悲しくも凄惨な事件を描いたサスペンス作品。
「半落ち」(2003日)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) 捜査一課の警官・梶が、アルツハイマー病を患った妻を絞殺した罪で自首した。現職警官による殺人事件とマスコミは騒ぎ立てるが、警察側は嘱託殺人ということで騒動を収めようとした。しかし、直接取り調べを行った志木刑事は、梶が何かを隠しているのではないかと腑に落ちなかった。その後、梶の身柄は地検に移送される。佐瀬検事は供述がねつ造されたものだと見ぬき、事件後の空白の二日間について調査を始めた。ところが、上層部は以前から懸案だった内部の不祥事を不問に付すことを条件に、今回の起訴を強行した。こうして裁判が開かれることになるのだが‥。
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(レビュー) アルツハイマー病に苦しむ妻を殺害した元警官を巡って、様々な人間が交錯していく社会派人間ドラマ。尚、「半落ち」とは警察用語で「一部自供」という意味である。
同名ベストセラーの小説の映画化で、人間の尊厳、生きる意味を崇高に謳い上げ大変意義深い作品だと思う。原作が人気になって映画化されるのもよく分かる。ただし、映画の作りとしては色々疑問に残った。
警察・検察機関の腐敗、認知症の問題、ドナーの問題、マスコミの問題、今作には様々な問題が詰め込まれている。それぞれに見応えのある問題である。ただ、肝心のクライマックである裁判シーンが全てを台無しにしてしまった。ここまで感情論の押し売りをされるとリアリティが全く感じられず入り込めなくなってしまった。本来、裁判は公正にして客観的に進行されなければならない。それが裁判官や証言台に立つ梶の口から出る言葉は、事件の内容に関するものよりも自身の感情の吐露ばかりである。とても公明正大な裁判としての機能を果たしているとは言い難い。したがって、本作で最も感動できるはずだったエンディングについても、延々と続いたこの茶番劇の後では取ってつけたものにしか見えなかった。映画の語りについていけなくなってしまったのである。ラストの敬礼も目を疑ってしまった。普通に考えたらありえいない演出である。
そもそも、事件の物証であるポケットティッシュや妻の日記をわざとらしく登場させるのもどうかと思う。元捜査一課の警官だった梶ならこんなに迂闊に証拠品を残すだろうか?わざと空白の二日間を公の場に披露しようとしたのではないか‥そんな意地悪な見方もしたくなってしまう。
ただ、本作はクライマックス以降の展開を除けば中々良くできた作品だと思う。そういう意味では、惜しいと言えば惜しい作品だ。
警察と検察のツーカーな関係や、マスコミとの取引き、一癖ある弁護士や裁判官のバックストーリーなど、梶を巡って様々な周縁ドラマが繰り広げられている。皆がそれぞれの私利私欲で動いている所に面白味が感じられた。
また、劇中に何度も登場するセリフ「何のために生きるのか?」ということについても考えさせられた。ある者は出世のため、ある者は保身のため、ある者は私怨のためにこの事件に関わっていく。事件の渦中にいる梶にとっての「生きる意味」もよく理解できた。
キャストでは梶を演じた寺尾聡の抑制を効かせた好演が光る。喪失感を忍ばせた演技で静かにヒューマニズムを体現している。時に鋭い眼光を覗かせ、元警官という設定に説得力を持たせたところも大いに評価したい。他に梶の義姉を演じた樹木希林の演技も流石の貫録であった。出番はそれほどないのだが、その場の空間を制圧する迫真の演技は今回も健在であった。弁護士を演じた國村隼も一癖ある演技で面白い。
一方で、エキセントリックすぎてダメだったのは志木を演じた柴田恭兵、藤林裁判官の父を演じた井川比佐志である。柴田恭兵に関しては、デスクに座って電話を受けるしぐさや、腕をへし折るぞと恫喝する所など、各所の臭い演技が受け付けがたい。井川比佐志の場合はほんの少しの出番なのだが、こちらは演技の問題と言うよりも演出の問題という気がする。彼もアルツハイマー病患者という設定なのだが、過剰な演技が本来の深刻さを壊してしまっている。
歯ごたえのあるサスペンスドラマ。
「マークスの山」(1995日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 閑静な住宅街で暴力団の元組員、畠山の死体が発見される。警視庁の合田警部補は畠山の愛人宅から出所不明の大金を発見した。その後、目撃者の情報から事件前夜に男が訪問していたことが分かる。数日後、同じ手口で第二の犯行が発生した。今度の被害者は法務省の松井という男だった。管轄区である王子北署の須崎警部補が事件を担当することになった。そして、合田も二つの事件を結びつけて捜査に乗り出す。ところが、管轄外として須崎に追い出されてしまう。一方その頃、精神病院から一人の青年が退院した。彼は恋人真知子の部屋へ転がり込むのだが‥。
