名匠黒木和雄のデビュー作。支離滅裂な内容でお蔵入り寸前になった。
「とべない沈黙」(1966日)
ジャンルファンタジー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 夏の北海道。少年が九州以南にしか生息していないナガサキアゲハを採取する。周囲の大人たちにそれを話しても誰も信用しなかった。少年は仕方なく蝶を川に流した。一方、長崎で少女がナガサキアゲハの幼虫を見つける。幼虫は人づてに渡り、広島で原爆症に苦しむカップルを、京都で戦争体験で狂ってしまう男の姿を、大阪で孤独なサラリーマンの姿を目撃していく。
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(レビュー) ナガサキアゲハの幼虫が目撃する様々なエピソードを幻想的に綴った作品。
監督・共同脚本はこれが劇場長編デビュー作となる黒木和雄。余りにもアバンギャルドな内容から東宝でお蔵入りとなり、1年後にようやくATG作品として公開された曰くつきの作品である。以後、黒木はATGを活動の拠点とした。なるほど‥、加賀まり子や小沢昭一といったメジャーキャストを揃えているが、この内容ではお蔵入りになるのも分かるような気がする。余りにも支離滅裂な映画である。
物語は北海道に住む少年の話から始まる。彼はナガサキアゲハを捕まえるのだが、生物学的にそれはありえないと大人達に否定される。そこから物語は長崎に舞台を移し、ナガサキアゲハの幼虫とそれを拾った少女のドラマに切り替わる。少女と蝶は様々な愛憎関係を目撃しながら北上していく。広島の原爆、戦争後遺症等。このあたりには監督の反戦メッセージがよく現れていた。
ただ、前半はそれなりに面白く見れるのだが、香港マフィアが絡んできて以降の後半は、ドラマに求心力が無くなり崩壊してしまう。
映像については面白いものが幾つか見られた。ナガサキアゲハの幼虫を捉えたマクロ撮影、広島の平和祈念式典のゲリラ撮影、陰影を巧みに操った夜間撮影等、名手・鈴木達夫の撮影テクニックが存分に味わえる。
伝説の映画監督・長谷川和彦のデビュー作。
「青春の殺人者」(1976日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 青年・順は実家を飛び出して恋人ケイ子とスナックを経営している。仕事でどうしても車が必要になり、仕方なく親を頼って実家に戻った。しかし、両親は以前からケイ子との交際に反対してたので、順のその頼みは冷たく拒絶される。腹を立てた順は思い余って父を刺し殺した。そこに買い物から母が戻ってくる。血まみれで倒れる夫と包丁を手にした順を見て取り乱す母。彼女は順を逃がそうとするのだが‥。
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(レビュー) 父親を殺した青年の逃避行を鮮烈なタッチで描いた青春映画。
順は何をやっても中途半端なヤクザな青年である。何故そんな人間になってしまったのだろうか?映画を見ていくとそれが段々分かってくる。
一番の原因は親の育て方にあるのではないかと思った。特に母親の方に問題があるような気がした。
彼女は順が可愛く仕方がないのだろう。父を殺した彼に自首を勧めるのではなく、すぐに逃げろと言う。親心として分からないでもないが、客観的に見てこれだけの証拠を残してそう簡単に逃げ果せるはずがない。この母親は順に対して万事この調子なのだろう。つまり、責任を取らせてこなかったために、いつまでたっても成長できないイジけた青年になってしまったのだと思う。
現に、順は何も一人では決められない。自首する勇気も自殺する勇気もない。そして、唯一の理解者である恋人ケイ子の愛を受け入れる度量も持ち合わせていない。
