ブロンソンの代表作!
「狼よさらば」(1974米)
ジャンルアクション
(あらすじ) ポールは妻と娘夫婦と幸せな暮らしを送っていた。ある日、その幸せが街のチンピラに突然奪われてしまう。妻を殺され、娘を精神病院送りにされてしまったのだ。警察には任せておけない‥。ポールは敢然と立ち上がる。会社に内緒で出張先で拳銃を仕入れた彼は、それで街のチンピラを次々と撃ち殺していく。
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(レビュー) C・ブロンソンが主演する人気シリーズ“デス・ウィッシュ”シリーズの第1作。ブロンソン演じるポールの復讐をハードなバイオレンスで綴ったアクション作品である。全編彼が出ずっぱりであり、ファンならおさえておきたい1本だろう。
演出は非常に明快で、オープニングからすんなり入り込めた。真面目な小市民ポールが復讐の鬼と化していく過程も軽快に描かれていて最後まで飽きなく見れた。
ただ、斜に観た場合、彼の復讐劇の裏側にはアメリカの銃社会を“是”とするプロパガンダ臭が嗅ぎ取れなくもない。
ご存知のようにアメリカでは、あれだけ銃による犯罪が発生しているというのに銃の所有が許されている。その根底には、開拓史時代から連綿と続く自己防衛というロジックが存在している。このあたりの事は、M・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002カナダ米)で詳しく解説されている。本作のポールの復讐行為も、正にこのロジックを後ろ盾にした報復である。そこに若干の怖さを感じてしまった。
彼が銃を手に入れるアリゾナという土地。これも中々興味深い舞台に思えた。知っている人もいるかもしれないが、アリゾナは西部劇の舞台として有名な土地である。そして、そこには必ずヒーローがいた。「駅馬車」(1939米)のJ・ウェイン、「アウトロー」(1976米)のC・イーストウッド等、彼らは華麗な銃裁きで悪漢達を倒していく。ポールが辿る足跡は、正にこれら西部劇のヒーローと重ねて見る事も出来る。つまり、この映画は完全にポールの復讐を擁護する立場で、彼を勧善懲悪なヒーローとして描いているのだ。その証拠に、劇中ではマスコミや大衆が彼を“アマチュア刑事”と賞賛している。また、彼の活躍によって犯罪件数も激減したと喜んでいる。こうした都合の良い所だけを抜き出して描いているが、実際には彼がやっていることも犯罪なのである。したがって、銃社会を黙認する映画‥と言われても仕方がないような作品である。
ただ、本作の見所は何と言っても先述したようにC・ブロンソンの渋さ、格好よさであり、それに浸りたいというのであれば娯楽作品としては十分楽しめる作品になっている。
また、彼は決して完全無敵のスーパーヒーローというわけではない。元々は一人の名もなき小市民であり、人間臭い部分もきちんと持っている。そこを丁寧に描いたシナリオには好感が持てた。
例えば、兵役拒否という経歴や、初めて人を撃った時に手が震えてトイレで嘔吐をするとかetc.何も彼は喜んで復讐をしているわけではないのである。元々争いとは無縁の男であり、仕方なく復讐の鬼になったわけで、そこには一定の共感も覚える。
ブロンソンの魅力が全開!
