ここのところのC・イーストウッドはコンスタントに及第点以上の作品を作っている。老いてますますお盛ん!?
「チェンジリング」(2008米)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1928年、ロサンゼルス郊外に住むシングルマザー、クリスティンは電話会社に勤めながら幼い息子ウォルターと仲むつまじく暮らしていた。ある日、仕事で家を留守にしている最中にウォルターが失踪する。懸命の捜索の末、5ヵ月後にウォルターが見つかった。喜ぶクリスティンだったが、警察に引き合わされた少年はウォルターとは別人だった。警察は彼女の申し立てを聞かずマスコミに事件の解決を発表してしまう。
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(レビュー) 失踪した息子を取り戻すために警察の隠蔽工作に抗う母の愛を感動的に綴った作品。
実話を元にしているということもあって、この映画は母の戦う姿を必要以上にヒロイックに見せていない。サスペンスにしても二転三転するような派手な展開があるわけではなく、逆にストイックな作りに徹している。この作りが奏功して作品全体から感じ取れる印象は深く重みのあるものとなっている。
クリスティンを演じるA・ジョリーの熱演が素晴らしい。
当時のロス市警は賄賂が横行し、市民を守る組織としては完全に腐敗しきっていた。名誉挽回とばかりにウォルター失踪事件の解決を大々的に利用するのだが、肝心のウォルターが別人だったということで、クリスティンの苦難の道が始まる。本物の我が子を探して欲しいと嘆願するが一蹴されてしまう。思うようにならない苛立ち、なぜあの時一人で留守番させたのかという後悔、自分の非力さ、そういったものが彼女の演技から痛々しいほど伝わってきた。
また、監督のC・イーストウッドは彼女の熱演を漏れなくフィルムに焼き付けることに徹しており、奇をてらうことなく極めて実直且つ正攻法な演出で好感が持てる。
物語は前半がサスペンスのようなテイストで作られているが、中盤でおおよその”からくり”が判明してくる。ここからはサスペンスよりも、息子の生存を信じて戦う母性像をプッシュしてテーマを謳いあげていくようになる。健気に、しかし力強く信念を貫き孤軍奮闘する姿にはホロリとさせられた。
また、精神療養施設の娼婦にまつわるサブエピソードも良かった。母親として最愛の息子を奪われたクリスティン、母親になりたくてもなれなかった娼婦。立場は違えど、同じ警察権力に歯向かった者同士、かすかな友情を芽生えさせていく。尺としては短かったが中々味わいあるエピソードだった。
総じて1920年代の世界観の再現にも綻びがなく完成度の高い作品である。
しかし、脚本に関してはいくつか不満が残った。
例えば、クリスティンが施設に入っている間、偽ウォルターの私生活はどうだったのか?この描写が全く無いのは不自然だったし、戻ってきたウォルターが偽物であることは近所の人間や学校の先生に証明させれば一発で解決するのに、それをせず警察に乗り込んでしまうクリスティンの行動に少し首を捻りたくなった。実話であるからこそ、このあたりのディティールには気を配って欲しかった。
予断だが、最近見た
「永遠のこどもたち」(2007スペインメキシコ)もこれとよく似たドラマである。ジャンルこそ違え、インパクトという点では「永遠のこどもたち」の方に軍配を上げたい。
破天荒な和製ウェスタン。何もかもが過剰に作られていて楽しい。
「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」(2007日)
ジャンルアクション・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 壇ノ浦の戦いから数百年後。義経率いる源氏と清盛率いる平家が睨み合いを続ける寒村に一人の凄腕ガンマンがやって来た。源平は村の埋蔵金を狙って対立を深めていたが、犠牲に晒されるのは村人達ばかりだった。その中に混血児の少年がいた。ガンマンは少年に自分の生い立ちを重ねて見る。そして、この戦いを終わらせるべく立ち上がるのだった。
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(レビュー) セリフが全編英語の異色の和製ウェスタン。