映画はそんな彼のウジウジした姿を延々と綴っている。そして、彼が辿る顛末は実に印象的だった。
おそらく彼は永遠に社会から目を背けて逃げ続けるつもりなのだろう。何とも後ろ向きな青春映画だが、社会の綻び、家族の崩壊といった物の中に、永遠の青春を夢想する孤独な青年の姿が見事に浮き彫りにされていると思った。いつまでたっても前に進めない‥いや、進もうとしないピーターパン・シンドロームのような哀れさを見てしまう。
監督はこれがデビュー作となる長谷川和彦。クレジットを見ると分かるが、本作はATGに関わるスタッフが総力を挙げて作られたような作品である。
製作の今村昌平を筆頭に、企画・多賀祥介、脚本・田村孟、撮影・鈴木達夫、美術・木村威夫。実にそうそうたるメンバーがサポートしている。その甲斐あって長谷川和彦の名は次代を担う新鋭映画監督として大いに注目されるに至った。しかしながら、彼の演出力は次作「太陽を盗んだ男」(1979日)に比べると拙さが見られ、処女作ということを考量しても、水準の出来とは言い難い。彼ら第一線で活躍するスタッフ達のおかげで随分と救われているような部分も見受けられた。
しかし、だからと言って彼の才能が凡庸だと言う気はない。確かに不格好な演出は見られるのだが、洗練される一歩手前の奇妙な勢いというか荒削りな所に、また違った意味での魅力も感じられる。一定の範疇に収まらない野卑な魅力とでも言おうか‥。おそらくは、厳しい批評家たちからはそのあたりの所を評価されたのではないだろうか。尚、血の付いたシャツを車窓から投げ捨てる演出はクールで好きである。
尚、長谷川和彦は本作と「太陽を盗んだ男」以降、新作を撮っていない。それゆえ存命にして伝説の監督と言われるようになってしまった。裏を返せばそれだけこの2本は偉大すぎた‥ということなのだろう。
本作は親殺しというセンセーショナルな題材を扱っているので、実にシリアスなドラマになっている。しかし、時折見せる順の飄々とした表情がどこかブラック・コメディのように見せているところも中々面白い。これはひとえに順を演じた水谷豊の演技によるところが大きいと思う。若い頃の彼の演技は押しなべてこんなものだが、それが作品に何とも言えぬ独特のテイストを持ち込んでいる。
そして、何よりも母親を演じた市原悦子の怪演が凄すぎる。血まみれで倒れる夫を見たときのリアクションからして、何だかかなりヤバいスイッチが入ってしまっているのだが、彼女は終始この調子で修羅場と化した殺害現場で狂気の演技を見せていく。完全に常軌を逸した行動である。彼女の怪演がドラマ展開の読めなさ、次に何をしでかすか分からない怖さを生み、作品に恐ろしいほどの緊張感をもたらしている。
例えば、夫の死体に向かって、これから海に捨てるけどアンタ海好きよね?と真顔で話しかけるところなんて、かなり恐ろしかった。ほとんどホラー映画である。本来その演技を抑制すべきは監督の務めなのだが、それが出来なかったのか?あるいは敢えて意のままに演じさせたのか?ともかく、彼女のやりたい放題の演技がこの映画の最大の見所と言っていいだろう。
逆にヒロイン、ケイ子を演じた原田美枝子の演技は余り好きになれなかった。セリフは棒読みな上に、ヒステリックに「順ちゃん!」と連呼するのも耳障りなだけである。ケイ子は基本的に奔放な女性であるが、過去にヘビーなトラウマを抱えている。それを匂わすような深みのある演技を求めたかった。
映像は所々にセンスの良さが伺えた。これは監督のセンスとも言えるが、名手鈴木達夫のセンスもかなり反映されているような気がした。順の荒んだ心を象徴するオープニングシーンに始まり、呆然と順とケイ子が肩を寄せ合うクライマックスに至るまで、基本的にはドライなタッチが横溢している。
妄想青年の恋愛ドラマ。映像がユニーク!
