単純に笑える映画としてお勧めできる。
上野樹里のキャラを上手く使い切れてないのは、これが「男の子の映画」だからだと思う。
俺も昔を思い出してしまった‥(^_^;
「サマータイムマシン・ブルース」(2005日)
ジャンルコメディ・ジャンルSF
(あらすじ) 真夏のとある大学のSF研究会。グラウンドで野球をした部員達は汗を流しにいつもの銭湯へ向かった。その帰り、部員の一人甲本は皆と別れて映画館へ立ち寄る。実は、写真部員柴田のことが好きで、彼女を映画に誘おうとチケットを求めに来たのだ。甲本が部室に戻るとクーラーのリモコンが壊れたらしく、皆イラ立っていた。そこに奇妙なマシンに乗った一人の青年が現れる。なんと彼は未来からやって来たと言う。
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映画生活

(レビュー) クーラーのリモコンを直すためにタイムマシンに乗って過去と未来を行き来する珍騒動を、スラップスティックな笑いで描いた青春コメディ。
展開上突込みどころが多々目に付くが、そこはそれ。馬鹿馬鹿しく青臭い青春ドラマとして捉えれば、単純にノリだけで見れてしまう。
SF研究会とはいっても、部員達は何か特別にSFに関する研究をするわけでもなく、おもちゃに囲まれた狭い部室で無為な日々を過ごしている。そんな上っ面だけのヲタク少年等が突如手に入れたタイムマシンに乗って時代を軽々と飛び越えてしまうのだから、なんとも痛快なファンタジーだ。さしずめ説教臭いオヤジがこの状況を見れば、「時は戻らない、だから今を大切に生きろ‥」なんてことを上から目線で抜かすのだろうが、彼等にとって「時は戻らない」どころか「時はおもちゃのようにこねくり回して遊ぶもの」なんて感覚である。
ただ、一つ疑念を抱くのは、ラストの甲本が他の部員達を見る客観的な眼差しについてである。達観したように距離を置くのはどうだろう?そこに混ざっておどけてみせるとまではいかないにしろ、彼なりの”純”な部分を押さえつつほんのかすかな成長に留めておいた方が良かったのではないだろうか。
ところで、タイムトラベル物はどうしても辻褄合わせの段階になってくると興ざめしてしまうものである。それは得てしてご都合主義に陥ってしまうからであるが、この映画はその粗をドラマの”余韻”に上手く転嫁して切り抜けているように思えた。甲本と柴田の関係を先送りにしたのは粋な配慮だ。何から何まで答えを出そうとすると興ざめしてしまう。ならば、こういう締めくくり方も悪くはないのではないか。そんな風に思えた。
ここんとこベルイマン尽くしだが、正直見てると段々鬱になる。だが、そこがイイ!
大切な”何か”を得ることができる。それがベルイマンの映画だと思う。
「叫びとささやき」(1972スウェーデン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 19世紀、スウェーデンの田園風景に建つ大邸宅。病床に伏すアングネスの元に、姉カーリンと妹マリーアが見舞いにやって来た。彼女等はそれぞれに不幸な結婚生活を送っている。マリーアは年配医師との不倫で夫を自殺未遂へ追い込んだことがある。カーリンは夫の愛なき性交に疲れ果て自傷行為に走ったことがある。姉妹の中で唯一独身なのがアングネスだった。しかし、彼女にも私生活のパートナーはいた。それが召使のアンナである。彼女だけを心の支えとするアングネス。翌朝、彼女は突然の発作に襲われる。
映画生活

(レビュー) I・ベルイマン監督によるシリアスな女性ドラマ。
三姉妹の姿は正にベルイマンの描き続けるテーマ「孤独」を体現するものである。見ていて非常に辛いものがあるのだが、目を背けることを許さない緊迫感がこの映画にはある。
この映画における「孤独」は次の三組の関係によって提示されている。カーリンと夫、マリーアと夫、つまり夫婦関係。アングネスと母親の親子関係。そして、カーリンとマリーアという姉妹関係だ。近しい者同士分かり合わなければならない関係にありながら、彼等は常に反発しあう。孤独であるがゆえに彼等は不完全なのか?それとも不完全な人間だから孤独なのか?まるで哲学問答のようになってしまうが、問題はその答えよりも、人間とは本来そういう生き物なのだという「現実」にある。人間はエゴを持っている以上真の意味で他人と分かり合えることなど出来ない、という「現実」。徹底したネガティヴ・シンキングだが、本作はその「現実」を説いている。
