父子の愛憎をドラマチックに綴った作品。
ストーリーの凡庸さとは裏腹に、そのスケール感から中々見応えがあった。
「胡同(フートン)のひまわり」(2005中国)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1976年、小学生の向陽は母と二人で暮らしていた。文化大革命で強制労働を強いられていた父が数年ぶりに帰ってくる。ぎこちないながらもコミュニケーションを図る父子。しかし、厳格な父は向陽に一切の自由を許さず、自ら進んだ画家の道を強要するようになる。そのため向陽は父に反発を強めていった。大地震、毛沢東の死、自由化の波‥。時は流れ、美術生になった向陽は初めての恋をする。ところが、絵の勉強の邪魔になると、父が二人の関係を引き裂き‥。
DMM.comでレンタルするgoo映画映画生活

(レビュー) 共に画家の道を歩んだ父子の葛藤を中国近代史の中に描いた感動作品。
自分の夢をスパルタ教育で向陽に託す父。幼い頃から一切の自由を許されなかった向陽は20数年間、父への憎しみを増幅させていく。果たして、2人に分かり合える日がやって来るのか‥というのがこの映画のクライマックスとなる。
至極オーソドックス且つ一本調子なストーリーだが、父子の葛藤の歴史は、文革、開放政策、共産主義の崩壊といった中国激動の歴史と符合し、大河ドラマのような見応えがあった。
「符号」と書いたが、この父子には新旧世代の隔絶、社会変遷のメタファーがきちんと込められている。
父=切り捨てられる地方=旧体制
子=近代化する都市=新体制
といった具合にだ。
この父子関係は中国の歴史を探る上でも興味深く見れる構造になっている。
そして、この構造から見えてくるものは人間の成長、国家としての成長というテーマだ。
思想、主義をがなり立てているだけでは国も人も進歩しない。相手を理解し享受する度量を持って初めて成熟した人間、社会になるのではないだろうか。このドラマからそんなメッセージが読み取れた。
尚、剛直なドラマの中にあって、父と隣に住む因縁の間柄、劉さんとのコミュニケーションは中々味があってしみじみとさせられた。シンプルで濃い味系の料理ばかりを食べると、時には口直しに違った味を楽しみたくなる。父と劉さんのエピソードが正にそれであり、隠し味のような役割を果たしている。
リアリズムとファンタジーの究極の合体!
「殯(もがり)の森」(2007日仏)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 奈良県山間部の老人ホームに新しい介護福祉士真千子がやって来た。幼い息子を亡くして失意のどん底にいた彼女は、新しい環境に中々なじめないでいた。そんな彼女を見つめる一人の老人がいた。軽度の認知症を患った老人しげきである。彼は33年前に亡くした妻を今でも想い続けていた。真千子に亡き妻を重ねるしげき。2人は次第に交友を重ねていく。
DMM.comでレンタルする映画生活

(レビュー) 愛する者を亡くした者同士の交流を描いたシリアスな人間ドラマ。
監督・脚本は今作でカンヌ映画祭グランプリ授賞という快挙を成し遂げた河瀬直美。死生観という普遍的なテーマをシンプル且つ正面から描いたところが評価されたのだろう。
尚、河瀬作品はデビュー作の「萌の朱雀 」(1997日)しか見たことがない。
なので、彼女の作家性を完全に把握しきれていないのだが、少なくともドキュメンタリズムに拠った演出は「萌の朱雀」から一貫されていると思った。そして美しい自然背景と素人俳優の起用。これも共通している。徹底したリアリズムが見る者を映画の世界に引き込んで離さない。そんな魅力がある。
ただし、「萌の朱雀」と違って、今回は後半で少し違うテイストを見せていく。リアリティーを追求するドキュメンタリー・タッチは崩さないのだが、そこにファンタジーの要素が入ってくるのだ。
