「逆転のトライアングル」(2022スウェーデン独仏英)
ジャンルコメディ・ジャンル社会派
(あらすじ) 人気モデルのヤヤは同じくモデルをしてる恋人カールと最近上手くいってなかった。ある日、彼らは豪華クルーズ船の旅に招待される。そこにはロシアの新興財閥や武器商人といった一癖も二癖もある大富豪が乗り合わせていて…。
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(レビュー) 曲者揃いのセレブが乗り合わせた豪華客船を舞台にしたブラック・コメディ。富める者と貧しき者の悲喜こもごも、人間の浅ましさ、エゴのぶつかり合いが、時に過激に、時にシニカルに表現された風刺性の高い作品である。
監督、脚本は
「フレンチアルプスで起きたこと」(2014スウェーデンデンマーク仏ノルウェー)、
「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(2017スウェーデン独仏デンマーク)のリューベン・オストルンド。前2作同様、今回も毒を利かせた笑いを全編に散りばめながら2時間半という長尺を飽きなく見せた手腕は見事である。
最も強烈だったのは中盤の嵐に見舞われたキャプテンズ・ディナーのシーンだった。ここまでやるか!という感じでもはや呆気にとられるしかない。例えるなら「モンティ・パイソン人生狂騒曲」(1983英)のインテリジェンスとトロマ製作
「チキン・オブ・ザ・デッド/悪魔の毒々バリューセット」(2008米)の下品さを足して2で割ったような阿鼻叫喚の地獄絵図と言ったところか。オストルンド監督は必ず劇中にこうした強烈なシーンを1か所は入れるのだが、これまで以上に過激で露悪的で下品で凄まじかった。
但し、個人的にはここをピークに映画は盛り下がってしまったように思う。
映画は3部構成になっていて、第1部はヤヤとカールの痴話喧嘩を描くパート。第2部はクルーズ船内の悲喜こもごもを描いた群像劇。第3部はクルーズ船を脱出したヤヤ達が無人島を舞台にサバイブする話になっている。地位も名誉も無に帰した中で、それまでの優劣関係が文字通り”逆転”していく様を赤裸々に描いているが、前段のキャプテンズ・ディナーのシーンのインパクトの後ではどうしても弱く映ってしまう。
同様のシチュエーションで言えば
「マタンゴ」(1963日)や
「吸血鬼ゴケミドロ」(1968日)といった作品も連想される。多種多様な人物が極限状態で本性を曝け出すというのは、この手のサバイバル物の一つの醍醐味であるが、そこを超えるものがなかったというのが正直なところである。
ラストは観客の想像に委ねるような終わり方になっている。賛否あるかもしれないが、余韻を引くという意味では見事な締めくくり方だと思った。明確な答えを容易に出せない所に今作のメッセージの重みも実感される。
尚、ヤヤを演じたチャールビ・ディーンは腹部に事故による手術の痕が残っている。本作の水着姿でそれを確認することができるが、術後に細菌性敗血症にかかって昨年の8月に他界したということである。今後の活躍が期待される中での突然の訃報ということで誠に残念である。
「ファミリー☆ウォーズ」(2018日)
ジャンルコメディ・ジャンルアクション
(あらすじ) 福島家は亭主関白な父を中心に、祖父、母と4人の子供たちが仲睦まじく暮らしていた。ところが、祖父が認知症を発症したことから平和だった家庭は崩壊する。祖父がドライブ中に子供をひき殺して、一家はその死体を巡って奔走することになる。
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(レビュー) 平和な一家が崩壊していく様をオフビートな笑いとシュールで過激なバイオレンス描写で綴ったブラック・コメディ。
作為性丸出しな朝の食卓風景から、見事なまでのうさん臭さだが、本作は全編このテイストが貫かれた怪作である。
物語は福島家の祖父の認知症をきっかけに殺伐とした雰囲気に切り替わるが、どこかコメディ寄りに味付けされているのが特徴的だ。