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(レビュー) 連続殺人事件を追いかける刑事が、事件の背後に潜む過去の陰謀を暴いていくサスペンス作品。同名ベストセラーの映画化である。
同じ手口の二つの殺人事件。精神病患者水沢の野望。この二つを交互に見せながら事件の全容が解き明かされていく。事は30年前の“ある惨劇”にまでおよびスケール感のあるミステリは中々見応えがあった。
また、合田、須崎、二人の刑事の衝突も人間臭くて面白く見れた。二人は今回の二つの事件を巡って対立していくようになる。彼ら以外にも捜査部内には様々な思考の刑事たちがいて、そのやり取りも面白い。正に縦割り組織の悪癖といった感じでどこか滑稽に映ったりもする。
ただ、複雑に入り組んだ事件なので、欲を言えばもう少し噛み砕いて描いてくれた方が見る側に親切だったかもしれない。
例えば、入院時代の水沢が病院で起した事件はどう処理されたのだろうか?只ではすまないと思うのだが、劇中でははっきりと描かれていない。
また、水沢を狙うヒットマンは何故あの場面で見逃してしまったのだろう?彼の愚鈍さはリアリティに欠ける。そこの理由は欲しい所だ。また、その後に水沢が病院を簡単に抜け出せてしまうのもご都合主義に見えてしまった。やはり理由が欲しい。
監督・脚本は崔洋一。いかにも氏らしい骨太な演出が貫通されている。特に、バイオレンスとセックス描写における熱量は半端なく、いずれも直感的な痛さ、快楽を見事に画面に焼き付けることに成功していると思った。
例えば、精神病院内での暴力シーンや、水沢と林原のねちっこい対決等は、緊迫感があり画面から目が離せなかった。後者に関しては、若者と団塊世代の思考の相違も投影されており、ある意味では風刺としての面白味も感じられた。また、骨太ということ言えば、雄大なロケーションを活かしたクライマックス・シーンもスケール感があって良かったと思う。
ただ、崔監督の演出はややもすれば剛直一辺倒で、先に述べたような語り下手な箇所もある。もう少し繊細な演出を心掛けて欲しいと思うような箇所が幾つかあった。また、ヤリ過ぎて下手をうっているような箇所も見つかる。
例えば、死体検証の場面は笑うに笑えない薄ら寒いギャグのようで、過剰に血が流れるのもいかががなものか‥。ここまでやってしまうと全体のリアルな演出とかけ離れたものに映ってしまう。それと、これは好みの問題であるが、メランコリックな幕引きは余り肌に合わなかった。もっとクールに締め括ってくれた方が個人的には好きである。
キャストは渋い男優陣で占められている。癖のありそうな連中が揃っていて玄人好みのキャスティングと言えよう。警察組織の面々、中でも古尾谷雅人と遠藤憲一の凸凹コンビ(?)が異彩を放っていて一際目を引いた。ただし、彼らが活躍するのは前半のみである。後半からほとんど出番が無くなり少し勿体なく感じた。
合田を演じた中井貴一は冷徹な刑事役をそつなくこなしている。パブリック・イメージでどうしても人の良さが前面にでてしまうが、新境地を開いたという意味では健闘しているのではないだろうか。惜しむらくは、もう少しバックストーリーに踏み込んで欲しかったか‥。常に白いシューズを履き、山岳が趣味であること以外に、彼の人となりはそれほど突っ込んで描かれていない。キャラクターに厚みを持たす意味でも、もう少し他の素顔も見せて欲しかった。
トリッキーなプロットは魅力的であるが‥。
「ラッキーナンバー7」(2006米)
ジャンルサスペンス・ジャンルアクション
(あらすじ) 仕事を首になり恋人にも逃げられて落ち込んでいた青年スレブンは、友人ニックの誘いでニューヨークを訪れる。途中で強盗にあい散々な思いで彼のアパートに辿りついたが、ニックの姿はどこにもなかった。その後、ひょんなことから隣人リンジーと知り合い仲良くなっていく。しかし、幸せも束の間。ギャングが現れてニックと間違われたスレブンは拉致される。彼は組織の抗争に巻き込まれていくのだった。
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(レビュー) 何をやってもついてない青年がギャングの抗争に巻き込まれながら、自らの過去と対峙していくサスペンス映画。