三姉妹の苦悩と葛藤は、時に鬼気迫るような演技によって吐露されている。例えば、アングネスの闘病シーン、カーリンの自傷行為のシーン等は、ホラー映画さながらの形相でかなりショッキングだった。
ベルイマン映画の後期の一つの特徴としてクローズアップの多用が挙げられるが、本作にもそれは強く感じる。否応なく演技への注視が強制されるので、映画自体の迫力は増すことになる。鑑賞後の疲労感は残るが、同時に何とも言えぬ充足感も得られる。
ただ、この陰惨な物語には唯一の光明も用意されていて、俺はそこに大変安らぎを覚えた。それは召使アンナの存在である。彼女はアングネスにとって言わば母親のような存在で、彼女が放つ母性は生き地獄と化したムードに清涼剤のような安らぎをもたらしてくれる。その存在には感動せずにいられなかった。
全編を通して鬱屈したムードのドラマであるが、ここにベルイマンの人間というものに対するかすかな希望が感じられる。彼女の存在がこのドラマを救ってくれているような気がした。
「野いちご」(1957スウェーデン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 老医師イーサクは名誉博士号を授賞することになり、息子の嫁マリアンヌと一緒に会場へ車を走らせた。途中で、少年時代を過ごした邸宅を訪ねる。在りし日の情景に思いをめぐらすイーサク。それは初恋の人サーラに失恋するという苦い思い出だった。そこでヒッチハイクをする3人の若者達と出会う。偶然にもその中の一人はサーラという名の少女だった。こうして3人を乗せて一路会場へと向かった。すると、今度は途中であやうく追突事故を起こしそうになる。相手の車は横転。仕方なく乗っていた中年夫婦を同乗さてやせる。しかし、中年夫婦は人目もはばからず口喧嘩ばかり。夫と喧嘩したばかりのマリアンヌにはそれが耐えられなかった。中年夫婦を降ろして一向は再び会場へと向かう。
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(レビュー) 老人の邂逅を幻想と現実を交えて描いた作品。
監督・脚本はI・ベルイマン。彼はよく人間の「孤独」をモチーフに映画を撮っているが、本作は正にその一点を突いたような作品である。
物語はイーサクにとっての現実と幻想のカットバックで構成されている。二つの世界の取り持つのが同じ名前を持つサーラという二人の少女だ。彼女等によってこの世の朧(おぼろ)、つまりイーサクの孤独が表現される。一種異様な奇妙な世界観だが、サーラというキーマンを利用しながら巧みに作り上げられているため余り不自然さは感じなかった。
この映画の妙味は「死」の描き方にあると思う。
シュルレアリスム的な序盤の悪夢に象徴されるように「死」=「恐怖」という捉え方に始まり、物語の後半に入ってくると「死」=「安堵」に推移していく。極めてロマンチズムな方向転換だが、「死」に対するイーサクのこの心理推移は作品そのものを普遍的高みへと押し上げているような気がする。「死」は恐れるべきものではない。残された「生」を幸福に生きるために必要なものなのだ‥というポジティヴ思考に変わっていくのだ。これは人生を生きるうえで、大切な考え方と言えるのではないだろうか。
人は死を前にして誰しも人生に多少の後悔を残すものであろう。イーサクは他者との関係性に心残りがあった。初恋の相手、息子、義娘、家政婦等々。彼等に対して余りにも冷淡だったと‥。映画のラストで彼は過去を省みて、目の前に迫る「死」に向かいきっとこう考えたのではないだろうか。
余命がどれほど残されているか分からないが、もし取り戻すことが出来るのなら、思い出にあったあの美しい田園風景のように、そんな温もりに満ちた人生を歩みたい‥と。
「死」を認め「生」を実感する。これこそが生きる原動力なのではないだろうか。残念ながら多くの人はイーサクのように老いてようやくそれに気付くものだが、常にこうした未来を生きる原動力は持っていたいものである。
人生に絶望と孤独を感じている人には強く勧めたい作品である。