「恋愛睡眠のすすめ」(2006仏)
ジャンルロマンス・ジャンルファンタジー・ジャンルコメディ
(あらすじ) カレンダーのイラストを描いている純情青年ステファンは一緒に暮らしていた父が死に、母が住むパリのアパートへ引っ越してきた。そこで新しい広告会社に勤める。しかし、自分が想像していた仕事と違う仕事をさせられ、ストレスが積み重なり元々の妄想癖をどんどん悪化させていった。そんなある日、隣にステファニーという女性が引っ越してくる。ステファンは彼女に一目惚れするのだが‥。
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(レビュー) 妄想癖のある純情青年の初恋を幻想的なタッチで描いたロマコメ作品。
監督・脚本は数々の有名アーティストのミュージック・クリップを撮り、「マルコヴィッチの穴」(1999米)の脚本家C・カウフマンに見初められて映画界入りを果たしたM・ゴンドリー。カウフマンがシナリオを書いた「ヒューマンネイチュア」(2001仏米}や「エターナル・サンシャイン」(2004米)で独特の映像世界を見せてくれた気鋭の作家であるが、今回は彼が初めて自ら脚本を書いた作品となる。映像センスについては誰もが認める所であろうが、果たしてシナリオ・センスの方はどうだろうか?そこを今回の見所にした。
一言で言ってしまうと、ゴンドリーの映像先行的なスタイルがドラマにもよく反映されていると思った。カウフマンの世界観に近い現実と幻想が入り混じった不思議なテイストで進行するが、これまでの作品以上に映像の先鋭化がはかられている。脚本を兼務することで自分の考えたギミックをふんだんに詰め込むことが出来たのだろう。
その証拠に随所に登場するステファンの妄想世界はシュールでポップでかなり面白い。しかも、全てがアナクロニズムに溢れる遊び心が感じられる。たとえば段ボールで作られた街並み、自動車、ビデオカメラ等は、この世界をまるでおもちゃの世界のように見せている。これらは取りも直さずステファンの幼児性を表現した確信犯的仕掛けだが、こうしたギミックが今回のシナリオには巧みに組み込まれている。
また、デジタル全盛の時代に、敢えてコマ撮りや逆回転の撮影トリックを取り入れたのも面白い試みに思えた。いずれもほのぼのとした味わいが感じられた。
全体的にゴンドリーが作り出す摩訶不思議な映像世界は大いに楽しめた。
一方、ドラマのエッセンスは典型的なボーイ・ミーツ・ガール物になっている。ステファンはステファニーと良い線までいくが、肝心な所であと一歩を踏み出すことが出来ない。そして、妄想の世界に引きこもってしまう。面白いのはそのフラストレーションが溜まれば溜まるほど、彼が見る妄想世界がどんどん荒唐無稽なものになっていくことだ。恋は病‥とはよく言ったもので、まさに彼は恋の病を風邪のようにこじらせていく。いつまでもウジウジしているので決して共感を得られるタイプの主人公ではないが、妄想型人間の〝癖”というものが上手く表現されている。
ラストはおそらく賛否あろう。観客に対して冷たく突き放すような終わり方じゃないか‥と言われれば確かにそうなのだが、ここまで描けば大体は想像できると思う。ステファンの生活は元々は父と暮らしたメキシコにあったわけで、そこに愛着があったことも明白である。彼にとってパリの暮らし、もっと言えばステファニーとの恋愛は夢の中の出来事のようなものだったに違いない。そうであるならこのラストショットは明確に答えを出している。現実は妄想のように上手くいかない‥。そんな教訓が読み取れるラストではないだろうか。
欲を言えば、相手のステファニーの感情描写が薄みだったことか。どうしても男の子目線の映画ということで、ややステロタイプなヒロインになってしまっている。彼女にも複雑なキャラクターを織り込むことで、このあたりの物足りなさは解消できただろう。
他にもシナリオ上の不満点は幾つかある。
まず、サブキャラの役回りが中途半端になってしまったのが残念だった。ステファンが勤める会社の同僚たちは夫々に個性的に造形されているが、彼らがステファニーとの恋愛に何か影響を及ぼすわけではない。余り存在価値が見いだせず、勿体ない料理のされ方になってしまっている。
勿体ないと言えば、ステファンと母親の関係を疎かにしてしまったのも手落ちと言わざるを得ないだろう。ここにこそ彼が現実を直視できない妄想型人間になってしまった、そもそもの原因があるような気がする。ステファンの人となりを詳細にする上では必要不可欠な部分だったのではないだろうか。
全体的にシナリオについては、キャラクターの相関が上手く図られていないという印象を受けた。映像を見せるためのシナリオに特化してしまったことによる弊害だろう。映像派作家としてのジレンマが見えてくる。
