田原総一郎唯一の監督作品。アナーキーな青春ロードムービー。桃井かおりの映画初主演作でもある。
「あらかじめ失われた恋人たち」(1971日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 強盗を繰り返しながら宛もなく放浪する青年・哮が日本海の港町に辿り着いた。バスに乗り合わせた夫婦を襲って金を奪うと、その金で商店街で買い物をした。そこで欲求不満の主婦に強引に迫られ強姦未遂の罪で逮捕される。翌日、釈放された哮は新装開店の店先で全身に金粉を塗ってパフォーマンスをする若いカップルを見かける。気になって後を追いかけてみると、二人が聾唖者だったことを知る。哮は彼らと一緒に旅をすることになるのだが‥。
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(レビュー) 無目的に生きる青年・哮と聾唖のカップルの旅を描いた青春映画。
監督・脚本は清水邦夫と田原総一郎の共同。出演は石橋蓮司、桃井かおり、加納典明。一部に映画とは畑違いの顔ぶれが揃うが、作品自体はアナーキーな作りで中々面白く見れた。
まず、哮を演じた石橋蓮司のユーモラスな演技が良い。良くも悪くも彼のオーバーアクトが映画を一瞬たりとも飽きさせないものにしている。哮はノンポリのフーテンで誰にでも食って掛かる無鉄砲な青年である。そのおかげで彼の周囲には常にトラブルが絶えない。この自由人気質、怖いもの知らずなアウトロー然とした魅力に引き付けられる。アフロヘアーに付け髭、白ブリーフ一丁姿には笑えた。
一方、彼と一緒に旅をするのが、全身に金粉を塗ってパーフォーマンスをする聾唖の若いカップルである。こちらは桃井かおりと加納典明が演じている。彼等もまた哮と同様に、社会との間に大きな壁を作りながら放浪を続けるアウトロー達である。聾唖というハンデを抱える者同士、互いに深い愛で結ばれている。煩いくらいに喋る哮とは反対に、彼らは沈黙する者たちである。このキャラクターバランスもちょうどいい。
物語は3人のロードムービーで展開されていく。
男二人女一人という関係は、トリュフォーの「突然炎のごとく」(1961仏)然り、友情と恋愛が絡み合う絶妙なトライアングルが形成されている。哮は加納と友情で結ばれる一方で、桃井をいつかモノにしてやろうと虎視眈々と狙っている。そこに一触即発の不穏なエネルギー、スリリングさが生じる。そして、この三角関係が急転するのが前半のレイプシーンである。桃井が村の若衆に拉致されて強姦されるのだが、それをどうすることも出来なかった加納との間に愛が消えかけてしまう。そこに哮が割って入り3人の旅に徐々に暗雲が立ち込めていくようになる。
極めつけは後半の洗濯のシーンだろう。ここは加納に対する友情、桃井に対する恋情、二つに引き裂かれる哮の思いが切ないまでに吐露されている。果たして彼は二人が残していった洗濯物の残り香をどんな思いで嗅いだのだろうか‥。
ところで、哮が何故二人に惹かれていったのか?そこを考えてみるのも面白い。
映画前半、彼は強姦未遂の冤罪で留置所に入れられてしまう。翌朝すぐに釈放されると、その足で大通りに出て演説をぶちまける。一家水入らずな家庭などクソ食らえ、没個性にしてしまう社会など壊しちまえ!と熱弁を振るう。しかし、その叫びは通りの人々から無視される。後半のアメリカ軍の工場での熱弁も然り。哮は常に社会や家庭に対する疑念、反発を声高らかに叫ぶが、それらは尽く無視されるのだ。このことを考えれば、彼が聾唖者である二人と一緒にいるのも理解できる。耳の聞こえない彼等に対してなら、哮は何を訴えても情けない喪失感を味わうことはない。だから一緒に旅をしているのだ。
至る所で繰り広げられる哮の演説には、監督・脚本を務めた田原総一郎の思想がかなり反映されているような気がした。しかし、後で調べて分かったが、
wikiによれば撮影現場では田原はほとんど労を割いていなかったと書かれており、共同監督である清水も実際にはリハーサルを務めだけで、実質的には助監督がメガホンを取ったということである。おそらく脚本までは携わっていたのだろうが、実際の演出は彼がしてるかどうかは怪しい。その後、彼は映画を撮っていないわけで、演出は自分には無理だと考えたのだろう。
