はヴァイブレーションに乏しくもう少し捻りが欲しいと思った。
とはいえ、全体を貫く怪しい雰囲気は悪くはない。また、クイントを演じたマーロン・ブランドの一癖ある演技も絶品で、全体的には面白く観ることができた。
尚、本作はホラー映画の古典「回転」(1961英)の前日弾ということである。「回転」には原作小説があり、今回はそれをベースに敷いた物語となっている。自分は「回転」を観たことがないが、予備知識が無くても十分に楽しめた。
最も印象に残ったのは、クイントとジェスルが縄を使ったSMプレイに興じるシーンである。マイルズはそれを覗き見してフローラと真似をするのだが、性の知識が何もない姉弟が興じるという所に何とも言えない”危うさ”を覚えた。彼らはクイントの影響を受けながら徐々に残酷性、加虐性を芽生えさせていくようになる。ラストはかなり衝撃的な終わり方になっていて、中々ヘビーな鑑賞感を残す結末である。
また、姉弟が「死んだら愛し合えるの?」という問いに対して、クイントが「愛すれば殺したくなる」と答えるシーンも印象に残った。ポルノとバイオレンスを見世物にしているように見せかけて、こうした深い言葉をさりげなく挟み込むあたりは中々侮れない。
監督はマイケル・ウィナー。少し安穏としたところはあるが、職人監督らしく安定した演出を見せている。特に、覗き見のシーンにおける緊張感と淫靡さはただ事ではなく、今作で最も力を入れて演出しているように見えた。
また、美しい湖畔や田園風景、林が立ち並ぶ森の景観等、映像も非常に美しい。逆に、それとの対比で姉弟の残酷さもよりグロテスクなものとして際立つに至っていると感じた。
キャストでは、先述したようにマーロン・ブランドの粗野な造形が魅力的である。SMプレイのシーンは少し笑ってしまいたくなる個所もあるのだが、持ち前のマチズモを前面に出し”らしさ”を見せつけている。
「ミュージック・ボックス」(1989米)
ジャンルサスペンス・ジャンル戦争
(あらすじ) 第二次世界大戦後、ハンガリーからアメリカへ移民したマイクは、ある日突然、ハンガリー政府からユダヤ人虐殺の容疑者として身柄を拘束される。彼の娘で弁護士アンが弁護を務めることになるのだが…。
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(レビュー) ハンガリーで行われたユダヤ人虐殺事件をモティーフにしており、自分はこの歴史を知らずに観たこともあり最後まで興味深く観れた。
物語は父マイクの嫌疑を晴らそうとする娘アンの視点で綴られる。彼女は当時の証拠品や虐殺を生き延びた証人を突きつけられ、不利な立場に追い込まれていく。特に、マイクが特殊部隊に所属していたことを示す身分証が決定打となり敗訴が濃厚となってしまう。
…が、ここでこの身分証の信ぴょう性を覆す”ある証人”が登場する。この辺りはややご都合主義という気がしなくもないが、それによって形勢は一気に逆転。アンの攻勢が始まっていく。
監督は
「Z」(1970アルジェリア仏)や
「戒厳令」(1973仏伊)で知られる社会派コスタ・ガヴラス。
法廷におけるスリリングな駆け引きが大変面白く観れる。ガヴラスらしいきびきびとした演出も快調で、最後まで緊張の糸が途切れないあたりは見事である。
また、単にエンタメとして安易に料理しなかった所も如何にもガヴラスらしい。裁判を通して明るみにされる戦争の悲劇。それが重厚に語られ、観終わった後にはズシリとした鑑賞感が残った。
更に、この悲劇的歴史を通じて真実を見抜くことの難しさ。あるいは真実を見ようとしない人間の心の弱さもガヴラスは問うている。何とも言えない皮肉的な終わり方で締めくくられるが、そこには氏からの訓示が読み取れた。
本作で最も強く印象に残ったのは、検事の「青いドナウ川が赤い血で染まる」という言葉である。
ドナウ川と言えば観光名所にもなっている大変美しい川である。しかし、そこには戦争によって無残に殺されてしまった老若男女の魂も眠っているのだ。
アンはドナウ川の傍を通った時に、検事のその言葉を受けて立ち寄る。果たして彼女にはその美しい川がどのように映ったのだろうか。きっとまったく別の景色に見えたに違いない。
コスタ・ガヴラスの映画はとかく政治的なものが多く難解と言われることもあるが、本作に関してはそこまで深い予備知識が無くても楽しめる作品になっている。
単純に法廷ドラマとしてみても十分に楽しめるし、ラストのどんでん返しも含め、よく出来た一級のサスペンス映画になっている。ガヴラス映画初心者にはうってつけの入門編ではないだろうか。
キャストでは、アンを演じたジェシカ・ラングの熱演が素晴らしかった。父の無罪を信じる実娘としての顔。本当は父は虐殺に加担していたのではないか?と疑心暗鬼に駆られる弁護士としての顔。その複雑な葛藤を見事に体現していた。
「ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画」(2013米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) アメリカ西部のオレゴン州。環境保護を訴える環境論者のジョシュとディーナは、水力発電のダムの爆破を目論みボートを入手する。元海軍だったハーモンを引き入れて爆弾を製造すると、早速計画を実行に移すのだが…。
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(レビュー) 過激な環境保護論者たちがダム爆破計画を実行していくサスペンス作品。
いわゆる通俗的なエンターテインメントを期待すると肩透かしを食らう作品である。低予算のインディーズ映画なので派手さもないし、カタルシスもない。
前半はダム爆破計画を着々と進めていく様をドキュメンタリータッチで見せていく社会派サスペンスのような作りになっている。ただ、途中から物語は犯行に及ぶ男女3人の愛憎ドラマへと発展し、最終的には刹那さとほろ苦さを感じるビターな人間ドラマへと昇華されていく。
監督、共同脚本はインディーズで独特の才能を発揮しているケリー・ライカート。ある程度予想はしていたが、本作も決してウェルメイドな作りになっておらず、少し意外性を持った作品となっている。
脚本にはライカートの盟友ジェイ・レイモンドも参加している。これまでにも彼女の作品では原案を担当したり、脚本を執筆している。
もはやお馴染みのコンビという感じだが、前作
「ミークス・カットオフ」(2010米)あたりから、社会派的な視座を持ち込んでいるのが特徴的である。「ミークス・カットオフ」では人種差別の問題、今回は環境破壊の問題。私的な作品から社会的な視野を持った作品へと創作のモティーフを広げることは、作家としての成長であるし、個人的には良いことだと思う。
ただし、それがプラスの方向に働けばいいのだが、かえって作家性を中途半端にしてしまう可能性もあるように思った。
あくまで個人的印象であるが、ラーカイトはやはり私的な人間ドラマを得意とする作家のような気がする。例えば、レイモンドは参加していないが長編デビュー作の
「リバー・オブ・グラス」(1994米)は衝撃的な作品だった。放浪女性と飼い犬の暮らしぶりを描いた
「ウェンディ&ルーシー」(2008米)にも深い感銘を受けた。これらに比べると、今回はどうにも散漫な印象を持ってしまう。社会派的なテーマを描きたいのか。それとも人間ドラマを描きたいのか。今一つはっきりせず、結果この両者が上手くかみ合っていない印象を持ってしまった。
そんな中、キャスト陣の好演には見応えを感じた。
特にジョシュを演じたジェシー・アイゼンバーグの目の演技が素晴らしい。
「ソーシャル・ネットワーク」(2010米)の時もそうだったが、神経質で非モテな役をやらせると、本当にこの俳優はハマる。例えば、ディーナとハーモンの深い仲を知った時に見せる寂しく惨めな姿。爆破犯だと疑われることに怯える表情、オドオドした眼差しは絶品だった。
「リバー・オブ・グラス」(1994米)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) フロリダ郊外で暮らす30歳の主婦コージーは、退屈な日々に不満を募らせていた。ある日、地元のバーへ出かけた彼女は、うだつの上がらない男リーと出会い親しくなっていく。
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(レビュー) 平凡な主婦がヤクザな男と逃避行を繰り広げる異色のクライムドラマ。
コージーは幼い頃に母を失い、現在は警官をしている父親と幼い子供と暮らしている。夫や子供に対する愛情はなく、夢や希望もなく、ただ漫然とやり過ごすだけの日々を送っている。そして、いつかこんな退屈な日常から抜け出そうと、未だ見ぬ世界を夢想している。
物語は主に3つの視点を交錯させながら展開されていく。
一つ目はヒロインのコージーの視点。二つ目は、拳銃を落とした彼女の父親の視点。そして、三つ目はその拳銃を拾ったリーの視点である。最初は物語の視点が定まらず取っつきにくい印象を受けたが、拳銃をきっかけに夫々のドラマが繋がるあたりから徐々に面白く観れるようになった。
そして、ある晩、事件は起こる。リーと一緒にコージーが誤って、その拳銃を発砲してしまうのだ。こうして二人は警察に追われる身となる。
コージーはこの銃が父親の物であることを全く知らないというところがミソで、おそらくこの銃には父親の呪縛というような意味が込められているのだろう。
こうして、二人は故郷を出て逃避行の旅に出るのだが、その先でコージーは更なる皮肉的な運命と対峙することになる。