ステファン役はG・ガルシア・ベルナル。ナイーブで少し病的な青年を上手く演じている。
ステファニー役はS・ゲンズブール。ここまで激ヤセしてしまうと何だか女性としての魅力が余り感じられない。スリムを美徳とする風潮は結構だが、やはり女性らしいプロポーションというものはあるだろう。
「アンチクライスト」(2009デンマーク独仏スウェーデン伊ポーランド)のようなホラー演技なら迫力や痛々しさが増してそれでも良いと思うが、今回のようなロマコメではマイナスポイントになりかねない。
結婚って何?その意味をユーモラスに紡いだプチ大河ドラマ。
「あゝ結婚」(1964伊)
ジャンルロマンス
(あらすじ) ナポリの実業家ドメニコは、内縁の妻フィルメーナが病に倒れたという報を聞き駆けつける。瀕死の彼女は早く神父を呼ぶようにドメニコに頼んだ。二人の関係は20年前に遡る-----第二次世界大戦時、若きドメニコは娼館で17歳のフィルメーナに出会い寵愛する。それから2年後、商売を成功させたドメニコは偶然彼女に再会する。二人は客と娼婦という関係を超えて同棲を始め、結婚も時間の問題かと思われた。しかし、ドメニコは仕事にかこつけて家庭を持ちたがらなかった。フィルメーナは正式な夫婦になりたいと願うのだが‥。
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(レビュー) 一組のカップルの20年に渡る大恋愛を軽妙に綴った作品。
物語はドメニコとフィルメーナの回想で出会い、別れ、再会、同棲等が綴られていく。フィルメーナは貧困から娼婦に身を落とした可愛そうな女で、人並みの幸せを‥と結婚に憧れる。ところが、ドメニコは仕事にかこつけてよそに愛人を作って自由気ままに生きたいと思っている。映画冒頭に象徴されているように、二人は結婚する?しない?を巡って20年間も争い続けているのだ。
こう書くと犬も食わない夫婦喧嘩のようなものに思えるだろう。まぁ確かにそのとおりなのだが、彼らは20年もの長きにわたり結婚でもめているのである。これほどバカげたコメディもそうそうないと思う。結婚観の違いを突き詰めた所に、他のお気楽ロメコメとは一線を画す大胆な可笑しさが感じられた。
また、コメディとはいえ笑いの裏側を読み解けば、男女のエゴが実に深刻に投影されており中々の歯ごたえが感じられる。
言わずもがなであるが、方々に愛人を作るドメニコは非難されるべきであろう。そういう考えから、フィルメーナはやむなく病気騒動を起こしたり、ある“重要な嘘”をつくわけだが、これは彼に対する最終手段であり、女の〝したたかさ”の表明でもある。
浮気する方も悪いし、裏切り行為をする方も悪い。この場合どっちもどっちという感じもするが、個人的にはやはり浮気をされるフィルメーナの方に同情してしまう。
映画は最後に夫々の結婚観に一定の答えを出してオチとしている。男性から見たらこの結末はかなりシビアに感じられるだろう。これもまた現実‥そんな風に受け止められるのではないだろうか。この答えは一定の説得性と普遍性を持つに至っている。
監督はV・デ・シーカ。コメディとシリアスが混在するタッチは、この人の作品の大きな特徴である。例えば、二人の馴れ初めは正に悲喜劇の絶妙なバランスの上で成り立っている。また、空き家のエピソードにはとぼけたユーモアが感じられ、何だか微笑ましく見れた。物事の因果に喜劇と悲劇を配した演出が豊饒な味わいをもたらしている。
また、後半のフィルメーナにまつわる秘密には、人情派作家デ・シーカの面目躍如が感じられた。ここには前半のドラマをひっくり返す“どんでん返し”的な効果が隠されており、その後の展開が1ステップ上の段階で転がっていくようになる。物語の推進力も増し、周到に構成されている所に唸らされた。
煮え切らない関係を上手く演じたS・ローレン、M・マストロヤンニの魅力も今作には欠かせない。特に、少女から母親の変遷を違和感なく演じきったS・ローレンの演技は見事である。
尚、個人的には100リラをマストロヤンニに投げつけるシーンの捨て台詞が大変気に入った。この100リラには二人の関係を決定付ける重要な意味合いが持たされている。今作はこうしたアイテムの使い方も上手かった。
家族愛というテーマは分かるが印象度の弱さが欠点か。
「ウホッホ探検隊」(1986日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 榎本家に単身赴任中の父和也が休暇で帰ってきた。妻登紀子と二人の子供達と楽しい一時を過ごしたその夜、和也は衝撃の告白をする。不倫しているので離婚してほしい、相手の女と会って話し合いをしてほしい言うのである。記者の仕事をしながら子供達の面倒を見てきた自分の立場は‥。怒りと悲しみに震える登紀子。仕事のストレスも重なり、彼女は徐々に自分の人生に疑問を持ち始めるようになる。
