ピクサーの映像は相変わらず素晴らしい。
「カールじいさんの空飛ぶ家」(2009米)
ジャンルアニメ・ジャンル人間ドラマ・ジャンルアクション・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 偏屈じいさんカールは、愛する妻を亡くし孤独な暮らしを送っていた。ある日、自然探検隊に所属する少年ラッセルが訪ねてくる。念願の上級クラスに上がりたいので何か手伝わせて欲しいと言って来た。しかし、カールはそれを軽くあしらって追い返した。その後、周囲の建築ラッシュでカールの家は立ち退きを余儀なくされる。思い出の詰まったこの家を手放したくない。そこで彼は、風船をつけて家を空に飛ばすというアイディアを思いついた。それに乗って亡き妻の夢だったパラダイス・フォールに向けて出発した。ところが、知らぬ間にそこにラッセルが乗り込んでいて‥。
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(レビュー) 孤独な老人とワケあり少年の冒険を綴ったディズニー・アニメーション。
製作ピクサーのブランドは伊達じゃない。映像のクオリティーは申し分無く、キャラクターの表情、動きのリアリティーは言わずもがな。作品のモティーフである”空飛ぶ家”のファンタジックな美しさが素晴らしかった。
ピクサーは、これまで作品を発表するごとに映像技術の新しい試みに挑戦してきた。例えば、「モンスターズ・インク」(2001米)の毛並みの表現、「ファインディング・ニモ」(2003米)の水の表現、「Mr.インクレディブル」(2004米)の布の質感表現、
「ウォ-リー」(2008米)の錆びた鉄の表現等。飽くなき表現へのこだわりが、クオリティの維持に繋がっていることは、作品を見た者ならば誰もが感じるところであろう。ブランドとして確立されたにも関わらず、新たな表現を追及し続けるこの姿勢には感服してしまう。
さて、そんなピクサーが今回挑戦したのは何だったのか?見る前から興味津々だった。
しかし、アニメーションの表現技術に関して言えば、実のところ今回は新しいものは見られなかった。CGによるリアルさを追求したこれまでの方向性を封印し、朴訥とした温かみのある昔ながらの”アニメーションらしさ”を狙っているかのような印象を受けた。今回は技術よりもドラマ性で勝負‥そんなことを感じた。
ストーリーの方は、簡単に言ってしまえば老人の”喪の仕事”を描くというものである。テーマが子供向けと言えるか?という疑問は残るが、愛する人を失った孤独と喪失、そこからの再生というテーマは普遍的なものとして受け止める事が出来た。その喪失感を描く冒頭10分が素晴らしい出来栄えで、図らずも涙腺が緩んでしまった。たった10分なのにこの感動!演出の上手さもさることながら、物語が持つ普遍性がそうさせるのだろう。
ただ、目的地まであと一歩‥というあたりから急に盛り上がりに欠けてしまう。ここからアクションとサスペンスで見せていくのだが、これが今ひとつ‥。ここでメインとなるのはカールとラッセルの友情、擬似親子関係の構築である。肝となるのは二人の交流をいかにペーソスを交えて描くかと言うことになるのだが、アクションとサスペンスを必要以上に持ち込んだことで淡白なものになってしまった。ラッセルの”ある告白”にはしみじみとさせられたが、感銘を受けたのはこの部分だけで、あとは鳥騒動でドラマが掻き回され少々辟易してしまった。むろんこれがラッセルの孤独を写しだす換喩になっているのは分かるのだが、だとしても捕った、捕られたの騒動ばかりに物語の目が行き過ぎる。子供向けにエンタテインメント性を盛り込んだのだろうが、老人の喪の仕事という本来のテーマに上手くかみ合っていないような印象を持った。
尚、今回は3Dでの鑑賞だったが、先日の
