新藤監督の遺作は集大成的な意味合いを持った作品。
「一枚のハガキ」(2010日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル戦争
(あらすじ) 太平洋戦争末期、関西の清掃隊に所属する森川定造と松山啓太は、上官のくじ引きによって配属先が決められた。定造は戦地へ赴き、啓太は清掃隊に残ることになった。定造が出兵する前夜、啓太は妻・友子からの一枚のハガキを預かる。もし自分が戦死したらそれを妻に渡してほしいと頼まれる。それから数日後、定造は戦死した。友子は悲しみに暮れた。しかし、彼女には面倒を見なければならない義理の両親がいた。二人のために止む無く定造の弟・三平と再婚した。一方、生き残った啓太は終戦後、自宅へ戻ると家の中はもぬけの殻だった。啓太の戦死が噂で流れて、妻と父が駆け落ちしてしまったのである。
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(レビュー) 1枚のハガキを巡って引き寄せられる男女の愛を描いた新藤兼人監督の遺作。
本人が最後の作品と公言して取り組んだだけあって、各所に自身の作品のオマージュが見つかる。おそらく集大成的な作品にしたかったのだろう。例えば、水桶を背負って歩く姿は
「裸の島」(1960日)であるし、後半の祭りのシーンは彼の自伝的映画「落葉樹」(1986日)のオマージュであろう。尚、この「落葉樹」という作品には当時のロリータアイドル・諏訪野しおり(若葉しをり名義)が映画初出演をしている。ヌードも披露しているのでファンなら垂涎ものかもしれない。
物語はストレートなメロドラマになっている。啓太と友子が水桶を担いで歩くシーンを予告で見ていたので、二人が最終的にくっつくな‥ということは分かっていた。あとはそこに至るまでにどんなドラマがあるのか?そこを期待して見た。
そして、その過程を描くドラマは、新藤監督らしい徹定したリアリズムによって丁寧に紡がれている。友子に数々の不幸を与え、敬太にも一定の動機を与え、二人が惹かれあう理由にきちんと説得力を持たせている。おそらく普通の脚本家なら早々に二人を引き合わせて、以後の交流の中で惹かれあう理由を探っていくだろうが、生粋のライター・新藤は一味違う。彼は焦らしに焦らして、ようやく会えた‥という所にカタルシスを持ってきている。このあたりの周到なドラマ運びには唸らされるばかりだ。ベテランならではの余裕と言っていいだろう。また、この説得力があるからこそ、後半の二人の複雑な心中の激白にも涙させられるのだと思う。
演出も手堅い。愛する人を失った者同士の交流と言うとベタに思うかもしれないが、新藤監督は敢えてエモーショナルさを抑制し、オフビートな味わいの中に人生の悲喜こもごもを描いて見せる。
例えば、柄本明演じる友子の義父のしたたかなタヌキジジイぶり、大杉連演じる吉五郎の下心見え見えなスケベオヤジぶりなどにはコメディ・ライクな演技が目につく。悲劇を悲痛一辺倒に描くのではなく、こうしたコメディ要素を散りばながら、引き締める所はきちんと引き締める、このあたりの緩急のつけ方にベテランならではの手練が感じられた。
ただ、幾つか反戦メッセージが押し付けがましく写る場面があり、そこについては興が削がれた。伝えたいという強い思いが演出を大仰にしてしまっている。もう少し抑えてくれた方がすんなりと受け入れられるのだが、おそらくどうしてもこれだけは言っておきたいという監督の思いがあったのだろう。
また、終盤のシュールな展開には、おそらくこの映画を見た多くの人が違和感を覚えるのではないだろうか。やや幻想的なシーンが続出するので少し戸惑ってしまった。正直、このあたりまで来てしまうと、入り込もうにも入り込めなくなってしまう。
ところで、友子役の大竹しのぶの演技が故・乙羽信子にダブって見えてくる箇所が幾つかあった。乙羽信子と言えば新藤監督に長年連れ添ったパートナーである。その影がちらりとでも感じ取れたことは、勝手な思い込みかもしれないが、単なる偶然とも思えない。もしかしたら大竹しのぶ自身も意識していたのではないだろうか。
ボサマの壮絶な半生を綴った壮大なドラマ。
「竹山ひとり旅」(1977日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 青森の百姓の家に生まれた定蔵は、3歳の時に視力が悪化しほとんど目が見えなくなってしまった。母は15歳になった彼にボサマになるこを勧め、借金をして三味線の弟子入りをさせた。師匠と一緒に東北を歩き回り三味線の腕を磨いていく定蔵。その後、師匠が亡くなり一人で旅を続けた。定蔵はそこで様々な出会いと別れを繰り返していく。
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(レビュー) 津軽三味線の名人・高橋竹山の半生を描いた人間ドラマ。
三味線を担いで流浪する定蔵の波乱に満ちた足跡を、極寒の大地に活写した壮大なドラマである。監督・脚本は新藤兼人。尚、ボサマとは他人の家の玄関先で歌と三味を披露して施しを受ける、いわゆる乞食のことである。
