14歳の少女マティのお尻ペンペンがドラマの転換点!
「トゥルー・グリット」(2010米)
ジャンルアクション
(あらすじ) 父親を殺された14歳の少女マティは、飲んだくれの粗野な保安官コグバーンに犯人チェイニーの捜索を依頼する。翌朝、二人は追跡の旅に出ることになった。しかし、コグバーンは同じくチェイニーを追跡中だったテキサス・レンジャー、ラビーフを相棒にして一足先に出発してしまう。この目で確かめるまでは故郷に帰れないと、マティは彼らの後を追いかける。こうして3人の追跡劇が始まった。その旅は想像を絶するほど過酷なものとなっていく。
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(レビュー) 1969年にJ・ウェイン主演で製作された西部劇「勇気ある追跡」(1969米)を、異才コーエン兄弟がリメイクした作品。
オリジナル版はコグバーンを演じたJ・ウェインがアカデミー賞主演男優賞を取ったことで有名な作品だが、正直なところそれほど凄いという作品でもなかったような気がする。確かにコグバーンとマティのユーモラスなやり取りは魅力だったが、西部劇として見た場合、決して派手な銃撃戦があるというわけでもなく、どちらかと言うとロードムービの面白さを狙ったような作品だった。復讐劇というハードなテーマを持ちながら、朴訥とした作風に終始するのも余り好みではなかった。ただ、忘れられなかったのは、コグバーンの宿敵ネッドを待ち伏せする作戦でチョイ役で登場するD・ホッパーだった。リメイク作にも登場する、ひょろっとした白人青年ムーンを演じていたのだが、これが気弱な舎弟といった頼りなさで、後年のラジカルなイメージとは余りにもかけ離れていて印象に残った。
物語は基本的に前作の流れを踏襲した作りになっている。ただ、所々にきめ細やかな演出が挿入され、またコーエン兄弟らしいブラックな感性が添えられている。
例えば、死体を巡る一件などは、多分オリジナル版にはなかったエピソードだったように思う。彼らの代表作「ファーゴ」(1996米)を想起させるような猟奇的悪趣味さはかなり棘があるが、人間の欲心を嘲笑するかのようなアイロニーに満ちた人間観は、いかにもコーエン兄弟らしいブラック・ユーモアである。尚、本作には同名小説の原作があるが、今回の映画化にあたってはコーエン兄弟自身が脚本を書いている。
また、オリジナル版には無かった裏テーマのような物も感じ取れた。表のテーマは無論、表題作の訳である“勇気ある追跡”なのだが、その裏側には聖書によって裏付けされた宗教的なテーマを見る事が出来る。
オープニングで箴言28章1節の言葉が登場してくる。「悪しきものは、追うものもないのに逃げる」これは旧約聖書の一節で、これから始まる追跡劇を端的に表した言葉である。
その後、マティが馬に食べさせるために携帯するリンゴ、野宿には危険は付き物とコグバーンが警戒する蛇。こうした<アイテム>が、物語上欠かせぬものとして登場してくる。また、クライマックスの洞窟シーンでは、これらの<アイテム>の意味するところが強烈に印象付けられている。
リンゴと蛇は、もちろん旧約聖書のアダムとイブの失楽園の物語に出てくるキー・アイテムである。神の国から追放された人間は争いの歴史を始めていく。これが旧約聖書の物語だ。こうした聖書的な意味を含むアイコンを鑑みると、実はこの物語も血で血を洗う「旧約聖書」のドラマと全く同じではないか‥ということに気付かされる。
尚、「復讐するは我にあり」という言葉は新約聖書に登場してくる一節だが、これは悪しき者に対する復讐はキリスト教では禁じられた行為であるということを意味している。悪しきものを追いかけて復讐を果たそうとしたマティの顛末はどうだったろうか?決してハッピーエンドとは言い難いものである。このラストからも分かるとおり、本作は聖書に則った神話的な解釈の元で発せられた訓話‥そんな風に受け止めることも可能なのである。
少し妄想の羽根を羽ばたかせてしまったが、こういう解釈もできるという所にこの映画の奥深さがあるように思う。
キャストでは、マティを演じた映画初出演のヘンリー・スタインフェルドの新鮮さが魅力的だった。ベテラン俳優陣が揃う中、物語序盤はほぼ彼女が独壇場の活躍を見せいている。勝気な性格と“したたかさ”を併せ持ったスーパー少女で、例えば質屋の主人から金を引き出そうと駆け引きに転じる所などは大人顔負けである。何事にも物怖じしない姿が凛としていて実に良かった。
しかし、そんな彼女もひとたび厳しい大自然の中に放り出されれば年相応の子供に戻っていく。旅を描く中盤以降は、コグバーン達の後方に隠れながら過酷な現実を目の当たりにして恐々とし、その姿も愛らしくて良かった。
この強盗計画は斬新!
