これは一種のアウトロー映画として見るべき作品なのかもしれない。色々な意味で伝説的過ぎる内容。
「ゆきゆきて、神軍」(1987日)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル社会派
(あらすじ) 終戦直後、ニューギニアで起きた日本兵部下銃殺事件を追ったドキュメンタリー。部隊の生き残り、奥崎謙三の目線を通して事件の真相が露わにされていく。
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(レビュー) 映画冒頭で奥崎謙三のプロフィールが紹介されるが、その経歴たるや凄まじい。金銭トラブルから殺人を犯し、昭和天皇にパチンコ玉を発射し、天皇ポルノビラをばら撒いた。その後、参議院選挙に出馬し落選。田中角栄の殺人予備罪で逮捕されている。まぁ要するに、彼は戦争責任を過激に追及するアナーキストなのである。そんな彼が戦時中の銃殺事件を追及していく‥というのがこの映画である。監督・撮影は原一男。企画は名匠・今村昌平。
銃殺事件の衝撃性もさることながら、やはり今作の魅力は何と言っても奥崎のキャラクター。これに尽きると思う。
奥崎は事件の真相を暴くためにかつての上官を訪ね歩いていく。カメラはその姿を切り取りながら一触即発な光景をスリリングに切り取っている。
一体どんな状況で誰が処刑したのか?何故処刑命令が出されたのか?奥崎はかつての上官たちに詰め寄っていく。しかし、相手は口を閉ざし何も語ろうとしない。過去の悲劇を蒸し返したくないという思い、事件に加担した責任を逃れたくて何もしゃべらないのだ。奥崎と彼らの喧々諤々のやり取りがピリピリとした緊張感を生んでいて終始面白く見れた。
映画を観る限り、奥崎という男は普段は大人しくて物腰の柔らかい人物である。しかし、自分がこうと決めたら最後までやり通さないと気が済まないような所があり、インタビューでは、時と場合によっては過激な行動も辞さないと語っている。実際、映像の中で彼は上官たちと喧嘩になったり、数時間も相手を拘束して警察の厄介になったりしている。傍から見れば何をしでかすか分からない人物で、こういう言い方はどうかと思うが、良くも悪くもバイタリティに溢れた人物である。
あるいは、これは語弊があるかもしれないが、「奥崎謙三」=「エンタテイナー」という言い方も出来るかもしれない。カメラを向けると調子に乗っておどる芸人と一緒で、奥崎の過激な暴力、どう喝はある種パフォーマンスのようにも見れてしまう。思い出されるのが、アメリカで自作自演で過激なドキュメンタリーを制作しているM・ムーアである。彼ほどのエンタメ精神は無いにしろ、やはり奥崎という男も相当自己顕示欲の強い男なのだと思った。
尚、自分は基本的には暴力は何も生まないと思っている。但し、非暴力を貫いて不正を正せないのであれば、ある程度の暴力は必要なのではないか‥とも思っている。学校教育も然りで、善悪を教えるのための手段としてなら、時には厳しく躾けることも必要であると考えている。
本作に登場する元上官たちは、被害者の死を偲ぶようなふりをして皆口をつぐんでいる。どんなに詰め寄っても一言も語らない。このままでは真実は永遠に葬り去られてしまう。それを白日の下に晒そうとする奥崎の過激な暴力は犯罪スレスレかもしれないが、自分には一定の理があるように思えた。
このように、今作は120分全編に渡って奥崎という男の独壇場の活躍(?)が生々しく切り取られたドキュメンタリー作品になっている。そして、その一方で今作には作為的とまでは言わないが、ユーモアとペーソスが所々に配されている。このあたりには原一男監督のエンタテイメントの精神が感じられた。
例えば、騒ぎを聞きつけてやってきた警官に奥崎が敢然と立ち向かっていく所には、権力に屈しないアウトローとしての頼もしさが感じられるが、同時にそのやり取りにはどこかユーモラスな味わいも感じられる。
また、映画前半は被害者家族が登場して奥崎と行動を共にするのだが、事件の背景が一応解明されたところで彼らは画面から退場してしまう。困り果てた奥崎は、仕方なく縁故者を被害者家族に偽装させて元上官宅に乗り込んでいく。これも人を食っているとしか言いようがない。おそらくこの映画を見た相手は後になって「騙された!」と思ったに違いないだろう。
奥崎が乗る車も滑稽で笑えた。「宇宙人の聖書」「田中角栄を殺すために記す」という文字が大きく書かれたバンに乗って、選挙カーよろしくどこまでも走っていく。これらはすべて奥崎が自費出版した著書のタイトルだそうである。このタイトルからしてかなりヤバイ電波が入っているとしか言いようがない。
こうしたユーモアの合間には時々ペーソスも挿入される。例えば、奥崎が戦死した同年兵の母親宅を訪れるシーンにはしみじみとさせられた。終盤でその伏線が回収され、このあたりの構成も実に見事に計算されていると思った。