森の中に迷い込んだ真千子としげきのサバイバルは、日常生活からの完全な乖離を意味し、そこで営まれる大自然との格闘は人間の生命力を声高らかに謳い上げるようになっていく。人間の存在意義という壮大な、それでいて日常生活では絶対に味わえないような”大切なもの”を描いているのだ。そこにはスピリチュアルな風情も入ってくる。
本来、寓話というものは、メタファーとして受け止められるべきものだが、この映画の場合リアリズムを追求した作りになっているため少し面白いテイストになっている。
その面白さを支えた最大の貢献者はしげき役を演じたうだしげきにあろう。
そもそも、素人が演技をすること事態、リアリズムとファンタジーの同居という気がする。物語の登場人物に息を吹き込むために”演技”をするのが役者の使命だとすると、素人である彼はそこに”存在する”だけすでに登場人物に見えてくる。作られたものではない自然な演技は、正にリアリズムとファンタジーの中間という感じがする。本作に不思議な味わいをもたらしているとしら、それは彼の存在によるところが大きい。
例えば、畑の中を真千子と戯れる表情。年を重ねることで人は赤ん坊に戻ると言うが、正にしげきの笑顔は無邪気な子供のそれに見えてくる。こういう顔は作ろうとしても中々出来ない。逆に作ってしまうと不自然に見えてしまう。当然、ナチュラルな演技を引き出した河瀬監督の手腕も評価されてしかるべきだろう。
その一方で、真千子を演じた尾野真千子に対しては時に剛直な演出を要求している。これも堂に入っていた。特に、豪雨の中にほとばしる激情、体当たりの肉体演技を披露する焚き火のシーン。これらの迫力には圧倒された。
地味ながら、何とも言えぬ余韻に浸らせてくれる。
タイトルがエロいが内容も少しエロい。
「ヴァイブレータ」(2003日)
ジャンルロマンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 女性ルポライター早川玲は平凡な日常生活に鬱屈していた。ある日、コンビニで出会った長距離トラックの運転手岡部に惹かれ、そのままトラックの車中でセックスをしてしまう。その時、頭の中でざわめくもう一人の自分の声が消えた感じがした。初めての平穏、初めての至福を感じる玲。彼女は岡部のトラックに便乗して東京から新潟への旅に同行する。
DMM.comでレンタルするgoo映画映画生活

(レビュー) 岡部が余りにも格好良すぎる‥という点で、あからさまに女性視点のファンタジー映画という感じがするが、玲の心理変化は男である俺にも十分理解できた。現代社会における病巣的側面を彼女の中に見る事ことが出来るからである。
玲は対人関係を上手く築けないタイプの人間で、ストレスが積み重なり精神的に病んでいる。現代社会で彼女と似たような悩みを持つ人間は多いのではないだろうか。彼女の癒しの旅を描くこの映画は近隣のものとして受け止める事が出来た。
本作は基本的にロードムービー形式で進行する。ただ、ロードムービーとはいっても、ほとんどがトラックの車中のシーンで構成されており密室劇に近い作りになっている所が面白い。時に軽妙な会話で、時に緊張感漂うベッドシーンで、玲と岡部のバックストーリーが徐々に明らかにされていく。劇的な事件が起きるわけではない。ただ、男女の触れ合い、語らいが延々と綴られていくだけなのだが、そこが”未知の世界を垣間見る”という感覚で面白く見れた。
岡部は一言で言ってしまえばヤクザな男である。この仕事に就くまでにはそれなりに荒んだ青春を送ってきた。それが平凡な人生を歩んできた玲の目には新鮮なもの、刺激的なものに写る。玲というフィルターを通して、岡部を魅力的な人間に見せているところがこの映画の肝だ。