ギャング、黒幕、警察などが登場して話はスラップスティックに繰り広げられている。過去と現在を結びつけるプロットが巧みで中々良い。最後のどんでん返しも冴えているし、冒頭の小話等の伏線もきちんと回収しているあたりは好感が持てた。また、やや強引ではあるがロマンス物としてのカタルシスもそこそこ感じられた。
ただ、プロット自体は良くできているのだが、いかんせんそれを面白く見せる演出は今一つ精彩に欠く気がした。
例えば、クライマックスはかなりハードな場面であるが、登場人物たちの言動、特に主人公スレブンの言動がそのシリアスさを完全に壊してしまっている。
そもそも本作の登場人物たちは皆コメディ寄りに造形されている。バスタオル姿で右往左往するスレブンの姿がいい例だ。彼はのっきぴならない事態に追い込まれても割と楽観的に物事を捉えるクセがある。こうしたコメディ寄りな造形、そしてそれに沿った演出の数々は、本来の物語のシリアスさを弱めてしまっている。
また、CGの使い方もわざとチープにしているような節があるし、音楽もとぼけたテイストのものが多い。全体的にプロットとテリングが噛み合わないため、コメディとサスペンスのどちらを向いて作られているのかよく分からない状態になってしまっている。
セリフで何でもかんでも語ってしまうところも賛否あろう。クライマックスにおける謎解きは少しくどい感じがした。これだけ説明セリフが続くと淡々と聞けてしまい、どうしたって盛り上がらなくなってしまう。もう少しスマートなやり方があったのではないだろうか。
ちなみに、この種明かしを聞いて「ユージュアル・サスペクツ」(1995米)を思い出した。鑑賞順の関係もあるが、衝撃度という点で言えば「ユージュアル・サスペクツ」には今一歩及ばなかった。
S・ルメット最後の作品は全盛期を思わすクオリティ。
「その土曜日、7時58分」(2007米英)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 不動産会社に勤める兄弟アンディとハンクは、夫々にある理由から大金が必要だった。そこでアンディがハンクに強盗計画を持ちかける。狙うのは自分達の両親が 経営する宝石店だった。ハンクはしぶしぶ受けるが、これが一家に思わぬ悲劇をもたらすことになる。
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(レビュー) 計画強盗によって悲劇的な運命を辿る一家を巧みなストーリーテリングで綴ったヒューマンサスペンス作品。
監督はS・ルメット。正直な所ここ最近は今ひとつ精細に欠く仕事ぶりで、失礼な話「もう枯れたか‥」と思っていたのだが、遺作となる本作は全盛期を彷彿とさせる切れが戻っていて驚かされた。シナリオ、キャストに恵まれたということもあるが、齢80を超えてこのクオリティの高さは尋常ではない。有終の美を飾るという意味ではこれ以上ないくらいの傑作ではないだろうか。
ドラマは事件発生前と、事件当日、事件後。3つの時制を交錯させながら展開されていく。夫々に3人の主要キャストの視点で綴られていて少し複雑な構成になっているが、整然と区分けされているので混乱するようなことはない。
まず、一人目は娘の養育費もまともに払えないバツイチ男・ハンクのドラマである。二人目は彼の兄アンディのドラマである。彼は満たされない夫婦生活を送りながら麻薬に溺れてしまっている。そして、3人目は商売一筋で彼らを育てた父親チャールズのドラマである。
彼らはそれぞれにシビアな問題を抱えている。そして、記憶から拭いきれない愛憎ドラマを過去に繰り広げており、それが今回の強盗事件を起こす一つの発端となっている。事件に到る過程と顛末が夫々の視点を巧みに切り返しながら紐解かれていて、構成自体は実に上手く組み立てられていると思った。ミステリーとしての醍醐味も十分感じられる。
そして、言うまでもないことであるが、S・ルメットは過去に多くの法廷映画を撮ってきた監督である。「十二人の怒れる男」(1957米)、「評決」(1982米)等、法廷映画は彼の得意ジャンルの一つであった。その作家性を鑑みれば、実は今回の作品も法廷ドラマ的な構成を持った映画であることが分かる。
例えば、計画強盗を決断するオフィスのシーンはハンクから描いた場合とアンディから描いた場合、2度繰り返して登場してくる。夫々の事情、思惑が個々の視点で綴られ、我々観客はまるで証言台に立った二人の弁を陪審員の立場に立って聞いているような、そんな感覚で見れる。
このようにこの映画は三者三様、夫々の視点を切り返えながら個々の証言でストーリーが展開されている。この構成はこれまでS・ルメットが撮ってきた法廷映画と同じ<語り口>と言うことが出来よう。描き方が実に堂に入っている。
