今年の米アカデミー賞が決まった。
主要部門で火花を散らせた「ノーカントリー」と「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」は共にMIRAMAXの配給。どっちがとっても親会社であるディズニーはウハウハなわけだったんだけど、まぁ結局は下馬評どおりという感じになった。
でも、俳優4部門にアメリカ人がいないというのは正に珍事かもしれない。
今回はアカデミー外国語映画賞を取ったI・ベルイマンの作品を紹介してみる。
「処女の泉」(1960スウェーデン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 16世紀のスウェーデンの山奥。信心深い一家の娘カリンは教会にろうそくを捧げるために、養女のインゲリと一緒に馬で下山する。インゲリは虐げられていた境遇からカリンを妬み呪いをかけていた。それが通じたのか、道中でカリンは3人の羊飼いに襲われてしまう。
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(レビュー) 人間にとって神の存在とは何か?それを問うた映画だと思う。
宗教的な色合いを強く打ち出しているが、これも一つの人生観という捉え方をすれば興味深く見れる。
監督はI・ベルイマン。彼のフィルモグラフィーの中で「宗教」は常に重要なファクターとなっているが、本作はそれが最も強く出ている作品のような気がする。
この映画で問題となるのはやはりラストだ。これについては賛否あるだろう。これを素直に「奇跡」として受け止めることが出来るかどうかで、作品に対する評価も真っ二つに分かれてしまう。
教示主義に走りすぎだと拒絶反応を示す人もいるかもしれないが、個人的には素直に感動できた。
確かにここに至るまでのリアル志向な作劇からすれば、この「奇跡」は余りにもメロウ過ぎて興ざめしてしまうかもしれない。しかし、俺自身はどんなにリアルに語られていてもこの物語は”神話”と解釈しているので、神の存在を「奇跡」として表現するならば、これはこれで至極真っ当なオチに思えた。
この映画で特に印象に残ったシーンは二つある。カリンが襲われるシーンと父親が復讐するシーンだ。
この二つは同情する暇を与えないほど圧倒的な迫力で描かれており衝撃的だ。鬼畜の如し行為に不快感をおぼえるが、この世がいかに不道徳に溢れているかという「現実」を見事に提示していると思う。この二つがあることで「奇跡」のラストも生きてくるような気がする。
基本的にベルイマンの撮影はきっちりとした段取りの上で行われるらしいのだが、この二つのシーンは演劇的・即興的な演出が取られているような気がした。余りにも生々しくドライヴ感に溢れているからだ。他の作品を見る限りは、少しの綻びも許さない厳格な演出を求める作家に思えるベルイマンだが、こういったシーンを見ると案外柔軟な姿勢を持った監督なのかもしれない‥そんな風に思った。
この作品は根強いファンが多い。
何が凄いってやっぱりA・パチーノの怪演。特にラストは笑ってしまうくらい凄い。
「スカーフェイス」(1983米)
ジャンルアクション
(あらすじ) 1980年、キューバから前科者のトニーがアメリカに流れてくる。マフィアから殺しの依頼を受けた彼は、マイアミの避難民キャンプの大暴動に紛れて仕事を実行した。その働きを買われて今度は麻薬取引の仕事を任された。ところが、それは罠だった。ボスのフランクに食って掛かるが、罠をかけたのは部下であるオマールだった。ともかく、トニーはフランクに認められボリビアの麻薬農園との取引を任されるようになる。一方、そんな生き方をトニーの母は批判した。唯一彼のことを理解してくれたのは愛する妹ジーナだけだった。
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(レビュー) ラストのA・パチーノの狂乱しきった演技が忘れがたいギャング映画。
未だに熱狂的なファンを持つ本作だが、ちょっと突っ張ってみたい世代には応えられない魅力があるのだろう。
トニーは裸一貫で大国へ渡り富も名声も手に入れる。言ってしまえば正にアメリカン・ドリーム的な話なのだが、その単純明快さが男の生き様をストレートに語っていて観客の琴線に触れのだ。
そんなカルト的な人気を誇る本作だが、実のところ作品として見た場合、3時間弱というスケールがありながら、意外にこじんまりとした出来栄えである。普通なら豪華絢爛な長編になるところが、唐突過ぎる展開、軽薄な演出のせいで余り大作感が感じられない。
