誰でも“悪人”になりうる怖さ‥。それををじっくりと描いている。
「悪人」(2010日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 長崎の港町。青年祐一は、土木作業員をしながら老いた祖父母と暮らしている。ある日、出会い系サイトで知り合った保険外交員・佳乃に会うため福岡へ行った。ところが、目の前で彼女は本命である裕福な大学生、増尾と一緒に去って行ってしまう。怒った祐一はその後を追った----。後日、佳乃の死体が発見される。警察は殺人事件として捜査を開始した。一方、祐一の元に、以前出会い系サイトで知り合った光代という女性からメールが届いた。彼女は妹とアパート暮らしをしながら、販売店員をしている地味で孤独な女性だった。直接会うことになったが、光代は早速祐一にホテルに誘われる。セックスの後に金を渡され愕然とする光代。その金をつき返して彼女は泣きながら帰った。居たたまれなくなった祐一は、彼女に会いに行くのだが‥。
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(レビュー) 殺人犯の男と孤独な女性の逃避行を描いたヒューマン・サスペンスドラマ。
タイトルが「悪人」とは、これまた仰々しい。一昔前なら、野村芳太郎監督・松本清張原作といった顔合わせで映画化されそうなタイトルである。この「悪人」とは言わずもがな、本作の主人公、殺人を犯した祐一の事を指している。それは間違いないのだが、しかしこの映画には他にも「悪人」は複数登場してくる。「悪人」と言っても、ここでは勧善懲悪として割り切ることが出来ない複雑なものとして定義されている。社会的に見れば「悪人」であっても、根は優しい善人だったり、何かの間違いで罪を犯してしまったり‥。つまり、善悪の判断、線引きは実にあいまいと言うことをこの映画は言っている。
この世に完璧な人間などいない。人は誰しも「悪人」になりうるし、そうなる土壌を持っているという意味で、この物語の主要人物たちは皆、不完全な人間として描かれている。
例えば、祐一に関して言えば、不器用な対人コミュニケーション、爪を噛むようなしぐさ、まるで子供が書いたような絵。このあたりから明らかに小児性を引きずったまま生きている青年であることが分かる。彼をそういう風にしてしまった原因は色々とある。不協和音な家族構成、過去のトラウマ、閉塞的な生活環境等々。しかし、一番の原因は愛に対する不信感だったのではないだろうか。誰かから愛されたい。そう思った彼は出会い系サイトで他者との結びつきを得ようとした。そして、光代と出会うことで彼の中の愛の不信は解消されていくことになる。言わば、これは祐一にとっての癒しのドラマであり、不完全な人間に向けられたかすかな愛情のドラマという見方も出来る。
光代に関しては、ほぼ祐一の荒んだ心を癒す母性のように存在している。しかし、彼女にも人間的な不完全性は認められる。祐一と初めてベッドインするシーンで、彼女はこれまでの人生を振り返って、馴染みの道路をただ往復するだけの人生だったと語っている。つまり、彼女は外の世界を知らない少女性を引きずった女、悪く言えば世間知らずな女というわけである。光代もやはり他者との結びつきが欲しくて出会い系にアクセスし、祐一と出会う事でマンネリ化した日常から解放される。やはり、ここにも不完全な人間に対するかすかな愛情が感じられた。
そして、事件に関わる佳乃、増尾に関しては、言うまでもなく不完全で未熟な人間として描かれている。
このように人間的な弱さを持った人物が、この「悪人」という作品には複数登場してくる。不幸にも、この事件は彼等の不完全性、未熟さが生んだ悲劇的な事件である。誰か一人が悪いというわけではない。誰もが罪人という見方も出来る。
ちなみに、敢えて一番の悪人を挙げるとすれば、俺は増尾を挙げる。そもそもの元凶は彼にあるとも言えるし、人の愛をまるでオモチャのように弄び、それを笑い話のネタにする思考は見てて本当に腹立たしかった。映画後半で、佳乃の父親の怒りの矛先が、社会的な罪人である祐一ではなく、増尾に向けられる。自分はこの場面にかなりのシンパシーを感じた。人間にとって一番大切なのは何なのか?という説教じみたセリフは少々鼻につくけれども、この父親の言動には大いに共感を覚えた。
全体的に人間ドラマに比重が置かれ、サスペンス的な面白みが陰りがちになってしまったのは残念だが、これは作り手の裁量だろう。欲を言えば、祐一の過去のトラウマ。そこをもう少し詳しく見せて欲しかった。そうする事で、彼の人間性にもっと深みが出てきたように思う。
それと、祐一の祖母にまつわる悪徳商法のエピソードは、メインのドラマに余り寄与していないことから、特に描く必要がなかったのではないかという気がした。そこを描くなら、やはり祐一の過去を彼女が反芻するようなシーンをもう少し継ぎ足して欲しかった。