I・ベルイマンのコメディは今回初めて見た。
やはり巨匠と呼ばれるだけあって作りが丁寧だ。
「夏の夜は三たび微笑む」(1955スウェーデン)
ジャンルコメディ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 20世紀初頭のスウェーデン。弁護士フレードリックは若い娘アンと結婚している。年が離れすぎていることもあり二人は未だに初夜を迎えていない。不満を募らせるアンに義息子ヘンリックが密かな想いを寄せた。一方のフレードリックは、アンを放ったらかしにして人気舞台女優デジレとの情事に熱を上げていた。相手のデジレには別にマルコム伯爵というパトロンがいる。二人はデジレの部屋でかち合い一触即発の事態に発展するが、彼女の仲裁でどうにかその場は収まった。しかし、問題は翌日に持ち越される。デジレの母がフレードリック家とマルコム家を晩餐会に招待したのだ。
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(レビュー) 実は、これまでベルイマンの作品は重厚でシリアスなものしか見たことが無かった。本作は氏にしては珍しい喜劇である。テンポの良い話運び、手際の良いキャラ立てなど、レベルの高さは相変わらずで、さすがは巨匠の撮った喜劇である。
また、物語の底辺には人間の嫉妬や虚栄といった陰の部分がしっかりと描きこまれていて、この辺りもいかにもベルイマンらしく見応えがあった。決して正面切って描いているわけではないが、上手く”笑い”のオブラートに包み込んでいるあたりが心憎い。
この映画で見事なのは結末だと思う。人間の嫌らしい悪心をシニカルな笑いへと昇華していくあたりが実に見事である。不謹慎ながら爽快感すらおぼえてしまった。
尚、ここで女中ベトラを持ってくるのは上手い。考えてみれば、ドロドロとした愛憎劇にあって、彼女にまつわる恋愛だけが朴訥とした温もりに満ちたものである。喜劇として落とすなら、やはり彼女を持ってくるしかなかろう。微笑ましいエンディングだった。
ちなみに、コメディとは言っても決して大笑いできるようなタイプの作品ではない。どちらかというとクスクス笑うタイプの作品である。
そんな中、一番笑ったのが、デジレの部屋にマルコム伯爵が泥まみれの姿で入ってくるシーンだった。
この前にフレードリックが水溜りに尻餅をつくシーンがある。つまり、伏線とオチが見事な合致を見せ笑えてしまうのだ。このあたりの計算されつくされた演出には感心させられる。
そして、このシーンはマルコム伯爵のキャラクターを紹介する上でも実に手際の良い演出に思えた。言わば、彼はフレードリックの恋敵=悪役なわけだが、この滑稽な姿から「あぁ、この男もドジで憎めない一面を持っているんだなぁ」と一発で思わせてしまう。単に悪役といっても妙に親近感が涌いてくる。これぞ人物造形の妙味だろう。
気楽に見れるラブコメというのもたまにはいいものである。
「ラブ・ファクトリー」(2002英仏)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 子供を持ちたくても持てない二組の夫婦がいた。キッチン工事をしているニールは無精子症。妻ジェニーと相談して養子を貰うことにする。人気サッカー選手アンドレアは子供を持ちたいと願うが、妻スティビーは体型が崩れるという理由で妊娠を拒んでいた。そんなある日、スティービーの家にニールがキッチン工事にやって来る。二人は互いに惹かれあっていくのだが‥。
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(レビュー) ニールとスティービーは夫々に今の夫婦生活に不満を抱いている。ニールは自分のせいで子供が出来ない負い目を感じ、妻ジェニーの尻に敷かれている。スティービーは体力バカの伊達男アンドレアの浮気に悩まされている。二人の視点にブレが無いのでこの不倫関係はごく自然なものとして受け止めることが出来た。但し、ニールが余りにも良い人過ぎるという難点はあるが‥。
不倫には様々なトラブルがついて回る。それによってこのドラマはかき回されていくのだが、基本的にコメディなのでそれほど深刻にはならない。ラストにかけてやや強引な演出が目に付くが、終始肩の力を抜いて見ることが出来るラブコメ然とした作りになっている。