「アバター」(2009米)に比べるとわざわざ3Dで見る必要性が余り無かったように思った。アクションシーンの一部に迫力が増すような演出が取られていたが、それ以外は概ね平面な画作りで余り3Dの恩恵に預かっていない。また、今回の座席はやや後方だったのだが、鑑賞する時は大画面で、しかも心持ち前の方が迫力が増して良いと後悔した次第である。
小津の「東京」はいずこへ‥。
「東京画」(1985西独米)
ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 小津安二郎監督を敬愛するドイツの映画監督W・ヴェンダースが、小津映画の関係者にインタビューしながら、現代の東京を切り取っていくドキュメンタリー作品。
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(レビュー) 映画は名作「東京物語」(1953日)のオープニングシーンで幕開けする。その後、当時の風景とは似ても似つかぬ喧騒とアスファルトで覆われた都会のジャングルが映し出される。この対比からして、ヴェンダースが本作を以って何を言いたいのかが分かってくる。小津の写した「東京」への惜別なのだろう。その後、カメラは様変わりした「東京」をディープに捉えていく。
そこで紹介されるのは、パチンコの文化と食堂に展示されるサンプル品を造る模造文化である。なぜこの二つ?と思ったが、これらはヴェンダースのような外国人にしてみれば相当ユニークなものに写ったのだろう。
黙々と機械に向かって玉を打ち続けるパチンコという遊興は、時間と金銭の消費と引き換えにそれに見合う対価を得るゲームである。ヴェンダースはこのパチンコなるゲームを非人間的、非生産的なものとして皮肉交じりに評している。
一方の食べ物のサンプル品については、本物そっくりに似せて作る技術に感嘆している。もはやアートと言ってもいいこの技術は日本古来の伝統工芸の系譜と言ってもいいかもしれない。しかし、ヴェンダースはこれに対しても虚飾の芸術にすぎないのではないか?と疑問を投げかける。決して明確に表明されているわけではないのだが、無機質に捉えたカメラが何となくそう言っているような感じがした。
ヴェンダースは今回、笠智衆の案内で鎌倉にある小津の墓石を巡っている。そこには「無」の一文字が書かれているのだが、ヴェンダースの解釈によればこれは虚無の「無」ということになるそうだ。だとすると、彼が今回取り上げたパチンコと模造文化も「虚無」を暗に示すものなのだろうか。非人間的で機械的な遊興、パチンコ。真贋を見極める想像力を奪ってしまう大量消費の権化、模造文化。いずれも虚無的であるかもしれない。日本人としては何となく寂しい気もするが、まんざら的外れでもないような気がした。
ただ、ヴェンダースは今の東京をペシミスティックに捉えてばかりいるわけではない。桜並木で無邪気に野球をして遊ぶ子供達、花見で楽しそうに宴会に興じる人々。これらの映像には安堵が感じられた。こうした人と人の結びつきがある限り、東京の町はまだまだ捨てたものじゃない-------そんな声が聞こえてきそうである。
途中で、たまたま東京に来ていたドイツの映画監督V・ヘルツォークが登場してくる。彼は、この世界(東京)には撮るべきものが見つからない‥と嘆く。この嘆きは世界を破滅視するのがお特異な鬼才ヘルツオークらしい絶望的な意見だが、ヴェンダースは彼ほど東京の町を憂いているわけではないと思う。確かに小津映画のような風景は無くなってしまった。しかし、その名残は探せばまだいくらでも見つかる。それがこの花見のシーンに表れているような気がした。
尚、インタビューの対象として小津作品の常連俳優、笠智衆と撮影監督、原田雄春の2名が登場してくる。小津流の演出と、あの独特のローアングの秘話が聞けたのがファンとしては嬉しかった。
豪華キャストが勿体無い!