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(レビュー) 中年夫婦の離婚の危機をコミカルに描いた作品。
旦那の不倫を知った妻の葛藤は取り立てて新味は無いし、子役の芝居がかった演技も所々で鼻につき、どうにも興味が削がれる。全体的にかなり緩いテイストが貫かれていことも関心を削ぐ原因だ。観客が入り込みやすくしようとしているのは分かるが、果たしてこういう作り方でどこまで問題の核心に触れることが出来るのか?甚だ疑問である。
ドラマの軸を成すのは登紀子の迷いになる。この迷いは主に家庭と仕事夫々にわたって描かれており、更に家庭については夫婦と親子の関係に振り分ける事が出来る。これらを上手く絡めていければ彼女の葛藤は相乗効果的に盛り上げることが出来ただろうが、いかんせん先述の通りかなり緩く作られているため、いたずらにストーリーを散漫にしてしまっている。全体を完全にコメディ寄りに振るのか?あるいはシリアスに振るのか?そこが徹底していないように思う。その結果、何だかぼんやりとした印象しか残らない作品になってしまった。
例えば、シリアス色を強めるなら、登紀子の葛藤を乱すべくキーマンが二人登場してくるので、彼らとの関係に重点を置いて描けばよかろう。一人は彼女が仕事で知り合う人気野球選手。もう一人は尊大で嫌味なロック歌手。登紀子は彼らと親密になりかける。しかし、この映画はその辺りに必要以上に踏み込まない。実に表層的にしか描かないのだ。これでは、ストーリーに推進力は生まれない。不倫の危機に晒される夫婦の問題について真面目に取り組もうという気も感じられない。
監督は根岸吉太郎。堅実な演出を信条とする監督で、ストーリーの緩慢さとは別に映画の作りとしては安心し見ることが出来る。ただ、1箇所だけ奇をてらった演出があり、そこについては非常に違和感をおぼえた。登紀子の息子の主観で描くシーンである。ここだけは妙に浮いている。
脚本は森田芳光。これは原作にあるのか?彼のオリジナルなのか分からないが、会話のキャッチボールの上手さは所々に見つかった。夫婦間、親子間の日常会話は、それだけ聞いていると何気ないもので、うっかりするとスルーしてしまいそうになるが、中々奥深いセリフが見つかる。
例えば、不倫を切り出す和也の「当たり前に話し合えないからじゃないか」というセリフから、この夫婦がいかに長年目を見てちゃんと話しあっていないかがよく分かる。生々しいセリフに聞こえた。
また、両親の離婚問題を達観した眼差しで捉えながらクールな言動に徹する長男のキャラクターも面白い。母に「我慢せず好きなようにすればいい」と励ます所、父の愛人に堂々と会いに行く所などは、大人顔負けの言動である。父が長年不在である生活環境が彼を早熟な少年にしたのかもしれない。
いずれにせよ、ストーリーの語り口には不満を感じたが、所々のセリフのチョイスについては卓越したセンスが感じられ、改めて森田芳光のライターとしての才気が伺える作品になっている。
大胆なタイトルであるが、空疎な現代人の心を表した面白い恋愛ドラマである。
「人のセックスを笑うな」(2007日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) ある朝、美大生の“みるめ”は途方に暮れていた酔っ払いの女を車に乗せる。失恋のショックでヤケ酒を飲んだと言う女。その後、みるめは学校で彼女と再会する。彼女はユリという新任の非常勤講師だった。みるめとユリは次第に惹かれ合っていく。それをみるめに密かに想いを寄せる同級生えんは遠くからみつめていた。そんなある日、みるめはユリから結婚しているという事実を知らされる。
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(レビュー) 美大生と非常勤講師の不倫をオフビートに綴った恋愛ドラマ。
年上の女性教師に翻弄される少年という設定は、古今東西どこにでもあるものでさして目新しさはないが、本作の魅力はドラマ云々というよりも、もっと別なところにあるように思う。それはキャストの演技である。
本作は基本的に長回しが多用されている。カメラは固定されたアングルで全体の事象を遠くから捉えて行く。この撮影方法によってその場の臨場感が強調され独特の空間が形成され、そこで繰り広げられる演技もかなりナチュラルなものに見えてくる。
例えば、みるめとユリが学校の教室でいちゃつくシーン。青い血がどうのこうのと他愛も無いことを言いながら笑うシーンは、二人の演技が演技とは思えないほどに即興的なものに見えてくる。カットの切り替えしやカメラが接近すればどうしても演技っぽく見えてしまうところを、この映画はどこまでも一定の距離感で被写体を捉え続けるのだ。