キャストでは、主演の妻夫木聡、深津絵里、夫々好演している。しかし、それを上回る安定した演技を見せるのが柄本明と樹木希林である。この二人の演技はもはや貫禄である。特に、樹木希林に関しては、ここ数年の演技はもはや神がかっているとしか言いようがない。何の変哲もない日常のしぐさが一々味わい深い。
監督は李相日。基本的にリアリティーを追求する演出が取られているが、途中でファタジー描写が入ってくる。ここだけは違和感を持ってしまった。小手先のテクニックに凝りすぎたかな‥という感じがした。とはいえ、そこを除けば全体的に安定した演出を見せている。
見終わった後に「イェーィ」と言いたくなる。
「さらば友よ」(1968仏)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) アルジェリア戦争から帰国した軍医バランは、外人部隊のアメリカ人兵士プロップから次の戦地であるコンゴ行きを誘われる。しかし、戦争に嫌気が差した彼はそれを断った。その後、バランは同じ部隊で戦死したモーツアルトの恋人イザベルと出会う。大企業に勤める彼女から、会社の金庫に債権を戻すという奇妙な仕事を依頼された。バランは医師として彼女の会社に潜り込む。一方、プロップは退役して、金持ちが集まる秘密売春クラブで詐欺を働き大金をせしめた。しかし、彼はいつか一発大きな仕事を当てたいと思っていた。そこでバランの計画に首を突っ込むようになる。
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(レビュー) A・ドロン、C・ブロンソンが競演した犯罪映画。正に男による男のためのような映画である。
尚、ブロンソンは「荒野の七人」(1960米)や「大脱走」(1963米)ですでに一定の人気はあったが、その人気に更に火をつけたのが本作と言われている。このヒットを受けて彼はデスウィシュシリーズ等でアクションスターに上り詰めていった。
バランとプロップは最初は対立関係にある。両者とも一匹狼でわが道を行くタイプだ。プライドも高いので、顔を合わせればすぐに喧嘩になる。例えば、金庫破りの仲間に入れてくれなきゃドアを開けてやらないとか、自販機の食料を独り占めするとか‥。この辺りは決して格好良いわけではない。むしろ、子供じみた意地の張り合いにしか見えず「バカだなぁ」くらいにしか思えない。
ところが、その後に金庫破りという共通の目的が出来てから、二人は打ち解けあい徐々に格好良く見えてくるようになるのだ。友情といっても決してベタベタした関係ではない。ある時は裏切り、ある時は助け合う。そんな抜き差しならぬ微妙な距離感が実にクールで格好いい。
本作には彼等以外にキーマンとして二人の重要な女性キャラクターが登場してくる。実は、この物語は男の友情をテーマにしているが、その裏側では女性のしたたかさ、非情さといったものも語られている。先述の子供じみた意地の張り合いに見られるように、男という生き物は案外稚拙なプライドを持っていたりするものである。しかし、女にはそういった稚拙さはない。バカにされたら倍にして返してやろうという策が働く。男のように直感的に実力行使に出るのではなく、もっと計算高いやり方で相手をやり込めようとするのだ。本作に登場する二人の女性のしたたかな振る舞いを見るにつけ、この映画は実は女性上位のドラマであったのか‥という事に気付かされる。逆に言えば、男はいざと言う時に情に溺れて非情になりきれないという弱さを持っている。つまり、これが本作のテーマである「友情」というところに結びつくわけである。
シナリオはかなり強引な部分があるが(例えば防犯カメラと火災報知器を無視したサスペンス展開には退屈せざるをえない)、主役の二人の魅力を前面に出そうとした作りは、スター映画然とした潔さを感じる。密室で二人が半裸になって語り合うシーンは“やり過ぎ”な感じもするが、女性ファン向けのサービスシーンと捉えれば微笑ましい。
また、ラストも印象に残った。どう考えても冷静さに欠く“ヘンテコ”な演出なのだが、ブロンソンとドロンがやると何故だか格好良く見えてしまう。映画が終わった後に「イェー」と言いたくなった。正に役者の魅力に支えられた作品と言っていいだろう。
見る人によってはひんしゅくモノかもしれないが、力強い作品である。
「ミッション」(1986米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) 南米奥地のインディオの村に、宣教師ガブリエルが布教活動にやって来た。彼はそこで奴隷商人メンドーサの非道を目にし憤りを覚える。それから暫くして、ガブリエルは偶然メンドーサの変わり果てた姿に遭遇する。彼は愛憎のもつれから実弟を殺害し投獄されたのだ。罪の意識に苛まれ神に救いを請うメンドーサ。ガブリエルは罪滅ぼしとして彼にインディオの村に随行することを命じた。こうして重荷を背負いながら険しい山道を登りきったメンドーサは、村人達に受け入れられることで救われた。数年後、メンドーサは見習い神父として、村に建立された教会で信仰心を深めていった。そこにイエズス会から枢機卿がやって来る。村の領有権を巡るスペインとポルトガルの騒乱を沈めようとするのだが‥。