監督・脚本は鬼才三池崇史。この監督は大見得をきって冗談みたいな映画を撮るので、出来上がったものは多かれ少なかれ賛否が分かれる。過去に失敗と評された作品もあるが、今回に限って言えば概ね成功しているのではないだろうか。これだけのキャストとバジェットを使って、出来上がったのがマカロニ・ウェスタンのオマージュ。しかも、バカ映画なのだから、三池流の冗談も堂に入っているとしか言いようが無い。
アクの強い人物達が賑々しく騒動を繰り広げているが、最も印象に残ったのは木村佳乃演じる静だった。清盛に夫を殺されレイプされたことで、反対勢力である義経の情婦に落ちぶれていく。妖艶な雰囲気を醸しつつ悲劇のヒロインを体を張って演じた度胸が素晴らしい。泥まみれのレイプ・シーンをカットを切らずに果敢に演じている。編集で切ったのが惜しまれるくらいだ。また、息子の前で見せる”女”から”母親”への豹変も印象的だった。不思議なダンスを踊るシーンはご愛嬌(笑)
他に、クライマックスで独壇場のバイオレンスを見せる桃井かおりも目立っていた。もっとも、彼女の場合は役柄のインパクトという気もするが‥。松重豊との間に見せるかすかな恋慕は泥臭くて良かった。
その他に、特殊メイクで怪演する安藤正信も実に楽しそうに演じていて良い。この辺りには三池崇史の遊び心が多いに感じられる。
ただ、ここまでアクの強いキャラが登場すると、それぞれに役を食いあい並び立たないというデメリットも生じる。その煽りを食らったのが、堺雅人と石橋蓮司だ。実に勿体無い使い方をしている。
物語はメタ映画的な構造を持っていて、特にマカロニウェスタンのオマージュが色濃い。他に時代劇やカンフー映画のパロディ、あるいはキャスティング上の遊びも散見でき、クスクスしながら見れた。ただ、中盤の展開が冗漫なのは否めない。コンパクトに切り詰めればもっとテンポ良く見れただろう。
映像はハイテンション&スタイリッシュで、クライマックスの降雪演出にはさすがに参った。単に”格好いいから”という理由しか思い浮かばないのだが‥。意味がない所がこの映画の魅力だとすれば、このクライマックスシーンは正にそれを顕著に表していると言っていいだろう。
撮影の栗田豊通は世界で活躍する数少ない日本人カメラマンである。スタイリッシュな画作りをするカメラマンであることは知っていたが、下品な三池テイストとどう折り合いを見せていくのか?心配したが両者の感性は上手く噛み合っていると思った。
「プルートで朝食を」(2005アイルランド英)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) アイルランドの片田舎。孤児のパトリックは神父に拾われて、町の中流家庭に養子として預けられた。物心がつく頃、パトリックはテレビに写った女優の美しさに見とれてその真似をする。それ以来、彼は女装癖に快感を覚えていくようになった。高校を出る頃にはすっかり近所でも有名になり、それが原因で義母と喧嘩をして家を飛び出した。そして、本当の母を探しにロンドンに渡った。そこでツアー中のインディーズバンドと出会い、リーダーのビリーと恋に落ちる。ところが、彼はIRAのメンバーと繋がりあり‥。
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(レビュー) 性同一性障害の青年の母親探しの旅を綴った青春ドラマ。
アウトサイダー・パトリックのキャラクターが本作の肝だろう。
彼は神話の聖人”キトゥン”を名乗り女性に変身するのだが、このキトゥンとは人を超越した存在。つまり男でも女でもない聖人である。しかし、いくらキトゥンを名乗って外見を取り繕ってみても、彼の肉体は男のままである。そこにアイデンティティーの混乱、社会から阻害される者としての苦悩が見えてくる。
そして、タイトルにもなっている冥王星=プルートだが、これは彼の世間における立ち位置を表すメタファーになっている。ご存じのとおり冥王星は太陽系の一番外周を回っている星である。惑星か非惑星かの論争が延々と繰り返されてきたが(先ごろ惑星ではないという見解が発表された)、この宙ぶらりんな状態は正にパトリックという人間そのものを示唆するものである。実に皮肉の効いたタイトルである。
性同一性障害というと今では一般的に認知されるようになってきたが、物語の時代にはまだまだ浸透していなかった。パトリックは化け物でも見るかのような冷たい視線に晒される。虐められたり、悲しい目にあったりするが、それでも彼は女性になりたという願望を貫く。そして、その強い意志は自分は何者なのか?という反問を経て、ルーツを探る旅、つまり母親探しの旅へと繋がっていく。