また、みるめがユリのアトリエに招かれてヌードモデルを強要されるシーン。みるめが1枚1枚服を脱がされていく過程をカメラは1カット1シーンで描いている。ここは非常にスリリングだった。同様のスリリングさは、アトリエで二人が初めてキスをするシーンにも感じられた。
こうした俳優の素の表情を生々しく捉えたドキュメンタリータッチは、その場の空気をリアルなものとして浮かび上がらせる。次にどんな言葉が飛び出してくるのか?どんな行動に出るのか?という予想を喚起させ、一見するとダラダラと撮っているように見えるが、実は案外計算されているかもしれない。
かつて、アメリカン・インディーズの雄J・カサヴェテスが、妻J・ローランズを執拗なフェイス・アングルで捉えた「フェイシズ」(1968米)という作品があった。1ショットでローランズの狼狽ぶりを粘着的に追いかけながら、作品に息詰まるような興奮と高揚感をもたらした傑作だ。俳優のリアルな表情ほど作品にスリリングさをもたらすものはないと思う。「フェイシズ」はそれを証明して見せてくれるような作品だった。
本作はそれとは逆の引きの固定ショットで俳優の素の魅力を引き出している。しかし、やはり「フェイシズ」と同様の興奮、高揚感が感じられた。そういえばこの演出は相米慎二監督にも似たところがある。いずれにせよ、キャストの演技を演技っぽく見せない演出として、各所のロング・テイクは大変効果的にシーンを盛り上げていると思った。
ただ、全てのロング・テイクが成功しているか‥と言われれば、中には少し退屈してしまうような箇所もあった。シーンの中で起こる事象に余りにも動きがない、キャラクターの感情の機微が上手く表出していない。そういったシーンは、延々と流されても空疎なだけで余り面白くはない。正直、中には見ていて結構きついものもあった。比較するのも恐れ多いが、世界的巨匠テオ・アンゲロプロスが捉えるショットは一つ一つが完成度の高い“画”の連続である。そこまでのクオリティを求めるのは流石に酷と言うものだが、逆のことを言えば映画全体のリズムのことを考えた場合、思い切った緩急をつける工夫も必要だったのではないだろうか。
キャストではユリを演じた永作博美が好演している。どちらかと言うと童顔の女優だが、それとのギャップで見せる今回の悪女キャラは意外性があって面白く見れた。また、どこか愛らしさが入り混じることで、本来憎々しくなってもおかしくない役どころを軽やかに見せている所も良い。彼女の魅力だろう。
邦題は「電車男」のパロディだが内容は全然違う。主人公のダメっぷりが素晴らしい。
「バス男」(2004米)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 高校生のナポレオンは、引き篭もりの兄と祖母と冴えない日常を送っている。学校では虐められっ子で友達は一人もいない。ある日、家に同じクラスのデビーという地味な女の子が押し売りにやって来た。これがきっかけで彼女との交流が始まる。メキシコ人の転校生ペドロも加わり、ナポレオンの学園生活は少しだけ潤っていく。そんなある日、旅に出ていた祖母が怪我をして入院してしまう。彼女に頼まれて叔父が家にやって来た。ところが、この叔父は定職にも就かず未だに独身でいる困りもので、一獲千金を狙って兄と訪問販売の商売を始めると言い出す。
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(レビュー) 冴えない高校生ナポレオンの日常を淡々と綴ったオフビート・コメディ。
主要キャラは皆かなりクセがあり、全編に渡って垂れ流される脱力ギャグも含め、決してウェルメイドな青春コメディではない。どちらかというとちょっとだけ可笑しい、クスクスと笑えるといったタイプのコメディである。
この独特の笑いはW・アンダーソンの作品を連想させる。彼の出世作「天才マックスの世界」(1998米)や「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001米)あたりにかなり近いと感じた。例えば、俳優の正面と真横のショットを淡白に積み重ねるカメラワーク、いたずらに感情を表に出さない演技、微妙にずらした会話の“間”。これらはW・アンダーソン作品の大きな特徴であるが、本作の演出もそれと傾向が似ている。
あるいは、T・ツワイゴフ監督の「ゴーストワールド」(2001米)の作風にも似ているような気がした。これも独特の空気感を持ったオフ・ビートな青春コメディだったが、こうしたインディペンデント系の作家には共通して社会を斜に見るような傾向が見られる。それが棘のある作風に繋がっている。万人には受け入れられないかもしれないが、個人的には割と好きだったりする。
