「トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン」(1980米)
ジャンル戦争・ジャンルコメディ
(あらすじ) ベトナム戦争の真っただ中。古びた古城に精神科医のケーン大佐がやって来る。そこは兵役を逃れるための詐病を鑑定する軍の施設で、様々な患者が収監されていた。ケーン大佐はそこでロケットの発射直前に発狂したアポロの宇宙飛行士カットショーを始め、様々な患者達と奇妙な交流を始めていく。
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(レビュー) 霧に包まれた古城を舞台に繰り広げられるシュールでブラックな寓話。
「エクソシスト」(1973米)の原作者として知られるウィリアム・ピーター・ブラッティが自らの原作を製作、監督、脚本を兼ねて撮り上げた作品。一部でカルト視されているだけあって、何ともシュールでナンセンスな怪作である。
例えば、巨大な月が地上に迫り来るカットショーのシュールな悪夢を筆頭に、自分をシェイクスピアやスーパーマンだと思い込む者、ナチスの軍服を着てハイテンションな挙動をする者、突然奇声を発する者等。そうした患者たちとケーン大佐の間で行われ意味不明なやり取りを中心に物語は展開されていく。
一方のケーン大佐もどこか精神的に壊れた人間である。患者たちの奇行やぶしつけな態度を受け流しながら、何を考えているのかサッパリ分からないという有様なのだ。
何を言われても無表情のケーン大佐。奇行に走る患者たち。両者のかみ合わない会話を延々と見せられるので、感情移入しようにも出来ず、結局最後まで翻弄されっぱなしだった。
また、ドラマらしいドラマも余りなく、中盤まではストーリー的な動きも乏しい。シュールなコント集として観ればそれなりに楽しめるのだろうが、自分にはその笑いも今一つ感性にヒットしなかった。
尚、本作を観て思い出されたのが
「まぼろしの市街戦」(1967仏英)である。この作品は、精神病患者だけが取り残された村を舞台にしたシュールな反戦映画で、これまたカルト的な人気を誇る怪作である。
確かに本作も一応、反戦メッセージは通底しており、そういう意味では共通する要素は見て取れる。戦場によるショックで精神を病んだカットショー達を見ているとどこか憐れさを覚えた。
ただ、本作はベトナム戦争という背景はそれほど大きな意味を持っておらず、代わりに人間の孤独や尊厳、神の存在といった哲学的なテーマを前面に出した作りになっている。反戦ド直球だった「まぼろしの市街戦」より捻った構成で、より多義的なメッセージを孕んだ問題作に思えた。
映画はクライマックスに差し掛かるあたりから、ケーン大佐とカットショーの友情に焦点が当てられていくようになる。そして、かなり唐突ではあるが、ラストは意外にも抒情的に締め括られている。二人の関係を”逆転”させた所に面白さを感じた。
尚、邦題ではキラー・カーンとなっているが正しくはキラー・ケーンであろう。キラー・カーンだと当時活躍していたプロレスラーの名前になってしまう。
「最前線」(1957米)
ジャンル戦争
(あらすじ) 1950年、戦闘が激しさを増す朝鮮半島でベンスン中尉率いる小隊は孤立していた。そこに敗走するモンタナ軍曹がジープに乗ってやって来る。彼は戦場のショックで口がきけなくなった大佐を乗せて撤退するつもりでいた。しかし、ベンスンはそのジープを徴用し、モンタナに共に進軍することを命じる。
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(レビュー) 過酷な戦場をサバイブする兵士たちの運命を非情なタッチで描いた戦争映画。
大規模で派手な戦闘シーンも無ければ、ヒロイックな活躍もない地味な作品である。しかし、兵士たちの生々しい生態を時に繊細に、時に熱度高く描いた所に魅力が感じられる異色の戦争映画である。
