バカ映画として楽しんだ者勝ち!
「SPACE BATLESHIP ヤマト」(2010日)
ジャンルSF・ジャンルアクション
(あらすじ) 西暦2199年、正体不明のガミラス星からの攻撃で放射能に汚染された地球は滅亡まであと1年と迫っていた。はるか彼方のイスカンダルから通信衛星をキャッチした人類は、放射能除去装置を求めて宇宙戦艦ヤマトを発進させる。
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(レビュー) 1970年代に人気を博したSFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の実写映画化。
元々の設定にアレンジが加えられているが、そこをどう評価するかで本作の好き嫌いが分かれてきそうである。良し悪しあるにせよ、そこが今回の一つの見所と言える。
監督は「ARWAYS 三丁目の夕日」シリーズの山崎貴。当然、彼が率いる白組のCGが最大の見所となる。アメリカのTVシリーズ「バトルスター・ギャラクティカ」やエイブラムス版
「スター・トレック」(2009米)に近い感じの映像が出てくるが、クオリティ面ではさすがにハリウッドの技術には引けをとってしまうと感じた。「世界に挑む‥」なんて帯文句をつけてしまったので、見る目も自ずと厳しくなってしまう。ただ、日本映画の中ではクオリティは高いほうであろう。この頑張りは評価してもいいのではないかと思う。
しかし、脚本と演出については色々と不満が出てきてしまう。
ストーリーはアニメ版の「1」と「2」を合わせた感じである。2時間20分で2クールのTVと1本の映画をまとめたのだから、唐突に思えるシーンや、不自然なシーンは幾つかあった。ここはオリジナルを知る者なら、ある程度察してやる必要があるが、逆に知らない人にはどう映るのか‥。例えば、アニメ版のセリフが幾つか登場してくるが、このセリフは伏線があるから活きてくるのに、その伏線をカットされてしまっては余り意味の無いものに聞こえてしまう。アニメ版を知らない人にとってはサッパリ‥ということもあるかもしれない。どこを切ってこどを入れるか。シナリオ・センスの問題であるが、本作はそこが余り上手くいっていなかったように思う。
山崎監督の演出にも幾つか不満が残った。この映画は基本的にドラマのほとんどが艦内で展開される。この撮り方が余り上手くない。プロダクションデザインの仕事振りにも邦画の限界を感じてしまうし、「世界に挑む‥」ということからすれば演出にもっと気を配る事はして欲しかった。チープなセットをチープに見せないための演出が出来なければ世界に挑めないと思うし、わざわざ実写映画にする意味も感じられなくなってしまう。
また、芝居の演出で一番不自然に思ったのは、古代がコスモゼロで発進するシーンである。森雪の変化が余りにも唐突過ぎて、どうしていいやら‥。
キャストは木村拓哉の古代進を含めオリジナル版を踏襲していない。しかし、これに関しては予め予想してたことでもあり、今回はそこも楽しみの一つとして捉えた。むしろ、柳葉敏郎の真田士郎はオリジナル版に似せようとしているくらいで、これには孤軍奮闘的な愛おしさを覚えた。
敵であるデスラーの設定は不自然なく見せる方法としては”あり”かなと思った。「ヤマト」は敵の描き方にこそテーマが集約されていると言っても良いと思う。今回の敵は完全に「2」以降の「ヤマト」の敵であり、少なくとも「1」で描かれたガミラスでない事は分かる。勧善懲悪に徹した潔さは、ドラマを分かりやすくしているので良いのではないだろうか。逆に「1」のデスラーを期待してしまうと〝なし”になってしまうだろうが‥。
A・ホプキンスの好演が◎
「世界最速のインディアン」(2005ニュージーランド米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 孤独な老人バートは、愛車のオートバイ、インディアン・スカウトに乗って世界最速記録に挑戦していた。隣近所に住む少年トムや銀行勤めのハイミス、フラン等、町の人々の協力を得ながら、彼はアメリカのボンヌヴィル塩平原で行われるスピード記録世界大会に出場する。
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(レビュー) 世界最速記録に挑戦した男の実話の物語。
バートを演じたA・ホプキンスの好演が光る。年齢を感じさせないバイタリティー溢れる演技で、夢を追いかける老境に差し掛かった男を活き活きと体現している。例えば、地元の暴走族と一戦交えたり、銀行の窓口でいきなりナンパをしたり等々。普通の若者でもここまで積極的な行動に出れないだろう‥というのを飄々と演じている。正にやんちゃなお爺ちゃん‥といった感じだ。また、昔気質な性格ゆえ、周囲に迷惑をかけることが多々あるのだが、それさえも何だか許せてしまうのは、このキャラに人間的な魅力が感じられるからであろう。そもそも、夢を追い求める人間はそれだけで尊いものに思えてしまう。
物語は概ね3部構成になっている。まず、序盤はニュージーランドを舞台にした周縁との関わり合いを描くドラマになっている。渡米後の中盤からはアメリカ大陸横断を描くロード・ムービー。そして、終盤は最大の盛り上がりどころ、レースシーンとなっている。序盤はやや性急に映る箇所があり、ドラマを追いかけすぎな感じを受けた。しかし、渡米後は地に足が着いたドラマになり、旅で出会う人々との交流でじっくりと見せている。
