6人の俳優がディランを演じた異色の作品。
「アイム・ノット・ゼア」(2007米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル音楽
(あらすじ) ある場所で一人の詩人が男達から取調べを受けていた。1920年代、ウディ・ガスリーに憧れる黒人少年はギター片手に転々としていた。ベトナム戦争が激化する60年代、人気フォークシンガー、ジャックはプロテストソングを歌うことをやめて世間から姿を消す。同じ頃、新人俳優ロビーはスター街道を駆け上がっていた。彼は妻子を振り切って競演相手の女優と不倫する。80年代、スター歌手ジュードはフォークソングを捨ててロックへ転向し世間から非難を浴びた。そして現代、中年ビリーは山奥で隠居生活を送っていた。
楽天レンタルで「アイム・ノット・ゼア」を借りようgoo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 6人の俳優がボブ・ディランを演じる伝記映画。
監督・脚本は
「ベルベット・ゴールドマイン」(1998英)を撮った異才T・ヘインズ。彼が撮るだけあってストレートな伝記映画にはなっていない。何せ6人のボブ・ディランは夫々の時代のディランを表す“別人格”として登場してくるからだ。彼の伝記映画として見ようとするとかなり不合理な内容で、素直に入り込みづらい映画になっている。
ただ、この実験的で大胆な創意はユニークな試みに思えた。ボブ・ディランについて語る映画なら他のドキュメンタリー作品を見ればいいわけで、おそらくはそれとの差別化をはかる上でこのような作りにしたのであろう。ボブ・ディランを多面的な別人として描いたのは、T・ヘインズなりに彼を神格化した愛情表現なのだと解釈した。
だが、そうは言っても、ボブ・ディランのことをある程度知っていないと分かり辛い内容だと思う。夫々のキャラに投影された“ボブ・ディラン”にはバックストーリーが存在している。しかし、それは劇中では語られていない。予め彼の事を知っていれば、このキャラはディランのどの部分を表しているのか分かるだろうが、そうじゃないと見ていてワケが分からなくなってしまうだろう。
特に、新人俳優ロビーのエピソードは正直俺も何を描きたいのかよく分からなかった。他のエピソードは音楽というモティーフで繋がっているので、かろうじて彼の半生に重ね合わせて見る事でが出来るが、ロビーの不倫ドラマはディランのどの時代のどの部分を描いているのだろうか?
確かに彼は音楽以外に俳優業をしていた時期もあった。S・ペキンパー監督の「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」(1973米)の異形のガンマンは特に印象に残っているが、彼の俳優としての活動はそれほど多くはない。おそらくこの間のエピソードだと思うのだが‥。
尚、「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」出演時のエピソードは、本作では中年ビリーのドラマに投影されていると想像できる。というのも、「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」でビリーを演じたK・クリストファーソンが本作ではナレーションを務めているからだ。このことからも、中年ビリーが当時のディランの分身であることが想像できる。
映像はヘインズ監督らしく中々凝ったものが至る所に見られる。中でも、一番力が入っていると思われたのは、モノクロで描かれるジュードのエピソードだった。ジュードを演じるのはオスカー女優C・ブランシェット。女優がディランを演じる?という意表をついたキャスティングもさることながら、モノクロのシャープな映像が独特のトーンを作り出していて面白い。特に、ドラッグ漬けの彼の頭の中を再現するかのような非現実的なトーンで支配されるパーティー・シーンが印象に残った。
ドキュメンタリズムに拠った特異なスタイルの作品。
「愛の予感」(2007日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 都内の学校に通う中学2年生の少女が、同級生を刺し殺した。1年後、被害者の父親と加害者の母親が北海道の苫小牧で出会う。父親は鉄工所で働きながら社員寮に下宿し、母親はそこで賄いの仕事をしていた。二人は互いを意識しながら言葉も交わさず、ただ事件の悲しみを背負いながら日々を送っていく。