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(レビュー) 西欧列強によるアジア、アメリカ大陸の支配は、歴史的に見れば15世紀の大航海時代に端を発する。欧州各国は未開の地に土足で踏み込み先住民を力で制圧していった。
この映画では、南米パラグアイの領有権を巡ってスペインとポルトガルが対立する。両国のどちらに統治権があるのか?それをイエズス会が公式的な立場で裁定するという所が、いかにもカトリックの国らしい。当時のイエズス会がいかに強大な権力を持っていたか。そのことがよく分かる逸話だ。
物語はこの政治的な駆け引きの舞台裏で犠牲になる現地の人々、つまりインディオ達の数奇な運命と、彼等を守って戦う二人の神父の姿を描いている。
実直で清廉潔白な宣教師ガブリエル。奴隷商人から改心し見習い神父となったメンドーサ。領土占領の騒乱に巻き込まれる二人は、村人達を助けようと志を共にするが、その方法については意見の食い違いを見せていくようになる。そこがこのドラマのミソである。
映画は二人の採った選択の正否を提示していない。偽善に溺れることなく、成否の解釈を観客に委ねた描き方は実に心に残るものだった。そして、この映画が訴えかけているのは、争いの絶えない人間の業そのものであることに気付かされる。
哲学者ニーチェの言葉に「神は死んだ」というフレーズがある。この言葉は氏の著書「ツァラトゥストラはかく語りき」によって、つとに有名な言葉である。神に変わる超人思想に取り付かれた主人公ツァラトゥストラの姿を借りて、ニーチェはこの世の不安定さ、絶対的存在の否定を説いた。それはつまりキリスト教という絶対的存在に不信の目を注ぎ、神の存在を否定したことにもなる。著書が書かれた19世紀末と言えば、キリスト教を冠する西欧列強が没落していった時代である。「神は死んだ」というフレーズは、当時の世界の趨勢を顧みた上での言葉だったことは容易に想像がつく。この映画のラストから読み取れるメッセージも、正にニーチェの「神は死んだ」という言葉だった。
おそらく、このラストを見たキリスト教宗派の人々、とりわけイエズス会を擁するカトリック教会の人々は、少なからず眉を潜めるかもしれない。何しろ神を否定するかのような結末になっているからだ。しかし、実際に人間は争いを止められないし、戦争もなくならない。この現実は否定できないことだと思う。
映像は大いに見応えがあった。冒頭の滝のロケーション、ギリギリのところでで撮影したと思われる登山シーン等、実に迫力あった。撮影監督はクリス・メンゲス。彼のカメラマンとしての腕も油が乗り初めた頃だと思う。フィルターを使用した豊富な色彩にも惚れ惚れさせられる。
E・モリコーネの音楽も効果的に使われている。民俗音楽を取り入れながら、いかにもモリコーネらしい叙情的な旋律が感動を盛り上げている。
敢えて本作で難を言えば、ガブリエルとメンドーサが袂を分かつシーンであろうか。音楽も途中でぶつ切りされてしまい、気が急く編集に興が削がれた。ここは重要なシーンだけにもう少しじっくりと描いて欲しかった。
ストーカーの暴走っぷりが面白くもあり、怖くもあり‥。
「キング・オブ・コメディ」(1983米)
ジャンルコメディ
(あらすじ) コメディアン志望のルパートは、人気スター、ジェリーの出待ちをして自分を売り込む。熱狂的なファンの女を追い払ったことで気に入られ、彼はジェリーの名刺を貰った。ところが、その後いくら事務所に電話をかけても一向に返事が無かった。ついに直接彼のオフィスの門を叩くが、ガードマンにすげなく追い払われてしまう。その後、何度も足しげく通い、ついにジェリーの秘書に自分のネタを吹き込んだテープを渡すことに成功した。しかし、喜びも束の間。その後も居留守を使われついにルパートは実力行使に出ることを決意する。
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(レビュー) 監督M・スコセッシ、主演R・デ・ニーロというお馴染みのコンビが、スターを夢見る男の狂気をブラックに描いた喜劇。
デ・ニーロ演じるルパートは、自宅に閉じこもってスターの真似をしたり、憧れの女性に将来大スターになると豪語したり、ほとんど自家中毒的と言ってもいい妄想型人間である。客観的に見れば彼のコメディアンとしての実力は未知数だ。何しろ今まで一度もステージに立ったことがなく、単にコメディアンの素質があると勝手に思いこでんいるだけなのだから‥。その後、ルパートはジェリーの名刺を頼りに彼の事務所に何度も通う。しかし、そのたびに門前払いを食らい、ほとんどストーカーのようになっていく。こう書くと現実と妄想をごっちゃにした悲惨な男のドラマと思うかもしれないが、映画のテイストは割りとコメディライクに演出されている。そのまま描いてしまったらさぞかし陰惨なドラマになっていただろうが、スコセッシはライトにこのドラマを料理している。