彼は幼いころに母親の愛情を受けられなかった。もしかしたら、その愛情の欠落が今の自分を作り上げてしまったのではないか?という考えに至るようになる。過去のヒビを修復することで自己を確立するドラマは、青春ドラマではお馴染みのレトリックであるが、同時に普遍的且つ強いメッセージ性を持っている。本作もそれがしっかりと語られていて、見る側にも強く響いていくる作品になっている。
映画は最後に自己確立の先に訪れる未来を暗示して終わるが、これが中々清々しく痛快だった。何より前向きなメッセージに満ちていて感動させられた。これもパトリックの人間的な魅力、アウトサイダーとして魅力を引き出した作劇の勝利だろう。見事な作りである。
パトリックを演じるのはC・マーフィ。難しい役どころだが、軽妙な場面もシリアスな場面も器用に演じている。ハリウッドのメジャー大作に出るかと思えば、本作のようなヨーロッパの小品にも出るフットワークの軽い若手俳優で今後も活躍が楽しみな一人である。
演出は、ミュージカルになったり、小鳥の視点を混入したり、ギミックに凝った所もあるが、基本的にはオーソドックスなものを見せてくれる。全36章という短いスパンでエピソードを刻んでいく構成は実験的で面白い試みに思えた。サブタイトルが各エピソードのテーマを明示しているので大変分かりやすい。
政治の問題を扱っているが、肩を張らずに見れる。
「ブルワース」(1998米)
ジャンルコメディ・ジャンル社会派
(あらすじ) 1996年、大統領選挙直前のアメリカ。人気が凋落し政治生命が危ぶまれる上院議員ブルワースは、妻子に見放され精神薄弱に陥っていた。やけっぱちになった彼は、ヤクザを伝って自分の暗殺を依頼する。こうして失うものが無くなった彼は遊説先で過激な発言を連発する。挙句の果てに、選挙ボランティアの若者達と夜通し騒ぎ、その中の一人ニーナに惚れ込んでしまった。皮肉にもこの時彼は初めて死にたくないと思った。そんな彼の背後に暗殺者の影が忍び寄る。
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(レビュー) 破天荒な言動で世間を賑わす政治家ブルワースの活躍を描いた風刺コメディ。
製作・監督・脚本・主演を兼ねたW・ベイティが、八面六臂の活躍を見せている。誰の顔色も伺わず風刺を効かせて作っている姿勢が良い。ここまで出来てしまうのはワンマン映画ならではの強みだろう。
ベイティ演じるブルワースは、民衆のことなどこれぽっちも考えていないダメ政治家である。しかし、死を覚悟し、愛を見つけた時に良心に目覚める。ダメ政治家がヒーローになっていく様をあっけらかんと描いているが、そこに込められたアイロニーは中々鋭い。
例えば、医療保険制度の講演会のシーン。
アメリカは日本のように皆保険制度が無いので、個々に民間の保険会社に加入するしかない。貧しい者は掛け金が払えず補償を受けられないという悲惨な状況にある。ブルワースはそれまで強力なバックアップをしてくれた保険会社の言いなりになってきたが、暗殺されることを覚悟した今や、低所得者層の側に立って保険業界に牙を剥く。しかも、スラム街に住む黒人達の音楽、ラップに乗せて批判をぶちまけるのだ。リズムに乗りきれず全然様になってないのだが、言ってる内容は正論であり、ぎこちないライムでもつい応援したくなってしまう。
ラストは予定調和な感じを受けたが、アメリカン・ニュー・シネマよろしく哀愁を附帯させたところは中々心憎い。いわゆるこれもアンチヒーローの映画と言っていいだろう。W・ベイティと言えば、「俺たちに明日はない」(1967米)が思い出される。あの映画のラストが思い出された。
他のキャストでは、黒人街のギャングのボス、D・チードルが良い演技を見せていた。ブルワースの言動に喚起され、荒廃した街の浄化に傾く彼の葛藤は中々見せる。
一方、H・ベリーがニーナ役を演じているのだが、こちらは演技が一本調子で物足りない。トリッキーな役回りなわりに、その面白みを全然引き出せなかったのが残念である。
ところで、本作のエンドタイトルは音楽の使い方が中々凝っていて面白かった。哀愁漂うE・モリコーネの音楽とラップをシャッフルするというアイディアは今まで見た事が無い演出で斬新である。
通俗的なメロドラマだが、ラストの演出が唸らせる。
「浪花の恋の物語」(1959日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 浪花飛脚問屋の若旦那忠兵衛は、真面目で純情な青年。ある日、友人に連れて行かれた遊郭で梅川という女郎に出会い一目惚れする。彼女は病の母と借金を抱える不幸の身だった。それを知った忠兵衛は、ますます惚れ込み足繁く通った。そんなある日、梅川に身請けの話が持ち上がる。忠兵衛はそうさせじと奔走するが、住む世界が違う者同士。様々な難題が立ちふさがる。
