原作を無視したラストに衝撃!
「江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者」(1976日)
ジャンルサスペンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) 郷田はアパートの屋根裏から他人の部屋を覗くのが趣味だった。ある日、ふらりとやって来た高貴な貴婦人とピエロの恰好をした隣人の性交を目撃する。貴婦人は天井裏の郷田に気付くと更なる興奮に震えた。それを見た郷田も貴婦人の虜になっていく。ある日、郷田は抑えられない欲望を吐き出すために、自分もピエロの格好をして売春婦を買ってみた。しかし、どうしてもそれだけでは満たされなかった。その後、再び貴婦人とピエロの逢瀬を覗き見した。すると、恐るべき光景に出くわしてしまう。
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(レビュー) 江戸川乱歩の短編小説「屋根裏の散歩者」を映像化した作品。
この原作は何度か映像化されているが、本作が一番最初の作品ではないかと思う。尚、1994年に実相寺昭雄監督が映像化したものは見ているが、内容がかなり違うことに驚かされた。どちらかというと実相寺版の方が原作に忠実なのだろう。本作には乱歩の「人間椅子」のエピソードも追加されており、どちらかというと乱歩作品のコラージュのような作りになっている。
しかし、こうした複数のエピソードを詰め込んでしまったために、ドラマとしての統一感にはやや欠けるという気がした。郷田と貴婦人・美那子の愛憎ドラマ以外に、運転手の愛憎ドラマまで絡んできて何だかとっ散らかった印象を受ける。
もっとも、人間椅子のエピソードがあることで、見せ場としての面白さは実相寺版よりも工夫が凝らされている。また、美那子の倒錯した性癖をディープに掘り下げることにも奏功している。人間の欲望がいかに果てしなく恐ろしいものか‥ということはよく表現されていると思った。
欲を言えば、郷田の心理変化が形骸的なのでもう少し丁寧に描いてほしかったか‥。中盤で美那子に対して「あなたも僕と同じ種類の人間のようですね」と言い放つシーンがあるが、美那子の変態性を上から目線で語るこのセリフは一体どこから出たものなのだろう?彼女の危うい魅力に取りつかれたはずの彼が、いつの間にか彼女を超える変態になっていたことに「え?」という疑問を感じてしまった。
ところで、この映画は結末が凄いので、これを見るだけでも一見の価値があるかと思う。おそらく原作との一番違いはここだろう。これはちょっと予想できないオチだった。乱歩のデカダンな世界をかくもアナーキーにぶち壊してしまうとは‥。これがあることで本作はとんでもない怪作になってしまっている。
日本国に対する強烈なアジテーション。実相寺の魔術的映像も冴えわたっている。
「曼陀羅」(1971日)
ジャンルエロティック・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 海辺の小さなモーテルに二組のカップルが宿泊していた。彼らは互いの女を交換して愛し合った。その光景をホテルの支配人真木が隠しカメラで覗いていた。ひとしきり愛し合った後、片方の女由紀子は恋人信一と一緒に浜辺に出た。そこをモーテルの従業員達に襲われる。抵抗空しく信一の前で無残に犯される由紀子。それを見た信一は今までに感じたことのない快感に打ち震えた。後日、二人はその時の快感を忘れられず再び真木のモーテルを訪れる。一方その頃、もう片方の女康子は妊娠したことが分かる。恋人の祐に結婚を迫るが、彼はそれを拒否し‥。
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(レビュー) 二組のカップルがモーテルの支配人のユートピア思想に取り込まれていくエロティック・サスペンス。
モーテルの支配人真木が目指すユートピアは、はっきり言ってカルト宗教のごとき怪しさに満ちており、何とも胡散臭い。彼が目指すのは俗世からの解脱。すなわち、山奥に籠って畑を耕し自給自足の暮らしを送りながら、一般社会とは断絶した生活を送るというものである。閉鎖的なカルト教団にはありがちな思想と言えるが、この窮屈で不便な暮らしをここに登場する二組のカップルは受け入れていくようになる。
物語は寓話的なテイストで進行する。モーテルや閑散とした海、霊気が漂うような森等、非日常的な空間がこの物語をことさら幻想的に見せている。
しかし、当時の世相に照らし合わせて考えてみるとまた別の物も見えてくる。