キャストの好演も見逃せない。ハンクを演じたE・ホークの情けない役どころは正にハマリ役だった。また、アンディを演じたP・S・ホフマンは、冷静さとヒステリックさ、二面性を持った複雑な人物を特異なビジュアルを活かしながら見事に演じている。彼の熱演が作品に異様な緊張感をもたらしていることは間違いない。
尚、映画冒頭にこういうメッセージが出てくるので、これも注意して見ておきたい。
「早く天国に行けますように。死んだのが悪魔に気付かれる前に。」
実は、本作の原題は直訳すると「死んだのが悪魔に気付かれる前に」となる。冒頭のメッセージとこのタイトルは正に本作のテーマを表しているように思た。映画を見終わってその意味する所が噛みしめられる。したがって、こういう邦題が付けられてしまったことには疑問を感じてしまう。
また、この冒頭のメッセージが誰による言葉なのか。それを考えながら見ていくと今作は更に面白く見れると思う。その答えはエンディングで明かされる。冒頭のメッセージと結末が繋がり、まるでこの事件が避けようのない運命のように思えてくる。実に重々しい鑑賞感が残った。
巨匠ルメットの他界は実に残念なことである。しかし、遺作となった本作はこれまでにないくらいヘビーな余韻を残し、彼の優れた演出手腕をまざまざと見せつけてくれる。彼の功績が改めて再確認できるような傑作になっている。
スタイリッシュな密室サスペンス劇。
「ロフト.」(2008ベルギー)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 建築士ビンセントが建てた高級マンションのロフトで女性の変死体が発見される。そこはビンセントと4人の友人達が共有する情事専用の部屋だった。鍵は5人だけが持っている。一体誰が彼女を殺したのか?疑心暗鬼に襲われる中で意外な真実が明らかになっていく。
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(レビュー) 密室殺人事件に翻弄される5人の男たちの対立をミステリアスに綴ったサスペンス映画。
物語は警察で取調を受ける5人の回想形式で綴られる。現実と過去を巧みに交錯させながら事件に至る経緯が解明されていく。意外な展開と伏線の張り方の巧みさで最後まで飽きなく見れた。
また、5人のキャラクターも夫々に明確に色分けされていて面白い。プレイボーイの中年建築士ビンセント、真面目な精神科医クリス、粗暴な性格でトラブルを撒き散らす彼の弟フィリップ、女好きなお調子者マルニクス、神経質で気の弱いルク。5人は夫婦同伴で食事をするほど仲が良い。しかし、それは表向きで、実は‥というところが今回の事件に繋がる重要なポイントだ。5人のギクシャクした関係、夫々の背景に存在する秘密。このあたりが事件の解明をスリリングに見せている。
例えば、ビンセントとクリスには夫々に恋人がいて、彼女たちが事件のキーパーソンのように見えてくる。また、クリスとフィリップは異母兄弟で、彼ら間の愛憎も何だか怪しい。ビンセントの周囲には市長や建築王といった腹黒そうな連中がうごめいていて、これまた何やら胡散臭い。それぞれの過去や置かれている状況を考えると、俄然この推理劇は面白く見れるようになる。
ただ、いよいよ謎解きとなる終盤は若干性急に写り、ややもするとご都合主義に見えなくもない。そもそも何故犯人はロフトに戻ったのか?そして、何故真相を喋り捲るのか?この辺りの必然性が弱いのが難点である。
また、細かく見ると幾つか突っ込みたくなるような箇所が他にもあった。よく考えられている作品だと思うが、細部の詰めの甘さが惜しまれる。
また、カメラワークが懲りすぎという感じがしなくも無い。別にアクション映画ではないので、ここまで画面を動かす必要はないだろう。全体的な映像の緩急が付けられてないため、緊迫感を煽るような演出ものっぺりとした印象になってしまう。
この監督は自分のビジュアル・センスをこれ見よがしに押し付けてくるような所がある。本作は背景美術が中々凝っていてスタイリッシュでおしゃれなものが多い。おそらくこれらも監督のデザイン・センスなのだろう。確かに今回のような密室劇に近い映画では、場面のメリハリを効かせられない分、こうしたビジュアル上の工夫は必要となってくる。とはいえ、カメラワークにしろプロダクション・デザインにしろここまで凝ってしまうと、何だかうっとおしい。物語のリアリティも余り感じられなくなってしまう。このあたりのさじ加減は非常に難しい所であるが、今作はやり過ぎな感じを持った。
尚、鋭角的にデザインされたタイトルバックは、A・ヒッチコック監督の傑作「北北西に進路を取れ」(1959米)のオープニングを彷彿とさせて面白い。おそらくこれも監督のこだわりなのだろうが、これについては中々良いセンスをしていると思った。
