バートン世界を堪能できた。
「アリス・イン・ワンダーランド」(2010米)
ジャンルファンタジー・ジャンルアクション
(あらすじ) 19歳に成長したアリスは、子供の頃に見た不思議の国の記憶をすっかり忘れていた。ある日、年頃になった彼女に母親は結婚話を持ってくる。突然のことで戸惑ったアリスは、婚約者からのプロポーズの返事を保留してしまった。‥とその時、アリスはチョッキを着た白ウサギを目撃する。ウサギの後を追いかけ穴に落ちるアリス。そこで見たのは変わり果てた”あの”不思議の国だった。アリスは伝説の救世主となって悪の支配者、赤の女王に戦いを挑むようになっていく。
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(レビュー) ルイス・キャロルの童話「不思議の国のアリス」をベースにしたファンタジー映画。成長したアリスが不思議の国を救うための冒険が描かれる。
監督は鬼才T・バートン。アリスを助ける帽子屋マッドハッター役に盟友J・デップが扮している。いかにもバートンらしいキッチュな造形とデップのコミカルな演技が魅力的である。今回も二人の息のあったコンビ振りは健在だ。
不思議の国アンダーランドに登場するキャラも、風変わりなものが多くて面白い。チェシャ猫、双子、赤の女王といったあたりが、バートンらしい独特の味付けが加えられ刺激的だ。この他にも多くの不思議なキャラクター達が登場してきて画面を賑わす。尺の問題もあるので持て余し気味な感じも受けるが、バートンのセンスがフルに画面に注がれている。ただ、ダークなバートン映像も見てみたいという人には物足りなく写るかもしれない。そこはディズニーだから‥ということで見てあげるしかない。
物語は簡潔明瞭にしてヒロイック、頭を使わずに見れる娯楽然とした内容になっている。3D映画としては、ドラマの詰め込みは必要最低限にして、このくらいにしておくのが丁度いいと思う。余り複雑になりすぎるとせっかくの映像に集中できなくなってしまう。
テーマも明快だ。アリスが自らの運命を切り開いていくというイニシエーション・ドラマになっている。それが、最終的に現実世界とリンクすることで上手くまとめられていると思った。
ただ、無駄のない脚本を目指したのだろう。それが見易さに繋がっているのだが、逆に言うとそこが問題という気がしなくもない。描きこみ不足による幾つかの突っ込みどころがあるし、ドラマの集約を意味するアリスの決断シーンも今ひとつパンチに欠ける。ここをもっと感動的に見せようとするなら、幾つかの方法があるだろう。手っ取り場合のは、恋愛要素を盛り込むことだ。13年という時の流れがアリスを少女から大人の女性へと成長させた。それによって、不思議の国の世界での記憶が欠け、今その記憶を取り戻そうとして出会ったマッドハッターと恋に落ちる‥。現実と妄想の挟間で揺れ動く切ない乙女心を擁したなら、もっと盛り上がったのではないだろうか。そう思うとクライマックスにかけての展開はもう少しベタに持って行っても良かったような気がした。
それにしても、声優にC・リーの名前がクレジットされているのには驚いた。もう90歳になるというのに‥まだまだ達者で何よりである。
「8Mile」と「SLAM」といったあたりの作品とよく似ているラッパー映画。
「ハッスル&フロウ」(2005米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル音楽
(あらすじ) メンフィスの田舎町。ポン引きをしているDジェイは、閉塞感漂うこの町で荒んだ生活を送っていた。ある日、行きつけのバーで人気ラッパー、スキニーが来訪することを聞きつける。実は、彼とは昔ハッスル(裏稼業)した仲だった。二人ともラッパーになる夢を見ていたが、今や彼は押しも押されぬ人気者。一方、自分は日陰のような人生を歩んでいる。このまま負け犬のままで終わりたくない‥そう思ったDジェイは、旧友でサウンド・エンジニア、キーの協力を得て、スキニーに渡すデモテープを作り始める。
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(レビュー) 負け犬人生を送ってきた中年男がラッパーになることを夢見て悪戦苦闘する音楽映画。
熱くなれるものがあるというのは素晴らしいことだと思う。たとえ、日の目を見ずとも、誰からも評価されなくとも、「やりきった」という満足感があればその人にとっては貴重な人生の財産となろう。結果よりも挑戦することに意義がある。スポーツではよく耳にする言葉であるが、これは人生にも当てはまる言葉だと思う。