ただ、現実にハリウッドにはルパートのように夢破れ散っていく人間が大勢いるという。そのことを考えると、この物語は見る人によっては、特に業界関係者にとってはかなり毒の効いたコメディに写るのではないだろうか。体制に抗うことで知られるスコセッシのこと。そういった人々に皮肉を込めてこの映画を作っているのかもしれない‥そんな穿った見方も出来る。
ところで、同じくデ・ニーロがスターに憧れるストーカー役を演じた作品で「ザ・ファン」(1996米)という映画がある。監督は良くも悪くも職業監督的なところがあるT・スコット。「ザ・ファン」の方はサスペンスに重点を置いた作りになっている。同じような題材を描いているが、T・スコットとM・スコセッシ、両者の作家性の違いが見られる所は興味深い。個人的には、毒の利いた「キング・オブ・コメディ」の方が歯ごたえがあり面白く感じられたが‥。
ただし、オチについては少々言いたい事がある。ルパートのこれまでの狂気性を考えたら、このオチは安易に写ってしまう。確かに<人気>=<実力>じゃないのがこの世界だ。それを言いたのは分かるが、オチにはもう一捻り欲しい。
また、サブキャラである女ストーカーの顛末を放出したままなのもいただけなかった。実は、役柄としてのエキセントリックさで言うと、ルパートよりもこの女ストーカーの方がインパクトがあった。彼女は言わばドラマのキーパーソンで、演じる女優の強烈なビジュアルと怪演はある意味で完全に主役のデ・ニーロを食っている。それくらい重要な役回りなのに、そのドラマが消化不良なのはちょっと残念であった。
魅惑的な映像、ぶっ飛んだストーリー。異才が放つ怪作!
「タクシデルミア ある剥製師の遺言」(2006ハンガリー仏オーストリア)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 第二次大戦中、ハンガリー軍の兵士モロジュゴバーニは閉塞感漂う寒村で無為な日々を送っていた。彼の唯一の楽しみは自慰行為だけだった。その性欲は欲求不満が溜まった上官の妻へと向けられる。それから10数年後、二人の間に生まれた子供カールーマーンは大食い大会の選手になる。オリンピック出場を夢見て日々食欲の権化と化していくが‥。それから数十年後の現代、カールーマーンの息子ラヨシュは剥製師になって店を構える。
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(レビュー) 三世代にわたる父子の数奇なドラマ。
物語は3つのパートに分かれている。ハンガリーの時代背景を踏まえながら見ると中々面白い。
人間の三大欲望といえば、性欲、食欲、睡眠欲である。祖父と父のパートは、このうちの性欲と食欲を描く物語になっている。そして、ここにはハンガリーの歴史と社会状況が大きく関係している。
祖父モロジュゴバーニと父カールーマーンは、抑圧された社会の中で現実から逃避するように、それぞれ性欲と食欲に溺れていく。カールーマーンに到っては冷戦の真っ只中、国威発揚のプロパガンダにまで利用され国政の犠牲者になっていく。この二人のパートは、共産主義時代の中で欲望に忠実に生きた男たちのドラマとなっている。
一方、ラヨシュのドラマは、冷戦時代後のドラマになる。この頃のハンガリーは共産主義が崩壊し、徐々に市場経済が参入し、人々は享楽の売買を当然のように受け入れながら生活を送るようになっている。そんな中、ラヨシュは外界と断絶して、アトリエに篭ってひたすら剥製作りに専念している。孤独な引き篭もり青年の姿を淡々と綴っていくのがこのパートだ。祖父と父のドラマは性欲と食欲をテーマにした物語だった。では、このパートのテーマは何だろうか?それは彼の私生活から読み解ける。
ラヨシュは毎日、同じスーパーの同じレジで買い物をする。そして、お気に入りのレジの女性店員に視線を投げかける。しかし、相手は一向に気付いてくれない。当然である。彼女にとってみればラヨシュは只の客でしかないからだ。何と惨めな片恋慕であろう。
ルーティン・ワークに流される彼の日常風景は無機的、つまり人間関係の希薄さ、人間性の喪失を表していると思う。レジの女性に気付いてもらえないという寂しさ、対人関係に何の期待も持てないという諦めから、彼は黙々と剥製の世界に没頭しているのだ。ラヨシュは前の二人の主人公に比べると、明らかに禁欲的に生きている。そもそも、生よりも剥製(死)の世界にのめりこんでいることからして、何とも覇気がない。