個人的には、サブエピソードであるスープ男のロマンスが面白く見れた。ニールとスティービーと違い、真っ先にベッドインしてしまうスープ男とスープ女はこの映画の中で一番の幸せ者だったような気がする。
う~ん、途中までは良かったんだけど、、、
突込みどころがありすぎて、どうしていいやら。
女性が夢見るメルヘンちっくな世界と割り切って見た‥。
「デイジー」(2006韓国)
ジャンルロマンス
(あらすじ) ヘヨンはアムステルダムで路上画家をしている。彼女の元に名前も知らない男性から毎日デイジーの花が贈られてきた。そんなある日、彼女の前にジュンウという客が現れる。もしかしたらこの人が運命の人では‥と思い、次第に惹かれていくヘヨン。しかし、ジュンウには人に言えぬ秘密を持っていた。その時、路上にけたたましい銃声が鳴り響く。あたり一面は血の海と化し‥。
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(レビュー) 運命的な出会いをした女性を巡って二人の男が対峙する悲恋ドラマ。
初めは凡庸なメロドラマだと思って見ていたのだが、途中でジュンウの職業が判明し俄然サスペンス色が強まってくる。時にリリカルに、時にバイオレントに、ドラマは緊張感を保ちながら展開されていく。
構成も凝っていて、ヘヨン、ジュンウ、パクウィ。3人の視点で現在と過去がカットバックされ中々面白い。おそらく、シンプルに描こうとすれば、それこそ取りとめもないメロドラマになっていただろうが、この映画はそこを面白く見せようと構成を色々と工夫している。
しかし、面白いと思ったのは中盤までで、後半からは再び序盤のような凡庸な恋愛ドラマに堕してしまい退屈した。人物の心中をしつこいくらいのモノローグで語ってしまうのがいただけない。情緒に欠ける。
更には、3人のバックストーリーが浅薄で、この恋愛がどこか浮ついたものに見えてしまう。見た目をお洒落に描くのは結構だが、バックストーリーを含めた人物像をもう少し深く掘り下げて見せて欲しかった。
アクションシーンは格好良く撮られていて感心させられた。T・スコット等のハリウッドアクションの影響も見られるが、垢抜けていてスタイリッシュで爽快。監督が「インファナル・アフェア」シリーズのアンドリュー・ラウだったということを後で知り、なるほどと思った。
熱いねぇ~、韓国映画は。
南北問題の裏側が見れて、中々楽しめる娯楽作品となっている。
「JSA」(2000韓国)
ジャンルアクション・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 南北を分断する38度線上の共同警備区域(JSA)で北朝鮮の兵士2名が射殺体で発見される。中立国監督委員会の韓国系スイス人ソフィーが捜査に乗り出す。現場には韓国軍のスヒョク兵長とソンシク、北朝鮮軍のギョンビル士官の3名がいた。しかし、皆口を閉ざし捜査は一向に進まない。そんな中、スヒョク兵長は事件の発端となる”偶然の出会い”に思いを巡らす。
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(レビュー) 韓国映画では南北問題を取り上げた作品が多い。デリケートな問題だと思うのだが、正面きって描くあたりがいかにも韓国映画の凄いところだ。どこかで映画=娯楽という割り切りがあるのだろう。もちろん、そこで描かれるメッセージは反戦、友愛といったポジティヴなものである。
第三者的な立場で仲裁役に回る中立国スイスがこの一件に何の効用も果たしていない所に、どこぞの傲慢な超大国に対する批判が見られて面白い。政治的な落し所は、戦場の兵士達に関係なく勝手に決められてしまうものである。そして、犠牲に晒されるのは常に現場で戦う兵士達ばかりだ。無能な政治に対する告発が感じられる。
と同時に、ラストでは友情の普遍性を一枚の写真に集約することで、かすかなロマンチズムも匂わせている。この演出は中々巧妙で感心させられた。
娯楽映画として見た場合、単に政治的メッセージを放り投げて終わるのでは失敗なわけで、やはりそこには感情移入できるようなドラマ性を織り込みたい。このラストはノスタルジックな感傷に浸れるようにきちんとした演出がはかられている。政治的メッセージと友愛ドラマ、この二つが上手く噛み合った好例と言えるだろう。