そして、この言葉は青春映画ではお馴染みのテーマでもある。
本作の主人公Dジェイは社会からドロップアウトした中年男である。これからの人生に夢膨らませる少年少女達と違って、人生をやり直すには手遅れの男である。しかし、彼はそれでも尚、過去に果たせなかったラッパーになる夢を追い求めていく。これは正しく“挑戦”である。基本的なプロットは、夢を追いかける青春映画とほとんど変わらない、実にオーソドックスなものに思えた。
ただ、テーマは分かるのだが、正直なところ本作の主人公Dジェイに感情移入できるかと言えば「否」である。
本作は人生の敗北者を描くルーザー映画である。ルーザー映画の場合、ダメダメな主人公をいかに愛着が沸くように見せるかが、作劇する上での一つの鍵だと思う。例えば、主人公よりも更にダメな奴がいてそいつを助けるとか、極上のヒロインが現れて惨めに振られるとか‥。そういったエピソードの積み重ねによって、主人公に対する同情、愛着が沸き起こり、結果的に人間的な魅力に繋がっていくわけである。
しかし、本作のDジェイにはそういった魅力が皆無である。そもそも何かを得るためには、そのための努力と犠牲を払わなければならない。それが、果たしてDジェイにあっただろうか?周囲の物分りの良い人間に支えられるだけで、彼自身は何の犠牲も払っていない。それどころか、相変わらず売春婦に対する傍若無人な振る舞いは改まることなく、内面的な成長は一切見られない。これでは彼に共感しろというのが無理な話である。それゆえ、彼が作った歌詞が周囲の人々を惹きつける理由にも、全く説得力が感じられなかった。
ドラマの語り方の問題もあろう。おそらく彼の過去には凄惨な生い立ちがあったのだと思う。しかし、映画はそこの部分を具体的に描いていない。ここをジックリと見せてくれていれば、彼に対する同情の念も生まれ映画全体がまた違った印象になっていたかもしれない。テーマは決して悪くはないのだが、ドラマの見せ方の点でかなり損をしていると思った。
主要キャストは概ね好演している。Dジェイのルーザーっぷりも中々板についていた。
余談だが、”ビッチ”は女性を罵倒する言葉だと思っていたが、男にも使うことを本作を見て知った。
アンパイなネタだが‥。
「朝な夕なに」(1957西独)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 女教師ブルクホルトは、過去に学校とトラブルを起こして教育局長から目を付けられていた。このたび、ある男子校へ転勤を命じられる。そこで落ちこぼれクラスを受け持つことになった。しかし、彼女はつい高圧的な態度をとって生徒達のひんしゅくを買ってしまう。生徒達は反発して補習をサボって好きなジャズバンドの練習に出かけた。思うようにいかず苦悩するブルクホルト。そんな彼女に、生徒の一人マルティンが想いを募らせる。
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(レビュー) 管理教育に敢然と抗した美人女性教師のドラマ。
教師と生徒の師弟愛を美談風に描くドラマは、古今東西いくらでもある。これもその系譜に入る作品だが、正直なところこ出来は余り芳しくない。教師対生徒の軋轢ドラマがあってこそのカタルシスだが、この映画はそこの部分をかなり適当に描いている。
物理の授業でブルクホルトがちょっとしたユーモアで生徒達を笑わせるのだが、果たしてこれだけで”雪解け”となろうか?朴訥とした時代だったのだ‥と言い聞かせながら見ても安易に写ってしまう。
他にも、作りの甘さは多々見つかる。ハンスの母親の言は、いくらなんでも過保護すぎるのではないだろうか。さしずめ現代ならモンスター・ペアレンツである。しかも、それをブルクホルトが鵜呑みにしてしまうのだから、この浅はかさには呆気にとられてしまう。キャラクタータッチングの上でも納得のいかない演出に思えた。
また、ブルクホルトと恋仲になっていく校長も決して魅力的な人物とは言い難い。そもそも、「良」と言ったその口で次のシーンでは「悪」と意見を翻すのだから、彼の言動の一貫性の無さには困ったものである。一体、ブルクホルトは彼のどこに惚れたのだろうか?その経緯も浅くしか描かれていない。
極めつけは強引なハッピーエンド。これには閉口してしまった。どう見ても、行き当たりばったりな展開としか言いようがない。
確かに、生徒の溜まり場となる地下のジャズバーは魅力的な空間だと思うし、美人教師の毅然とした造形も中々に良い。しかし、余りにも朴訥とし過ぎていて興が削がれる作品だった。
春歌と軍歌のぶつかり合い!?