また、この映画は内容以外の部分でも、かなり問題作のように思う。これだけ被写体の私生活にズケズケとカメラを持ち込んで入っていったドキュメンタリー映画はそうそうないだろう。その後、原監督や奥崎は出演者から訴えられなかったのだろうか?少なくとも自分はそういった記事を目にしたことが無い。これは実に不自然なことだと思う。
何はともあれ、現代ではこのようなドキュメンタリー映画を撮ることは難しいと思う。第一にプライバシーの侵害で映画関係者が犯罪者になってしまう恐れがあるからだ。そういう意味では、他に類を見ないドキュメンタリー映画であり、今後こうした映画が公然と公開されることはおそらくないだろうし、あったとしたらそれは大変危険なことだと思う。
荒んだ青春を送る男女の刹那的なロマンス。
「ゆけゆけ二度目の処女」(1969日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルロマンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) マンションの屋上である少女が複数の男たちにレイプされた。その中の一人が少女を気遣って介抱する。少女はレイプされたのはこれで2度目だと言う。そして、自分を殺してくれと青年に頼んだ。
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(レビュー) レイプされた少女とそれを見殺しにしてしまった青年の愛憎ドラマ。
マンションの屋上と階下だけで繰り広げられる二日間の密室的寓話で、解放感に満ちた青春ロマンスとは真逆の息苦しい映画である。上映時間も70分足らずという短さで、二人の生々しいやり取りが実に濃厚に、そして緊迫感に溢れたダイアローグによって表現されている。
少女と青年が抱える過去は実にヘビーである。レイプされた少女は青年に自分を殺してと頼む。死にたければそのまま屋上から飛び下りれば済むわけであるが、彼女は敢えて青年にそのようなことを言うのだ。何故か?それは過去に両親が自殺したことに関係している。少女は彼らのような惨めな死に方だけはしたくないと思っているのだ。おそらくだが、自殺は自分の負けを認めるような気がして嫌なのだろう。
一方の青年は自殺未遂の経験がある。童貞で性不能というコンプレックスを抱えながら暗い日常を送り、家庭環境にも大きな問題を抱えている。彼は少女がレイプされるのを見て初めて性衝動を覚え惹かれていく。しかし、そもそも自分のことを殺してくれという少女にその思いは伝わるはずもない。
映画は終始、彼らの噛み合わない会話を中心に展開されていく。そして、クライマックスで"ある事件"が起こり、それをきっかけにして、少女の死にたいという絶望感、青年のセックスしたいという欲情が刹那的な形で止揚されていく。
自分は不思議なことにこの結末にそれほど嫌な感じを受けなかった。普通ならこれだけ陰鬱なムードが続くと見ていて気が滅入ってしまうものだが、この結末がある種のカタルシスを呼び嫌いになれないのだ。もしかしたらこれが彼らにとってのハッピーエンドなのではないか?とすら思えてしまう。むろんこれは見る人の解釈次第だが、自分はこういう形で青春の一瞬の輝きを見せてくれたことに妙な愛着感を持ってしまう。
監督は鬼才・若松孝二。今作は低予算なモノクロ映画であるが、モノトーンの特質を効果的に活かした演出には目を見張るものがある。例えば、レイプされた少女の股間から一筋の血が流れる序盤のショット。これは屋上に干された真っ白なシーツとの対比によって、事の残酷さを強烈に印象付けることに成功している。その後のシャワーのシーンも秀逸だった。他にも本作にはこうした美的感性に満ちた映像ショットが幾つか見られる。
そして、極めつけはカラーで描かれる回想シーンだろう。今作は基本的にモノクロだが二人の回想シーンだけはカラーに切り替わる。普通なら画面に華やかさや生き生きとした印象を植え付けるはずのカラーが、ここでは残酷さ、醜さを見せるための演出として使用されている。これも面白い。
所々のセリフにも面白いものが見つかった。脚本は若松の盟友・足立正生(出口出名義)である。
「二十歳になったら20階から飛び降りて死にたい」
「落ちるまで何秒かかるかな?」
「5秒くらい?」
「1秒でいいわ」
こうしたユーモアを利かせたクールなセリフ、あるいは詩的で思慮に富んだセリフが時々登場してハッとさせられる。
音楽も独特な味わいがあって面白かった。特に、二人が歌う歌詞は要注目だろう。その意味を辿っていくと完全に錯乱しているとしか言いようがないのだが、一方でこれが彼らの「本音」であることもよく分かってくる。
例えば「ゆけゆけ二度目の処女」という映画のタイトルは、少女が歌う歌詞に登場してくる。「二度目の処女」の意味を探りながら耳を傾けていくと面白い真実が見えてくる。
一方、少年が歌う歌詞からも興味深い心理が読み取れる。いわゆるマザコン的なニュアンスが嗅ぎ取れ、精通できない悲しみと反逆心が歌詞の内容に狂おしいほどに投影されている。
大島渚の作家としての意地がほとばしる問題作!