かつて祖父と父は抑圧された共産社会で欲望に忠実に生きていた。それはある意味で人間の自然な生き方だったのかもしれない。しかし、ラヨシュは自由が許される現代において、敢えて欲望を押し殺して禁欲的に生きている。この対比から現代人の生き方の実像が見えてくる。つまり、現代人の非人間性、孤独性をこの映画は暗に風刺していると捉えられるのだ。
映像はキッチュで幻惑的でかなりクセがある。アブノーマルな性描写や下ネタも登場してくるので苦手な人は覚悟して見たほうがいいだろう。また、ラヨシュの剥製作りにはグロ描写も登場してくるのでこれも注意した方が良い。しかし、醜いもの、汚らしいものは人間が本来持っている欲望の表れとも言える。人間の欲望をテーマにした本作において、それを直視させる作り手側の意図は当然といえば当然という気もした。
逆に、飛び出す絵本のようなポップな演出も見られる。様々なトーンを使い分けるこの監督の映像センスには目を見張るものがあった。今後どういう作品を撮るのか?ハンガリーの新しい才能として注目したい。
尚、本作は2004年サンダンス映画祭でNHK国際映像作家賞を受賞している。スポンサーであるNHKのバックアップを受け、通例ならTV放映されるはずだったがそれは出来なかった。映像描写に難色を示したのだろう。R指定でなければ放映できないと思う。
3Dアクションに興奮!
「バイオハザードⅣ アフターライフ」(2010米)
ジャンルアクション・ジャンルSF
(あらすじ) アリスは日本のアンブレラ社地下基地に潜伏するウェスカー暗殺を試みる。しかし、後一歩という所で失敗に終わってしまった。半年後、彼女は仲間に合流するためアラスカへ飛んだ。ところが、記憶を無くしたクレアを残して仲間は全員行方不明。仕方なく二人は他の生存者を求めてロスへ向かう。そこには刑務所に篭城するわずかな人々がいた。彼等と共にウィルスに感染していない場所を求めてアリスはアンデッドと死闘を繰り広げることになる。
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(レビュー) 人気ゲーム「バイオハザード」の実写映画化第4段。
物語は前回のラスト東京から始まる。アリスのクローン計画が絡んでくるが、ここで早くもクローン・アリスの出番は終了。‥てことは、前作の意味って何だったの?という不満が出てきてしまう。おそらく、作り手側はずるずる引っ張ってストーリーが立ち往生するよりも、いっそのこと前の設定を切り捨てて次の展開に持って行きたかったのだろう。ちなみに、スーパーサイヤ人のごとき無敵の強さを誇っていたアリスの超能力もここで封印されてしまう。シリーズを通して脚本を担当するP・W・S・アンダーソン監督の“浅はかさ”は今に始まったことではないが、「1」と「2」はまだ一貫性があったが、「3」から段々物語は破綻していってる。
まぁ、ストーリーはこの際置いておくとして、本作の見所となるのはやはり映像だろう。今回の「バイオハザード」は
「アバター」(2009米)以来の本気度の高い3D映画作品である。つまり、最初から3D作品として企画が立ち上げられ、撮影も3D用のカメラで行われた。冒頭の地下基地襲撃シーン、クライマックスの脱出劇からウェスカーとのバトルにいたるシークエンス。このあたりのアクションは立体感が感じられる。スローモーションが多用されるアクションは賛否の分かれるところかもしれないが、本来3D映画の狙いは映像を立体的に見せることにある。したがって、早いカッティングではその効果は生まれにくい。じっくりと見せるこの手法は正解だったように思う。ただ、「アバタ-」は背景の作りこみで画面に奥行きをもたらそうとしたのに対し、この「バイオハザードⅣ」では文字通り“飛び出す”をキーワードに、様々な物が手前に迫ってくる。手裏剣や弾丸、ハンマー、水飛沫、破片、サングラスといったものが画面から飛び出してくるような演出、そこを見せ所としているという点で「アバター」とはまったく違った狙いの3D映画のような気がした。
アリス役のM・ジョヴォヴィッチは今回も頑張ってアクション・シーンをこなしている。但し、お色気をどんどん封印していると思うのは俺だけだろうか?シャワー・シーンは完全に肩透かしを食らったし、水中に潜るシーンも明らかにサービス精神が足りない。本人はどうか知らないが、夫である監督が規制をかけているとしか思えないのだが‥。
クレアは前作に続いての登場。演じるアリ・ラーターはその後「HEROES」でも活躍するようになり、自分的には随分馴染みが出てきた女優さんである。彼女と処刑人との対決シーンは本作で一番痛快だった。
そして、今回からクレアの兄クリスも登場してくる。ゲーム版ではおなじみのキャラだが、演じるのは「プリズン・ブレイク」の主人公を演じたW・ミラー。舞台が刑務所だけに、狙いとも取れるキャスティングにニヤリとさせられた。
バカネタとして笑えたものも幾つかある。セスナ機でゾンビをひき殺す場面は面白かった。また、コインの使い方も気に入った。この人を食った感じがたまらない。
勝新と田村高廣のバディムービー。パワフルで痛快!!