いわゆる60年代のアメリカの若者たちのヒッピー文化には、自然回帰的な生活を求めるコミューンの形成があった。若者たちはそこでセックスとドラッグを共有し平和理想を掲げ、一般社会から離れたところに安住を求めた。当時の日本にもこうした文化があったことは確かで、フーテンの若者たちなどは正にその影響をモロに受けた人種だろう。本作の真木の思想もこれに似た共同体意識が伺える。つまり、ここで描かれる物語は時代の風刺としても捉えることが出来るのだ。
ただ、個人的には真木の思想にはどうしても共感できなかった。
社会との関わり合いを捨てて、自分たちの共同体の繁栄を望むのが目的だとするなら、これは明らかに浮世離れした〝理想主義かぶれ”の物言いそのものである。現実をきちんと見ていない。
映画は真木の哲学とそれを盲信する二組のカップルに迫りながら、それがさも正論のように描かれているが、絶対的な存在である真木の支配が個々の自由を束縛するという関係性がある以上、建前上はユートピア思想でも実際は強権支配のディストピア思想以外の何物でもない。
尚、二組のカップルはそれぞれに真木のこの思想の取り込まれ方に若干の違いが見られる。
まず、信一と由紀子は元来、性欲に忠実に生きる人々である。浜辺での強姦は真木が張り巡らした策謀であり、彼らはそれにまんまと引っ掛かり快楽に溺れていくようになる。真木は元々が異常な性的倒錯者で、常に欲望に忠実に生きよと命じている。二人はその言葉に従順に従っていく。
一方の祐と康子は別に性欲の権化ではない。最初は真木の言葉に否定的な意見を持つ。
しかしながら、祐はかなりのモラトリアムで、大学にも行かず学生運動に形だけ参加しながら、ただ何となく未来に対する絶望的なビジョンを抱いている。康子に対する冷たい仕打ちも、子供など欲しくないというセリフも、いかにもこの手のモラトリアム青年にありがちな捨て鉢な言動だ。彼は現実の世界に何の未練もないのである。そこに真木のつけ入るすきがあった。やがて祐は、信一たちに遅れを取る格好で、現実を捨てて真木のユートピア思想に同調していくようになる。
そして、康子については他の3人とは異なり徹底して真木の誘惑に抵抗していく。そこがこのドラマのポイントとなっている。
映画はクライマックスで"ある事件″が起こり、それによって一旦同調したはずの祐と真木が再び対立することになる。ここは興味深く見れた。
真木が見る未来は常に明るく希望に満ちたものであるのに対して、祐は先述の通り社会を徹底したネガティヴ・シンキングで捉えている。真木の思考との違いは、真木の代弁役とも言うべき信一との対話で描かれるのだが、どちらの求める社会がより高次なものと言えるのか‥見る側に考えさせるような問いかけになっている。
これを判断するのは中々難しいだろう。個人的には真木の思想にかすかに救いが残されている分、まだ理解できるような気がするのだが、それも建前となると単なるロマンチストの意見だ‥という風になってしまう。
ただ、映画は真木が辿る運命に大きな敗北を、祐が辿る運命に勝利とも敗北とも言えない結末を用意している。これを見ると、もしかしたら答えが出ないところにこの映画のメッセージが隠されているのではないか‥という気もした。つまり、混沌とした日本社会の未来に対する警鐘。それ自体をこの映画は語りたかったのではないか‥ということである。何とも煮え切らないラストであるが、同時に深く考えさせられたりもした。
監督は実相寺昭雄。独特のハイライト効果とクローズアップで真木や祐の狂気を不敵に切り取りながら、作品に息詰まるような緊張感をもたらしている。序盤の浜辺のシーンのスピーディーなカメラワークの迫力等、映像の数々に対する偏執的なこだわりは、いかにも実相寺らしい。また、今回はショッキングな効果音が各所を不気味に盛りあげていて、効果音の演出も印象に残った。
悲運のヒロイン康子役を演じた桜井浩子の大胆な脱ぎっぷりも見応えがあった。「ウルトラマン」のフジ隊員の濃厚なセックスやSMプレイにちょっとした秘宝感が味わえた。
この浮遊感に身を委ねてしまいたくなる。実相寺の映像感性がいかんなく発揮された怪作。
「あさき夢みし」(1974日)
ジャンルロマンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) 13世紀後半、御所は帝位を弟に譲り、院で隠者生活を送っていた。そこには彼が最も寵愛する四条という娘がいた。彼女は幼少時にここに預けられてきたが、様々な男達によって愛欲の対象とされてきた女である。時には身篭った子供を秘密裏に処分させられることもあった。そんな彼女に御所の腹違いの弟、真言密教の高僧、阿闍梨が惹かれていく。二人は禁断の愛欲に溺れていくのだが‥。
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(レビュー) 次々と男達と体を重ね合わせる悲劇のヒロインを、スタイリッシュな映像で綴った宮廷ドラマ。