「愛のコリーダ」(1976日仏)
ジャンルロマンス・ジャンルエロティック
(あらすじ) 昭和11年、東京・中野の料亭に定という女中が住み込みで働いていた。彼女は幼い頃に芸者に出され、娼婦に落ちぶれてここに流れ着いた悲しい女だった。そんな定を店の主人・吉蔵は目をかけてやる。やがて二人は肉体関係に溺れ愛の巣を構えた。戦争の機運が高まる中、二人はそこでひたすら愛し合っていく。
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(レビュー) 昭和の犯罪史に残る阿部定事件をモティーフにした作品。その過激な性描写から様々な波紋を呼んだ問題作である。
監督の大島渚は、日本では十分な製作ができないということでフランス資本の協力を得て今作を完成させた。尚、日本からは独自の映画製作を闊歩する鬼才・若松孝二が製作者として名を連ねている。かくして出来上がった作品だが、当時の日本では大幅に修正された上で上映された。その後、2000年に修正を極力抑えたバージョンがリバイバル上映されている。しかし、これも一部でボカシが入りパーフェクトな作品と呼べるものではなかった。おそらくフランスで公開されたものが最も完全な形として公開されたバージョンではないかと思う。
よく言われることであるが、この手の作品を"わいせつ″と取るか"芸術"と取るかは必ず問題になるところである。これは見た人それぞれが判断するしかないと思う。
画面に映る男女の性行為だけを見れば確かにAVと何ら変わらない。ただ、そこから見えてくる異常性愛。つまり、男の陰部を切り取ってしまうほどの狂気的愛。その意味を画面から汲み取ることが出来たならば、今作は紛れもない"芸術"映画ということになろう。自分は正にそうであった。理性を凌駕してしまうほどの欲望を人間は本来持っている‥という提言にノックアウトされてしまった。
一方で、このドラマには元になった事件があるわけで、そのことを考えると定のこの異常性愛にはホラー映画のような怖さも感じてしまう。着物や包丁、カミソリといったアイテムを使いながらサスペンスを盛り上げていく構成はエンタテインメントとしても上手く考えられており、中には思いのほかゾッとさせられるようなシーンもあった。
逆に、ホラーを裏返せばそれはコメディにもなりうるわけで、人によっては今作は極めてナンセンスな喜劇のようにも見れるだろう。男女の嫉妬と情念などというものは、ここまで想像を超えたものになってしまうと遠くの存在の物としてしか見れなくなってしまう。余りにも残酷且つ扇情的な定の行動と、それに翻弄されながら絡み取られていく吉蔵の憐れな姿が、もはやブラック・コメディのようにしか見えず感情移入する余地がまったくなくなってしまう。吉蔵を演じた藤竜也の飄々とした演技と、性欲の権化・定を演じた松田暎子のトラッシュな演技のギャップが喜劇のようにも見れた。
尚、今作は間違ってもメロドラマとは言い難い代物である。何故なら、実際の事件が示すように悲恋として強く打ち出すなら、当然キャラクターに対する感情移入が先導されてしかるべきである。しかし、本作にはそうした作劇上のプレマイズが成されていない。いくらリアルな愛憎を元にしているとはいえ、二人の感情にすり寄ることはできない作りになっているのだ。これでは純然たるメロドラマとしての抒情、つまり結ばれぬ運命にある「ロミオとジュリエット」のような感動は生まれようがない。
このように本作はホラーであったり、コメディであったり、見る人によっては全くガラリと鑑賞感を変える作品である。そこが面白い所だ。
しかし、一つだけ確かなこともある。それは冒頭で述べたように、セックスをこれほど浩々と映し出した作品はR指定の一般映画としては画期的であるという点だ。
同性愛や、公衆でのセックス、乱交セックス、SMプレイ、物を使ったプレイ、果ては第三者を巻き込んでの羞恥プレイ等、様々な絡みが登場してくる。ここまで曝け出して見せられると、正直頭を垂れるしかない。海外に資本を求めてまで完成させようとした大島渚の執念も感じられる。映画表現の限界というものを示して見せた彼の所業は正しく映画史に残る"事件″と言っていいだろう。
尚、性行為の背後に流れる三味の音楽や太鼓持ちの芸、寓意色の強い美術等、超然とした風景もエンタテインメントを成すピースとして大いに楽しむことが出来た。
現実と虚構を彷徨いながら男女の性の探究が綴られている。
「新宿泥棒日記」(1969日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) モラトリアム青年・鳥男は新宿の大通りで万引少年の大立ち回りを目撃した。彼はその足で本屋へ向かい自分も万引きをした。しかし、それを女性店員ウメ子に見つかってしまう。社長の前に連れ出された鳥男は万引き少年と同じように開き直った。翌日、鳥男はウメ子に掴まれた手の感触が忘れられず、再び同じ店で万引きをはたらきわざと捕まる。その夜、二人は関係を持った。しかし、それによって互いの気持ちは逆に離れてしまう。