中でも、アメリカとニュージーランドのカルチャーギャップが最も面白く見れた。
例えば、バートが宿泊するモーテルの受付をしているゲイの存在は、いかにもアメリカ的な風俗といえる。周囲の人々は奇異の目で見るのだが、バートは何の先入観も無しに彼との交流を深めていく。特別な存在としてでなく一人の人間として彼に接していくのだ。この大らかなヒューマニズムにはしみじみとさせられた。
また、その後に出会う先住民のエピソードは、バートのアイデンティティーを探求する重要なエピソードとなっている。アメリカに渡ったバートが砂漠の片隅でひっそりと暮らす先住民に親和性を求めるのは、至極当然なような気がした。アメリカという国を遠い所から見つめる者同士に芽生える友情と言えばいいだろうか‥。土地を乗っ取られた孤立者《先住民》の鬱屈した感情と、世界最速という冠をかけてアメリカに戦いを挑むバート《移民》の感情は、深い所で結びついているような気がする。
ただ、惜しいかな、このエピソードはそれほど深く突っ込んで描かれない。そもそも、本作にはインディアンというモチーフが存在する。これは先住民の名前とバートの愛車の名前、二つの名前をかけているのだろう。バートのアイデンティティーを追求するなら、ここはもう少しじっくりと描いて欲しかった気がする。
他にも、様々なキャラ登場して交友が育まれていくが、厳しく見てしまうとやや性善説に偏り過ぎた感じを受けた。ドラマを盛り上げる上では悪人サイドに寄った人物も必要であり、そこを描けなかった所に作品としての限界が感じられてしまう。できればバートと対峙する深みのある悪人を一人くらい登場させてほしかった。
演出は比較的オーソドックスで総じて綻びが少ない。安心して見る事が出来た。クライマックスの盛り上げ方も上手く演出されており、ラストのレースシーンも手に汗握る興奮が味わえて良かった。
宮崎あおいのM属性っぷりが良い。
「少年メリケンサック」(2008日)
ジャンルコメディ・ジャンル音楽
(あらすじ) 大手レコード会社に勤める栗田かんなは、ある日偶然ネットで少年メリケンサックというパンクバンドのライブ映像を見る。衝撃を受けた彼女は社長に直談判し、彼らをメジャーデビューさせることになった。早速、契約を交わそうとベーシスト、アキオの元を訪ねる。ところが、出てきたのは酔っ払いの中年オヤジだった。実は、ライブ映像は25年前のものだったのである。会社はすでに全国ツアーを企画しており、今更後に引けない状況になっていた。こうしてかんなはオヤジバンドを連れて全国ツアーに出ることになるのだが‥。
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(レビュー) 今更感のあるバンド物の映画だが、本作は中年パンクバンドを題材にしている所が面白い。昨今オヤジバンド・ブームなんていうのもあったが、そのほとんどは定年退職したおじさん達が青春時代に流行った音楽を和気あいあいと演奏する‥といったものだろう。しかし、少年メリケンサックはバリバリの現役パンクバンドとして、メジャーデビュー&全国ツアーを展開していくようになる。
但し、25年という歳月はあまりに長過ぎた。容姿は見るも無残に変わり果て、当時のパンク・スピリットも消えうせていた。プロモーション・ビデオとは似ても似つかぬ物を見せられた観衆からは当然「すっこめ!」と罵倒され、他の若いバンドからはボロクソに貶される。次第にバンド内には不協和音が起こり、それにかんなは振り回されることになる。
基本的には、パンクと中年という異質なものを同居させたところにギャグの源を見る事が出来る。例えば、“ぢ”持ちでイスに座れないドラマーとか、車椅子のヴォーカルとか、老眼鏡をかけないとセットリストを確認出来ない等々。こういった“老い”と“パンク”を無理やり結びつたところに“笑い”の根源がある。
そして、笑いのキーを握るのは、彼らをサポートする役割を持たされたかんなの存在である。メンバーの傍若無人ぶりにキレながらも仕事と割り切って付き合っていくのだが、いくら仕事とはいえこの仕打ちは涙なくして見れない。牛糞まみれになるわ、セクハラされるわ、車から放り出されるわ、酷いとしか言いようがない数々の仕打ちを受ける。その一方で、社長からは責任を取れと脅され、愛する恋人との距離がどんどん遠ざかってしまう。何と言っても、かんなを演じた宮崎あおいが良かった。この人はもしかしたら虐められ体質を持っているのでは‥?そう思えるほど、かんなというキャラを活き活きと妙演している。コロコロと変わる表情が◎である。
一方、バンドの面子なのだが、こちらは今ひとつキャラが弱い。確かに個性的なメンバーが揃っているのだが、その魅力を完全に出しきれていないという印象を持った。個々の登場シーンは夫々に印象的で良いのだが、いかんせんドラマがギャグを語る方ばかりにベクトルが向いてしまっているので、キャラクターの内面を掘り下げる作業が疎かになってしまっている。例えば、クライマックスで描かれるメンバー内の衝突だが、ここも実に勿体無い描かれ方になっている。ここが決まるとラストに向けて個々のキャラがグンと引き立って面白く見れるのだが‥。演出の問題だと思う。