さて、今作の見所は何と言ってもナポレオンを演じたジョン・ヘダーの魅力。これに尽きると思う。彼は本作でデビューし、その後多くのコメディ映画で主役を張っていく。初主役でスターになったのだから実に幸運な男と言えよう。
本作では空気の抜けた喋り方、精気を失った目で、非モテ男子の屈折振りを、ひたすらネガティブに体現している。はっきり言ってこんな奴が現実にいたらイラつくというレベルではないし、関わりあいたくないと言うのが本音であるが、物語世界の中ではこのくらいアクが強いと不思議と魅力的に思えてくる。
逆に言えば、ヘダーのこの徹底したダメッぷりがお膳立てされているから、クライマックスの一発逆転劇にカタルシスを覚えるのだろう。何だかんだと言って、プロット自体はオーソドックスな青春寧画としてよくまとめられている。実に爽快だった。
ただし、その後のオチはさすがに強引である。エンディングのオマケも不要に思った。蛇足でしかない。
尚、ギャグシーンとしては、フライドポテトのネタと自転車のネタが一番笑えた。決して爆笑というわけではないが楽しいシーンになっている。
ちょっとブラック風味が入った爽やかな姉妹のドラマ。
「サンシャイン・クリーニング」(2008米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) シングルマザーのローズはハウス・クリーニングをしながら、高校時代に付き合ってた警察官マックと不倫をしている。彼女の妹ノラはバイトをしながら老いた父と暮らしている。ある日、ローズはマックから稼ぎの良い仕事があることを聞かされる。それは事件現場のハウス・クリーニングをする仕事だった。ローズは早速ノラを誘ってその仕事を始めることにした。ところが、現場は想像以上に過酷で‥。
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(レビュー) ダメ姉妹の奮闘をシニカルに描いたヒューマン・ドラマ。
いわゆるこれもルーザー再生ドラマと言っていいだろう。この手の作品で肝心なのは、いかにキャラクターに愛着を持たせることが出来るか‥である。その点で言えば、本作は水準以上の出来と言っていい。
姉ローズは小学生の息子を抱えるシングルマザーである。高校時代には学園のアイドルだったが、今やすっかり日陰の女に落ちぶれている。妹のノラはバイトを転々としながら実家に寄生している自立できない女性である。二人は共に仕事も家庭も持てず、何をやっても上手くいかないみじめな人生を送っている。
人生とはそう思うように上手くいかないものである。成功を夢見ても彼女等のように浮かばれない人生を送っている人が大半であろう。だからこそ、彼女らのもがき苦しむ姿をわが身に引き寄せて見ることができる。
物語はそんな彼女らに高収入の仕事の話が舞い込んでくることで展開されていく。それは殺人現場や自殺現場の後始末をするという、誰もやりたがらない仕事だ。
こう書くと実に悲惨な話に思えるが、嫌味の無い語り口が彼女たちの苦労をどこか屈託のないものに見せている。
冒頭の自殺シーンからして相当ショッキングだが、本作には所々にこうしたブラックなテイストは登場してくるものの、基本的には姉妹の成長と情愛を綴ったハートフルな作りになっており鑑賞感も割と爽やかである。
テーマの炙り出しもよく出来ていると思った。姉妹の絆を深めるものとして“ある過去”が用意されているのだが、それを乗り越えることで成長していく‥という過程が丁寧に描かれている。ロジカルに組み立てられたシナリオで実に見やすいし、オチにも納得できた。
また、キャラクターのコントラストを上手く利かせながら、物語は流麗に転がされている。いずれも似たり寄ったりのダメ姉妹であるが、ノラにいたっては孤児のように存在しており、そのキャラクター性は彼女の飼い猫にも象徴されている。彼女はローズに対するコンプレックスも持っていて、それによって姉妹の対立が随所にドラマチックに展開されている。
ただし、終盤にかけての展開は今ひとつ‟押し”が弱く感じられた。無線やテレビドラマといった伏線のあざとさが原因である。簡単に読めてしまうあたりがいただけない。伏線はもう少しさりげない形で登場させてほしい。
また、本作にはローズとノラの姉妹愛以外にもう一つ、父親とローズの息子の関係を追いかけるサブエピソードも用意されている。こちらについてはどこまで迫るかは難しいところだろう。シナリオの“遊び”としては中々面白いと思うが、本筋はあくまで姉妹愛の方であり、必要最小限に留めた方が良かったのではないかという気がした。全体のバランスからみても、ここまで踏み込んでしまうとかえって中途半端に写ってしまう。
主婦の反乱と善意の難しさ。