件のクライマックスの銃撃戦などは一体どこまで本気で撮っているのか分からないくらいで、明らかにB級アクション映画的な演出である。もはや爆笑するしかないのだが、しかしこのノリは狙って作られたものなのだろう。
本作は間違っても「ゴッドファーザー」(1972米)のような大河ドラマではない。あくまで一人のチンピラの隆盛に焦点を当てたB級アクション映画である。そのことを分かっていれば十分楽しめる作品ではないかと思う。
クローネンバーグ作品は古い方が好きなんだけど、これは最近の中では出色の出来だと思う。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005米カナダ)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 小さな田舎町でダイナーを経営するトムはごく平凡な男。妻と2人の子供と幸せに暮らしていた。ある日、ダイナーに強盗が押入る。ウェイトレスが殺されそうになった時、トムは反射的に強盗犯を射殺した。この事件がマスコミに取り上げられ、トムは一躍時の人となる。そんなある日、彼の元を黒服の男が訪ねてきた。彼はトムのことをジョーイと呼んだ。気味悪がるトムの妻は保安官にこのことを相談する。やがて、黒服の男の驚くべき素性が判明する。
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(レビュー) 地味で人の良さそうな男がある事件をきっかけに自分の過去と対峙していく、異才D・クローネンバーグのサスペンス作品。
彼本来の持ち味であるグロいビジュアルはここではそれほど目立っていない。今回は人物の内面に重きを置いた作りになっている。しかし、クローネンバーグが描くとやはりそれすらも気色が悪い。
現実と虚構、現在と過去、平穏と戦い、トムにとっての二元論がドラマの骨子を形成している。二つに引き裂かれる中で、彼のアイデンティティー追求が展開されていく。
クローネンバーグ作品はこれまでにも何本も見ているが、アイデンティティー追求は彼にとっての定番テーマである。またそうきたか‥と思わずニヤリとしてしまった。
白眉はラストシーンだ。トムの葛藤はこのラストシーンに集約されているといっても過言ではない。決して安易に救いを提示するわけではなく、リアルに重厚に幕引きをした所に見応えが感じられた。
そして、ヒーローが所詮偶像に過ぎないというアイロニーも示唆している。ヒーローの影に犠牲あり。華やかな喝采の裏側には必ず嘆く者がいるということを、このラストシーンは教えてくれている。正義について色々と考えさせられた。
ヒーローの偶像化という意味で言えば、もう一つ興味深く見れたサブエピソードがある。トムの息子ジャックの暴力主義への傾倒である。ジャックはいわゆる虐められっ子で、町のヒーローになった父に憧れを抱くようになる。その憧れが彼を虐められッ子から過剰な暴力主義者へと変貌させてしまう。暴力の感染という捉え方も出来よう。ヒーローの偶像性が他者に及ぼす罪作りな一例である。
キャストでは、トム役を演じたV・モーテンセンの抑えた好演が印象に残った。朴訥とした風貌の裏にもう一つの顔を忍ばせ、深みのある演技を見せている。
ただ、シリアスで見ごたえはあるのだが、そこで起きる事件や組織、人物の背景についてはリアリティーに欠ける。現代の寓話として捉えるならばそれでもOKだが、話がヘビーなのでどうしてもそのあたりの割り切りが難しい。
B・ストライサンドは大した女優だと思う。
女優業のみならず、監督業、歌手業、政治運動、様々な舞台で活動しているからだ。
しかし、これほど好き嫌いがはっきりと分かれる女優も珍しい。
逆に周囲が彼女をアイコン化し過ぎている向きも無きにしも非ず‥なのだが。
「ナッツ」(1987米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 客を殺害した容疑で高級コールガール、クローディアが起訴された。予審で弁護士が精神障害(ナッツ)を主張するが、彼女はそれを否定した。クローディアはその場で弁護士を殴り倒し、改めて官選弁護人のレビンスキーが選ばれる。レビンスキーは彼女との会話からすぐに正常であることを確信した。予審が再開された。クローディアの両親、精神鑑定医の証言等から、驚くべき事実が明らかになってくる。
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(レビュー) クローディアがなぜ娼婦になったのか?なぜ客を殺したのか?その理由が法廷で明らかにされていく中で彼女の過去が露わになってくる。それは虐げられる女性の歴史であった。実にやるせない思いにさせられる。‥と同時に、一個人が精神障害者として社会から葬り去られることの怖さもこの映画は描いている。