監督、脚本は新鋭ケリー・ライカート。本作は彼女の長編監督デビュー作である。現在まで精力的に活動しているが、基本的にはインディペンデントを主戦場とした作家である。
本作は話の筋からしていかにもアメリカン・ニューシネマ的な匂いを感じさせるが、演出自体はカラッとしたテイストでまとめられており、余り湿っぽくないところが観やすい。
また、物語の舞台が陽光溢れる南フロリダというのも関係しているだろう。作品の雰囲気を必要以上に暗くしていない。
そんな中、印象に残ったのは、コージーが自らの過去や鬱屈した感情を語るモノローグ演出だった。
本来こういう演出は余り好みではないのだが、今作の場合は不思議と余り嫌な感じは受けなかった。それは映像が全体的にミニマルに構成されているからなのかもしれない。回想はドキュメンタリー風なモノクロ映像で表現され、そこに被さる彼女の告白は、どこか詩的にさえ感じられた。
そして、本作でもっと印象に残ったのは終盤のコージーの”決断”だった。普通であればそこに至るまでに、彼女の葛藤をじっくりと描いてしかるべきであるが、本作は実にあっけらかんと処理している。観ているこちらとしては、彼女の感情の動きが何も分からないまま、その”決断”を目の当たりにするわけで、これはかなり大きな衝撃である。
更に、ラストの拳銃のカットも、それが父親の呪縛と捉えるならば、多分に暗喩が込められたカットと言えよう。コージーの旅を切れ味鋭く締めくくっていて見事と言うほかない。
「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」(2022カナダギリシャ)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 人類が痛みや感染症を克服した近未来。ソールは体内で生み出された新しい臓器をパートナーのカプリースに摘出させるアート・パフォーマンスを披露していた。ある日、ソールにラングという男が接触してくる。彼は一人息子を死なせてしまい、その死体を使ったアートパフォーマンスの話を持ち掛けてくるのだが…。
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(レビュー) 人類の肉体進化が進む近未来を舞台に、アートパフォーマンスを生業とする男が悪夢のような体験をしていくSFクライム・サスペンス。
監督、脚本は鬼才デヴィッド・クローネンバーグ。
昨今は
「マップ・トゥ・ザ・スターズ」(2014カナダ米独仏)や
「コズモポリス」(2012カナダ仏)と少し地味な作品が続いていたが、今回は「スキャナーズ」(1981カナダ)や「ビデオドローム」(1982カナダ)といった、ある種見世物映画的な面白さを追求した初期作品のテイストに回帰している。個人的にクローネンバーグと言えば、やはりこの頃の作品に最も衝撃を受けた口なので、その流れを組む本作は大変面白く観ることができた。
尚、彼の長編2作目
「クライム・オブ・ザ・フーチャー/未来犯罪の確立」(1970カナダ)とタイトルが被るがストーリー的な繋がりはない。
ただ、近未来を舞台にしたこと、肉体の変容をモチーフにしていること、それを利用したカルト組織が暗躍するなど、幾つか本作に繋がる要素も見て取れる。両作品を見比べてみると面白い発見があるかもしれない。
それにしても、画面に登場する数々の奇妙な”マシン”の造形が悉くユニークで観てて飽きなかった。
ソールは度重なるパフォーマンスの副作用でまともに食事すら摂れない体になっている。それを補助するために奇妙な形をした椅子が登場してくる。彼がそれに座って食事をするシーンが何度か出てくるが、どこか生物的な匂いを感じさせるそのビジュアルに少し笑ってしまった。このユーモラスな薄気味悪さは如何にもクローネンバーグらしい。
あるいは、手術をする際に使用するインターフェースも機械と言うよりも生物的で、同監督作「裸のランチ」(1991カナダ英)に登場するゴキブリ型のタイプライターを連想してしまった。ハイテクでありながらアナログ感を残した造形が面白い。
また、物語は全人類に関わるようなスケールの大きさでありながら、政府機関やカルト組織、登場人物を含めかなりミニマルに限定されている。全体的に背景がボカされているため説明不足な感が否めず、いささか箱庭感を覚えるが、これも狙ってやっているのだろう。予算的な事情も関係しているのだろうが、それ以上に世界観のリアリティを排除することによって敢えて寓話として描くことで作品の普遍性を追求しているような気がした。
環境破壊、食料問題、感覚麻痺に陥ることで本来の人間性を失ってしまう人類の未来といったものが、本ドラマの根底から読み取れた。
グロテスクなアートパフォーマンスも、文化の行きつく先を皮肉を込めて描いているような気がしてならない。芸術と娯楽の境目が無くなってしまうことの危険性、警鐘が、クローネンバーグの中にあるのかもしれない。