不良に惹かれるというと少し陳腐に思えるかもしれないが、まさにそんな感じである。そして、岡部の魅力はそれだけではない。傷ついた者を抱擁する優しさも併せ持っている。この部分が、最初に述べたように少し都合良過ぎるという見方に繋がってしまうのだが、しかしキャラクターとしては大変魅力的である。
岡部役は大森南萌。粗野な役をやらせてもどこか優しさを滲ませるところが、いかにも彼らしい。普通だったらわざとらしくなる所を、この人は自然に見せてしまう。
食堂からのシークエンスは、ドラマを集約するという意味で大変見応えがあった。緊張感を漂わせたロングテイクが、その後に訪れる開放感を上手く演出している。一日の終わり、旅の終わりが感動的に締めくくられている。
カメラも良い。朝焼け、雪景色といった風景描写が、車中の閉塞感を少しだけやわらげてくれて◎。
また、バックにかかる音楽も心地良く映画の世界にドップリと浸らせてくれた。
「ラン・ローラ・ラン」や「パフューム」を撮ったT・ティクバ監督。これは彼の幻の長編デビュー作品である。すでに彼の才気が伺える。
「マリアの受難」(1993独)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 暴君な夫の相手と半身不随の父の介護に追われる主婦マリアは疲弊しきっていた。窓から見える向かいのアパートには実直そうな青年が住んでいる。ある時、2人は視線を交わし接近する。青年との交流に暫しの解放感を得るマリアだったが、”母親”の話が出ると突然怯え始めた。母に関する過去。それが次第に顕になってくる。それは幼い頃に叔母から貰ったお守りの人形に関係していた。マリアはどこにいようと、まるでその人形と一心同体のように心身が繋がっていたのだ。
DMM.comでレンタルするgoo映画映画生活

(レビュー) 日本では「ラン・ローラ・ラン」(1998独)でデビューしたT・ティクバ監督。本作はその前に撮られた作品であり、彼の実質的な長編デビュー作品である。長らく未公開だったが「パフューム ある人殺しの物語」(2006独仏スペイン)の公開に合わせて初公開された。
スタイリッシュな映像演出が特徴のティクバであるが、本作でもその資質は所々に見ることが出来る。
時計の秒針や昆虫のクローズアップ、斜めのアングル、強烈な照明効果等、神経症的なカッティングの連続がマリアの混乱した心理状態を表現している。また、効果音の使い方も巧みで、マリアの脳内でざわめく雑踏の声、心臓音、ドアを叩く音、やかんが沸く音等、鬱屈した感情が爆発寸前にあることを表現している。作りすぎ、凝りすぎな感はするものの、デビュー作にしてこの卓越したセンスには驚かされる。何より平凡な日常をここまでサスペンスタッチに、時にはホラー映画顔負けのタッチで描いた所に並々ならぬ才能を感じた。
ただ、ストーリー自体は硬直的過ぎるきらいがあり余り感心できる物ではなかった。過去の回想が長すぎるため、展開の流れを寸断しているのが惜しい。見ていて「早く次に‥」という欲求が先に立ってしまった。
俺がこの映画で面白いと思ったのは人形の存在である。
この人形はその外形からしてあからさまに男性器を髣髴とさせる。彼女はこれを心の支えとしているが、抑圧的な家庭からの解放、つまり社会的な意味での独立を考えた場合、それを手放すことは必然的なものになっていく。言わば、この人形は彼女のトラウマを表すものだと思う。夫、父親の象徴であるところの男性器、つまりこの人形を捨て去ることで、彼女はトラウマから開放される。そう解釈して良いだろう。
やや難解なラストだが、この人形の意味を踏まえて読み解けば、マリアの再生という所に自ずと繋がっていくように思う。
”女性の独立”というと、ありきたりなテーマに思えるが、こういっった寓話で切り取ったところは中々ユニークである。この非凡なセンスには脱帽である。
これは体感する映画。なんせ字幕なし‥!