監督・脚本は宮藤官九郎。バンドが復活する中盤のシーンにしてもそうだが、ここぞという所の演出に“照れ”が感じられた。「木更津キャッツアイ」くらいバカ騒ぎしてしまうと、さすがにリアリティを無視しすぎ‥ということになろうが、“照れ”を捨ててアゲていくシーンはもっと大胆にアゲていった方が面白くなったと思う。脚本についても同様の事は言える。以前紹介した
「舞妓Haaaan!!」(2007日)でも書いたが、この人は要所をギャグで逃げてしまうクセがある。ギャグが持ち味であることは分かるのだが、そればかりでは肩透かしを食らった気分になって見ていて段々退屈してしまう。締めるところはしっかり締めて欲しいし、メリハリをもっとつけて欲しい。脚本家としての映画デビュー作にあたる「GO」(2001日)のような、笑えるけれど切実にパワフルな作品もたまには見てみたい。
ほぼパーフェクトな映像に感嘆。非凡なミステリ・センスに唸らされる。
「白いリボン」(2009仏)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 第一次世界大戦の前年。夏の日差しが照りつけるドイツの小村で事件が起こる。村のドクターが、誰かが仕掛けた針金に引っ掛かって落馬して骨折した。その直後、製材所で働いていた小作人が転落死する。立て続けに起こった事件は村人達を不安に陥れた。やがて、秋になり地主の邸宅で収穫祭が催された。村人達は陽気に騒ぐが、その傍らで再び事件が起こる。何者かによって畑が荒らされたのだ。更に、その夜地主の息子が暴行を受けた。次々と起こる不可解な事件に、村人達は再び疑心暗鬼になっていく。一方で、村の敬虔な牧師一家にも事件は起きていた。帰宅が遅くなった長女クララと長男マルティンが、厳格な父に体罰を受け、自省を促す純真を意味する“白いリボン”をつけることを強制される。
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(レビュー) 不可解な事件に襲われる村を舞台に、人間の驕りと嫉妬、猜疑心を鋭く炙り出したヒューマン・サスペンス作品。
監督・脚本はM・ハネケ。この監督の作品では、ハイミスと青年ピアニストの愛憎を描いた「ピアニスト」(2001仏オーストリア)という作品が強烈に印象に残っている。ただ、ハネケ監督の本領が発揮されるのは、本作のようなサスペンス映画なのかもしれない。未見であるが「ファニーゲーム」(1997オーストリア)は傑作と誉れ高い。アメリカ資本で監督自らリメイクもしている。そしてもう1本、この監督の代表作として知られているのが「隠された記憶」(2005仏オーストリア独伊)という作品だ。非凡な作風から賛否両論を巻き起こした問題作である。そもそも、謎が明確に解明されないまま終わるという幕引きからしてキワモノ的だ。答えは与えられるものではなく、観客が考えて導き出すもの---これがハネケ流ミステリー映画のツボなのである。そのツボを知らずに見たからか、「隠された記憶」は今ひとつ釈然としない思いで映画館を後にしたものである。しかし、今回はそのときの経験で耐性が出来ている。今回はどんなミステリーが出されるのか。面白く見る事が出来た。
今回、特筆すべきは複雑に入り組んだ人物相関である。「隠された記憶」は一組の夫婦を中心にしたドラマだったのに対して、今回は登場人物の数がやたらと多い。まず、村の半分を支配する地主一家がいる。昔の貴族の名残であろう。小作人を抱えながら大きな屋敷に夫婦と息子と住んでいる。そして、屋敷の敷地内には彼に雇われている家令一家が住んでいる。主人に忠実な僕である。村には敬虔な父が強権を振るう牧師一家。たくさんの子供を抱えて苦しい生活を送る小作人一家。そして、二人の子供を抱えるドクター、彼の助手として働く助産婦、人の良い学校教師等が住んでいる。
このうちドラマの中心となるのは学校教師である。物語は彼のナレーションで回想形式で進んでいく。閉塞的な環境には付き物の格差、そこから生まれてくる憎しみと数々の悲劇的事件が、彼の視点で綴られていく。
村人の中で最も重要となるキャラは、牧師の長女クララと長男マルティンである。厳格な父の躾によって、彼らは白いリボンをつける事を強制される。ちなみに、この白いリボンには、純真、純潔、正義といった聖性のシンボルが込められている。いかにも敬虔な牧師らしい教育方針だが、一方で人権を無視した度を過ぎたものにも感じられた。物語の時代設定を鑑みれば、牧師の強権には明らかに後のナチズムの影がちらついてしまう。強制収容所の囚人達は逆三角形のバッジを個々につけさせられた。二重三角形はユダヤ人、赤い三角形は政治犯、ピンクの三角形は同性愛者等々。これは、支配の印、非人間性、従属を表すものである。この映画に登場する白いリボンは、正にそれと同じ意味を持つものではないだろうか。加虐者と被虐者の関係を結ぶつけるものとして、この白いリボンは残酷にも存在している。
実は、大人が子供を抑圧するというのは、「隠された記憶」の中にも登場してきたテーマであり、監督はよほどこのテーマに何らかの思い入れがあるのかもしれない。宗教を翳して子供達を抑圧する牧師のこのやり方には、大人の傲慢さに対する監督のはっきりとした批判が込められている。威厳を保つために、あるいは子供を守るという建前から、大人は子供を支配し権力を振りかざして自己の優位性を実証させる。これは不安や恐れからくる大人の性癖なのではないか‥。そんなことすら感じてしまった。
