人を食ったナンセンスコメディ。大人版「日本昔ばなし」。
「出張」(1989日)
ジャンルコメディ
(あらすじ) 主張中のサラリーマン熊井は、電車が事故で止まってしまい山奥の温泉街で一泊することになった。彼はそこで飲み屋の女主人と意気投合して一夜を楽しんだ。翌朝、目を覚まして街を出ようとしたとき、森の中から妙な物音を聞きつける。そこには機動隊相手に銃撃戦を繰り広げるゲリラの一団がいた。
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(レビュー) サラリーマンの奇妙な体験をシュールに描いたブラック・コメディ。
熊井は根っからの会社人間で仕事第一主義の男である。彼の人生の全ては会社であり、一生懸命働いてきたことに男としての誇りを持っている。しかし、その価値観は山中のゲリラに出会うことで崩壊してしまう。何故こんな所にゲリラが‥?という疑問を抱えながら、熊井は自由を獲得するために体制側と戦う彼らに奇妙なシンパシーを覚えていくようになる。それは会社の歯車として生きることを止めてより人間らしく自由に生きよ‥という啓蒙でもある。
見かけは実にシュールで奇妙な鑑賞感が残るが、ドラマ自体は自己存在の証明を問うた普遍的なテーマを持っている。目の付け所としては、製作年度が近いと言うこともあり滝田洋二郎監督の
「木村家の人びと」(1988日)との共通性も感じられた。人間の幸せとは?という疑問、非人間的な生き方に対する警鐘が、日常(下界)と非日常(山中)、保守(機動隊)と革命(ゲリラ)、常識(仕事)と非常識(戦争)の対比の中で浮き彫りにされている。確かに現実離れしたドラマであるが、中々鋭い風刺が感じられる。
監督・脚本は沖島勲。以前このブログで紹介した
「ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ」(1969日)に続いて撮ったのが本作である。前作ほどのアバンギャルドさは薄まりかなり見やすくなっている。ただ、若干シュールな演出が見られるので、そこは好き嫌いが別れそうだ。
そもそも本作は寓話としてしか捉えられない作品である。今の日本に機動隊と交戦しているゲリラなんかいるはずがないし、温泉街の飲み屋での体験もまるで都市伝説のように描かれている。さしずめ狐に化かされた怪奇談といった有様で、そう言えば沖島勲はTVアニメ「まんが日本昔ばなし」のメインライターでもあった。もしかしたら、本人の中では"大人のための「まんが日本昔ばなし」”として作ったようなところがあるのかもしれない。
一方、シナリオは随分と雑味が多い。全体のドラマからすると余り意味を成さないようなシーンがあるので、もう少し整理する必要はあっただろう。
例えば、中盤の若いゲリラ兵の色恋沙汰や序盤の駅の会話、飲み屋の女主人達とのセックス、不要もしくは冗漫と感じられる場面が幾つかあった。逆に、熊井がゲリラたちに心を開くきっかけとなるシーンは重要な所なので、丁寧に描写して欲しかった。共通の話題として"ぢ″を持ってきたアイディアは面白くて良いと思うが‥。
ラストは綺麗にまとまっていたと思う。明らかに非現実的な演出で見る側をあっと驚かせるが、この監督特有のユーモアが感じられる。作品のメッセージ、つまり自分らしく生きよ‥というテーマも力強く発せられている。
ゲリラたちと過ごしたことで熊井の生き方はどんなふうに変わっていくのか?それを想像させるところも味わいがあって良かった。
熊井役は石橋蓮司、ゲリラの隊長役は原田芳雄。それぞれに作品のテイストに適した妙演を見せている。他に、行商人としてちょっとだけ登場する常田富士男のとぼけた演技も印象に残った。
原田芳雄最後の主演作。
「大鹿村騒動記」(2011日)
ジャンルコメディ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 長野県下伊那郡の大鹿村。ここには300年以上に渡って続く村歌舞伎があった。鹿料理店を営む善はその歌舞伎の花形役者である。公演を5日後に控えて日々稽古に明け暮れていた。そこに18年ぶりに親友・治と善の妻・貴子が帰ってくる。18年前、二人は駆け落ちして村を出て行った。しかし、認知症を患った貴子とこれ以上一緒に暮らせないと、治が善に泣きついてきたのである。仕方なく善は貴子を引き取るのだが‥。
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(レビュー) 300年以上続く大鹿村の歌舞伎に携わる様々な人々の悲喜こもごもを軽妙に綴った人間ドラマ。
本作は、昨年惜しまれてこの世を去った原田芳雄の最後の主演作である。彼は今回の企画を阪本順治監督の元に持ち込み、病魔と闘いながら完成させた。死ぬ前にどうしても大鹿村に長年続く村歌舞伎を自分で演じてみたい‥という原田のたっての願いが今作を作り上げたわけである。そういう意味では、一にも二にも"原田芳雄の原田芳雄による原田芳雄のための作品”と言っていいだろう。
ただ、正直、原田芳雄の演技自体は大分弱く映った。年のせいと言うよりもやはり病気のせいだと思う。あの独特の声量も弱く感じられ、聞いていて苦しそうだった。
しかし、限られた状況でも最大の演技を引き出すのが一流の役者の仕事である。後年の原田芳雄らしさ。つまり、温もりと優しさに満ちた演技が垣間見れた所は流石であった。最後の力を振り絞って演じていたんだなぁ‥ということが分かり哀切極まる。