「日本春歌考」(1967日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 高校生中村は大学受験のためにクラスメイトと上京した。一同は試験会場で見かけた受験番号「469」番の少女に一目惚れし、妄想の中で彼女を犯した。その夜、昔の担任教師大竹に会い、飲み屋街に繰り出す。すっかり酔いつぶれた大竹を介抱して一同は旅館に一泊することになった。暇を持て余した男子達は隣の女子の部屋にちょっかいを出して喜んだ。しかし、中村は何だかしらけてしまい忘れ物を取りに大竹の部屋を訪れた。そこで目にしたのは一酸化中毒で倒れる大竹の姿だった。中村はそれを見殺しにしてしまう。翌朝、警察の取調べを受けるが彼はシラを切った。しかし、女子の一人金田の言葉に動かされて全てを告白する決意をする。
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(レビュー) 性に興味津々な年頃の少年達とそれを受け止める女達の葛藤を、様々な地方に伝わる春歌、いわゆる猥歌に乗せて綴った異色の青春映画。
監督・脚本は大島渚。いかにもこの人らしい暴力的な性の解放と政治思想が入り混じった怪作となっている。
序盤の黒い日の丸を掲げた建国記念日反対デモ、大竹の内縁の妻高子の皇国史観の大演説、軍歌や西欧ポップスに被さる春歌等々、激しいイデオロギーの対立とでも言うべき主義主張の応酬がこの映画の中には登場してくる。過激な作家として知られる大島は浩々とこれを画面に映し出し、これらが公開当時どう捉えられたか分からないが、今こうして改めて見ると熱き闘争の時代を確認することが出来る。
ただ、俺はこれらの主義主張が春歌によって表現されるところに多少の引っ掛かりを覚えてしまった。ミュージカル映画にも言える事だが、一歩引いて冷静に見てしまうと”作り物臭さ”が際立ち、セリフと違って歌詞で表現される場合、過剰で鼻につく。ことイデオロギーの発露として利用される本作のようなケースでは、独りよがりな主張に見えかねない。実際、中村が高子を抱くシーンや平和ソング集会のシーンなどは、余りにも”わざとらしく””青臭く”失笑してしまった。春歌を持ってきた狙いは買うが、実際にはかなり戸惑いを覚える作品でもあった。
映像は斬新で処々に印象に残るシーンがある。
白地に黒い日の丸、雪の中を歩く黒い学生服を着た生徒達等、白と黒のコントラストが織り成す映像に大島監督の様式美が感じられる。彼は
「日本の夜と霧」(1960日)や
「白昼の通り魔」(1966日)といった作品でも、白と黒のコントラストを効かせた映像で、作品に独特の緊張感をもたらすことに成功している。時にアヴァンギャルドでリアリティに欠けると評されることもあるが、これこそが大島渚独特の美的感性だろう。
また、中村と高子が罪の意識について語るシーンは、朝ぼらけのロケーションの美しさも相まって実に透明感のあるシーンで魅了される。奥行きのある構図とロングテイクに思わず引き込まれてしまった。
「469」番を妄想の中でレイプするシーンも極めて形而上的な不気味さを漂わせていて印象的だった。この妄想とまったく同じシチュエーションで描かれるクライマックスシーンも、夢うつつのごとしで大変不気味である。若さ故の暴走とそれを押さえ込もうとする権力の激しいぶつかり合いが、妄想と現実をまるで合わせ鏡のように対置することでハイテンションに演出されている。
悦楽主義者に成り果てていく男をブラックに描いた作品。