「兵隊やくざ」(1965日)
ジャンル戦争・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 昭和18年、満州の関東軍兵舎に新兵大宮がやって来る。彼はヤクザの用心棒をしていたこともある勝気な青年だった。その彼を有田上等兵が面倒を見ることになった。半年後に内地に戻れる有田は無用なトラブルを避けたかったが、その意に反して大宮は最速、砲兵隊と風呂場で一騒動起こした。有田が庇いどうにか事なきを得たが、その後砲兵隊の執拗な嫌がらせが続き、とうとう騒ぎは部隊同士の抗争にまで発展する。これが上層部に知れ渡り、大宮への懲罰命令が有田に下された。しかし、有田は厳しい制裁をする事が出来なかった。砲兵隊の傍若無人な振る舞いは目にあるものがあったからだ。大宮は有田の立場をを察し、自らの顔を殴り彼の面子を立てた。こうして二人の間に友情が芽生える。
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(レビュー) 大映の看板スターだった勝新太郎が最も乗りに乗っていた頃の作品で、この「兵隊やくざ」も「座頭市」、「悪名」に並ぶ人気シリーズとなった。本作はこの後に8本製作された。勝新らしい野卑な魅力はもちろんのこと、随所に散りばめたユーモラスな演出が面白く見れる。
勝新演じる大宮は、元々ヤクザの用心棒をしていただけあって腕っ節がめっぽう強い。他人の言う事を聞かないまるで狂犬のような男だ。上下関係が重んじられる軍隊の中で、彼のような一匹狼は異端児扱いされ様々な圧力を受けるようになる。しかし、彼はそのたびに反発を繰り返していく。アウトロー然とした立ち振る舞いが実に痛快で面白く見れた。
一方、彼の上官となる有田上等兵は田村高廣が演じている。彼はインテリ育ちの才人で物静かで大宮とは正反対な男である。しかし、人権を蔑ろにした軍のやり方には不満を持っていて、その点では大宮に多いにシンパシーを感じている。性格や出自がまったく異なる二人であるが、次第に固い友情で結ばれていく。その様はさしずめ猛獣と猛獣使いといった関係だ。このあたりにはバディ・ムービーとしての面白さが存分に感じられる。
物語は、中盤から芸者屋の女が登場してくる。男だらけのドラマにあって、彼女の存在は味がある。クライマックスに繋がる伏線的な役割も持たされており、キーマンとしての魅力も感じられ、こういった洒脱の効いた計らいは結構好きである。
監督は増村保造。勝新の大立ち回りを含め、常にハイテンションな演出が続く。暴力描写に一部ヤリ過ぎと感じる部分もあるが、デフォルメされた世界観にあってはそれほどの違和感は受けなかった。
また、結末には痺れさせられた。勢いを緩めることなく最後まで一気に突っ走ったところにカタルシスが感じられる。
その一方でリアリズムに徹した状況描写もある。軍隊特有の不文律と言えばいいだろうか‥。それが垣間見れる。
例えば、軍の上下関係は何も階級ばかりで決まるわけではない。時と場合によっては配属年数の方が勝るということを、有田上等兵と黒金伍長の確執から伺えた。また、炊事班が他の同じ階級の者たちより立場が優位にあるということも、意外な発見だった。確かに食生活の実権を握る彼等には誰も逆らう事は出来ないだろう。
勝新吠える!
