そつの無い作りで楽しめる。
「オーシャンズ11」(2001米)
ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 刑務所から出所した詐欺師ダニー・オーシャンは、相棒ラスと共に次の仕事に取り掛かる。それは、ラスベガス最大のカジノの地下金庫から1億6千万ドルを強奪するというもの。二人は各分野のプロフェッショナルをスカウトして計画を実行に移していく。
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(レビュー) F・シナトラ主演の犯罪映画「オーシャンと十一人の仲間」(1960米)を、現代に置き換えて作ったリメイク作品。個性的なエキスパート達の現金強奪計画をスタイリッシュに描いている。
監督はS・ソダーバーグ。キャストはJ・クルーニー、B・ピット、J・ロバーツ等、豪華なスターが登場する。オリジナル版のキャストが主演のF・シナトラを始め彼の仲間内で占められていたのに対し、本作にはJ・クルーニーとソダーバーグの交友関係が多く目立つ。そういう意味では、リメイク化の発端にこの二人の存在ありき‥と見ていいだろう。実際に仲間内で楽しそうに作っているのがありありと見て取れる。
物語は基本的にはオリジナル版を踏襲したプロットで進行する。ただ、メンバーに若干の設定変更があったり、ロマンスを絡めた点はオリジナル版には無いサービスである。娯楽色を強めたという感じか。いずれにせよ、今ひとつの印象だったオリジナル版に比べると色々と工夫が凝らされている。
早々に仲間を集めてしまうのも良い。オリジナル版はこの部分が退屈した。軽快な展開にややご都合主義的な部分も目立つが、娯楽に徹したということを考えれば、突っ込みを入れても仕方が無いだろう。ただ、欲を言えばロマンスパートはもう少し掘り下げて欲しかった気もする。
また、ピカレスクロマンの傑作「トプカピ」(1964米)やイタリア気質な快作「黄金の7人」(1965伊)といった、この手の泥棒稼業映画に対するオマージュ・シーンも面白く見させてもらった。単なる焼き直しと取れなくも無いが、決して郷愁に溺れることなく極めて現代風のタッチを貫いて見せた所にソダーバーグの手腕を感じる。
尚、本作のヒットを得て第2作「オーシャンズ12」(2004米)が製作された。クルーニー一家とソダーバーグのコンビは正に乗りに乗っているといった感じである。鑑賞順は前後してしまったが「オーシャンズ12」についての記事は
こちらを参照のこと。
CGは今回も見事だが、肝心の内容が‥。
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(2007日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 昭和34年の東京下町。鈴木オートに、父の事業の失敗で親戚の子供・美加がやって来た。初めは慣れない環境に心を閉ざしていたが、鈴木の長男・一平と交友を育むことで少しずつ打ち解けていく。一方、鈴木オートの向かいに住む小説家志望の茶川は、淳之介と慎ましやかな暮らしを送っていた。そこに淳之介の実父で大企業の社長川渕がやって来る。川渕は学校の給食費もまともに払えない今の暮らし振りを責め立て、淳之介を帰すよう迫る。茶川は立派な小説家になることを条件に、その申し出をつき返した。その後、茶川はかつての恋人ヒロミが地元のストリップ小屋にいることを知る。彼女に堂々とプロポーズするためにも茶川は新作の執筆に発奮する。
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(レビュー) 2005年に大ヒットを飛ばした「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005日)の続編。原作を良い意味で裏切ってくれた前作だったが、果たして続編となる本作はどうか?期待して見た。