「彼女と彼」(1963日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ある夜、団地住まいの主婦直子は近所のバタヤ集落の火事で目が覚めた。翌朝、現場に行くと両親を亡くした盲目の少女を見つける。少女は集落に住む廃品回収をしている伊古奈という中年男に面倒を見て貰うことになった。その後、伊古奈は夫と大学時代の級友だったことが分かる。直子は何となく親近感がわき、次第に彼らと交友を育むようになった。そんなある日、部屋に伊古奈を上げた後に貴重品が紛失していることに気付いた。直子は彼が盗んだのではないかと疑うのだが‥。
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(レビュー) 中流家庭の主婦と貧しい男の交流を、周囲の人間の残酷さ、怖さを交えながら描いたシリアスな人間ドラマ。
直子は傍から見れば何不自由ない暮らしを送っている幸福な主婦に見える。しかし、表には見せないだけで、彼女は本当は様々な苦悩を抱えている。戦後間もないころに満州から引き上げられた過去、子供が中々出来ないという負い目。こうした苦しみを抱えながら生きているのだ。そして、その苦しみは伊古奈と盲目の少女との交流によって少しずづ癒されていく。
しかし、これが周囲に様々な波紋を呼ぶことになる。
夫は伊古奈とは旧知の仲であったが、自分の留守中に行き来する二人の関係を決して快く思わない。また、小奇麗な中流家庭の主婦とみすぼらしいバタヤ集落の中年男の交流に、周囲も不審の目を注ぐようになる。直子はこれら周囲の目を背に、伊古奈と少女にお茶やお菓子を振舞ったり、夫に仕事を紹介させたりして善意の限りを尽くしていく。
確かに彼女の慈愛に溢れた行動は実にあっぱれと言える。ただ、彼女の善意はこうも考えられる。平凡で退屈な主婦でいたくない、他人にとって何か特別な存在でありたい、こうした願いから善意を施しているのではないか‥という考え方である。悪く言えば自分という存在を証明したいがために彼らを利用した‥と取れなくもない。現に本作にはそれを匂わすようなエピソードが幾つか見られる。
例えば、直子は夫の口添えで伊古奈に職を世話しようとする。しかし、それは断られてしまう。伊古奈にしてみればかつての級友から仕事を貰うなど男としてのプライドが許さなかったのであろう。彼女は好意でしているつもりでも、彼にとっては施しでしかなく、自分を惨めにさせるだけの残酷な仕打ちでしかなかったのだ。相手の気持ちを考えない独りよがりな善意ほど恐ろしいものもはない。それは単に自己満足でしかないという典型的な例だ。
こう考えると、彼女の一連の行動は安易に尊い慈善行為、おおらかな母性としては割り切れなくなってくる。直子の善意の解釈を探っていくと色々と考えさせられる。
キャストでは直子を演じた左幸子の演技が素晴らしかった。堅実な演技もさることながら、今回は髪型を自在に変えながら当時の流行を敏感に取り入れている。夫を健気に支える”妻”としての顔、伊古奈との交流に見せる”女”として顔。二つの表情を絡ませながら複雑な女心を見事に体現している。
監督、脚本は羽仁進。
「初恋・地獄篇」(1968日)に比べたら随分とオーソドックスな演出であるが、所々にアングラ・テイストが見られる。例えば、夜の団地を捉えたクライマックス・シーンなどは、そこで起こる出来事が悲劇的であることを差し引いても、実に絶望的で恐ろしく感じられた。
ドラマの舞台は整然と立ち並ぶ巨大団地に限定されている。これも無機的で冷ややかで全体の不気味なトーンを静かに演出している。
前作
「教室の子供たち」(1954日)と併せて見るといいかもしれない。
「絵を描く子どもたち」(1956日)
ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 小学校の図画の授業風景を記録したドキュメンタリー作品。
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(レビュー) 監督は「教室の子供たち」(1954日)の羽仁進。
今回は絵を描く子供達の活き活きとした姿が記録されている。撮影手法は前作と同じく、子供達の目の前にカメラを置いて撮影された。
今回、演出で興味深かったのは子供達の描いた絵を部分的にカラーで表現している点だ。前作も今作もモノクロ映画であるが、そこだけはカラーになっている。図画の教師はそれを一つ一つ見ながら個々の心理状態を鋭く分析している。その子が家庭や学校でどんな状況にいるのか?今何を考えているのか?それを的確に指摘していくのだ。今回、子供たちが描いた絵を敢えてカラーで表現した意味はここにある。絵の色はその子の心理状態を正直に表しているのだ。
それにしても、出てくる絵の何と個性的なことか‥。十人十色、それぞれにタッチが異なる。この無限のイマジネーションは子供にしか出せないものであろう。大人では到底生み出せない無垢なアートである。