ただ、田原が多くのドキュメンタリー番組を手がけてきたディレクターであったことを考えると、彼の案が反映されているのではないか‥と思えるシーンは幾つかあるように思う。例えば、一般人をエキストラとして登場させてドラマとは無関係にインタビューをするシーンが何度か登場してくる。現実と虚構が混濁した不思議なテイストに何とも言えぬ面白さを感じたが、このあたりはもしかしたら彼が撮影したのかもしれない。
一方で、どうしても理解の範疇を超える演出も見られた。例えば、白ふんどし一丁の男たちの公開リンチ、パトカーの中でおもむろにカーセックスに興じるシーン、このあたりは単にふざけてやっているのか、何かのメッセージを込めてやっているのか?よく分からなかった。
映像は各所に魅力的なショットが見つかる。虚無的で開放感に満ちた無人の海を捉えた映像が頻繁に登場してくるが、これは社会から逃避し続ける3人の安住の地と称することも可能である。寓話的でドラマチックな雰囲気を醸していて良かった。
キャストでは先述の通り嬉々とした石橋の狂演が印象に残ったが、初主演となる桃井かおりの身体を張った演技も中々のインパクトを残す。左の乳首だけ陥没しているのは狙って撮っているのだろうか?身も蓋もない言い方になるが、実に下世話な見せ物である。加納典明は鋭い眼光に宿る欲情に見応えが感じられたが、セリフがない上に演技らしい演技もほとんどないため評価のしようがない。
田原総一郎の原作を名匠・黒木和雄が映像化した社会派サスペンス作品。福島原発のアポなし撮影が生々しい。
「原子力戦争 Lost Love」(1978日)
ジャンル社会派・ジャンルサスペンス
(あらすじ) やくざな男・坂田は失踪した恋人・望を追って、彼女の実家がある東北の港町にやってきた。望の実家は地元では有名な旧家で父と兄は町の権力者だった。醜聞を嫌った彼らに坂田は門前払いを食らう。その後、地元の新聞記者・野上と出会い、坂田は望が心中したと聞かされる。相手は原子力施設で働いていた技師だった。早速、坂田はその妻に会いに行くのだが‥。
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(レビュー) 恋人を探しにやってきた男が、原子力村の隠された秘密に迫っていく社会派サスペンス作品。
製作された当時は国も地方地自体も原発推進に邁進していたころであり、ここで描かれているような原発の危険性については、おそらく多くの人はそれほど身近なものとして受け止めていなかったのではないだろうか。今改めて見てみると当時の鈍感な空気感には驚かされる。しかし、そう思うのは3.11の事故があったからで、現実にはやはりこの映画が示すように原発神話を鵜呑みにする風潮は確実にあったのだと思う。
同時代に製作された作品と比較してみると、今作がいかに先見性を持った作品かが分かってくる。自作の原爆で日本中を恐怖に陥れた青年のアナーキーな青春を描いた「太陽を盗んだ男」(1979日)が製作されたのは翌年。その年にスリーマイル島原子力発電所の事故が起こり、それを予見するかのようにアメリカでは「チャイナ・シンドロ-ム」(1979米)が製作された。本作はそれに先駆けて作られた作品である。原発の恐ろしさをいち早く警鐘した問題作と言えよう。
監督は黒木和雄。後に〝戦争レクイエム三部作”を撮ることになるが、
「父と暮らせば」(2004日)で広島被爆を、
「TOMORROW 明日」(1988日)で長崎被爆の悲劇を描いている。晩年、戦争の無情を頑なに訴えかけた名匠のライフワークは、原発に対する恐怖を描いたここに始まるような気がする。
ただ、意欲作であることは認めるが、実際に見てみるとドラマ自体は精彩に欠く。基本的には、失踪した恋人を探す坂田が原発事故の隠ぺい工作に巻き込まれていく‥という社会派サスペンス劇になっているのだが、どう考えてもリアリティに欠く事象が多すぎて困惑させられる。
例えば、原子力施設の技師・山崎の妻は、普通に考えればこの隠ぺい工作の中心に存在する人物である。にも関わらず、平然と日常生活を営んでいられるのは何故か?また、原発労組の小林の顛末も、いかにも事件性を匂わす手の込んだ仕掛けでわざとらしく思えてしまった。現実にはもっと目立たない方法で仕掛けを張り巡らすのではないだろうか。