結論から言うと、前作に比べると感動が数段落ちる。同じスタッフ・キャストで製作されているのでテイスト自体は前作と一緒で、朴訥とした風情に癒される。しかし、今回は色々な個所の詰めが甘い。
今回の主だったエピソードは、鈴木家に預けられた親戚の子供美加の話、茶川と淳之介の話、茶川とヒロミの話、六子の幼馴染に関する話である。そのほかに、鈴木夫婦の過去の逸話などがサブエピソード的に挿話される。ちなみに、これにはしみじみとさせられた。
前作同様、複数のエピソードを同時並列に語る構成で、4つのエピソードで2時間強。1エピソード約30分として考えれば、前作と同じボリュームである。しかし、今回は各エピソードの収拾の付け方に甘さを感じた。
一番の不満は、ヒロミの心情に迫る描写が足りなかった点だ。茶川との恋慕は回想でしか表現されず、実時間上での二人の交流は一切出てこない。「会えない‥」という悲劇的な状況を強調したかったのかもしれないが、かえってそれが二人の葛藤を弱く見せてしまっている。クライマックスにおけるヒロミの行動は只でさえ予定調和なものであるのだから、これに説得力を持たせるためには彼女の茶川を想う気持ちを過去の恋慕ではなく、目の前の現実的な問題として非情に描くべきだったのではないだろうか。そうすれば彼女の悲しみもこちら側に直感的に伝わってくる。
また、クライマックスシーンは他のエピソードもひっくるめて大団円としているのだが、いずれも掘り下げ不足、中途半端な料理の仕方になってしまっている。本作との比較から考えると、前作は奇跡的なまでによくまとまったクライマックスだった。また、細かな部分だが、この場面における周囲の人々の目線をおろそかにした演出はいただけなかった。臨場感を無視した演出に思える。
白組製作のCGは前作同様、感心させられた。小物の再現も世界観のリアリティを支える重要なポイントだと思う。分かる人には分かるようなディティールへのこだわりには◎を上げたい。
美しい母娘のドラマ。
「いつか眠りにつく前に」(2007米独)
ジャンルロマンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 病床に伏す老女アンは二人の娘ニナとコニーが見守る中、人生の最期を迎えようとしていた。実は、彼女にはどうしても忘れられない思い出があった。それはハリスという恋人と過ごした幸せな日々だった---------今から40年前、新人歌手だったアンは親友ライラの結婚を祝うために式に出席した。そこでライラの弟バディを通じてハリスを紹介される。ハリスはライラの家に仕えるメイドの息子で、今は医者をしている。二人は一目会った時から恋に落ちた。ところが、この関係が周囲に思わぬ波紋を呼ぶ。
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(レビュー) 病に伏す老女アンの過去の恋慕とそれを見守る二人の娘の人生を、巧みなカットバック構成で綴ったロマンス作品。
40年前に遡るアンとハリスのロマンスは、彼女が見る夢、あるいは幻覚といったもので振り返られていく。単純な回想録にしなかったところに作り方の工夫が感じられた。少しファンタジックな要素が加わるところが面白い。
ただ、肝心のロマンス自体はいささか食い足りない。一にも二にも、ハリスのキャラクター・タッチングの浅薄さが原因だと思う。確かにハンサムだし一定以上の社会的なステイタスを持った好青年だ。しかし、それは表面的な魅力に過ぎない。一夜のアバンチュールに落ちるならそれだけでもいいが、アンは40年もの間彼の思い出を引きずって生きてきたのである。ならば、アンがそれほどまでに思い続けるだけの魅力がハリスの人物像には欲しい。そこを見せるエピソードがあれば、アンのこの恋慕も俄然説得力を増しただろう。