何と言っても見所となるのは大自然のロケーションである。粉雪が舞う曇天と荒れ狂う海を背景にひたすら歩き続ける定蔵の姿が寒々しい。その映像から撮影の過酷さが伺える。新藤作品の中で、ここまで大胆にロケーションを活かした作品も珍しいのではないだろうか。とにかく映像は見応えがあった。
物語は基本的に、定蔵と旅で出会う様々な人々の交流を中心にして展開されていく。
中でも、泥棒稼業をしている仙太は一際印象に残るキャラで面白かった。彼の陽気さ、奔放さは、暗くなりがちな旅の情景に明かりを灯し、定蔵との凸凹コンビにユーモアが派生する。
また、この道何十年という作兵衛のバイタリティ溢れる生き様も痛快であった。彼は他に正業を持ちながら、定蔵をサポートするために旅に付いてくる。この時の理由が良い。あっけらかんと「嫁の顔を見なくて済むからだ」と言い放つのだ。女房に縛られて生きるなんてまっぴらごめん‥という、生来の自由人気質がよく出たセリフである。中盤、ふんどし姿で定蔵と浜辺で酒を飲み交わすシーンが微笑ましかった。
一方、定蔵の旅には様々な苦難も降りかかる。最初の結婚はある事件によって破綻し、次の結婚もある不幸に見舞われる。彼は決して家庭人と言うわけではなく、むしろ結婚には向いてない。そもそもボサマは旅をすることが宿命である。そんな彼に所帯を持つことなんか鼻っから無理なのである。
こうして彼は様々な苦難を乗り越えながら名人になっていく。その半生には素直に感動させられた。一つのことを貫いていればいつかきっと報われる‥という人生観を教わったような気がする。
総じてストーリーは軽快に進み、雄大な映像、ユーモラスなエピソードが適度にちりばめられていて最後まで飽きなく見ることができた。
ただ、一方で軽快な展開の功罪もある。この手の伝記映画にありがちな"散漫な印象"。それが作品のインパクトを弱めていると思った。
定蔵の旅が淡々とスケッチされる構成になっているので、ドラマの中心、つまり今作のテーマ、母子愛が少々弱く映ってしまった。終盤の母役・乙羽信子の貫禄の演技は実に素晴らしかった。しかし、二人の愛憎をジックリと煮詰める作劇的な組み立てがなかったために、この熱演が今一つ胸に迫ってこない。また、母は旅に出た定蔵を追いかけて彼の前に度々姿を現すのだが、そんなに簡単に足取りを追えるものだろうか?このあたりの説得力も乏しいものに思えた。もう少し丁寧且つじっくりと腰を据えて母子の愛憎ドラマを描いて欲しかった。
田舎出の若者の鬱屈した感情を冷徹に描いた青春犯罪映画。
「裸の十九才」(1970日)
ジャンル青春映画
(あらすじ) 青森の山村で育った山田道夫が集団就職で東京にやって来た。しかし、都会の生活に馴染めず一旦田舎へ帰る。その後、大阪へ渡り小さな工場で住み込みの仕事を始めた。ところが、彼はそこも上手く行かず辞めてしまう。ならばと今度は自衛隊に入隊しようとするが、書類審査で落とされてしまった。自暴自棄になった道夫は横須賀米軍基地で拳銃を手に入れて殺人を犯そうと考える。
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(レビュー) 都会に出た青年が破滅の道を突き進んでいく青春犯罪映画。尚、今作は昭和43年に実際に起こった事件をモデルにしているそうである。青年をここまで追い詰めたものは一体何だったのか?その原因を鋭い眼差しで抉った問題作である。
監督、脚本は新藤兼人。ひたすら陰鬱な青春劇だが、ドキュメンタリータッチで道夫の心の闇を炙り出した所に見応えを感じた。
物語は事件を起した現在と、道夫の生い立ちを描く過去を交錯させながら展開していく。どちらも興味深く見れたが、よりドラマチックなのは過去パートの方である。
ここでは道夫の母親タケの半生も描かれるのだが、これが実に波乱に満ちた人生で面白く見ることが出来た。夫の婦女暴行未遂事件、隠し子騒動、長女のレイプ事件、幼子たちの餓死等、貧困に喘ぎながら数々の不幸に見舞われていく姿は筆舌に尽くし難いほど残酷だ。‥と同時に、女手一つで子供達を育てようと苦闘する姿には尊く強い母性愛も感じられた。
やがて、子供たちが夫々に成人するとタケは孤独な隠居生活に入る。育ててくれた恩など忘れて都会へ出て行ったっきり帰ってこない子供たちの薄情さが、タケの暮らしぶりを一層に惨めに見せる。ただ、道夫と末娘だけはタケの元に残った。タケからしてみれば道夫は他の子たちよりも可愛いくて仕方がなかったと思う。それがまさか都会に夢破れて犯罪に手を染めしまうとは‥。その心中を察すると実に憐れと言うほかない。
このように、この過去パートは基本的にはタケと道夫の母子愛を描くドラマとなっている。新藤監督は度々母親の偉大さ、尊さといった物を作品の中に盛り込んでくるが、今作にもそれがはっきりと見て取れた。
