イギリスの名優共演の痛快娯楽作!
「王になろうとした男」(1975米)
ジャンルアクション・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) イギリス領のインド。退役軍人のドライポットとカナハンは、一獲千金を狙って内戦で揺れる秘境の地カフィリスタンにやって来た。現地人の振りをしてキャラバン隊に潜り込んだ二人は、極寒のヒマラヤ山脈を乗り越えてようやく目的地に辿り着く。しかし、そこで目にしたのは盗賊による蛮行の数々だった。憤りを感じた二人は村人達を救う王になっていく。
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(レビュー) 元イギリス軍人たちの冒険を描いたアクション娯楽映画。
名匠J・ヒューストンの軽妙、シニカルな演出が冴え渡った快作で、ドライポットとカナハン、二人の息のあったコンビが終始面白く見れる作品である。ある種バディ・ムービーとして楽しめた。
ドライポットを演じるのはS・コネリー、カナハンを演じるのはM・ケインである。言わずと知れたイギリスを代表する名優二人の掛け合い。それが今作一番の見所である。二人が向きあってマッチの火をつけるところなどは最高に格好良かった。また、M・ケインの「死んでも誰も泣かせないぜ」というセリフには痺れさせられた。
今作にはコミカルな場面もたくさんある。尼僧の一行が戦場を横断するシーンは最も笑えた。戦場の真只中を一行が渡ろうとすると、全員武器を捨ててひれ伏すのだ。モブを使った大掛かりな撮影をしてながら、この人を食った脱力ギャグ‥。まるでドリフのコントのようだが、実に面白く痛快だった。
物語は、カナハンが旧知の新聞記者に旅の話を聞かせてやる‥という回想形式になっている。この二段構成も良い。というのも、野心を持った軍人が一国の王になっていくという英雄譚は、普通に考えたらありえないような話である。それが回想形式で語られることで、まるでファンタジーのようになるからだ。嘘かもしれないし本当かもしれない‥。そんなどっちつかずな印象がこの話にロマンティズムを与えている。
ちなみに、後で調べて分かったのだが、カフィリスタンという国はかつて実際に存在した国だそうである。劇中に登場するアレクサンダー大王の逸話も本当にあった話だし、そう考えると一見して突拍子もない寓話のようなこの物語も何だかリアリティが湧いてくる。もしかしたら歴史の片隅に本当に転がっているような、そんな奇跡のようにも思えた。
ただ、フリーメイソンとアレクサンダー大王を結びつけるのは、いくらなんでもトンデモ説である。この二つに繋がりがあるなんて何の根拠もない。単に例のマークが似ているというだけである。それを結びつけてドラマが急展開されていくのは、さすがに強引という気がした。
もっとも、J・ヒューストンという監督の資質を考えた場合、この荒唐無稽な創作は分からないでもない。例えば、19世紀末に活躍した画家ロートレックの半生を描いた「赤い風車」(1952英米)では、ムーラン・ルージュを異様なカオス的空間に塗り固めて描景した。J・ヒューストンは持ち前の幻想趣味、猥雑趣味、奇形趣味で、度々作品の根底を支えるリアリティをいとも簡単に覆して見せることがある。だから、今回の大ボラみたいな話も、"らしい″と言えば"らしい″。
寓話とリアリズムの見事な融合。そこに面白さを感じる。
「亀も空を飛ぶ」(2004イラク)
ジャンル戦争・ジャンルロマンス・ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) アメリカ軍が侵攻する直前のイラク。少年サテライトは、あちこちの家庭にアンテナを売って生計を立てていた。ある日、フセイン軍から逃れてきた避難民が村にやってくる。その中に、両腕を失った兄ヘンゴウと幼子と一緒に暮らす少女アグリンがいた。サテライトは彼女に一目惚れした。しかし、ヘンゴウに予知能力があるという噂があり、それにケチをつけたサテライトは彼と喧嘩してしまい…。
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(レビュー) アメリカが大量破壊兵器を保有しているという理由でイラクに侵攻したのが2003年。この映画はその直後に完成した社会派青春ドラマである。