「シシリアン」(1969仏)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 警官殺しで逮捕された殺し屋サルテは、イタリアンマフィアの首領ヴィットリオの手引きで脱走に成功した。ヴィットリオは故郷シチリア島全土を掌握しようと執念を燃やしており、そのためにはどんな汚い仕事もする男だった。それを見込んでサルテはヴィットリオに宝石強奪計画を持ちかける。早速、宝石が展示される博物館に下見に行った。ところが、警備が厳重でとても強奪する事は不可能だった。そこでヴィットリオはアメリカンマフィア、トニーの助力を得て大胆な計画を打ち立てる。一方、パリ市警のル・ゴフ警部は、サルテの動向を伝ってこの計画を察知する。
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(レビュー) 宝石強奪計画を描いたギャング映画。
ヴィットリオをJ・ギャバン、サルテをA・ドロン、彼らを追うル・ゴフ警部をL・ヴァンチェラが演じている。これだけのスターが揃い踏みしたという意味では、大変豪華な作品と言える。
基本的には正調な作りのサスペンス映画だが、所々にユーモアが入っていて面白い。例えば、友情の証しとして用いられる紙幣などは、いかにもフランス映画らしい洒脱を効かせたユーモアである。また、写真家のアトリエの一件、ル・ゴフの禁煙等、殺伐としがちな中に上手いタイミングで息抜きする場面を持ってきている。こうした気配りはサービスに徹した作りとして、中々巧みだと思った。
一方で、クライマックスの大胆さには痺れさせられた。タイムリミット演出で切迫感を煽ったところも良いし、何よりこの宝石強奪計画自体が斬新で面白い。冷静に見れば到る所で無理が出てきてしまうのだが、そこはご愛嬌。全てはカタルシスを生むための荒唐無稽さ‥ということでなんだか許せてしまう。それくらい痛快だった。
ラストも冷酷非常なギャングの世界を実直に再現したという意味で、実に好感が持てる顛末だった。
一方、残念に思う箇所も幾つかある。
序盤のサルテ脱走計画はかなり強引なものに思えた。このシーンは撮り方を考えれば自然なものとして見せれる部分である。演出の手抜きでにしか見えず、作り方の甘さを露呈している。また、ラストの伏線の張り方も、もう少し周到にいかなかったか‥と残念に思う。せっかくの豪華共演&娯楽大作なわけだが、こうした作りの甘さが作品の質を落としてしまっている。
また、これはシナリオ上の不満になるが、ヴィットリオのバックボーンに深く言及できなかったのも手落ちという気がした。この計画は、そもそも彼が故郷を取り戻すという目的から始まったものである。そこにはファミリーという何物にも変え難い血縁に対するヴィットリオの深愛があったはずである。しかし、本作を見る限りそれが余り見えてこなかった。もっとそれを印象付ける工夫が必要である。
音楽はE・モリコーネ。マカロニ調なのは敢えて狙ったものなのか?多少の違和感はあるが、それゆえこのテーマソングは耳に残る。何度もリフレインされるので覚えてしまうくらいだった。
前科者の運命を非情なタッチで描いた作品。
「暗黒街のふたり」(1973仏)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 銀行強盗で服役中のジノが、10年の刑期を終えて仮出所した。保護司ジェルマンの監察の元、ジノは仕事に就き妻とやり直しをはかる。ジノはジェルマンと家族ぐるみで交友し、次第に彼のことを第二の父親のように慕っていった。そんなある日、ジノに不幸が襲いかかる。ジェルマン家とバカンスに出かけた時に、自動車事故で妻を亡くしてしまったのだ。落ち込むジノをジェルマンは慰めた。やがて、ジノの前にルジーという魅力的な女性が現れる。彼女のためにジノは再び更生の道を歩み始める。ところが、そこにかつて彼を逮捕したゴワトロー警部が現れ‥。
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(レビュー) 前科者が辿る悲劇的な運命をシリアスに綴った作品。
冒頭のジェルマンのナレーションにあるとおり、この当時まだフランスではギロチンによる死刑があった。フランスで死刑は1981年に廃止されているが、それまではギロチンは制度として厳然としてあったというから驚かされる。
本作は、犯罪者が立ち直ることの難しさを描いた人間ドラマだが、その一方で彼らの更生を阻む社会、あるいはそれを十分にサポートできないどころか、むしろ再び犯罪へ追い詰めてしまう公権力の愚かさ、怖さを告発した社会派的な作品でもある。ギロチンという制度は、正に権力の怖さを象徴するものとして捉えられる。
それにしても、ジノはつくづく運の悪い男だ。過去の罪は罪としても、刑期を終えた彼は一応の清算を果たして真面目に職に就き妻と再生の道を歩もうとした。それなのに昔の悪友に付きまとわれたり、事故で妻を亡くしたり、様々な障害が更生の道を閉ざしていく。保護司ジェルマンはそんな彼をまるで本当の息子のように温かく見守るのだが、彼一人に付きっ切りというわけにはいかない。ジノと同じように救いを求める前科者は他にもたくさんいるからだ。結局、ジノは再び暗黒街に戻っていく。
この映画を見た中には、ジノは人間的に弱い男だ‥と言う人もいるかもしれない。確かに社会復帰とは、本人の強い意志と努力が無ければ成し遂げられないものである。彼は自分の力でこれらの障害を乗り越えていかなければならなかったのだと思う。しかし、一度悪に手を染めた人間が、その手を洗い流せるのはそう容易いことではない。本当に本人の弱さだけに責任を負わせていいものだろうか?