原田の周囲を固める脇役陣も素晴らしい。大楠道代、岸部一徳、三國連太郎、石橋蓮司等、渋い役者陣が揃っている。原田と大楠と言えば「ツィゴイネルワイゼン」(1980日)が思い出されるし、原田と石橋蓮司と言えば
「竜馬暗殺」(1974日)が思い出される。縁のある俳優たちが集まって原田の遺作を盛り上げているかのようだ。
そして、そんな中、一際印象に残ったのは治役の岸部一徳であった。
治は善の妻・貴子と駆け落ちした幼馴染である。貴子が認知症にかかり自分の手に負えなくなったために18年ぶりに村に戻ってくる。当然、治としては善に対して申し訳ないという気持ちがある。情けない顔をして赦しを請う姿が何とも惨めったらしい。卑屈の塊と化した岸部一徳の妙演が光る。
もっとも、この駆け落ち問題は、治に全ての非があるわけではない。第一、男前でもなければ財産を持っているわけでもない治に貴子が心底惚れて付いて行ったわけではあるまい。おそらく貴子は善との夫婦生活に不満を感じて、その当てつけとして親友である治と駆け落ちしたのだと思う。そう考えると、治だけが悪いのではなく、貴子も、そして貴子を駆け落ちまで追い詰めてしまったも善にも責任の一端はあるように思った。善は何だかんだ言って治を許してしまうが、そこにはこうした事情があったからなのだと思う。
映画は群像劇的でなスタイルで進行するが、その他にも多数の魅力的なサブキャラが登場してくる。
善の店に突然やって来た性同一性障害の雷音、失恋を引きずる役場勤めの美江、美江にほのかな恋心を抱くバス運転手にして歌舞伎の女形・一平、そして33年前の贖罪を抱えながら木彫り職人として余生を送る老人。こうした様々なバックボーンを持った人物たちがドラマは賑々しく展開している。
阪本順治の演出は基本的にコメディタッチでまとめられている。ただ、ドラマの中心となる善と貴子の夫婦関係には"老い”というシリアスな問題が付帯し、中盤の台風のシーンなどにはかなり熱度の高い演出が見られた。90分強という短さなので色々と詰め込んだ割にはアッサリとした印象を持ってしまうが、クライマックスの歌舞伎のシーン共々、こうした幾つかのシーンに阪本監督らしい迫力が感じられた。
ただ、そうは言っても、やはり全体的にはコンパクトに収まった小品という体は抜け出せていない。これは穿った見方になってしまうが、撮影時の原田芳雄の体力が相当に弱っていたのではないだろうか。長期の撮影は無理と踏んで、阪本監督は敢えてコンパクトな映画にしようとしたのだとしたら、これはこれで仕方がないことかもしれない。
やはり若松監督にとって60年代は大きなタームだったのだろう。
「われに撃つ用意あり READY TO SHOOT」(1990日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 新宿歌舞伎町でスナックを経営している克彦は20年続けていた店を閉店しようとしていた。その最後の日、メイランという台湾出身の女が店に転がり込んでくる。彼女はヤクザに追われていた。一方その頃、新宿署の軍司刑事は戸井田組・組長が殺されたという連絡を受けて現場に駆け付ける。死体の傍にはビデオのアダプターが残されていた。中のテープは空だった。軍司は秘密のテープを追って捜査に乗り出すのだが‥。
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(レビュー) 新宿の闇社会に起こった殺人事件を巡って様々な人物が交錯するハード・ボイルド作品。
監督は鬼才・若松孝二。全共闘世代の懐古をサスペンスに落とし込んだ作劇は中々見事で、こういう切り口で"歴史″に迫った作品は珍しいのではないだろうか。
映画は克彦たちの一夜のパーティーと、組長銃殺事件に関わる謎の女メイランの逃走劇。この二つをリンクさせながら展開されていく。
前者は、克彦の店のお別れパーティーに集まってきた様々な面々の会話劇で進行する。彼らは皆、60年代安保闘争を戦った同志である。あの時は良かった、バカだった‥と語りながら酒を酌み交わしていく。傍から見れば何と後ろ向きな‥と思うかもしれないが、彼らにとってはそれが懐かしい青春時代だったのである。そのノスタルジーにはしみじみとさせられた。
ただ、客観的に見てここは必要以上に水っぽい会話劇であることは確かである。
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2007日)を撮った若松監督である。学生運動にシンパシーを覚えたかどうかは別として、少なくとも体制に抗した若者たちの姿に強い関心を持っていたことは間違いない。その思いが水っぽいと感じられるこのパーティー・シーンに投影されているのだと思う。
尚、幾分コメディタッチに作られているので、ガチな政治色は入ってこない。大島渚作品ほどの理屈っぽさがない分、大分突っつきやすくはなっている。
一方、メイランの逃走劇だが、こちらは完全にサスペンス的な作りになっている。何故ヤクザに追われるのか?どこからやって来たのか?何が目的なのか?そういった謎が徐々に本人の口から明らかにされていく。こちらも追いかけるヤクザが少々間抜けだったりして、若干コメディ・トーンに味付けされている。
ただ、中盤から香港マフィアが登場することでドラマはいい塩梅で引き締められていく。彼らの登場によってこのサスペンスにシリアスさが増していく。
欲を言えば、メイランの過去をもう少し早い段階で小出しにしてほしかったか‥。前半は克彦たちの懐古のドラマが中心となるので、どうしても彼女の素性やヤクザの動向などが袖に置かれてしまう。そのため、謎解き自体が少しじれったく感じられた。