個々のキャラクターの濃さも特筆すべきで、福島家の長男は無職のギャンブル狂、次男はオナニー狂、長女は売れないアイドルをやっていて、次女は引きこもりのメンヘラ女子といった具合で、一見すると仲睦まじく見える家族も実はそれぞれに問題を抱えたバラバラな家族だったということが分かってくる。
また、猟銃を持って突然挨拶に訪れる隣人や、祖父に引き殺された子供の親と思しきヤンキー夫婦、祖父の認知症を直すために母親が連れてきた霊媒師サークル等、一癖も二癖もある連中が、この物語をより一層カオスにしている。
監督、脚本、撮影、編集は
「スロータージャップ」(2017日)、
「ハングマンズ・ノット」(2017日)を自主制作で取り上げた新鋭・阪元裕吾。本作は彼にとっての初の商業映画である。
これまでの作品同様、非常にエネルギッシュでぶっ飛んだ作品である。商業路線になっても、過激で露悪的な倫理観無視の描写に陰りはない。
ただ、結論から言うと、個人的には前2作に比べると今一つ乗れなかった。
確かに面白い設定で、石井聰亙監督の
「逆噴射家族」(1984日)のような社会批判性も感じられる所に作家としての新たな試みを感じるのだが、いかんせん肝心のギャグが今一つツボに入りきらず全てが空回りしてしいるという感じがした。
また、阪元作品の見所の一つであるバイオレンス描写も、今回はクライマックスに集中した作りになっており、そこに至るまでが少し退屈してしまう。
ラストのどんでん返しは良いと思うし、オチも人を食っていて面白いと思うのだが、今回は見せ場が少ないような気がした。
あくまで個人的な感想だが、阪元監督はこうしたコテコテなコメディよりも、切れ切れでぶっ飛んだバイオレンスを前面に出して作った方が似合っているような気がする。
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(2022米)
ジャンルコメディ・ジャンルSF・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 頼りない夫と反抗期の娘と高齢の父と暮らす中国移民エヴリンは、コインランドリーを切り盛りしながら冴えない日々を送っていた。その日、納税申告の修正作業に追われていた所、突然夫に何者かが乗り移り全宇宙を救ってほしいと頼まれる。わけが分からぬままエヴリンは強大な敵との戦いに巻き込まれてしまう。
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(レビュー) MCU作品などですっかりお馴染みとなったマルチバースを、現代のアメリカの下町で再現したアイディアが秀逸である。どうということはない家族再生のドラマなのだが、それを全宇宙的なスケールで描いた所が痛快である。
監督、脚本は
「スイス・アーミー・マン」(2016スウェーデン)のダニエル・シャイナートとダニエル・クワイ。通称ダニエルズ。前作「スイス・アーミー・マン」もかなりシュールでナンセンスな作品だったが、今回も二人の独特のぶっ飛んだ感性が至る所で炸裂しており、かなりクセの強い作品になっている。
何と言っても目を見張るのが、凝りに凝ったポップでファッショナブルな映像の数々である。両ダニエルは元々MV畑の出身ということで映像に対するこだわりは相当に強い。そのこだわりが映画全体から感じられた。
例えば、エヴリンが別の宇宙の彼女に乗っ取られる瞬間を描く”ジャンプ”の描写は、観ているこちらも画面の中に引きずり込まれそうな興奮が味わえた。さしずめアトラクションゲームを体感しているようなワクワク感を覚える。
あるいは、マルチバースのエヴリンはカンフー映画のスターだったり、歌手だったり、シェフだったり、様々な人生を歩んでいる。当然それぞれに悩みや葛藤、喜び、家族がいるのだが、映画は彼女たちの人生もフラッシュバックで万華鏡のように見せていく。まるで1本の映画の中にいくつもの映画が混ざっているような多彩なトーンの取り合わせに眩暈を覚えるほどだった。