物語は、そんな大人たちをあざ笑うように不可解な事件が次々と起きながら展開されていく。ドクターの落馬、小作人の転落死、傷害事件、放火事件等々。誰が犯人なのか?動機は何なのか?唯一、畑を荒らした犯人だけは特定されるが(画面上に出てくる)、それ以外は何も分からず、村人達は互いを疑いの目で見、不安な気持ちに襲われていく。しかし、考えてみれば、これだけ小さなコミュニティで犯人が分からないというのは、どう考えてもおかしな話である。これは想像だが、村人の中には犯人を知っていて敢えて口をつぐんでいる者もきっといるはずだと思う。いずれにせよ、一連の事件には共通して被虐者による加虐者に対する復讐が存在しているのではないかと想像できる。人が人を支配することで起こる恐怖の連鎖とそこから生まれる敵対心。人間の愚かさと言ってしまえばそれまでだが、これは人間社会において決して無くなることのない自明的現象なのだろう。
尚、本作はカラーフィルムを使って敢えてモノクロ風に仕上げられた作品である。この意味についても色々と想像できる。舞台となる村は冬になると雪が積もりとても美しい情景に包まれる。しかし、白いリボンが意味するところと同様に、ストイックに突き詰められた眩いばかりの白い情景は、恐怖と憎しみに捉われた村の実情によって、かえって儚く虚しいものに見えてくる。純真、潔白をイメージさせる“白”が強調されることで、そこで繰り広げられる人間の争いが残酷なものとして浮かび上がってくる。
また、この物語全体が教師の回想ドラマであることを考えれば、過去の記憶をモノクロに漂白し“再現した”とも取れるだろう。監督が何故モノクローム表現にこだわったのか。その理由についても興味深く推察できる。
ユニークなアイディアが目を引く戦争映画。
「レバノン」(2009イスラエル仏英)
ジャンル戦争・ジャンルアクション
(あらすじ) 1982年、イスラエル軍がレバノンに侵攻する。戦車に搭乗した4人の兵士が、爆撃後の市街地に向けて出発した。優柔不断な指揮官アシ、恐怖で引き金を引けない砲撃手シムリック、反抗的な弾倉係ヘルツル、マザコン操縦士イーガル。彼らの任務は残党兵を始末することだった。任務は簡単に終わるはずだったが、思わぬ事態で彼らは窮地に追い込まれてしまう。
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(レビュー) 戦車に搭乗した4人の兵士が体験する恐怖を、緊張感溢れるタッチで描いた戦争映画。
去年見た
「戦場でワルツを」(2008イスラエル仏独米)と同じレバノン戦争を題材にしている。我々日本人にとっては余り馴染みのない戦争であるが、監督はどちらもイスラエル人でこの戦争に従軍した経験を持っているということである。おそらく彼等にとって、この戦争は忘れることのできないトラウマとして脳裏にこびり付いているのだろう。「戦場でワルツを」はアニメーションという技法を使うことで割とファンタジックに料理されていたが、本作はそれとは対照的に戦場の臨場感を重視した感じに仕上げられている。同じ戦争を体験した監督でも、ここまでテイストが異なると面白い。そして、両作品とも戦場の理不尽さ、恐怖といったものがひしひしと伝わって来るあたりは、監督の戦争体験がダイレクトに作品に反映されているからであろう。
本作で特筆すべきは作品スタイルである。映画が始まってからラストに到るまで、カメラは戦車の中から一歩も外に出ることはない。戦車内部で起こる密室ドラマと、スコープ越しに見る風景だけで90分を描き切っているのだ。この息詰まるような閉塞感は只事ではない。連想したのは、「Uボート」(1981西独)のジメジメとした圧迫感である。正に観客自身が戦車に乗って戦争を疑似体験しているかのような、そんなユニークなスタイルになっている。
主要キャラは戦車に搭乗する4人の兵士達である。これが何をやらせてもダメな連中で、序盤から砲撃手が墓穴を掘って失笑を買う。おまけに部隊の隊長は軽薄且つ独善的な男で全然信用できない。こんな調子なので任務などまともに遂行できるはずも無く、彼らはどんどん窮地に追い込まれていくことになる。
本作は基本的にはシリアス劇であるが、こうした戦場の混乱を捉えた描写は見ようによってはブラック・コメディのようにも映る。特に、オチに関しては人を食っているとしか言いようが無い。冒頭のひまわりにしてもそうだが、「平和」の象徴をかくも堂々と画面に印象付けるということは、この作品自体が監督の「戦争」というものに対する痛烈なアイロニーになっているのであろう。ひまわり達のしどけなさにオフビートな味わいがある。
プロダクション・デザインの仕事振りについては今回最も驚かされた点である。戦車の内装は途中からガラリと表情を変えていく。あるアクシデントによって、まるでエイリアンの巣のようなグロテスクな空間に変化していくのだ。粘液のような液体が壁一面を滴り落ち、床一面にコールタールのような液体が浸水する。機械というよりもそれはまるで生き物のようである。もしくは、彼等稚拙な兵士たちにとっての隠れ蓑、つまり幼子を孕む母胎のようでもあり、正直生理的にはかなりキツイものがあった。塚本晋也監督の「鉄男 TETSUO」(1989日)は人の情念が肥大する事で体が金属に蝕まれていった。それと同じように、この戦車も戦争の狂気によって禍々しいモンスターに豹変してしまったのかもしれない。この戦車の内装はドラマの舞台としてはこれ以上に無いくらい異様な雰囲気を醸し、リアリティーを追求したドキュメンタリータッチにこうした歪なアイディアを付加したセンス。そこにこの監督の才気を感じてしまう。
