何の飾りっ気も無い無骨な作品だが、それこそが本作の魅力である。
「息もできない」(2008韓国)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 借金の取り立てをしているサンフンは、父のせいで母と妹を亡くし、その過去を引きずったまま生きている。今や唯一の家族の繋がりと呼べるものは、義姉の甥っ子との交流だけだった。そんなある日、彼はヨニという向こうっ気の強い女子校生に出会う。彼女は悲惨な境遇にいる少女だった。母はヤクザに殺され、父はベトナム戦争の後遺症で障害者となり、弟は非行に走っていた。家庭の全てを彼女一人で切り盛りしなければならず、荒んだ青春を送っていたのだ。初めは対立する二人だったが、時が経つにつれ不思議と馬が合い交友を重ねていくようになる。ある日、サンフンは甥っ子とヨニを連れて街へ買い物に出かけた。楽しい一時にヨニの顔には年相応の笑顔がこぼれる。それを見てサンフンも束の間の安堵を覚えた。ところが、その幸せはサンフンの父の出所で脆くも崩れてしまう。
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(レビュー) 家族を失ったヤクザと荒んだ青春を送る女子高生の愛を、時に過激に時に叙情的に綴った作品。
ヤクザと女子高生の交流と書くと、何とベタな‥と思う人もいるはずである。しかし、そう思うことなかれ。サンフンとヨニの関係は恋愛関係というよりも擬似家族のような関係で結ばれていく。それは決してベタベタしたものではなく、つかず離れずの微妙なバランスが保たれていて面白く見れるのだ。
サンフンは母と妹の命を奪った父の罪を赦せず、その葛藤に苦しんでいる。一方のヨニは傲慢な父と弟を憎み、彼等から解放されたいと願っている。家族に裏切られ、傷つけられる二人が引かれ合っていくのは、自然なものとして見ることができた。
更に言えば、彼等は「孤児」のような存在と捉えることも可能である。
サンフンは見た目は30代の粗暴なヤクザだが、少年のような純真な一面も持っていて、それは甥っ子と戯れるシーンによく表れている。おそらく、サンフンの中の時間は母と妹を失った少年時代から止まったままなのだろう。未だにポケベルを持っていたり、流行のTVゲームについていけなかったり、極めてアナクロな人間として造形されているのは、彼の時間が停滞したままであることを表すものだ。極端な言い方をすれば、彼は少年のまま成長しない男なのだと思う。
一方のヨニについて見てみると、こちらも酷い状況にいる。母が殺され父が脳障害で手のかかる有様。ある意味で、孤児よりひどいかもしれない。
誰からも愛されない孤児はどうやって愛を確認するのか?それは、互いに寄り添いながら助け合っていくしない。クライマックスの漢江のシーンは正に彼等の孤児性を如実に表した名シーンだと思う。二人が寄り添う愛が行きつく風景としては、これ以上に無いくらいのベスト・ショットであり、このシーンがあるだけで本作はかなり好きな作品になってしまった。確かに、ラストにかけての展開が予定調和であるとか、所々の演出の拙さは見つかる。しかし、それらを全て帳消しにしてくれるような感動的なシーンだと思う。
監督はこれが初演出となるヤン・イクチュン。製作・脚本・主演・編集の一人5役をこなしている。作品を完成させるために何と家まで売り払ったというから、これは正真正銘の自主製作映画だ。カメラワークに拙さも見られるが、かえってこの不器用で野卑な演出が作品に生々しい息吹を吹き込んでいる。洗練される一歩手前の荒削りな魅力は尊いものだと思う。こういうのはキャリアの中ではごく僅かな期間、おそらく初期時代にしか作れないのではないだろうか。テーマが作品に乗り移っているかのような”勢い”と”力強さ”が、全編から感じ取れた。連想されるのは初期の北野武のバイオレンス映画であるが、静かな狂気、不穏な空気感に加え、エモーショナルな感性が併置されところが少しだけ趣を異にする。これは韓国映画特有のエモーショナルさからくるものなのかもしれない。
また、非常に重苦しいテーマを描いているため見ていて息苦しい映画であるが、ユーモラスな演出を所々に配して見やすいように作られている所も評価したい。サンフンの親友や子分のコミカルな造形などは一服の清涼剤的な役割を果たしていて効果的である。彼等がいることで少しだけ作品が親しみやすくなる。
また、音を抑制して描かれる街のシークエンスは、陶酔的な美しさを醸す。案外洒落た演出センスも感じさせ、この監督は今後どういった作品を撮るのか楽しみになってくる。
韓国映画界は実に懐が深い。パク・チャヌク、ポン・ジュノ、そしてまた一人ここにとんでもない怪物が現れたという感じがした。
女性は必見!