監督はラジカルな映像で見る者を独特の世界観に引き込むことで知られる実相寺昭雄。強烈な照明効果とシャープな構図、夢と現の境界を取っ払った摩訶不思議な語り口が、流石に実相寺と思わせてくれる。
しかし、ドラマの方は一本調子でやや物足りない。四条の肉体を次々と男達が通り過ぎていく‥という物語は、本来ドラマチックであって然るべきだが、ひたすら彼女の心理を淡々と述べるのみで単調である。彼女を抱え込む御所の心情や、愛欲と信仰の狭間で揺れ動く阿闍梨の葛藤、このあたりを複雑に絡める事で、この単調さは解消されたろうが、どうもそのあたりの事は実相寺と脚本家の眼中には無いらしい。したがって、落ちぶれていく四条の姿が、単なる〝独りよがりな悲劇”にしか見えてこず、そこに憐憫の情は余り湧いてこない。語りの視野の狭さが原因だろう。
しかし、そうは言っても、やはり本作の魅力は実相寺が作り出す映像世界にある。
虚無感を漂わせた四条の艶姿は、独特の浮遊感をもたらしており、見ているこちらまでまるで夢でも見ているような、そんな錯覚に襲われてしまう。実相寺自身もそこが一番描きたかった所なのだろう。タイトルの「あさき夢みし」からもその意志は伺える。
四条を演じたジャネット八田は演技云々と言う以前に、この役自体がもはや性具という扱いなので、極端な言い方をすれば下手な演技は不要。かえってマグロのように寝そべっていればそれだけで良い‥といった塩梅なので、演技についての評価はしようがない。
一方、阿闍梨を演じた岸田森の怨念のこもった熱演は目を引いた。本作は随所に濡れ場が登場してくる作品なので、演者の体を張った演技も重要になってくる。そういう意味でも、岸田の熱演は評価したい。
設定の上手さは目を引くが、突っ込みどころ満載なバカ映画である。
「ゾンビ特急“地獄”行」(1972スペイン英)
ジャンルホラー
(あらすじ) イギリス調査隊のサクストン教授は満州の氷山から古代ミイラを発見する。一行はそれをシベリア鉄道に乗せて持ち帰ることにした。ところが、途中でミイラが眠りから覚め、次々と乗客たちを襲い始めた。サクストンは列車に同乗していたウェルズ医師の協力を得ながらミイラを倒そうとするのだが‥。
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(レビュー) ゾンビ特急というタイトルに物申したい。というのも、ここに登場する怪物はゾンビと言えばゾンビだし、ゾンビじゃないと言えばゾンビじゃない。基本的にはミイラなのだ。何とも微妙な怪物である。しかも、後半でミイラの正体が判明するのだが、これが想像のはるか斜め上を行っていて呆気にとられるしかなかった。バカ映画として割り切った上で見る分には楽しめるが、一々理屈を考えていたら見れない作品であろう。
ただ、バカ映画とは言っても、作り手たちは決していい加減な気持ちで作っているわけではないということはよく分かる。少なくとも見る側を楽しませようという工夫はそれなりに凝らされていて、そこには好感が持てた。
まずは、列車という逃げ場のない極限的状況に魅力を感じた。そこで繰り広げられるワケあり人間達の衝突もサスペンスを上手く盛り上げており、中々の歯ごたえを感じさせる。但し、後半のコサックの登場はそれまでの緊密なサスペンスをぶち壊してしまっている。出来ることなら伏線をきちんと張って、その上で控えめに登場して欲しかった。
恐怖演出は今見ると朴訥とした感が否めないが、ミイラに襲われた者が白目を剥いて死ぬシーンは中々のビジュアル・ショックを持っている。疾走する列車とミイラの急襲シーンを重ねるカットバック演出も、常道であるが上手く恐怖を盛り上げていると思った。
尚、本作を見てH・ホークスが製作したSFホラーの古典「遊星よりの物体X」(1961米)を思い出した。本作のミイラと物体Xの設定にはかなりの共通点が見つかる。SF的な考証が甘い分こちらはバカっぽく見えてしまうが、ミイラ退治の原理は物体Xのそれと一緒だ。
キャストはC・リー、P・カッシングという2大怪奇映画の大御所が競演している。ファンなら垂涎ものだろう。また、T・サバラスも独特の風貌を活かして大立ち回りを見せている。本作では彼が一番おいしい役所かもしれない。
世にも珍しいゾンビアニメ。
「シティ・オブ・ザ・リビングデッド」(2006米)
ジャンルアニメ・ジャンルホラー・ジャンルコメディ
(あらすじ) 人類は寄生虫に脳を支配されほとんどがゾンビになってしまった。新しい靴を買うために足の不自由な老人がゾンビに埋め尽くされた町に出る。彼は次々と襲い掛かってくるゾンビと戦いながら靴を求めてさ迷い歩く。
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(レビュー) アメリカで製作されたゾンビアニメ。