裁く上での責任能力あるやなしや?という問題は、しばしば法廷ドラマで取り上げられるテーマだ。この映画も一見するとそれを描く作品に見える。しかし、実際には少し違う。権力に対する必死の抵抗、それがテーマになっている。つまり、司法上の問題を描くのではなく、より根本的なヒューマニズムを問題にしているのだ。メッセージが真摯に発せられており、中々の力作だと思った。
B・ストライサンドは、本作で製作も兼ねながらクローディアを熱演している。彼女はこの頃すでにフェミニズムのアイコンとなっていたから、クローディアという娼婦の役にかける思いも並々ならぬものがあったのだろう。それは彼女の熱演を見れば十分に分かる。ただ、余りにも過剰なためやや空回りしているという感じも受けてしまった。
対する、弁護士レビンスキー役を演じるのはR・ドレイファス。こちらは懐の深い演技を見せている。
原作は舞台劇ということである。法廷シーンを含め、ほとんどが白熱したダイアローグの応酬の連続で見応えがあった。例えば、ストライサンドとドレイファスが初めて対面するシーン。のっけから喧嘩腰のストライサンドに、誠意とユーモアを持って接するドレイファス。対立から融和の過程がよく描けている。
他のキャストも芸達者なベテラン俳優が脇を固めているので、全体的に安定したクオリティが維持されている。こういう舞台劇的な作品は、やはりキャストの良し悪しで大体が決まると思う。本作はそこに関しては上々の出来栄えである。
引き続き市川崑追悼ということで「映画女優」を取り上げます。
実はコレDVD化されてないんだよねぇ~。主演が吉永小百合なのに‥。
まぁ、傑作というほどではないんだけど、日本映画の歴史を知る上では面白く見れる作品だと思います。
「映画女優」(1987日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ)
大正14年、田中絹代は松竹の新人監督清光に拾われて女優デビューを果たす。何かにつけて目をかけてもらい周囲のやっかみを買うが、持ち前の根性で主役の座を射止めた。しかし、これが他人の作品だったことから、清光は怒る。手塩をかけて育ててやった恩を忘れたのかと関係を強引に迫り、そのまま二人は同棲することになった。ところが1年後、女優業と家事の両立が出来ずにあえなく破局。実家の家族に様々な不遇が降りかかり、それを一身に背負いながら絹代は仕事一筋に生きるようになる。
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(レビュー) 女優田中絹代の半生を描いた市川崑監督の作品。
まだあどけなさを残す少女時代から、女優としての貫禄を身に付ける中年時代までを、吉永小百合が演じている。当時40を当に越していたことを考えると、この若さは驚異的としか言いようがない。しかし、実際の田中絹代との比較で言うとどうだろう?もう少しアグレッシヴさが欲しかった気もする。
本作は、スクリーンでは見れない田中絹代の私的な一面を窺い知ることが出来るという意味で大変興味深い作品だ。
原作脚本は新藤兼人。映画界を知り尽くす重鎮だけあって、トリビア的なエピソードが満載だ。特に、畳に放尿するシーンには驚かされた。本人(没年1977年)が見たら‥と思うと少し気の毒な感じもするが、大変面白いエピソードである。
併せて新藤兼人の作品「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975日)を見ると更に興味深く見ることが出来る。「ある映画監督の~」は名匠溝口健二を追ったドキュメンタリー作品だ。そこには田中絹代本人も登場する。自身のインタビューから、他にも幾つか「なるほど‥」と思わせるシーンが見つかった。
さて、本作は前半こそ日本映画の歴史を解説するようなドキュメンタリー的な側面を持ち合わせているが、後半からはほとんどが溝口健二との関係を追ったドラマとなっている。今作の本文は正にこの部分だろう。溝口健二との出会いが彼女に”生涯女優”の道を選ばせたことは、先述の「ある映画監督の~」における本人のインタビューからも知る事が出来る。二人の関係は実に複雑なものだ。男女関係でもない、師弟関係でもない、もっと特別な関係だということが、この映画を見るとよく分かる。二人のやり取りが具体的に描かれていて、興味が尽きない作品だった。