「悦楽」(1965日)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 大学生篤は家庭教師をしている匠子のことを密かに愛していた。彼女は過去にレイプされたことがあり、しかもその男から未だに付きまとわれていた。憤りをおぼえた篤はレイプ犯を電車から突き落としてしまう。その後、匠子は資産家の男と結婚した。何のために俺は人殺しをしてまで‥茫然自失となる篤。その後、殺害を目撃したという男から脅迫を受けるようになる。その男は官僚役人で、この事を黙ってやる代わりに横領した公金を出所するまで預かって欲しいと申し出た。篤はそれを承諾した。ところが、大金が手元にあると流石に正気を保てなくなる。匠子のことを忘れられず、彼はその金で彼女に似た女を次々と買い漁っていくようになる。
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(レビュー) 平凡で実直な青年が殺人をきっかけに人生を狂わせていく愛憎ドラマ。
篤は永遠の片想い匠子の影を追いかけるようにして、転がり込んできた大金で彼女に似た4人の女達を月100万円で囲っていく。だが、実際にはそんなに匠子には似ていない。すでに彼の頭は狂っているということか?ともかく、彼は匠子を忘れられず怠惰な悦楽主義者に成り果てていく。
4人の女達は夫々にタイプが異なり個性的に色分けされている。
一人目は派手に遊びまくるヤクザの愛人、二人目は借金に苦しむ地味な人妻、三人目はしっかり者のキャリアウーマン、四人目は知的障害の売春少女。篤は彼女等との肉欲を通して、得られなかった匠子との幸せな日々の代用としていく。正に独りよがりの屈折した純愛と言えよう。実に痛々しく写った。
監督は大島渚。肉欲に溺れる破滅思考のドラマはいかにもこの人らしい。原作は山田風太郎だが、大島が脚本を書くとドライなタッチと幻想的なタッチが加わり寓話的な味わいが加味されるから面白い。
大島作品のもう一つの特徴、政治思想については今回はほとんど出てこない。唯一あるとすれば、浪費癖の篤の姿を通して見えてくる反ブルジョワ的な思想くらいであろうか。2番目の女静子の夫が幼い子供を連れて妻を返して欲しいと頭を下げに来るシーンは、ルサンチマンを痛烈に皮肉ったシーンと言える。思えば、夫の下卑た行動に心を痛め病院のドアにそっと金を挟む篤は、やはり冷血漢になりきれない男だったのだろう。それが彼の弱さであり愚かさである。その後のオチの伏線にもなっている。
演出に関しては、ハイスピード撮影とオーバーラップで描く悪夢シーンが怪奇めいていて印象に残った。また、後半に登場する黄昏時のロケーションは画面全体が毒々しいセピア調に染められ、篤の末路を予感させ印象に残った。
篤役を演じた中村賀津雄は中々の好演を見せている。愚かでどうしようもない男だが、そこにリアリティをもたらした所に上手さを感じた。
一方、匠子を演じた加賀まり子は、要所のみの出演で惜しまれた。篤の人生を決定付けるキーマンなのだから、もっと印象に残るような見せ場が欲しい。ちなみに、ラストシーンの彼女の登場の仕方も唐突過ぎて不自然に思えた。もはや後半の彼女は完全に幻の女として描かれている。それはそれでいいのだが、少なくとも彼女が篤にとって絶対的な存在であること。それを明確にしておく必要はあったように思う。終盤にかけての二人の対峙が今ひとつ盛り上がらないのは、この部分を御座なりにしたからだと思う。
突っ込みどころ満載で美味しくいただきましたw
「悪夢の銀河鉄道」(1984米)
ジャンルホラー
(あらすじ) 銀河鉄道に便乗する神と悪魔が、人間の魂を取り合いながら3つのストーリーを目撃していく。
1つ目は、新婚初夜に自動車事故で妻を失った男の話。救出された彼は恐るべき秘密を知る事になる。
2つ目はポルノ女優を巡って死のゲームにのめり込んでいく男たちの話。
3つ目はアンチ・キリストの夫を持つ女医クレアの話。現代に蘇った悪魔と対決していく。
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(レビュー) シュールで支離滅裂な展開を見せるオムニバス・ホラー作品。