ステージママの盲進振りが幼子を不憫に見せる。しかし、最後は見事なカタルシスに収まっている。
「ベリッシマ」(1951伊)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) ローマ郊外の団地に住む主婦マッダレーナは、娘マリアを映画のオーディションに連れて行く。ところが、審査が始まるというのに肝心のマリアが迷子になってしまった。難儀していたところを売れない俳優アンバッチに救われ、どうにか2次審査まで通過することが出来た。喜んで帰ってきたマッダレーナを夫は諌めた。彼はマリアをもっと自由に育てるべきだと考えていたからである。こうして夫婦仲は徐々に険悪になっていく。それでもマッダレーナは諦めきれなかった。元女優の中年女性に演技レッスンを受けさせたり、ライバルがバレエを習っていると分かればバレエ教室に連れて行った。そして、ついにはアンバッチに勧められるままに全財産をはたいて業界関係者のコネ作りを始める。
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(レビュー) ステージママの奮闘を笑いとペーソスで綴った人情劇。
監督はL・ヴィスコンティ。ヴィスコンティと言えば冷徹なリアリスト、荘厳でオペラ的甘美を再現する巨匠というイメージがあるが、初期時代にはイタリアに発祥するネオレアリズモの牽引者でもあった。今作はその時代に作られた1本である。庶民が貧困から這い上がろうと努力していく姿、もしくは客観的に見れば少し狂っていく姿は、イタリア労働者階級の〝現実″を如実に表していると言える。だからこそ多くの人々が彼の作品に感動を寄せたのだろう。
本作で面白いと思ったのは、マッダレーナが暮らす巨大団地の風景である。団地の中庭には大きな広場があり、そこでは時々映画が上映される。庶民の唯一の娯楽が過酷な現実を忘れさせてくれる映画だった‥という所にヴィスコンティのロマンチストな一面が伺える。
マッダレーナはそこで映画を見て次第に娘をスクリーン・デビューさせようという気になったのだろう。何もないうらびれた生活に彼女は映画という<夢>を見つけ、それを手に入れようとしたのである。<現実>と<夢>、<影>と<光>を同じ空間に同居させた、この団地のロケーションは実に魅力的であった。
また、団地のすぐ前は多くの人々が往来する大通りとなっている。マッダレーナが住む1階の部屋は、厳密にいうと半分だけ地下に埋まっていて、窓を開けると通行人の足元が見える設計になっている。暗に低所得者であることを意識させるようなこの空間設計は、マッダレーナの暮らし振りを一層惨めに見せ、ここにもヴィスコンティのこだわりが感じられた。
物語はマッダレーナがマリアをステージ・デビューさせようと、あの手この手を使って奮闘していく姿をドキュメンタルに綴っていくものである。本人の意志を介さずひたすら突っ走るところにシニカルな笑いと児童虐待なのような怖さが入り混じり、決して感情移入できるように作られているわけではない。
しかし、ラストには感動させられた。その前段で描かれる編集室のシーン、試写室のシーン。このあたりから少しずつマッダレーナの心理変化が起こり始め、そこに見る側としても素直に擦り寄ることが出来るからであろう。ラストも上手くカタルシスが演出されていて見事な大団円に収まっている。
マッダレーナを演じるのは名女優アンナ・マニャーニ。強気なイタリア女というイメージをそのまま体現した熱演が印象に残る。とにかく彼女は全編に渡って語気を荒げて喋りまくる。強権的な母親像という、およそ観客から慕われない役所だが、そこを臆せずパワフルに押しまくったところに圧倒される。それとのギャップで見せるラストの変容も見事だった。
また、女のしたたかさを飄々と演じて見せた所にも上手さを感じた。中盤で夫婦喧嘩のシーンが登場してくる。例によってマリアを巡って夫と意見を対立させるのだが、ここでの周囲の主婦たちを巻き込んだしたたかな振る舞いは実に見事であった。多勢に無勢、これには夫も尻尾を巻いて逃げるしかなかった。
また、アンバッチと語らう川べりのシーンにも同様のしたたかさは伺える。虚をつくアンバッチを見事に返り討ちにし、大人の女の余裕で見せつけている。
斬新な手法で紡いだ育児映画。ブラックでシニカルでファンタジックで面白い。
「私は二歳」(1962日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 東京の閑静な団地。平凡なサラリーマン五郎と主婦千代は、2歳になる息子太郎と慎ましくも幸せな暮らしを送っていた。太郎は病弱でたびたび医者の世話になっていたが、すくすくと成長していった。ある日、五郎の兄夫婦が仕事で転勤になる。五郎たちは母親の面倒を見るために実家に引っ越すことになるのだが‥。