市川崑監督が亡くなった。享年92歳。大往生だと思う。
ご冥福をお祈り致します。
改めて氏の作品を見てみると、とてもスタイリッシュな画を撮る監督だったんだなぁ‥と感心させられる。
今回は人気シリーズ「金田一耕助シリーズ」の第二段「悪魔の手毬唄」を紹介します。
「悪魔の手毬唄」(1977日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 昭和27年、岡山県鬼首村。磯川警部は20年前に起きた殺人事件を今でも追っていた。---当時、村には仁礼家と由良家という二大勢力が存在していた。恩田という詐欺師が村に現れて仁礼家が台頭するようになると、由良家は失墜した。その直後、亀の湯の主人源次郎が殺される。恩田はその晩姿をくらました。---磯川は私立探偵金田一耕助に調査の助けを依頼する。来て早々、金田一は村外れに住む放庵という男に代筆を頼まれる。相手は別れた妻宛てだったが、なんとその妻はすでに他界していた。金田一がそれに気付いた時、放庵は謎の失踪を遂げる。時を同じくして由良家の娘泰子が他殺体で発見される。彼女は源次郎の息子歌名雄の婚約者だった。長年にわたる両家の愛憎が次第にあらわになってくる。
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(レビュー) 「犬神家の一族」(1976日)に続いて製作された『金田一耕助シリーズ』第2段。
金田一初登場となる前作は彼のキャラクターの魅力を散りばめながら推理劇の醍醐味を味わえる作品だった。正直映像の創意自体に稚拙な部分もあったが、当時としてはかなり衝撃的なビジュアルフックを持っていたし、大々的なメディアによる興業戦略はそれまでの日本映画では画期的なものだった。本作は前作に比べるとインパクトという点ではやや劣るし、金田一の存在自体もやや薄みである。しかし、事件の背景に存在する複雑な人間模様に重点を置いたストーリーは、人間ドラマ的な深みが感じられる。
何といってもウェット感漂う幕引きが絶妙である。
過去に縛られながら生きる女主人リカ。彼女の心中を察すると、この結末は実に泣かせる。そして、彼女を見守るように20年間も捜査を続ける磯川警部も泣かせる。演じる若山富三郎が良い味を出している。
事件の真相は容易に想像出来るのだが、逆に想像できるからこそ二人のやり取りに味わいが出てくる。推理劇のエンタテインメント性よりも人間ドラマの趣を優先させた作りで、正直俺は前作よりもこちらの方が好きである。
ところで、このシリーズには必ずと言っていいほどファニーなキャラクターが登場して息抜き場面を演出するのだが、これが案外バカに出来ない。立花主任はその最たるものだが、もう一人本作には強烈なキャラクターが登場してくる。無愛想なかみさんがそれだ。このキャラは数秒しか登場しないのだが、ユーモラスで突出した印象を残す。
L・クラークはメインストリームから外れた監督である。決して万人にはお勧めできない。
若者達のコミュニティーを閉塞的に描く彼は、今の時代稀有な作家と言っていい。
「BULLY ブリー」(2002仏米)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 高校生マーティとボビーは幼馴染。親友のように見えるが本当のところは違う。マーティはいつもボビーに小突かれ、まるで下僕のように扱われていたからだ。マーティは腹の底ではボビーを憎んでいた。ある日、バイト先で知り合った少女アリとリサを連れてサーフィンへ繰り出す。その夜、二人は彼女達をモノにした。その後、マーティはリサから妊娠を打ち明けられる。彼の脳裏に悪い予感が芽生え始めていた。もしかしたらボビーの子供かもしれない‥と。その頃、ボビーの悪辣な言動は日増しに増長していった。アリをみだりに辱めたのをきっかけに、リサの中で殺意が芽生え始める。
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(レビュー) 実際にあった事件をモデルにした青春犯罪劇。
監督は、スモールタウンに住むティーンエージャーを題材にスキャンダラスな作品を撮り続けるL・クラーク。作中の若者達に向けられる氏の眼差しは常に冷徹で軽んじるところがない。観客をチラ見しながら媚を売るような姿勢が一切無い所に俺は好感が持てるのだが、おそらく一般的な良識を持った人ならば本作を見て怒るだろう。ポルノ的な表現や肉体破壊・精神崩壊のような目を覆いたくなるような描写が多分に盛り込まれているからだ。しかし、そこから目をそむけたらリアルなものなど描けるだろうか?