実写ではお金がかかる残酷描写を、安い制作費で済むFLASHアニメでこれみよがしに垂れ流した作品。ゴア描写はかなりのものであるが、グロテスクというよりもどこかユーモラスに見れてしまう。やりすぎてギャグになってしまうというのは
「ブレインデッド」(1992ニュージーランド)と同じで、明らかに作り手側はブラック・コメディとして確信犯的にやっているのであろう。
ストーリーは中盤に急転直下な展開が用意されているが、それ以外は何とも平板でこれと言って引き付けるほどの物はなかった。殺戮描写を見せ場にするためにストーリーがあるようなもので極めて淡白である。また、主人公の老人以外に色々とサブキャラが登場してくるが、これらもほとんどメインのストーリーに絡んでこず、ひたすら間延びしたドラマが続く。
尚、殺戮シーンで特筆すべきは、老人の武器が歩行器という点である。彼はそれをぶん回してゾンビを殺しまくるのだが、このアイディアは中々奇抜で面白かった。しかも、この歩行器は老人の相棒としてちゃんと人間の言葉を喋るのだ。その会話も一々下品でしょーもないことこの上なし。
また、老人が何故新しい靴を買うことにこだわるのか?その理由も実に馬鹿馬鹿しい。新しい靴を履いて若い姉ちゃんをナンパしようという、ただそれだけなのである。爺さんこそ脳みそを寄生虫に食われてるんじゃないか‥と突っ込みを入れたくなってしまった。
はっきり言って絵はそれほど上手くないが、徹底したグロテスク表現に作り手のこだわりが感じられる。たとえるなら、漫☆画太郎の絵に似たグロさ、下品さと言えばいいだろうか。このテイストは好き嫌いがはっきりと分かれようが、同時に奇妙な魅力も感じさせる。
尚、、虫が大量に出てくるので虫嫌いな人は見る前にご注意を‥というか見ない方がいいと思う。
いよいよ完結‥なのだが。
「東のエデン 劇場版ⅡParadaise Lost」{2009日)
ジャンルアニメ・ジャンルサスペンス・ジャンルSF・ジャンルロマンス
(あらすじ) ニューヨークで再会を果たした咲と滝沢が日本に戻ってきた。セレソン・ゲームの真っ只中、滝沢の経歴は首相の私生児に書き換えられていた。それによって、彼はマスコミから批判を受けるようになる。一方、その頃セレソン№1はゲームに決着をつけるべく強硬な手段に出ていた。
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(レビュー) TVアニメシリーズ「東のエデン」の劇場版完結編の後編。
これまでの謎が次々と解明されながら、滝沢と咲の関係、セレソン・ゲームの結末が描かれている。
これまでの悶々としていたものが一気に解消されるが、話の方はやや強引に展開されている。
たとえば、滝沢の記憶の回復、彼の母親の捜索過程、細かなところではトラックやサークル室の地下のクダリ等々、挙げれば切りがない。前作にも強引な箇所はあったが、ここまで大っぴらにやられてしまうとさすがにドラマには入り込みづらくなってしまう。そもそも、姿を見せないまま終わってしまうセレソンもいるわけで(ドラマCDには登場するようだが)、重要な設定をすべて消化しきれていない時点で、本作は不完全な完結編と言わざるを得ないだろう。
ただ、本作の魅力は前作同様、現代の日本が抱える問題に果敢に切り込んだ制作サイドの創作姿勢にあることは間違いない。これについては、見る側としても色々と考えさせれるものがあった
ついにゲームの首謀者であるミスター・アウトサイドが登場してくるのだが、彼が何故このゲームを始めたのか?その理由が明らかにされる。そこには日本が歩んできた近代史と関連付けながら憂国の情が明確に吐露されている。多少爺臭く聞こえるし、結果的に彼の道楽でありオナニーに過ぎないではないかという腹立たしさも湧き起こるが、危機感の薄い現代の日本人がどうやって希望を持てるようになるか?という問いかけは見ているこちら側によく伝わってきた。
所詮は娯楽アニメなのだからそこまで考える必要はないと言うかもしれないが、アウトサイドのこの問いかけは常に作品の重要なエッセンスとして底流していた。実際、彼のその問いに対して、あるセレソンはミサイルを使った自己自演による被災を演出し、あるセレソンは政治改革に挑んだわけである。莫大な私財を投げ打った大バクチという言い方もできるわけであるが、いずれにせよ彼はセレソンに世界の変革を望んだのだ。そして、アウトサイドのこの大胆なゲームはこの作品を見た人夫々に対する問いかけでもあろう。平坦な日常に埋没しながら思考停止に陥っていないか?成長変革の努力を怠っていないか?これは国にとっても、また個人にとっても重要なことであると気づかせてくれる。
それにしても、この「東のエデン」というタイトルも皮肉的である。果たして、エデン(理想郷)はどこに行けば見つかるのだろうか?