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(レビュー) 2歳の幼児・太郎の目線で周囲の悲喜こもごもを綴った名匠・市川崑監督の異色作。
原作は同名の育児書だが、それを市川監督の妻・和田夏十が見事に斬新なホームドラマに脚色している。彼女は市川監督との共同ペンネーム・久里子亭(くりすてい)名義でも
「悪魔の手毬唄」(1977日)を執筆しており、脚本家として長年、市川作品を影から支えてきた功労者である。
物語はまだヨチヨチ歩きの太郎のナレーションで展開されていく。ナチス時代の到来を3歳児(正確には3歳で成長するのを止めてしまった少年)の目線で綴った傑作「ブリキの太鼓」(1979西独仏)を彷彿とさせる部分もあるが、本作の方がそれよりも10年以上も前に作られていることに注目したい。斬新さという意味では今作の方が先進的であり、育児書を元にこうした発想でドラマを語ろうとした和田夏十の底知れぬ才能にはただ、ただ感服するほかない。
しかも、この幼児のナレーションが実にシニカルで面白い。両親の喧嘩や医者の診察、祖母の愛といったものを、どこか達観した眼差しで眺め、2歳児のくせに変に大人びているのだ。そこにナンセンス・コメディ的な面白さが沸き立ってくる。
そうかと思えば、大人は何故仕事をしなければならないの?大人は何故嘘をつくの?といった無垢な疑問も見る側に投げかけてくる。そりゃあ食っていくためには仕事をしなければならないし、周囲と上手く付き合うためには多少の嘘は必要である。しかし、様々なしがらみの中で生きる大人と違い、自由気ままな2歳児にはそれが疑問に思えてしまうのだ。何気に人生哲学の根幹を問い正されているような気がして、ちょっとドキリとさせられたりもした。
映画は太郎の主観で紡ぐ物語と同時に、両親と祖母の日常ドラマも展開されていく。こちらは夫婦間の冷め切った関係、嫁姑の軋轢関係といった複雑な家庭問題が絡んでくる。やや通俗的な感じもするが、女性の強さが雄弁に語られている所は注目に値する。徐々に女性が強くなっていった時代が如実に反映されているような気がした。
例えば、しっかり者の妻・千代に窘められるダメ亭主・五郎の情けなさ、対立関係から徐々に雪解けとなり家庭の実権を握っていく嫁姑のしたたかさ。こあたりを見ると、子供を産める女とそうでない男の性差、つまり母性の偉大さというものを痛感させられる。
本作には他にも様々な母親達が登場してくる。例えば、10人の子供を抱える千代の姉などは、ほとんど母性の極みと言わんばかりの〝肝っ玉母さん"振りで印象に残った。この逞しさの前では男などただの幼稚で身勝手なガキにしか見えなくなってしまう。
逆に、男性陣は夫の太郎以外はほとんど登場してこない。非常に存在感が薄く、このことを鑑みても本作には明らかに母性讃歌的なテーマが読み取れる。
ただ、このメッセージは実に崇高であるし十分納得する所ではあるのだが、いささかそれが突出している箇所がある。例えば、セリフとしてストレートに発せられてしまうと、どうしても押し付けがましく感じられる。このあたりはさじ加減を効かせてほしかった。
市川監督の演出は今回も冴えわたっている。三日月をバナナに見立てた幻想的なアニメーション、人形を使ったコマ撮り等、ファンタジックで少しキッチュな所に市川演出の本領が感じられた。異色な作劇同様、こうした不思議なタッチが所々に見られるのも本作の妙味だろう。
感性が試される怪作?笑いながら徐々に恐ろしくなっていくナンセンス・ホラーの決定版。
「ザ・チャイルド」(1975スペイン)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 生物学者トムは身重の妻エビーを連れて海辺のリゾート地にやってきた。来て早々、海岸で女性の変死体が上がり町は騒然となる。トム達は不安に駆られながら予定していた観光小島へボートで乗り付けた。しかし、不思議なことに島は閑散としていた。そこに一人の少女が現れる。彼女はエビーの大きなお腹をさすってどこかへ消えてしまった。その後、トムは血まみにれなった老人の死体を発見する。
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(レビュー) 冒頭で戦争の被害にあう子供たちの映像が次々と出てくる。おそらくこれが本作のモチーフなのだろう。飢えで死んでいく子供たち。親を失った子供たち。そうした子供たちを延々と見せながら本作は血の惨劇を繰り出してくる。これを戦争に対する<復讐>と言わずして何と言おううか。作品のモチーフというものは案外蔑ろにされがちで、作り手側もひけらかすのを嫌うものであるが、こと本作に関して言えばそれを軽んじることが出来ないように思う。