神と悪魔は宇宙を飛ぶ銀河鉄道に乗りながら、人間の魂をどちらが貰うか選別している。その隣ではロックバンドが陽気な歌を歌っている。全くもって理解不能な設定だが、そこに挿入される3つのエピソードは更に輪をかけてよく分からない話だ。
1話目は展開が超高速な上に登場人物が雑然としている。いつの間にか登場していつの間にか死んでいくという適当さ‥。クライマックスは悪趣味な残虐シーンのオンパレードで、尚且つオチも投げっぱなしだ。
2話目はナレーションが大活躍する(笑)。これまた超高速展開。ところが、いよいよクライマックスという時に突然終わってしまい、結末は神が取ってつけたように説明する。伏線も投げっぱなしだ。ただ、ここに登場する死のゲームはアイディアとしては中々面白いものがあった。
3話目は前2編より更に入り組んだドラマで窮屈な感じを受ける。オカルトチックな雰囲気は良いのだが、時々出てくる魔界のモンスターが全てをぶち壊している。チープなクレイアニメで表現されるのだが、何故か人間までもが粘土で作られたキャラクターで表現される。しかも、皆5頭身なので違和感ありまくりである。普通は合成するのだが、何故にこんな手の込んだ事をする必要があったのか?
ロックバンドは各挿話のインターバルとして登場してくる。おそらくミュージカル要員なのだろうが、ストーリー的には全く関係ない。
そもそも神と悪魔がテーブルを挟んで対峙している時点で、どう見たって電波系な映画である。内容もとにかくいい加減だ。しかし、所々に不思議な面白さを感じるのも確かで、突っ込みを入れながら見るバカ映画としては申し分ない。
後で知ったが、この映画は3本のホラー映画を無理やり編集してでっち上げた作品だそうである。しかも、そのうちの1本は未完成の作品というから酷いものである。おそらく2話目がそうなのだろう。どうりで話が急に飛んだり、オチがなかったりするはずである。
良くも悪くもカーウァイ的。
「マイ・ブルーベリー・ナイツ」(2007香港中国仏)
ジャンルロマンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 恋人に逃げられ傷心の日々を送るジェレミーは、ニューヨークのダウンタウンに小さなカフェを構えている。そこに失恋したばかりの女性リジーがやって来た。ジェレミーが作ったブルーベリー・パイを食べて彼女の心は少しだけ安らぐ。その後、リジーは自分を見つめなおす旅に出た。道中、妻に見捨てられた孤独な保安官アーニーに出会う。彼の苦しい胸の内を知ったリジーは同情せずにいられなかった。次第に交友を育んでいく二人。そこにアーニーの妻を奪った男が現れて‥。
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(レビュー) 失恋した者同士のささやかなロマンスをスタイリッシュな映像で描いた作品。
監督・脚本はW・カーウァイ。同監督作の「恋する惑星」(1994香港)を髣髴とさせるシチュエーションだったので、これはセルフ・リメイクか‥?と思ったが、途中からリジーのロード・ムービーに変わっていく。同じシチュエーションを扱いながら、まったく別の映画になっていくあたりが面白い。
ただ、全体的なストーリーの流れは決して上手くできているとは思わなかった。
保安官アーニーにまつわるエピソードまでは良かった。人は一人では生きていけない。そんな教訓が感じられる逸話になっていて、この経験が失恋したリジーを一歩新しい未来へと向かわせる。
問題はその後である。リジーはカジノ通いが止められないハスッパな女レスリーと出会う。彼女もまた人知れず孤独を抱えて生きる幸薄い女性なのだが、このエピソードが地に足の着かない描かれ方になっている。アーニーのエピソードがかなりヘビーだったので、それとの比較もあろう。どうしても軽く写ってしまうのだ。ここにも教訓が隠されているのだが、リジーを成長させるという意味で言えば、あっても無くてもいいような‥。また、リジーのアルバイトの理由が車を買うためというのも、何だか取ってつけたようで今一つドラマに身が入らない。