中にはアニメや人形のエヴリンまで登場してきて、一体どうやって収集を付けるのかと思いきや、クライマックスにかけてこれらは見事に一つの結末に向かって収束していく。この計算されつくされた演出にも唸らされた。
また、本作はSF映画であると同時にカンフー映画でもある。「マトリックス」シリーズよろしく、カンフースターの時のエヴリンが見せる超人的なアクションシーンもケレンに満ちていて面白く観れた。ユーモアとファンタジックな要素が加味されることで一味違うものとなっている。
ただ、一部のギャグで下ネタが出てくるのでそこは注意が必要かもしれない。前作でもその傾向は強かったので、このあたりはダニエルズ監督の作家性の一つなのだろう。好き嫌いが分かれる所かもしれない
一方、物語はSFとして捉えると細かな点で色々と突っ込み処が目立ち、個人的には余り感心しなかった。
そもそも”ジャンプ”するためには両耳に取り付ける装置が必要なのだが、これが一体誰がどのように持ってきた物なのかよくわからない。百歩譲って意識や能力が脳や肉体に宿るという理屈は分かるとしても、この装置のような有機物をどうやって現実世界に持ち運ぶことが出来たのだろうか?また、”ジャンプ”するためには変なことをしなければならないという法則があるのだが、これも成功と失敗の判定が今一つよくわからず、何かしらの一貫した基準が欲しい所である。
おそらくだが、敢えてこのあたりの設定を緩くしてナンセンス・コメディとしての面白さを狙っているのだろう。しかし、これがエヴリンの脳内妄想だけの世界だったら”何でもあり”として許容できるのだが、マルチバースというSF設定を持ってきたせいで、そこの割り切りがどうしても自分には難しかった。
物語はクライマックス以降、意外なほどウェット感を増していく。笑いながら観ていると思わず足元を掬われ、これには良い意味で予想を裏切られた。本作が他のコメディ作品と違う所はここだろう。何だかんだと言って、最終的に王道な家族のドラマへ持って行くあたり、実にしたたかである。
また、エヴリンが他の人生を知り、今の自分を顧みる終盤にはホロリとさせられた。成功や失敗、人生は人それぞれであるが、それでも生きることの尊さは変わらないのだな…と。たとえそれが石ころの人生でも幸福の価値は平等なのかもしれないと、観終わって何だか勇気が貰えたような気がした。
キャスト陣ではミシェル・ヨーやキー・ホイ・クァンといった懐かしい面々を久しぶりに見れて嬉しくなった。夫々にアクションシーンにも果敢に挑戦しており、シリアスとユーモアを織り交ぜながら好演している。
「KUSO」(2017米)
ジャンルコメディ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) ロサンゼルスで大地震が発生し、人々は謎の奇病におかされながら生活を送っていた。首に喋る“こぶ”ができた女性、奇妙な生物と同居する顔中痣だらけの女、木の中に生えた人間の首に翻弄される少年、巨大な生物に飲み込まれてしまった日本人女性、おっぱい恐怖症にかかった黒人男等々。彼らの奇妙な日常が繰り広げられていく。
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(レビュー) 下ネタとグロテスクな描写が横溢する不快指数MAXな怪作。はっきり言って好き嫌いが別れる作品だと思う。
監督、脚本はアメリカの音楽シーンで活躍するDJでラッパーで音楽プロデューサのフライング・ロータス。本作は彼にとっての初の長編映画作品である。
自分はそれほど彼の音楽に通じているわけではないが、過去に何本かMVを見たことがあり、かなり独特の世界観を持った人だなという印象を持っている。その世界観が本作にも垣間見れる。ただ、想像以上に過激な下ネタが多かった。