この過去編で一番興味深く見れたのは、むしろアンに片想いするバディの方だった。彼はハリスと違って冴えない男である。アルコール依存症で仕事もない。家族からも孤立している。しかし、彼がそんな風になったのには”ある理由”があったのだ。中盤でそれは意外な形で判明し、彼の心中を思うと実に切なくさせられた。ハリスよりもバディの方がよっぽど魅力的なキャラクターに思えた。
物語はアンの過去編と対比する形で二人の娘ニナとコニーのドラマも紡がれていく。こちらは女性の幸せについて考えさせるような内容で、ある種ヒューマンドラマ的なテーマを持っている。
姉のコニーは何不自由ない幸せな家庭を築きながら、バリバリに仕事をこなすキャリアウーマン。それに対して、妹のニナは片手間に仕事をしながら未婚の恋人と同棲している奔放な女性である。姉妹でありながら方や母親、方や未婚のフリーター。異なる人生を歩む二人は初めからそりが合わない。そして、姉に比べて不出来な自分を母アンは愛してくれているのか?というニナの不安に物語は迫っていくようになる。どうすれば、母に愛されるのか?どうすれば女としての幸せを掴む事が出来るのか?それがこの現代編のテーマになる。
ラストは過去のアンの悲恋とニナのこの葛藤が上手く結びつけられ、見事にまとめられていると思った。やや感傷に流されやすい部分もあったが、母と娘の絆もしっかり描きこまれているし、女性の幸せとは?いう問いにもしっかりと答えてくれるナイス・エンディングである。やはりラストの美しい映画は見ていて気持ちが良い。
P・オトゥールは衰え知らず。
「ヴィーナス」(2006米)
ジャンルロマンス
(あらすじ) モーリスは今や端役専門の老俳優に落ちぶれていた。ある日、友人イアンの部屋で彼の姪ジェシーと出会う。モデル志望のバイタリティー溢れる少女にモーリスは年甲斐も無く惹かれていった。彼はイアンの頼みで彼女の相手をすることになるのだが‥。
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(レビュー) 老俳優と今時の少女の交流を綴ったヒューマン・ドラマ。
モーリス役を名優P・オトゥールが演じている。齢85になるというのにこの色気‥老いて尚衰えずとは正にこのことだろう。俳優という職業は色気がなくなってしまったらお終いだと思う。観客をいかに魅了するかが俳優にとっての大前提であるからだ。そういう意味では、この映画のクオリティを根底から支えているのは、この名優の色気をもって他に無い。
モーリスは孫ほども年の離れたジェシーにのめり込んでいく。ヌードモデルをする彼女を覗いたり、服を買ってやるといって虚勢を張ってみせたりetc.まるで思春期を思わせるような猛烈なアタックを繰り返していく。そこがユーモラスに見えたり、逆に決して実らぬ恋だからこそ残酷なものに写ったりもする。
奔放な少女に老人が翻弄されるという図式は、最も有名なところではナボコフの「ロリータ」が思い出される。人生の最期を迎えんとする老人と、これからの未来を歩まんとする少女。二人の交流から人生の喜びと悲しみを描いた名著である。本作はこの「ロリータ」と同じ構造を持つドラマである。
ちなみに、映画版「ロリータ」はキューブリックの作品にしては、今一つ垢抜けない作りで個人的には余り面白く見れなかった。名著の映画がすべからく名作というわけにはいかない。そして、本作も名作足りえているかと言うと、話はそう単純にいかない。確かに感動的な部分もあるにはあるのだが、ドラマ自体の広がりが少ないため全体を通して目詰まり感は否めない。紋切り的でコンパクトにまとめすぎてしまったという印象か‥。小品的な味わいを求めたい人には丁度良いのかもしれないが、新しいものや刺激を求めたいという人には物足りなく写るだろう。
そんな中、印象に残ったセリフがある。ヴィーナスの絵画を見たモーリスの呟きである。
「男は美しい女神を求め、女は美しい子供を産む。」
これは男女の性差を端的に言い表した含蓄のあるセリフのように思う。この言葉に作品のテーマが集約されているような気がした。
エイリアンとプレデター、どちらを応援したくなる?