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(レビュー) 若い男女の純愛を哀愁タップリに描いたメロドラマ。
人情ほど当てにならないものはない。世の中は金だ。金は嘘をつかない。
こう書くと夢も希望も無いつまらない人間だと思われるかもしれないが、実際の話、愛があっても飯にはありつけない。拝金主義は嫌いだが、現実を考えるとやはり先立つものは金ということになる。
忠兵衛と梅川が迎える悲劇的な顛末は、そのことをシビアに語っていると思う。メロドラマとしては当然の帰結とも言えるが、しかし無邪気にハッピーエンドにしなかったことはある意味で作り手側の良心だろう。
しかし、正直に言うとこのメロドラマ自体、お世辞にも出来が良いとは言えない。悪人はいかにも悪人らしく、悲劇のヒロインはいかにも悲劇のヒロインらしく描かれていて、俗っぽくて俺にはダメだった。深みが足りない。
ただ、そこに竹本座の作者近松門左衛門の視座が挿入されるのはアイディアとしては秀逸だと思った。彼等のメロドラマを客観的に見つめる近松の視座は、観客の視点として存在しているように思う。
彼の視座が最も効果的な形で表れていたのがラストである。この人形浄瑠璃は、芝居がかった忠兵衛と梅川のメロドラマのメタファーとして格調高く機能しており、この世の無常に対する近松の憤り、諦めにも似た深い悲しみが投影されているように思った。現実と夢のギャップを、芝居という形でさりげなく訴えたこの演出には感嘆させられた。
オリンピア2部作の後編。
「美の祭典」(1938独)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンルスポーツ・ジャンル古典
(あらすじ) 1936年ベルリンオリンピックを映したドキュメンタリー映画。「民族の祭典」と併せてオリンピア2部作を構成する後編。オリンピック村の模様と陸上競技以外の種目を捉えている。
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(レビュー) オリンピア2部作の後編に当たる本作は、陸上以外の競技をメインに構成されている。
自然美の中に選手達の鍛え抜かれた肉体を陶酔的に交配させた冒頭のイメージシーンが印象深い。
前編の「民族の祭典」にも言えることだが、ドキュメンタリーとはいえ、この2部作には所々に”作っている”と思われる箇所が見られる。前編よりも後編の方がそれはより顕著に感じられた。
例えば、水中カメラによる競泳選手のクローズアップやスローモーション撮りの飛込競技等、明らかに本番とは別撮りと思しきシーンが見つかる。タイトルの示す「美の祭典」を追求した演出だと思うが、純粋な意味でのドキュメタリー映画として見ると首をかしげたくなる部分である。ただ、映画=芸術と捉えるならこれはありだろう。
体操が屋外競技だったこと、平泳ぎの種目にバタフライで参加する選手がいたことなどは、今となっては驚きの事実である。そういったあたりの発見を含め、この2部作は興味深く見ることができた。
歴史記録的な意味で価値ある作品。
「民族の祭典」(1938独)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンルスポーツ・ジャンル古典
(あらすじ) 1936年開催のベルリンオリンピックを映したドキュメンタリー映画。「美の祭典」と併せてオリンピア2部作を構成する。前編である本作は主に陸上競技メインで構成されている。
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(レビュー) 各国の代表選手がしのぎを削り激しいデットヒートを繰り広げるトラック競技を、漏れなくドキュメントした歴史的に価値のある1本。
冒頭の聖火リレーのシーンが美しくて印象に残った。また、ドイツ選手がメダルを取った時に見せる観覧席のヒトラーの満足げな笑みは、かの独裁者もこういう顔を見せるのか‥と何だか不思議な感じがした。
ただ、本作はナチスのプロパガンダ映画としての側面を持っていたことでも知られている。このあたりの事情を考えると複雑な気分にさせられた。華々しい舞台とは裏腹に、数年後に世界は戦争に突入していった。平和の祭典とはいえ、当時の人々はどんな思いでこのオリンピックをを見ていたのだろうか?