ラストは中々味わいがあって良かったと思う。
結局、克彦は成し遂げられなかった学生運動を今一度やり遂げようとしたかったのだろう。軍司刑事との関係が意外な形で判明するのも、やはり過去から逃れられない宿命にあったことを示唆してる。あの時、克彦は明らかに学生運動を想起して、過去に向かって拳銃の引き金を引いたのだと思う。
克彦に寄り添う季律子も然り。学生運動という過去の清算。そして、惚れた男のために‥という女心。それが克彦との共闘に繋がったのだと思う。
傍から見れば確かに、いい年こいた大人達が社会に突っ張るなんてみっともない‥という感想になろう。ただ、愚直に信念を貫いた克彦たちの戦いは正しく60年代の再燃以外の何物でもなく、果たしてそれを現代の若者たちはクールに笑うことが出来るだろうか?自分は克彦達よりも下の世代だが、彼らの行動を笑うことが出来なかった。それどころか、清々しいまでに信念を貫いた所に格好良いとすら思ってしまった。
個性派揃いの役者が織りなすアンサンブルも今作の見所である。
克彦役の原田芳雄のとっぽい造形、スナックの常連客でジャイアンツファンの石橋蓮司の怪演が印象に残った。はみ出し刑事を演じた蟹江敬三の成りも良い。若手刑事との凸凹コンビがコミカルで面白かった。
尚、新宿の夜の街を生々しく捉えた映像にも引きつけられた。流しやストリートミュージシャン、ポン引きや浮浪者といった雑多な人々の佇まいを含め、今作は新宿という街全体が作品の"顔″として自己主張しているかのようである。
旅回りの一座の悲喜こもごもを綴った人情ドラマ。故・若松孝二監督作品というよりはつかこうへい作品。
「寝盗られ宗介」(1992日)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 旅一座を率いる北村宗介は看板女優・レイ子と内縁の関係にあった。しかし、レイ子はいつまでたってもドサ回りを続ける宗介に愛想をつかし、度々座員と駆け落ちしていた。その日も出番に穴をあける寸前までいったが、ギリギリのところで戻ってきた。宗介も注意することしかせずその場は収まった。そんなある日、一座の若手歌手ジミーが緊急入院してしまう。本人の話によれば腎臓移植をしなければならないらしい。仕方なく宗介はその費用を工面してもらおうと実家に戻った。そこで彼は弟・信二から、入院中の父がもう長くないことを聞かされる。
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(レビュー) 旅一座の座長と駆け落ち癖のある女房の悲喜こもごもを軽妙に綴った人情ドラマ。
つかこうへいの舞台劇を鬼才・若松孝二が映画化した作品である。尚、つかこうへい自身が脚本も担当している。
つか作品で真っ先に思い出されるのは、何と言っても「蒲田行進曲」(1982日)である。今作もそれと同じバックステージ物である。ただ、今回は場末の売れない役者たちのドラマで、全編雪に覆われた東北ロケを背景にしていることもあり「蒲田行進曲」のような熱量、豪快さは見当たらない。むしろ、どこか冷え冷えとしたトーンが横溢する。
ただ、ドラマに関して言えば、逆境を力強く生きようとする活力に溢れた物語になっており、「蒲田~」に共通するテイストが感じられた。いかにも、つかこうへいらしい情に訴えた作劇で、好きな人にはたまらないものがあるだろう。
そして、その活力の源になっているのが、宗介の明るさ、健気さ、ダンディズムである。
宗介とレイ子、レイ子を寝取った座員達との関係は、実にあっけらかんとしている。普通なら互いに遺恨を残してドロドロとした関係になってしまうところを、宗介は割と簡単に"寝盗られ″を許してしまうのだ。これは宗介の器のでかさだと思う。
例えば、冒頭の謙二には芸の肥やしになるからと言って手切れ金よろしく車を買い与え、中盤のマックには可愛そうな外国人だからと言ってレイ子との温泉旅行をプレゼントしてやる。こうして宗介は寝取った相手を追い出して遺恨を断ち切ってしまうのだ。更に、レイ子に対しては厳しく怒ることをせず、逆に優しく接して機嫌を取ってやる。
今の自分じゃ女房に逃げられても仕方がない‥という諦めの気持ちがあるのかもしれない。あるいは、無用なトラブルで一座に迷惑をかけられない‥という思いもあるのかもしれない。しかし、これは相当の忍耐力が無いとできないことだと思う。ある意味で大した男である。
ただ、一方でこうも言える。結局、宗介は一座から離れられない半端者だと‥。
宗介は事あるごとに言う。芝居以外に何もできないバカたちを見捨てるわけにはいかない‥と。これは本心だと思う。そして、それは自分自身も含めてのことだと思う。何だかんだ言って、彼は一座にしがみつきながら自分の居場所を確保しているのだ。そのためには妻の浮気も我慢するし、寝取った相手にもしたたかに対処して事を丸く収める。そうやって一座を維持している。その健気さは実に惨めったらしくもあるが、それ故に何とも言えないペーソスも沸きおこってくる。
本作には、宗介以外にも様々な魅力的な座員たちが登場してくる。音痴な若手歌手ジミー、真面目な新人女優あゆみ、泣き虫外人マック、宗介にぞっこんのブサイク女優等々。彼らの活躍が賑々しくドラマを展開させており、このアンサンブルは見事である。
若松孝二監督の演出は実にオーソドックスに整えられている。アヴァンギャルドな映画作りをしていた頃の作品しか見てなかった自分にとっては少々意外だった。