「雨の訪問者」(1970仏)
ジャンルサスペンス・ジャンルロマンス
(あらすじ) ある雨の日、夫の帰りを待ちわびる人妻メリーは、突然現れた不審者にレイプされる。逆上した彼女は男をショットガンで撃ち殺し死体を海に捨てた。翌日、彼女の前に全てを見たと言うアメリカ人ドブスが現れる。彼の狙いは殺された男が持っていた赤いバッグだった。メリーは彼に付きまとわれるようになり‥。
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(レビュー) ミステリアスなアメリカ人、ドブスを演じたC・ブロンソンの存在がこの映画の魅力の大半を担っていると言っていいだろう。
彼はメリーに近づき、殺された男が持っていた赤いバッグを渡せと脅迫する。ブロンソンのニヒルでワイルドな面構えは中々のもので、彼が登場して以降、映画は俄然面白くなってくる。メリーは、彼の目的は何なのか?赤いバッグには何が入っていたのか?という疑問を抱きながら、この危険な男の虜になっていく。正直、映画の出だしは凡庸なのだが、ブロンソンが登場して以降、映画はグンと引き締まってくる。
一方で、映画はメリーのトラウマと葛藤にも迫っていくようになる。彼女は幼い頃に体験した"ある悲劇”から未だに立ち直れないでいる。そして、家庭では夫から馬鹿にされ、母親から虐げられ、完全に孤立した状態にある。実に不幸なヒロインである。
ちなみに、彼女の本名はメランコリーと言う。これは常に憂鬱の状態にいる彼女の心境を言い表したもので、洒落を効かせたネーミングだ。
そして、彼女にはもう一つ“ラブ・ラブ”という名前がある。これはドブスにつけられた愛称なのだが、成長しきれない未熟な少女‥という意味が込められているのだろう。彼女の性格を言い当てたネーミングと言える。
この二つの名前から分かるとおり、彼女は一言で言ってしまえば“可哀想”な“幼い”女なのである。
クールでワイルドで聡明な“大人”であるドブスに惹かれるのは当然と言えば当然で、この関係は恋愛関係という見方も出来るが、それ以上にメリーの幼稚さとドブスの大人の振る舞いに着目すれば、擬似父娘関係という見方も出来る。つまり、このドラマは子供だったメリーが、ドブスと出会う事で大人の女性へ成長していく‥というイニシエーション・ドラマにもなっているのだ。本作は表面的にはよくあるロマンス・サスペンスだが、実は中々奥が深い。
監督はR・クレマン。様々なジャンルを撮る巨匠であるが、正直この頃は全盛時に比べると今ひとつといった印象がある。前作
「パリは燃えているか」(1966仏米)、翌年の
「パリは霧に濡れて」(1971仏伊)は不満が残る内容だった。しかし、それらに比べれば本作かなり持ち直していると感じた。
レイプシーンから殺害にいたる序盤のシーンは演出に切れが戻っているし、サスペンスを効果的に見せるためのアイテムの使い方などにも唸らされるものがあった。
ただ、ドラマチックに盛り上げるタイプの作品ではないので、全体を通して地味であることは否めない。また、終盤の展開にも甘さが見られるし、事件のからくりも、もっと整理して描いて欲しかった。
とはいえ、そういった不満を凌駕する叙情的な幕引きと、そこで見せるブロンソンの哀愁漂う表情は絶品であり、彼が好きなら“一見の価値あり”な傑作になっていると思う。
奇妙な三角関係を陽気に怖く描いた作品。
「それでも恋するバルセロナ」(2008スペイン米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 映画監督を目指すクリスティーナ、婚約中の大学生ヴィッキー、二人は夏休みを利用してバルセロナにやって来た。ある晩、レストランで売れない画家アントニオに出会う。彼は暴力沙汰で離婚した悪名高き男だった。ヴィッキーは乗り気でなかったが、クリスティーナが彼に一目惚れしてしまい週末旅行に出かけることになる。ところが、運悪くクリスティーナは食あたりで寝込んでしまい、その間にヴィッキーはアントニオに強引に迫られ酔った勢いで一夜を共にしてしまった。旅行から帰ってきてから、クリスティーナの元にアントニオから連絡が入る。再会を喜んだ二人はそのままアントニオのアトリエで同棲することになる。そこにアントニオの元妻マリアが自殺未遂をしたという報が入る。
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(レビュー) 奔放な女性と堅実な女性。彼女等を愛した男と彼の元妻。4人が織り成す恋愛模様を軽妙に綴った作品。
監督・脚本はW・アレン。活動拠点だったニューヨークを飛び出してイギリスで