「プレシャス」(2009米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1987年ニューヨークのハーレム。16歳の黒人少女プレシャスは二人目の子供を妊娠している。肥満体の体型を学校ではバカにされ、友達はひとりもいない。家では生活保護を受ける母から虐待を受けていた。そんな鬱屈した暮らしの中で、彼女は人知れず空想にふける。今の自分とは違う華やかな姿を思い浮かべ、いつか幸せを‥と夢をはせるのであった。そんなある日、教師は彼女にフリー・スクールへの転入を勧める。反対する母に内緒でプレシャスは入学した。そこでの様々な出会いが彼女の運命を少しずつ切り開いていく。
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(レビュー) 夢も希望も無い底辺社会に生きる黒人少女プレシャスが、母となり、過去のしがらみから解放され自立してく姿を感動的に綴った女性ドラマ。
当時のハーレムに住む子供たちは十分な教育を受けられず、プレシャスのような非識字で苦しむ子供達がたくさんいた。雑多な人種が住む土地柄、犯罪も多い。貧困によるDVもあった。プレシャスはこの劣悪な環境の中で、まったくと言っていいほど先の見えない暗い青春時代を送っている。彼女のお腹にはすでに二人目の赤ん坊がいるが、その父親の正体を知ると更にやりきれない思いにさせられる。彼女が妄想の中に逃げ込むのも、無理もない話である。
そんなプレシャスの悲惨な境遇を知った教師は、彼女に読み書きの出来ない子供達が勉強するフリー・スクールに入学することを勧める。ドラマはここから一転、上昇志向になっていく。優しい教師、同じように心に傷を抱えたクラスメイト達。彼等との交流を通してプレシャスの人生は徐々に輝いていくようになる。「プレシャス」=「宝物」という名前に相応しい笑顔がとても魅力的だ。外見は相撲取りのような巨漢で決して良いとは言えないが、内面が美しく輝けばそれが表にも滲み出てくる。
物語はクライマックスにかけて感動的な盛り上がりを見せる。プレシャスの幸せの”カセ”として虐待母との対峙が用意されているが、ここで下した彼女の決断は実に天晴れに思えた。母として、自立した女性としての成長が感じられ胸を打つ。
プレシャスを演じた女優はこれが映画初出演の新人である。本作でアカデミー賞主演女優賞ノミネートというのだから、正にシンデレラ・ストーリだ。ただ、この特徴的な体型がキャラクター造形の手助けになったことは間違いない。演技自体は未知数で、本作だけでは評価のしようが無いというのが正直な感想である。
一方、母親役を演じたモニークの好演は光る。彼女は本作で見事に助演女優賞を受賞している。ふてぶてしい態度を貫くが、それとのギャップで見せるクライマックスの涙が印象に残った。彼女には彼女なりの悲しみ、苦しみがあったことを、この涙が物語っている。
他に、M・キャリー、L・クラヴィッツといったアーティストも出演している。
演出に関しては、残念ながら引っ掛かる部分が幾つかあった。全体的に統一感が無い。カメラのズームやブレでドキュメンタリー・タッチを狙うシーンがあるかと思えば、時折プレシャスが見る妄想のようにフィクショナルなタッチが混入される。重苦しいテーマを華やかに装飾したフィクショナルなタッチで中和しようという狙いは買うが、それが少し”しつこい”感じを受けた。個人的には、鏡の中に写るもう一人の自分の姿、最後の赤いスカーフ‥このくらいに抑制されてくれた方が映画を自然に見ることができる。
ランボーの戦いはまだまだ続く?