こうしたリアリティに欠く部分がドラマの説得力を失わせてしまっている。細かなところを無視したアクション先導型のエンタメ作品なら、ある程度の割り切りの上で見れるのだが、本作はそのサービスも乏しい。中途半端な見せ場で終わってしまっている。
原作は田原総一郎の同名小説である。どこまで脚色されているのか分からないが、彼の原発に対する問題提起は各所から見て取れた。特に、岡田英次扮する大学教授と佐藤慶扮する記者のやり取りから、彼の原発安全神話に対する批判がストレートに伝わってきた。
また、福島原発のアポなしゲリラ撮影は、本編そのものよりもずっとスリリングで面白く見れた。余りにも生々し過ぎて全体のトーンから完全に浮いてしまっているのだが、坂田を演じた原田芳雄が正面から堂々と突入していく無鉄砲さには、ある種ノンフィクションのようなピリピリとした緊迫感が感じられた。考えてみれば、原作者の田原総一郎は、かつて過激なドキュメンタリー映像を撮っていたディレクターだった。その精神が何となくこのシーンには反映されているような気がした。
しみじとくる父娘愛のドラマ。
「父と暮せば」(2004日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルファンタジー・ジャンル戦争
(あらすじ) 広島に原爆が投下されてから3年後。図書館に勤める美津江は、たった一人でひっそりと暮らしていた。ある日、図書館にやって来た青年・木下に原爆の資料を預かってもらえないかと相談される。二人は次第に惹かれあっていくのだが‥。
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(レビュー) 原爆で被爆した娘と彼女の恋を応援する父の交流を描いた感動作。
原作は井上ひさし。監督・脚本は黒木和雄。元々が舞台劇ということで本作も基本的には会話劇を中心とした作りになっている。黒木監督の端正なロングテイクと、美津江を演じた宮沢りえ、父を演じた原田芳雄の適確な演技がシンプルなストーリーを熱度の高いものにしている。やはりこういう会話劇は演者と演出がガッチリと噛み合うと見栄えがするものだ。
全編に渡って広島弁による会話劇だが、主演二人はそこも上手く使いこなせている。宮沢の方はしおらしい物言いで魅力的であるし、原田の方はコミカルと豪気のメリハリをつけながら見事な妙演を披露している。特に、原田の創作話のシーン、後半の宮沢が〝幸せになってはいけん”理由を述べるシーン。この二つは見応えがあった。
物語の方は父娘愛のドラマに反戦メッセージを組み込む体になっている。しかし、今回この組み合わせは少しちぐはぐな感じを受けた。というのも、このドラマは根本の部分でファンタジーの要素を持っているからである。そこでいくら原爆の悲惨さを訴えれても、やはり〝作られた物″感は拭えない。他の黒木作品と比べるとメロウすぎて今一つメッセージ性に説得力が欠けると思った。
ただ、この反戦メッセージという題目を必要以上に意識しなければ、父娘愛のドラマにはしみじみと来るものがある。夫々の心情が丁寧にトレースされているので感情移入もしやすい。また、この手のファンタジーではよく用いられる二人の間に立ちはだかる絶対的な障害。これも上手く物語をドラマチックに盛り上げていると思った。
たとえば、腕によりをかけた料理を食べてもらえない美津江の嘆き、原爆投下のエピソードを再現して見せるクライマックス。死生の狭間で交わされる二人の交流が、もう二度と会えないという残酷な現実をいやがうえにも意識させホロリとさせる。
一方、若干浮ついてしまった反戦メッセージだが、原爆の恐ろしさを物語るリアルな小道具と幾つかのセリフ。これらについては真摯に受け止められた。原爆瓦は資料的価値の高い小道具で、他にも幾つかそういった物が登場してくる。父の「頭の上に太陽が二つ輝いた」というセリフも生々しく聞こえた。
映画の世界観を支える美術、CGは今一つだった。木村威夫の美術はそれ単体で見れば魅力的かもしれないが、作品の向き不向きはある。先述の通り本作はファンタジーの要素を持っている。それを必要以上に意識したのか、戦後という暗い背景には今一つ不似合に思えた。
尚、本作は黒木和雄監督の戦争レイクイエム三部作の完結編となる。
「TOMORROW 明日」(1988日)は以前紹介したが、「美しい夏キリシマ」の方は未見なのでいずれ見てみたい。
濃い面子が魅せるクライマックスシーンは必見!