それに、東のエデンのサークルの面々は結局、滝沢に巻き込まれただけで損得を考えるとかなり浮かばれない。テクノロジーの最先端が一夜にして崩壊してしまうのだから、これまた理想と現実のギャップを突き付けられ皮肉的だ。
尚、今回最も印象に残ったキャラはパンツである。彼こそ正にニート代表のようなキャラで、その活躍場面は「機動警察パトレイバーthe Movie」(1989日)のHOSシステム騒動に似た興奮が感じられた。
ドラマ的には滝沢の母を巡る話が面白く見れた。最終的に彼の出生を巡っては如何様にも取れるようになっており、このドラマが基本的に咲目線で語られる恋愛ドラマ構造であることを考えると、ミステリアスな王子様のままでいさせたこの処理の仕方は洒脱が効いていると言える。
尚、エンドクレジットにひし美ゆり子の名前がクレジットされていた。どうやら彼女が経営するアジアンタイペイのお店が劇中に登場するのでその関係らしい。
設定の面白さに目を見張る。
「東のエデン 劇場版Ⅰ The King of Eden」(2009日)
ジャンルアニメ・ジャンルSF・ジャンルサスペンス・ジャンルロマンス
(あらすじ) 100億という大金がチャージされたノブレス携帯を渡され日本を救う使命を受けた11人のセレソン。その一人に選ばれた少年滝沢は、60発のミサイル攻撃から日本を守って姿を晦ましてしまった。それから半年後、行動を共にしていた女子大生咲は、滝沢が残したノブレス携帯を頼りに彼を探しにニューヨークへ飛ぶ。
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(レビュー) 2008年にTVシリーズとして作られたアニメ「東のエデン」の劇場版前編。
TVの続編にして完結編となる本作では、日本を救う役目を負った少年滝沢のその後のドラマが描かれている。過去のストーリーや設定などの説明は一切ないので、予めTV版を見た上で鑑賞した方がいいだろう。でないと、中々入り込むのは難しい作品だと思う。
前作の半年後からストーリーが始まっているが、事件が与えた社会的な影響、2万人のニートの動向、東のエデンの立ち上げといった所が、咲のナレーションで説明されている。尺の関係でこうするよりほかなかったのだろう。もう少し気の利いた説明の仕方はないものか‥と思ったが、まぁ仕方がない。只でさえ情報の密度が高い作品であるし、1クールのTVシリーズだけでは描ききれなかった事件、人物達がまだまだ多く残っている。キーワードとなるものはTVシリーズでほぼ出尽くした感はするが、まだ未消化な部分が多く、まずは直近の設定の説明から入ったのは賢明な選択に思えた。ただし、東のエデン・システムは物語の重要な意味を成す物なので、ナレーションで簡単に済ますのではなくもう少し具体的な説明があっても良かったような気がした。
本作の見所は何と言っても世界観の設定だと思う。
原作・監督・脚本は神山健治。彼の「攻殻機動隊S.A.C.」シリーズの緻密な世界観作りには大いに感心させられた口である。その肝要を成すのは現代社会を匂わすアイロニカルなテーマ選定だと思う。今作でも、テロ、ニート、ケータイ、日米問題といったものが確認でき、我々が住む現代の日本でも身近に感じられるガジェットが散りばめられている。キャラの造形や画面のポップさに目を奪われると、このあたりの問題提示の鋭さには中々気付かないかもしれない。しかし、個人的には本作の魅力はそこにあるように思う。
尚、今回ドラマ的に一番の面白く見れたのはセレソン№1の動向だった。まさかそれは禁じ手でしょ?というような意外な行動が面白かった。世界観のリアリティを追求すればするほど、中々はじけたアクションシーンを盛り込めなくなってしまうが、ドラマを破綻させることなく上手くエンタメ的なカタルシスを引き出している。
一方で、情報量の多いドラマを展開させなければならないため、性急に映る場面も幾つかあった。色々と腑に落ちない箇所があり、そこには明らかにドラマを進めなければならないという作り手側のジレンマが伺える。
たとえば、咲と滝沢の再会はドラマチックというよりも強引過ぎるという思いの方が先に立ってしまった。偶然として片づけるにはあまりにも安易で引っ掛かりを覚えてしまう。
ユダヤ人迫害の映画だが、俗物なユダヤ人と善良なユダヤ人。二つの人間を登場させたところに面白さを感じる。
「ヒトラーの贋札」(2007独オーストリア)
ジャンルサスペンス・ジャンル戦争
(あらすじ) 1930年代、べルリンで偽札作りをしていたユダヤ人サリーは、警察に目をつけられ逮捕される。強制収容所に送られた彼はそこで暫く肖像画の絵師になるが、5年後サクセンハウゼン強制収容所に移送された。そこで彼を待っていたのは、かつて自分を逮捕したヘルツォークだった。彼の下でサリーは偽ポンド紙幣作りに加担させられる。