一方、物語については正直、映像スタイルほどの斬新さは余り感じられなかった。戦災の悲劇や兵士同士の意思疎通といった紋切り的なエピソードを要所に入れ込んだ作りで、極めてシンプルである。そこだけにポイントを置いてしまうと物足りない作品である事は確かだ。特に、後半に登場するキーマンに関しては、やり方次第でもっと面白いドラマに出来たかもしれない。捕虜の扱いにしても同様のことは言える。このあたりをサスペンス効果に作用できれば、また鑑賞感も大分違ってきただろう。もっとも、本作はドラマ性を極力排除している事は予め分かりきっていることであり、そこを評価の対象にしても仕方がないという感じもするが‥。
また、初監督と言うこともあるが、所々に演出的な不自然さを感じたのも残念だった。こちらは明らかに予算等の問題だと思う。
皮肉の効いた戦争映画。
「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」(2007米)
ジャンル戦争・ジャンルコメディ
(あらすじ) 1980年、ソ連がアフガニスタンに侵攻する。米下院議員チャーリー・ウィルソンは、テレビで戦火に晒される住民の姿を見て胸を痛めた。そして、国防委員会に義援金の倍増を指示する。慈善事業団体を支援する富豪ジョアンはこの政策に注目し、パーティーの席でチャーリーに近づきアフガニスタン解放運動を働きかける。CIAでくすぶる切れ者ガストの協力を得たチャーリーは、アフガニスタンへの武器弾薬の調達に奔走する。
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(レビュー) 冷戦時代に活躍した政治家チャーリー・ウィルソンの活躍を描いた実録ドラマ。
この戦争は言わばアフガニスタンを舞台にした米ソ代理戦争だったわけであるが、過去のベトナム戦争然り。常に苦渋を強いられるのは戦火に巻き込まれる民間人である。そして、民族紛争は数多くあれど、その裏で糸を引くのはアメリカやソ連といった大国だったりするわけで、前線に立たされる兵士達は彼らのイデオロギーの対立に利用される“駒”に過ぎないのかもしれない。改めて、戦争とは何なのか?ということを考えさせられてしまう。
チャーリーはありとあらゆる人脈と金脈を使ってアフガニスタンへの軍事投入を推し進めていく。その結果、ソ連をアフガニスタンから追い出すことに成功し、ベルリンの壁が取り壊されて冷戦時代は終焉する。
本作ではチャーリーは冷戦を終わらせた影の立役者のように賛美されている。ただ、これを額面どおりに受け取っては、本作の真意を理解したと言うことは出来ないだろう。その後、アフガニスタンではタリバンが台頭し、アメリカは対テロ戦争に突入していく。言わば、アフガン戦争がタリバンという怪物を作ってしまったわけである。敢えて今この戦争を描いた意味はここにあろう。共産主義から世界を守れと大義名分を翳して勝利したアメリカは、痛いしっぺ返しを食らった。この歴史を考えれば、チャーリーの偉大なる功績は実に皮肉的なものに見えてくる。
監督は名匠M・ニコルズ。いかにもこの人らしいシニシズム溢れる問題作となっている。
ただ、全体的にコメディ要素が強いため、それほど“毒”が目立つわけではない。社会派的なテイストを極力抑えながら娯楽性を優先させた作りになっている。その結果、全体的にまろやかな味付けになっている。そのサジ加減にベテラン監督ならではの手練が認められる。娯楽かメッセージか?この二つを天秤にかけることは、常に作り手側について回るジレンマであろうが、今回はそのバランスが上手く取られているような気がした。
チャーリー・ウィルソンを演じるのはT・ハンクス。女と酒とドラッグを愛する軽薄な政治家という設定は、コメディアン出身である彼にはハマリ役だと思う。ただ、コメディもシリアスも難なく演じてしまう器用さがこの人の損な所でもある。今回は幾分コメディに傾倒しているが、作品の印象同様、インパクトには欠ける演技であった。
本作で白眉はガスト役を演じたP・S・ホフマンだろう。見終わってようやく判明したくらいで、彼が演じていたとは全く気がつかなかった。この役作りには脱帽である。また、チャーリーの取り巻き、通称“チャーリーズ・エンジェル”(笑)の筆頭A・アダムスの可愛らしさも印象に残った。
癌患者とそれを診る医師の思いについて考えさせられる。
「病院で死ぬということ」(1993日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 山岡医師は癌の治療医である。彼は4人の癌患者を診療することになった。一人目は末期の大腸癌を患った川村という老人である。彼は同じく癌にかかった妻と同室で再会する。二人目は働き盛りのサラリーマン野村。彼は癌と知らずに入院して、手術をして元気に退院していった。3人目は中年女性池田である。彼女は今回が2度目の入院で、長期の闘病生活に精神的に追い詰められていくようになる。そして最後はホームレスの藤井である。彼は末期の食道癌患者として搬送されてきた。
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(レビュー) 医師と4人の癌患者のエピソードを静謐に綴った人間ドラマ。