「浪人街 RONINGAI」(1990日)
ジャンルサスペンス・ジャンルアクション
(あらすじ) 江戸時代末期、場末の飲み屋に久しぶりに浪人・源内が帰ってきた。彼はそこで働くお新と寄りを戻そうとする。しかし、無銭飲食を巡って用心棒・赤牛と喧嘩になる。そこにもう一人の浪人・母衣が現れその場を制した。3人は意気投合し飲みなおした。その帰り道、赤牛は怪しげな旗本の一団を目撃する。翌朝、川で夜鷹の死体が発見された。赤牛は事件の匂いを嗅ぎ取った。一方、赤牛の家の隣には鳥屋を切り盛りする元武士の息子・孫左衛門と兄思いの妹・おぶんが慎ましく暮らしていた。孫左衛門は帰参を夢見ていたが、そのためには百両という大金が必要だった。不憫に思ったおぶんは村の豪商・伊勢屋の妾・お葉に相談しに行く。おぶんはそこであの旗本の一団を目撃する。
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(レビュー) 夜鷹斬り事件に巻き込まれる浪人たちの戦いを描いた時代劇。監修マキノ雅弘という名がクレジットされているが、本作は彼が1957年に撮った作品のリメイクである。尚、オリジナル版は未見である。
監督は黒木和雄。この監督の時代劇と言えば真っ先に
「竜馬暗殺」(1974日)が思い出される。今作もやはり快活でユーモアに富んだテイストが横溢し、作風は似ている。また、主演コンビ、原田芳雄と石橋蓮司が再び共演し、時代背景も同じ幕末ということで、どうしても比較してしまいたくなる。ただ、「竜馬暗殺」に比べるとこちらはかなり通俗的な時代劇になっている。カラーとモノクロの違いも関係しているかもしれないが、本作の方がいわゆるTV時代劇的な娯楽要素の強い作りになっている。
物語は序盤からかなりテンションが高い。3人の浪人は明確にキャラ付されながら登場し、対立から芽生える友情もスマートに作劇されている。更に、彼らに割って入るヒロイン・お新の存在感もしたたかにフィーチャーされ、実に上手く構成されていると思った。
ただし、その後に登場する孫左衛門、伊勢屋の話が出てくるあたりから、ストーリーの求心力はやや落ちてしまう。以降は暫く多種多様な人物達の日常を並行して追いかける群像劇のような作りになっていく。状況設定の説明がひたすら続くので見る側も根気強く見てあげないと辛いかもしれない。
そして、この群像劇の一方で映画は夜鷹斬り事件というサスペンスも描いていく。こちらは後半のストーリーの大きな肝になっていくので注意して見ておきたい。一体誰が犯人なのか?何のために?という謎を提示しながら展開されていく。
人間ドラマの方は、後半の飲み屋のシーンで本格的に動き出す。事件の真相を暴こうとお新とおぶんが動き、それに伴う形で源内と母衣が、更には孫左衛門の隠密行動が始まる。それまでバラバラだった人間ドラマがようやくここに来て夜鷹斬り事件という題目で一つの方向に向かい、そのままクライマックスに向けてボルテージが加速されていく。
全体の印象としては、導入部と後半の盛り上げ方は上手く作られていると思った。ただ、中盤が少しだれるのが残念である。エピソードが分散してしまいドラマの芯が見えにくくなってしまったことが原因である。中盤は個々の設定説明に時間を割くよりも、主要キャラと夜鷹斬り事件との関わりに重点を置いて描いた方が良かったのではないだろうか。
アクション的な見所は何と言っても、クライマックスのチャンバラシーンになろう。総勢120人の武士と対決する源内、母衣、赤牛の戦いは迫力があった。しかも、彼らは全員酔っ払ってこの戦いに挑んでいく。千鳥足で刀を振り回す源内、冷静さの中にも熱き武士魂を燃え盛らせる母衣、ヤクザにはヤクザなりのケジメのつけ方があると咆哮する赤牛。浪人という、ある意味社会からドロップアウトした者たちの戦いはどこか滑稽に映るが、同時に男には避けて通れぬ道があるのだ‥という心意気が感じられた。このクライマックス必見である。
ヤクザと刑事が入れ替わるシュールな怪作。
「日本の悪霊」(1970日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) ある田舎町に県警の落合刑事が地元ヤクザの抗争を鎮圧するためにやってきた。ところが、来て早々ある女に誘惑される。目を覚ますとそこには自分とうり二つの男がいた。彼は鬼頭組の助っ人として雇われた村瀬というヤクザだった。村瀬は落合に成りすまして警察の資料からある事件を調べていく。一方の落合は村瀬に成りすまして抗争を激化させていく。
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(レビュー) 同じ顔をした男が警察とヤクザに立場を変えて潜入する犯罪映画。佐藤慶が一人二役を怪演した幻想的な作品である。監督は黒木和雄。