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(レビュー) 万引き青年とそれを掴まえた女の愛憎をシュールに綴った幻想的な作品。
監督は大島渚。脚本は大島と田村孟、佐々木守、足立正生といった面々が務めている。
これだけたくさんの人間が脚本をこねくり回してしまうと熟成どころか気泡が抜けてしまい、散漫な味になってしまうのは仕方がない所だろう。現に、今作はシーンを繋ぐ中間描写が極力排除されていることもあり、場面の不整合が目につく。今回大島自ら編集も担当しているので、そのあたりはわざと見る側を眩惑させようとしているのだろうが、これでは映画を見るリズムというものが狂わされてしまう。
もっとも、この不自然極まりない構成は先の展開の読めなさにも繋がっており、刺激に満ちた実験的作品と評することも可能である。このあたりは好き好きと言うこともかもしれない。ただ、少なくとも万人受けする作品でないことだけは確かである。
物語はいたって普通のボーイ・ミーツ・ガール物としてスタートする。
今作の鳥男のように、本屋の女性店員に性的な興奮を覚えるというのは何となく理解できなくもない。ウメ子が勤めているのは現在でも新宿の一等地にある紀伊國屋書店である。ここには哲学、美術、医学、様々な専門書が取り揃えられており、たとえるなら"知識の泉”の空間と言った所か。そんな場所で働いているウメ子であるから、彼女の鋭い目つき、凛とした佇まいには、貞操を重んじる淑女的な雰囲気も漂う。彼女の乱れる姿を想像して興奮してしまう鳥男の気持ちは、男なら理解できるのではないだろうか。
こうして二人の恋は始まるのだが、何という皮肉か‥セックスをしたことでそれは終わりを告げる。二人とも想像していたような快感を得られなかったのである。映画はここから二人にとっての性的快楽追求のドラマに突入していく。かなりシュールに展開されるので、見る者はある程度覚悟をしながら見ていかないとついて行けないだろう。現に自分も翻弄されっぱなしだった。
まず、今作には実名で俳優や学者、社長たちが登場してくる。
例えば、紀伊國屋書店の社長は社長本人が演じている。また、鳥男とウメ子が社長に連れて行かれるセラピーには本物の性科学者が登場し、延々と二人にセックスの講釈をする。また、鳥男とウメ子が立ち寄る酒場には、佐藤慶や渡辺文雄といった俳優達が本人役として登場し、酔っ払いながらセックス談義に花を咲かせる。
カメラの回る音が平気で入ってくるし、果たして演技なのか素なのかも判然としない。鳥男とウメ子が目撃するセックス講義、セックス談義がほとんどドキュメンタリーのように映し出されていくのだ。
後半に入ってくると、序盤に登場した万引き少年が鳥男とウメ子の前に現れて、更に混沌とした世界に突入していく。ちなみに、この少年役は状況劇場で有名な唐十郎が演じている。鳥男達は唐十郎の舞台に上がって劇中劇の芝居に参加していくのだ。それまで現実と虚構の狭間を彷徨っていた二人が、ここから完全に舞台劇の中、つまり虚構の世界に入り込んでしまう。
正直な所、中盤までは現実と虚構のギリギリのラインで面白く見れたのだが、ここまで虚構の世界に埋没してしまうとワケが分からなくなってしまう。余り面白いとは感じられなかった。唐十郎のイケメン振りが堪能できるのでファンなら楽しめるだろうが、そこはまた別の話である。この映画の本文ではない。あくまで今作のテーマは鳥男たちの性の探究である。
大島の演出はかなりアバンギャルドに傾倒しているが、映像、音についてのセンスには唸らされるものがあった。画面を横行するタイポグラフィー、映像と音の関係を脱構築するソニマージュ、洪水のように溢れ出す書物からの引用等、J・L・ゴダールの影響がそこかしこに見られる。松竹ヌーヴェル・ヴァーグと称された大島の真骨頂が確認できた。
尚、先日見た園子温監督の
「恋の罪」(2011日)でも引用されていた田村隆一の「帰途」の一節「言葉なんておぼえるんじゃなかった~」がここでも登場してくる。
今作は一部でパートカラーに切り替わるが、これも視覚的な刺激を追求した大島ならではのこだわりで面白かった。特に、午前五時、新宿大通りを歩く二人の姿を捉えた映像の虚無感といったらこの世の物とは思えぬシュールさで魅了された。現在ではCGを使っても中々撮れない風景だろう。
白土三平のコミックを実験的手法で描いた時代劇。
「忍者武芸帳」(1967日)
ジャンルアクション・ジャンルアニメ