「ダンス・オブ・ダスト」(1998イラン)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 砂漠の小村に住む少年イリアは煉瓦を作りながら一人で暮らしている。そこに季節労働者の少女リアムがやって来た。言葉が通じないながらも惹かれあう2人。リアムは自分の手を煉瓦に象りそれをイリアへ贈る。母はそれを見て煉瓦を井戸に投げ捨ててしまった。その直後、突然雷と嵐が吹き荒れる。
DMM.comでレンタルする映画生活

(レビュー) 少年少女の純粋な想いを広大な自然の中に描いたドキュメンタルな作品。
監督はアボルファズル・ジャリリ。「7本のキャンドル」(1994イラン)、「少年と砂漠のカフェ」(2001イラン日本)といった子供目線の映画が多い作家だが、本作でも子供達の姿が生き生きと映し出されている。飴を貰う子供達の笑顔が特に印象的だった。
この映画はジャリリの意向で字幕がついていない。なので、季節労働者のことや民俗的な風習など、我々からしてみれば馴染みの薄い物に関しては、ある程度予備知識を入れておかないと分かりづらい面がある。
俺はリアムがこの村に住む少女かと思ったのだが、実は季節労働者の娘だったということを後になって知った。また、お守り、井戸、煉瓦、といった様々なアイテムの意味も、これといって明示されているわけではない。見る人それぞれが様々に解釈できよう。
ただ、こういった相違はジャリリの狙いとも言える。敢えて字幕を取り払うことで見る側にこの映画を自由に解釈させようという意向ではないだろうか。そうすることによって、作品の寓意性、神格性は高まる。少なくとも俺はこの作品で異文化擬似体験のような面白さが味わえた。
言葉が極端に少なく難解になっている分、基本となるロマンス物語はシンプルだ。それがかえって一つ一つの絵の力強さを際立たせている。人々の顔、風になびく草、ハンカチ等、ありのままの風景を切り取った映像が魅力的である。
特に、イリアの想いを痛切に表現したラストショットは、実にドラマチックでパワフルである。胸に響いてきた。
一つ一つが短いためどうも食い足りない。
活きの良い若手俳優のPVという感じで見れば良いかも。
「DEAD END RUN」(2003日)
ジャンルアクション・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 3人の男が路地裏を走っている。一人は誤って見知らぬ女を殺してしまう。もう一人は拳銃を持った男と対峙する。そして、3人目は自殺志願の少女と出会う。
DMM.comでレンタルするgoo映画映画生活

(レビュー) 3人の逃げる男をドライヴ感溢れる映像で綴ったオムニバス作品。監督は石井聰互。スタイリッシュな映像とシュールな展開、ブラックな笑い。石井監督の真骨頂が感じられる作品だ。
ただ、60分という長さの中篇のためいずれも一発ネタというつくりで物足りない。
伊勢谷友介、永瀬正敏、浅野忠信といった旬の俳優を起用した、ある意味企画モノ的な感覚で見れば丁度いいのかもしれない。
浅野主演の話「FLY」が一番面白かった。前の2作品が雰囲気だけで引っ張る印象だったのに対して、3話目はオチも含めて喜劇的なドラマ性がきちんと含まれている。
にしても、國村隼や田中要次はどう見ても刑事には見えん。吹いた‥w
勧善懲悪、痛快活劇と呼ぶにふさわしい作品。
A・ドロンが楽しそうに演じているのが◎。子供に帰って見るべし?!
「アラン・ドロンのゾロ」(1974伊仏)
ジャンルアクション・ジャンルコメディ
(あらすじ) 剣の達人ディエゴは南米の港町で旧友ミゲルと再会する。ミゲルはニュー・アラゴンの新総督に任命されたばかりだった。しかし、喜びも束の間。現地で圧制を敷くウェルタ大佐が指し向けた刺客によってミゲルは暗殺されてしまう。ディエゴは復讐を誓いミゲルに成りすましてニュー・アラゴンへと向かう。そこで目にしたのは抑圧される民衆の姿だった。ディエゴは黒装束に身をまとい”ゾロ”となって敢然と立ち上がる。
goo映画映画生活

(レビュー) 有名な怪傑ゾロの活躍をアラン・ドロン主演で描いた作品。