いわゆるこれも入れ替わりコメディの系譜に入る作品と言っていいだろう。基本的にはシリアス・ベースのサスペンス作品であるが、同じ顔の男が警察とヤクザを行き来する所に、やはりどこかブラックなコミカルさが派生する。もっとも、それによって本来のシリアスさが損なわれるわけではない。このコミカルさが合わさることで一種異様な雰囲気を持った作品になっており、いかにも初期・黒木和雄的なシュールな世界観が構築されている。
まず、物語の語り口が面白いと思った。落合と村瀬、両者の視点を切り替えながら物語は展開されていく。この佐藤慶は一体どっちの佐藤慶だろうか?と思考を混濁させるような構成になっている。
たとえば冒頭は落合の視点で出発する。その後、村瀬の視点に切り替わり自分とそっくりな落合を見て驚く‥という風に撮られている。落合の視点だと思っていたら、いつの間にか村瀬の視点に切り替わっていた‥というように、見る側を混乱させるような作りになっているのだ。
その後も視点の交錯は繰り返されていく。ここまでくるともはや不合理極まりないカオス感まで感じられ、何となくD・リンチ的な作風も連想させられた。
もっとも、二人は全く同じ外見というわけではく一応差別化はされている。それぞれに黒と白のスーツを着ているので一見して判別可能である。したがって、よく見ていればどちらの佐藤慶なのかは分かる作りになっている。
映画は後半に入ってくると、それまで均等だった視座が徐々に村瀬の視座に偏っていくようになる。彼は警察の資料から過去の左翼系学生活動家の事件を調べ上げていく。これが本作のテーマとなっている。これにはなるほど‥と思わされた。
というのも、監督の黒木和雄は後に
「竜馬暗殺」(1974日)で、時代設定を江戸末期に移し替えて、当時の学生運動の終息を風刺しているからだ。それと今回の作品は根幹の部分で結びついているような気がした。
要するに村瀬がやりたかったことは過去の学生運動家たち、つまり〝日本の悪霊”の弔いなのだと思う。彼は活動家達の恨みを晴らそうとして落合に成り済まして隠密行動をしたわけである。そして、その顛末にはやはり「竜馬暗殺」に似た虚無感が感じられた。志半ばで散っていった活動家たちの怨念が虚しく響き渡って終幕する。
傍から見れば村瀬の切望は実に後ろ向きなものである。当時の学生運動はすでに風前の灯火で、彼がいくら孤軍奮闘してもそれによって世界が変るわけではないからだ。したがって、何となく未練がましくも感じられた。
佐藤慶は一人二役という難役を起用に演じ分け好演している。
しかし、それ以上にひときわ異彩を放つ人物がこの映画には二人登場してくる。いずれも特別出演というクレジットのされ方をしている。
一人は活動家のリーダーを演じた土方巽である。彼は知る人ぞ知る暗黒舞踏の創始者である。舞踏そのものを見たことはないが、彼は映画にも数本出演していて、石井輝男のカルト作「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」{1969日}では前衛的な舞踏を披露していた。その光景はいまだに強烈に印象に残っている。今回、土方が演じるのは村瀬のかつての盟友にして学生運動のリーダーである。正しく〝日本の悪霊”を体現するかのような異様な風体が強烈だった。
もう一人は、当時の人気フォークシンガー岡林信康である。こちらは初見であるが、そのインパクトたるや凄まじかった。彼は物語と関係なく度々登場しきて弾き語りをするのだが、そのパフォーマンスがとにかくパワフルで凄い。ある時は住宅街のど真ん中で、ある時は大草原で、自由奔放に己が主張を歌詞に乗せて歌い上げていく。特にラストの歌はかなり過激な内容で、本作で最も強烈な存在感を放っていたのは実は彼だった。
ヤクザを演じた北村一輝の怪演が印象に残る。
「皆月」(1999日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 冴えないサラリーマン諏訪は妻に全財産を持ち逃げされ意気消沈する。そんな彼を、妻の弟でヤクザをしているアキラが慰める。ある夜、アキラに連れて行かれた風俗店で諏訪は由美という女性に出会う。二人は急激に惹かれあい同棲を始めた。しかし、由美には多額の借金があった。諏訪とアキラはそのトラブルに巻き込まれていく。
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(レビュー) 妻に逃げられた冴えない男と不幸な風俗嬢の愛をオフビートに描いた人間ドラマ。
情けない寝取られ男・諏訪を奥田瑛二、借金苦で身体を売る悲しき風俗嬢・由美を吉本多香美、義兄思いの中途半端なヤクザ・アキラを北村一輝が演じている。夫々に好演しているが、何と言っても本作で一番印象に残るのは、サディスティックな暴力とセックスを披露する北村一輝の怪演だろう。この映画はこれに尽きると言っていい。それに比べると、ベッドシーンを激しく演じた吉本多香美はまだ頑張っている方だが、肩をすぼめて気弱そうに歩く奥田の演技はやや大仰に写ってしまい今一つである。