中盤から、かつてジノを刑務所に入れたゴワトロー警部が登場する。何かまたボロを出さないかと執拗にジノの後を追い回すのだが、これが実に嫌らしい男として描かれている。ギロチンが公権力の怖さを象徴するものだとすれば、彼はその刃を下ろす死刑執行官と言っていいだろう。彼の捜査方法は明らかに行き過ぎたものであり、何か私怨でも絡んでいるのではないかと勘ぐってしまうくらいだった。おそらく彼がいなければ事態はもう少し違ってきていたと思う。ゴワトロー警部はこの物語の中では完全に悪役として存在している。
警察権力に対する告発以外に、本作は政治と司法の誤ったシステムについても告発している。例えば、刑務所内での腐敗、形ばかりの裁判。こうしたシステム上の瑕疵を赤裸々に描写する事で、犯罪に走る原因は本人にあるが、一方で彼らを取り巻く環境にも非があるのではないか?罪人というレッテルを貼る事で社会が彼らを見捨てているのではないか?そういうい疑問を投げかけている。
ジノ役はA・ドロン。ジェルマン役はJ・ギャバン。フランスを代表するスターの豪華競演作である。
悲劇の汚れ役に徹したドロンは新鮮であったが、後半はひたすら悲壮感が貫かれるのでやや一本調子な演技になってしまった。一方のJ・ギャバンは淡々とした中に、年の功というべきか、懐の深さを感じさせ素晴らしい演技を見せている。また、ゴワトロー警部を憎々しく演じたM・ブーケの演技も忘れられない。好演と言っていい。
山崎豊子&山本薩夫コンビが放つ社会派人間ドラマの大作。
「華麗なる一族」(日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 阪神銀行の頭取万俵大作は、関西財閥のトップを牛耳っている。長男鉄平は万俵グループの一翼をになう阪神特殊鋼の専務取締役、次男銀平は阪神銀行の貸付課課長を務めている。大作には妻寧子の他に、相子という家庭教師兼執事を務める愛人がいた。実は、これまで万俵家は政財界とコネを作るために、政略結婚を繰り返してきたのだが、その全てを相子が裏で仕切っていたのである。このたび銀平を大阪重工社長の娘と結婚させる運びとなった。そして、次女ニ子も総理大臣の甥と結婚させようとしていた。一方、鉄平は会社を大きく発展させるために高炉建設の計画を立ち上げる。その資金集めに奔走するが、大作が経営する阪神銀行から融資をカットされてしまう。金融再編成の折、大作は阪神銀行の預金高を全国トップテンにし、生き残りをかけてゆくゆくは他行との合併をも睨んでいたのである。鉄平は自分に対する大作の冷淡な態度に前々から不信感を持っており、この融資減額をきっかけに父子の縁を切る。
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(レビュー) 「華麗なる」とは何とも皮肉的なタイトルである。急成長を遂げる関西財閥、万俵家は表向きは華麗に見えるが、中味は愛憎渦巻く魔窟のごとき名ばかりの華族である。我々一般人からすれば彼らのいざこざなど、まるで別世界の出来事のように見えてしまう。だからこそんなのだが、このドラマをどこか他人事のように、ほくそ笑みながら見ることが出来る。この手の貴族や華族のドラマが何故人を惹きつけるのかというと、有名人のゴシップネタを興味本位で読むような感覚で見れるからだろう。本作はそんな人間の助平心をくすぐるように、華族の強欲さ、醜悪さを赤裸々に描いている。
原作は山崎豊子、監督は山本薩夫、脚本は山田信夫。以前紹介した
「不毛地帯」(1976日)と同じ布陣である。原作は未読であるが、社会と個人の関係に深く切り込んだドラマチックな話運びに「不毛地帯」と同様の鑑賞感が感じられた。山本監督らしいエンタメに特化した演出も豪快に炸裂しており、山田信夫の流麗なシナリオも実に無駄が無く上滑りすることもない。3時間半を超える時間も一気に見れてしまった。
尚、自分は2007年にテレビシリーズとして製作されたものは見ていたのでストーリーは概ね知った上での鑑賞である。本来ならテレビシリーズで丁度良いくらいのボリュームの話であるが、それをよくぞここまで削ぎ落とすことに成功したと感心させられた。その最たる貢献はナレーションによる説明が上手く機能していることにある。本来、ナレーションで全てを片付けてしまうのはストーリーを省略する上で反則技なのだが、何せ複雑な設定なのでこれが無いと長尺になってしまう。見る側に明快に解説してくれるという意味でも、このナレーションの挿入は効果的だった。
さて、本作の面白さは、何と言っても政財界を巻き込んだ紛争劇にあろう。万俵大作はあらゆる手段を使って阪神銀行の拡大化を図ろうと豪腕を振るう。政財界との政略結婚を繰り返し、時には法律で違反されている偽装出資までしながら自社を大きくしていく。良し悪しという問題はあるにせよ、この徹底したビジネスライクな思考には究極の企業家精神が感じられた。特に、大蔵大臣に合併話を相談しに行くシーンなど、表向きは静かな会合であるが、まるで食うか食われるかの死闘でゾクゾクするような興奮が感じられた。庭園に置かれた立派な景石を例えて政治献金の話とは‥。実に老獪なかけひきである。遠まわしに言う辺りがリアルだ。