楽天レンタルで「愛の予感 “THE REBIRTH”」を借りようgoo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 子供を殺された被害者の父親と加害者の母親の交流を静謐なタッチで描いた人間ドラマ。
製作・監督・脚本・主演・主題歌は以前ここで紹介した
「海賊版=BOOTLEG FILM」(1999日)の小林政広。正にインディペンデントのワンマン映画で、彼の実験精神がとことん追求された作品と言っていいだろう。
セリフは冒頭とラストに登場するのみで、あとは淡々と二人のルーティンワークが言葉がないまま映し出されていく。登場人物は寮と鉄工所を往復するだけで、食事、風呂、労働、コンビニの買い物が繰り返されていくのみである。セリフが無い上に延々と同じシチュエーションが続くので、見ようによっては大変退屈する作品かもしれない。しかし、この何の変哲も無い日常の中に、彼らが背負う過去の悲しみと、そこから抜け出せない苦しみといったものが感じ取れる。また、一見すると同じシーンを繰り返しているように見えて、細部では微妙な変化が起こっており、それらに注視すれば二人の感情のすれ違いがかすかに読み取れる。
例えば、食事のシーン。父親はおかずに手をつけず毎日卵かけご飯しか食べない。まるで何かの儀式か、あるいは母親に向けられた何かのサインか?彼の胸に去来するものは何なのか?そして、ドラマが進むに連れて彼の食事風景は変化していく。表出する変化の中にキャラクターの微妙な感情の動きを想像しながら見れば、淡々としたシーンの連続でも十分魅力的なものになっていく。
他に、プリペイド式の携帯電話にまつわるエピソードも面白い。父親は一体どういう気持ちで携帯電話をあげたのか?受け取った母親はどういう思いでそれをつき返したのか?両者の思いを想像にしながら見ると面白い。
本作はこのような繊細な演出が延々と続く。
かつて映画がまだ音を持たなかった時代、サイレント時代では映像だけで語る事が普通だった。字幕や活弁士の解説はあったが、基本的には映像から物語を読み取るのが無声映画の見方である。今回、小林監督は敢えてそれに挑戦しているような気がした。これは商業的な目的を持った映画では到底不可能な冒険だろう。インディペンデントならではの大胆な所業という気がする。
そして、実際にこの特異なスタイルによって、作品は奥深さを持ち、観客を惹きつける求心力を持つに到っていることも確かである。そういう意味では、今回の小林監督の狙いは見事に成功していると思った。
ただ、結末については少し違和感を持ってしまった。この物語は贖罪がテーマだ。終盤にかけて二人の間にささやかな恋愛感情が芽吹くのだが、これについてはやりすぎだろう。果たしてこのテーマを描く上で、そこまで踏み込んだ物語にする必要があったのかどうか‥?そもそもこの物語は、事件発生の1年後から始まり、その間に二人はどんな生活を送り、夫々に相手をどう思っていたのか明示されていない。被害者と加害者の間で当然湧き起こるであろう憎しみの感情が、たった1年程度で恋愛感情にまで変わるだろうか?仮にあったとしても、そこに説得力をもたらすためには、それ相当のドラマが語られていないければ、所詮は絵に描いた餅に過ぎない。釈然としない思いでエンディングテーマを聴いた。
捻った題材で面白い。
「依頼人」(1994米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 少年マークは弟と森に遊びに行った時に、自殺しようとしている男を発見する。寸での所で止めようとしたが、男は拳銃で自らの頭を打ち抜いた。弟はその光景を見たショックで気が狂ってしまう。その後、自殺した男の素性が判明する。彼は上院議員殺しで起訴されたマフィア、マルダーノの弁護士だった。マークは連邦検察官ロイから、自殺する前にマルダーノの有罪に繋がる重要な証拠を聞いてないかと訊ねられる。しかし、彼はマフィアの仕返しを恐れて口をつぐんだ。そして、全財産の1ドルをはたいて、やり手女性弁護士レジーを雇う。
楽天レンタルで「ザ・クライアント 依頼人」を借りようgoo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 上院議員殺害事件に巻き込まれてしまう11歳の少年の危機を、女性弁護士との交流を交えて描いたサスペンス作品。
証拠を握るマークは、検察とマフィアの両方から追われるようになる。それを女性弁護士レジーが守りながら戦っていく‥というのがこのドラマの本筋だ。中々捻りの効いた設定で面白い。