(あらすじ) 室町時代、奥州出羽の伏影城で城主が家臣の坂上主膳によって暗殺された。城主の息子・重太郎は復讐を果たそうとするが、主膳の妹で忍者の蛍火に返り討ちにされ、そこを謎の男・影丸に救われた。影丸はその後、重税にあえぐ農民と野武士を率いて伏影城を攻め落とした。主膳と蛍火は辛くも逃げ延び、その先で明智光秀と数奇な出会いを果たす。一方、重太郎は父の仇を討つために修業の旅に出て、かつての恋人・明美と再会する。二人の前にあの影丸が再び姿を現す。
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(レビュー) 白土三平作の同名漫画を鬼才・大島渚が映像化した作品。といっても、実写映画ではない。実際の漫画のコマを1コマずつカメラで撮りながら、キャラクターのセリフを俳優が喋るという方法で撮られている。本当にマンガをそのまま読んでいるような感じで、果たしてこれを映画として認めていいものかどうか‥判断に窮する。
しかも、物語はナレーションを中心にかなり駆け足気味に展開されるので、全体的にかなり窮屈な感じを受けた。これでは物語本来のドラマチックさも抒情性も中々出てきにくい。
ただ、大島が敢えてこの手法にこだわった意味は、こうも想像できる。
手塚治虫によって確立された戦後日本漫画が、極めて映画的手法を持った表現であることは、おそらく誰もが認める所であろう。ロシアの映画作家クリショフやエイゼンシュテインによって創生されたモンタージュ理論は映画の未来を大きく変えた。それが手塚のマンガにも取り入れられている。大島渚はそうした日本の戦後漫画の性質を知った上で、このようなスタイルで実験的な映画作りを試みたのではないだろうか。
実際、漫画の1コマ1コマは映画の1カット1カットと同じ意味を放ち、何ら不自然なくストーリーが展開されている。
尚、荒れ狂った鼠の大群が荒野を迫りくる"地走り"のシーンは、カメラワークや効果音の威力も相まって実にパワフルであった。漫画のコマ構成がいかにモンタージュ的な構成に基づいて設計されているかがよく分かる。
このように漫画好きな人には色々と興味が尽きない作品だと思う。また、白土漫画の描線の勢い、緻密さもよく分かるのでファンにとっては楽しめる作品になっているのではないだろうか。
尚、物語は最後に非情な現実を突きつけて終わる。戦国の乱世を渡り歩いた忍者たちの末路はひたすら陰惨で、それは争いの歴史を繰り返してきた愚かな人間の姿そのものとも言える。ドラマそのものが訴えるテーマはいたって普遍的である。
ほろ苦い鑑賞感が少年の成長をまぶしく見せる。
「かいじゅうたちのいるところ」(2009米)
ジャンルファンタジー・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 父親がいない少年マックスは、寂しさからつい母親に悪態をついて家を飛び出してしまう。そして、かいじゅうたちが暮らす空想の世界に飛び込んだ。マックスはそこで偽者の王としてかいじゅうたちに迎えられ友情で結ばれていくようになる。
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(レビュー) 空想の世界で様々な冒険をしていく孤独な少年の物語。
世界的ベストセラーになっている絵本を鬼才S・ジョーンズが監督した作品である。S・ジョーンズと言えば少々癖のある映像派作家で、決して万人向けの作品を撮ってきた監督ではない。今作にも彼の才能はいかんなく発揮されているが、果たしてはどれだけの人に受け入れられるかは疑問である。しかし、通俗的なファンタジー映画とは一線を画す、実に"面白味"のある作品になっている。
元が絵本とはいえ、いわゆる子供向けの作品とは言い難い内容で、たとえばマックスの現実逃避である空想世界での冒険談は、彼の成長と共にハッピーエンドを迎えるかと思いきやそうはならない。彼は"かいじゅうたちのいるところ″に楽園を作って皆で楽しく暮らそうとするのだが、仲間割れが起こり安住の地とはならないのだ。普通の子供向け作品なら、王として楽園世界を完成させて現実世界に舞い戻る‥となろうが、まったく正反対の結末で締め括られる。彼が望んだ空想世界も所詮は現実世界と同じで夢も希望もない世界だった‥という残酷な結末。つまり敗北の苦みを味わってマックスは現実の世界に戻ってくるのだ。
幾ばくかのほろ苦さを伴う結末は、決して万人に受け入れられるものとは言い難い。しかし、幻想世界が正に幻想でしかなかったことを知り、現実に正面から向き合おうとするマックスの姿には"成長"というテーマがきちんと織り込まれている。現実をありのままに受け入れていかなければならない‥という現実主義的な結末にかなりの歯ごたえを感じた。
果たして原作はどうなっているのか分からないが、コテコテなシュガーコートで観客を魅了し夢と希望に溢れたファンタジーの世界を提示して見せる作品とは明らかに異なるテイストを持った作品である。