少し幼稚すぎる気もするがマンガだと思って見れば楽しめる。後半の捕り物や中盤の牢獄からの救出劇など、「ありえねぇ~」と突っ込みを入れながら童心に戻って楽しめた。
ただ、クライマックスの決闘シーンだけは、子供騙しとは思えぬほどの緊迫感があって見応え十分。音楽を廃し10分にも及ぶチャンバラが巧妙なカメラワークで描かれている。戦いの場となる時計台もスリリングさを演出している。
これは宮崎駿監督の「ルパン三世カリオストロの城」(1979日)のクライマックスシーンでもオマージュとして捧げられているので、見る人が見れば「あぁ、なるほど」と思うはずだ。
アラン・ドロンは裏(二枚目ゾロ)と表(三枚目気弱な総督)の顔をコントラストを効かせながら中々の妙演を見せている。
先日見た「奇跡」に続き同じドライヤーの作品「ガートルード」を見た。
「ガートルード」(1964デンマーク)
(あらすじ) 弁護士の妻ガートルードは、仕事しか頭にない夫カニングに不満を感じていた。離婚を突きつけ、若き音楽家エルランドとの恋に生きようとする。しかし、夫の懇願に負けた彼女は、詩人でかつての恋人リートマンのパーティーに仕方なく同伴出席することになった。一方、リートマンはそんな事情も知らずにガートルードに言い寄ってくる。彼女はそれを袖に振りエルランドの元へ走るのだが、当のエルランドにも事情があり‥。
映画生活

(レビュー) 愛を求め愛に翻弄される女を冷徹に描いた愛憎ドラマ。
監督はC・ドライヤー。実に特異な演出の上にこの作品は成り立っている。抑揚を押し殺したロングテイクが続き、俳優達は視線を交わすことなく会話に没頭する。画面の手前や外を見ながら常に硬直した演技をしているのだ。セリフに感情的な言葉は入っているものの、常に能面的な表情なため奇異に見える。特にガートルードに至っては、一体この女に魂は入っているのか?と疑いたくなってしまうほどの無表情振りだ。
もちろんこれはドライヤーの狙いでもある。ガートルードはリートマン、カニング、そしてエルランドといった男達を次々と愛してきたが、いずれも幸せを得られなかった。その虚無感が能面的な表情となって表れているのだろう。
映画表現の方法として認められるべきものかどうかは意見の分かれるところであるが、非常に特異な作品であることは間違いない。
一方、物語はいたって凡庸な不倫劇に終始する。本当についでに‥という程度のもので、ドラマそのものには余り関心はもてなかった。
どころで、”ガートルード”というと「ハムレット」のデンマーク王妃ガートルードが思い出されるが、このネーミングは単なる偶然ではないだろう。「ハムレット」のガートルードも、ある意味では愛に溺れ悲惨な末路を辿る女だった。共に悲劇を背負ったヒロインであるところが共通していて興味深い。
なんというナンセンス。
見た後に”クー”としてしまった‥。
「不思議惑星キン・ザ・ザ」(1986ソ連)
ジャンルSF・ジャンルコメディ
(あらすじ) 技師のウラジーミルと音楽生のゲデバンは、道端で宇宙人に遭遇する。その宇宙人が持っていた転移装置で、二人はキン・ザ・ザ星雲の惑星プリュクに飛ばされてしまう。そこは辺り一面砂漠の世界だった。戸惑う彼等の前に突然宇宙船が現れて、中から2人の男が出てきて奇妙なポーズを取った。一体何を意味しているのか?訳も分からぬまま彼らと行動を共にすることになるウラジミールとゲデバン。その後、プリュクでは地球のマッチが大変高価なものであることが分かった。彼等は手持ちのマッチで地球に帰るために必要な加速器を買おうとするのだが‥。
映画生活goo映画

(レビュー) 異星に飛ばされた男達の奇妙な冒険を脱力ムード漂うタッチで描いたSFコメディ。
惑星プリュクはかなり高度な文明を持っているが、地上は砂漠と化し人々は地底に住んでいる。貧富の差が拡大し、貧しい人々は原始時代に毛の生えたような生活を送っている。
本作は旧ソ連時代の作品である。ということは、この世界に資本主義社会の末路でも重ね合わせているのだろうか?娯楽然とした作りだが、何気にチクリと刺さってくる風刺設定だ。