「パリは燃えているか」(1966仏米)
ジャンル戦争・ジャンルアクション
(あらすじ) 第ニ次世界大戦末期、ドイツ占領下のパリ。自由フランス軍は警視庁を含めた公共機関の奪還に成功する。これに対しドイツ軍のパリ占領軍司令官コルティッツは休戦協定を申し出る。自由フランス軍の内部では、このままの勢いでパリ全土を取り戻そうとする強硬派と、連合軍の到着を待って総攻撃の準備を整えようとする慎重派に意見が分かれた。その頃ヒトラーはパリ焦土作戦を発令していた。
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(レビュー) レジスタンスのパリ奪回作戦を描いた戦争巨編。フランス、アメリカの豪華スターが一同に集った大作だ。
スターを見るという目的なら、とりあえず見て損のない作品と言える。しかし、ことストーリーに関して言うと間延びした展開、散漫な語り口に退屈感を覚えてしまう。
第一に戦争アクション映画には付き物のヒロイックさが全く感じられない。おそらくフランス人なら歓喜して見れるのだろう。しかし、日本人である自分には”救われたパリ”を見せられても今ひとつピンと来ない。そもそも、この映画には主人公と呼べるような存在がいない。群像劇のような作りになっているためカタルシスを求めようがないのだ。
例えば、映画前半はA・ドロン演じる若き活動家の活躍が描かれるが、彼は中盤から姿を消してしまう。逆に、別の活動家の視点でストーリーが牽引されていく。これでは物語に没入できない。唯一、全編通して登場するのがドイツ軍の司令官コルティッツである。しかし、当然連合軍サイドの視点から描かれているわけで、彼は悪役サイドのキャラクターとなっている。まさか彼に感情移入も出来まい。
いずれにせよ、これだけ豪華なスターが出演しているのにも関わらず、ドラマへの興味が削がれてしまうのは実に勿体無い気がした。思うに、一番の要因は脚本のように思う。
共同脚本に当時まだ無名だった若きF・フォード・コッポラが参加している。オールスター参加の大作ということで気を使ったのだろうか‥。光り輝くスター達を前にして夫々の魅力を引き出せなかったのは彼がまだ若かったからなのか?あるいは、製作体制に何らかの障害でもあったのか?いずれにせよ散漫な脚本である。
そんなわけで集中力が途切れ途切れになりながら見たのだが、中には面白いと思うシーンがいくつかあった。それは市街戦の描写である。普通に考えたらありえないようなシュールな光景が時々登場してくる。例えば、砲弾が飛び交う中を市民が犬を連れてのんびりと散歩するなんて‥。事実に即した描写なのか、はたまた創作なのか。痛烈な皮肉、もしくはブラック・コメディのようで面白かった。
監督はL・クレマン。演出もシナリオの散漫さに足を引っ張られ精彩さに欠く。そもそも戦闘シーンにおける記録映像とロケーションの相関が完全に計られてないという時点で、どうにも雑に思えてしまう。他にも辻褄の合わない場面はあった。例えば、レジスタンスの英雄ベルナールが捕虜収容所に連れて行かるシーンで、カットが切り替わるとそれまで降ってなかった雨が突然降っていた‥なんてこともある。巨匠でもこういうことがあるのか‥と驚いてしまった。
姉役岸恵子が素晴らしい。これは惚れずにおれまい‥!
「おとうと」(1960日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) げんは高校生の弟碧郎と作家の父、後妻の母と暮らしている。父は仕事ばかりの人間。母は持病で体が弱く、げんが家事全般を引き受けていた。ある日、碧郎が不良仲間とつるんで万引きをはたらく。げんの心配をよそに、その後も碧郎はボートや乗馬をして家計に負担をかけ放蕩の限りを尽くした。年頃のげんには当然見合いの話もあったが、今の生活では考えられない。家族にその身を捧げる決心をするのだった。
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(レビュー) 美しい姉弟愛を描いた感動のドラマ。
不出来の弟碧郎を優しく包み込み、時に厳しく諌める姉げんのキャラクターの魅力が本作の最大の見所である。げんは碧郎にとって母親代わりであり、憧れの恋人のような存在である。穿って見れば近親相姦の異端愛に写るかもしれないが、(事実クライマックスシーンの”ある演出”は公開当時、海外で姉弟を超えた関係の暗喩として捉えられたらしい)、ただ誤解を招かないように言っておくが、それは邪推に過ぎない。姉弟の交流は、対立場面も含めて、基本的に清く純粋なるものとして描かれている。受ける印象は純粋な姉弟愛だ。