物語は、終末観に包まれたロサンゼルスを舞台に、幾つかエピソードが同時並行で進行する。夫々に繋がりはなくコラージュ作品のような作りで、合間にアニメーションが時々挿入される。その構成から「モンティ・パイソン」を連想させたりもする。ただ、本作には風刺性は皆無なため「モンティ・パイソン」ほどの知的なセンスは感じなかった。もはや解読不能なエログロナンセンスの見本市といった感じで、完全に”見世物”に振り切った作品になっている。
最も印象に残ったのは、奇妙な生物と同居する妊婦の女性が超能力で胎児を取り出されて、それをハッパにして吸ってしまうシーンだった。生命に対する尊厳が微塵も感じられない所業に唖然とさせられた。この発想は中々常人では思いつかないだろう。
本作全体に言えることなのだが、割とライトに酷いことを描いているので、笑って良いのかどうかリアクションに困ってしまう場面が多い。したがって、いちいち意味を考えず、流れる映像を脳みそを空っぽにして観るのが正しい見方かもしれない。ある種ドラッグ・ムービーとしての効果はてき面である。
かつて1970年代のニューヨークでは、深夜にかかるミッドナイトムービーが若者たちの間でカルト的な人気を誇った。「エル・トポ」(1970メキシコ)、「ロッキー・ホラー・ショー」(1975米)、「ピンク・フラミンゴ」(1972米)等は映画マニアの間では有名な作品である。しかし、歴史から消えてしまった無名な短編映画や実験映画もたくさん上映されており、そうしたアングラ感が本作には漂っているような気がした。
「カンニバル!THE MUSICAL」(1993米)
ジャンルコメディ・ジャンル音楽
(あらすじ) 19世紀後半のアメリカ西部。ゴールドラッシュに沸くコロラドを目指して旅をするパッカーとその一行は、無謀にも真冬のロッキー越えを計画する。ところが、その道中でパッカーが盗賊一味に愛馬を盗まれてしまう。それを取り戻そうと追跡を開始するが、冬山の厳しさは想像を絶するもので…。
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(レビュー) 「サウスパーク」で有名なトレイ・パーカーが学生時代に撮った実写ミュージカル映画。オープニングにB級ゲテモノ映画専門のトロマ社の名前がクレジットされており、いわゆるその筋の人に受けそうな内容である。
尚、今作は実話を元にしているということである。wikiを読む限り、カニバル(人食)というセンセーショナルさもあり凄惨な事件として知られているようだ。しかし、そうは言っても本作はミュージカルな上にブラック・ジョークがふんだんに飛び出てくるので、実際の事件とはかけ離れた内容となっている。
物語は殺人罪で逮捕されたパッカーの回想で展開されていく。実話が元になっているという前振りはあるが、一体どこまで信用していいのか分からないホラ話のようなテイストが面白い。
まず、冒頭で「残酷な描写をカットしてます」というテロップが出てくるが、その直後にいきなりゴアシーンが炸裂するという不意打ちである。
しかも、パッカーの愛馬に対する執着心がほとんど異常で、まるで恋人の尻を追いかける未練タラタラ男のようで笑える。
更に、旅の途中で出会うインディアンは日本語を喋る東洋人で、空手の修業をしたり日本刀を振り回すという考証無視のデタラメさ。
揚げ句に、死刑執行当日を描くクライマックスの投げ槍とも思える”いい加減”な収集の仕方など、どこからどう見ても実際の凄惨な事件の再現性など鼻からする気など無い徹底したエンタメ趣向な作りになっている。
肝心のミュージカルシーンもチープではあるが、音楽が中々に良く耳に心地よく入って来た。雪だるまの歌とパッカーの愛馬に捧ぐ歌がバカバカしく笑えた。
また、個人的に最も傑作だったのは、パッカーが歌おうとすると死んだと思っていた仲間が何度も蘇ってそれを邪魔をするシーンである。ほとんどドリフのようなノリだが爆笑してしまった。
このようにカニバルという際どいネタを、あっけらかんとした笑いと音楽、下ネタやブラックジョークで包み込んでおり、改めてトレイ・パーカーが只者ではないということが良く分かる作品である。