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(レビュー) ナチスの偽札作り、いわゆる「ベルンハルト作戦」に加担させられた男の物語。
本作もユダヤ人迫害の悲劇を描いた映画の1本と言えるだろう。ただ、主人公サリーは元々は偽札作りのプロで、言わば犯罪者という設定になっている。<ナチス>=<悪>との対比で<ユダヤ人>=<善>として描かれることの多いこの手の映画にあって、こういう造形をした主人公は珍しい。
実際、彼はナチスの将校の顔色を伺いながら、他の囚人を蹴落としてでも生き延びようと悪あがきを始める。そして、ついにヒトラーの偽札作りの協力者にまで落ちぶれていく。そのおかげで彼は他の囚人達よりも優遇される立場になる。ナチスの肩を持つサリーは明らかに従来のユダヤ人迫害映画では見られなかったタイプの主人公である。そこに新味が感じられた。
しかし、そんな彼でもやはり周囲の仲間が酷い仕打ちにあうのを目にすると、徐々に心が揺らいでしまう。多くの仲間が死んでいく中で自分だけが助かればそれでいいのか‥という疑問を持ち始める。映画は後半からこの葛藤をじっくりと描いていくようになる。
サリーのこの葛藤を萌芽させるキーマンとして、中盤からブルガーという囚人が登場してくる。彼はサリーと違い徹底してナチスの支配に抵抗する勇気のある男である。実は、本作は実話を元にしており、その原作を書いたのがこのブルガーなる人物だそうである。それを知ってしまうと、何となくブルガーが正義の人に偏りすぎな感じもするが、果たしてそこは原作者としての恣意が働いているのかどうか‥?
それはともかく、彼の抵抗運動がナチスに加担するサリーの葛藤をかき乱していく重要な役回りを持っていることは間違いなく、後半の二人の衝突は実に見応えがあった。
尚、本作には幾つか細かなサブエピソードも挿話されている。擬似親子愛を描く元美大生コーリャのエピソードや、冷酷残忍なナチスの中にも様々な立場を取る者がいるということを表したヘルツォークのエピソード等がそうである。映画は約90分という短さなので、これらのサブエピソードが詰め込まれると少々窮屈な感じを受けてしまう。
コンパクトにまとめることを前提とするなら全体的な構成はもう少し考えた方がいいのではないだろうか。サブエピソードは流す程度に抑え、メインとなるサリーとブルガーの立場の違い、対立をもっと深く重点的に描いた方が、見る方としてもスッキリとするし作品の力強さがもっと出たように思う。
演出は手持ちカメラを多用したドキュメンタリー・タッチを取っている。映画を軽快に見せることに奏功しているが、逆に言うとこの演出のせいで本来持っているシリアスさを軽く見せてしまっているような箇所も目についた。このあたりは一長一短あるような気がした。
どうもこの監督は割と表層的にしか場面を描かない癖があるようで、これは肝心の結末についても言える。ユダヤ人迫害の悲劇を負の遺産として小奇麗にまとめ過ぎてしまっているような印象を受けた。ヘビーな題材の割にいささかインパクトに欠け、これでは鑑賞感も淡泊になってしまう。
歴史の舞台裏を照射した意欲的な作品であることは間違いないが、全体的に見て軽い演出やコンパクトな構成によって食い足りない作品になってしまった。
気軽に見れる社会派エンタテインメント。
「ロード・オブ・ウォー」(2005米)
ジャンル社会派・ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1983年、ニューヨークのリトル・オデッサ。ウクライナ移民一家であるユーリーは、父親のレストランを手伝いながら安穏とした暮らしを送っていた。ある日、ロシア・マフィアの抗争に出くわした彼は武器商人になる事を思い立つ。弟のヴィタリーと共に世界各地を巡りながら武器売買の事業を始めた。そんな二人をインターポールのバレンタイン刑事が追跡する。
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(レビュー) 闇の武器商人の成功と転落の人生を描いた社会派人間ドラマ。
本作は実話を元にしているという事である。
世界を見渡せば至る所で紛争が起き、人々は武器を持って殺し合いをしている。この憂うべき状況において、ユーリーのような私腹を肥やす武器商人が存在することは紛れもない事実なのだろう。映画がそこにスポットライトを当てようとした意義は買いたい。しかし、それだけに作品はもっと真摯に、ユーリーの存在について真実味を持たせるべきだったのではないだろうか。