物語は、前半はやや水っぽくて退屈するが、中盤以降はサスペンス色が強められ面白くなっていく。
トムとエビーが訪ねた島には子供しかいない。一体どうして?という謎を孕みながら展開されていく。そして、映画はその答えを安易には提示してくれない。ここが本作の心憎い所である。
大人と子供の従属関係、冒頭で映し出される戦災に喘ぐ子供たちの姿を鑑みれば事件の原因は一定の理由が考えられる。ただ、それだけで事件の全貌が解明されかというとそうではない。戦争に対するアイロニーも嗅ぎ取れるのだが、それを以ってしても事件の原因は説明がつかない。ここが本作の恐ろしくも興味をそそられる部分である。
ただ、これだけは言えると思う。「子はかすがい」という言葉があるが、子供=純粋無垢と考えるのは単なる大人の一方的な見方でしかなく、彼らは大人が考えるよりもずっと知恵が働き、狡猾で残忍な生き物だ‥ということだ。
本作は基本的にホラー映画であるが、子供たちの残忍さの裏側に明確な理由が提示されていないため、見ようによってはナンセンス・ブラック・コメディのように捉えることも可能である。
近い設定では「未知空間の恐怖 光る眼」(1960米)や、そのリメイク作「光る眼」(1995米)が思い出されるが、子供やペット等身近なものがある日突然意味不明に殺人鬼に豹変するというというのはホラー映画における一つのパターンである。この意外性は怖さを生む一方で、少し見方を変えればナンセンス・コメディのようにも映る。ホラーとコメディが相性がいいのはこうした理由からで、それは数多のホラー・コメディが証明して見せてくれている。怖さと笑いは実は表裏一体である。見ようによっては今作は毒を含んだ喜劇‥と捉えることも可能だ。
劇場未公開・未DVD化作品。T・スウィントンは頑張っているが‥。
「ディープ・エンド」(2001米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 静かな湖畔に建つ1件の家。そこに主婦マーガレットは海軍に勤める夫と3人の子供たち、父親と暮らしていた。夫は仕事で留守がちで、彼女一人が家族の面倒 を見ていた。目下の悩みは長男ボウの夜遊びである。音大進学を目指し日々レッスンに励むボウは、ナイトクラブに入り浸りそこのオーナー、 ダービーと同性愛の関係にあったのだ。ある夜、ダービーがボウを訪ねてきた。マーガレットに注意されて気が立っていたボウは、ダービーと喧嘩をしてしまう。 翌朝、マーガレットは桟橋でダービーの死体を見つける。ボウが殺したと思った彼女はそれを隠蔽しようとするのだが‥。
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(レビュー) 息子の殺人事件を隠そうとする主婦の戦いをスリリングに描いたサスペンス・ドラマ。
今作はマーガレットを演じたT・スウィントンの演技。これに尽きると思う。シリアスな表情を滲ませながら子を思う母親としての葛藤を痛々しく表現している。やや1本調子という感じもするが、彼女の重厚な演技は作品のクオリティを底上げていると思う。
ただ、いかんせん演出、シナリオに関しては、お世辞にも上手く出来てるとは言い難い。
まずサスペンスとしての緊張感が余り感じられなかった。マーガレットは殺人を隠蔽しようとして、見ず知らずの男アレックから脅迫を受けるようになる。追い詰められていく彼女の心情はT・スウィントンの好演でそれなりに伝わってくるのだが、絶体絶命という危機感までには及ばない。
原因の一つは悪役サイドの描き方にあると思う。アレックは初めはいかにも悪者という感じで登場する。その後、中盤になって意外な顔を見せる。ここまでは良かったと思う。問題はそこからで、彼のバックに黒幕が登場して以降だ。これがいただけなかった。アレックはなぜこの黒幕に雇われているのか?なぜ反抗できないの か?そもそも、黒幕の動機が不明なままである。要するに、悪役としての明確なコンステレーションがはかられていないのだ。これでは盛り上がりようがない。
たとえば、ここはアレックが黒幕の言葉に敢然と抵抗したり、マーガレットを積極的に援護する側に回ったりすることで、悪人は悪人でも深みのある悪人にすることで、マーガレットの葛藤に更なる追い込みを演出するようなことでもあれば、もっと面白く見れたであろう。
シチュエーションのマンネリズムも緊張感を失している。