尚、この過去パートは母子愛のドラマ以外に、もう一つ強く印象に残るシーンがあった。それは長女のレイプシーンである。大家に慰み者にされるところまでは予想の範囲だったが、その後が惨すぎる。ここまで非情に徹した新藤演出も珍しいのではないだろうか。有無を言わせぬ迫力が感じられ、最後には暗澹たる気持ちにさせられた。トランプの演出が実に痛々しい。
一方、現在パートでは、犯罪を犯して逃亡する道夫の姿を中心にして描かれていく。途中で母に会いに帰省するシーンがあるが、映画はここを転換点として彼の孤独な胸の内に迫っていくようになる。クライマックスにかけてのボルテージの上げ方は上手く構成されており、窮地に追い込まれていく道夫の切迫感もよく伝わってきた。また、ノワール調なタッチも中々面白い。
「人間」(1962日)、
「鬼婆」(1964日)に共通するような息苦しさが感じられた。
ただし、少し分かりづらいと思った所が1点だけある。元々カットバックが頻繁に繰り返されるので、注意して見ていないと分かりずらい作品ではあるのだが、それでも順序立てて構成されてないと思われる箇所が1か所だけあった。タケが取材陣に囲まれるシーンが割と前半の方に出てくるのだが、これは見る側を混乱させるだけなので不要に思えた。仮に入れるとしても、道夫が犯人である事が分かった後に挿入するべきだろう。そうでないと、時制の往来にちぐはぐ感が出てしまう。
尚、集団就職という事からも分かるとおり、道夫の青春をそのまま現代に当てはめて考える事はちょっと難しくなってきているように思う。ネットワークが発達した現代では環境からして違う。彼のような鬱積を抱える青年は、よほどの田舎でない限りあまり無いような気がする。
ただ、一方で他者との繋がりを持てない孤独な若者というのは現代にも多いわけで、例えば対人関係に消極的な引き篭もりや、無職のニートなどといった問題に差し替えて捉えてみることは可能だと思う。そういう意味では、一定の普遍性を持った作品と言うことが出来よう。
キャストでは、道夫を演じた原田大二郎、タケを演じた乙羽信子、それぞれに好演していると思った。原田大二郎はこの年にデビューを果たしている。同年製作の吉田喜重監督の
「エロス+虐殺」(1970日)でも堕落したチンピラ青年を演じていたが、それとの共通性が垣間見れた。
人間の恐ろしさを描いた所は
「人間」(1962日)に共通するテーマである。
「鬼婆」(1964日)
ジャンルホラー
(あらすじ) 南北朝時代、荒れ果てた土地に母と嫁が住んでいた。二人は敗走する侍を殺して身に着けていた物を剥ぎ取って食料に替えて暮らしていた。ある日、近隣に住んでいた八が戦場から帰ってきた。一緒に行った息子は戦死したと言う。母はずる賢い八の話を素直に信じることができなかった。その後、八と嫁は寂しさを紛らすように愛欲の関係に溺れていく。それを知った母は嫉妬に駆られて恐るべき行為に出る。
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(レビュー) 母と嫁、息子を見殺しにしたかもしれない八。三人の壮絶な愛欲を禍々しいタッチで描いたホラー映画。
監督・脚本は新藤兼人。人間の際限ない欲望を落とし込んだ作劇、演出は大胆且つストイックで、これまで独立プロで製作された社会派的な作品とは一線を引いた野心に溢れた異色作となっている。鬼婆の伝説は各地にあり、ともすれば安易なパロディに成り下がってしまうところを、徹底したリアリズムで描き切った新藤監督の手腕には唸らされる。
今回のテーマは人間の欲望である。この映画には俗物しか登場してこず、セックス、食事、睡眠という三大欲望の繰り返しでドラマが構成されている。これほど怠惰な日常を徹底して描いた作品はそうそうないだろう。
そして、そんな欲望にかまけた日常風景は、外界から遮断されたすすき野原で行われていく。これがどこか寓話的なテイストを醸していて面白い。終盤で登場する鬼の面を被った武将も、見た目からして如何にも悪魔の啓示のように見えるし、今回はかなり寓話的でホラータッチな演出が横溢している。
飽くなき"性"への欲望もまた、乱世という死に満ちた世界ではことさらエロチックなものに映った。他人を殺してまでも生き延びようとする執念、快楽を求めようとする姿は、もはや地獄で繰り広げられるサバトのようである。
たとえば、3人が川で溺れている侍を殺そうとするシーンがある。それまでの対立関係がいっぺんに共謀関係に転じてしまう所に思わず寒気が走った。と同時に、ここは八と嫁が初めて交わすセクシャルな場面でもある。生と死の相克が艶めかしい。
キャストでは、何と言っても母を演じた乙羽信子の体当たりの演技が色々な意味で強烈であった。人間の残酷さを体現する一方で、老いた女の醜態も随所に披露しどこか悲しく写る。メイクが多少大仰だったのは笑えてしまうが、常に苦虫を噛み潰した表情を崩さず、憎しみと嫉妬に駆られる老女の情念を見事に表現している。とりわけ、八に股を開いてクソ婆呼ばわりされた挙句、大木相手に自慰にふけるシーンは実に不憫この上なかった。死んだ息子のことなど忘れてひたすら嫉妬に狂ったメスに豹変していく様は、正に女の"性(サガ)″以外の何物でもないだろう。