姉げんを演じるのは岸恵子。仕事しか頭に無い父と、病気で宗教にのめり込む母を抱えながら健気に働く姿は正に母性の極みと言える。女として生きる事を捨て、ひたすら家族のためにその身を費やす所作は、ドラマとは分かっていても憧れの目で追いたくなる。
監督は市川崑。言わずと知れた名匠であるが、他の作品に比べると若干演出にムラがあるのが気になった。前半のアヒルの行進はコメディ要素を狙ったものであろうが、全体がトラジディである本作においては、やや”フザケ過ぎ”な感覚を抱いた。また、後半はかなりシットリとしたトーンが貫かれるが、時々観客に与える効果としてショッキングさを狙った演出が挿入される。例えば、過度のズームアップは唐突な感じを受けた。もっとも、この違和感の原因は音楽によるところも大きい。その場の雰囲気に似つかわしくない選曲が幾つかあった。
撮影は宮川一夫。”銀残し”という手法が本作では採用されている。これは簡単に言ってしまえば、色彩を暗く落ち着いたトーンにすることで映像に一定の渋みを当てると言う技術である。現在でもこの手法を採用する映画が作られていて、市川&宮川が生んだ映画史に残る発明である。
Wiki銀残し
飽きなく見れるが、欲を言えばポイントを絞って描いて欲しかった。
「枢機卿」(1962米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 20世紀初頭。敬虔なカトリック一家に生まれたファーモイルはローマへ渡り神学を学び、晴れて故郷ボストンへ帰国した。地元の教会で働きながら論文を執筆したが、これがボストン教区のグレノン枢機卿の反感を買い極寒の地に左遷される。ファーモイルは、そこで病に倒れるハーリー神父に出会い信仰心を深めていった。その姿を見たグレノン枢機卿は彼を呼び戻し自らの助役に抜擢する。ある日、ファーモイルは妹モナがヤクザの子を身ごもった事を知る。宗派の違いから交際を禁止された過去が、彼女を破滅の道へと走らせてしまったのだ。彼女を追い詰めた原因は自分にもある‥。そう思ったファーモイルは彼女の力になろうとするのだが‥。
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(レビュー) 様々な苦難を乗り越えて信仰心を深めていく神父のドラマ。
監督は反骨の人O・プレミンジャー。端的に言ってしまえば、ここで描かれる物語はカトリック教会という”体制”に抗った青年の戦いの記録である。いかにもプレミンジャーらしいリテラシー溢れる内容になっている。
ファーモイルに振り掛かる悲劇は、教会の理不尽な政治圧力から始まる。教会と言えどその内情は政治によって運営される一つの巨大組織である。例えば、劇中にも出てくる法王選挙、いわゆるコンクラーヴェ。ここにも政治の駆け引きは存在する。組織である以上、統率するための象徴的存在は必要であり、それは代々受け継がれてきたローマ法王という地位である。これを選ぶ選挙は、所詮は票集めのロビー活動となんら変わらない。ファーモイルは純粋に神道を歩もうとするが、グレノン枢機卿によって教会政治における処世術を叩き込まれる。初めて理想の挫折を味わうのだ。これが彼にとっての第一の試練である。
第二の試練は妹モナにまつわる悲劇である。ここでファーモイルは非情の選択に迫られ、抗いようの無いトラウマを心に刻まれることになる。
その後も更に彼を苦しめる事件は続く。ドラマの設定が1917年に始まることから、人種差別、ナチズムといった問題が出てくるが、そのたびに彼の信仰心は揺らぎ、理想と現実のギャップに打ちのめされていくようになる。このように全編に渡ってハードなドラマが繰り広げられていて最後まで面白く見ることが出来た。
ただ、軽快なテンポで進むのは良いが、その時々におけるファーモイルの葛藤は表層をなぞるようにしか描かれず、作品の重厚さの割りにキャラクターの印象は薄みになってしまった。左遷のエピソードにしろ、モナのエピソードにしろ、もう少し地に足の着いた描き方をしてほしかった気がする。時間的な問題もあるので仕方がないが、全体を貫くような主となるエピソードは必要だったかもしれない。そうすれば、ファーモイルの苦しみ、悲しみといった感情の噴出がダイレクトにこちら側に伝わってきたであろう。
例えば、後半にロマンスのエピソードが登場してくる。おそらく描くとすれば、ここがこのドラマの最重要とすべきエピソードであろう。ファーモイルは魅力的な女性と惹かれあっていくのだが、その恋が実ることはない。神に仕える者に婚姻はご法度だからだ。にも関わらず、彼の心は揺らいでしまう。この部分をもっと深く掘り下げていければ、今作は更に地に足のついた映画になっただろう。