北村演じるヤクザは、組ではいわゆる若頭的な存在である。借金の取り立てをしたり、トラブルを解決したり様々な場面で陣頭指揮を執っている。
印象に残ったのは、公衆便所でオカマの中年男をリンチするシーン、諏訪に見せ付けるようにキッチンで由美を犯すシーンである。もはやヤリ過ぎとしか言いようがない演技なのだが、そこが可笑しくもあり怖くもあり‥。
その後、彼は「ゴジラ FINAL WARS」(2004日)で主役のゴジラを完全に食ってしまうわけであるから、相手がオカマやビッチなら赤子の手を捻るようなものであろう‥。
ただ、彼の怪演は一歩間違えればただの〝お笑い”に写りかねない危険性もある。コメディやバカ映画ならそれでも良いのだが、逆に下手にシリアスな映画でこれをやってしまうと全体のトーンを壊しかねない。そういう意味では諸刃の刃的な怖さを持っている。そこにどうしても作品との相性は出てこよう。
本作に関して言えば、北村の怪演もそれほど浮くようなことはなく、全体のトーンには合っているように思った。というのも、基本的に本作はシリアス寄りながら、所々にコミカルさが配合された作りになっているからである。スレスレの所で彼の怪演は全体にエスプリを利かせている。
終盤における狂気と哀愁を帯びたハッタリも、良い意味でこちら側の期待を裏切ってくれている。これには思わず息を呑んでしまった。北村一輝が登場するシーンについては概ね面白く見る事が出来た。尚、赤いダッフルコートという出で立ちも少しひねていて面白い。
ドラマは日和見過ぎる感じがしたが、タイトルの「皆月」の意味はよく理解できるし、恋愛ドラマとして見た場合オチもいい所に収まっていると思った。
シナリオも詩的な趣が感じられるセンテンスが要所に登場してきて味わいがある。これは原作小説にあるセリフなのか、あるいは脚本家の荒井晴彦による創作なのか分からないが、いずれにせよ何気ない日常を見つめなおしてみたくなるような、そんなセリフが幾つか見つかった。
例えば、これはセリフではなく家を出て行った妻の書き置きに残されたメッセージなのだが
みんな“月”でした、げんかいです、さようなら
という言葉が出てくる。この“月”の意味は実にミステリアスで面白い。そして、その意味は終盤の諏訪の次のセリフから何となく分かってくる。見た人それぞれの解釈に委ねるような終わり方になっているので、その意味する所は割愛するが、彼はこう語っている。
人は太陽と月に分けられる。月は自分自身では輝くことは出来ない。太陽の光に照らされて初めて輝ける存在になるのだ。
このセリフも極めて詩的な味わいに満ちている。そして、その意味を噛みしめると、ふと我が身を顧みたくなったりもする。自分にとっての月は誰なのか?自分は誰かにとっての太陽になり得ているのか?改めて身の回りの人間関係について深く考えさせられた。
金子正次、一世一代の大勝負!
「竜二」(1983日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 三東会の幹部、花城竜二は、舎弟の直とひろしを連れて裏賭博で荒稼ぎしていた。彼は3年前に別れた妻子のことを未だに忘れられないでいた。3年前 ---竜二は暴行罪で拘置所に収監された。妻が親に頼ってどうにか保釈金を工面してもらうが、その代わりに竜二は妻子と別れさせられた。今に至って自分の愚かさを知った竜二は、更生の道を歩もうとする。
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(レビュー) ストーリーに突っ込みどころがあるし、演出も未熟な部分が多い。全編通してテレビ的なタッチで撮られており、Vシネの延長線上で作られた代物と言われても納得できてしまいそうなチープな作品である。しかし、そういった不満を補って余りある魅力がこの作品にはあると思う。それは脚本・主演を務めた金子正次の存在である。
彼自信ヤクザの世界に身を落とした事があり、その経験からこの作品は生まれたそうである。映画化にこぎつけるまでに相当苦労したらしく、元々は低予算の自主映画ということで出発したらしい。そこまで苦労して何故彼はこの映画を撮ることに執念を燃やしたのか?その理由は、本作の完成直後、彼が癌で亡くなったことからよく分かる。金子正次は自分の分身とも言える竜二というキャラクターを死ぬ前にどうしてもこの世に残したかったのである。正に生涯一作品。その強い思いが彼の演技からひしひしと伝わってきた。これは映画人と言うよりも、もはや表現者としての意地であろう。
こうした事情を知ると、金子正次の演技には俄然リアリティーが感じられる。