ただ、後半のジミーとレイ子が出ていくクダリは、舞台劇を意識した演出になっていて多少若松らしいラジカルなタッチになっている。全体のトーンからすれば不自然に感じたが、人物の軽妙なやり取りと背景のサブキャラ達の自然な佇まいとリアクションが面白い。ちなみに、ラストカットは明らかに「蒲田行進曲」へのオマージュだろう。このラストに関しては、つかこうへい色が前面に出ている感じがした。
キャストでは宗介を演じた原田芳雄の好演が光っていた。女房を寝取られる惨めな男を飄々と、時に熱っぽく演じ、それまでの粗野一辺倒なキャラクターとは一味違ったに新境地を見せている。そして、何と言っても彼が熱唱する「愛の讃歌」。客観的に見れば滑稽であるが、その歌はレイ子に対するプロポーズにも聞こえ、胸に迫るものがあった。正に宗介一世一代の大舞台である。このあたりのドラマチックさは脚本の巧みさもあるが、同時に原田芳雄の力演によるところも大きいと思う。
ところで、本筋には全く関係ないが、ジミーの実家にいたブタネコという珍種は一体何だったのだろう?ブーブーにゃーにゃー泣く子豚でラーメンのだし汁に丁度良いらしい。まぁ‥当然そんな珍種はないわけだが、こういう嘘八百を並べる所も今作は中々面白かった。
芸人の狂気をパワフルに描いた怪作。
「鬼の詩」(1975日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 明治の末期、桂馬喬は大阪の寄席で芸の道を究めんと精進していた。ところが、彼はひたすら自尊の塊で、その言動が同門の仲間たちからの反感を買う。ある日、仲間の悪戯で毒薬を飲まされ馬喬は高熱で倒れてしまう。下宿先の下女・露が付きっきりで彼を看病した。これがきっかけで二人は結婚し一緒に旅に出た。しかし、無名の馬喬はどこでも相手にされず、結局大阪に戻ってくる。二人は心機一転、再び芸の道に励もうとするのだが‥。
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(レビュー) 「鬼の詩」とはまた仰々しいタイトルである。鬼とは何だろうか?見る前から少しホラーっぽいものを連想したのだが、後半は正にホラー映画のようになっていく。馬喬の芸にかける思いがほとんど狂気と化していく様は圧巻だった。
馬喬は芸人としては半人前で何をやっても成功しない落ちこぼれである。自分なりの落語論を尊大に語るが、口ばかりで全然実力を伴っていない。それゆえ周囲の反感を買ってしまう。ならばと、愛する露と一緒に自分の芸を証明して見せようとするが、それも中途半端に終わってしまう。そして、改心した彼は一から出直しを図る。師匠の芸を盗んで自分の物にしようと必死になって勉強し始めるのだ。ここまでは至ってストレートな上昇志向の成長ドラマである。しかし、本作はここから意外な方向に進んでいく。
馬喬は師匠の家の隣に住み、師匠の一挙手一投足を真似し始めるのだ。ここで「あれ?」という疑問が湧いてくる。これは芸を盗むのではなく、ただ単に師匠のコピーになろうとしているだけなのではないか?という疑問である。このあたりから馬喬の表情は徐々に狂気を帯び始めていく。
そして、中盤である悲劇的な事件が起こり、それを境に彼の狂気はいよいよ表面化していく。「芸」という悪霊に取りつかれたかのような表情に変貌していくのだ。これはほとんどホラー映画並みの恐ろしさで、例えるなら「シャイニング」(1980英)におけるJ・ニコルソンの形相か‥。タイトルにもなっている「鬼」そのものとも言える。
芸の本質とは色々と考え方はあろうが、自分は良くも悪くも"見世物″なのだと思う。芸人は自分の芸を披露して大衆を喜ばせ、驚かせ、楽しませ、そこに命を懸けている。但し、見世物は見世物でも、馬喬のような怪奇趣味的な芸は、芸の何たるか?という真髄を見誤った邪道のように思う。
本来の芸は長年にわたって培われてきた技術があってこそ成立するものである。しかし、馬喬は自分の"惨めさ″をひけらかすだけで客の笑いを取ろうとした。邪道は一時は物珍しさで受けるが、長い目で見るとやはり正道に叶わないと思う。"かくし芸大会″よろしく表面的な見世物だけに徹してしまうと、客から飽きられまいと益々エスカレートしていくしかない。しかし、それではいずれ行き詰まってしまう。悲しいかな、才能がない馬喬は邪道でしか客を喜ばすことができず、結果として生き急いだわけである。
ただ、映画は割と馬喬を突き放した感じで描いているが、自分は彼の凄まじい行動力、怨念がこもった一つ一つの芸に不思議と魅力された。アウトローの哀愁と言えばいいだろうか‥。そこに魅了される。
ともすれば芸に溺れた悲劇のドラマとして、ひたすらジメジメした映画になりそうなところを、極めてホラー的に形而下した所にも魅力を感じる。映画のルックを面白くしている。
また、馬喬を演じた桂福團治の怪演も特筆すべきで、目に宿る狂気。そこに大いに惹かれた。
個人的には、寒々とした雪原で繰り広げれられる馬喬と露の旅芸のシーンが印象に残った。ここだけは開放的なロケーションで展開されており、しみじみとさせられた。
尚、冒頭に原作・脚本の作家・藤本義一が登場してくる。わざわざ顔出しとは‥。こういうのは作品を台無しにしかねないので、なるべくなら控えていただきたい。
伝説の将棋名人の半生を綴った人間ドラマ。阪妻の佇まいが良い。