この手の大河ドラマを見て時々思う事があるのだが、得てして主人公が出会う事件を押しなべて平均的に描いてしまうことで作品のポイントが掴めず、結果、散漫な印象になってしまうことがままある。それよりも一つのエピソードに集中して描いた方が物語には力強さが生まれてくるような気がする。
本作で言えば、このロマンス・パートを深く描けば、更に映画はドラマチックなものになっていたかもしれない。事実、ヒロイン役であるR・シュナイダーのラストの演技は素晴らしく、ここはかなり盛り上がる場面であった。
先日、イベントで大阪に行ったついでに、神戸映画資料館という施設があることを知り覗いて来ました。

ドアを開けるとそこはカフェ。あれ?間違えたかのかな?と思い、店内を良く見ると棚には大量の書籍、映写機などの展示物があり、どうやらそれをゆっくり見ながらお茶できるというのがここの作りらしい。
写真撮影可ということだったので、珍しい展示物を色々撮ってきました。



無声映画時代の手回し映写機。これは貴重。


戦後、GHQによって普及された16ミリ映写機。プロパガンダ的意味合いが大いにあったことが想像できます。

このあたりになると、何となく見慣れた感じのものになってくる。「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989伊)を思い出してしまった。
隣には映写室があり映画が上映されていました。この日は阪神大震災から15年目ということで、それに関したドキュメンタリーでした。他にも珍しい作品がラインナップされていて、例えば名匠J・フォードの未公開作品等のタイトルもあり、かなりマニアック‥(^_^;
また、会員になれば別室の「資料室」の使用が可能になるとのこと。そこで貴重な資料が閲覧できるそうです。流石に、地元民でもなければ中々通うことは難しいので、今回はコーヒーを注文して店内の書籍を閲覧することにしました。しかし、かなり古い雑誌もあったので、珍しさもあってついつい読み込んでしまった‥。

これは相当古い「シナリオ」。市川崑と新藤兼人の対談が面白かった。
他にも「キネ旬」の手塚治虫と石上三登志の対談なんかも面白く読んだ。ギラーミン監督によるリメイク版「キングコング」(1976米)は残虐なシーンが尽くカットされたらしい。コングが人間をバリバリ食うシーンなんかもあったそうで、それらが削除されてしまったことについて、お二方の反意が論じられていた。
最寄り駅は新長田駅。徒歩5~10分程度でアクセス条件が良いし、店内はつい長居したくなるようなアットホームな感じで、映画好きなら一度は覗いて見ても良いかもしれません。
神戸映画資料館HPその他記事
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実録ドラマならではの重み。
「戒厳令」(1973仏伊)
ジャンル社会派・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 南米某国。アメリカ人技師サントーレとブラジル領事が革命派に誘拐される。革命派は政治犯を釈放するよう声明を発表した。早速、マスコミは事件の渦中にあるサントーレなる人物に注目した。政府の要人でもない彼が何故誘拐されたのか?政府は何も語らなかった。一方、サントーレと領事は地下のアジトに監禁される。革命派のリーダーの尋問から恐るべき真実が判明してくる。
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(レビュー) テロリストに誘拐されたアメリカ人サントーレの恐怖と、そこから見えてくる恐るべき国家的陰謀を、緊張感溢れるタッチで描いたサスペンス作品。尚、このドラマはウルグアイで実際に起こった事件が元になっているということだ。
監督は社会派C・ガヴラス。このブログでは以前
「Z」(1969仏伊)という作品を紹介したが、見る者をグイグイとひき込む力強い演出が彼の特徴で、本作も終始緊張感がみなぎる作品になっている。
映画はサントーレの死体が発見された所から始まる。そこから1週間前に遡り、ドラマが回想されていく。突然何者かに拉致されるサントーレ。その恐怖をカメラはドキュメンタリータッチで見せていく。彼が殺されることは分かっているので、ドラマの興味は何故彼が誘拐の標的になったのか?いかなる人物なのか?そこに焦点を当てて展開されていく。これらの謎は革命派の尋問によって徐々に明るみにされていくのだが、実話ベースということ考えるとちょっと怖くなってしまう。本当にこんな事があったのか‥と。「Z」で恐怖政治の実態を暴いたガヴラスだから、この手の題材はさもありなん‥といったところだが、改めて彼のジャーナリスティックな視点に驚かされてしまう。