本作は基本的にお気楽に見れるエンタテインメント・ムービーとして作られており、社会派的なテーマを強烈にアピールしたり、問題提起を掲げたりするような重厚な作品ではない。以前紹介した
「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」(2007米)に似ていて、社会派的なテイストとアクション、サスペンスの娯楽テイスト、その両方を合わせたような作りになっている。普通に楽しむ分にはそこそこ楽しめる映画になっているが、テーマを噛みしめたいというような人には物足りなく感じるだろう。ある程度割り切った上で見るべき作品だと思う。
その証拠に、まずこのオープニング・シーンから作品のテイストを窺い知ることが出来る。1発の弾丸が工場で生産され戦場で発射されるまでを、CGを駆使しながら1シーンで描いている。この冒頭のコミック・タッチな演出からして本作は深刻に見る映画ではなく、どちらかと言うと苦笑しながら見るシニカル・コメディなのだ‥という事が分かる。
また、映画はユーリーのモノローグによって進行する半生のドラマになっているが、そこから見えてくるのは、武器商人という悪辣なイメージではなくビジネスライクな普通の一人の男の姿である。このギャップが可笑しくもあり、怖くもあり‥。実際にはこうしたものなのかもしれないが、この信じられないような二重生活が、本来あるべき死の商人という非情なイメージを和らげてしまっている。つまり、余り実在感が感じられない。
更に言えば、劇中ではバレンタイン刑事という宿敵が現れてユーリーの前に立ちはだかるのだが、このスリリングな捕り物がかなり軽いタッチで描かれている。特にシオラレネでの一件は「そんなん、あるかい!」という突っ込みを入れたくなるようなオチだった。確かに痛快で面白く観れるのだが、リアリティには乏しい。
一方、本作にはユーリーの立場を追い詰める存在としてもう一人、弟のヴィタリーが登場してくる。こちらはかなりシリアスな運命を辿る。
彼はユーリーに誘われて一緒に事業を立ち上げるのだが、兄ほど図太い神経を持ち合わせてない。自分が売った武器で罪もない無抵抗な人々が殺されるのを見て彼は心を痛める。そして、事業から手を引いてユーリーと袂を分かつようになる。二人の関係を決定的に引き裂くクライマックスは、かなりエモーショナルに描かれていて見応えがあった。ここは本作で一番シリアスに見れる部分である。
ユーリーを演じるのはN・ケイジ。彼は製作も兼ねて本作にかなり意欲的に関わっている。常に苦渋を滲ませた演技はこれまで同様、特に新味は感じられない。シリアス、コメディ問わず少々張り切りすぎるきらいがあり、そこがこの人の欠点でもあり、俳優としてのキャラクター・チャームに繋がっているように思う。彼が暑苦しくシリアスを決め込むと笑えてしまうのは何故なのか…。今となっては某パチンコのCMが懐かしい…。
谷村美月の映画デビュー作。その初々しさに惹かれる。
「カナリア」(2004日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 多数の死傷者を出したテロ事件から数年後。事件を起こしたカルト教団ニルヴァーナは解体され、信者だった少年光一は児童相談所に預けられた。教団の幹部をしていた彼の母親は逃亡し行方をくらました。一方、一緒に入信した彼の妹は祖父に引き取られた。光一は妹を取り返すために施設を脱け出して祖父の住む東京へ向かう。その途中で光一は援交少女由希と出会う。彼女にも荒んだ家庭環境があった。そこから逃れるようにして二人は一緒に旅をすることになる。
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(レビュー) オウム真理教の地下鉄サリン事件をモチーフにした人間ドラマ。
地下鉄サリン事件が起きたのは、本作が公開された約10年前のことになる。事件を起したオウム教団は解体されたが、その後を受け継いだ団体が別の名前で今でも活動を続けている。当時の被害者の中には、この事件が大きなトラウマとして未だに記憶から拭い去る事が出来ない人も多いだろう。決してタイムリーなネタとは言えないが、映画はカルト教団の内部の恐怖を赤裸々に描いて見せている。それは過去の事件を忘れてはいけない‥という製作サイドのメッセージなのだと思う。
物語は教団のマインドコントロールに抵抗した少年の戦いを描く‥という割とストレートなものになっている。途中から援交少女由希が絡んでくることで、彼の戦い、つまり妹を取り戻すという旅は複雑に展開されていくようになる。