「王将」(1948日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 明治39年、大阪下町。将棋好きな男・坂田三吉は草履作りをする傍ら、方々の将棋大会で賞金稼ぎをする将棋狂だった。その日も仏壇を質に入れて参加費を捻出し、近所で行われる大会に出場した。そこで三吉は関根金次郎という強敵と対局し、特別ルールを知らなかったため反則負けを喫してしまう。落ち込んで帰ってくる三吉を待っていたのは、子供を連れて今にも出て行こうとする妻・お春の姿だった。お春は三吉の将棋好きにほとほと困り果て今度こそ家を出て行くと言う。三吉をお春を説得して名人なることを誓う。
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(レビュー) 実在した将棋界の奇才、坂田三吉の波乱万丈の半生を綴った感動ドラマ。
三吉役の阪東妻三郎の熱演。これに尽きる作品だと思う。阪東妻三郎と言えば、「阪妻」の愛称で慕われたサイレントからトーキーにかけて活躍した大衆スターである。その端正な顔立ち、情熱的な演技、時折見せるコミカルな演技、全ての魅力が本作には詰め込まれている。彼がスターたる所以が窺い知れるという意味では正にうってつけの作品と言えよう。
本作は何度も映画になっているほどの人気作で、元々は戯曲である。
三吉の名人を目指す戦いを軸に、その犠牲となる妻、娘との関係も描かれ、実に感動的に盛り上げられている。人情物が好きな人にはたまらないものがあるだろう。
監督・脚本は伊藤大輔。約20年弱に渡る大河ドラマを約90分という短い尺に収めた手腕は見事である。ただ、コンパクトにまとめてしまった功罪はあるように思う。軽快で見やすい反面、所々で舌っ足らずな展開が見受けられる。
一番不自然に感じたのは中盤の父娘喧嘩である。勝利の美酒に酔いしれる三吉に向かって、娘は「当てずっぽうに打った一手で勝っただけだ」と非難する。痛い所を突かれて三吉は怒りだすのだが、果たして素人目から見てそれが勘で打った一手と分かるものだろうか?どうにも釈然としないやり取りであった。
それに、ここは父娘の決定的断絶を描く重要な場面である。おそらく、娘は日頃から将棋しか頭にない三吉に対して憤りを感じていたのだろう。それがついにここで爆発したのだと思う。しかし、映画はそこに至るまでの時間の流れを完全に省略してしまっている。彼女の三吉に対する憎しみはプレマイズされていないのだ。したがって、このシーンにおける彼女の怒りの裏側には一体どんな思いがあるのかが分からない。
また、二男の死亡がセリフだけで片づけられてしまったのも手落ちと言わざるを得ない。重要な事件だけにもっと重きを置いて描くべきであろう。同様にお春が三吉を後押しする心境変化にも裏付けが欲しい所だ。
逆に、省略作劇が上手く機能している例もある。南無妙法蓮華経の祈祷で10数年間という時間の流れを一気に駆け巡らせた演出は見事であった。
ところで、この映画での阪妻の存在感は圧倒的であるが、その影で泣きながら耐え忍ぶ妻・お春の賢母振りは実に逞しく美しいものがある。彼女のヒロインとしての存在感には目を見張るものがあり、そこに着目すれば夫を健気に支える良妻物語という別のドラマも見えてくる。
現に、終盤にかけてこの映画は夫婦愛のドラマへと昇華されていく。自分はそこに涙させられた。
ちなみに、この映画を見て、大阪名物、通天閣が明治時代から存在していたことを初めて知った。現在の通天閣は2代目で昭和に入ってから建造されたものだそうである。初代通天閣には「日立」ではなく「ライオン」の広告がライトアップされており、夜になると三吉が住む長屋からそれが一望できる。この下町のセットが中々素晴らしい出来栄えで感心させられた。長屋の下には蒸気機関車が走り、その煙がモクモクと立ち上がり、奥に見える通天閣と合わさると実に奥行きを感じさせるセットになっているのだ。決して美観と言うわけではないのだが、庶民の生活を様々に想像してしまいたくなる風景である。
喜劇作家モリエールのドラマ。
「モリエール 恋こそ喜劇」(2007仏)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 17世紀のパリ。演劇青年モリエールは、借金を抱えながら自分の劇団を従えて各地を巡業していた。ある日、ついに債権者から訴えられて投獄されてしまう。そこに豪商ジュルダンの遣いがやって来た。ジュルダンは密かにセリメーヌ伯爵夫人に恋い焦がれており、彼女の気を引くために芝居を披露する算段をしていた。それに協力して欲しいというのだ。こうして釈放されたモリエールはジュルダンの屋敷に住みながら演技の指導を始めることになった。彼はそこでジュルダン夫人に惹かれていくようになる。
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(レビュー) 17世紀に活躍した劇作家モリエールの伝記映画。
空白の数か月間と言われている無名時代にスポットライトを当てて描かれるフィクショナルな恋愛コメディである。
自分はこれまでモリエールの作品に触れる機会がなかったため、彼が一体どんな人物だったのか?どんな作品を残したのか?まったく知らなかった。したがって全くまっさらな状態で見たのだが、これが実に魅力的な人物で映画自体も面白く見ることが出来た。
言ってしまえば、モリエールはまるで子供のような純粋な人間だったのだと思う。
例えば、ジュルダン邸に招かれた彼は、夫人の目をごまかすために宣教師に成り済まして潜入する。ところが、あっちでボロを出し、こっちでボロを出し、まるで子供のようなドジを踏む。むろんコメディとして作っているので、実際の彼がここまで間抜だったわけではなかろうが、実に可愛らしく憎めないキャラクターとし造形されている(犬に追いかけられるところは笑った)。