尚、アナクロニズムに造形されたかいじゅうたちは、その外見とは裏腹に飛んだり跳ねたり、かなり俊敏である。顔だけ見ると決して可愛いわけではないのだが動き出すと奇妙な愛嬌が出てくるから不思議だ。
また、かいじゅうたちは、全てマックスの心理メタファーとして造形されていることにも注目したい。嫉妬や不信、怒り、シニズムといったネガティブな心情を体現したキャラクター達で、かいじゅうたち=マックスなのである。したがって、彼がかいじゅうたちに王として迎え入れられるのも合点がいく。何しろ相手は自分自身なのだから‥。
そう考えると、かいじゅうたちとの別れは、過去の自分との決別という解釈も出来よう。幻想を捨てて現実を受け入れていく一抹の寂しさにはキュンとなってしまった。
映像は森や砂漠、海といった大自然の風景が美しく撮られていて良かった。場面によってはマックスが見る幻想世界をシュールに切り取っていて、これも面白かった。
強烈な風刺を持った寓話。
「動物農場」(1954英)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー・ジャンル社会派
(あらすじ) 動物農場で騒乱が起こる。搾取する農場主に怒った動物たちが一斉蜂起したのだ。農場主を追い出した動物たちはリーダーの豚・スノーボールを中心に新しい自分たちの農場を構える。暫くは平和な暮らしを送るが、副官のナポレオンの反逆によってスノーボールは追放されてしまう。
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(レビュー) 農場の動物たちの反乱を寓話的に描いたアニメーション作品。
ジョージ・オーウェルの同名原作の完全映画化で、ソビエトの激動の歴史を動物たちに置き換えて描いたということで一部でかなりの物議を醸した作品である。レーニンはメージャー爺さん、トロツキーはスノーボール、スターリンはナポレオンである。このキャラクター関係を把握した上で見ると、今作はかなりキツイ風刺として受け止められるだろう。
尚、技術的にはディズニーに引けを取らないほどのクオリティで、動物の動きなどには目を見張るものがあった。
物語はやや中だるみを起こすが、クライマックスにかけて上手く盛り上げられていると思った。ソビエトの地図や軍歌など、明らかに反共的なメッセージが見られるが、これはやはり原作者オーウェルの政治思想が反映されているのだろう。彼のベストセラーで映画化もされた「1984」(1984英)は、スターリン政権下の全体主義を暗に示したディストピア小説である。今作にもそれと同じ強権支配の恐怖と愚かさが痛切に読み取れた。
もっとも、これをことさら共産主義に当てはめて考えるのは早計と言う気もする。というのも、ここで描かれる醜い権力闘争は、どの時代にも、どの国家にも存在するものである。それは人類の絶えない争いの歴史と言い換えても良いだろう。そういう意味では、いつの世にも通じる普遍的なメッセージを持った作品と言える。
独特の世界観に引き込まれる。
「コララインとボタンの魔女」(2009米)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 少女コララインは古びたアパートに両親と引っ越してきた。父も母も仕事ばかりで全然かまってくれず、暇を持てました彼女は一人で遊びに出かけた。そこで近所に住む少年ワイビーと出会う。彼から祖母から預かったというコララインにそっくりな人形を貰う。その後、彼女は自分の部屋の中に不思議なドアを見つけた。開けてみるとそこには不思議な世界が広がっていた。
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(レビュー) もはやクリスマスの定番とも言える映画「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」(1993米)で監督デビューを果たしたヘンリー・セリックが同名児童文学をストップ・モーション・アニメで映像化した作品。孤独な少女の冒険をブラック&シュールに綴ったファンタジックな1編である。
「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は製作・原案・キャラクター設定を担当したT・バートンのテイストが色濃く反映された作品だったが、セリックが考えた世界観もかなり出ている。彼の特徴はバートンがタッチしていない今作を見るよく分かる。