ただ、本作は事件そのものに関する謎解きや、その裏側を暴くサスペンスを重視したドラマとはなっていない。事件そのものは、マークが証拠を提示すればすぐに解決する話である。彼はマフィアの報復を恐れてそれが出来ないが、アメリカには証人保護プログラムという制度がある。凶悪事件の重要な証拠を提供してくれた者に対して、政府は本人の身の安全を確保するために全く新しい生活を保証してくれるのだ。マークの危機はこれによって解決する。要は法的な手続きを済ませばいいだけのことであり、何故これほどドラマをかき回す必要があったのか‥。そこがどうしても解せなかった。
原作はJ・グリシャムの小説である。言わずと知れたサスペンスの大家である。これまでにも何本も映画化されているが、それらと比べると事件そのものにあまり魅力は感じられなかった。しかし、今回はサスペンスに関連する形で人間ドラマも語られており、これまでにない面白さが認められる。
その肝要を成すのがマークとレジーの疑似母子関係である。
マークは弟と母親と暮らすホワイト・トラッシュで、父の虐待の過去で人間不信に陥っている。心は荒み、周囲の大人に対して懐疑的で反抗的な態度を取っている。年の割りにしっかりしている所が彼のキャラクター・チャームだ。
一方、レジーも過去に傷を抱える孤独な中年女性である。彼女はアルコール依存症で愛する子供を失った。再起をかけて弁護士事務所を開いたが、そこに現れたのは我が子と同じ年頃の少年マーク。たった1ドルで弁護士を務めて欲しいと言われ最初は鼻で笑って相手にしないが、亡き息子と重ねる事で何となく見て見ぬ振りが出来なくなっていく。
マークとレジーは共に愛する家族を失った者同士である。愛の喪失が二人を引き付け、依頼人と弁護人という関係を超え、擬似親子的な関係に発展していく。この交流が本作の最大の見所になっている。
監督はJ・シューマカー。割とアッサリとした演出をする監督であるが、今回は場面によってはジックリと見せようと努めている。とはいえ、ほとんどが軽い演出に終始し、肝心の疑似母子関係にも踏み込みが足りない。題材が結構面白かっただけに、やりようによってはもっと見応えのある作品になっていただろう。これはもはや監督の作家性と言うほかなく、そこは甘んじて受けるしかない。
アクの強い原作だが、映画のほうは意外にまともに見れてしまう。
「嗚呼!!花の応援団」(1976日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 大阪・南河内大学の応援団には、喧嘩がめっぽう強い親衛隊隊長、青田赤道がいた。長らく続く浪華大学応援団との抗争にケリをつけるべく全面戦争が始まる。しかし、敵の裏をかこうとした青田の作戦が失敗し完敗。このままでは男が廃ると、弱腰の上級生の尻を引っぱたいて再戦した。結果は、見事にリベンジを果たす。新団員富山はそんな青田を尊敬した。ある日、応援団が野球の試合の応援に借り出されることになる。ところが、喧嘩が原因で団旗持ちをするはずだった青田が停学処分を受けてしまう。富山がその代打を務めることになるのだが‥。
goo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 応援団の名物男、青田花道が大暴れするギャグマンガを実写映像化した作品。尚、本作のヒットを受けて全3作品製作された。
マンガ原作の実写映像化が難しいことは、
「NANA-ナナ-」(2005日)や
「ハチミツとクローバー」(2006日)の所でも書いたとおりである。原作とのイメージにズレが生じてしまうと、どうしても作品との間に距離が出来てしまう。どんなに上手く作られていても、多少なりとも違和感は生まれるものだ。ならば、いっそのこと原作とは切り離して作ってしまえば良いのではないか?その方が観客の期待を変に裏切らない分、逆に親切なのではないか?そういう作り方もある。確かに、これはこれで利口な選択なのかもしれない。
本作は基本的には原作のエピソードを取り入れているものの、実写映像化するにあたっては必要以上にマンガ的なタッチにこだわらず、あくまで実写的演出に拠った作りになっている。したがって、マンガの面白さを期待してしまうと完全に裏切られるだろう。そこは割り切らなければならない。原作と切り離して普通の実写映画を見る感じで鑑賞すれば中々楽しめる。
本作の主人公は無理やり応援団に入団させられた新団員富山である。彼の視点で応援団に起こる様々な事件がスケッチされていく。その中で一際異彩を放つのが青田赤道である。彼の豪快なエピソードを中心にして物語は展開されていく。そして、クライマックスは一転。富山の純愛エピソードが語られる。特に捻った所はないものの、ほろ苦い青春の1ページとして順当に作られておりしみじみとさせられた。