当然のことながら、これでは夫人にも怪しまれる。そもそも、ドサ回りの喜劇役者である彼に試練潔白な聖職者を演じられるはずもない。大胆というか、楽観的というか‥、この"成り済まし″自体が彼の人となりを良く表している。
ちなみに、モリエールとジュルダン夫人の会話の中で「役者も聖職者も同じ演じる者たちよ」というセリフが登場してくる。これには唸らされるものがあった。確かに"言葉″によって人心を掌握していく行為自体は共通している。片方はセリフ、片方は教示。基本はどちらも一緒であり、ジュルダン夫人のこの言葉は言いえて妙であった。
物語は、モリエールと彼の正体を知ったジュルダン夫人のメロドラマを中心にしながら展開されていく。艶笑風に味付けされているので変にジメジメとしない所が良い。
ただ、後半からテーマの引き締めにかかるため、二人の恋心がピックアップされ恋に焦がれる人間の性(サガ)のようなものが徐々に頭角を現し始めていく。傍らで描かれるジュルダンとセリメーヌの恋愛ドラマも然り。実にシリアスな結末を迎える。
思うに、この悲恋を見る限り、モリエールの喜劇作家としての活動はこうした悲劇の裏返し、反動の表れだったのではないかと思えてくる。辛い現実を忘れて一時の楽しみを与えるのが娯楽の本質的要素、エンタテイメントは悲劇ではなく喜劇でなければならない。この考え方がモリエールの創作活動の原動だったのではないか‥そんな風に思えた。
尚、ドラマ上、やや締りの悪い部分があったのは残念だった。ジュルダンの娘アンリエットの結婚問題がサブストーリーとして綴られている。これは喜劇と悲劇が表裏一体であることを示すべく登場させたエピソードであろう。しかし、終盤の性急な展開については疑問であった。その場その場での人物の行動、たとえばドラント伯爵のきびすを変える行動は説得力に欠ける気がした。
演出は軽妙にまとめられている。後半の悲恋色もサラリと描いているので嫌味が残らない。このあたりのさじ加減は中々上手いと思った。尚、映像の完成度という点でも中々クオリティが高いと思う。
モリエールを演じるのはR・デュリス。基本的にシリアスな演技を得意とするフランス若手俳優の雄であるが、今回は作品のテイストに合わせてコメディタッチに徹している。ジュルダンに動物の演技指導をするシーンが可笑しかった。
セリメーヌ役を演じたリュディヴィーヌ・サニエの高慢な伯爵夫人も合っていた。無邪気な冷淡さとでも言おうか‥。この小悪魔的な魅力はいかにもサニエらしい。ジュルダンやドラント伯爵等、多くの男たちを顎で使う所が憎らしいやら可愛いやら‥。F・オゾン作品の常連であったが、その後余り女優活動がなかったので久しぶりに見れて嬉しかった。
英雄ダントンの戦いを骨太に描いた人間ドラマ。
「ダントン」(1982仏ポーランド)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) フランス革命直後のパリに、地方に渡っていた革命の英雄ダントンが戻ってきた。貧困に喘ぐ民衆の不満は今や爆発寸前で、皆が彼の行動に期待を寄せた。一方、ダントンのかつての盟友で公安委員会のロベスピエールは危機感を募らせる。早速、彼は反革命派の拠点の一つだった印刷工場を摘発した。これに対して国民公会は公安委員会に非難を浴びせ、事態は更に深刻化していく。そして、ついにロベスピエールはダントンと1対1の会談に臨んだ。しかし、今となっては全てが手遅れだった。会談は決裂しロベスピエールはダントンの逮捕命令を出す。
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(レビュー) フランス革命後のパリを舞台に、かつての盟友が激しい対立を繰り広げていく歴史劇。
ダントンとロベスピエールの反目を冷徹なタッチで綴ったA・ワイダの演出もさることながら、夫々を演じたJ・ドパルデュー、W・プショニャックの熱演も素晴らしい。ドパルデューが裁判で猛々しい弁舌を披露すれば、プショニャックはクールな佇まいでそれに応戦する。更に、後半のプシャニックの卑小な演技には哀れさも漂い、今作は正に二人の名優による演技合戦が大きな見所となっている。
物語は、序盤から息苦しいほどのカオス感に包まれて始まる。革命とは一体何だったのか?ただの幻想に過ぎなかったのではないか?という怒りの空気がパリ中に充満しており、すでにこの雰囲気からしてクライマックスという感じがして一気に作品世界に引き込まれた。ただ、唐突に始まるので、ある程度ここに至る歴史的経緯を押さえておかないと入り込むのが難しいかもしれない。
以降は、革命を成し遂げたかつての盟友ダントンとロべスピエースの対立ドラマに入っていく。物語の芯はしっかりしているし、彼らの対立に絡む様々な群像劇も夫々にドラマチックで面白く見ることが出来た。
この映画で上手いと思う所は、単にダントンを主人公にした英雄談的な作りにしなかったことである。映画は彼と対立する悪役ロベスピエールの心中にも深く迫りながら、二人の戦いをじっくりと見せている。彼らは最後まで自分の主張、つまり共和制、独裁制を貫きながら対立しあっていく。そこに彼らの意地とプライドが見えてくる。
普通なら見る側が感情移入しやすいように革命の英雄ダントンを主役に据えながらヒロイックなドラマに仕立てるだろうが、敢えてA・ワイダ監督はロベスピエールの心中に迫ることで作品としての深みと重厚さを引き出そうとしている。
そうやって見ると、自分はダントンよりもロベスピエールの方が人間臭くて魅力的な男のように思えてきてしまう。