癌との戦いは実に暗く苦しいものだが、それを声を大にすることなく淡々と描く事によって「生」の重みを実感させるような作りになっている。現実はドラマのようにはいかないけれども、本作を見た癌患者や周囲の人間が少しでも目の前の現実を冷静に受け止め、生きる勇気や希望を見出すことが出来れば、本作の存在意義もあるだろう。
監督・脚本は市川準。孤独な作家の生活を淡々と綴った
「トニー滝谷」(2004日)もそうだが、彼はCF出身の監督だけあって詩的な映像を撮るのが上手い。癌患者のエピソードの合間に、ドキュメンタリータッチの外の風景が挿入されるのだが、この部分が非常に美しく撮られている。いかにも市川流のフォトジェニックな風景で、見ようによっては重々しいテーマにそぐわない感じもするのだが、一方で死の縁に立たされた患者と対比する形で美しい情景が映し出されると「死」に対する「生」の輝きが意識させられる。花見で浮かれる人々の笑顔、四季折々に色づく自然風景。これらはみな「生」の象徴である。逆に、病院内の風景は益々暗く辛いものに見えくてくる。実に残酷な対比であるが、これが癌患者の鬱積であり、恐怖を表現しているのだろう。この対比から、外の「生」の風景に負けないくらい一日一日を大切に生きていかなければならない‥という彼らの思いも静かに感じられた。
尚、病院のシーンは全て演出された芝居であるが、こちらも基本的にはドキュメンタリータッチで撮られている。定点観測のカメラで患者達の日常を追っていくという極めて動きの少ない芝居である。しかし、患者と山岡医師のコミュニケーションは中々見応えがあり、決して退屈するような事は無かった。彼らの診療は近代医療だけでは到底まかなえるものではなく、精神的なカウンセリングも必要になってくる。時と場合によっては、医師は技術者としてでなく、一人の人間として患者に向き合っていかなければならない。病気を患者に告知するかどうかという問題も含め、山岡医師は一人一人の患者に真摯に接していく。彼がどういう人間で、何を考えているのか。それが患者達とのやり取りから見えてくる。そこに人間ドラマとして面白さが感じられた。
山岡医師を演じるのは個性派俳優、岸部一徳。ある種、難病物と言って良いこの手のドラマは、作りようによっては臭いお涙頂戴物になりかねないが、彼の淡々とした喋りが作為性を払拭している。感傷に流されることなく冷静なスタンスで診療に臨む姿勢に、医師としての説得力も湧いてきた。こういう医者には信頼を寄せる事が出来そうだ。
本作で問題となるのは、ラストの処理のし方だろう。こういう締めくくり方をされると臭く感じてダメである。この映画のテーマはタイトルにもあるとおり、病院で死ぬことにどんな意味があるのか?ということである。劇中の池田のように畳の上で死にたいと考える人もいるだろう。確かに昔は畳の上で死ねれば本望という考えもあった。しかし、医療が発展した現代では病院で亡くなる人が多いと思う。周囲の家族の意向や経済的な事情、あるいは延命の議論にも関わってくる大変難しい問題である。それを“愛”という言葉だけで片付けらてしまっては、製作サイドの問題認識の甘さを疑ってしまう。いよいよ死に直面した場合、人はどう覚悟を決めるのか?この問題の重みをもっと正面から捉えるべきだったのではないだろうか。もっと言えば、ラストは描かなくても良かったような気もする。残された人生をどう生きるか?その覚悟を呈しただけでも本作のテーマは十分伝わるように思った。
変態映像作家フィンチャー先生‥!
「パニック・ルーム」(2002米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) シングルマザー、メグは夫と離婚後、長女サラとニューヨークに引っ越してきた。その家には、前の住人が警護のために作った避難部屋があった。一旦中に入ると外からは絶対に開ける事の出来ない特殊な金属で囲われた小さな部屋である。引越の夜、3人組の強盗団がメグ達が就寝したのを見計らって押し入った。気付いたメグはサラを連れてとっさに避難部屋に逃げ込んだ。こうして彼らは避難部屋の内と外で対決することになる。
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(レビュー) 避難部屋(パニック・ルーム)に逃げ込んだシングルマザーと強盗団の戦いを描いたサスペンス・スリラー。
監督は鬼才D・フィンチャー。凝りに凝った映像で、母親と強盗団の攻防を息つく暇を与えない展開で見せきった手腕は流石である。また、ドラマの方も母娘の愛、強盗犯のバックストーリーを上手く拾い上げ一定の深みを醸している。全体的にはよく考えられているドラマだと思った。確かに1シチュエーションで展開されるのでストーリーの広がりは抑え目だが、アイディア優先の小品として見れば十分である。何より自分はこういった閉塞感漂う密室劇は割と好きである。欲を言えば、シナリオを更に刈り込んで100分以内のお手軽な映画にしてくれたら尚良かった。
メグ役を演じたのはJ・フォスター。それほどハードではないが、アクションシーンにも果敢に挑んでいる。終始薄着状態なのもサービス精神があって◎
サラ役を演じるのはこれが映画デビュー作となるK・スチュワート。その後、トワイライト・シリーズで人気若手女優の仲間入りを果たしていくが、本作では少女というよりも少年といった感じの中性的なルックで面白い造形となっている。ただ、デビュー作ということもあろう。演技がまだ固い上に、この年齢設定の割には少し堂々としすぎな感じがした。突然現れた強盗犯に対して母親顔負けの沈冷静着な立ち振る舞いを見せるのは、いくら自我が芽生え始めた少女だとしても堂々としすぎである。これではサスペンスの切迫感も薄れてしまう。彼女に関してはもう少し年相応の“か弱さ”を持たせて欲しかった。