一方で、やはり何と言っても青田の強烈な個性は作品の面白さの最大の売りである。何だかんだ言って、駅伝の応援&初恋の思い出のエピソードを描く中盤は彼が完全に主役である。富山の純愛エピソード同様、青田の初恋の思い出にもしみじみとさせられた。
尚、「クェックェッ」「ちょんわちょんわ」といったナンセンスギャグも登場してくるが、さすがにあの絵を実写で再現するのは不可能であった。この辺りは見ていて苦しいと言わざるを得ない。
しかし、当時のこの手のマンガ原作の実写化作品、例えば「ドカベン」(1977日)や「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(1977日)等に比べたら全然普通に見れる。
原作を意識せず、通常の劇映画的なスタンスで作った所が良かったのだろう。全体的にきちんとまとまっている。
S・ポワチエの人間味溢れるキャラが良い。哀愁漂う結末も◎
「野のユリ」(1963米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 放浪中の黒人青年スミスは、途中で修道院に立ち寄る。そこには、はるばる東ドイツからやって来た尼僧達がいた。院長から屋根の修理を頼まれてスミスは手を貸してやる。ところが、仕事はそれだけで終わらず、教会の建設や運転手までさせられることになる。初めは嫌々やっていたスミスだが、彼女等と交流していくうちにそこが安住の地となっていく。
goo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 流浪の黒人青年と尼僧達の交流をほのぼのとしたタッチで描いた小品。
スミス役を演じるのはS・ポワチエ。彼は本作で黒人初のアカデミー賞主演男優賞を受賞した。尼僧達に英語や歌を教えたり、差し入れをしたり、親切で人の良い青年をコメディライクに演じ、誰が見ても好感の持てる人物像になっている。これならオスカー受賞も納得という感じがした。
ただ、個人的には「夜の大走査線」(1967米)のタフな刑事役も捨て難い。彼のベストの演技は?と聞かれたら、俺は「夜の大走査線」の方に軍配を上げたい。尚、その年は白人警察署長を演じたR・スタイガーの方にオスカーが渡ってしまい、ポワチエにとっては残念な結果となってしまった。保守的なアカデミー協会である。これも仕方がない‥と言えるかもしれない。しかし、そんな保守的なアカデミー協会を唸らせたのが今作である。黒人に初の主演男優賞をもたらした今作はポワチエにとっても、そしてアメリカ映画界にとっても記念碑的作品となった。
本作の見所は何と言っても彼の演技。そして、彼と対立する院長の造形。これに尽きると思う。
人の良いスミスは院長の強引な引止めに教会に居座ってしまうのだが、この関係が面白く見れる。スミスは熱心に働くのだが、院長はその働きに感謝しないどころか逆に厳しい態度を取り続ける。神への奉仕だから当然だと言い放つのだ。これだけ一所懸命尽くしているのに何故こんな仕打ちを受けなければならないのか?と、スミスは当然反抗していく。院長の何者にも屈しないこのストイックな造形は見事で、スミスとの対立ドラマを大いに盛り上げている。
一方、スミスのバックストーリーは具体的に描かれていないが、ある程度想像することが可能である。宿無しの身であること。夢を持てずにいること。黒人であること。これらを併せ考えると、彼の中には“孤児性”が確認できる。彼はさすらいの旅に出て、ようやく安住の地である修道院に辿り着いた。そこで院長=マザー、つまり母親の温もりに初めて巡り合う。つまり、このドラマは孤児が母性を獲得していく‥というドラマになっているのだ。度々衝突を繰り返すことで二人は深い絆で結ばれていく。
そしてもう一つ、当時の世情を考えると、この関係に資本主義と共産主義のイデオロギーの対立を見ることが出来る。
本作が製作された前年には世界を震撼させたキューバ危機が起こっており、俄かに東西の緊張が高まりを見せ始めていた頃である。スミスはメキシコ人と陽気に酒を飲みながら自分はアメリカ人だと豪語する。一方、尼僧達は東ドイツから亡命してきたという過去を背負い、極めて禁欲的な暮らしを送っている。スミス=資本主義と尼僧達=共産主義という対立に、当時の東西冷戦の構造を読み取ることが可能である。