監督はこれがデビュー作となるパク・チャヌク。後の復讐三部作(「復讐者に憐れみを」「オールド・ボーイ」「親切なクムジャさん」)で見られるようなコミックブックスタイルな演出が本作では余り見ることが出来ない。そういう意味では、彼の作家性はまだまだ開眼していないといった印象だ。
ただ、所々にいかにもチャヌクらしいブラックユーモアが見られる。氏の作品の生命線は正にこのブラックユーモアに尽きると思うのだが、例えばスヒョクとギョンビルの出会いのシーン。小便と地雷の組み合わせは戦争を痛烈に皮肉っていて面白い。ここはギョンビル役ソン・ガンホのユーモラスな演技も奏功し面白く見ることができた。
ちょっと古臭いかもしれないが良い作品である。
人情モノが好きな人には堪らないハズ。
「夫婦善哉」(1955日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンロマンス
(あらすじ) 安化粧問屋の長男・柳吉は、妻子がいながら売れっ子芸者・蝶子と駆け落ちして父から勘当される。二人は蝶子の両親が経営する天ぷら屋の近くに部屋を借りた。ところが、元来怠け者である柳吉は家の財産を宛てにして毎日遊んでばかり。蝶子が身を粉にして稼いだ金を全部飲み代に使ってしまう。さすがの蝶子も頭に来て柳吉を追い出した。しかし、愛する者同士、そう安々と離れられなかった。ある日、田舎に里帰りしていた妻が死んだという知らせが入ってくる。柳吉は、今更未練はなかったが流石に落ち込んだ。それを蝶子は優しくなだめた。その後、父がとうとう跡取として養子を迎えたという噂を耳にする。焦った柳吉は父の手前、一芝居打とうと考える。しかし、それも無に帰してしまうと、柳吉は改心し蝶子と一緒に小さな小料理屋を持とうとする。
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(レビュー) 甲斐性なしの男とそれを支える女。正式な夫婦ではない二人が強い絆で結ばれていく様を、ユーモアとペーソスで綴った傑作である。
柳吉を演じるのは森繁久彌。蝶子を演じるのは淡島千景。それぞれに好演だと思う。怒ったり、すねたり、笑ったり、とぼけたり、じゃれあったり、まるで何年も前から夫婦だったような自然なやり取りが、見ていて実に心地よい。
特に、森繁久彌の演技は絶妙である。
貧乏に喘ぐ庶民の姿を描く常套句として”貧しくとも美しく”という古典的なシノプスがある。これを演じるのは簡単なようで案外難しい。力が入りすぎてしまうと陳腐に見えてしまうし、逆にメソッドに溺れると感情移入がしずらくなってしまう。バランスの取り方が難しい。森繁久彌は肩の力を抜いた演技で、絶妙な按配で庶民の佇まいを表現している。陰鬱になりがちな場面を、飄々とした表情ですくい上げるのだ。
テーマは夫婦の愛憎である。かなりド直球に描かれており、クライマックスから終盤にかけてはホロリとさせられた。
ただ、個人的にはこの夫婦関係とは別に、もう一つ興味深く見れる人間関係があった。それは親子関係である。
この映画には3つの親子関係が出てくる。一つは柳吉と父親、2つ目は蝶子と両親、そして3つ目は柳吉と娘の関係である。面白いのは一番目と三番目の関係で、この二つは柳吉を中心に相関する。
柳吉は父の元で暮らす娘を呼び寄せたいのだが、肝心の娘はどっちつかずで柳吉の家と実家を行ったり来たりしている。痺れを切らした柳吉が一緒に暮らそうと切り出すが、娘はそれをあっけらかんと袖に振るのだ。これは因果応報、当たり前だろうと思った。何故なら、親のすねをかじるだけかじり、挙句の果てに勘当された柳吉に父親としての資格などあろうはずがないからだ。娘の薄情さは柳吉にしてみれば実に気の毒な話であるが、それは彼自身が過去に父親に対してやって来たことと同じなのである。歴史は繰り返される‥ではないけれど、ここに親子関係の脆さが見れて興味深かった。
このように、本作は夫婦関係はもちろんのこと、親子関係に注目しながら見ていくと、また一段と味わい深くなる作品だと思う。
「大酔侠」(1966香港)
ジャンルアクション