そして、この大作と真っ向から対立するのが長男鉄平である。彼は純情で人情に厚い好青年である。高炉建設という夢を掲げ、自分なりの企業家精神を追い求めていくのだが、大作ほどシビアになれず詰めの甘さを露呈してしまう。彼は大作に比べたらロマンチストすぎるのだ。
本作はこの父子の戦いを軸にしながら政財界を巻き込んだドラマチックな紛争劇が繰り広げられていく。そして、その一方で彼らには因縁の過去があり、そこには人間ドラマとして面白みも感じられた。父子の葛藤自体、特段目新しさは無いものの、突き詰め方に妥協がない。その顛末には実にやりきれない思いにさせられた。
更に、メインである父子の戦いが繰り広げられる一方で、今作は大作を巡って対立する二人の女の戦いも描かれている。正妻・寧子と愛人・相子は、交代で大作の夜の相手を務める双璧関係にあり、彼女たちの静かな軋轢も見逃せない。本来なら寧子が立場的には上位なのだが、それは形だけのものである。実際には愛人である相子の方が家庭内での地位は上で、大作の秘書として常に傍に寄り添っているのだ。これを京マチ子が実にしたたかに好演している。この好対照な二人の女の戦いは、父子の戦いの傍らで大いにドラマを盛り上げている。
キャスト陣も豪華である。全体的に皆、演技が大仰であるが、この手のジェットコースター・ドラマにはむしろその方が合っているような気がした。特に、大作を演じた佐分利信の尊大さが良い。観客は当然鉄平の正義感に惹かれ彼に感情移入するわけで、大作は敵役として憎々しくあればあるほどドラマも盛り上がる。今となっては中々見られなくなった独善的な父親像は、いかにもこの時代の父権を体現していると思った。
尚、官僚役人、美馬を演じた田宮二郎は「白い巨塔」の撮影後に猟銃自殺をしている。当時は、その自殺の方法が本作の鉄平の自殺を真似たとも言われた。
汚物と臭い飯にまみれた軍隊物の傑作!
「真空地帯」(1952日)
ジャンル戦争
(あらすじ) 昭和19年、大阪の内務班に、出所したばかりの木谷一等兵が配属される。彼はある事件によって服役していたのだが、このたび初年兵に降格されて軍に復帰したのだ。木谷は元々は四年兵であることから初年兵に交じっても周囲から浮き、上官もどこかよそよそしく彼に接した。そんな中、三年兵の曽田だけは木谷を理解し親交を深めた。ある日、木谷は恋人花枝といつか暮らしたいと曽田に告白する。曽田はどうにかして力になりたいと思うのだが‥。
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(レビュー) 軍の理不尽な実態を告発した社会派作品。
軍隊における暴行を描いた作品は、これまでにも何度か見てきたが、改めてこの前時代的で非論理的な不文律には憤りを覚えた。
内務班に配属された木谷は、初年兵に対する教育という名の数々の暴行を目撃していく。とりわけ曽田のような大学出の初年兵に対しては、インテリ層に対するコンプレックスなのか、古参兵たちの風当たりは強い。それは、刑務所に服役していた木谷をして、刑務所よりもたちが悪いと言わせしめるほどである。また、こういう場所には必ずグズな落ちこぼれという者がいるもので、安斎に対する虐めは酷かった‥。
後半、ついに見るに見かねた木谷が意見する。これは実に痛快だった。それまで溜まっていた鬱積を一気に爆発させたところにカタルシスが感じられた。本作のテーマはこのシーンに集約されていると言っていいだろう。
一方で、本作は軍上層部に対する痛烈な批判も呈している。
木谷はある容疑で懲罰を受けたのだが、それが彼の回想で振り返られていく。実は、この事件には、あるからくりがあった。これは軍特有の悲劇ではないと思う。会社で言えば派閥争いに巻き込まれたようなものであり、組織の歯車として働く個人の無力さを改めて思い知らされるエピソードだった。社会に蔓延する絶えることのない悪癖と言えよう。あらためて〝個”を殺してしまう組織の恐怖に戦慄と憤りを覚えてしまう。
本作は徹頭徹尾、体勢に抗うアウトロー木谷のドラマであるが、その料理の仕方についても上手さを感じた。
木谷の反動エネルギーはゆっくりと静かにスパイラルアップしていくが、その意に説得性をもたらすべく曽田という男を登場させたところが上手い。ややもすれば、一方的に軍の批判をして終わり‥となるところを、曽田という冷静沈着な相棒をドラマの視座として介在させたことで、木谷の反動に一定の“理”を持たせている。この構成の巧みさには唸らされる。
監督は山本薩夫。まだ“赤いセシル・B・デミル”と称される以前の作品であるが、彼らしい反骨思想はすでに本作からも伺える。後年の大作趣向な絢爛さと比較すれば地味な印象は否めないが、演出は豪快で画面にグイグイと引き込まれた。
しかし、反面繊細さに欠く部分もあって、エネルギーが先走りし過ぎた感がしなくもない。例えば、内務班には多様な面々がいるが、前半はその整理にもたつく印象を受けた。もう少し整然とした語り口が必要だったかもしれない。また、これは原版が古いせいもあるが、編集が雑然としていたり、音声が聞き取りにくい箇所が幾つかあった。
山本薩夫監督、渾身の農村ドラマ!