本作はFox Searchlightが製作・配給した作品である。この会社は20世紀Foxの子会社で主にインディペンド系の作品を作っている会社である。したがって、予算や人材といった製作体制が小規模なのは仕方がないことである。しかし、いくら限界はあるにせよこれでは地味すぎるだろう。そこは展開の工夫でカバーして欲しい。
シナリオでは、事件の鍵を握るボウの心情説明を途中から放棄してしまった所に不備を感じた。また、マーガレットの父親、ボウ以外の二人の子供達の存在も、随分とおざなりになっている。父親は何かしら事件に関与してくるのかと思いきや、結局心臓発作で倒れただけである。これはドラマに何の意味も持たない事件である。二人の子供たちにいたっては、ほぼ存在意義すら認められない。警察捜査の描写も随分と気の抜けたものである。
このように細かい点を言えば切りが無いが、他にも幾つか突っ込みを入れたくなるシーンがあった。
T・スウィントンの頑張りもこれでは虚しいだけである。
現実世界と小説世界を行き来するファンタジー・コメディ。
「主人公は僕だった」(2006米)
ジャンルファンタジー・ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 国税庁の職員ハロルドは、毎日決まった時間に決まった行動をする規則正しい生活を送っていた。ある日、どこからともなく謎の女の声が聞こえてきた。その声はハロルドの行動を一々説明し、やがて彼が死ぬだろうと宣告した。ハロルドは高名な大学教授ヒルバートのカウンセリングを受けることにした。一方、女流ベストセラー作家アイフルは新作の主人公をどうやって殺すかで悩んでいた。
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(レビュー) 小説の主人公が作家の気まぐれによって運命を左右されていくファンタジー・コメディ。
こうした箱庭的な作品は割と好きなのだが、オチは結局そのまんま‥。少々肩透かしを食らった気分である。こういうオチにするのなら、せめて何らかの説明は必要だったのではないだろうか。論理的な説明など別に求めているわけではないが、これでは釈然としない。現実と小説の境目がどこにあるのか?最低限そこだけは描いてくれないと何でもありな世界に見えてしまい、一体何のための設定だったのか?という不満に繋がってしまう。あるいは、最初からシュールなファンタジーと決め込んで作られていればそれでもいいのだが、本作は明らかに現実と小説の世界が別個に存在しているので決してシュールな混濁した世界観ではない。
監督はM・フォスター。以前紹介した
「ステイ」(2005米)もこうした不思議なテイストが漂う作品であった。本作でも所々にCGを駆使しながら日常の中の非日常を幻想的なタッチで描いている。
特に、今回は映像色彩が面白い。スランプに陥る作家アイフルを描くパートは寒色トーンで統一され、他のシーンとの差別化が図られている。彼女の孤独感を映す意味と、ここは現実の世界であるということをはっきりと観客に認識させるための差別化だろう。狙いとしては一定の成功を果たしていると思った。
ただ、どちらかと言うと基本的にはリアリティに寄せた画作りになっており、映像面の凝り具合は「ステイ」ほどではない。その前作「ネバーランド」(2004米)のトーンに戻ったという感じがした。
キャストは全員コメディ・アプローチに徹しており、シリアスなテーマながらそれほど深刻にならずに見れるようになっている。D・ホフマン、E・トンプソンといった硬軟自在なベテランが脇を固めているので安定感がある。但し、E・トンプソンの精神薄弱振りはやや大仰に映ったが‥。
尚、ハロルドと恋仲になるベーカリーの女主人アナ、アイフルのアシスタント、ペニーといったサブキャラに関しては、存在感が薄みで物足りなかった。ハロルド、アイフル、夫々の近隣に位置するキャラだけに、もっとドラマを動かすような活躍があっても良かったように思う。この描き方は勿体なかった。
特に、アナに関しては大いに不満が残った。彼女は後半に入ってくると何でも簡単に受け入れてしまう、物分りのいい女性になってしまう。ハロルドにとって良き理解者であらねばならぬというのは分かるが、序盤で見せた自己主張の強いイメージが後半に行くにつれてどんどん損なわれてしまい、何だか面白味の無いキャラクターになってしまった。ハロルドが憧れる対象(ヒロイン)として、もう一押し彼女を使った展開が欲しかった気がする。
もっとも、本作で最もしみじみとさせられたのは、そのアナがクッキーを焼くことになった逸話なのだが‥。この物語ではハロルドとアナのラブロマンスというサブストーリーも展開されている。そこを盛り上げるべく、彼女のこうした心情吐露はもっと積極的に掬い上げて欲しかった。