「ランボー 最後の戦場」(2008米)
ジャンルアクション
(あらすじ) ベトナム帰還兵ランボーは、幾多の戦場を潜り抜け現在はタイの奥地でひっそりと暮らしていた。そこにアメリカからキリスト教支援団がやって来る。内紛に揺れる隣国ミャンマーに救援物資を届けるので案内して欲しいと頼まれるが、無益な戦争に二度と関わるまいと誓ったランボーはこれを拒否した。だが、女性メンバー、サラの熱意が彼の心を動かす。仕方なく彼等をジャングルの奥地まで届けることになるが‥。
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(レビュー) S・スタローン主演の大ヒットシリーズ「ランボー」の続編。前作から約20年ぶりの復活となる。
スタローンも還暦を超えているため、果たしてアクションシーンをまともに演じきれるのか?という不安があったが、なるほど‥今の時代はCGがあるのだ。アクションシーンは見劣りするどころか、益々ハードになっていて、敵の体が粉々に吹き飛んだり、手足が千切れたり、かなり過激な描写が登場してくる。尚、本作はR-15の指定付きで公開された。
相変わらずメチャクチャな暴れっぷりを見せるランボーだが、ヒロイックさを前面に出しながらも、今回はエンタテインメントに特化した第2作以降と異なり、第1作に戻るかのような〝対アメリカ”という姿勢がかすかに感じられるところが面白い。
そもそもランボーというキャラクターは、ベトナム戦争の影を引きずって生きる悲劇のアンチヒーローだった。その孤独感に照射した第1作は哀愁溢れるメッセージ性の強い反戦映画だった。その後、キャラクターの人気を受けてシリーズ化されたが、ランボーの影の部分が薄まりひたすら彼の強さのみがフィーチャーされ、次第にシリーズはインフレ化を起こし、興行的には第2作をピークにじり貧になっていった。
こうした過去の経緯を相当意識した上で、スタローンは今回の新作を作ったのだろう。第1作に見られたようなランボーの”影”の部分をきちんと描き込み、彼を怪物としてではなく一人の生きた人間として上手く造形している。そこにスタローンの原点回帰の姿勢が伺える。
ただ、このまま終わってくれれば申し分ないのだが、どうやらランボーの戦いはまだまだ続くようで、現在続編を製作中とのこと。そうなってくると、この邦題偽りありではないか?という気になってしまう。
過去からは逃れられない。それが勝者の定め‥か?
「ロッキー・ザ・ファイナル」(2006米)
ジャンルスポーツ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ボクシングの元世界チャンピオン、ロッキーは、小さなイタリアンレストランを切り盛りしながら静かな生活を送っていた。ある日、30年振りに町の不良娘だったマリーに再会する。今や彼女はシングルマザーになっていた。彼女と親交を重ねていくことで、ロッキーの心は少しだけ潤いを取り戻していく。そこに現世界チャンピオン、ディクソンから思わぬ挑戦状が届き‥。
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(レビュー) S・スタローンを一躍スターダムに押し上げた人気シリーズ「ロッキー」。それが約16年ぶりに復活。ロッキーの最後の戦いが描かれる完結編である。
今作は何と言っても、還暦を迎えたスタローンの年齢を感じさせない強靭な肉体と過酷なファイト・シーンが見どころである。
もっとも、老体に鞭打ってのトレーニングシーンは、見ていて少々辛いものがあった。また、全ラウンドを戦い抜くだけのスタミナが到底あるようには見えず、クライマックスのファイトも見ていて苦しい。結局最後は余り入り込めず、少し引いた目線で見てしまった。
ただ、不可能を可能にする男ロッキーの”軌跡”は今に始まったことではない。”軌跡”こそがこのシリーズの醍醐味なわけで、荒唐無稽はこの際お約束。過去作を見ている人にとってはこの奇跡も”あり”という風に受け止められるのではないだろうか。
物語前半は第1作目を振り返るようなエピソードが積み重ねられている。亡き妻をしのぶ姿、思い出のリトル・マリーとの交友、悪友ポリーとの腐れ縁、何だか見ているこちらも懐かしくなってしみじみとさせられた。改めて第1作の素晴らしさが噛み締められる。