「エイリアンVS.プレデター」(2004米)
ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) 大企業ウィンランド社は南極の地下に謎の熱源を衛星キャッチした。環境工学者で冒険家のレックス、考古学者セバスチャン等、著名な専門家を召集して調査に乗り出す。彼等がそこで見たのは巨大な建造物だった。そこに上空から謎の宇宙船が飛来してくる。
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(レビュー) SF映画の名物キャラクター、エイリアンとプレデターの対決を描いたアクション作品。
二大モンスターの夢の競演という企画自体、いかにも見世物小屋的な胡散臭さが漂うが、エイリアン・シリーズが好きな者としては一見しておくか‥という程度で見てみた。監督・脚本のクレジットも気になったというのもあったのだが‥。
監督・脚本は生粋のヲタク監督P・W・S・アンダーソンである。ジャンル映画という括りの中で、自分の好きな物を好きなように撮っている稀有な監督だ。ゲーム趣味がモロに出た「モータル・コンバット」(1995米)、「バイオハザード」(2001米)。未見であるが、おそらくは「惑星ソラリス」(1972ソ連)をヒントに作られたであろう「イベント・ホライゾン」(1997米)等。これまでの経歴を見てみれば、この監督がいかに趣味に走った作品を撮ってきたかがわかる。
しかし、ジャンル映画を撮ることを己の作家性とするのはそんなに容易なこではない。出来上がった作品に向けられるマニアの目も相等厳しいものになってくるからだ。当然この監督の作品は、これまでにも賛否のふるいにかけられてきた。しかし、不思議とこうして監督を続けてこられているのだから、俺はこの人の神経が相等図太いんじゃないかと睨んでいる。あのS・ライミだって趣味と実益を分けて映画を撮っているというのに‥。
さて、見る前から肝心のバトルが出し惜しみされているんじゃないか‥という危惧があったのだが、そんなことはなく派手な肉弾戦が浩々と繰り広げられていた。まるで怪獣映画を見ているような興奮が味わえる。要所要所のオマージュも楽しめたしサービスに徹している所に好感が持てる。第一にプレデターがこれほど格好良く撮られていていること自体、監督の中で明確な割り切りが出来ている証しである。エイリアンとプレデター、どっちつかずになるよりも全然マシで、作り方としてはこうするのは妥当だったと思う。また、レックス達が調査する建造物の中にはトラップが張り巡らされて、アトラクション・ムービー的な楽しみ方も出来た。
ただ、ストーリーに関して言うと、色々と不満は出てきてしまう。レックスに絡んだ過去の伏線をみすみす断ち切ってしまう乱暴さ、サブキャラを安易に殺してしまう勿体無さ。面白くしようと思えばいくらでも出来るはずなのに、それを全て切り落としてしまった所は納得いかない。
また、キャストに花が無いのも残念だった。いくらエイリアンとプレデターが主役とはいえ、もう少し人間サイドに気を使ったキャスティングも必要だったのではないだろうか?
C・ユンファがハマっている。
「誰かがあなたを愛している」(1987香港)
ジャンルロマンス
(あらすじ) ジェニファーは恋人を追って演劇の勉強をしにニューヨークへ降り立った。従兄のシュンタウのアパートに世話になり、早速恋人と再会を果たす。ところが、彼には新しい恋人ができていた。ショックを受けたジェニファーをシュンタウが優しく慰める。次第に二人は惹かれあっていく。
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(レビュー) 失恋した女性とそれを慰める気のいいヤクザ青年のロマンスを、ニューヨークの洒落た風景の中に描いたラブ・ストーリー。
ドラマはいかにも紋切り的だが、C・ユンファ演じるシュンタウのキャラクターが魅力的だった。ギャンブル好きな気の良いヤクザ青年という役どころで、ユンファが持ち前の朗らかさで好演してる。特に、中盤のデートシーンが良かった。シュンタウはせっかくジェニファーと良い雰囲気になったのにキスを躊躇してしまう。ジェニファーはキスされるのを待っていたのに、シュンタウは彼女の失恋の弱みにつけこみたくないと判断したのである。彼は優しすぎる男だ。しかし、恋において優しさは時に”罪”ともなる。後もう少し勇気があれば‥そう思うと切なくさせられる。