監督はアンソニー・マン。西部劇の名匠というイメージが強いが、戦争映画を手掛けたのは少なく、フィルモグラフィーを見る限り今作と「テレマークの要塞」(1965米)の2本のみのようである。
緊張感を漂わせた序盤のシーンを皮切りに、随所にベテランならではの手練れた演出を披露しており、クライマックスまでダレることなく一気に観ることができた。開幕からベンスン率いる小隊は孤立無援の状態に陥っており、この絶体絶命なシチュエーションがスリリングで目が離せない。
部隊の面々も夫々に個性的に造形されており、病弱な若い兵士、彼を気遣う心優しい黒人兵士、臆病で少し間の抜けた通信兵といった曲者が揃っている。そこに、横柄なモンタナ軍曹と戦闘の後遺症で心身薄弱に陥り口がきけなくなった大佐が同行することになる。ベンスンとアウトロー体質なモンタナはことあるごとに対立するようになり、この関係がドラマを面白く見せている。
尚、個人的に最も印象に残ったシーンは、黒人兵士が野菊の花輪をあしらえたヘルメットを被るシーンだった。彼はその直後に、背後から敵兵に刺されて死んでしまうのだが、戦場の理不尽さを美醜のコントラストを用いて衝撃的に描いている。テレンス・マリック監督の詩情溢れる戦争映画「シン・レッド・ライン」(1998米)が想起された。
また、モンタナは大佐を献身的に支え続けるのだが、その理由も終盤で明らかにされる。これには胸が熱くなった。大佐が呟く本作唯一のセリフは要注目である。
他に、地雷原を突破するシーンや、敵兵の処遇を巡って言い争いをするシーン等も手に汗握るトーンで描かれていて見応えを感じた。
クライマックスは本作で最も盛り上がる戦闘シーンが用意されている。しかし、冒頭で書いたようにヒロイックな活躍など一切ないリアルな戦場を描いており、このあたりの冷徹さにはアンソニー・マン監督のこだわりが感じられる。
もっとも戦勝国アメリカの視点で描いている以上、最後はやはり勝利で締めくくられる。戦争の虚しさを描くのであれば、この結末は今一つ押しが弱いという感じがした。
「リフレクション」(2021ウクライナ)
ジャンル戦争
(あらすじ) 医師のセルヒーはウクライナ東部で激化する戦線に従軍医師として参加する。ところが、戦地に赴いた彼は人民共和軍に拘束され、拷問の末、過酷な仕事を強要されることになる。
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(レビュー) ロシアとウクライナの戦争が始まったのは2022年であるが、実はそれ以前から両国は深い因縁関係にあり、実際にはウクライナ東部では親ロシア派との間で小さな戦闘は始まっていた。本作は正にそんな緊張状態にあった当時の東部戦線を舞台にした映画である。
監督、脚本、撮影、編集は
「アトランティス」(2019ウクライナ)のヴァレンチン・ナシャノヴイッチ。前作「アトランティス」に引き続き、再びロシアとウクライナの戦争をテーマにしている。今回はSFではなく現代劇という所がミソで、リアリズムに拠った演出は前作同様、息苦しいほどの緊迫感を生み、戦争の悲惨さを画面にまざまざと焼き付けている。特に、拷問シーンが印象に残った。一部でボカシが入っている。
そして、今回も全てのシーンではないが、1シーン1カットのロングテイクが徹底されている。前作に比べるとスケール感という点では見劣りするものの、カッチリと決められた構図と濃密な陰影が画面を重厚にしたためている。まるで絵画のように完璧にコントロールされた画面設計は今回も健在だ。
尚、今回は画面に奥行きを持たせた構図が目に付いた。冒頭の子供たちのサバイバルゲームのシーンに始まり、病院の手術室、セルヒーの部屋が、1枚のアクリル板、窓ガラスといった”仕切り”を用いて画面の奥と手前に分断されている。極めつけはセルヒーを乗せた車が敵の襲撃を受けるシーンである。カメラは後部座席から彼らの恐怖を捉えるのだが、フロントガラスで画面の奥と手前が仕切られている。