さて、本作は実話の映画ということでかなり神経を使う代物だが、L・クラークにとってそんなことはお構いなしのようである。若者達は学校にも行かず昼間からヤクをやり、乱交セックスに興じる。夜はゲイバーに繰り出しハイウェイをぶっ飛ばす。いかにもクラークらしい生々しい描写の仕方だ。
そして、そんな乱痴気騒ぎは、ある日突然終わりを告げる。
それまでボビー殺害計画を談笑していた彼等は、いざそれを実行するという段階になって急に怖気づく。普段はヤクでろれつが回らないドニーでさえ素に戻り恐怖する。このシーンはコメディのようにも写るかもしれないが、天国から地獄へ叩き落されるというのは案外、こういうことなのかもしれない。ゲームや小説の中での体験とは違う。現実に他人の命を奪うということは、それほどまでに大きな罪科を伴うということなのだ。このシーンはそれを真面目に語っているように思った。終盤にかけて彼等はようやく罪の意識に苛まれる。しかし、こうなってからでは後の祭りである。
問題提起の仕方としては非常にストレートである。そして、彼ら若者達の浅はかな考え方には色々と考えさせられるものがあった。
ただ、今作の場合、テーマはストレートに発せられていてよく理解できるのだが、ドラマ構成に難がある。日常描写が冗漫で、彼等の罪の葛藤に迫る所までの展開がやや水っぽく写る。個人的にはその葛藤にこそ重点を置いて欲しかったのだが‥。おそらくL・クラークにとって最重要なのはあくまで若者達の"日常描写″であって、いわゆる罪の意識を深くえぐるような「罪と罰」の物語はそれほど関心が無いのだろう。彼はこれまでも、そしてこれからもティーンエージャーの“日常”を最重要に撮り続ける監督なのだと思う。
これは通好み映画だと思う。
料理で言えばあっさり系。大変地味だが、地味さなりの美味さがある。
「トニー滝谷」(2004日)
ジャンル人間ドラマ・
ジャンルロマンス(あらすじ) トニー滝谷は生まれてすぐに母を亡くし、ジャズミュージシャンの父に育てられた。父は留守がちで彼は常に孤独を感じていた。成人後、イラストレーターとして成功したトニーは、クライアント先の英子に一目惚れし結婚する。英子は病的なほどの買い物依存症だったが、どんなに散財してもトニーの愛は少しも変わらなかった。しかし、ある日そんな幸せな生活が突然壊れてしまう。
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(レビュー) 「トニー滝谷」という風変わりな名前の男の孤独な人生を静謐なタッチで綴った中編作品。
この映画は、淡々としたナレーションが人物の感情や状況を解説し、映像がその”行間”を埋め尽くすことで構成されている。ちょっとポエティックなテイストが加わり、作品自体は非常に味わい深く作られている。
監督は市川準。元々CM出身の監督だけあって、キャッチーな映像はお手の物であるが、今回はトニーの孤独を計算され尽くされた美しい映像に乗せて綴っている。
例えば、被写界深度を浅くすることでトニーと背景の奥行き、乖離を表現した構図は、世間と隔絶して生きる彼の孤独感を見事に捉えていると思う。
また、ほぼ無菌状態を思わせる整然とした邸宅風景は人間味、現実感が薄く、英子との恋愛の虚ろさを表現している。
映像による”感情の行間”表現とでも言うべきか、それを終始貫き通した所は見事だと思った。
ただし、若干気になる点もあった。作品全体に被さるナレーションの発信者に統一感がない。基本的には天の声となっているが、時々登場人物達にナレーションを語らせてしまっているのはいただけない。これにはやや違和感を覚えてしまった。
それにしても、ここで描かれるトニーの孤独は悲しすぎる。愛に見放された男がそれでも愛を求めてやまない所に、人は一人では生きていけないというメッセージが読み取れ切なくさせられた。
単にネタのために見たようなところがあるのだが、結果として本当にネタだけになってしまった(^_^;)
「日本以外全部沈没」(2006日)
ジャンルコメディ・
ジャンルSF(あらすじ) 2011年、巨大地震が発生しアメリカ大陸が沈没する。その1週間後、今度は中国大陸が、更にはユーラシア大陸までもが沈没。地球上に残ったのは日本だけになってしまった。3年後、押し寄せる難民を受け入れた日本は、総人口の4/5が外国人となり、経済、治安、様々な問題を抱えることになる。
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(レビュー) 小松左京のベストセラー「日本沈没」をブラックパロディー化した「日本以外全部沈没」(筒井康隆原作)を映画化。監督はヲタ臭漂うB級作品を撮り続けている異才河崎実。
スケールの大きな話を敢えてチープに描く。これぞ河崎流テイストなのだろう。しかし、期待していたほどの笑いはなかった。馬鹿笑いするというよりも苦笑するタイプのコメディになっている。
今やアメリカの傘の下で国際社会では完全に影が薄くなってしまった日本であるが、敢えてそれを逆手に取っているところ。目の付け所としては大変面白い。世界中が(といってもこのドラマでは日本しか残ってないわけだが)「ニッポンサイコー!」という声一色で染まる。これほど破天荒で冗談じみたフィクションもそうないだろう。かえってコンプレックスを覚えてしまう人もいるかもしれないが、まさに本作はそこを突いたようなコメディである。割り切った上で見る必要があろう。
村野武範、藤岡弘、の出演は「日本沈没」を知る者としては嬉しい限りであった。それにしても、藤岡弘はいつから「、」が名前の後ろにつくようになったのだろうか?