このドラマは、表立ってはスミスと院長の対立→融和に焦点を当てたシンプルなヒューマンドラマだが、深く読み込んでいけば信仰の危うさ、世界情勢を例えた社会的な問題なども読み解ける。非常にストレートで取っ付きやすいストーリーながら、奥深さも併せ持った極めてクオリティのドラマと言っていいだろう。
ただ、シナリオ上、後半の展開にはやや性急さが感じられた。人々の善意が尼僧達の逆境を救うという流れになっていくのだが、この善意には何か特別なきっかけがないと単なるご都合主義に写りかねない。ここは説得力が欠ける感じがした。もう少し練り込んでほしい。
もっとも、その後の哀愁漂う幕引きは良かったが‥。
伏線の利かせ方も抜群に洒落ていてホロリとさせられてしまった。終わり良ければすべて良し‥である。
古典的な怪談。映像が不気味。
「怪異談 生きてゐる小平次」(1982日)
ジャンルホラー
(あらすじ) 売れない役者をしている小平次は、幼馴染で囃子方をしている太九郎と将来の成功を夢見ていた。しかし、その友情の裏で小平次は太九郎の妻おちかに密かな想いを寄せていた。ある日、3人は旅に出る。その道中、太九郎が病に倒れる。その隙に小平次はおちかに迫った。ところが、彼女の口から衝撃的な告白が‥。太九郎の子供を身ごもっており生みたくないと言うのだ。そして、彼女は自ら滝に当たり流産する。何も知らない太九郎は悲しみに暮れる。やがて、小平次と太九郎は旅一座の芝居で巡業することになった。そこで再び事件が起こる。
goo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 愛憎のもつれから殺された小平次の怨念に追い回される夫婦の恐怖を、悪魔的なタッチで描いた物語。
監督は
「東海道四谷怪談」(1959日)や「地獄」(1960日)で知られる鬼才・中川信夫。本作は彼の遺作である。
氏の持ち味である禍々しいトーンは相変わらず健在で、死んだ小平次が何度も蘇って夫婦の前に姿を現す様はかなり不気味である。また、太九郎が見る悪夢シーンのシュールでグロテスクな光景には背筋が凍る思いがした。いかにも日本的な陰湿な恐怖が感じられる。
一方、それとは対照的に自然を捉えた景観は実に美しい。不気味さを漂わせた薄暗い屋内とのコントラストでその美しさはよりいっそう際立たち、映像については全般的に見応えがあった。
ただ、登場人物はたったの3人でドラマも極めて必要最小限にしか展開されず、全体的にボリューム不足な感じは否めない。演出的にももう少し小細工が欲しい。結局、小平次の怨念に追い詰められる夫婦のサスペンスがワンパターンなため、見ていて少々だれてしまう。本作は小話程度に捉えると丁度良いのかもしれない。
芝居がモティーフになっていることから、随所に登場する芝居のシーンは中々面白かった。特に小平次を演じた藤間文彦はあの藤間勘十郎の子息ということで、ある程度芝居に通じているのであろう。声の張りや見えの切り方は慣れた感じである。
一方、彼以外の他の二人の演技は弱い。特に、太九郎を演じた石橋正次のへたれっぷりがいただけなかった。旅に出ては病に倒れ足が痛いとへたれこみ、この虚弱体質はほとんどコメディのように写る。前半こそDV夫の腕力を見せ付けて中々良かったのだが、後半は逆におちかに突き飛ばされる始末である。前半と後半では、とても同一人物には見えず、シリアスに造形にすればするほど逆に滑稽に見えてしまった。
愛憎渦巻く暴力の世界をスピーディーに活写した快作!
「カジノ」(1995米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1970年代、賭博師サムはラスベガスに乗り込んで、カジノ界を牛耳る親分衆に近づいて徐々に実力をつけていった。そして、ついに1軒の店を任されるまでになる。その後、ジンジャーという女詐欺師に出会い彼女との間に一児をもうけ万事順調の生活を送っていく。ところが、そこにかつての相棒ニッキーが訪ねてきた事で彼の人性は狂ってしまう。ニッキーは取立て屋をしながらサムの店に入り浸るようになる。彼の毒づく言動は周囲にトラブルを巻き起こし、サムはそのたびに尻拭いをさせられた。一方、家庭不和からジンジャーは子供を連れて昔の恋人の元へ去って行ってしまう。こうしてサムは徐々に苦境に立たされていく。
楽天レンタルで「カジノ」を借りようgoo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 様々な欲望が渦巻くラスベガスを舞台に、一人の賭博師の盛衰を過激なバイオレンスと流麗な展開で綴った人間ドラマ。