彼は若くして政治家として成功した才人である。プライドも高くライバルに負けたくないという気持ちも人一倍強い。しかし、大衆は自分ではなくダントンを指示した。当然ロベスピエールの中では彼に対する深い嫉妬と憎しみが湧き起こってくる。
それがよく分かるのが映画の冒頭とラストシーンである。ここでロベスピエールはベッドにうずくまって恐怖に怯えている。外では多くの民衆が見守る中、ダントンが死刑台へと向かっていく。彼はダントンを死の縁へ追いやることで勝利したわけであるが、一方で「果たしてこれが本当の勝利と言えるのか?」という疑心、「民衆はまだダントンを指示したままではないか‥」という不安に捉われている。この恐怖に怯える姿は、取りも直さず彼がダントンを生涯のライバルとして認めていたことの表れに相違ない。彼は一人の政治家としてでなく、一人の男としてダントンに勝とうと固執し過ぎたのである。
それにしても、元は仲間同士だった者がこれほど憎しみ合うとは‥。政治の恐ろしさというものを実によく物語っている。いつの世も政治は結局、思想ではなく権力闘争なのだ。ロべスピエールのように一度権力の座に就いてしまえば国のことよりも保身が第一になる。そういう意味では、本作はリアリティのある政治ドラマにもなっている。
ちなみに、この冒頭とラストにはフランス人権宣言が登場してくる。ロベスピエールの息子によって朗読されるのだが、これは政治家ロベスピエールの転落を皮肉的に言い表していると思った。彼はフランス人権宣言をどんな思いで聞いたのだろうか‥?
ワイダの演出は深み、剛直さに溢れていて流石の貫録を見せている。不穏な空気をまき散らす音楽も作品の世界観を大いに盛り上げていると思った。
ただ、中盤の国民公会のシーンで、大衆が一気に分裂してしまうのはいささか安易という気がしなくもない。ロベスピエールの熱弁は大いに見応えがあり感動的であったが、果たして1回きりの熱弁でそれまで反対と言っていた人々がすぐに賛成と主張を変えるだろうか?当然、中には異を唱えて会場を後にするような者が出てきてもおかしくないはずである。しかし、ここではただ一人、ダントン派の幹部カミーユの妻だけが反抗して見せるのみである。
映画の後の方が気になってしまった。
「ジェシー・ジェームズの暗殺」(2007米)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1881年、ミズーリー州で悪名をとどろかせていた強盗団ジェームズ一家が、列車襲撃を最後に解散した。リーダー・ジェシーに憧れる一味の青年ボブは、解散後も彼に付いて行った。しかし、ジェシーは自分の首に賞金がかけられていたので、ボブが裏切って自分を殺すかもしれないと思い、彼を他の部下たちと一緒に親戚の家に追い払った。その後、元部下の一人エドがジェシーを売ろうとして逆に殺された。一方、元部下のディックとジェシーの親戚ウッドが、些細な諍いから撃ち合いになる。その場に居合わせたボブは気が動転してとっさにウッドを撃ち殺してしまう。
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(レビュー) 伝説的な大強盗ジェシー・ジェームズの暗殺の謎に迫った人間ドラマ。
アメリカでは馴染みのある人物らしいが、おそらく日本では余り知られてない人物だと思う。自分も彼のことを一切知らないでこの映画を見た。正直、今一つ引き付けられる題材ではなかったが、おそらくジェシーを知っている人には興味深く見れる映画なのだろう。
映画はジェシーと彼に憧れて一味に加わった純真な青年ボブの対立を軸に展開されていく。
ボブは小さいころからジェシーの伝記を読んで育ち、まるで彼のことを義賊のヒーローのように崇めている。ところが、現実の彼は自分が思い描いていた物とは全く違っていた。彼は単なる人殺しの悪党に過ぎなかったのである。やがて、ボブはジェシーの親戚であるウッドを撃ち殺してしまい、身の危険を感じ警察に彼を売り渡そうとする。
いわゆるこれも師弟の愛憎ドラマであるが、その顛末はスリリングで興味深く見ることが出来た。
ただし、この映画には主要二人以外に様々な周辺人物のエピソードが登場してくる。やたらと枝葉の多いドラマになっているのだ。
例えば、ディックとウッドの軋轢が前半から中盤にかけて描かれている。女を巡って撃ち合いをすることになるのだが、映画はここにかなりの時間を割いている。この事件が持つ意味は、ボブが誤ってウッドを打ち殺してしまいジェシーに恨まれる‥ということが分かればいいだけのことである。それなのにディックとウッドの軋轢が増していく様をクドクドと描いているのだ。その後のディック逮捕に至るエピソードもさほど意味があるように思えなかった。
本作は上映時間が160分と長めであるが、こうした枝葉を刈り込んでジェシー対ボブのドラマに絞って描けば、もっと簡潔で力のある作品にすることが出来たのではないだろうか。内容を詰め込み過ぎてしまった感がある。
また、本作は一つ一つのシーンが割とゆったりと作られている。それによって当然尺も伸びる。ただ、こちらについては俳優の表情や所作に重みと生々しさが増し見応えが感じられた。ジェシーとエドの対峙、殺されたウッドの居場所を問い詰める食卓のシーン、ジェシー暗殺のシーン。これらには肌を突き刺すような緊張感があり演出自体はとても丁寧である。
映像も美しくて見応えがあった。果てしなく続く大平原の美観が印象に残る。また、寒色、暖色を自在に操る色彩も素晴らしく、全体的に映像については申し分ない。