P・グリーナウェイという監督は実にユニークな監督だ。
一番最初に見たのが「コックと泥棒、その妻と愛人」だったのだが、そのインパクトが余りにも強烈だったため、以降彼の作品を追いかけるようになった。
もっとも、最近の作品はノーチェックなんだけど‥(汗)
そんなわけで、久しぶりの彼の新作が来たというので見てきました。
「レンブラントの夜警」(2007英仏独カナダオランダポーランド)
ジャンル人間ドラマ・
ジャンルサスペンス(あらすじ) 1642年のアムステルダム。肖像画家として有名だったレンブラントは、妻サスキアとの間に長男をもうけ幸せの絶頂にいた。ある日、オランダ市警団から集団肖像画製作の依頼を受ける。最初は乗り気ではなかったが、愛するサスキアの勧めでその仕事に着手した。そんなある日、市警団の隊長ハッセブルルグが訓練中に事故死した。実はその死には恐るべき陰謀が隠されていた。レンブラントはその謎に踏み込んでいくようになる。
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(レビュー) 17世紀を代表するオランダの画家レンブラント・ファン・レインの半生を、代表作「夜警」に込められた謎を絡めながら描いた作品。
監督脚本は、スキャンダラスな内容でたびたび物議をかもし出す鬼才P・グリーナウェイ。
物語は、サスキアを含めた3人の女性の登場でレンブラントの私生活が赤裸々に綴られていく。ただ、個人的には「夜警」誕生にまつわるミステリーの方に重点を置いて欲しかった。この謎解き自体グリーナウェイの仮説に過ぎないのだが、中々興味深く見ることが出来ただけに非常に残念である。尚、絵画「夜警」については
こちらを参照のこと。
さて、グリーナウェイ作品の特徴と言えば、何と言っても絵画的視点で捉えた映像センスに尽きるだろう。本作ではレンブラントの「夜警」よろしく深みのある”闇”の表現が冴え渡っている。
更に、画面を舞台とみなすかのような特異な演出も本作では目に付く。これは絵画的視点の延長線上にあると言っていいだろう。
冒頭のレンブラントが見る悪夢シーンに始まり、市警団を交えた夕食会のシーン、レンブラント自らがカメラに向かって話し掛けるシーン(これには違和感を覚えてしまうが‥)等。これまでのグリーナウェイ作品にも、事象をワンショットで切り取る舞台劇のような演出はあったが、本作ではそれが顕著に見られる。西洋絵画をこよなく愛するグリーナウェイだが、最近ではオペラにも関心があるようで、その辺りの嗜好がダイレクトに反映されていると思った。
ただ、この演出は諸刃の刃のような気がする。ことのほか凝った映像を多用されると、見ているこちらとしては少々辟易してしまうのも事実で、過去作品に比べると単なる乱用にも見えかねない。演技はもちろん計算づくで大仰になっているし、暴力とセックスといったグリーナウェイ映画のエッセンスも当然そこに入ってくるわけで、随分とコッテリとした後味になってしまう。
元来、グリーナウェイの映画はこの過剰で作為的な演出、悪意とも取れる汚辱にまみれたシーンをまざまざと見せつける所に破壊力があるのだが、ここまでしてもやはり過去の傑作「コックと泥棒、その妻と愛人」(1989英仏)や「ZOO」(1985英)の衝撃度は超えることは出来ていない。要するに、乱用による感覚麻痺を起こすからで、どんなに過激な映像が並べられても余りインパクトが無いのである。一言で言えば、映画全体を考えた効果的な演出配分、バランスの問題だろう。