例えば、彼がこれまで作ってきた作品「ジャイアント・ピーチ」(1996米)、「モンキーボーン」(2001米)を見ると、セリックにはセリックにしか出せない独特の感性がはっきりと見て取れる。「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のようなダークな色調はもちろんのこと、パステルカラーな色調も見られ、まったく相反する二つのカラーリングを違和感なく画面に溶け込ませる術に長けている。むろんこの感性はT・バートンも得意とするところだが、セリックがやるとそのあたりのバランス感覚が絶妙である。今作もどちらに偏ることがなく均等に配分されている。
今作はコララインにとっての現実の世界=ダーク、ドアの向こうのもう一つの世界=パステルに色づけされている。かっちりとしたトーンの切り替えが図られ、それがコララインにとっての地獄と天国、現実と幻想を意味していることがよく分かる。この映像的なメリハリのつけ方は実に刺激的で面白かった。
そして、終盤に入ってくると一見すると華やかで温かみに満ちた幻想の世界が実は恐ろしいものだった‥ということが分かり、ダークとパステルのトーンが突如反転する。このドラマチックな逆転現象も見事に物語を盛り上げていると思った。
キャラクターを生き生きと表現したストップ・モーション・アニメの技術も素晴らしい。このあたりは過去作に引けを取らない出来栄えである。
そして、奇抜なビジュアルをしたキャラクター造形。これも今作の大きな魅力だろう。コララインが住むアパートの2階に住むサーカス男、地下に住む老姉妹、ボタンの目をしたもう一つの世界の住人達。かなりグロテスクでパラノイチックだが、どこか愛嬌も感じさせる面白い造形をしている。特に、地下劇場のステージ・シーンで発奮する姉妹には声を出して笑ってしまった。
一方、物語はというと、こちらは至極シンプルに構成されている。コララインが現実の世界とドアの向こうの世界を行き来する、いわゆる"行って帰ってくる″イニシエーション・ドラマとなっている。安心して見ることが出来た。
ただし、極めて理不尽な展開が度々登場する上に、コララインにそっくりな人形や彼女の冒険を手助けしてくれる黒猫等、何を意味しているのか分かりづらい物が登場してくるので、解釈に迷うような所もある。童心に戻って何も考えずに楽しんでもいいのだが、様々に探究することも可能な一定の深みを持った作品になっており、ある意味で大人のための童話といった印象の作品である。
無国籍風な世界観が魅力。
「アフロサムライ:レザレクション」(2009日米)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー・ジャンルアクション
(あらすじ) 父の仇を倒したアフロは"一番の鉢巻"を手にして隠匿生活に入った。その鉢巻を狙って謎の女・シヲとかつての兄弟子・仁之助が現れる。アフロは父の墓前で打ちのめされ"一番の鉢巻″と父の遺骨を持ち去られた。アフロはそれを取り戻すべく旅に出るのだが‥。
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(レビュー) 岡崎能士の同名コミックをハリウッド・スター、サミュエル・L・ジャクソンが惚れ込み、製作と声優を務めて作り上げた日米合作のアニメーション作品。
今作は2006年に製作された「アフロサムライ」(2006日米)の続編である。自分は前作を未見だったので、最初は今一つ入り込めなかった。アフロと父親の関係、一番の鉢巻の意味。そういったドラマの設定が説明ないまま始まるので翻弄される。おそらく前作を見ていれば分かるのだろうが、まさか続編とは知らずに見てしまった自分の失敗である。こういうのは出来ることなら冒頭である程度の設定説明してもらえるとありがたいものである。
ストーリー自体はいわゆるシンプルな復讐劇でオーセンティックに仕上げられている。中盤がややダレ気味だったが、アフロの敵・シヲ達のミステリアスな計画など、最後まで上手くドラマを引っ張っていると思った。
さて、今作の魅力は何と言っても独特な世界観。これに尽きると思う。
主人公のアフロは、文字通りアフロ頭の黒人の侍で、このユニークなビジュアルからして魅力的だ。また、舞台は日本の時代劇をベースに敷いているが、SF、西部劇、ブラック・カルチャーなどが混在するカオスな世界観に包まれている。しかも、セリフは全編英語でBGMはヒップホップである。目にする物、耳にする物、全てがユニークで、このトンデモ感だけで100分飽きなく楽しめた。
アクションシーンの作画も日本の製作スタジオGONZOが手掛けるだけあってクオリティが高い。のっけから壮絶な斬り合いで引き込まれる。クライマックスからラストにかけての怒涛の展開もアニメならではのカタルシスがあり良かったと思う。
尚、アフロの父親が何となく格闘ゲーム「鉄拳」の平八にダブって見えて笑えた。彼の他にも様々な特徴を持った奇天烈キャラがアフロの敵として登場してくる。思うに、この世界観は格闘ゲームのそれに近いかもしれない。