ただし、1点だけ気になることがあった。所々でフレームの周囲にぼかしを入れた映像演出が見られる。映画の構成がナレーションによって進行する回想ドラマになっているので、おそらくそれを意識した演出だろう。しかし、これはやや過剰な感じがした。
キャストではジェシーを演じたB・ピットの好演が光る。冷酷非情な面構えを前面に出しつつ、一方で孤独の淵でもがき苦しむ姿、家族を愛する父親としての顔、様々な表情を見せており、彼のキャリアの中でも一、二の演技ではないだろうか。元々ジェシーという人物は、劇中のナレーションでも語られているが、躁鬱傾向を持っていた人物だったそうである。それだけにB・ピットのパラノイチックな演技にも凄味が感じられた。
それにしても、映画を見て思ったのだが、実はジェシー暗殺に至るドラマよりも暗殺後のドラマの方が色々と面白いのではないだろうか?最後のテロップによればボブのその後の人生も実に数奇に満ちている。結局、彼はジェシーという死神に永遠に取りつかれてしまった悲劇の男だったのだろう。そこを1本の映画にしても面白そうな気がした。
浅野忠信が演じるチンギス・ハーンの伝記映画。
「モンゴル」(2007独カザフスタンロシアモンゴル)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) 12世紀後半のモンゴル。9歳の少年テムジンは大部族メルキト族と和平を結ぶために政略結婚をさせられようとしていた。ところが、結婚の儀を執り行うために出た旅先でボルテという少女と運命的な出会いを果たす。テムジンは彼女を許嫁にした。その後、テムジンの父が毒殺されると、部下のタルクダイの謀反によってテムジンは過酷な扱いを強いられるようになる。脱走を試みたテムジンは九死に一生を得て、野心溢れる少年ジャムカと出会い逞しく成長していった。それから20年後、成長したテムジンは許嫁のボルテと結ばれて母の元へ帰ってきた。しかし、幸せも束の間、そこにメルキト族の騎馬隊が攻めてくる。
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(レビュー) 世界人口の半数以上を支配したモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーン(テムジン)の波乱に満ちた人生を壮大なスケールで描いた伝記映画。
wikiによるとチンギス・ハーンの歴史書は色々とあって、細かい所で食い違いがあるそうである。したがって、本作で描かれていることがどこまで真実に迫る物語なのかは分からない。ただ、純粋に1本の映画として見た場合、その波乱に満ちた人生は実に面白く見ることが出来た。
映画は後年のテムジンの回想で綴られていく。彼は牢屋に入れられ身体が衰弱しきって死の縁に立たされている。そこで彼はこれまでの自分の人生を振り返っていく。
妻ボルテ、宿敵ジャムカとの出会いに始まり、父の暗殺によって非情な運命に晒される少年時代、戦場で次々と功名を上げていく青年時代。軽快に進むストーリーは概ねしっかりと構成されていている。
ただし、序盤はやや駆け足気味で、安易に流しすぎな印象も持った。例えば、タルクダイの元から脱走したテムジンが極寒の湖からどうやって脱出したのか?ジャムカとどうやって友情が成立していったのか?こういった所の描き不足がある。特に、ジャムカはテムジンの人生を変えるキーマンなので、二人の友情形成はもう少しじっくりと描いて欲しかった。
映画は後半から青年期のドラマに突入していく。
青年テムジンを演じるのは日本人俳優・浅野忠信。果たして、彼にモンゴル人の英雄を演じられるのか?という心配があったが、見てみると意外に悪くはなかった。耳慣れないモンゴル語だが何となくそれっぽく喋っているし、抑制を効かせた表情も堂々としている。
ちなみに、今作はアカデミー賞外国映画賞にノミネートされ、浅野忠信の名をハリウッドに知らしめるきっかけとなった作品である。その後、彼は「マイティー・ソー」(2011米)、
「バトルシップ」(2012米)といったハリウッド・メジャー作品に出演している。
さて、青年期をを描くここからいよいよ物語は佳境に入っていく。部族を率いたテムジンの天下統一を目指す戦いは、アクション性を強く押し出した作りになっている。特に、メルキト族に連れ去られたボルテを救出する中盤、天下分け目の大勝負を描いたクライマクス・シーンには中々の迫力が感じられた。テムジンの主観映像演出も戦場の混乱振りを生々しく表現しており秀逸である。また、CGで作り上げたモブシーンも上手くスケール感を出している。
そして、ここでのドラマ的な見所はテムジンとジャムカの愛憎ドラマとなる。天下を統一していくテムジンに対するジャムカの思いが切なく描かれ、戦争によって引き裂かれた両雄の運命には心が突き動かされた。
監督・脚本・撮影はロシア人のS・ボドロフ。どちらかというとこれまでは地味な作家という印象だったが、今作はかなりの製作費をかけた大作となっている。また、他のスタッフ、キャストを見ると実に国際色豊かな面々が揃っている。彼にとっても今までない挑戦だったことだろう。大作に合わせ堂々とした演出を見せている。
ちなみに、本作は外から見た英雄談として見れば十分楽しめる作品だが、チンギス・ハーンという個人の内面を知りたいという人には少し物足りない作品かもしれない。内面描写が浅薄で実に淡々としている。さすがに英雄の半生を描くとなると、この尺では足りないだろう。そういう意味では、大味という印象を持ってしまった。