先述したように、新藤監督の演出はいつにも増してラジカルなものに傾倒している。これまでとは違った音楽の使い方、カットの切り方、コントラストを効かせた禍々しいモノクロタッチがホラー的に形而下されている。また、川橋の上に水桶を置いただけで何が起こっているのかを一目で分からせる省略ショットには、ベテランならではの手練れが感じられた。セックス、食事、睡眠の反復だけで紡いだ所にも巨匠としての余裕が感じられる。確かに若干退屈を覚えたが、3人の怠惰で代わり映えの無い日常を印象付けることには成功していると思った。
そして、何と言っても今作はラストが強烈過ぎて脳裏から離れない。母の絶叫と共に終幕するこの潔さ。人間は化けの皮を一枚はがせば誰でも鬼になる‥という新藤監督の人間論。それにノックアウトされてしまった。
ちなみに、かのビョークが本作をいたくお気に入りということだが、一体どの部分が琴線に触れたのだろうか?というか、そもそもどこでこの作品を知ったのか‥?何とも不思議な接点である。
母の愛を体現した乙羽信子の熱演が素晴らしい。
「母」(1963日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 民子は2度の離婚経験を持つシングルマザー。女手一つで育ててきた幼子・利夫に脳腫瘍が見つかり手術することになる。しかし、貧しい民子にはとてもそんな大金は用意できなかった。母の勧めもあり、手術費用を工面するために本意ではない相手と結婚することになる。相手は小さな印刷業を経営する田島という男だった。彼のおかげでどうにか利夫の手術は成功する。しかし、民子はどうしても彼と夫婦の関係に踏み切れなかった。そこに家を出て行った父の訃報が届く。
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(レビュー) 息子のために我が身を犠牲にする母の尊い愛を崇高に謳い上げた人間ドラマ。
原作・監督・脚本・美術は新藤兼人。
「裸の島」(1960日)の成功によって大手映画会社に頼らず自力で作品を撮ることを実証してみせた氏は、ここにきて益々自信と気力が充実し、数々の作品を輩出していった。今作はそんな脂がのり切ってきていた頃に作られた1本である。
新藤監督の今作にかける意気込みは、民子を演じる乙羽信子に対する演出からも伺える。本作の彼女の熱演は実に素晴らしく、今回の大きな見所となっている。
映画は民子に降りかかる不幸を描きながら、母親の愛とは?というテーマを真摯に説いている。彼女は利夫のために好きでもない田島と結婚するが、まさにここからして子を思う母の犠牲愛である。
しかし、いくら不本意な結婚相手だとしても、田島は決して悪い男というわけではない。民子との空疎な夫婦生活に愚痴もこぼさず真面目に働き、連れ子である利夫にも自分の娘と変わらない愛情を注ぐ。彼の人柄は、やがて固く閉ざしていた民子の心を開くようになる。そして、民子は田島を受け入れていく。彼女のこの心理を探求していくと興味が尽きない。というのも、ここには彼女の、もう一度子供を産みたい‥という欲求があるからだ。
これは夫婦愛からくる欲望ではないと思った。つまり、すでに出産ありきのセックスであり、民子はあくまで子供を産んで育てたい‥という思いから、田島に抱かれる決心をしたのだと思う。精子を提供する田島にとっては実に惨めな話であるが、おそらく民子は田島と子供、どちらか一方を選べと言われれば間違いなく子供の方を選ぶだろう。それくらい民子の母性欲求は強い。
では、何故彼女はまた子供を産みたいと思ったのだろうか?自分は、これは彼女の母親としての自己存在の証明だったのではないかと考える。
よく言われることだが、夫婦は子供が生まれると男女の関係から子供を中心とした親の関係になっていく‥という。妻は我が子を最優先に考える”母”となり、夫は”男”ではなくなっていく。大体の夫婦はこうなっていくものなのだ。正に民子も”妻”ではなく”母”にならんとしたのだろう。これは当然の心理のように思えた。
尚、終盤の民子の「一緒にこのお腹に入ってる気がするの」というセリフには衝撃を受けてしまった。母親とはこういうことを考えているのか‥と、男である自分には理解できなかった。しかし、これも母としての真理なのだろう。そして、ここまで深く母性愛を追求した新藤監督の眼差しには改めて感服するほかない。
本作には民子の弟・春夫のドラマがサブストーリー的な位置づけで登場してくる。こちらはモラトリアム学生の悲劇の青春談といった感じのエピソードになっている。残念ながらこのエピソードは民子のドラマにわずかながらリンクするものの、全体を通してさほど意味を持つわけではない。かえって映画を散漫にしてしまった感じがした。民子のドラマの背景の一部分くらいに抑えてくれた方が構成的にはスッキリするように思った。
演出は非常に堅実にまとめられている。ただ、幾分特異なタッチも見られ、このあたりは
「人間」(1962日)のような息詰まるような緊迫感を狙っているように見えた。特に、黙々と働く工場のシーンは、田島と民子の二人だけの空間になり、そこに流れる独特の空気感は大変不気味である。