(あらすじ) 総督府の長官が山賊に誘拐された。入獄中の首領の釈放を要求された政府は、長官の妹で男装の麗人”金のツバメ”を交渉人として派遣する。山賊達はいっせいに彼女に襲い掛かるが、あっという間に返り討ちにされた。その夜、彼女は危うく山賊の罠にかかりそうになる。そこを酔っ払いの”酔侠”に助けられた。金のツバメは彼の協力を得て兄を救出すべく山賊のアジトへ乗り込む。
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(レビュー) いわゆるブルースリーが世界的なカンフー・ブームを巻き起こす以前の作品であり、ワイヤーやCG技術が無い中で、いかに迫力あるアクションシーンを撮れるか?そのことを追求した作品だと思う。現在の派手なアクション映画に見慣れている者からすれば、素朴で物足りなく感じる部分もあるが見劣りするというほどではない。
何より一番感心したのは、静と動のコントラストで緊張感を高めていく演出で、このあたりは日本の時代劇における”溜め”の演出に通じるものがある。
物語はいたってシンプル。奇をてらう展開は無い。見せ場となるアクションを中心に据えながら、かすかにロマンスが仕込まれている。
尚、本作は「グリーン・デスティニー」(2000米中国)に影響を与えた作品ということでも知られている。実際に「グリーン・デスティニー」の中に、オマージュを捧げたと思しき個所が幾つか見られる。そういう意味から言うと、本作を武侠映画におけるマスターピースと捉えるのも頷ける話だ。
あのトミー・L・ジョーンズの初監督作品ということでかなり興味深く見れた。
シリアスなテーマだが、ブラック・ユーモアもある不思議な作品だった。
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」 (2005米仏)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) テキサス州メキシコとの国境沿い。射殺体で発見された親友メルキアデスのために、ピートは犯人探しをしていた。一方、国境警備隊員マイクは新妻と愛の無い生活を送っていた。ある日、彼は警備中に何者かに銃で狙われる。それが悲惨な事件を引き起こし‥。
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(レビュー) 親友の死を弔うために旅をする男達を広大なロケーションの中に綴った人間ドラマ。
監督・主演はトミー・L・ジョーンズ。最近ではすっかり某CMのイメージが強くなってしまったが、元々この人は顔からして渋いし、シリアスな演技をさせたら中々様になる俳優さんである。
脚本はイニャリトゥ作品で知られるG・アリアガ。時制を交錯させたドラマ構成はこのライターの特徴と言える。とはいえ、今回は数奇な運命論をテーマにした過去の作品に比べると、時世の交錯もそれほど頻繁に出てこないし割と素直な作りになっている。
前半は、ピートの犯人探しとマイクの事件が意外な形で結ばれていくドラマで展開されていく。そして、それを受け継いで、後半からこの二人のロードムービーが始まっていく。この後半は実に思慮に富んだ話で面白く見ることができた。
この旅は贖罪がテーマだと思う。盲目の老人、毒蛇と薬草女といった特異なキャラクターが出てきて、罪とは何か?罰とは何か?という贖罪の問題を投げかけてくる。その答えは旅のラストで重々しく描かれているが、ここで読むよりもぜひその目で見て確かめて欲しい。贖罪の意味を問うこのテーマは、死生観という更に大きな問題にまで深く言及されていく。見終わった後には色々と考えさせられた。
ちなみに、メキシコというと、犯罪者が逃げ込む場所、麻薬密売の王国、UFOの本場(笑)といったイメージがあるが、実際に映画の中でもこれらのイメージは登場してくる。そこからメキシコという土地は”非日常の世界”の暗喩と捉えられる。更にこの観点を突き詰めていけば、我々が存在する”生の世界”と対極に位置する”死の世界”という風にも考えられるだろう。その証拠に、旅の目的であるメルキアデスの”埋葬”は正に”死”の象徴のように思う。このドラマからは死生観という哲学的なテーマが読み取れた。
キャストではジョーンズの好演が光るが、マイク役を演じたB・ペッパーの熱演も印象に残った。