この映画は、そんなふうに二人の微妙な距離を、様々なデートシーンで見せていく。あの時キスをしていれば、あの時ダンスを断らなければ、そこに元恋人が現れなければ‥等。ラブロマンス映画において最も重要となるのは、この”すれ違い”をいかに上手く描くかにある。本作はそこがきちんと描けていて好感が持てた。
ただ、細かなところを見ると色々と不満が出てきてしまう。
第一に、ニューヨークを舞台にしていながら、アメリカ人の俳優を一人もメインキャストに入れてないのが不自然過ぎる。それによって全体的にドメスティックなドラマになってしまった。特に中盤のパーティー・シーンは非常にダサく感じられた。
また、多彩なロケーションを取り入れてもっと異国情緒を出して欲しかった。ニューヨークのストリートは中々上手く撮られているが、それ以外にロケーションの広がりがない。このあたりは予算や製作体制の限界がたたっているのかもしれない。
また、シナリオ的には終盤の展開がいただけなかった。上手くまとめようとするのがありありと見て取れるので、ともすれば行き当たりばったりに写りかねない。ここはもう少しじっくりと描いて盛り上げて欲しかった気がする。
軽妙洒脱なセリフのやり取りが面白い。
「月蒼くして」(1953米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 建築家ドンは街でパティという駆け出し女優に一目惚れする。早速彼女を食事に誘うが、外はあいにくの雨模様。そこでドンのアパートで食事することになった。ドンが食材の買出しに出ている最中、彼の婚約者で階上に住むシンシアが訪ねてきた。ドンの浮気を知ったシンシアは憤慨する。その後、彼女の父デビッドが怒鳴り込んでくる。ところが、男やもめの彼までもがパティの魅力の虜になってしまう。そこにドンが帰宅し、二人は喧嘩を始める。
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(レビュー) 一夜の恋騒動を綴ったロマンチック・コメディ。
本作はパティの魅力に尽きる作品だと思う。
貧しい出自の彼女は、誰にも頼らず自分ひとりの力で女優業を続けている。決して売れているわけではないが、何事にも積極的で好奇心旺盛なところが前向きでよい。周囲はそんな彼女の茶目っ気タップリなユーモアにかき回されていく。
例えば、彼女はこんなセリフを言っている。
「将来の夢は女優として成功することでなく金持ちと結婚すること」
「情事抜きの恋愛はOK」
こういったセリフを堂々と言い放つあたり。大した玉と言うほか無い。どこまでが冗談なのか、どこまでが本気なのか掴み所が無い。その奔放さ、危うさが魅力的だ。
ドンとデビッドはライバル心を燃やしながら彼女に猛アタックをかけていくが、彼女の方が何枚も上手で二人ともいい様にあしらわれてしまう。その滑稽さも本作の見所だろう。
更に、物語はこの主要3者に加え、途中からドンの婚約者でデビッドの娘・シンシアが絡んでくることで更にヒートアップしていく。彼女はパティに対抗意識を燃やしていくのだ。
こうして4人の激しい対立は、ほとんどがドンの部屋だけで展開されていく。
今作は元々が舞台劇だったということである。だから、こうした会話劇によるシチュエーション・ドラマになっているのだろう。人物の出し入れ、セリフの面白さは折り紙付きでグイグイとドラマに引き込まれた。
また、単なるお気軽なラブコメというわけではなく、劇中には教訓めいたセリフも登場してくる。例えば、デビッドの「一時は永遠を生む」というセリフは深みのある言葉に思えた。実に哲学的である。
ドン役はW・ホールデン。デビッド役はD・ニーヴン。夫々に好演していると思った。ただ、今回はD・ニーヴンの方に軍配を上げたい。傲慢な資産家というアクの強いキャラクターを嫌味なく演じてしまうあたりが流石である。
一方、小悪魔パティだが、こちらは本作でデビューとなる新人女優が演じている。役柄自体の魅力はあるものの、その魅力を十分引き出しきれていないのが残念だった。完全な力不足である。
痛い!