レスリーのエピソードが、何故こうも弱いものになってしまったのだろうか。成長ドラマであるなら、主人公が一歩ずつステップアップしていく過程を積み重ねていくことで構成されていくべきである。例えば、以前このブログで紹介した山田洋次監督作の
「十五才 学校IV」(2000日)という作品がある。あの作品などは非常にオーソドックスであるが、旅を通して成長していく主人公の姿が堅実に描かれていた。しかし、本作は同じロードムービーでも、結果的に主人公がどれだけ成長したのかがよく分からない。
そもそもカーウァイという人はシナリオを書かずに映画の撮影に入ることで有名な監督である。全ては彼の頭の中にあって、その場その場で即興的にシナリオは書き換えられていくそうである。かつて、木村拓哉が「2046」(2004香港)で、この独特の撮影方法に戸惑ったというような事を語っていたが、こうしたやり方は俺の知るところでは他にはイギリスのM・リー監督くらいである。確かに独特な撮影方法で、上手くいけば予想しなかったような軌跡的なシーンを作り出す事が出来る。しかし、よほど明確に全体のイメージが固まってなければ、逆にチグハグで散漫な映画になってしまう恐れもある。今回の脚本は、カーウァイともう一人のは共同脚本であるが、果たしてそのあたりのところはどうだったのだろうか?疑問に思う。
映像は魅力的であった。計算されつくされた色彩と構図が織り成す陶酔的なまでの”美”は、いかにもカーウァイらしい感性だ。この浮遊感にずっと身を委ねていたい‥そんな心地良さをおぼえた。中には小洒落たPV風な映像が続き鼻につくという人もいるかもしれないが、良くも悪くもカーウァイという映像作家の特質はそこにある。
リジー役は本作が映画初出演になる歌手のN・ジョーンズである。口の周りにパイをつけて眠りこけるなど、コメディチックな演技は愛らしく写るが、全体的な演技を考えると残念ながら今ひとつといった印象である。
「ハムレット」を完全再現した大作!
「ハムレット」(1996米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 国王没後のデンマーク。王の跡を継いだのは弟のクローディアスだった。ハムレット王子は、父が亡くなって間もないというのに盛大な即位式を敢行し、あまつさえ母ガートルードと結婚した彼を許せなかった。ある夜、父の亡霊が出没するという噂を聞いたハムレットは、森の奥深くで亡き父と対面する。父の亡霊からクローディアスに暗殺された事を聞かされたハムレットは復讐を誓う。そして、愛する恋人オフィーリアにさえ心を閉ざし、狂人の振りをしながら只ひたすらクローディアス暗殺の機会を伺うのだった。
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(レビュー) シェイクスピアの名作を、自他共に認めるシェイクスピア・マニア、K・ブラナーが監督・脚本・主演を務めた4時間に及ぶ大作。物語の舞台を19世紀に移す改変は見られるものの、原作戯曲のセリフをノーカットで忠実に再現した所に、ブラナーの熱意が感じられる。今尚多くの人々から愛されるこの歴史的名作を蘇らせることに注力した彼の思いはこの作品から存分に伝わってきた。
ただ、オリジナルを完璧に再現しようとした結果、”映画”として見た場合幾つかの不自然さもおぼえた。
例えば、オリジナルを踏襲したセリフは芝居がかったものが多く、純粋に劇映画として見ると大仰で不自然極まりない。同様の事はミュージカル映画についても言えることだが、あくまで”舞台劇を映画にした作品”という割り切りの上で見るべき作品だと思う。