「荷車の歌」(1959日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 明治27年、農家の娘セキは郵便配達員をしている茂市と駆け落ちする。二人は茂市の実家で荷車引きとして働くようになる。しかし、想像を絶する酷使な仕事に加え、姑の虐め、生まれたばかりの赤ん坊オト代の病気で、セキの心は折れそうになった。ある日、意を決したセキは茂市の許しを得て、オト代を背負って巡礼の旅に出た。そのかいあって、オト代は元気な娘に成長する。やがて、第二子が生まれる。ところが、またしても女の子だったために、姑の嫌がらせは益々エスカレートしていった。その矛先は幼いオト代にまで向けられる。泣く泣くセキはオト代を近所の親切な夫婦に預けた。こうして母子は離れ離れになってしまう。
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(レビュー) 明治、昭和を生きた女の半生を豪快な筆致で綴った大作。
荷車引きの夫の家に嫁いだセキの身に降りかかる不幸は、見ていて本当に気の毒になる。米俵を乗せた荷車を、ほぼ休みなく往復10里も引いて歩くのだ。男でさえキツいこの仕事を彼女は黙々と行う。そして、家に帰れば姑の虐めにあい、飯もろくに食わせてもらえない。肝心の茂市は母に頭が上がらず、ただ黙って見ているだけである。しかも、跡継ぎができないという理由から、姑の虐めは幼いオト代にまで及んでいく。正に地獄のような生活である。
ここまで虐めが続くとさすがに姑に対する怒りも爆発する。セキはたびたび反発してみせるのだが、皮肉にもこれが彼女を強い嫁に変えていく。この対立は後半、意外な形で解消されるのだが、これは明らかにセキが人間的に一回りも二回りも大きく成長した証しであろう。あの時の虐めや苦労が彼女をここまで強くさせた‥そんな風に思えて感動的だった。
物語が昭和パートに入ってくると、今度はセキと茂市の夫婦のドラマに焦点を当てて展開されていく。茂市の周囲にトラブル生じ、これがセキを更なる不幸に陥れる。彼女はこの時すでに5人の母親となっており、妻というよりも母親としての強さを身につけている。彼女の生きがいである子供達に迷惑がかからないように、セキは茂市のトラブルに“したたか”に対処していくのだが、これには感服してしまった。特に、三郎のエピソードにおける彼女の選択には、子を思う母の愛の無限性が感じられて感動させられる。正に母性の極みであろう。
こんな風に映画は全編、ひたすらセキにとっての不幸の連続が描かれていく。それは時代という特殊な環境がもたらした不幸であり、今見ると古臭い、陰気臭い‥となるかもしれない。ただ、ドラマの根底には母親の愛、女の幸せという普遍的なテーマが低通しており、そこは現代に生きる我々が見ても共感できるのではないだろうか。また、嫁姑の軋轢などは、程度の差こそあれどこの家庭にも起こりうる問題であり、そこに目を向けてみるのもいいだろう。いずれにせよ、これほどまでに逞しく生きた女性の半生を見せられると人間讃歌的な感動すらおぼえてしまう。
また、隠滅とした中で唯一光り輝くシーンもあって、そこにはホッと安堵させられた。それは家族が一堂に集う祭りのシーンである。苦労を耐え忍んでようやく手に入れた家族の団欒にセキの表情が自然とほころび、見ているこちらも何だか幸せな気分にさせられる。もしかしたらこれまでの苦労は、全てこの瞬間のためにあったのかもしれない‥。そんな風に思えた。
キャストでは、何と言ってもセキを演じた望月優子の熱演が素晴らしかった。また、鬼姑を憎々しく演じた岸輝子の存在も忘れがたい。二人の対立が夫々のキャラを引き立たせ、母性という象徴に止揚されていくところに、このドラマの本質があるように思う。ゆえに、本作はどちらが欠けても成り立たない映画であろう。
尚、当時は大手五社協定という絶対的な支配があったが、本作を含め独立系の作品が徐々に頭角を現し始めていた頃だった。テレビの台頭で映画産業が斜陽化していく中、こうした独立系の躍進があったことは興味深い潮流だ。
本作の製作資金は、全国の農村婦人のカンパによってまかなわれたそうである。かなり苦しい製作体制にあったと思うが、それを支えたのが農村婦人というあたりが面白い。セキの苦労のドラマに少なからずシンパシーを覚える女性達が結構いたということだろう。
また、茂市を演じた三国連太郎も大手から独立したばかりだった。本作にかける熱意は、その演技から十二分に感じられる。撮影当時、すでに歯を10本抜いていたそうだが、それが終盤の老け役の演技に説得力をもたらしている。当時36歳で老人の顔をリアルに作れるとは‥正に名優の仕事である。
腹黒い連中が揃っていて文句なしの娯楽作。
「金環蝕」(1975日)