異星人の”クー”という挨拶を初め、地球のマッチの価値、人種差別のシンボルである鼻輪の鈴といった、想像を越えるナンセンスギャグが飛び出してくる。初めは嫌々”クー”をやっていたウラジーミルが、最後の方は当たり前のような顔をして”クー”をするのが笑える。
また、広大な砂漠に宇宙船や観覧車、船といったスケールの大きいオブジェが登場するのも画的にかなりシュールだ。特に”生命”を”空気”と表現し、それを風船や気球として描いたところは秀逸である。
異星人は地球人と同じ容姿をしているが、中には少しフリーキーな者もいたりしてこれも刺激的だった。
突拍子も無い映像が次々と出てくるので少し取っ付きにくい部分もあるが、一度見たら忘れられない、そんな魅力を持った作品である。
堕胎を題材にした重苦しい映画だが、サスペンスとして面白く見れる。
終始ハラハラドキドキさせられた。
「4ヶ月、3週と2日」(2007ルーマニア)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 1987年、独裁政権下のルーマニア。この国では堕胎は重罪である。大学生のオティリアはルームメイトのガビツァの堕胎に協力するため朝からその準備に追われていた。闇師へのコンタクト、資金集め、手術を行うホテルの予約等々。その夜は彼氏の家で母親の誕生パーティーがあるというのに、彼女はそれすらも行けなくなりそうだった。途中で幾つか思わぬトラブルに見舞われるが、どうにか全ての準備を整えいざ手術の時を迎える。その時、ガビツァの口から思わぬ言葉が漏れる‥。
DMM.comでレンタルするgoo映画

(レビュー) 親友の堕胎手術に振り回される女性の姿を通して、悲しみや怒りといったものが静かに綴られている。同性が見れば安易な妊娠に嫌悪感を催すかもしれないし、逆に男性が見れば少し自戒してみたくなるような気持ちになるだろう。
この映画では男が罪深き者として描かれている。
堕胎手術をするヤクザな男ベベ、情けないオティリアの彼氏、ガビツァのお腹の子の父親。彼等は女性がいかに傷つきやすく脆い存在であるか少しも理解しようとせず、欲望の捌け口だけに彼女等を利用する。
ガビツァは、その言動から決して頭の良い子ではなく、不用意に妊娠してしまったことそれ自体に責任があるので同情に値しないという気もするが、可哀想なのはその尻拭いに協力させられるオティリアの方である。彼女には何の非も無い。それなのに次々とトラブルに見舞われ女性として最大の羞恥も受ける。そこまでして何故彼女はガビツァを助けようとするのか?オティリアのこの行動力にテーマが見えてくる。
テーマは父権社会に対する強い憤り、ということになろうか。
これは当時の独裁政治の状況に対する批判にも繋がるが、より普遍的な捉え方をするならば、やはり男権社会に対する痛烈なアジテーションということになろう。
ただ、このテーマをそのまま現代の日本に置き換えるのは到底無理な話であるし、恋愛関係の多様化が起きている昨今、そのまま素直に受け入れるのはかなり困難だと思う。男尊女卑の社会が過去にあったことは誰もが認めるところであるし、こういった悲劇が二度とあってはならない‥というような教訓をこの作品から得るられれば良いと思う。
そういった社会派的なテーマとは別にして、オリティアの一日を追うドラマは実に緊張感に満ちていて、本作は純粋にサスペンス映画として観ても十分い面白い。この緊迫感、切迫感は手持ちカメラ主体のドキュメンタリータッチの成せる技であろう。ホテルの部屋で堕胎するシークエンス、ホームパーティーにおける長回しなどは、オティリアの恐怖や苛立ちといった感情がビンビンと伝わってくる。まるで、その現場に自分が居合わせるかのような錯覚に襲われ、画面に釘付けになってしまった。
また、小道具を含めた伏線の絡ませ方もサスペンスを上手く盛り上げている。
ちなみに、最近これと似たような設定でM・リーが監督した「ヴェラ・ドレイク」(2004仏英ニュージーランド)という作品があった。堕胎という題材については、本作の方がより突き詰められている感じがした。それゆえ、非情に重苦しいので見ていてかなり辛い映画でもある。
・4ヶ月、3週と2日@映画生活