由希は父親のDVに苦しむ今時の少女である。光一の妹探しの手伝いをしながらこの旅に日常からの解放、安息を求めていくようになる。やがて互いに恋愛めいた感情も芽生えていくのだが、片やカルト教団の元信者、片や援交少女である。それぞれに荒んだバックボーンを抱える者同士、そう容易く甘ったるいロマンスに突入するはずがない。映画は絶妙のさじ加減で二人の距離感を描いており、この年頃の少年少女の純な心理を上手く掬い上げていると思った。
尚、この微妙な距離感が一気に縮まる事件が中盤で起こる。由希が旅費を稼ぐために援交オヤジの車に乗るのだが、それを光一が走って追いかけるというシーンである。いかにも青臭くて見ていて恥ずかしくなってくるのだが、こういうベタなものには素直にグッときてしまう。
映画は終盤に入ってくると、光一と祖父の対峙を通して、子供の大人への反発が語られる。「対大人」、「対社会」という構図は青春映画としては非常にオーソドックスなテーマと言えるが、そこを映画は光一や由希、子供たちの目線を通して真っ直ぐに描いている。青春映画らしい姿勢を最後まで崩さなかったところには好感が持てた。
尚、ここでひとつ面白いと思ったことがある。それは光一と由希、夫々の大人に対する認識の仕方が若干違うことである。
光一にとっての大人は祖父であり母親である。由希にとっての大人はDV父であり援交オヤヂだ。由希はドライブすればすぐにおこずかいをくれる相手‥という風に完全に舐めきった目線で大人たちを見ている。一方の光一は大人なんて信用できない‥という冷めた目線で見ている。この認識の違いは、彼らが辿ってきたこれまでの人生に深く関係しているだろうし、性格の違いからくるものなのかもしれない。ここではっきりと言えることは、不自由な環境で抑圧され続けてきた光一の方が、由希の大人を見る目よりもはるかに怨念が籠っているということだ。これが結構恐ろしかったりする。信者に抑圧的な教団は、つまるところ現代社会の延長線上にあるメタファーとも取れよう。我々が普通に暮らしている社会も、何となくギスギスした暮らしにくい社会になっていないだろうか。光一の尖った眼差しには、現代社会の子供たちの〝ささくれ立った”心理が投影されているようでギョッとするような怖さを覚えてしまう。
ただ、クライマックスについては少々奇をてらいすぎたかな‥という印象を持った。光一の超然とした変身に寓意性が備わり過ぎて、むしろ彼自身がカリスマ性を持った尊師たる存在ではないか、忌むべき大人の世界、偽善ぶった宗教世界への回帰に他ならないのではないか‥という突っ込みを入れたくなってしまった。これを子供たちのユートピアと解釈するなら、それはかなり強引だ。ここまで抽象的且つ神話的に締めくくられると、正直ついていけなくなってしまう。
シナリオにも幾つか不満が見つかる。まず、所々のセリフが舞台劇っぽくて生のセリフに聞こえてこなかったのが残念である。映像が割とナチュラル志向なのでセリフだけが浮いてしまう感じがした。
また、旅の途中で出会うレズビアン・カップルのエピソードがドラマを寸断してしまっている。子供を産めない母親失格者をダメな大人の代表として登場させ、光一たちの「対大人」というテーマの炙り出しにかかったのであろうが、その後このエピソードはそれほど光一たちのドラマに関係してこない。これを挿話するくらいであれば、由希の家庭環境を描くエピソードの方が、ダメな大人を描くという意味ではむしろ適していたのではないだろうか。彼女のバックストーリーに厚みを持たすことで、クライマックスの彼女の毅然とした態度にも説得力が増すと思う。
監督・脚本は塩田明彦。彼の作品は割と好きで見ているが、喜国雅彦の原作を映画化した「月光の囁き」(1999日)は中々スリリングな恋愛ドラマで面白かった。また、宮崎あおいが荒んだ少女を演じたビターな青春ドラマ「害虫」(2002日)も、ひたすら陰鬱としたドラマだったがこの年頃の病んだ心情を表現したという意味では興味深く見れた。他に、「黄泉がえり」(2002日)や「どろろ」(2007日)といったヒット作も手掛けている。このようにこの監督はインディーズとメジャーを器用に渡り歩く監督である。ただ、個人的にはこの人の作家性を活かせるのはインディーズの方が向いているのではないかという気がする。今作も正にインディーズ寄りな作品である。
また、塩田監督の作品には青春というキーワードが重要なものとして度々関わってくる。今回も正にそれを地で行くような作品であり、思春期の少年少女の心情を描かせると中々上手い監督であることを再認識させられた。今後もこういった系統の作品をどんどん作って行ってほしい。
キャストでは、由希を演じた谷村美月が魅力的だった。鑑賞は前後してしまったが、
「十三人の刺客」(2010日)「魍魎の匣」(2007日)等、最近の異形なビジュアルを先に見ている者としては、デビュー作である本作の初々しさが新鮮に映った。