こうした画面構図は明らかに意図して演出されているのだろう。観客は画面の奥で行われている事象から隔たれた場所。つまり、常に画面の手前側に置かれることになる。まるでその現場を目撃する傍観者的な立場に立たされることになるのだ。画面の中に放り込まれる感覚とはまた違った意味での臨場感が味わえた。
映画は、前半は延々とセルヒーの過酷な体験を見せつけられるので、正直かなりしんどいものがあった。
中盤以降は、捕虜交換で故郷に戻ることができた彼のプライベートなドラマに切り替わっていく。戦場体験のPTSDに悩まされ、離れて暮らす妻子との関係がシビアに描かれている。ある種浪花節的とも言えるドラマだが、前作とはガラリと違った作劇で新鮮に観れた。
本作の難は、登場人物の関係性が若干分かりづらいことだろうか…。セルヒーの親友でアンドリーという男が登場してくるのだが、彼についての説明が劇中ではほとんどなく、観ている方としては色々と想像を働かさなければならない。もう少し親切な説明があっても良かったように思った。
「アトランティス」(2019ウクライナ)
ジャンル戦争・ジャンルSF
(あらすじ) ロシアとの戦争が終結してから1年後、退役軍人のセルギーは戦友イヴァンと製錬所で働いていた。ところが、PTSDにかかっていたイヴァンは自死し、工場も閉鎖されてしまう。セルキーは、トラックで各地に給水活動をする仕事を始めるのだが…。
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(レビュー) ロシアのウクライナ侵攻が始まる以前に製作された近未来SF作品。戦後の焼け野原を舞台に、元軍人の苦悩を1カット1シーンで紡いだ重厚な作品である。
ロシアとウクライナの戦争を知る今でこそ現実感のあるドラマに思えるが、製作された当時はそこまでの緊張感を世界の人々は感じていなかったのではないだろうか。しかし、両国の因縁には長い歴史があり、ソ連崩壊後に独立したウクライナでは、ずっとロシアと緊張状態が続いていたのである。それが一気に噴出したのが現在の戦争なわけで、そのことを知っていると本作が製作された意味というのも自ずと分かってこよう。SFだからと一蹴できないリアリティが感じられる。
監督、脚本、撮影、編集はヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ。初見の監督さんだが、全編静謐なトーンに包まれた風格のある作品である。1カット1シーンのスタイルがシーンに臨場感と緊迫感をもたらしており、とりわけイヴァンが溶鉱炉の中に身を投げるシーンなどは大変衝撃的で思わず声が出てしまった。
戦争の悲惨さ、無為さもじっくりと表現されている。
例えば、戦死者の検死シーンは、淡々としているがゆえに、余計に居たたまれない気持ちにさせられる。
また、地雷除去は10年から20年、汚染水が元に戻るには何十年もかかるという劇中のセリフも印象に残った。勝っても負けても、こうした負の遺産は後世に渡ってのしかかる。何となく東日本大震災の原発事故を連想してしまった。
撮影はカッチリとした構図の連続で端正にまとめられており、中には目を見張るようなカットもあった。美しいネオンに彩られた夜の工場、溶鉱炉を屋外に排出する容器、人間の身の丈以上のタイヤを持ち上げるブルドーザー等、巨大なオブジェが人間のちっぽけさを強調し、これらダイナミズム溢れる映像の数々に驚かされる。
ラストシーンも印象に残った。雨が降りしきる中、トラックに乗るセルギーとカティンにカメラがゆっくりと近づいていき、そのまま二人のラブシーンに繋がっていくという演出。しかし、実はそこは…というオチが、死と生の相克、ささやかな未来への希望を感じさせる。
尚、本作でよく分からなかった場面が2点あった。一つは、映画の冒頭とラストを赤外線カメラの映像にした意味である。この演出の狙いが今一つ分からない。人間の体温を感知する部分は当然赤色に反応するのだが、これは戦場という死の世界における生命の崇高さを表したかったのだろうか?