尚、物語の舞台は広島である。他の新藤監督の反戦映画と同じように、今作にも所々に原爆ドームや平和記念公園などが写し出されている。決して前面に出てくるわけではないが、映画の端々に反戦メッセー ジが読み取れたことは、一連の新藤作品を見てきた者としては興味深かった。
過酷な状況における人間の醜い争いを描いたサバイバル映画。
「人間」(1962日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 太平洋に面した漁村から小さな船が出航する。乗員は全部で4人。船長の亀五郎、彼の甥の三吉、船頭の八蔵、海女の五郎助である。最初は意気揚々としていた彼らだったが、夜になって嵐が吹き荒れ遭難してしまう。
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(レビュー) 大海原に遭難した漁師たちの必死のサバイバルを描いた作品。
監督・脚本・美術は新藤兼人。絶望的状況に追い詰められた人間の醜悪な対立を荒々しいタッチで描いた問題作である。人間のエゴと残酷さに容赦なく迫った演出はすこぶる快調で、ここまでやってしまうのか!という所に、彼が創設した独立プロ・近代映画協会の野心と勢いが感じられた。大手映画会社では到底撮れない作品であろう。
この映画は主要人物がたったの4人で、ほとんどが船上で展開される密室劇になっている。こういうドラマはキャストの演技力というものが問われてくるが、そこについても演技達者が揃っているので安心して見ることが出来た。
亀五郎を殿山泰司、五郎助を乙羽信子、八蔵を佐藤慶、三吉を山本圭が演じている。白眉は後半、空腹に耐えかねて醜い喧嘩を繰り返していく4人の壮絶な形相である。汗と埃まみれになりながら這いつくばり、罵りあい、最後には取り返しのつかない蛮行にまで及んでいく。この中で唯一の戦争体験者である亀五郎は度々その時の悪夢にうなされるが、この殺伐とした空間も正に戦場のごとく‥である。
映像はモノクロの特性を活かしながら緊密に構成されている。筋状の太陽光が差し込む薄暗い船内の風景は外の世界とのギャップを強く印象付け、彼らが置かれている状況をことさら残酷に見せている。狭い船内風景にこうした光と闇のコントラストを上手くつけながら只ならぬ緊張感を創出したあたりは見事と言えよう。
林光の音楽はひたすらモダンで軽快である。見ようによってはシーンに似つかわしくない感じもするが、画面に映る悲壮感との対比を狙ってのことだろう。どこかユーモラスなテイストも湧き起こる。
テーマはタイトルが示すように正に「人間」とは?ということになろう。
これは終盤に起こる事件から一つの回答が得られる。新藤監督は後に「鬼婆」(1964日)という作品を撮っている。これも正に独自プロでしか撮れないような野心的な映画であるが、人間がいとも簡単に鬼に、つまり悪魔のように豹変してしまうことの恐ろしさを描いている。今作も基本的にはそれと同じテーマだと感じた。人間は普段は良い人ぶっていても、いざという時には醜い本性を表す生き物である‥という新藤監督のペシミスティックな人間観。それがよく出ていると思った。
尚、劇中の亀五郎は信心深い男として描かれている。彼にとって宗教は絶対的で、この絶望的な状況における唯一の心の拠り所となっていく。一方、その他の五郎助たちは初めから信仰心など持っていない。彼らは神棚に拝むよりも腹を満たす米をよこせと、船長の亀五郎に食って掛かる。つまり、彼らはどうせ死ぬなら腹いっぱい食って死にたいと、即物的な生き方‥というか死に方を望むのだ。信仰に厚い者とそうでない者との対立は、実に興味深いもう一つのテーマのように思えた。結局、宗教も相対的な価値観しか持たない虚ろなもの‥ということを、新藤監督は亀五郎と五郎助たちの対立を通して鋭く言い放っている。
実話の映画化。被爆の恐ろしさを悲喜劇の絶妙なバランスで料理した所に上手さを感じる。
「第五福竜丸」(1959日)
ジャンル社会派・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1954年1月22日、静岡県焼津漁港からマグロ漁船第五福竜丸が出港した。漁船は当初予定していた航路を外れ、3月1日ビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験に遭遇する。2週間後、帰港した乗員23名は全員原爆症と診断され緊急入院した。一方、マスコミ は大々的にこの事件を取り上げ、日米間の責任問題にまで発展。乗員達と家族の運命も大きく変化していく。
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(レビュー) マグロ漁船がビキニ環礁でアメリカ軍の水爆時実験の被害にあった、いわゆる第五福竜丸事件を描いた作品。
監督・脚本は新藤兼人。