一方、3人組の強盗犯も夫々に個性的に色分けされていて良かったと思う。日和見で短絡思考なリーダー。犯罪に手を染めるようには見えない善良なサブ・リーダー。計画の途中から参加する謎多き男。見ようによっては、この統一感の無さがドタバタ喜劇のように見せてしまっているのだが、そこはご愛嬌といったところか‥。逆に言えば、彼等の計画がどんどん狂って行くところに、人間の些末さ、愚かさが垣間見えブラック・ユーモア的な面白さも感じられる。スパイスの効いた悲喜劇‥という感じで面白く見れた。
映像は非常に凝っている。マイクロカメラを駆使した長回しは一体どうやって撮影したのだろうか?ドラマの舞台となる家を隅々まで写すのだが、ここまでこだわるとは、もはや“変態的”と言ってもいい。映像派作家フィンチャーのこだわりが感じられた。
見事なミステリーロマンス。
「つぐない」(2007英)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 1935年、イングランドのタリス家には、年頃の娘セシーリアとブライオニーという姉妹が住んでいた。兄が久しぶりに帰省するというので一家は晩餐の準備に追われる。セシーリアは使用人の息子ロビーと惹かれあっていたが、身分の違いからこの恋に踏み出す事が出来ないでいた。それをブライオニーが嫉妬の目で見る。実は、彼女もロビーの事を密かに想い続けていたのである。夕方になり兄が帰ってきて晩餐会が開かれる。そこに兄に招待されたロビーも参加した。ブライオニーは、セシーリアとロビーの密会を目撃してしまい‥。
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(レビュー) 名家の姉妹と使用人の禁断の恋を綴ったメロドラマ。
監督はJ・ライト、主演はK・ナイトレイ。このコンビは
「偏見とプライド」(2005英)に続き2度目となる。安定感のある演出、美しく洗練された映像等、堂々たる風格を持った作品に仕上がっている。割りと軽妙な作りだった前作に対して、今回はシリアスな愛憎劇に徹しており、前作とは違った見応えが感じられた。
物語は終始ミステリー調に展開される。まず、ブライオニーの視点で物語が始まり、彼女はセシーリアとロビーの密会を目撃する。そして、その後に時間が遡って、再びセシーリアの視点から物語が反復される。実はこういう経緯でこうなりました‥という舞台裏が、視点を変えることで解明される。
本作はブライオニーとセシーリアの視点、これを交互に切り替えながら謎と解答の連続で紡がれていく。見る側の興味を引き付けるという意味では、この構成は実に巧みなものに思えた。
尚、ブライオニーは小説を書くという趣味を持っていて、尚且つ妄想癖を持っている。このことを併せ考えると、彼女が目撃したセシーリアとロビーの逢瀬やその他の光景は、もしかしたら現実ではなくて全て彼女の妄想なのではないか?という疑問符も付きまとう。この判然としないところも含めて、このドラマは見る側の興味を引き付ける高い訴求欲を持っている。
映画は中盤に入ると、セシーリア、ロビー、ブライオニーの三角関係に一端の終止符が打たれる。そして、ここからは4年後を舞台にしたドラマに入っていく。ここでもこの映画は、4年という歳月を謎に伏せ、その間に彼らの間でどんなドラマがあったのか?それを回想形式で解き明かしていく。
このように本作は徹底して時勢を前後させながら謎解き形式で展開されていく。まるでミステリー小説を読んでいるかのように楽しめた。
ただ、この構成で1箇所だけ疑問に持った箇所があって、そこは残念だった。それは後半に入ってすぐ、ロビーの視点で物語が始まる所である。惜しいかな、そこに視点の曖昧さを感じてしまう。本来、ここはブライオニーの視点に立って彼女の悔恨が追求されていくべきパートではないだろうか。そこにロビーの視点が混入されると、「あれ?」という風になってしまう。全てがきっちりと綺麗にオブジェクトされていないところが、唯一惜しいと思うところだった。
テーマは“現実の厳しさ”ということになろうか。
今作はメロドラマとして十二分に完成された作品であるが、その一方でブライオニーの妄想癖という重要なキャラクター性を考えると、彼女がありのままの現実を受け入れていくまでの過程を描いた試練のドラマ、成長のドラマと言うことも出来る。書き換え可能な小説の世界、つまり妄想の中に逃げ込むブライオニーが、歳月を経て現実の厳しさを思い知っていくという痛切なドラマは中々見応えがある。この”現実の厳しさ”というテーマは「つぐない」というタイトルに端的に集約されているが、映画を見終わった後に、実はこれはかなり皮肉の効いたタイトルであることが分かってくる。