「マッチポイント」(2005英米ルクセンブルグ)を撮り、スペインで本作を撮った。御年70歳を越えてこの精力的な活動。いやはや頭が下がる思いである。今回は情熱と芸術の国スペインの美しい景観をフルに活用しながら、今まで見られなかった新鮮な映像トーンを打ち出している。
最も際立つのは映像のポップさである。ラテンの国特有の陽光眩しい解放的なロケーションが、複雑に入り乱れた愛憎ドラマをどこか屈託のないものに見せている。アレン作品の中にはこうした男女のスワッピング関係はよく出てくるが、本作ほどあっけらかんと見れる作品もそうそうないだろう。完全にコメディに特化した一部の作品は別として、こうした愛憎ドラマは映像のトーン次第では見ていて辛くなるくらい隠滅とした作品になってしまう。それが本作には全く感じられなかった。
それにしても、今回も完全に女性上位のドラマになっている。これはアレン作品の一つの定型とも言える。他の作品に登場する男達と同様、本作のアントニオも些末で卑小なキャラに造形されている。
そもそも、彼の恋愛観はプレイボーイの一言で片付けるには余りにも常識外れ的な所がある。ラテンの血と言ってしまえばそれまでだが、我々日本人からすると彼の恋愛観は危険すぎてついていけない。何しろ親友同士の女をいっぺんに食ってしまったり、その傍らで別れた女房と寄りを戻したり‥。能天気というか、何も考えていないというか‥とにかく彼の行動は自爆行為以外の何物でもないのである。
また、彼は一応芸術家を名乗っているが、その才能は全くと言っていいほどない。あまつさえ他人の作品の盗作をする始末である。ここまでダメな男だともはやつける薬がないという感じがするが、世の中にはダメな男に惹かれる女性というのもいるもので、それが今作の3人の女たちである。
女性陣に目を向けると、クリスティーナ、ヴィッキー、マリア、夫々の恋愛観が明確に主張されていて、3人の思考の違いも見えてきて面白い。
特に、後半から登場する元妻マリアは異彩を放っている。P・クルスが独壇場の演技を見せるのだが、彼女は他の二人にはないアクの強さを持っている。
彼女はアントニオと同じ芸術家を生業としている。恋愛観もかなりアート志向で、元夫アントニオの不倫をどこ吹く風で眺めながら、あろうことか浮気相手であるクリスティーナとレズビアンの関係になってしまうのだ。そもそも彼女は自殺未遂の過去を持っており、こうした常人では理解しがたい激情的な行動によく出るのである。危険な香りがする実に面白いキャラクターになっている。
元々、P・クルスはこうした尖った演技は得意な女優なので、今回のマリアは適役と言えよう。過去にJ・デップと競演した「ブロウ」(2001米)という作品があった。その時の彼女の甲高い声は要以上に耳障りに感じ余り好きになれなかったが、それと比べると今回は幾分抑制が効いていて見やすくなっている。これはアレンの演出による所なのか、彼女が積み重ねてきたキャリアがそうさせたのか分からないが、ともかくクルスの存在感は本作でピカ一だった。
一方、クリスティーナを演じたS・ヨハンソンは、完全にクルスに食われてしまった感じがする。前半のレストランのシーンでアントニオの股間をチラ見する演技は下世話で良かったものの、それ以降はどうも精細さに欠く。アレンと組んだ前々作「マッチポイント」に比べると、正直今ひとつという気がした。
もう一人の女ヴィッキーについても不満が残った。後半からクリスティーナとマリアの方にドラマの比重が傾いていくため、どうしても彼女の影が薄くなってしまう。彼女のエピソードの処理の仕方も中途半端でいただけなかった。ここまで中途半端にするくらいだったら、むしろバッサリとカットしてしまっても良かったのではないだろうか。絞って描くことで見やすくなる場合もある。
ビターな不倫劇。
「マッチポイント」(2005英米ルクセンブルグ)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 元プロテニスプレイヤーのクリスは引退後、会員制テニスクラブのコーチになる。そこで資産家の息子トムに出会い、彼の妹クロエを紹介される。彼女に気に入られたクリスは付き合うことになった。交際は順調に進み、彼女の口利きで父親の会社にも就職できた。このままいけば彼の将来は確約されたようなものである。しかし、その一方でトムの婚約者で女優志願のノラにも惹かれる。ある日、トムの別荘に招待されたクリスはノラと関係を持ってしまう。
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(レビュー) W・アレンがニューヨークを離れて初めてロンドン・ロケを敢行したロマンス・サスペンス。