また、ロッキーの説教節は今回も健在である。疎遠になった一人息子との関係修復のドラマにそれが炸裂する。彼の口から発せられる「諦めるな、ガッツを見せろ」という息子への叱咤激励は、還暦ならではの貫禄も手伝い説得力も十分だった。これもシリーズのお約束と言っていいだろう。
エンディングは少々くどい感じがした。そこまで上手くまとめちゃうと何だかなぁ~という感じがしたが、まぁ‥今作はファンのために作られたお祭り的な作品なので、ここは微笑ましく見てやるべきなのかもしれない。
いずれにせよ、さすがにこれでシリーズのファイナルとなることは間違いないだろう。ロッキーの最後の雄姿が拝めると言う意味でも、ファンなら見ておきたい1本である。
エンタテイメントとしても中々面白く見れる。
「選挙」(2006日)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) 2005年、川崎市宮前区の市議補欠選に出馬した自民党公認の新人山内和彦の選挙戦を追ったドキュメンタリー作品。
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(レビュー) 昨年見た
「精神」(2008日)の監督想田和弘の長編デビュー作品。氏は映画制作の基本として自称”観察映画”というスタイルを取っている。これはナレーションを一切排除し、事実の描景に専念する極めて特異なスタイルである。どんな映画でも普通は伝えたいテーマを前提として撮るものである。かの「華氏911」(2004米)を撮ったM・ムーアも作品の中でかなりの主張をしている。しかし、本作にはナレーションのような作家の思想が入る余地は一切無い。観客は客観的な立場を取る事を余儀なくされる。“観察映画”は真の意味での記録映画に近い作品だと思う。
自分は第一に、この映画に映し出される選挙戦の舞台裏にジャーナリスティックな面白さを感じた。我々の生活に深く関わる選挙だが、実際のところは政治に対する不信感からどこか別世界の出来事のように見ている人も多いのではないかと思う。この映画には、傍から見ていては決して知ることの出来ない選挙戦の舞台裏が登場してくる。
例えば、普段は主婦をしているようなオバ様達が選挙事務所でせっせと内職する風景が登場してくる。その時の会話は結構きつい。山内氏の選挙ポスターを評して「目つきが怖い」などとぶっちゃけたり、学会の新聞勧誘をこけおろしたり、カメラの前だというのにお構い無しに生々しい会話に興じている。
また、山内候補の私生活にもカメラは深く切り込んでいく。市議選に立候補するくらいなのだからどんな人物なのか?気になるところだが、彼は新妻と質素なマンションに暮らしている。普段はコンビニ弁当とカップ麺の食生活で、時々夫婦喧嘩をしたりもする。この山内氏は、東大卒という肩書きを持っているが、切手商を営む若干40歳のどこにでもいる平凡な男である。それが幸か不幸か当時の小泉旋風の恩恵で、まさしく棚ボタ式に出馬することになった。これまで政治の世界と全く無縁だった男が、どんな信念に基づいて政治活動を目指すのか?この重要な部分については、この映画を見てもほとんど分からない。彼はただ周囲の先輩議員や後援会の人々の指示を仰ぎながら、公衆の場に顔を売りに行くだけである。電車に乗る時にも、コンビニで買い物する時にも、候補名が書かれたタスキを外さないという徹底振り。ほとんど名刺を歩き配る営業マンのようである。敢えて彼の政治信念を写さないのも思想を排した”観察映画”のスタンスだろう。選挙の舞台裏とはこういうものなのか‥というのを見せられているような気がして、実に興味深く見る事が出来た。語弊があるかもしれないが、エンタテインメント・ムービーとして面白く見れた。
それと同時に、俺は一連の選挙活動を見ていて、山内氏を含めた関係者の余りに稚拙で型にはまった機械的な選挙戦術の数々に苦笑を漏らしてしまった。これは正にどぶ板選挙の典型である。候補者本人の人間性とは無関係に勝手に勧められていく選挙戦。選挙とは一体何なのか?それに投票する我々市民の1票の価値は何なのか?そんな事を考えさせられた。
見る人によっては選挙資金の苦労を思い知る人もいるだろう。あるいは、政治不信をいっそう強めてしまう人もいるかもしれない。この映画を見てどう思うかはまちまちだと思う。しかし、これこそが作家の思想を押し付けず広く自由な解釈を与えてくれる、相田監督の言うところの”観察映画”の面白さなのだと思う。次回作は「演劇」というタイトルで目下製作中ということである。どんな舞台が登場してくるのか今から楽しみである。