また、冒頭の亡霊登場のシーンの臨場感の無さ。これも舞台劇的演出に近い。映画固有のモンタージュは、その意味するところを完全に切り離して援用されている。心の声を発する一人芝居も、やはり映画というより舞台的だ。
演劇舞台と映画の違いは、観客にとって”平面的”か”立体的”かの違いである。ステージ上の芝居は、言わば観客から離れたところに存在する”額縁付き”のドラマである。舞台から遠くの席に座る観客にも分かるように、役者がオーバーアクトになるのはそのためだ。
これに対して、映画は画面上の芝居に加えて、クローズアップ等の様々な映像演出で人物の心象を表現し、観客をドラマの中に引き込もうとする。映画は演劇舞台よりも能動的に観客をドラマの中に引き込もうとする”立体的”な構造を持った表現媒体なのだ。演劇舞台は客観的視点で見るものであるが、映画は主観的視点で見るもの。この違いがある。
そういう意味で言えば、本作はあくまで演劇的な表現演出に留まっている。”堂々たる名作の映画化”と言うことは出来ても、”堂々たる名作映画”とは素直に評しにくい作品である。
キャストは豪華である。J・レモンとJ・デンチはほんわずかな出演で何とも贅沢な器用である。シェイクスピア作品のイメージとかけ離れたR・ウィリアムスやB・クリスタルといったアメリカ人コメディ俳優を起用した試みも面白い。
K・ブラナーはハムレットを演じるには少し年を取りすぎた感じを受けたが、大幅に減量して挑戦している。
そして、オフィーリア役を演じたK・ウィンスレットは本作で一番印象に残る演技を見せてくれた。彼女が狂気に蝕まれ魂の抜け殻のようになっていく様は必見である。
構成がユニーク。
「ヘンリィ五世」(1945英)
ジャンル古典・ジャンルアクション・ジャンル戦争
(あらすじ) 15世紀初頭、イギリスのヘンリィ王の元にフランスから使者が拝謁にやって来た。彼等に託された伝言はヘンリィを怒らせる。ヘンリィは領土継承をかけてフランス軍に戦いを挑んでいく。
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(レビュー) シェイクスピアの戯曲「ヘンリー五世」を、イギリスが生んだ名優L・オリヴィエが製作・監督・主演を兼ねて映画化した作品。
正直、物語の中味は余りない。いわゆる軍記物としての面白さはあるのだが、反面、登場人物の心象は表層的で味わいに欠ける。
したがって、この単調なドラマをどう演出するか?そこが見所となってくる。
まず、物語は大衆演劇場で上演される「ヘンリー五世」から始まる。コロスを狂言回しにしながら、イギリス王室、居酒屋での兵士達のやり取り、イギリス軍の出航、フランス上陸等々、軽快に展開されていく。ちなみに、コロスは古代ギリシア劇において物語背景を観客に説明する役であり、元々は合唱隊のような組織構成だった。ここでは一人の男がその役を担っている。面白いのは彼が観客の想像力を掻き立てるようにして、ドラマを劇場のステージから、オープンセットのスタジオ、広大な自然のロケーションへと、どんどん広げていく点である。劇中劇だった虚構のドラマ「ヘンリー五世」が、シーンが進むに連れて外の世界に飛び出し現実のドラマになっていくのだ。この構成が奇抜で面白い。
映画中盤で描かれるシュールなオープンセットは、メタ演劇的な遊び心に満ちいて実に楽しい。
そして、後半の大自然の中で描かれる合戦シーンの迫力には圧倒されてしまった。もしかしたら、M・ギブソン監督の「ブレイブハート」(1995米)はこの作品を参考にしているのではないだろうか?所々の演出がよく似ていると思った。
映像は鮮やかに設計されており、衣装、美術は今見てもお洒落で刺激的である。撮影はR・クラスカーが担当している。彼は後に「第三の男」(1949英)等、数々の傑作を撮っていくが、本作が彼のデビュー作となる。ここでも見事なカメラワークに魅せられた。
宮崎駿の脳内イマジネーション?