「原爆の子」(1954日)で広島の被爆を描いた新藤監督は、同年に起こったこの事件に改めて憤りと恐怖を感じたに違いない。独自プロ、近代映画社製作で製作された本作は、再び被爆の恐ろしさについて訴えかけている。「原爆の子」同様、テーマは力強く発せられていると思った。
物語は、この事件の被害者・久保山の視線を通して描かれる群像劇になっている。若い娘と交際する青年乗員、事件を追いかける記者、久保山達を診断する医者。様々なエピソードが全体のドラマを紡いでいく。ただ、全てのエピソードが完結しているわけではなく、中には中途半端なまま放り出されて終わってしまっているものもある。全体の鑑賞感に物足りなさを覚えるほどではないが、久保山以外の周縁ピソードに若干ムラを感じた。
演出は終始ドキュメンタリー・タッチが貫かれている。第五福竜丸がどうして実験の被害に遭ったのか?それを順序立てて描きながら、中盤からは事件を巡る日米外交やマスコミ騒動などが描かれていく。これを見るとこの事件がいかに世界に大きな衝撃を与えたがよく分かる。客観的な視線が貫かれたところに作り手としての真摯な姿勢が伺えた。
特に、事件の状況を克明に再現した前半は、相当取材したのだろう。かなりのリアリティが感じられた。爆発の衝撃波が光を見た3分後に訪れたという事実。乗員の「西から太陽が上がった」というセリフ。広島と長崎の原爆投下から約10年経つが、当時の人々には被爆の知識が十分でなかったことも伺える。当人たちの飄々としたやり取りが余計に恐ろしく感じられた。
事実に即した記録映画的な作りの一方で、今作には劇映画的な面白さもふんだんに盛り込まれている。
メインのエピソードとなるのが久保山と妻の夫婦愛のドラマである。ラスト直前の列車のシーンは事実なのか創作なのか分からないが、人間の慈しみの心というものが実感させられ涙を誘われた。感傷的に盛り上げたくなる所だが、ここでも新藤監督は冷静な演出を忘れない。
また、今作には絶妙な按配でブラック・ユーモアも配されている。頭の固い社会派映画にしたくなかった‥という新藤監督の狙いみたいなものも感じられた。扱う題材が題材だけに際どい表現も多いが、このあたりの硬軟自在の演出センスには唸らされるものがある。
たとえば、放射能を浴びて真っ黒になった船員たちが、互いに顔を見て「土人がうどん粉を舐めたようだ」と言って笑いあう姿。初めて見たガイガーカウンターの音に驚いて右往左往する姿、入院部屋にテレビ局からテレビが送られてきて大喜びする姿など、普通に考えたら居たたまれなくなるような場面にユーモアを配している。こうした"笑い"に目くばせしながら新藤監督は被爆の恐ろしさを訴えかけている。
そもそも、考えてみれば、小さな港町の無名の漁師たちが世界の注目を集めることになってしまったのだから、これほど冗談めいた話もないだろう。これは作ろうとしても中々作れない。正に事実は小説よりも奇なり‥である。
新藤監督の反戦メッセージが徹底した傑作。
「原爆の子」(1952日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 広島に原爆が投下されてから5年後。離島で学校教師をしている孝子は、両親を被爆で亡くし、今は伯父夫婦の家で暮らしていた。彼女は休暇を利用して元の教え子たちを訪ねることにした。そして、広島に着いて早々、彼女はかつて家で働いていた岩吉と再会する。彼は被爆で顔が焼け爛れ一人でバラック小屋に住んでいた。唯一の家族である孫・太郎は孤児院に入っているが、そこにはある問題があった。その話を聞いて不憫に思う孝子。その後、彼女は元同僚の家を訪ねて、生き残っている3人の子供たちの住所を教えてもらう。早速、彼らの元を訪ねるが、皆夫々に被爆の被害で苦しんでいた。
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(レビュー) 一人の女性教師の目を通して被爆の現実を描いた社会派人間ドラマ。
まだ戦争の傷跡が癒えない当時、映画に限らず新聞、文学、あらゆるメディアはGHQによる統制下にあり、原爆について語ることは一切禁じられていた。GHQは1952年に日本から撤退するが、本作はその直後に製作された作品である。日本で初めて原爆について描いた映画ということになる。
監督・脚本は新藤兼人。原爆の被害にあった人々の悲しみと憤りが作品からダイレクトに伝わってきた。実に力強いメッセージを放つ傑作だと思う。
物語は、孝子が原爆の被害にあった3人の元教え子達の家を訪ねることで展開されていく。彼らを前にしてどうすることも出来ない非力さ、彼らの幸せを一瞬のうちに奪ってしまった原爆に対する憤り。それが孝子の視線を通して静かに綴られている。
新藤監督はこれを変に作り物臭いものにせず、まるでドキュメンタリーでも見ているかのようなスタイルで撮っている。客観的眼差しを貫いたことで、被爆という現実にも一層の重みが感じられた。
その一方で、映画はかつて孝子の家で働いていた下男・岩吉のドラマも描いていく。被爆者という差別に耐えながら孤独な暮らしを送る彼は、孤児院暮らしの孫・太郎を引き取るかどうかで葛藤する。そして、そんな彼を不憫に思った孝子は自ら進んでこの問題に立ち向かっていく。それまで3人の元教え子たちに対して常に客観的な立場を取ってきた彼女が、ここで初めて被爆という問題に自らの意志で立ち向かっていくのだ。敢えて辛い決断を下すのである。