映画はサントーレと革命派の丁々発止のやり取りを描く一方で、誘拐事件に揺れる政界騒動も捉えている。主に国会での紛糾が中心となるのだが、そこに政治の無力さ、政局しか頭にない役人の些末さが見えてきて面白い。いかにもガヴラスらしいシニカルな視線が感じられた。
ただ、映画を見ていて若干不満に思ったこともある。物語の視点はドラマを語る上で重要だと思う。本作には二つの視点があって、これがどうにも作品を散漫にしてしまっている。このドラマは革命派サイドからの視点なのか?あるいはサントーレからの視点なのか?それがはっきりとしない。革命派であれば革命の使命を深く追求すべきであり、サントーレであれば徹底的に彼の恐怖を描く必要性があったのではないかと思う。これではどっちつかずの印象だ。
尚、印象に残るセリフがあったので記しておく。
最後の日、つまりサントーレが殺される日。彼は革命派の監視員に向かってこう言う。
「私を殺せば君達は無能だ。しかし、私を殺さなければ君達は負けだ。」
サントーレのこの言葉は、革命派にとっても、そして彼自身にとっても余りにも無情な言葉だ。この誘拐劇が、この期に及んで無に帰してしまったことを言い当てているからだ。そして、この言葉は革命の意味についても考えさせる。もしかしたら、”革命”などというものは、ただ虚無の中に反復される”亡霊”のようなものなのかもしれない‥と。実にやりきれない思いにさせられた。
コレは一種の見世物小屋だと思う。
「ホステル」(2005米)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ヨーロッパを旅行する3人のアメリカ人ジョッシュ、バクスター、オリーは、アムステルダムで興味深い話を聞く。スロバキアに快楽を提供してくれるホステルがあるというのだ。早速3人はそのホステルへと向かった。到着早々、ルームメイトの美女達に出迎えられ夢のような一時を味わう。ところが、翌日オリーが行方を晦ましてしまった。フロントは今朝方チェックアウトしたという。不審に思ったジョッシュとバクスターは彼を捜し始めるが‥。
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(レビュー) 旅で出会う恐怖の体験を残酷な拷問描写で綴った異色のホラー映画。
見ているこっちが思わず目を背けたくなるような肉体破壊描写は、昨今で言えば「ソウ」シリーズの拷問が思い出される。これは純粋に言えばホラー映画というよりも、むしろ残酷描写に専念した見世物映画、もっと言えば魔術師奇術師が披露する人体切断ショーとかそういった類のエンタテインメントだと思う。H・G・ルイスのカルト作「血の魔術師」(1972米)などはその最たるものだと思うが、かつてのモンド映画的な作品が現代でもそれなりに受けているとしたら、それはある意味で興味深い傾向だ。この「ホステル」も「ソウ」同様、続編が作られている。
ただ、肝心の拷問描写は凄惨さや刺激度という点で「ソウ」シリーズの方がアイディアとしては優れているように思った。
また、ストーリーも「ソウ」シリーズと比べると単調な上、隙間も多い。全体の2/3は伏線張りのための展開で、ここにサスペンスとしての面白みがあればもう少しマシになったと思うが、残念ながらそこまで気の利いた作りになっていない。伏線張りのドラマを半分に削って、見所となる拷問ショーを増やすくらいのサービス心を見せて欲しかった。
演出はこの手のジャンル映画にしてはかなり異質、というかコメディライクなところがある。「志村後ろー!」的な突っ込みを何度入れたくなくなったことか‥。狙いではあると思うのだが余り笑えない。
面白いと思ったのは、舞台を東欧の小国に設定したことである。拷問の盛んな欧州の歴史背景を作品の異様なムードに上手く取り入れているように思った。
また、ドラマの構成が一部テクニカルな表現になっていたのも面白い。ドラマの視点が中盤から別の人物に推移する。製作総指揮をQ・タランティーノが担当しているので、これはタランティーノの影響なのかもしれない。「パルプ・フィクション」(1994米)でも、同様の視点の切り替えは行われていた。
監督はE・ロス。先日見たタランティーノ作
「イングロリアス・バスターズ」(2009米)ではバットでナチスを撲殺するアメリカ兵を強烈に演じていた。互いの作品に製作やキャストで絡むくらいなのだから、この二人は余程馬が合うのだろう。
時代を感じる1本。