全体を通してカッチリと作られておりほとんど破綻がない作品で、昨今のアレン作品の中では群を抜いて完成度が高いと言える。老いて尚、こうした驚きと新鮮さに満ちた作品を作れるところに彼の底力が感じられた。
物語は資産家の娘と婚約した男が義兄の婚約者に惹かれる‥という、言わば不倫劇である。ただ、そこはアレンである。シリアスな作品である事は確かだが、随所にブラックなユーモアが散りばめられていて決して隠滅としたドラマとはなっていない。
まず映画の始まり方が面白い。ネットに引っ掛かったテニスボールがどちらのコートに落ちるか?それは全て運次第である‥というナレーションが流れる。実は、この言葉が本作のテーマであり、クリスが辿る人生もこのナレーションに当てはめて言い表すことが出来る。
彼は運良く名声を手にするが、そこに思わぬ落とし穴が、つまりノラとの不倫があった。果たして彼はこの窮地をどうやって切り抜けるのか?それがこのドラマのクライマックスとなっている。その顛末は正に冒頭の“全ては運次第”という言葉を痛感させられるものであった。
アレンらしいと思ったのは、クリスのこの顛末を突き放して描いている所である。本来メロドラマというものは、ロマンスを盛り上げるためにキャラクターに感情移入させようとするものである。しかし、今作は終始傍観的な立場を貫くような作りになっているため、観客は決して主人公クリスに感情移入する事は出来ない。むしろ、二股かけたイケ好かないプレイボーイ、最低な男‥という風に見れてしまう。彼の辿るこの顛末には因果応報という納得感をおぼえる。こう感じてしまうのは、一にも二にもアレンのコメディ的な語り口、常に主人公に感情移入させない傍観的な立場を貫いた語り口があるからだろう。
また、クリス達、資産階級や有識者を徹底して俗物のように描いており、これもいかにもW・アレンらしい。かつて彼はホームタウン、ニューヨークでハイソサエティに対する毒舌を吐きまくっていたが、今回も対象こそ違え彼のルサンチマンは一貫している。ニューヨークを離れてわざわざロンドンという地に映画の舞台を選んだのは、イギリス特有の貴族社会に対する痛烈なアンチを吐き出したかったからなのかもしれない。
一方、悲劇のヒロイン、ノラは初めこそ悪女的なキャラとして登場してくるが、その出自や過去を踏まえると無産階級の哀れさも感じられ不憫に思えてくる。確かに彼女は女優業と玉の輿という二つを欲張った女だった。しかし、その欲望は少なくともクリスたち有産階級の強欲さに比べたら、決して責められるべきものではないだろう。ノラは有産階級の犠牲者という見方も出来てしまう。そういう意味では、本作で一番感情移入しやすいのは彼女かもしれない。
尚、劇中に「罪と罰」と「椿姫」が登場してくるが、これらはドラマの重要なモティーフになっている。
「罪と罰」についてはクリスの顛末と照らし合わせながら考えると、なるほど‥と一層理解が深まる。「罪と罰」の主人公は最後に自らを裁くが、クリスはそうしなかった。しかし、それによってクリスは命拾いしたというわけではなく、罪の意識が一生ついて回るという更なる不幸を背負うことになった。これは法の裁きを受けるよりも更に残酷な結末と言えるだろう。まさしくクリスの人生は「罪と罰」が下敷きとなっている。
「椿姫」はノラの人生に呼応させながらこんな風に読み解ける。「椿姫」のヒロインは娼婦だったために叶わぬ恋に苦しんだ悲劇のヒロインである。ノラも日陰の女として耐え忍ぶ薄幸なキャラであり、そこに「椿姫」のヒロインを重ねて見ることが出来る。
W・アレンはよく文学や音楽といった芸術をさりげなく作中に忍ばせるが、今回はそれが冴え渡っている。引用がドラマとガッチリと噛み合っていて、観終わった後には考えさせられるものがあった。この豊饒な鑑賞感こそ、アレン映画のもう一つの真骨頂である。
喜劇をこよなく愛する三谷幸喜の志が良く出た逸品。
「笑の大学」(2004日)
ジャンルコメディ
(あらすじ) 日本が戦争に突入していった昭和15年。劇団“笑の大学”の喜劇作家、椿は警視庁の検閲室に新作の台本を持って出向いた。国は演劇や出版物といった娯楽に対して厳しい検閲をしていたのである。今まで一度も笑った事がないという検閲官、向坂のチェックが入り、あえなく椿の台本は書き直しを命じられた。翌日、言われたとおりに書き直したが、再び書き直しが命じられる。こうして二人は対立を繰り返していく。
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(レビュー) 喜劇作家と生真面目な検閲官が、新作台本を巡って丁々発止のやり取りをしていくコメディ作品。三谷幸喜の舞台劇の映画化で、本人が脚本を担当している。