もう一つは、巨大なショベルに水を張って浴槽にするシーンである。微笑ましく観れて割と好きなシーンなのだが、全体の重苦しいトーンからすると少し異質に感じた。
「ドンバス」(2018独ウクライナ仏オランダルーマニアポーランド)
ジャンル戦争
(あらすじ) ウクライナ東部ドンバス地方。ここでは2014年以降、ロシアの支援を受けている分離派とウクライナ義勇軍が激しい武力衝突を起こしていた。フェイクニュースを撮影する役者たち、医療物資を横流しする役人、検問所で取り調べを受けるドイツ人ジャーナリスト等々。緊張した風景をカメラは捉えていく。
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(レビュー) 2014年にウクライナの東部で始まったドンバス戦争を描いた作品。
親ロシア派、いわゆる分離派が多く住んでいるこの地域では長年にわたりウクライナ政府との対立が続いており、やがてその軋轢は武力衝突へと発展していった。そして、その内戦が現在行われているロシアとウクライナの戦争に繋がっているわけである。そのあたりの背景を知っていると、本作の内容は理解しやすいだろう。ある程度予備知識を持ったうえで観ることをお勧めする。
監督、脚本は
「国葬」(2019オランダリトアリア)、
「アウステルリッツ」(2016独)のセルゲイ・ロズニッツァ。ドキュメンタリーを主に撮っている監督であるが、今回は実話を元にした劇映画である。
大きな物語はなく、幾つかのシチュエーションをリレー方式で紡いで見せるオムニバス風な作劇になっている。ただ、オープニングとエンディングが結びつく円環構造がとられており、それが永遠に無くならない無益な戦争の悲劇性を雄弁に語っている。
描かれるシーンも観てて非常に居たたまれない気持ちにさせられるものばかりだ。
医療物資を横流しして私腹を肥やす医師と政治家。避難民を乗せたバスに対する非情な取り調べ。野盗と化した兵士に所持品を奪われ、警察にマイカーを没収されたあげく罰金まで徴収される市民。砲弾がどこからともなく飛んでくる恐怖に怯えながら不衛生な地下室で身を寄せて暮らす人々。分離派とウクライナ側に分断された母娘の喧嘩。
最も強烈だったのは、捕縛されたウクライナ兵が町中で親ロシア派の市民たちからリンチされるシーンだった。初めは軽いノリでからかわれていたのだが、徐々に野次馬が増えていき最後はヒステリックな暴動へ発展していく。その光景は余りにも恐ろしく、犠牲となる兵士が気の毒に思えた。
また、取材しに来たドイツ人ジャーナリストに対する検問所の兵士のセリフも印象に残った。彼は「お前はファシストでなくてもお前の祖父はファシストだろ?」と言い放つ。こうした憎しみの不溶性が戦争を失くさないのだろう。
いずれもリアリティを重視した演出が貫かれており、このあたりは長年ドキュメンタリーを撮ってきたロズニッツァ監督の手腕だろう。
一方で、シニカルなユーモアが時折配されており、そこには劇作家としての妙技も感じる。
例えば、マイカーを没収された男のエピソード、フェイクニュースの俳優たちのエピソードは、かなりブラックに料理されている。観てて非常に居たたまれない気持ちにさせられるが、同時に愚かな人間に対する嘲笑の意味も込められているような気がした。ドキュメンタリーでは表現しえない劇映画ならではの演出のように思う。
尚、1点だけ解釈を迷うシーンがあり、そこはもう少し分かりやすくしてほしかった。それは結婚式の後に出てくる爆撃シーンである。車中から捉えたPOV撮影で1カット1シーンで撮られているのだが、誰の主観なのか分からなかった。
このシーンに限らず、本作は基本的に余り説明をしない作品である。人によっては難解と思うかもしれない。頭を空っぽにして観れるエンタメ作品とは違い、観客が能動的に解釈を試みる必要がある。
そして、本作を鑑賞する上で注意をしておきたい点がもう1点ある。
ロズニッツァ監督はこれまでのフィルモグラフィーを見る限り反ロシア派の立場をとっており、その姿勢は本作でも貫かれている。しかし、戦争は双方に深い傷跡を残すという意味において、自分はどちらにも正義など無いと思っている。
本作は親ロシア派=悪として描いているが、見方を変えれば逆もまた真なりで、過去に映画がプロパガンダとして利用されてきた歴史を鑑みれば、それは自明の理である。
したがって、鑑賞する側もそれ相応の冷静な視点が必要とされる。本作を観て、ただちに善悪を線引きしてしまうのは少々危険な気がした。