例えば、かつての兄貴が営む居酒屋で、彼は孤独な胸の内を吐露する。去って行った妻子とまた一緒に暮らしたい‥。けれどカタギの世界には中々馴染めない‥。不器用にしか生きられない自分に対する苛立ちと情けなさが見え隠れする。それはこの映画を撮るために様々な苦難を乗り越えてきた金子正次という人間自身の姿にダブって見えてくる。竜二というキャラクターを超えて、もはや金子正次という生身の人間が喋っているのではないかというほどパーソナルな真情が感じ取れた。彼の表現者としての<思い>が演技に乗り移っているかのようである。
一方で、バイオレンスシーンにおける容赦のない演技には鬼気迫るものが感じられた。このあたりは、ひょっとしたらヤクザだった自身の過去の経験が反映されているのかもしれない。
客観的に言って、彼の演技自体は決して目を見張るほど上手いというわけではない。しかし、上手くはないが味がある。粗削りだが勢いが感じられる。映画初主演でここまで堂々とした演技を披露した所には生来のスター性も予感させ、もし存命だったら‥と思うと急逝がしのばれる。
監督は川島透。本作が彼の初監督作品となる。先述の通り演出に未熟な部分が見つかるが、所々にセンスの良さも見られた。
例えば、竜二がアパートの窓から夜空を見上げて「何も見えない‥」とつぶやくシーンがある。川島監督はこのシーンを延々と引いていくロングテイクで切り取っている。どんどん小さくなっていく竜二の姿に、彼の寂しさ、孤独感を浮かび上がってくる。この演出は中々上手い。
また、クライマックスの音声を排したスローモーション演出も鮮烈であった。この静かさが逆に竜二の壮絶な人生を印象深く見せている。
尚、自称〝ワンシーン役者″笹野高史が本作で映画デビューを果たしている。最後の方に本当にワンシーンだけ登場してくる。出番はここだけだが中々美味しい役所だと思う。
主題歌は萩原健一の「ララバイ」。金子正次はこの歌にインスパイアされて本作のシナリオを書いたという。それだけに、映画の内容は歌の歌詞にマッチしており、ラストを締めくくるにあたっては上手くハマっていたと思う。
また、劇中には長淵剛の「泣いてチンピラ」の1節が引用されている。いかにも長淵らしい男の世界だが、これも竜二の生き様によくはまっていた。(※下記のコメントから長渕剛の方が本作の1節を引用したということに訂正)
奇抜なキャラとアクションが笑える。何でもありな初期・三池テイストが全開!
「極道戦国志 不動」(1996日)
ジャンルアクション
(あらすじ) 九州の仁王会不動組は西日本最大のヤクザ組織夜叉組と抗争に突入した。しかし、仁王会四天王と呼ばれる重鎮達は事を丸く収めるよう、不動組・組長厳に落とし前を付けさせる。厳は長男の首を差し出して抗争に終止符を打った。次男・力は父が兄を殺す光景を見て憤りを感じる。それから10年後、高校生になった力は兄を殺した四天王と父に復讐を果たしていく。
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(レビュー) 兄を殺された少年とその仲間がヤクザに戦いを挑んでいく任侠映画。監督は鬼才・三池崇史監督。
主人公が高校生ということで、任侠物にいわゆる学園物のテイストが入ってくるところがユニークである。力の周囲には様々な殺し屋たちがいる。小学生のヒットマン、巨漢の怪力男、股間から毒矢を放つ女子高生等。必殺仕事人よろしく彼らは力の戦いに共闘していくのだが、その描写が余りにも荒唐無稽でマンガ的な表現で見ていて笑ってしまった。原作は谷村ひとしの同名コミックということである。未読であるが、このあたりの過剰なギミックは原作のテイストに合わせているのかもしれない。
ただ、こうした"過ぎる"演出は、三池崇史監督の資質という感じもする。毒殺される男の出血量がハンパなかったり、生首が瞬きをしたり、ハッキリ言って嘘臭いにも程がある演出が横溢する。また、小学生がボールの代わりに生首でサッカーをするような倫理的に問題アリなシーンも登場し、こうしたブラックさも三池崇史らしい。
物語は後半に入ってくると、力の前に宿敵が登場して俄然ヒートアップしていく。キムチ好きな元韓国軍兵士という、余りにも突飛すぎる設定に突っ込みを入れたくなったが、これがかなりの強敵でドラマの引き締め役として上手く機能していると思った。もっとも、見ようによっては、それまで無敵を誇っていた力の仲間が途端に間抜けになってしまった‥という感じも受けてしまうが‥。それに、肝心の力のキャラクターも頭脳派タイプなのが玉に瑕である。タイマンになると、どうしても体力の差が歴然で今一つ盛り上がり切れない。
何はともあれ、壮絶なバイレオンスの連続が続くので最後まで飽きなく見れる怪作だった。
問題はラストであろうか‥。物語が良い所で終わってしまうので残念だった。実は、本作の後にVシネで2本の続編が製作されている。力の覚醒(?)や残された仲間のその後の戦いなどは、そちらで展開されているものと思われる。尚、三池監督は続編の方にはタッチしていない。
三池版「家族ゲーム」?演者の怪演が凄い!