映画は彼女のこの決断をもって終幕する。素直に受け止めれば、彼女の行いは戦争に芽吹いた一つの希望の兆しと捉えるられるかもしれない。
しかし、その一方でそう安易な美談として片づけることが出来ない辛辣さも感じられた。というのも、映画のラストは、上空を飛ぶ不気味な飛行機の音で締めくくられている。これは、戦争はまだ終わていない‥というメッセージではないだろうか。だとすると、孝子の決断をもって「良し」とするのは少し単純な感じもしてしまう。岩吉のような被爆者が他にもまだたくさんいるという現実、そのことを忘れないでほしい‥という監督からのメッセージのようなものが感じられた。
被爆と被曝では言葉の意味が全く異なるが、昨年の巨大地震のこともあり、何となく遠い昔に作られた映画のようには見れなかった。
ひたすら過酷なエピソードが続くが、中には安堵させられるエピソードもあった。孝子が3番目に訪れる元教え子のエピソードに登場する姉の結婚話である。今村昌平監督の
「黒い雨」(1989日)を見るとよく分かるが、現実にはここまで上手くいくのは稀だろう。しかし、こうした救われるエピソードが入ることで、見る方としても随分と気分が楽になる。このメリハリの付け方は、長年シナリオライターとして実績を積み上げてきた新藤監督ならでは手練だと思う。陰鬱なドラマだけで終わらせなかった所に作劇の上手さを感じた。
演出も実にこなれた物を見せてくれている。ただ、教会のシーンの口上が教示的過ぎるのと、子役の演出が少し雑に見えたのは残念だった。特に、太郎の演技が終盤にかけて弱く映るのはいただけない。彼は重要な役所なので、もっと念入りな演出を心掛けてほしかった。
本作はテーマが崇高に発せられているという時点で紛れもない傑作になっていると思う。しかも、当時でしか見れない風景が見れるという意味においても稀にみる傑作である。新藤監督は他にも反戦映画を撮っているが、これほどシリアスにテーマを突き付けている作品は他にないと思う。そういう意味では、彼のフィルモグラフィー上、特別な意味を持った作品のように思う。
日本最高齢の映画監督・新藤兼人の追悼の意を込めて彼の監督デビュー作を鑑賞した。
「愛妻物語」(1951日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 脚本家志望の青年・沼崎敬太は下宿先に住む娘・孝子と駆け落ちする。かつての恩人を頼って京都の撮影所を訪ね、そこで著名な映画監督坂口から仕事を貰い受ける。早速、執筆に取り掛かるが、初めて書いた脚本は坂口に認めてもらえなかった。落ち込む敬太を孝子は励ますのだが‥。
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(レビュー) 新藤兼人の監督デビュー作。
今作は彼が映画界に入る頃の実体験を元にした自伝的作品である。夫を支える内妻・孝子は、撮影現場でスクリプターとして働いていた久慈孝子をモデルに書き上げられた。新藤本人がどうしてもメガホンを取りたかった‥ということで監督を務めたそうである。尚、映画監督・坂口は新藤監督がこの世界に入るきっかけを作ってくれた溝口健二をモデルとしている。そういう意味では、1人の映画人としての草創期を知るという思いで興味深く見れた。
ストーリーは、不世出の男が内助の功で成功していくというドラマである。落ち込む夫を時に叱咤し、時に温かい愛情で包み込む妻の姿は実に健気で、見ていて思わず癒されてしまった。新藤監督の久慈孝子に対する溢れんばかりの愛情も画面からよく伝わってきた。
中でも、敬太と孝子が将棋を指すシーンが味わい深かった。変に饒舌さを狙うよりも、こうした何気ない日常を淡々と積み重ねる作劇にはリアリティが感じられる。
その他にも脚本家・新藤兼人ならではの職人技も堪能できる。まずアイテムの使い方が秀逸である。雨漏り、ブランコ、豆、手鏡、朝顔、こうしたアイテムを駆使しながら人物心情を鮮やかに表現している。このあたりは流石である。
一方、ご都合主義な展開が幾つか見られたのは残念だった。例えば、孝子が車に乗った坂口に偶然出会うシーン、クライマックスにおける両親のここぞと言わんばかりの登場など、やや作りすぎな感じも受けた。このあたりはもう少しスマートに持って行けなかったか‥と惜しまれる。
一方、演出の方だが、こちらは初演出とは思えない手練を早速披露している。
例えば、シナリオがようやく坂口に認められて敬太と孝子が喜びを分かち合うシーン。一瞬信じられないといった表情を見せる孝子に敬太は柔道を取ろうと言って茶化す。倒された孝子はそのままうずくまってしまう。顔を見せずに泣く孝子。それを見て焦る敬太。振り返って抱きつく孝子。直感的に喜びの感情をひけらかさないこの演出。一服置いてからの感情の噴出は実に上手いと思った。