「リトル・チルドレン」(2006米)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) アメリカの閑静な住宅街に小児性犯罪で服役していたロニーが戻ってきた。町中が不安に覆われる中、幼い娘を持つ母サラの心境も穏やかではなかった。一方、司法試験に落ち続ける主夫ブラッドは、キャリアウーマンの妻の尻に敷かれる日々を送っていた。子連れのサラとブラッドは近所の公園で知り合う。単調な日々の暮らしに不満を持っていた彼等はすぐに親密になっていった。ある日、いつものように子連れでプールデートに出かけた時に事件が起きる。その場にロニーが現れたのだ‥。
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(レビュー) 不倫に落ちるカップルと、性犯罪の前科を持つ中年男の苦悩をシリアスに綴った作品。メロドラマと社会派ドラマの両面を併せ持った作品で見応えがある。
不倫を題材にしたメロドラマ自体はよくある話だが、サラとブラッド夫々の葛藤は丁寧に描写されており中々真に迫るものがあった。
サラは夫の性癖に嫌気がさして、妻である事を捨て”女”としての自立を強めていくようになる。ブラッドは司法試験の重圧から逃れるようにして、ストレスの解放を外に求めていくようになる。二人が現実から逃避するようにして不倫に落ちていく背景はよく理解できた。この前の記事で紹介した
「ピクニック」(1955米)と比べると内容の濃さがまるで違う。説得力のあるものに思えた。
そして、この不倫劇は終盤で思わぬどんでん返しが待ち受けている。二人の性格の違い、生き方の相違が見れて面白い。
まず、ブラッドの側から見てみると、この不倫は結局のところ趣味のフットボールと同質のもの。つまり、自分が”男”であることの確認行為に過ぎなかったのだろう。しかし、自分は自尊心を持った一人前の男なんだ‥ということを確認した所まではいいが、彼はそこからあと一歩を踏み出すことが無かった。この不倫にそこまで命をかけられなかったということである。これはこれで正しい判断だったと思う。しかし、サラや残された家族はどうなるか?という事を考えると、実に稚拙な決断と言うことも出来る。
一方のサラはこの不倫に最後まで積極的にのめりこんでいった。考えてみれば、デートの最中いつもモーションをかけていたのは彼女の方だった。彼女は周囲から一目置かれる良き妻にして文学才女である。そして、その一方で内面に悪女性を隠し持っている。「ボヴァリー夫人」を例に出して破滅型恋愛を夢想するシーンは、彼女の本音を曝け出した重要な場面だと思うが、彼女は物事を頭で考えているつもりで、本当のところは感情で行動しているのだと思う。したがって、彼女の最後の決断も、その性格からいって至極納得のいくものに思えた。ただし、ブラッド同様、不倫の罪業について考えてみると、彼女は何の責任も取っていないわけで、その行動はやはり稚拙と言わざるを得ないだろう。
そして、不倫は必ず誰かを犠牲にするものである。一番の犠牲者はデートの口実として連れ出される彼等の子供達だ。子供をだしに不倫を重ねるとは、果たしてサラとブラッドは大人と言えるだろうか?「リトル・チルドレン」というタイトルは、彼等を指す皮肉とも取れる。
そして、この映画にはもう一人、犠牲に晒される子供が登場してくる。それがロニーだ。
こちらは犯罪者が辿る悲惨な人生を描いた社会派的な作りになっている。小児性愛者として長年服役していた彼は、出所後、年老いた母と暮し始める。彼の生い立ちは明確にされていないが、何らかの過去のトラウマによって普通の恋愛が出来なくなってしまったのだろう。このあたりはヒッチコックの「サイコ」(1960米)、あるいはそのモデルとなったシリアルキラー、エド・ゲインの生い立ちを重ね合わせてみると非常に理解しやすい。やがて、危険な性犯罪者というレッテルを貼られたロニーは、町の自警団から執拗な嫌がらせを受け、引き篭もりの生活を余儀なくされていく。社会復帰のチャンスすら与えられず追い詰められていくのだ。その末路は実に悲惨だった。彼もまた社会の偏見という犠牲に晒された「リトル・チルドレン」だったのではないだろうか。