椿を演じるのは稲垣吾郎。喜劇を純粋に愛する男を飄々と演じている。向坂を演じるのは役所広司。こちらは徹底して笑わない男を貫き通している。役所広司は、笑いたい‥けれども笑えない‥という微妙なバランスの上でこの役を体現しており、毎度のことながらその演技力については感心させられる。流石である。
物語はこの対照的な二人の愛憎ドラマとなっている。台本の改稿を巡っていつの間にか奇妙な友情で結ばれていく‥という所が面白い。
また、改稿に改稿を重ねる事で椿の台本の“笑い”が熟成されていくというのも皮肉的で面白い。検閲官である向阪は、提出された台本から下らない“笑い”を取り除いて、国威発揚的なものに書き改めさせようと無理難題の注文をふっかける。ところが、椿はその要求にこたえながら更に面白いものを書き上げてくる。向坂の指導によって、むしろどんどん笑える台本になっていくという所が面白い。そして、向坂は知らず知らずのうちに“笑い”の楽しさ、素晴らしさの虜になっていくのだ。これは椿の熱意がそうさせたとも言えるわけで、そういう意味では芸術讃歌的なメッセージも感じられる。
戦時下における言論の自由というテーマは、作家業を生業とする三谷にとっては他人事ならざる思いが込められているのだろう。演劇、映画、音楽といった芸術・娯楽の素晴らしさを訴えるテーマは、語りつくされているが、それだけにいつの世にも通じる普遍的な“力”を持ったテーマと言える。三谷の場合は喜劇作家である。やはりテーマの打ち出し方もコメディとして料理されており、深刻に訴える作品と違い、肩の力を抜いて見る事が出来るところに彼の持ち味がよく出ている。
また、椿が向坂の無理難題な注文に応えながら台本を練り上げていく工程には、作家としての苦悩もよく見えてきた。ああしたら良くなる、こうしたら良くなる‥といった“生み”の苦しみはまるで創作の舞台裏を見ているようで面白かった。
尚、最も笑えたのは、向坂が検閲室を駆けずり回るシーンだった。喜劇と悲劇は表裏一体とよく言うが、これは向坂にとっての悲劇であり、傍から見る観客にとっては喜劇である。あれだけ険しい表情をしていた彼が、椿の指示にしたがって汗をかきながらあっちへこっちへ走り回る‥このギャップ、立場の逆転が実に可笑しい。
ただし、向坂がかつらをつけてリハーサルするのは、いくらなんでもやり過ぎ、はっちゃけ過ぎだろう。向坂は表向きはどこまでも厳格を貫き通す男であって欲しい。椿と多少は心を許せる仲になったとしても、ここまでやってしまうと何だか過度な馴れ合いのように映ってしまう。
本作はエンドクレジットも凝っている。多数の豪華俳優陣を起用したアイディアは意外性に富んでいて面白い試みに思えた。
友情ドラマ、アクション、社会派、色々詰まった娯楽作品。
「KAMIKAZE TAXI」(1995日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) チンピラ達男は組長・亜仁丸の命令で、政治家・土門の愛人の世話を任されることになった。その後、土門の過ちで達男は付き合っていた恋人を失う。彼は復讐心から若い仲間と一緒に土門邸に押し入って隠し金を強奪した。しかし、そこを亜仁丸に見つかり達男は追われる身となる。その逃走中、彼は日系ペルー人のタクシー運転手、寒竹と出会う。達男は彼のタクシーに乗って逃亡の旅に出るのだが‥。
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(レビュー) 組から追われるヤクザ青年と日系ペルー人のタクシー運転手の奇妙な友情を描いたヤクザ映画。
元々2本のVシネで製作されたものを1本にまとめて劇場公開した作品である。豪華なキャスト、映像の作り込み等、余り安っぽさを感じさせない。これなら劇場用映画として公開しても納得という気がした。
物語は、ヤクザ青年・達男が日系ペルー人・寒竹のタクシーに乗って組織と対決していくロードムービ形式で進行する。コミカルなタッチが加味されることで、さほど重苦しさは感じられない。Vシネという性格上、どちらかと言うと気楽に見れるタイプの作品になっているということもあるが、作品全体が軽妙にまとまっていると思った。
何と言っても、亜仁丸を演じたミッキー・カーティスのライトな存在が良い。まったくもって人望のかけらもない情け無いヤクザなのだが、これをミッキー・カーティスがコミカルに演じている。ハードボイルドとコミカルの折衷には北野武映画に出てくるヤクザのようなテイストも感じられる。この亜仁丸というヤクザは非常に面白かった。
映画は追跡劇の中に達男と寒竹の交友を描いている。2時間半を超える長さながら飽きなく見れたのはこれがあるからで、チンピラと移民という異色の組み合わせが大変面白い。彼らは社会から疎外される者同士、奇妙な友情で結ばれていく。この映画は達男の視座で進行するため、寒竹の感情が今ひとつ見えてこないという難があるが、二人の間で交わされる微妙な感情のせめぎ合いは丁寧に描写されており面白く追いかける事が出来た。