キャストでは敬太を演じた宇野重吉の好演が光っていた。淡々とした演技に秘めたる悲しみをうっすらと表出させたところに上手さを感じる。
孝子役は後に新藤監督の良き理解者、良きパートナーとして共に映画人生を歩むことになる乙羽信子が演じている。こちらも好演と言っていいだろう。彼女とはその後、内縁関係になり1978年に入籍を果たしている。
この大作感は邦画界では久しい。
「沈まぬ太陽」(2009日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 1960年代、国民航空の労働組合委員長を務める恩地は、副委員長・行天と労働環境改善を巡って争議に明け暮れていた。志を同じくする者同士、固い絆で結ばれていたが、二人の運命は大きな隔たりを見せていくようになる。恩地はパキスタンに左遷され、行天はアメリカに栄転となったのだ。家族と共に慣れない外国で不遇の暮らしを強いられる恩地。そんな彼を更なる試練が襲う。そして時はめぐり現代。国民航空は航空史上最悪のジャンボ機墜落事故を起こしてしまう。帰国した恩地は遺族者たちの世話人係を任されるのだが‥。
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(レビュー) 日航機123便の墜落事故をモチーフにした山崎豊子のベストセラー小説を豪華キャストで映像化した作品。
最近の日本映画では見られなくなったオールスター・キャストによる大作で、上映時間はインターミッションを挟んで3時間半弱。正に堂々たる大作と言えよう。
ちなみに、原作山崎豊子と言えば、山本薩夫監督とのコンビで作られた「白い巨塔」(1968日)、
「華麗なる一族」(1974日)、
「不毛地帯」(1976日)といった作品が思い出される。いずれも見応えのある力作であった。本作にもそうした山崎&山本テイストは確実に引き継がれており、こじんまりとした印象の多い日本映画界にかつての大作趣向を蘇らせた‥という点では意義のある作品のように思う。
ただ、原作はかなりの長編であり、それを1本の映画にまとめるのはさすがに無理がありすぎる‥という感じがした。
映画は恩地の正義の戦いをストレートに綴っている。その戦いは、大きく分けると労働闘争、墜落事故の処理、会社の改革という3つのエピソードにまたがって展開されていく。その間に盟友から宿敵となった行天、事故の遺族者たち、政治家、恩地の家族等、多彩な人物が登場してくる。これだけの事件と人物が登場してくれば、さすがに3時間半かけても作りは窮屈にならざるを得ない。よくまとめている方だと思うが、友情、家族愛、政治サスペンスといった様々なテーマを完全に咀嚼できないまま、あらすじの説明だけに終始してしまった。
個人的には、恩地と行天の対立関係が最も面白く見れた部分だったので、友情の崩壊。そこをもっと掘り下げてほしかった。
情に流されなかった結末は評価できるものの、恩地=善、行天=悪という振り分けを安易に処理してしまった所に詰めの甘さが感じられた。何物にも屈しない恩地の正義の信念は十分描かれているのだが、逆に行天がどんな思いで善から悪に染まってしまったのか?そこを深く掘り下げて欲しかった。そうなれば当然映画の上映時間は更に長くなってしまうが、他のエピソードを削ってでもそこを見せて欲しかった。
例えば、
「ダークナイト」(2008米)は徹底してジョーカーの悪を描くことで、バットマンの善の重みを問うことに成功した作品だと思う。本作も行天の心中に迫れれば、恩地の善の尊さ、意義は更に大きな意味を持つに至っただろう。この手の大作でしか味わえない心にズシリとくる重厚感も出たかもしれない。
演出は概ね堅実にまとめられていると思った。ただし、一部のCGについてはいただけない。特に、像のCGは余りにも違和感がありすぎて、正直見ていて辛かった。このアバンタイトルのカットバック演出は不要に思う。また、人前で遺言を口に出して読む演出はいくらなんでも無粋であろう。黙読、せめてモノローグならまだ自然に見れる。
キャストは流石に芸達者が揃っているので安心して見ることが出来た。特に、印象に残ったのは木村多江が遺体安置所で泣き崩れるシーンである。夫の死を信じたくないという悲痛な思いを文字通り〝壊れた″演技で上手く表現していると思った。むろん、恩地を演じた渡辺謙の熱演も見応えがあった。
海外ロケもこの手の大作感を出す上では奏功している。アフリカ・ロケは映像的にもスケール感があって良かった。
ちなみに、今作でも最も印象に残ったキャラクターは恩地でも行天でもなく、香川照之演じる八木だったりする。彼は恩地の元で労働運動に励む真面目で気弱な社員なのだが、会社が労組を潰しにかかる中で職場の窓際へ追いやられてしまう。それでも彼は辞めずに会社にしがみついた。彼には彼なりの戦いがあったのだ。強い信念を持って会社の中から改革を起こそうとした恩地は立派なヒーローだった。しかし、八木はまた違った意味で目立たぬヒーローだったように思う。結局浮かばれない形でドラマから退場してしまうが、この顛末にはサラリーマンの悲哀を見ずにいられなかった。