「悪名」(1961日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) 田舎で平凡に暮らす朝吉は、ある晩人妻と駆け落ちする。しかし、二人の関係はすぐに堕落し、彼は田舎に帰ろうとした。その道中、琴糸という源治名を持つ遊女と出会う。彼女を今の暮らしから救いたい‥。朝吉は本気で琴糸に惚れこみ、彼女もまた朝吉と運命を共にする事を誓った。その後、吉岡組のヤクザ貞と一悶着あって、朝吉は吉岡組の用心棒となる。ところが、琴糸が敵対する松島一家の女だったために、朝吉はヤクザの抗争に巻き込まれてしまう。朝吉は貞と一緒に組を追われることになり‥。
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(レビュー) ヤクザの壮絶な生き様を勝新太郎が強烈な個性で演じた仁侠映画。
勝新と言えば「座頭市」シリーズが有名だが、この「悪名」シリーズも彼の代表作である。人気を博し全部で16本作られた。何と言っても、勝新太郎のニヒルな格好良さが見所だ。方々の女に惚れられるという伊達男ぶりが多少鼻につくが、この手のスター映画にそういった突っ込みを入れるのは野暮だろう。そもそも勝新の着流し姿が実にサマになっていて、こりゃ~女も一ころだ‥と思わせてしまう。
彼以外のキャストも皆好演している。薄幸な女郎琴糸役の水谷良重、朝吉と契りを交わすお絹役の中村玉緒、因縁の女親分を演じた浪花千栄子、夫々に個性を発揮しながら印象に残る演技を見せている。
特に、朝吉を巡って恋敵となる水谷と中村のコントラストを効かせた造形が絶妙だ。この頃の中村玉緒の愛らしさと言ったら尋常ではない。おそらく当時すでに勝新と結婚していたと思うが、二人のじゃれあう姿が何とも微笑ましい。
浪花千栄子の威圧感タップリのドスを効かせた演技も実に決まっている。これにはさしもの勝新もたじろいでしまう。
男優陣では、朝吉の相棒となる貞を演じた田宮二郎の軽妙な演技が良かった。殺伐とした世界が彼の演技によって少しだけ和らぐ。
ただ、厳しく見てしまうと全体的な作りの甘さは否めない。お手軽に見れるプログラム・ピクチャーゆえ、鑑賞感は良くも悪くもアッサリとしている。単純明快な人情話を過剰なまでに押し付けてくる演出も映画を軽くしてしまっている。例えば、クライマックスの盛り上げ方はかなり強引であるし、オチも乱暴といえば乱暴だ。ピストルの使い方も海外のフィルム・ノワールと見比べてしまうと、どうしても安易に写ってしまう。
こうした安易さはポピュラリズムを意識した作りとして理解できるし、それによって作品がつまらなくなるというわけではない。しかし、よくある仁侠モノという鑑賞感は拭いきれない。インパクトや深みを求めてしまうと正直物足りなさが残る作品だった。
大衆迎合の娯楽作として割り切った上で、尚且つ勝新ファンなら、とりあえず見て損の無い1本だと思う。
荒削りだがコリン節が炸裂した異様な雰囲気を持った作品。
「ガンモ」(1997米)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 竜巻に襲われたオハイオ州の小さな町。少年ソロモンとタムラーは、野良猫を殺して肉屋に売って生活していた。最近、方々で猫の死体を見つける。どうやら、彼等以外にも猫を殺し回っている人間がいるようだ。一方で、愛猫家のブロンドの姉妹がいた。彼女等は身体を売って生活している。町には他にも様々な若者達が住んでいたが、皆心は荒んでいた。そんな彼らを見守るように、ウサギ耳の少年が方々に出没する。
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(レビュー) インディペンデント界の異才H・コリンの監督デビュー作。彼の作品は以前このブログで
「ミスター・ロンリー」(2007米)を紹介した事がある。実は、このデビュー作だけは未見だったので遡る形ではあったが鑑賞した。
結論から言うと、いかにもH・コリンらしい作品である。若者達の日常を淡々とカメラで切り取りながら、美しさよりも醜悪さ、建前よりも本音を曝け出し所がいかにも彼の作品らしい。全体的にシュールで寓話性の高い作品であるが、描写自体には生々しさがありユニークな鑑賞感が残る。
ただ、ドラマを語ることについてはほぼ放棄しており、果たして劇映画としてはこれはありなのか?という疑問も湧いた。少なくとも後の作品に比べると、このデビュー作は完全にドキュメンタリーに近い作りになっている。ソロモンとタムラーという主要人物はいるが、それ以外のキャラクターは物語の中における役割はほぼ同質の扱いで、彼らの心中に迫る演出もほとんど見られない。したがって、物語のバイブレーションは極めて乏しい映画になっている。あくまでコラージュ作品として捉えた方がいいのかもしれない。