監督・脚本はM・スコセッシ、主演はR・デ・ニーロ。息のあった盟友が繰り出すスピード感溢れるドラマは、同じ監督・出演コンビで作られた「グッドフェローズ」(1990米)に共通するテイストを持っている。アクの強いサブキャスト、ドライヴ感溢れる長回し、モノローグによる場面進行、ほぼ全編に流れる当時のBGM等。スコセッシのあらゆる演出テクニックが詰め込まれたのが「グッドフェローズ」という傑作だったが、本作もそれに負けず劣らずの快作に仕上がっている。
ドラマも、血生臭い暴力の世界に身を落とした人間達の抗争を描く‥というもので、やはり「グッドフェローズ」を想起させる。ただ、単なる焼き直しというわけではなく、こちらの物語の舞台はカジノ街である。暗黒街を舞台にした「グッドフェローズ」とは似て非なるものであり、描く題材が異なるところに新味が感じられた。
映画は序盤から軽快なテンポで進んでいく。冒頭でデ・ニーロ演じるサムの乗った自動車が爆破され、果たして誰の犯行なのか?そのミステリを前提に以後のドラマが展開されていく。中々上手い“引き”だと思った。
その後は、サムとニッキーのナレーションで夫々の波乱に満ちた人生が綴られていく。無駄のない簡潔な語り口が3時間という長さを全く感じさせない。
更に、中盤からサムとジンジャーの夫婦間の愛憎ドラマが加わることで、物語はヒートアップしていく。どちらも金の亡者であり、この醜悪な夫婦喧嘩は見ていて決して気持ちの良い物ではないが、人間のエゴを赤裸々に投射したところに見応えを感じた。特に、ジンジャーを演じたS・ストーンがラリってわめき散らしながらズタボロになっていく姿は筆舌に尽くし難いほど醜く、ここまで汚れ役に徹した彼女の女優魂には素直に拍手を送りたい。
他のキャストでは、ニッキー役を演じたJ・ペシの切れっぷりも印象に残った。やはり、これも「グッドフェローズ」で演じた役と似ていて、現実にいたら決して近づきたくないタイプの男である。ペシはこれを実に憎々しく好演している。ただし、「グッドフェローズ」で見せた“静”と“動”の演技のギャップが醸すピリピリとした緊張感は皆無で、見ていて心臓に悪いというほどの恐怖は感じられなかった。切れるペシの怖さは、やはり「グッドフェローズ」のトミーに叶わない。
尚、スコセッシとデ・ニーロのタッグは本作を最後に解消された感がある。以後二人の競作は無い。ご存知のように、今やスコセッシはL・ディカプリオという新たなパートナーを得て新作を作っている。方や、デ・ニーロもわが道を行きながら活動の場を広げている。特に、90年代末からコメディ作品へ意欲的に出演しており、この傾向はスコセッシの呪縛から解かれた彼のキャリアの中では最大の特徴と言えよう。昔では考えられなかったことだが、今ではごく自然に彼のコメディ演技が見れるようになった。
アングラ・テイスト漂うカルト映画。
「薔薇の葬列」(1969日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ゲイ・バーで働くエディは、ママの愛人で店のオーナー権田と肉体関係を持った。実は、権田は店の裏で麻薬密売をしている。エディはそれを知っていて、麻薬をくすねてもう一人の恋人である自主映画を撮っている青年に横流ししていたのである。ある日、帰宅途中でエディは不気味な白昼夢を見る。それは奇妙な葬列が街頭を練り歩く光景だった。エディはそれを見て気絶した‥‥目を覚ますと彼は薄暗い画廊にいた。
goo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) アヴァンギャルドな作風で知られる松本俊夫監督の怪作。エディを演じたピーターの小悪魔性が印象に残る作品で、本作が彼の映画初主演作となる。
物語はかなり無軌道に展開される。ストレートにドラマを語ることを極力否定しており、監督の感性に即した実験的且つ時間軸を無視した脈絡の無い映像のパッチワークで構成されている。いわゆる商業映画とは一線を画す難物で、こういのは客観的な評価をしづらい所がある。例えるなら、先頃見たG・ノエ監督の
「エンター・ザ・ボイド」(2009仏)のようなトリップ・ムービーのごとき作品で、ビジュアルがその人の感性に合うかどうかで評価が分かれてきそうである。
実験的と言えば、画面を占有するタイポグラフィーの挿入やBGMをぶつ切りにした演出は、明らかにJ・L・ゴダールの作品からのアイディア流用に感じられた。ゴダール作品を見ていれば、この辺りは画期的・先鋭的とまでは言えない。ただ、確かにセンスの良さは随所に伺え、今見てもかなり刺激的で面白い。