ちなみに、自分が本作で最も印象に残ったシーンは、従軍看護婦になったブライオニーが瀕死の兵士を看取るシーンだった。兵士は彼女に、前にどこかで会ったことがある‥と告白する。しかし、そんなことはあるはずがなく、その兵士は単に愛する人をブライオニーに重ねて見ているだけである。しかし、ブライオニーは彼の話を黙って聞きながら最期を見届ける。実に悲しいシーンであるが、ここはロビーの死をも暗示させる。実は、ロビーの死はこの映画では描かれていない。しかし、絵葉書というアイテムからも分かるとおり、きっとロビーもこの兵士と同じように戦場で美しい夢を見ながら息を引き取ったのではないか‥。そんな風に想像できてしまうのである。彼の死をはっきりと映像で見せず、敢えて暗示に留めたこのスマートな演出が実に見事である。
また、カオスと化したダンケルクの浜辺を驚異的な長回しで捉えたシーンも印象に残った。これほどにまで大きな舞台を一つにまとめた監督の手腕に唸らされる。大変見応えのあるロングテイクだった。
社会派的な問題と家族愛というヒューマンなテーマが見事な融合を見せている。
「そして、私たちは愛に帰る」(2007独トルコ)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ドイツのブレーメン。孤独な老人アリは、シングルマザーの娼婦イェテルと同棲を始める。たった一人の家族である息子ネジャットはそんな父を責める。しかし、イェテルの不幸な身の上を聞くと仕方ないと思うようになった。実は、彼女はトルコに住む娘アイデンの学費を稼ぐために今の仕事をしていたのである。それから暫くしてアリが心臓病で倒れる。一方、トルコではアイデンが反政府運動に参加していた。仲間が逮捕されたのをきっかけに組織は崩壊し、彼女は故国を追われるようにして母を探しにドイツにやって来た。右も左も分からず路頭に迷っていた所を、ロッテという奔放な女子学生に助けられ彼女の部屋で同棲することになる。
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(レビュー) 国境を隔てて交わされる親子の情愛を感動的に綴った群像ドラマ。
ドイツもトルコも我々日本人からすると余り馴染みがない国かもしれない。しかし、親子愛というテーマは普遍的で見終わった後にはしみじみとした感動が味わえた。
物語は軽快なテンポで進む。センスの良いセリフ回しと演出が飽きさせない。普通ここまで軽快なテンポで進むとストーリーは浮き足立ってしまうものだが、本作は見せるべき所はじっくりと見せ、省略すべき所は粛々と省略している。適確な場面の取捨選択、洗練されたシナリオと演出が作品に安定感をもたらしている。
ただし、幾分流され気味な部分もある。全体的に個々のキャラの行動動機については、今ひとつ深く切り込めていない。悪く言えば説明不足と言うことになろうか‥。見る方としては、各キャラの行動動機を含めた心理を一つ一つ想像しなければならない。単に表に出てくるセリフを素直に受け取るだけでなく、そこに含まれる真意、俳優の表情、カメラワーク等から様々な意味を能動的に捉えていく必要がある。単に受け流せばいいという類の作品ではなく、見る側が自分なりの解釈をしていかなければ本作のテーマの核心には辿り着けないだろう。そういう意味では、見る人によって評価が分かれそうな作品と言える。
本作には全部で3組の親子が登場してくる。彼らは物語の冒頭では断絶状態にあるが、ドラマが進むにつれて徐々に関係が修復されていく。その過程は実に“いじらしい”ものとして描かれている。親と子供、両方の視点からドラマは語られているので世代を超えた感動が味わえよう。
監督・脚本はファティ・アキン。すでに「愛より強く」(2004独トルコ)で世界的な評価を受けた俊英であるが、その評価通り監督としての力量は“確か”と感じた。
エピソードは大きく分けると、ネジャットとアイデン、アイデンとイェテル、アリとスザンヌの3つのパートに割り振りできる。彼らはドイツとトルコを行き来しながら、運命の悪戯によってすれ違っていくのだが、このニアミスが物語のボルテージを上手く盛り上げている。綿密な構成には唸らされるばかりだ。
また、ファティ・アキン自身がドイツ生まれのトルコ移民2世ということで、トルコ移民のシビアな現状も作品の中でしっかりと織り込まれている。この辺りは明らかに監督のこだわりだろう。例えば、イェテルに対する差別やアイデンの反政府運動は、トルコが一体どういう国でどういった問題を抱えているのか?その実情に迫ったものである。EUに未だに加盟していない理由には根深い歴史問題や、こういった不法就労、不法入国の問題が大きいと言われている。それが本作を見ると具体的に見えてくる。トルコといえば真っ先に観光というイメージが思い浮かぶが、実は内政はかなり荒れていて、決して明るいイメージばかりではないという事がこの映画を見るとよく分かる。
尚、本作で一番印象に残ったキャラはロッテである。愛するアイデンがトルコに強制送還されると、彼女の後を追ってトルコへと渡る。愛のなせる業であろう。この勇気ある行動には感動させられた。また、同じようにドイツからトルコへ渡ったネジャットの行動にも大いに感銘を受けた。彼もある事情から仕事を捨ててドイツからトルコへ渡る。これも見上げた勇気である。
しかし、こうやって見るとドイツとトルコは地理的には隣接しているわけではないのに、実に近い存在であることが分かる。欧州諸国にはイギリスやフランスのように移民を受け入れている国が多い。ドイツもそのうちの一つだ。この辺りの国は他国に比べてわりと裕福なので移民が流入しやすいのだろう。しかし、それによって様々な問題を抱えることにもなってしまった。グローバリズムと言えば聞こえはいいが、現実には中々理想通りにいかないものである。