ちなみに、登場人物もいかにもH・コリンらしい癖のあるキャラが揃っている。同性愛者、障害者、倒錯者といった世間から少し外れたところに生きる若者達が登場してくる。そして、出てくる映像も動物虐待や児童虐待といった禁忌的なものが多い。おそらくだが、H・コリンという監督は非キリスト的な思想の持ち主なのではないだろうか。それは「ミスター・ロンリー」からも、その他の作品からも何となく伺える。禁忌的行為を通して神の絶対性、永遠性を否定し、それに対抗する形で人間の醜悪さ、脆さ、つまり人間の素の姿を謳いあげているところに非キリスト的な思想を感じてしまう。今回のようの寓話的な作品を撮ることが多いコリンだが、実は彼は奇跡を信じない極めて現実主義な作家なのかもしれない。
幾つか印象に残る場面があった。ソロモンと母親を写したシーンなのだが、これはかなり異様である。母親が突然タップダンスを踊ったり、ソロモンの頭にオモチャの銃を突きつけたり‥、頭のねじが緩んでいるとしか言いようがない行動の数々に不気味さを覚えた。そもそも入浴と食事を一緒くたにする思考からして、とてもじゃないが理解不能である。果たして母子が何故にこうまで空虚な生活を送っているのか?明示されていないので皆目見当がつかないが、常に孤独の縁に立たされているソロモンの姿がやけに不憫に思えた。
また、摩訶不思議な造形をしたウサギ耳の少年は、この映画で唯一あからさまに非現実的なキャラクターとして登場してくる。この正体についても劇中では明示されていない。非キリスト的なものを作品に含ませるコリン監督のこと。このウサギ耳の少年に、神の世界から追放された堕天使的な意味を持たせているのかもしれない。あるいは、彼が常に思春期の少年少女達の周縁にドラマの舞台を求めている事を考えると、「不思議の国のアリス」のアンチテーゼという解釈もできるだろう。いずれにせよ、特異なビジュアルも相まって、このウサギ少年は非常に印象に残った。
クライマックスにギドクの真髄が感じられる。
「絶対の愛」(2006韓国日)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) プロの写真家ジウは、2年間付き合っている恋人セヒとの関係に物足りなさを覚えていた。ついつい他の女に目が行ってしまいセヒを怒らせてしまう。そして、彼女はジウの前から姿を晦ましてしまった。それから半年が経った頃、彼の前にスェヒという謎めいた女性が現れる。2人は惹かれあっていくのだが‥。
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(レビュー) 美容整形をした女の壮絶な愛のドラマ。
製作・監督・脚本は鬼才K・ギドク。男女の愛を過激に綴った過去作品は、いずれも一筋縄ではいかない強烈な個性を持った作品である。ただ、ここ最近の作品はそれまでの特徴である観念的なムードが幅を利かせすぎて今ひとつ好きにはなれなかった。
例えば、以前ここでも紹介した
「弓」(2005韓国)という作品は、セリフを排した緊張感溢れる演出の数々にギドク・スタイルが認められるが、いかんせんクライマックスの描き方に不満が残った。執拗なまでの表現主義への傾倒、それがドラマチックさを失していたからである。独自のスタイルを追い求め過ぎた結果、こちらの理解の範疇を超えるものいなってしまった‥という印象である。
しかし、今回は「弓」のような表現主義傾向は弱まり、ドラマに比重を置いた作りになっている。初期作品に回帰するような明快な演出が大変見やすい。
物語も、これまでのギドク作品同様、男女の愛のほつれをひたすらストイックに追い求めていく‥というものになっている。今回は美容整形が流行する韓国の社会背景を題材にしている。果たして、容姿にこだわることにどんな意味があるのか?その人の価値を決めるの中味ではないか?そんな問題提起が感じ取れた。
本作のセヒは整形して別人になりすましてジウに近づき、再び恋人同士になっていく。しかし、幸せも束の間、彼女の中で徐々に虚しさが募っていくようになる。これは偽りの”恋愛ごっこ”でしかないのではないか?という疑問が芽生え始めるのだ。ジウを騙していることへの自戒。あるいは、ジウは自分の外見しか愛していないのではないか?という不安。そういった葛藤が中々見応えがあった。
この歪な恋愛はギドク作品では非情に重要なモティーフとなっている。現に、過去作品の中でも様々な形で表現されていた。例えば、娼婦とヤクザ、ストーカーと人妻、祖父と孫等。そして、絶対に出会うはずことのない男女は、罪悪感、あるいは偽りの気持ちを抱えながら、衝突し傷つけあいながら結ばれていくのだ。見ていて決して幸福な気持ちにはなれないが、その姿には心揺さぶられるものがある。ギドクは常に愛の不信、愛の残酷さといったものを描き続ける作家なのである。
今作で最も印象に残ったのはクライマックスの狂気的な演技合戦だった。また、結末にも鳥肌が立ってしまった。これほどのインパクトはそうそうないだろう。ギドク作品でしか味わえない衝撃である。正にギドク映画の真骨頂という感じがした。