本来、スポーツと戦争は分けて考えるべきである。しかし、昨今の利権絡みのオリンピックを見てもそうだが、大きくなりすぎた大会に純粋さを求めるのはもはや無理なことなのかもしれない。
尚、三段跳びとマラソンでは日本選手の活躍がかなりフィーチャーされている。同盟国としての配慮だろう。とはいっても、活躍する中には植民領土の朝鮮人の姿がある。ここにも戦争の背景がまざまざと見られる。
抽象的な部分があり、好き嫌いがはっきり分かれそうな映画。
「叫」(2006日)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 東京湾岸地帯で赤い服を着た女性の変死体が発見される。吉岡刑事は死体現場からコートのボタンを見つけた。それは自分のコートと同じものだった。その後、現場に残された指紋が自分のものと一致する。自分には全く身に覚えが無い。では、誰かが罠にはめようとしているのか?同僚の疑いの目が注がれる中、同じ手口を使った第二の殺人が発生する。被害者は高校生男子。犯人はその父親だった。ようやく吉岡の疑いが晴れたが、彼の前に赤い服を着た女の幽霊が現われ‥。
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(レビュー) 女の幽霊に取り付かる刑事の恐怖を描いたサスペンスホラー作品。
監督脚本は黒沢清。この人の作品は一筋縄でいかないことが多い。基本的にホラージャンルを撮る事が多いが、ほぼ確信犯的にコメディ的な演出を持ち込む癖がある。そこが見る人によっては受け付けなかったり、居心地が悪いものに思えたりする。黒沢作品がとっつきにくいと思わせる要因はここにあると思う。純粋なジャンル映画として割り切れないのだ。
しかし、黒沢清の独特とも言えるこの演出癖を知っていれば、またやらかしたか‥といった具合に見れてしまう。もっとも、大抵見終わった後には、頭に「?」マークが浮かんだり、凹むことが多いのだが‥。それでもついつい見てしまうのは、ある意味でM・ナイト・シャマランの作品と同様な奇妙な中毒性があるからなのかもしれない。
尚、本作では伊原剛志の顛末にショックを受けた。まるで冗談としか思えないような演出である。爆笑させてもらった。
物語は前半と後半でかなり違ったテイストを見せる。
前半は同監督作の「ドッペルゲンガー」(2002日)の前半部分(後半はコメディに傾倒していった)を髣髴とさせるドラマで、ジメジメとしたサスペンス色が強い。主演が同じ役所広司であるし、彼が身に覚えのない殺人事件に翻弄されていくのも「ドッペルゲンガー」の主人公と一緒である。
しかし、中盤以降、映画はまるで違った展開を見せていく。どちらかというとSF的なテイストだ。
赤い服の女の幽霊が現れることで、都会の片隅で起こった連続殺人事件は人類にとっての大きな危機、世界の破滅というとてつもない問題にまで飛躍していく。”世界の終末”は、これまでの黒沢清映画にもキーワードとしてたびたび登場してきた。例えば、「回路」(2000日)、「アカルイミライ」(2002日)でも”世界の終末”は明確な形で描かれていた。
本作では、赤い服を着た女の幽霊が世界崩壊をもたらす役回りとなっている。かなり抽象的な描かれ方をしているので今一つピンとこない人も多いだろうが、自分はそう捉えた。女の幽霊に込められたメタファーは、一言で言ってしまえば古き物への哀愁だろう。スピード社会のデベロッパーから取り残された遺物、あるいは移り気な現代人から忘れ去られた廃棄物とも言える。尚、映画の舞台となる埋立地はこれを象徴的に表した場所だと思う。
女の幽霊は自分を見捨てた社会全体に対して激しい怨念を抱いている。どのくらい激しいかというと、全世界を破滅させてやる‥というくらい激しい。
ここまで来ると、前半のサスペンス劇が馬鹿馬鹿しくなってしまう。ただ、逆に言えば、これこそジャンル分け不可能な黒沢映画の真骨頂という感じもした。ある意味で、オンリーワンな作家と言っても良いと思う。
映像は明暗のトーンがかなり奔放に繰り出されているが、個人的には同監督作の「CURE」(1997日)で見せたような人間の視野角の限界に挑むような薄暗いトーンが好きである。今作では吉岡の室内シーンなどでその本領が発揮されている。かなり不気味で怖かった。
カーチェイスは迫力がある。
「RONIN」(1999米)
ジャンルアクション・ジャンルサスペンス