「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」(1970日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) タキを中心とした不良グループは、自堕落な日々を送りながら敵対するグループと抗争に明け暮れていた。ある日、タキの前にアサ子という魅力的な美女が現れる。アサ子は、全国各地に会員を持つ正教学会の幹部の二号だった。彼女からある計画を聞かされる。
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(レビュー) 若者達の刹那的な生き様を描いた青春映画。
「野良猫ロック」シリーズの第2作。最終作
「野良猫ロック 暴走集団’71」(1971日)は以前の記事を参照のこと。
映画前半はタキ達の無軌道な日々が延々と綴られていて、少々退屈させられた。はっちゃけてジープを乗り回したり、拳銃で車を狙撃したり、盗んだ金でドンチャン騒ぎをしたりetc.フラワームーブメントのありし日々を見る思いで興味深く見ることができたが、ドラマがほとんど動かないので余り面白くない。意味のないところが当時のリアルさ、と言われれば確かにそうなのだろうが、話が一向に前に進まないのはどうしたものか‥。
後半から、ようやくアサ子が持ち出す”ある計画”を発端にドラマが動き出す。ここからサスペンスとアクションのエンタテインメントが増していき面白く見れるようになった。ラストはやっぱり‥というか、明らかにアメリカン・ニュー・シネマを意識した作りになっていて、このあたりは「暴走集団’71」と同じである。
アメリカン・ニュー・シネマは、当時のヒッピー文化を背景にした若者達のカウンターを描いた映画的ムーブメントだった。そこで描かれる主人公達はほとんどが死という末路を辿る。ただ、作りが割とあっけらかんとしたものが多く陰惨さは余り残らない。
本作も同様で、悲壮感よりも清々しく感じられる結末だった。改めて今見ると、こういう生き方が格好良いと思える時代があったのか‥という見方になってしまうが、当時の空気感は明確に伝わってきた。
ジグソウ誕生の秘話を描く第4作。
「ソウ4」(2006米)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ジグソウが死に事件は終わりかと思われた。しかし、ホフマン刑事は彼の死体から1本のテープを発見する。それは新たなゲームの始まりを意味していた。その後、SWAT隊長リッグが何者かに襲われ気を失う。目を覚ますと目の前のモニターには、ホフマン刑事と失踪中のエリック刑事の監禁映像が映し出された。二人を救うためにリッグはジグソウのゲームに挑んでいくことになる。
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(レビュー) 前作でついに終焉かと思われたが、人気に支えられついに第4弾。まだシリーズは続いていて、現在第6作まで作られている。
しょっぱなから死体解剖シーン。これがかなり気持ちが悪い。その後はビジュアル面でのグロさは少なく、前作に比べるとやや大人しめといった感じである。殺戮方法が少し薄味になった気がしなくも無い。中には余りにも派手すぎて少しコミカルに写るものもある。尚、本作で生理的に一番きつかったのは、縫合された目と口をバリバリと破るシーン。顔面や目玉といった柔らかいパーツへの責めは本当に勘弁して‥。
このシリーズの見所であるどんでん返しも用意されている。ただ、サスペンスとしての面白さは前作に及ばず。タイムリミット演出を使ったジグソウとのスリリングな攻防は認められるものの、リッグの”災難”を描くプロット自体はかなりストレートだ。もう少し捻りが欲しい。その代わりと言っては何だが、今回はジグソウがいかにして誕生したか?その出自がフラッシュバックで解明されるので、シリーズの原点を知りたいという人なら面白く見れるだろう。
それにしても、前作に引き続き徐々にシナリオにメロドラマ色が濃くなっているのは気のせいか?ジグソウという稀代の殺人鬼がシリーズを追うごとに人気を得、更に魅力あるものとしてキャラ付けするのは避けようが無い創意としても、第1作のような理不尽な怖さはどんどん衰退していっているような気がする。得体の知れない恐怖こそがホラーの要所であると思う。「13日の金曜日」のジェイソン、「エルム街の悪夢」のフレディ等、シリーズ化されることで陳腐化していったケースは多い。このシリーズはそうならないで欲しい‥というか、そうなる前に終わらせて欲しいと願うばかりである。