また、映画が始まって30分くらい経ってだろうか、突然今までの物語が劇中劇だったという事が判明して驚かされる。今までの物語は<映画の中の映画>だったとする事で、映画の中の<現実>は一気に<虚構>に転じる。この意表を突いた展開に、創作者としてのエゴイステイックなユーモアが感じられるが、同時に真面目にドラマを追いかけてきた者に対する大胆な挑発行為にも取れる。常に表現者たらんとする上で、何か刺激的なものを‥という心意気は作家にとっては大切なことだと思う。そういう意味では、松本俊夫がいかに過激な作家性を持っていたか、それがこの劇中劇という構成から確認できる。その後も撮影風景を捉えた<現実>と、物語の中の<虚構>を交錯させながら映画は展開されていく。
ただし、忘れてならないのは、この2年前に今村昌平が「人間蒸発」(1967日)という作品を撮っていることだ。「人間蒸発」は失踪した男を探すドキュメンタリー撮影隊を追った物語だが、ラストは衝撃的なオチが待ち受けている。これこそ<現実>が突然<虚構>に摩り替わる意外などんでん返しであり、本作で見られるトリッキーな構成はすでに「人間蒸発」で披露されているのだ。
他にも、現実と虚構の曖昧さ、その狭間を行き来することのエクスタシー、さらに言えば映し出された瞬間から対象物は「死」に至るという、映画における「生」と「死」の関係性といったものは、度々見られるものである。例えば、寺山修二の監督デビュー作
「書を捨てよ町へ出よう」(1971日)でも、映画の中のドラマの“虚構性”が訴えかけられていた。そもそも作家という職業は、現実と虚構の狭間で揺れ続けながら常に作品を創作し続けていかなければならない運命にある。ゆえに、現実の虚構性、あるいは虚構の現実性というテーマは何か琴線に触れるものがあるのだろう。
尚、本作のラストは中々インパクトがあった。人間の弱さ、愚かさをグロテクスにビジュアル上に焼き付けたところに衝撃が走る。
また、淀川長治や篠田正浩、蜷川幸雄等といった業界人が多数特別出演しているのも面白い。と言っても、画面を見て分かったのは淀川長治だけだったが‥。
ビデオスルーのアクション・ホラー作品。設定に頼りっきりで、面白くしようとする気が全く感じられないのが残念。
「ゾンビ・ソルジャー」(2007米)
ジャンルアクション・ジャンルホラー
(あらすじ) 東欧某国の森深く、7人の傭兵達がある男の依頼で紛争跡地を調査することになる。そこで彼らは第2次世界大戦時にナチスが行っていた秘密実験の存在を知る。やがて正体不明の敵から攻撃を受けるようになり‥。
映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 傭兵達とゾンビの戦いを描いたアクション映画。
ゾンビ‥と書いたが、厳密に言うとこれはゾンビとは言い難い。ナチスの秘密実験によって不死身の体になった“死兵”といった方が正しい。
この死兵、余りにも強過ぎるので‥というか、そもそも弱点がないので、全くもってサスペンスとして盛り上がらないのが難点だ。一応クライマックスには派手な銃撃シーンがあるのだが、傭兵部隊は成すすべなく後退するばかり。ヒロイックな映画でないことだけは確かである。
ドラマ的にも大して動きがないので退屈してしまう。前半は傭兵達が森の中に入っていく理由が明らかにされず、観客も一体これから何が起こるのか?という期待を持って見ることが出来る。問題は目的が明かされて以降だ。終始、死兵の謎を究明するドラマになっていくのだが、いかんせんドラマが停滞気味でいただけない。低予算の映画なので、派手にアクションシーンを盛り込めないのは分かるが、志村後ろー!的に死兵を小出しにする“肩透かし”演出を続けられると、さすがに見るほうの集中力も途切れてしまう。登場人物像に厚みを加えるなり、ナチスの計画にマッガフィンとしての魅力を付加するなり、シナリオの練り込みが欲しい。
例えば、傭兵達はアクの強そうな連中が揃っているのだから、個々の激しい衝突を描くのも一つの手だろう。主役である隊長のバックストーリーを膨らますのもドラマを面白くするための有効な手段だ。この映画はそういったところを御座なりにし、ただ単に死兵に怯える姿だけを描いているので、ホラー映画の肝である怖さや痛さといった感情への擦り寄りがどうしても甘くなってしまう。
「ハムレット」を大阪下町人情劇風にしたらこうなりました‥といった感じの作品。カラッとしている所が◎