「崖の上のポニョ」(2008日)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 海辺の小さな町。5歳の少年宗介は、介護施設に勤める母と崖の一軒屋に暮らしている。ある日、宗介は浜辺で瓶に詰まった金魚を助けてやる。ポニョと名付けて可愛がり、ポニョも宗介の事が大好きになった。ところが、そこに海の魔術師フジモトが現れてポニョは海底深くの屋敷に連れ戻されてしまう。ポニョは人間の姿になって宗介に会いに戻ろうとするが‥。
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(レビュー) 無垢な少年と人間になりたいと願う金魚の不思議な恋の物語。
宮崎駿監督のイマジネーションが作り出したファンタジックな映像の数々が素晴らしい。特に、後半の海に沈んだ町の神秘的な美しさは白眉である。ただし、このファンタジーが一体誰の目線で描かれているのか、そこは今ひとつ判然としなかったが‥。
波が魚に見えたり、ポニョが人面魚であったりするのは、宗介の目線で描かれた世界観なのだろう。しかし、介護施設のトキ婆さんもポニョを人面魚として見ていたし、宗介の母親は途中からポニョの事をまるで本当の娘のように自然と受け入れてしまっている。となると、この奇妙な世界観は、どうも宗介だけが見ているものではないような気もする。誰の目線で捉えた世界観なのか?視点の一貫性が無いため物語が入り込みにくくなっている。
また、海の世界の出来事など、諸々の不思議な現象に一体どんな意味が込められているのか?想像の余地が広く取られているため解釈を迷わせる所もある。
今作は基本的には「人魚姫」の物語であり、馴染み深いものであるのだが、こうしたややこしい作りのせいで、万人が素直に楽しめる作品とは良いがたい。昨今の宮崎駿の迷走振りは前作「ハウルの動く城」(2004日)あたりから顕著に感じ取られるのだが、またしても今回その印象を強く持ってしまった。
ただ、一つだけ明確に伝わってきたメッセージがある。それは母性啓蒙というメッセージだ。
本作には3人の母親が登場してくる。一人目は宗介の実母。彼女は宗介に下の名前で呼び捨てにされたり、愚痴を聞いてもらったり、母親というよりもやんちゃなお姉さんのようにキャラ付けされている。今時の母親という見方が出来る。
二人目はポニョの母親である。終盤のキーマンとして観音様よろしく人類救済の象徴のように登場してくる。
そして、三人目は中盤で登場するボートに乗った母親である。彼女は赤ん坊に授乳することで、極めて平均的な母親像を披露している。
友達のような母親、世界を包み込むような大らかな愛の象徴としての母親、ごく平均的な母親。この物語における母親は大きく3つのヴァリエーションに分ける事が出来る。そして、こうした母親たちを登場させることは母親という存在感の大きさを表すことに他ならない。
尚、対する父親はというと、これが不自然なほどドラマから除外されている。宗介の父親はストーリー上、ほとんど形骸的な扱いなっている。唯一あるとすればフジモトであるが、彼は悪役サイドの人間で言わば主人公の敵として存在している。これもストーリー上、排除されるべきキャラだろう。ここまでくると明らかに母性啓蒙の含みを持った作品である事が分かる。
宮崎作品にはヒロインが活躍する映画が多い。少女から大人の女性に成長することで世界を救う‥といったドラマが繰り返し登場してくる。宮崎映画におけるヒロインは常に強くて崇高な立ち振る舞いを見せることで、その存在感を見る者に強く印象付け、時には主人公であるヒーローを食ってしまうことさえある。
今回は3人の母親たちやポニョといった女性キャラの存在感がことさら強く感じられたが、これまでの宮崎作品の傾向を鑑みれば当然の成り行きとも言える。一部で宮崎駿はロリコンだ‥という人もいるが、敢えて言わせてもらうなら今作はロリコン映画であると同時に母親映画でもある。
作画面ではキャラクターの所作が愛らしく描かれており、細微にわたるこだわりが感じられ、それがアニメーション特有のカタルシスを上手く生んでいると思った。デフォルメされた動きが自然なアクションの流れの中に巧みに組み込まれているのは、宮崎アニメの真骨頂である。特に、中盤の波乗りポニョはいかにも宮崎アニメらしい表現で痛快である。
声優陣については多少不満が残った。やはりプロの声優をきちんと使うべきではないかと思う。玄人の中に混じるとどうしても浮いてしまう。