後でクレジットを見て知ったが、ロニーを演じたのは若い頃に子役として人気を博したジャッキー・ヘイリーだった。「がんばれ!ベアーズ」(1976米)でT・オニールのボーイフレンド役を演じていた、あの少年である。それがまさかこんな風貌の変態中年になっていたとは‥。二つの顔が全然結びつかないのだが、本作の怪演で久しぶりに第一線へのカムバックを果たした。これだけインパクトのある役を演じてしまうとその後のキャリアが心配されるが、ここは一つ再起をかけて頑張って欲しいものである。
メインとなる話は今ひとつだったが、サブキャラに魅せられる。
「ピクニック」(1955米)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 成功を夢見てハリウッドへ渡った青年ハルが無一文になって田舎町に流れ着く。大会社の御曹司、親友アランを頼ってきたのだ。来て早々ハルは村で一番の美女マッジに一目惚れする。しかし、彼女がアランの婚約者だったことから友情はギクシャクとしたものになってしまう。この日は村の伝統の祭があった。ハル、アラン、マッジは複雑な思いを抱えたまま、その祭に参加する。さらにそこにマッジの妹ミリー、マッジの家の下宿人で独身女教師ロ-ズマリーも同行することになった。最初は和気あいあいとした雰囲気で楽しく過ごすが‥。
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(レビュー) 夢に挫折した孤独な男と家族に縛られて生きる薄幸なヒロインのロマンスを、周囲の人間模様を交えて描いた作品。
前半は祭りの前の高揚感も相まって朗らかなトーンで綴られる。後半から祭の場面になるのだが、ここから夫々の愛憎を軸にしたシリアスドラマに転じていく。前半と後半でトーンの不一致に若干の違和感を覚えた。どちらかというと、個人的にはシリアスなトーンを貫く後半の方が面白く見れた。
ハルとマッジ、アランの三角関係はいたって平凡なメロドラマで、取り立てて目新しいものは無い。しかし、本作にはサブキャラの葛藤を捉えたサイドストーリーが織り込まれていて、そちらのほうは大いに見応えがあった。マッジの妹ミリー、中年女教師ローズマリー。夫々の苦悩にカメラは容赦なく迫っていく。
ミリーは姉マッジほど器量も良くないし、何のとりえもない普通の少女だ。容姿に対するコンプレックスが自らの存在を貶めている。突然現れたハルにほのかな恋心を抱くが、それすらもマッジに奪われてしまい、彼女のささくれ立った心はいよいよ後半の祭りの場面で表面化していく。怒り、悲しみといったネガティブな感情の噴出が痛々しく写り、実に不憫な娘に思えた。ただ、映画は最後に彼女に救いの手を差し伸べて終わっている。少女から大人の女性への”ささやかな成長”。それが確認できたところに見ているこちらも救われた感じがした。
ローズマリーは、前半と後半のトーンの切り替え役を担うキャラクターである。言わば、ドラマを暗転させる起爆剤のような役回りで、彼女自身のキャラも180度の変貌を見せる。彼女は元々聡明な教師像、男に屈しない強い女性像を堅持することで、婚期を逃したという負けキャラを武装している。そこがどこか頼もしくもあり、少しコミカルだったりもしたのだが、後半ある事をきっかけにその明朗さは脆くも崩れ去る。見るも無残な醜態、情けない年増女の欲求不満が曝け出され、見ていてこれまた痛々しく写った。この落差は本当にショッキングだった。本作で一番印象に残ったキャラクターは実は彼女である。
一方、メインであるメロドラマの方はかなり強引な形で締めくくられていて食い足りない。ミリーやローズマリーの極限的な葛藤を見せられた後だと、この結末はどうにも軽く写ってしまう。
そもそもドラマがたった一日の出来事であることが大いにマイナス要因になっていると思う。このラストに持っていくまでには、本来幾つもの山あり谷ありの迷走があってしかるべきだ。たった一日の出来事として描くにはさすがに無理がありすぎる。前半のような軽いトーンが貫かれていればそれでも良かったのだろうが、いかんせん後半のシリアスさが良くも悪くも全てを決定付けてしまったように思う。
男前な映画!