「ビジターQ」(2000日)
ジャンルコメディ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) テレビ局のキャスターをしている清は、援助交際の実態を撮ろうとして家出をした娘と偶然再会する。そのまま二人はホテルでセックスしてしまう。その頃、妻は息子の家庭内暴力を受けていた。痣だらけの体を引きずって自室に籠った妻はクスリでトリップした。そんなバラバラな家庭に一人の謎めいた青年がやって来る。
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(レビュー) 鬼才・三池崇史が描く不条理でブラックなミステリアス・コメディ。
崩壊寸前の家庭に潜り込んだ青年を中心に、バラバラだった家族が次第に絆を取り戻していく物語。これだけ聞くとさぞかし美しい家族愛の物語に思えるが、そこは三池崇史である。冒頭の父娘の近親相姦に始まり、息子の家庭内暴力、薬漬けになる母親、SM、レイプ、殺人、死姦。様々な下劣描写が画面を横行する。通俗的なホームドラマを激辛に味付した所がいかにも三池テイストだ。好き嫌いがはっきりと分かれる作品であろう。
物語前半は家族の現状説明に終始するので少し退屈した。面白くなってくるのは中盤からである。清は息子の虐めをネタにドキュメンタリー番組を作ろうとするのだが、ここから彼は徐々に奇行に走っていくようになる。また、妻は謎の青年に誘惑されながら、母親としての自分、女としての自分、この二つにアイデンティティーが引き裂かれていくようになる。余りにも扇情的な姿は惨めであると同時に滑稽に写ったりもする。このように本作は後半に入ってくるとほとんど狂った映画になっていく。
さて、ここで疑問に思えてくるのは、彼ら家族を狂わせてしまった謎の青年の正体である。彼は一体何者だったのだろうか?不穏な空気をまき散らしたかと思えば、妻にとっては安堵の対象となり、清にとっては友人となり、息子や娘にとっては親のような存在になっていく。この家族に様々な変化をもたらしたという意味では神的な存在だったのかもしれない。あるいは、ただの暇つぶしにフラリと立ち寄った旅人だったのかもしれない。色々と想像できて面白い。タイトルの「ビジターQ」の「Q」とは「QUESTION(質問)」の頭文字かもしれない。
キャストの怪演も見応えがあった。特に、妻を演じた内田春菊の体当たりの演技は衝撃的であった。くたびれた裸体にあざを作って母乳や尿をほとばしらせる姿は正に狂気と言うほかない。
また、清を演じた遠藤憲一のコメディ演技は破壊力が抜群である。特に、冒頭で描かれる娘とのベッドシーンは約10分に渡って情けないフルチン姿を延々と披露し笑いを誘う。いかにもホームビデオ風な映像は陳腐極まりない。しかし、見る者をその現場に引き込もうとする狙いからそうしているのだとしたら、これは実に計算された演出という気もする。また、若干間延びすることは確かだが、早漏呼ばわりされてブチキレるオチに繋がる〝タメ″と考えれば秀逸な演出かもしれない。
良くも悪くもB級然とした作りでアッサリしている。アイディアは買いたい。
「空の大怪獣Q」(1982米)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ニューヨークの真ん中でビル清掃人の首無し死体が発見される。その後、全身の皮を剥がれた死体や、屋上で日光浴をしていた女性が謎の失踪を遂げるなど、奇怪な事件が相次いで起こった。シェパード刑事は事件の裏にアステカ文明の邪教集団の存在を知る。一方、詐欺師クインは借金の取立人に追われていた。逃げ込んだ高層ビルで彼は巨大な卵を発見する。それはアステカの神として崇められた怪鳥ケツァルコアトルの卵だった。
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(レビュー) 巨大怪鳥との戦いを描いたSFサスペンス作品。
監督・脚本は主にB級サスペンス映画を専門に撮っているL・コーエン。お手軽感覚で見れるカウチ・ムービー然とした作りは、いかにもこの人のお家芸でといった感じである。
物語は、連続猟奇殺人事件を追いかけるシェパード刑事の話を軸に展開されていく。途中から怪鳥の卵を見つけたチンピラ男クインの話が絡んできて、以降は二人のドラマが切り替わって展開されていく。正直、ドラマの視座がどっちつかずなってしまったのは残念だった。
ただ、幻の怪鳥ケツァルコアトルというネタを持ってきたアイディアは買いたい。高層ビルが建ち並ぶ大都会の真っただ中に体長数十メートルの巨大翼竜が羽ばたく姿は、想像しただけでもワクワクさせる。この怪鳥は劇中の説明によるとアステカ文明の神という設定らしい。空撮も中々効果的でクライマックスも中々魅せる。特撮監修を担当したデイヴ・アレンは、以前紹介した
「フレッシュ・ゴードン」(1974米)にも参加していた知る人ぞ知るプロフェッショナルである。惜しむらくはクライマックスがもう少し長いと良かったか‥。予算の関係かもしれないがちょっとアッサリしすぎて物足りなかった。
尚、シェパード刑事をD・キャラダインが演じている。今回ばかりは流石にカンフーアクションで異種格闘技戦‥とまではいかなかった。