小品ならではの味わいがある。
「みんな誰かの愛しい人」(2004仏)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ぽっちゃり体型がコンプレックスの20歳のロリータは、有名作家の父から常に疎外感を受けていた。父がスレンダーな美女と再婚したことで、その悩みは益々深まる。音楽学校に通う彼女は、心を込めて吹き込んだ自分の歌が入ったテープを父にプレゼントする。しかし、父はそれを机の引き出しに閉まったまま一向に聴かなかった。落ち込むロリータだったが、ある日、酔っ払っていた青年セバスチアンと運命的な出会いを果たす。彼との交友に慰められるロリータ。そして、毎年恒例になっている家族揃っての旅行に彼を誘う。ロリータの担任教師シルヴィア、彼女の夫で新進気鋭の作家ピエールも招待され、一同は賑やかな休暇を楽しむのだが‥。
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(レビュー) 肥満体型で不美人で決して歌も上手くない地味な少女ロリータの不安と孤独をしみじみと綴った作品。
まず、映画の開幕からロリータの置かれてる状況が描かれている。彼女と父の関係は初めから折り合いが悪い。父はかつての文壇の華であり、派手な生活を好む遊び人である。地味なロリータとは真っ向から相反するキャラクターであり、根本的に性格が合わない。そして、父がモデル並のプロポーションを持つ美人と再婚したことで、ロリータは益々劣等感を募らせていく。
ロリータと他の人間関係を見てみると、彼女の置かれている状況は更に悲劇的である事が分かる。ボーイフレンドのセバスチアンはフリーのジャーナリストをしている。自分に優しくしてくれるが、それは有名作家の父に近づくためなのではないか‥と疑いを持つようになる。
音楽教師シルヴィアとの関係についても、同様に疑心暗鬼を募らせていく。新人作家をしている夫ピエールの出世のために、自分は利用されているだけなのではないか‥と勘ぐる。
独善的で大嫌いな父。それなのに、その父のおかげで自分と周囲の関係が成り立っている。父を認めたくはないが、そうすると今の自分まで否定することになってしまう。このジレンマがロリータを益々不安にさせていくのだ。
思うに、彼女の孤独感は容姿に対するコンプレックスからきているような気がする。年頃の女の子ともなればそれも当然だと思う。不細工でどうせ愛されないのなら自分の存在そのものを押し殺してしまえば嫌われずにすむ‥。そんな悲劇のヒロインに自分を貶めることで、彼女は孤独の殻に閉じこもっている。
しかし、俺はこのネガティヴな思考こそが最大の誤りなのだと思う。「ダメ」のレッテルを貼っているのは誰でもない、自分自身であることを彼女は気付いていない。被害妄想に取り付かれてしまえば、ますます誰からも愛されなくなってしまうのは当然である。このあたりは何となくイジメの構造に似ていると思った。
本作は、そんな彼女の成長を描くイニシエーション・ドラマとなっている。ロリータに幸せになって欲しい‥。そう誰もが思うだろう。そして、映画もその期待にきちんと応えてくれる。
ただし、決して全てを丸く収めようとするのではなく、分相応の慎ましやかな幸福で締めくくっている。そこがこの作品の良い所だ。そもそも諸手を挙げてのハッピーエンドは、この設定上リアリティを欠くだろう。丁度良い塩梅の着地点となっている。
キャストでは、何と言っても父親役を演じたJ=P・バクリの存在感が際立っていた。他人の作品をコケ下ろすくせに自身の作家としての才能の枯渇も、ロリータの歌の才能も認めようとしない独善的な父親を演じている。これをバクリは飄々と、時にダメ中年の哀愁をちらつかせながら妙演している。正にベテランの味わいという感じがした。
昨今のロボットアニメの中では最も熱い。
「天元突破グレンラガン 螺巌篇」(2009日)