「大阪ハムレット」(2008日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 大阪下町に住む久保家。父が急死したことで家族は母と息子3人だけになる。そこに突然、父の弟が転がり込んできた。彼は仕事で忙しい母の変わりに、家事をしながら子供達の面倒を見るようになる。そんな叔父に初めこそ戸惑いを見せる子供たちだったが、温かな人柄に触れていくうちに次第に父の死を忘れていく。一方で、思春期である息子達には夫々に悩みがあった。中学3年の長男政司は初恋に苦しむ。中2の次男行雄は、ひょんなことから「ハムレット」を読み自分の存在に違和感を抱き始める。小学生の三男宏基は病床の叔母の影響で、女の子になりたいと思うようになる。
楽天レンタルで「大阪ハムレット」を借りようgoo映画映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 大阪に住む家族の悲喜こもごもを笑いと涙で綴った人情ドラマ。森下裕美の同名コミックを実写映画した作品である。コミックという事で多少のディフォルメ感が残るものの、日常に根ざした描写に一定のリアリズムも感じる。微笑ましいエピソードやビターなエピソード、色々と出てくるがどれも市井のものとして身近に受け止める事が出来た。
タイトルからも分かるとおり、本作はシェイクスピアの「ハムレット」をモチーフにしている。さぞ悲劇色が濃くなるかと思いきや、その予想に反して鑑賞感は爽やかである。そもそも悲劇と喜劇は表裏一体である。見方を変えることでどちらにも転ぶものであり、正に本作はそのような目線で見れてしまう。
例えば、長男政司と女子大生の初恋は、当の本人からしてみれば実に悲劇的なものである。しかし、女子大生が極度のファザコンであることを鑑みれば、一歩引いた目線で捉えることで政司の性の衝動は喜劇的な物にも見えてくる。
次男行雄と叔父の関係は「ハムレット」になぞらえれば、かなり悲劇的なものが予想できる。叔父は父を殺害し母を我が物にした憎き敵、クローディアスと重なるキャラクターである。しかし、叔父のキャラが余りにも朴訥且つマイペースなので、本家「ハムレット」のような陰惨な結末にはならない。叔父のとぼけた人柄に引きずられて、行雄の根っからの素行不良が完全に封じ込められてしまうからだ。そこに何とも言えぬオフビートなユーモアが派生する。
三男宏基の性同一性障害は本作で最も深刻な問題だろう。これに関してはクライマックスで一定の解決を見るのだが、彼の勇気と彼を受け入れる周囲の愛情によって見事に解決される。正に悲劇から喜劇への一発逆転劇といった感じである。
ただし、このクライマックスは描き方が余りにもベタ過ぎて、残念ながら今ひとつ入り込めなかった。個人的にはもう少しさりげなく描いてくれた方が感動できたような気がする。
むしろ、感動的という意味では、その直前の政司と行雄のやり取りの方がボルテージが上がった。行雄を捉えた移動ショッも高揚感と躍動感に満ちていて印象に残る。暗いトンネルに一筋の光を見つけたような開放感に青春映画然とした爽快さも味わえた。
物語は基本的に3人の息子達の日常描写を交錯させながら展開されていくが、一方でサブプロットとして母と叔父のドラマが時折混入されている。子供目線で描かれるドラマのため二人の関係がどこまで緊密なのか明確にされていないが、ラストを見るとその回答が何となく想像できる。この母親、女性としては実に逞しいのだが、子供たちのことを思うとどうだろうか?母親としての責任というか、自覚が余り感じられない。
明示はされていないが、もしかしたら3人とも父親が違う可能性だって考えられる。そうなるとこの家族の繋がりは益々薄いものとなり、仮にそうでなかったとしても母のこの放任主義は、悪く言えば母性の怠慢と言える。決して子供たちを嫌っているわけではないのだが、彼女の愛情の優先順位は子供よりも夫、あるいは夫になる別の男の方が高いと言えるかもしれない。これでは良い母親とは決して言えない。
何だかんだと言って、こんな母親を中心にしてこの家族は一つにまとまっている。しかし、ドラマだから上手くいっているが、現実にはこう上手くいかないだろう。個々に勝手な事をしながらいざと言うときだけ家族の輪で団結する‥。これはつまり〝家族”というものに対する幻想のドラマなのだと思う。
成瀬巳喜男監督の
「稲妻」(1952日)は異父兄妹のドラマだったが、本質的にこれも本作と似た設定である。家族のあり方が成瀬監督らしい神妙なタッチで綴られている佳作だった。「稲妻」と比べると、こちらは随分と大らかに家族のあり方という物が捉えられている。両作を並べてみるとテイストの違いが見られて面白いかもしれない。それこそ正に悲劇と喜劇‥という風に見れるだろう。