ジャンル社会派・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 昭和39年、民政党大会総裁選で寺田が新総裁に選ばれる。星野官房長官は秘書を通じて、金融界の実力者と言われている石原に2億の融資を申し入れた。しかし、石原は星野の影にきな臭いものを感じ取り断った。その頃、電力開発株式会社の財部総裁は九州の福竜川ダム建設に躍起になっていた。自分の任期中にぜがひでも着工するつもりだったが、入札の段階で障害が生じる。財部は青山組にやらせたいと考えていたが、寺田内閣は竹田建設にと考えていたのだ。やがて、財部は任期途中でクビになり、入札は竹田建設に持っていかれた。財部は子飼いの新聞記者古垣に、ことの全てを暴露する。一方、石原は一連の入札工作に星野が深く関与していることを突き止める。
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(レビュー) 政財界の腐敗を赤裸々に描いた社会派作品。尚、本作は福井県の九頭竜ダム入札事件を元にしている。現実にこうした便宜をはかる輩はどこにでもいるものである。確かに事実を元にしているだけあってリアリティが感じられた。ただ、よくある話と言ってしまえばその通りで、映画の題材としての新味はそれほど感じられない。個人的には別のところに面白さを見出せた。それは魅力的な登場人物達である。事件そのものよりも、俺はそちらの方に惹き付けられた。
この映画には二人のヒーローが登場してくる。一人は金融王石原である。彼は戦後間もない頃にフィクサーとして活躍した人物で、石原メモなるものを手にして、金融界でのし上がってきた男である。やっていることは相手の弱みに漬け込んで金儲けをするヤクザと何ら変わらないのであるが、演じる宇野重吉の怪演がキャラクターに奥行きをもたらしている。実にしたたかで手の内を中々見せない策略家といった雰囲気を醸し、政治という魔窟に鋭いメスを入れていく行動力には、ある種の“頼もしさ”が感じられた。そもそも外見からして、いかにも“曲者”という“味”があるし、どこかとぼけた愛嬌もあって良い。彼は内閣の要である堅牢無比な星野官房長官の懐に飛び込んで入札事件の実情を暴いていく。
もう一人はアングラ新聞社の編集長古垣である。彼は電力開発会社の財部総裁と太いパイプで繋がっており、今回の入札事件の裏を暴こうとする。その熱い記者魂は全くもって見事である。また、その一方で彼には母親の違う愚弟がいて、彼との愛憎ドラマも語られる。事件の捜査と愚弟との軋轢。この二つを関連付けながら、彼の人生もドラマチックに描かれている。
他にも個性的なキャラクターが多数登場してきて面白い。
例えば、三国連太郎演じる“政界の爆弾男”こと神谷代議士の活躍などは、かなり大仰な立ち振る舞いに思わず失笑してしまったが、意外にこういう政治家は現実にいそうである。正にハマコーを連想させられた。
西村晃演じる竹田建設専務の悪辣ぶりも実に良い。典型的な太鼓持ちで、酒の席では相手を持ち上げようと下卑てみせたり、プライドというものを一切持たない見下げ果てた男である。こういう人間は体制が変われば、またその体制にくっついてしぶとく生き延びそうである。
監督はこの手の大作映画はお任せと言った感がある山本薩夫。社会派的なメッセージをきっちりと描きこみながら、娯楽性も忘れないところがこの監督らしい。但し、ベッドシーンの演出については不得手と感じた。硬派な世界を描くことの多い氏にとって、こちらの芝居は専門外という感じがする。どうしてもベタ過ぎてしまう。
尚、製作に徳間書店初代社長・徳間康快の名前がクレジットされている。「風の谷のナウシカ」で宮崎駿を世に送り出した、言わずと知れた名プロデューサーであるが、本作が彼にとって初めての映画の仕事となる。以後、ジブリ作品等でバックアップの舵取りをして行くが、元を辿れば彼の映画との出会いはこんな社会派作品にあったのか‥ということが分かって興味深い。
政財界に鋭く切り込んだ力作。
「不毛地帯」(1976日)
ジャンル社会派・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 壱岐正はシベリアで11年もの間、拘留されていた。帰国後、暫く浪人生活を送っていたが、このたび日本最大の商社、近畿商事に入社することになった。彼の戦時中の経歴を社長は高く評価し、壱岐は巨大プロジェクトを任される。そのプロジェクトとは航空自衛隊の次期戦闘機の入札だった。戦争の記憶から逃れたかった彼は、この仕事に複雑な思いで取り組むことになる。
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(レビュー) 戦争の影を引きずる男が、政財界の“戦争”に巻き込まれていく社会派人間ドラマ。