展開も軽快で飽きさせない。但し、途中の自己啓発セミナーは冗漫に映った。ドラマの箸休めと解釈しても、ここは少し悪ふざけが過ぎる。丸ごとカットしても以後のドラマにさして影響がない部分であり、もっと短く編集しても良かったと思う。
また、本作は寒竹の苦悩に迫ることで、移民問題についても深く言及している。ストレートなヤクザ映画にはない社会派的な“歯ごたえ”が感じられ、大変見応えがあった。
さらに、タイトルにもなっている“神風”だが、これもヤクザ映画らしからぬユニークなフレーズである。ここでの“神風”とは太平洋戦争時の日本軍の神風特攻のことを指している。ヤクザ用語に“鉄砲玉”という言葉があるが、それに近いニュアンスかもしれない。戦争を知らない若い達男に神風特攻の精神が理解しうるか?という疑問は残るが、一方で寒竹のバックストーリーにこのモティーフを絡ませたことはかなり面白い着想である。
後半で寒竹が自分の生い立ちを達男に語るシーンがある。そこで彼はペルーの過去の内乱の悲劇を静々と悔恨する。日本人でありながら日本人ではない自分。アイデンティティーを模索する我が身を顧みながら、神風の精神を“持たざる者”としての自省を吐露していくのだ。これは“神風”の精神、言い換えれば日本人としての精神はいずこへ?という憂いにも聞こえてくる。
開国以来150年という歴史を通して新たに見え始めてきた移民問題。日本がいずれ“神風”を持たざる日本になってしまうのではないか?という未来を、移民である寒竹の口から語らせたところにアイロニーが感じられる。
このシーンを受け継いで描かれるクライマックス・シーンも実にユニークだった。劇中で寒竹は時々“アンデスの風”の話をするが、それを具現化したことで日本人の“神風”へのアンサーと俺は捉えた。ややスピリチュアルな方向になびいてしまったが、このオチは予想外だった。
寒竹役は役所広司。あやふやな日本語を喋りながらこの難役を飄々と演じている。すでにこれだけの俳優になると、どうしても役柄よりも俳優としての顔の方が前面に立ってしまうものである。今回もそうした素の顔が少々邪魔になってしまう部分があったが、ではこの日系二世を彼以外に演じれる者がいるか?と考えてみると中々思い浮かばない。そういう意味では健闘していると思った。
御伽話を見る感じで鑑賞すれば中々面白い。
「ウンタマギルー」(1989日)
ジャンルファンタジー・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 日本返還直前の沖縄。サトウキビしぼりをしているギルーは、過食症の母親と娼婦の妹と暮らしている。満月の晩、ギルーは仕事場の親方の娘マレーと関係を持った。その直後、不思議なことにマレーの草履がひとりでに宙を飛んでいった。追いかけていった先でギルーは、木の精霊キジムナーの子供が溺れているのを目撃する。それを助けたギルーは草履を拾って元の場所に戻った。しかし、すでにそこにマレーの姿はなかった。翌朝、ギルーが仕事場に行くと、親方が飼育豚を手当てしていた。その豚は足を怪我していて‥。
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(レビュー) 沖縄を舞台にしたシュールでファンタジックな御伽話。
豚の化身と交わった青年の数奇な運命を、当時の社会背景を交えて描いている。監督・脚本の高嶺剛は沖縄出身の作家で、主に沖縄を舞台に作品を撮っているということだ。地元を知り尽くすだけに、現地の風土や音楽が活き活きと再現されており、それがこの作品の大きな魅力に繋がっている。
ただ、余りにも突拍子も無い話であることは確かである。この「ウンタマギルー」は沖縄で古くから言い伝えられている民話ということで、基本的にリアルな沖縄を描いているわけではない。人によっては入り込みづらい作品かもしれないが、そこは“沖縄版ロビン・フッド”というような感じでとらえれば面白く見れるかもしれない。
何と言っても本作の最大の魅力は、沖縄の風土がよく伝わってくるところだ。沖縄方言は理解しずらいところがあり、この映画では全てのセリフに字幕がついている。それだけに映画全体から沖縄らしさというものが感じられる。また、随所で披露される沖縄民謡も独特の世界に浸からせてくれる。
物語の方は非常にシンプルで朴訥としたものである。基本的にコメディ的な要素が多く楽しく見れた。