ジャンルアニメ・ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) 獣人との戦いに勝利した人類は新しい国作りに向けて新政府を樹立する。7年の歳月が流れ人々の暮らしに平和が戻ってきた頃、総司令になったシモンは愛するニアにプロポーズする。‥とその時、ニアの体に異変が起こる。新たな敵アンチスパイラルに操られた彼女は、月を地球に落とす人類滅亡計画を宣告して姿を消してしまった。その後、シモンはグレンラガンに搭乗してアンチスパイラルの襲撃を防いだ。しかし、そのせいで多数の死傷者が出て彼は殺人罪で投獄されてしまう。月の落下まで3週間。人類は地球脱出の方策を練るのだが‥。
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(レビュー) TVアニメーション「天元突破グレンラガン」の劇場版の完結編。
ストーリーは前編同様、TVの展開をそのままなぞる構成になっている。TV版は2クールあり、この後編は2クール目をまとめている。前回から7年後を舞台に、新たな敵に立ち向かうシモン達の戦いが描かれる。
前編「紅蓮編」が荒野の戦いを描く西部劇だとすれば、この後編は正にスペースオペラ風のSF映画。スタイルもガラリと変わり、前作よりもシャープな造形が横溢する。同じ設定を拝借しながら、一味違った表情を見せるところが面白い試みに思えた。
物語は、シモンとニアのロマンスを軸にしながらドラマチックに展開されている。仰天の展開が次々と待ちうけ、これまで以上にハイテンションなアクションシーンの連続には血沸き肉踊る。本作の一つの特徴である歌舞伎のようなミエも際限が無い。何せ無限の宇宙の創生にまで話が広がっていくのだから、この理屈抜きの非常識さは、ある種バカ映画的なテイストとして捉えれば”笑え”て”熱く”なれること必至だ。ダンディズム溢れる幕引きまでケレンミタップリである。
ただ、前編同様、この後編も一見さんには厳しい内容だと思う。例えば、唐突に始まる冒頭のシーンなどは、元となるTV版を見てないとついていけないだろう。
また、後半における説明セリフによる自己完結の連続も、客観的に見れば微妙極まりないものだ。確かにストーリーをスムースに運ぶための解説キャラは必要だと思う。ただ、こうまで度々ウンチクを出されるとかえって邪魔になってしまう。1週間に30分のTVと違い映画は1本の作品として地続きで見ることになる。当然受け取り方も変わってくるので、このあたりに引っ掛かってしまうと、見る側のテンションもトーンダウンしてしまう。理屈を要する箇所は省略してしまった方が、むしろ良かったのではないだろうか。流れを中断すると言う意味では、合間に挿入されるアイキャッチも不要だったと思う。
TV版では中盤のカミナシティを舞台にした話は自分には退屈したパートだったので、ここを早々に切り上げた構成は評価できる。シモンとニアのドラマに焦点を当てたことで主題もスッキリと伝わってくる。また、映画版でしか見られない演出が前回よりも豊富にサービスされており、その点でも前編のフラストレーションは一気に解消された。
総集編だと割り切ってみても、駆け足な展開が苦しい。
「天元突破グレンラガン 紅蓮篇」(2008日)
ジャンルアニメ・ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) 獣人が支配する地球。地下に身を潜めながら生きていた人類に希望の光が灯った。穴掘り職人の少年シモンは掘り当てたガンメン”ラガン”に乗って獣人の急襲から村を救う。兄貴と慕うカミナ、美少女スナイパー、ヨーコと共に獣人達に戦いを挑んでいく。
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(レビュー) 2007年にTVアニメーションとして放映された「天元突破グレンラガン」の劇場版。TVシリーズをブラッシュアップして劇場2部作として再構成。今作はその前編にあたる。
獣人達に蹂躙される人類の反乱がハイテンションなアクションとコミカルな演出、泣きの演出で綴られていく。
2クールあったTVシリーズを約2時間の映画2本に短縮する都合上、どうしてもストーリーを大幅に端折らなければならない。サブキャラの紹介に費やす時間がほとんど無く、映画前半のダイジェスト風の作りはかなり乱暴で、初見さんには辛い内容だと思う。したがって、作品単体として見た場合は”歪な作品”と言わざるを得ない。
ただ、本作の一番の”売り”は近年隆盛にある「機動戦士ガンダム」等から始まるリアルロボット系アニメの最北端に位置するスーパーロボットアニメの醍醐味。これを突き詰めた所にあり、この劇場版でもその面白さは存分に出ている。