(あらすじ) パリの片隅に元エリート諜報員が集められる。元米軍のサム。フランス人のコーディネーター、ヴァンサン。情報収集のプロ、グレゴー。ドライバーのラリー。武器の専門家スペンス。彼等はある組織の依頼で、政府の要人が所持するスーツケースの奪取を命じられた。ところが、ケースの中身は極秘のため教えられないという。乗り気でなかったサムだが、その予感は的中する。作戦決行中に思わぬ事態が生じる。その影には恐るべき陰謀がはたらいていた。
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(レビュー) タイトルの「RONIN」とは武士の”浪人”のことで、オープニングでその言葉の意味が説明されている。
海外でも日本の武士が興味を持って受け止められていることは過去の作品からもよく分かる。古くはA・ドロン主演の「サムライ」(原題「Le Samourai」1967仏)。本作と同年には、J・ジャームッシュが武士道について説いた「葉隠」をモチーフに「ゴースト・ドッグ」(1999米)という作品を撮っている。近年では「ラスト・サムライ」(2003米)という”サムライ”そのものを描いた作品もあった。
ただ、これらの作品に比べると、正直この映画には”看板に偽りあり”という感じがした。わざわざ、冒頭で前振りしておきながら、”浪人”の意味する所が作品からは伝わってこない。どうも取ってつけたようなタイトルにしか思えなかった。
ただ、この事を抜きにすれば、ストーリー自体は結構楽しめる。二転三転する展開も用意されており、終始こちらの予想を裏切ってくれる。ミスリードの正体が判明した後に、更に次のどんでん返しが用意されて‥といった具合に、興味を逸らさないプロットは見事である。
しかし、どう見ても不要なキャラがいたり、終盤における展開の甘さなど突っ込みどころはある。このあたりの不満が無ければ更に完成度の高い作品になっただろう。
監督は骨太な作風を特徴とするJ・フランケンハイマー。さすがに全盛期の作品に比べると勢いに陰りはあるものの、派手なカーチェイスシーンは見応えがあった。
ニースの狭い小道を爆走するシーンとパリの公道を逆走するシーン。いずれも素晴らしい。スタントマンの腕が魅せるトリック無しのリアルなカーチェイスで、現代では中々お目にかかれなくなった貴重なカースタントだと思う。
やや暴走気味‥。
「モダン・ミリー」(1966米)
ジャンル音楽・ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 玉の輿に乗ろうとニューヨークにやって来た田舎娘ミリー。彼女が住むアパートに、女優志願の娘ドロシーが引っ越してきた。夢を持つ者同士、二人は仲良くなっていく。ある夜、ミリーはダンスパーティーでジミーという放蕩青年に出会う。ジミーはすっかりミリーに夢中になるが、彼女は就職が決まったばかりでそこの社長に夢中だった。ところが、今度はその社長がドロシーに一目惚れしてしまい‥。
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(レビュー) 華やかなファッションと軽快な音楽で綴られるミュージカル・コメディ。
ミリー役のJ・アンドリュースが華麗に変身していくオープニングタイトルにグッと惹き付けられた。以降も、パーティーや観劇、結婚式といった様々なシーンで歌とダンスが披露される。ミュージカルというと唐突に意味不明に歌いだす‥なんてイメージがあるが、本作には余りそういったシーンは見られない。ある程度必然的にミュージカルが登場する。このあたりの作り方はよく考えられていると思った。
一方、物語はかなり楽観的である。気楽に見る分にはこの位が丁度良いのかもしれないが、各キャラクターの恋愛観が余り表に出てこないのがどうも食い足りない。
クライマックスにいたっては、おふざけが過ぎる。ここまでドタバタされると、ちょっと入り込めくなってしまった。
また、サスペンスの肝要を担う中国人の扱いも、見ようによっては余り気持ちの良い物ではない。
尚、本作で一番目立っていたのは何を隠そうJ・アンドリュースではなく、ジミーの叔母マギーだった。神出鬼没でどこにでも現れるパワフルな中年女性で強烈な印象を残す。
また、物語の舞台は1920年代でこれも絶妙な背景だと思う。第一次世界戦争が終結したばかりで、まだ世界恐慌が始まる以前の華やかりし頃で、楽しいミュージカルを描くには格好の時代である。
尚、H・ロイド主演の傑作コメディ「ロイドの要心無用」(1923米)のパロディシーンが出てきてクスリとさせられた。これも華やかしり20年代ハリウッドのオマージュである。
映画にしろ経済にしろ1920年代は活気のあった時代だった‥そんな事が改めて分かる1本だと思う。