原作は山崎豊子。監督山本薩夫。これまでに「白い巨塔」(1966日)や「華麗なる一族」(1974日)でコンビを組んだ両雄が、軍事産業に鋭く切り込んだ野心作で、正に満を持して放ったという感じの力作である。ただし、今回の映画では原作の前半部までしか描かれていない。とりあえず、ひとまずの答えを提示して終わるが、壱岐の戦いはまだ続く‥という形で締めくくられており消化不良な感は否めない。その後、後半部の映画化が同監督の下で企画されたらしいが、山本が1983年にすい臓癌で死去したために実現はされなかった。その代わりに、後半は前半部も含めて1979年にテレビシリーズとして映像化されている(未見)。
次期戦闘機の選定を巡って行われる国防会議に向けて、ドラマは一直線に盛り上げられており、その中で様々な人間模様がスリリングに描写されている。利権を食い物にする政治家やその恩恵に預かろうとする企業家、更にはスキャンダルを追い回すマスコミ等。こういった魑魅魍魎を相手に主人公壱岐の孤独な戦いがストイックに綴られている。
初めは戦争のトラウマからこの仕事に拒否反応を示す壱岐だが、相手は海千山千のつわものばかりである。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされると、なりふり構わず汚い手段を使って勝ちを取りに行く。それはまるで弾丸を金に変えただけの“戦争”とも言え、彼は忌むべき戦場に再び足を踏み入れていくようになるのだ。これは「白い巨塔」や「華麗なる一族」の巨大組織・社会に飲み込まれる主人公と一緒と言うこともできる。
それにしても、政界も財界もつくづく人脈と金脈が物を言う世界であると再認識させられる。役人の天下りなどは正にその典型であり、映画もその辺りのことについてかなり痛烈に批判している。時代にカウンターを食らわすと言う意味では、実に堂々たる社会派作品になっていると言える。
ただ、幾つか作りの甘さが散見されたのは惜しまれた。アメリカ・ロケが観光映画的な妙なノリになってしまったこと、いかにも作り物のセット、日本の撮影で誤魔化したと思しきシーンが見られる。山本薩夫はコミュニストであり、アメリカでの撮影が思うように出来なかったのかもしれないが、これらは明らかに作品の完成度を落としてしまっている。逆に、シベリアのシーンは中々の迫力があって良かった。これもおそらくは北海道辺りでロケしたのだろうが、極寒の地獄絵図が骨太に描写されている。
キャストは夫々に好演を見せている。特に、影の大物政治家を演じた大滝秀治の“狸”振りが良かった。
一方、壱岐を演じた仲代達也の演技には多いに不満が残った。いつもの“とぼけた”造形は、熱度と緊張感を真骨頂とする山本演出と上手くマッチしているとは言いがたい。シベリア収容所でのPTSDだとしても、その演技が自然に見れたのは前半のみである。後半から一転、文字通り仕事の鬼と化していくのだが、その時にはすでに前半との落差が激しすぎてどうしても彼の演技についていけなかった。
しみじみとさせる小品。
「バウンティフルへの旅」(1985米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 老女キャリーは息子夫婦と暮らしている。嫁とは犬猿の仲で、稼ぎの少ない息子も嫁に頭が上がらなかった。そのため家庭の中でキャリーは孤立しがちで、彼女の思いは自ずと生まれ故郷バウンティフルへと向かった。そんなある日、キャリーはとうとう嫁の目を盗んで一人でバウンティフル行きのバスに乗り込む。そこで心の優しい娘と出会い‥。
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(レビュー) 孤独な老女が故郷を目指して旅をするロードムービー。しっとりとした演出が貫通され、しみじみとした味わいの小品に仕上がっている。
キャリーの故郷への郷愁は、正に老いてこそという気もするが、おそらく誰にでも起こり得る普遍的なものだと思う。この感傷は、以前このブログでも紹介したI・ベルイマン監督の
「野いちご」(1957スウェーデン)でも描かれていた。主人公の老医師は終末の旅で人生を回顧する。これは、やがて訪れるであろう“死”を受け入れるための通過儀礼とも言えるし、年を重ねる事で自然と生まれる人間の“帰巣性”なのかもしれない。老いてこその心理であり、若い人もそこを想像しながら見れば、キャリーの旅先での回顧には共感できるのではないだろうか。
印象に残るのは、キャリーを演じたジェラルディン・ペイジの演技である。映画序盤は、嫁姑の軋轢に疲弊した悲劇のヒロインとして、暗い表情を貫く。その後、家を抜け出して故郷の旅に出発すると、表情がどんどん輝いていく。特に、車中で出会った娘に自分の半生を話して聞かせるシーンなどは最高の笑顔を見せる。まるで娘時代に戻ったかのような稚気溢れる笑顔がとてもチャーミングだ。実は彼女には持病があり、そのために外出が禁止されていたのだが、それがどうだろう。この生き生きとした表情は‥。「病は気から」とはよく言ったものである。