多少の無理難題はその場の勢いでどうにかできるというあっけらかんとした前向きさ。千脇肉踊る燃えテイストをいっぺんの曇りも無く描ききった潔さ。そこに生じるカタルシスは”男の子”なら間違いなくハートを熱くさせるだろう。主人公シモンの成長ドラマはオーソドックスで、尚且つ余計な枝葉がカットされたもので非常に明快だ。それゆえ、入り込みやすい。一言で言ってしまえば、昭和のメロドラマ風な熱血テイスト。どこか懐かしさも覚えてしまう。
監督今石洋之&脚本中島かずきのコンビが生み出す大胆な演出も本作の大きな特徴だろう。今石的極端なパースで構成された画面、中島的大見得を切ったセリフの数々が魅せる。また、クライマックスはほぼ劇場用に書き下ろされたことでストーリーが饒舌に展開されており、TV版よりもパワーアップしたような印象を受けた。
あらすじを追いかけるだけのパッチワークになってしまた点は大いに不満が残るが、後編への伏線と捉えればとりあえず見て損は無いと思う。
明らかにD・ボウイをモデルにしているが、映画は「虚飾」にすぎないことを皮肉的に語っている。
「ベルベット・ゴールドマイン」(1998英)
ジャンル青春ドラマ・ジャンル音楽・ジャンルSF
(あらすじ) 19世紀末、英国上空に飛来したUFOから赤ん坊がグリーンのエメラルドとともに地上に舞い降りた。それから100年後のロンドン。ユニセックスなメイクとファッションでロック界のスターに登りつめたブライアン・スレイドが公演中に射殺される。ところが、それが狂言だった事が発覚し彼はシーンから姿を消してしまった。それから10年後、NYの新聞記者アーサーが事件の真相を追うことになる。当時を知る関係者の話を聞きながら、時代を駆け抜けたスーパースターの栄光と挫折の物語が明らかになっていく。
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(レビュー) ロックスターの栄光と転落の人生をファッショナブルな映像で綴った音楽映画。
カリスマ的なロックスター、ブライアンをJ・リス・マイヤーズ、その恋人となるカートをE・マクレガー、そして二人の関係を追いかける記者アーサーをC・ベイルが演じている。人気若手俳優が夫々に華やかなショウビズ界の舞台裏で愛し合うという物語は、ある種腐女子嗜好に合致したドラマと捉えることも可能だ。現に監督のT・ヘインズはゲイである事を公言しているし、当然そのあたりの所は描きたい事の一つだろう。ただ、ドラマの根幹を成すのは、UFO飛来という寓話のようなオープニングからも分かる通り、エイリアンに見初められた数奇なスターの傷だらけの栄光という奇抜なファンタジーである。セクシャルな”美しさ”の傍らでは、人間の業に根ざした”醜悪さ”が併置され、「アナザー・カントリー」(1983英)のような純化された耽美映画とは一線を画す独特な雰囲気を持っている。
また、T・ヘインズの作家としての資質は、ゲイ・カルチャー以外にもう一つ、ポップス、ロックに対する偏愛が挙げられる。後にボブ・ディランの伝記映画「アイム・ノット・ゼア」(2007米)を撮ったことからもそのことはよく分かる。随所に登場するライブ・シーンやブライアンのPV映像にその資質が見られる。70年代に一斉を風靡したグラム・ロックとパンクはブライアン、カートという二人のスーパー・スターの活躍によって体現され、この映画に「音楽」の存在は欠かせない。
また、映像も本作の重要な要素である。サイケデリックなトーンが見られたかと思えば、中世ゴシック風なトーンが突如として表れ、この寓話を様々にデコレーションしながら、まるで”おもちゃ箱”のように見せていく。「音楽」と共に繰り出される数々の「映像」は本作のもう一つの魅力と言っていいだろう。
ところで、「音楽」と「映像」は人間の想像力が生みだす産物という点で共通する代物だと思う。発信する側と受け取る側の相互関係、人と人が想像力で繋がる共有文化だ。それはとてもミステリアスなものである。そして、同時に洗脳の道具にもなりうる恐ろしいものであると思う。この事を示すセリフが劇中から見つかる。
ブライアンは記者会見のシーンでこんなことを言っている。
「音楽は仮面にすぎない」