「クローズZERO」(2007日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) 不良の吹き溜まり鈴蘭高校に滝谷源治が転校してくる。学校は3つの派閥に分かれ抗争の真っ只中にあった。学内最強と言われるの芹沢多摩雄が率いるAグループはBグループを配下に入れ勢力を拡大する。源治はひょんなことから知り合った鈴蘭OBのヤクザ拳の協力を得ながら、対立するCグループを取り込み鈴蘭の頂点を取ろうとする。
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(レビュー) 不良学生の抗争を激しいバイオレンスシーンで綴った同名コミックの実写映画化。
監督は鬼才三池崇史。これまでに色々と癖のあるジャンル映画を撮ってきたが、ここにきて原点回帰を目指したという感じか。元々極道系のVシネを撮っていた人なので、この手のジャンルはお手の物といったところだ。ただ、舞台は高校なので、汗と泥まみれのスポーツ映画のような、そんな爽快感が感じられる。見ているこっちが恥ずかしくなってくるくらいの青臭さは極道物とはまた違ったテイストで、三池作品の中にあっては新鮮である。
また、どことなく昭和ヤンキーマンガ臭がするのだが、これは原作のテイストか、あるいは三池の演出か。現代にあっては、この手のベタなヤンキー漫画は郷愁として捉えるしかないのかもしれない。「魁!!クロマティ高校」が確信犯的に池上遼一のパロディに徹していることからもそれは伺える。昭和テイストな劇画タッチの絵と設定をギャグに転化してしまう大胆さは、かの池上先生をして「面白い」と言わせしめた。やはりヤンキー漫画はもはやファンタジーなのだろう。
しかし、ことバイオレンスシーンに関して言えば、スタイリッシュな感性で撮られており極めて現代的である。スピード感があって良い。
また、三池らしいエログロ要素が見当たらないのも作品をスマートにしている。出演者が旬の若手俳優陣で固められているのでイメージを大切にした結果なのかもしれない。クライマックスの源治対多摩雄のケレンミタップリの立ち回りは土砂降りの雨の中での格闘。そこにはある種アイドル映画的な要素、水も滴るイイ男達を格好良く見せるための演出がこれでもか‥!というくらい確認できる。事実、本作は公開時には若者達に受けてヒットしたはずである。アイドル映画的な要素、現代的な感性を織り込んだことによる成功だと思う。尚、同じスタッフ・キャストで続編も作られた。
難は、登場人物を詰め込みすぎたせいで、全体的に窮屈な作りになってしまったことだ。例えば、源治と父との確執、リンダマンとの決闘、バイク軍団との関係等は、投げっぱなしのまま終わっている。紅一点黒木メイサの存在も不要に思えた。おそらく三池監督としてもどう起用していいのか分からなかったのではないだろうか。特に、クライマックスの歌は萎える。
ドラマ的に一番熱かったのは源治と拳の友情である。拳はヤクザ道に生きるチンピラ。自分の弱さを隠すために虚勢を張っているが、それは源治との友情で解きほぐされていく。正直な自分を曝け出す勇気を得た拳の行動には男なら涙するしかないだろう。