ただ、時代背景を返還直前に設定した所には、明らかに製作サイドのシリアスな“狙い”が感じられる。戦争の傷痕に苦しめられる沖縄の人々の姿‥それを描こうとしたことは間違いない。米軍基地問題で揺れる昨今の事情を見ても、これは沖縄という土地に永遠について回る問題なのかもしれない。色々と考えさせられた。
とはいえ、本作は元々が民話であり、いかんせん寓話色が強すぎる。そのため、果たしてどこまでこの社会的なメッセージが観客に伝わるかは疑問‥という気がした。劇中でギルーが、「日本でもアメリカでもない、俺達は琉球王国だ」と叫ぶが、おそらくここにメッセージが集約されているような気がした。しかし、その他に明確な形で政治的な発言が登場することはほとんどなく、社会的なメッセージを発する作品としては押しが弱い感じがした。やはり沖縄伝承の御伽話というスタンスで見るのが妥当であり、政治的なメッセージはこの場合かえって不要、もしくは作品のテーマを中途半端にしてしまっているのではないか‥という気がした。
映像はとにかく美しい。我々が失いかけている自然に対する畏敬の念と、実は人は自然によって生かされているという自然崇拝。この二つがとめどなく画面から溢れ出しており、このあたりの映像は沖縄にこだわりを持つ監督の“仕事”という感じがした。
キャストではギルーの妹を演じた戸川純が印象に残った。動物占いにのめり込む娼婦という役所を、独特の浮遊感を漂わせながら好演している。もちろん歌も披露している。
余談だが、キジムナーの踊りには驚愕した。これではちょっとした曲芸師のようではないか?しかも中年のオッサンである。キジムナーというと子供というイメージがあったので何だか意外であった。
C・イーストウッド&S・マクレーンの絡みが魅せる。
「真昼の死闘」(1970日)
ジャンルアクション
(あらすじ) 流れ者のガンマン、ホーガンは、荒野で盗賊に襲われる女性を救った。彼女はサラという尼僧だった。駐留するフランス軍に英語を教えいていたのだが、市民を不当に抑圧する彼らに反発して逃げ出してきたのである。ホーガンは彼女を守りながら、報酬欲しさにゲリラ活動に協力するようになる。二人は早速、軍の武器を積んだ列車を襲撃することになるが‥。
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(レビュー) 凄腕ガンマンと尼僧が革命軍の戦いに参加していく痛快西部劇。
監督はD・シーゲル。ホーガン役はC・イーストウッド。このコンビは翌年に傑作「ダーティーハリー」(1971米)を撮っており、どうしても本作はその影に隠れがちである。しかし、この西部劇はイーストウッドの元々持っていたキャラクター性、マカロニウェスタンで培われたアンチヒーロー性をダイレクトに反映しており、アメリカ凱旋の雄姿を拝めるという意味では興味深い作品である。尚、二人は1968年に「マンハッタン無宿」(1968米)を撮っており、ハリー・キャラハンの原型はそちらの方に見る事が出来よう。
イーストウッドのワイルドな佇まいは魅力であるが、もう一方の主役サラを演じたS・マクレーンも見応えがある。コメディエンヌの本領を発揮しながらイーストウッドとのやり取りを飽きなく見せる。
ホーガンは殺伐とした世界に身を置く賞金稼ぎ、一方のサラは神に仕える聖女である。面白いのは、サラがホーガンと一緒に旅をする中でどんどん聖女性を失っていくことだ。例えば、陰に隠れてタバコを吸ったり、祈る振りをして他人を騙したり、ついには酒をラッパ飲みする始末である。お姫様と従僕のようだったが関係が、徐々にバディの関係に変わり、列車爆破のシーン以降は母親と息子のような関係、そして最後には男女の関係に転じていく。この変遷がドラマを面白く見せている。
ちなみに、川辺の手当てのシーンはやたらとねちっこく描かれている。ここはホーガンがかなり切羽詰った状況に追い込まれており、それだけにスリリングに見れるのだが、同時にサラの行動にも注目したい。これは二人の絆を確固たるものとして決定付けるものであり、後のドラマをスムースに運ぶ上でかなり重要なシーンとなっている。したがって、ここをじっくりと描いたD・シーゲルの演出は実に弁えていると言っていいだろう。
尚、サラの尼僧という設定を鑑みれば、ここにキリストの奇跡を見ることも可能である。ただ、おそらくD・シーゲルの中にそこまでの信心深さは無かろう。あくまでドラマの演出上のこだわりなのだと思う。
クライマックスには派手な銃撃戦が登場してくる。しかし、アクション演出が得意なシーゲルの割には今ひとつ切れが感じられなかった。ダイナマイトを使った大掛かりなドンパチは良いのだが、いかんせんシーンが分散気味で迫力が余り感じられない。戦闘に参加する個々の顔を前もって明確に抑えておく必要もあったと思う。