彼にとって音楽は大衆を扇動する一つの手段に過ぎなかった。ブライアンが生み出した巨大なイメージ(歌詞や曲のリズム)に大衆は踊らされていった。極論すれば、音楽は人々の心を支配するという点で宗教の偶像崇拝に似た構造を持っているような気がする。何の疑念も持たず踊らされる大衆の姿はどこか滑稽であるが、それを人は「流行」と呼ぶのだろう。
そして、終盤でカートはアーサーにこう言っている。
「人生はイメージだ」
ラストでアーサーは雪の中に幸せを見る。これは彼の妄想だろう。つまり、この世の全ては見る人の想像力によって如何様にも見える‥ということを言っているのだと思う。
以上の二つのセリフから、「音楽」と「映像」はこんな風に考えられるのではないだろうか。
「音楽」は聴覚に「映像」は視覚に訴えるイマジネーションに過ぎない。そして、人はそれに偶像を求め、その偶像によって狂わされていく生き物である。こう考えると、人のイマジネーションとは実に"恐ろしく″、″面白いもの″であるような気がする。
そして、金ぴかド派手なグラムロックを奏でながら過剰な映像装飾を観客に突きつけてくる本作も、正にこのことを地で行っているような作品と言えよう。本作が訴えかけるテーマは、案外哲学的かもしれない。
ところで、ニューヨークのアンダー・グラウンドでカルト的人気を博した「リキッド・スカイ」(1983米)は、ある部分で本作とよく似ている。UFOに乗って登場するジャックはバイセクシャルな宇宙人という設定で、彼の目的は地球を侵略(?)することである。これは「リキッド・スカイ」に登場する宇宙人とよく似ている。もしかしたら意識的な拝借なのかもしれないが、作品の出来に関して言えば、余りにも退屈で寝てしまった「リキッド・スカイ」に比べたら本作のほうが数段上である。
終盤が‥。
「アンダーワールド」(2003米)
ジャンルファンタジー・ジャンルアクション
(あらすじ) ヴァンパイアとライカン(狼男)は千年に渡って激しい戦いを繰り広げていた。ヴァンパイアの女戦士セリーンは、ライカンがマイケルという青年医師の命を狙っていることを知る。一体このマイケルにどんな秘密が隠されているというのか?セリーンはライカンの襲撃から彼を守る任務を負う。しかし、逃走中にライカンのリーダー、ルシアンにマイケルは噛まれてしまった。こうして狼男になってしまったマイケルは、ヴァンパイアからも命を狙われるようになる。
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(レビュー) ヴァンパイアと狼男の壮絶な戦いを描いたファンタジー・アクション作。
ダークでゴシックなヴィジュアルとスタイリッシュなアクションシーンに魅せられる。ヴァンパイアの女戦士セリーンを演じたK・ベッキンセイルのセクシーなラバースーツ姿も実に決まっている。目の保養としては申し分ない。
しかし、どれもこれも、どこかで見たことのあるようなシーンばかりで、厳しく見てしまうとオリジナリティに欠けると言わざるを得ない。「マトリックス」(1999米)、「バットマン」(1989米)、「エイリアン2、3」(1986、1992米)、「ブレードランナー」(1982米)、「ハウリング」(1981米)といった所の作品をかなり意識して拝借しているような気がした。このあたりはご愛嬌ということで、突っ込みを入れながら見るのがベターか?
物語は理詰めに終始する前半はやや退屈した。後半からようやく波に乗っていける感じだ。各キャラクターの過去を明らかにしながらドラマチックに盛り上げられていく。特に、ルシアンとビクターの因縁は中々捻りが効いていて面白かった。ただ、これが前面に出すぎてしまった感がする。その間、本来の主人公であるセリーンが後方に追いやられてしまい、ドラマ的にどっちに向かおうとしているのかよく分からなくなってしまった。そもそも終盤のセリーンの立ち振る舞いにどんどん一貫性が無くなっていくのも問題である。ヴァンパイアの若きリーダー、クレイブンとの確執はどこへ行った?敵であるルシアンの言葉を素直に信じてしまうのはいかがなものか?キャラクターの芯がぶれるのでドラマに中々集中できない。終盤はもっときちんと考えて作って欲しかった。
尚、シリーズ化され現在のところ3作目まで作られている。第4作は来年全米公開で企画されているが、コアなファンを持つこの手のシリーズの命運は、やはりその世界観を崩さないということに尽きるだろう。ただ、逆に言うとマンネリ化というジレンマも抱えることになる。このあたりを製作側がどう判断するか?難しい問題だが、果たして‥?