小人目線で描かれる世界観にはワクワクさせられる。
「借りぐらしのアリエッティ」(2010日)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 小人の少女アリエッティは、郊外の古い屋敷の床下に両親とひっそりと暮らしていた。そこに病気療養のために人間の少年・翔がやって来る。ある晩、アリエッティは父と一緒に角砂糖とティッシュを借りようと翔の部屋に忍び込んだ。ところが、油断していた隙にアリエッティは翔に姿を見られてしまう。ショックを受けたアリエッティは角砂糖を落としてしまった。その日は収穫無しで床下に帰った。翌朝、彼女が外に出てみると、そこに昨日落とした角砂糖が置いてあった。
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(レビュー) 小人の少女と人間の少年の交流をハートウォーミングに描いたジブリ製作のアニメーション。原作はイギリスの児童文学、それを日本の田舎町に舞台を移して描いている。
今回、宮崎駿は脚本のみの参加である。監督はこれまで数々の宮崎作品で原画マンとして活躍してきた新人に任せている。
宮崎監督は自ら原画を描くことで独自の世界観を頑なに堅持する類まれな才能の持ち主だと思う。他人に任せるのではなく自分でやる。それが彼のポリシーであり、ジブリ・ブランドを盤石にした要因でもあろう。今回の新人監督もアニメーター出身という所では共通しており、一つ一つのキャラクターの動きについては随分と細かなこだわりが感じられた。クオリティの高いアニメーションで実に見応えがあった。
また、アリエッティたちが住む床下の居住空間には、人間たちが普段使う日用品や雑貨、たとえば腕時計、ボタン、郵便切手、鉛筆といったものがあちこちに散りばめられており、この遊び心に満ちた空間も見ていて実に楽しい。待ち針やすべり止めの活用法も面白かった。
全体的に映像に関してはこれまでのジブリ作品同様、満足できた。
物語の方は、ここ最近のジブリ作品は割と話のスケールが大きな作品が続いたせいか、それらと比較すると若干小品的な味わいになっている。アリエッティたち小人の目線で紡ぐドラマなので、物語の舞台は屋敷の敷地からほとんど移動せずこじんまりとした印象を受ける。小人と人間の交流というファンタジックな物語は、従来のジブリ映画ならいくらでも大きく広げることが可能だったはずである。しかし、今回は原作の世界観を守ったためなのか、敢えて小さくまとまっている。
もっとも、限られた空間を逆手に取った様々なエンタメ的なサービスシーンがふんだんに盛り込まれているので、決して作品自体が地味というわけではない。例えば、小人目線で見る人間や動物に対する恐怖などは臨場感のある作画によって見事に再現されていた。その昔、アメリカのテレビ映画で「巨人の惑星」というのがあったが、あれに似た興奮が味わえた。
また、相容れない人間世界に単身乗り込むアリエッティの勇気と好奇心は実にチャーミングだった。彼女にとっての一夏の冒険、恋愛ドラマは面白く追いかけることが出来た。
加えて、このドラマには異種の対立と融和というテーマも隠されている。支配する側と支配される側の関係、つまり人間と小人の関係は、文明対自然という従来の宮崎アニメで描かれてきたテーマに重ね合わせて見ることが出来る。こうしたテーマもよく伝わってきた。
一方、人間サイドの描写については、やや描き不足な感じを受けた。純粋で平穏に生きようとする小人たちの心情はよく伝わってくるのだが、人間たちは一体何を考え何を思って行動しているのか?そのあたりの所が今一つ分かりづらかった。主に気になった点が2つある。
クライマックス近くで翔がアリエッティのためにある行動に出るのだが、これはこの年齢の少年にしては思慮に欠ける行動に思えてしまった。そもそも、どうやって彼はアリエッティ達の仮住まいを見つけることが出来たのだろうか?そこに説得力が備わっていない。
もう1点は、ハルさんの小人に対する異常な執着心がエキセントリックに写ってしまったことだ。ここまで彼女を小人探しにのめり込ませる動機は一体何だったのだろう?そこを曖昧にしたままドラマが進行するので、見る方としてはドラマに入り込みづらくなってしまう。
小人サイドで綴るドラマなので、人間サイドのドラマが疎かになってしまうのは仕方がないことだが、せめて翔のキャラクターの掘り下げだけは必携だったように思う。彼は世の中をどこか達観した眼差しでみつめ、ややもすると超然としたキャラクターに見えてしまう。そこにリアリティをもたらすべくキャラクターの造形をしてこなかったツケが、ラストの感動を若干削いでしまっているような気がした。