バス停留所で出会う娘を演じたR・デモーネイも良い役回りであった。愛くるしい表情が、ジェラルディン・ペイジの若返りを喚起するかのように瑞々しく捉えられている。
一方、嫁の造形には物足りなさを感じた。分かりやすい悪役としてタッチングされているのだが、このレッテルにどこか安直さを覚えてしまう。彼女には彼女なりの言い分がきっとあるはずであり、そこに深く踏み込めなかったのは残念である。姑と嫁の軋轢はどこの家庭にでも少なからず存在するものであるが、それをこういう形で紋切り的に料理してしまった所に底の浅さを感じてしまった。
尚、1か所だけどうしても気になる演出があった。それは、深夜バス内でのキャリーと娘の会話シーンである。キャリーがベラベラ喋るので周囲の迷惑にならないのか‥と気になってしまった。ちょっとした演出の問題であるが、何となく嫌な感じに写ってしまった。
昭和テイストを感じさせるラジカルで魅惑的な作品。
「初恋・地獄篇」(1968日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 孤児のシュンは、彫金師の家に里子に出された。義父の仕事を手伝いながら青年へと成長した彼は、ある日ヌードモデルをしている奔放な娘ナナミに出会いホテルに誘われる。ところが、彼は何もする事が出来なかった。そんな彼にナナミは安らぎを覚える。二人は再会を約束して別れた。シュンの私生活は、養子という立場からひどく窮屈なものだった。特に、義父との関係はぎこちないものとなっており、その鬱屈した感情は近所に住む幼女との交流によってのみ癒された。しかし、これが変質者と誤解されて彼は精神病院に入院させられる。この時、彼の脳裏にナナミとの約束が思い浮かぶ。彼はナナミを求めて夜の町へと出る。
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(レビュー) 孤独な純情少年と奔放な少女の初恋をシリアスに綴った青春ロマンス作品。
大筋はオーソドックスな青春映画と称する事が可能だが、シュンが辿った過去、ナナミが置かれた状況は悲劇的なもので、爽やかに見れる青春映画とは言い難い。終盤の文化祭のシーンで8ミリ映画が登場するが、そこに映し出されたマスターべションの成れの果てが全てを物語っている。この青臭い恋愛価値観こそ、この頃の年相応の純愛なのだろう。稚拙で儚げなで残酷で‥。今見るとアナクロすぎてどうも‥という感じもするが、初恋をここまでネガティブに描ききった所に作り手側の気概を感じた。
そもそも、シュンのバックボーンには性的虐待、近親相姦、小児性愛のトラウマが存在する。これだけでも、本作がかなりダウナーな青春映画であること分かる。加えてヒロイン、ナナミも徹底して悲劇的に追い詰められていく幸薄い少女だ。不倫、売春、秘密クラブで行われるSM、同性愛といった異常性愛が彼女の日常生活にまとわりつく。
言わば、シュンもナナミも周囲の大人達の欲望の捌け口に利用される不幸な子供たちなのである。彼らが辿る運命に何が待ち受けているのか‥。それは「地獄篇」というタイトルから、ある程度推察できるが、想像以上に苦々しくヘビーなものだった。
尚、本作はATG作品らしく、各所にアーティスティックな感性が見られる。脚本に寺山修司が参加し、これが作品の雰囲気を独特なものにしている。母性求愛や大人社会への反発といったものは、明らかに寺山ならではのガジェットだろう。
一方で、特異な演出も見逃せない。監督は羽仁進。彼の作品でソフト化されているのは本作を含めごく僅かである。この監督が切り取る映像は毒々しく刺激的で、例えばシュンが催眠療法を受けるシーンなどは印象的である。もやの中に過去のトラウマを投影したダークで倒錯的な映像世界は魅惑的である。また、性愛表現の仕方においても、開き直りとも取れるような過激な描写があり、監督のつきつめ方に妥協は感じられない。
音の演出も変わっている。当時の流行歌やクラシックをBGMに使用したり、ドラマと無関係に落語や念仏が流れたり、実に脈絡なく奔放だ。効果音も特異的で、時計の秒針音を延々と映像に被せたり、不気味に切迫感を煽るような“音”の設計が横溢する。
但し、中には理解不可能な演出もある。例えば、街路で突然全裸になる男は一体何だったのだろうか?警察が駆けつけて通行人が驚いているくらいなので、おそらくゲリラ撮影だと思うのだが、本編に何の関係があるのか全く分からなかった。
こうした理解不能な描写があるので、決して万人向けの作品でとは言い難い。しかし、幻惑的で過激で独特な魔力を持っており、そこがこの作品の魅力となっていることは確かである。