自然を捉えたカメラは美しく◎。特にオープニングシーンが秀逸である。実は、ここには後のドラマに繋がる伏線が幾つか登場してくる。周到に計算されており感心させられた。画面の端々を注意して見ておきたい。
S・マックィーンのダンディズムが堪らない!地雷突破のシーンが白眉。
「突撃隊」(1961米)
ジャンル戦争・ジャンルアクション
(あらすじ) 第二次世界大戦下、パイク曹長率いる部隊はジークフリード要塞攻略作戦に参加する。そこに十字勲章をつけたリースが赴任する。彼はパイクとは因縁関係にあり軍でも有名な問題兵だった。早速、前線に借り出される兵士達。パイクは、リースが所属する小隊を最も危険な敵の最前線に配置する。後続部隊が到着するまでの数時間、リース達はたった数名で敵と睨み合うことになるのだが‥。
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(レビュー) ドイツ軍の要塞をたった数名で攻略する小隊の活躍を描いた戦争映画。
監督D・シーゲル、主演S・マックィーンという顔合わせは、アクション映画好きには堪らない布陣である。マックィーンの寡黙な佇まいが危険な雰囲気を醸し、前半は彼の過去にまつわるミステリがドラマを牽引している。一方、シーゲルの演出もコミカルさとシリアスさを出しながら飽きのこない作りに徹していて楽しめた。
小隊は多彩なキャラが揃っており、この人間関係も中々面白く見れた。ただ、上映時間がたった90分という小品ゆえ、さすがに全員を十分に消化しきれているわけではない。途中から加わるポーランド兵、タイプしか打った事がない伝令。この二人は登場シーンからして印象的で魅力的に造形されているが、それ以外のキャラが今ひとつ弱いと感じた。中にはいつの間にか死んでる‥なんていう兵士もいる。キャラクターの掘り下げ不足は仕方無しといったところか‥。
本作で特筆すべきは、敵の地雷原を突破しようとするシーンだろう。手に汗握るスリルが味わえハラハラドキドキさせられた。コントラストを効かせたモノクローム映像も緊迫感を上手く盛り上げていた。ただ、ここを除けば割と地味な戦闘シーンが続くので、アクション的な見せ場は余り期待しない方がいいと思う。予算や時間が限られたプログラム・ピクチャーとして割り切った上で楽しむしかいない。例えば、戦闘シーンはほとんどが夜の攻防戦になるのだが、暗すぎてよく見えないシーンがあったりする。明らかに製作体制の限界だろう。
ドラマは殺伐としがちになるが、随所にコメディ・フレーバーを散りばた所は作品に親しみやすさを覚えた。先述のタイピストの立ち回らせ方などには妙味を感じる。盗聴器を使った演技にもクスリとさせられた。
ラストは割りとアッサリとしている。小品としてはこのくらいが丁度いいもかもしれない。というか、ここまで突き放してくれると逆に鮮烈な印象も覚えたりもする。戦争の悲惨さは十分伝わってきた。
香港版「キングコング」?
「北京原人の逆襲」(1977香港)
ジャンル特撮・ジャンルアクション
(あらすじ) ヒマラヤで体長15メートルの巨大な北京原人が目撃された。探検家チェンホンは興行師ルーに雇われて原人捕獲に出発する。野生動物の襲撃や断崖絶壁の崖に阻まれて旅は過酷を極めた。そして、ついにチェンホンは原人に遭遇する。そこに一人の美女が現れて‥。
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(レビュー) 一言で言えば香港版「キングコング」である。
ラウレンティスがリメイクした1976版の「キングコング」と、ストーリーはほぼ一緒である。ただ、色々とアレンジが加えられている。一番の違いはヒロインの設定にあろう。
今作のヒロインはチェンホンの危機を救うために颯爽と登場する金髪&ナイス・ボディの女ターザンである。皮のビキニを着て健康的なお色気を大胆に披露しており、何となく「恐竜100万年」(1966英)のR・ウェルチを髣髴とさせたりもする。演技はこの際置いておくとして、ビジュアルに関しては申し分ない。虎や豹といった肉食系動物と無邪気に戯れる所もポイントが高い。しかも、スタント無し!B級臭漂う彼女の存在が、本家と違うテイストにしている。
物語も古典的な「美女と野獣」の焼き直しであるが、奇をてらうことなく自然に構成されている。
ただ、序盤は話がかなり強引に展開されるので、呆気にとられてしまった。全てはアクションシーンを活かすためのストーリーという気がした。よく言えば潔い、悪く言えば適当である。
特撮シーンには有川貞昌、川北鉱一といった日本のスタッフが関わっている。香港の高層ビル群のミニチュアセットは見応えがあった。ハリウッド版に比べると明らかに予算は少ないだろうが、北京原人と女ターザンが辿る悲恋はこうした特撮シーンを交えて十分ドラマチックに盛り上げられている。