荒廃した大地で暮らす少年少女の姿を描きながら、戦争の残酷さが悲痛に訴えられている。製作・監督・脚本はバフマン・ゴバティ。彼の監督デビュー作「酔っ払った馬の時間」(2000イラン仏)も今作と同じ小さなクルド人の村を舞台にしたドラマだった。そして、彼の訴えるテーマは常に一貫している。戦争の”残酷さ”、”無為さ”である。今回も真摯に受け止められた。
ただ、演出的にはドキュメンタリータッチに傾倒したデビュー作と違って、今回は映像、物語ともに寓話的なテイストが混入されている。そこは前作と大きく異なるところである。
たとえば、冒頭のシーン。アグリンが谷底を眺めるシーンは、雄大なロケーションも相まって非常に神秘的で美しい。まるでこれから始まるのが、神話か何かのようにさえ思えてくる。
また、タイトルの「亀」が示す意味も寓意的である。あるいは、ヘンゴウの予知能力という設定も、どこかオカルトチックである。
こうした超自然的な演出、設定は、見る人によって好き嫌いが分かれるかもしれない。しかし、自分はこの奇妙なテイストに心酔してしまった。寓話色が混入されたため、デビュー作よりもユーモアがあり親しみも持てる。特に、終盤の金魚の演出にはクスリとさせられてしまった。
ただ、いくら寓意性が混ざっているとは言っても、基本的に今作は戦争の悲惨さを訴えた現実的な作品である。幼い子供たちが戦火に晒される場面には胸を締め付けられる思いにさせられる。出演者の多くは実際の戦災孤児ということなので、そのリアリティもあろう。戦災の現実が強烈に提示されている。
また、この村では地雷を撤去するのは子供たちの仕事である。彼らの中には腕や足を失った者たちが大勢いる。地面に這いつくばって地雷を慎重に探し当てる姿は正視するのをためらうほど残酷だった。そうして掘り出された地雷はまとめて国連の出先機関に買い取ってもらうのだが、劇中のセリフにもある通り、その値段は国連軍の地雷探知犬の餌代の1/50ということである。犬の餌よりはるかに安い賃金のために手足を失う危険な仕事をさせられる彼らの姿を見ると、更にやるせない思いにさせられた。
ヘンゴウもこの地雷撤去で両腕を失った少年である。妹アグリンと幼子のために彼は今でもこの危険な仕事をしている。小さなテントで寝起きしながら、同じ服を着て、ろくに風呂にも入れない生活を送っている。フセインから逃げてきた難民の多くは、彼らのように貧しい暮らしを強いられていたということがよく分かる。
ただ、こんな過酷な状況に置かれても、子供たちは逞しく生きている。何があっても下を向かず顔を上げて前を見つめている。そうしてなければ生きていけない‥という実情もあるのだろうが、少なくとも過酷な戦場に咲く子供たちの生き生きとした表情には少しだけ救われた。
物語は青春ロマンスとして実にオーソドックスに作られている。サテライトはアメリカかぶれの少年で村の子供たちを統率するリーダーである。地雷撤去の仕事も村のパラボラアンテナの取り付けも、全て彼が取り仕切っている。そんな彼がアグリンに猛アタックをかける所からこのロマンスは始まる。ところが、当のアグリンは過去に深い傷を持っており、その愛に応えられない。その心中に迫る中盤の回想シーンは印象的だった。おそらく、サテライトは最後まで彼女の過去は知らないままだったのではないだろうか‥。だとすると、このロマンスは余りにも切なすぎる。
ゴバデイの演出は基本的にはオールド・スタイルなものであるが、先述のとおり今回は一部で神秘的なタッチも見られる。また、村人が裏山へ逃げるスケール感のある演出も中々の迫力であるし、そこにヘリからばら撒かれたビラが散乱する光景も少しシュールで面白かった。
そして、クライマックスの地雷原のシーン。この緊迫したサスペンス・タッチには目が逸らせなかった。一寸先は地獄とは正にこの事である。下手なホラー映画よりも心臓に悪い。
キャストではアグリンを演じた少女が素晴らしかった。初めは年相応の無垢な表情を見せる。しかし、中盤で過去が判明し、徐々に大人びた表情を見せていく。これは計算された物なのか?あるいは自然にそう思わせてしまう作劇の巧みさなのか?いずれにせよヒロインとして抜群の存在感を見せつけていて印象に残った。
虚無感漂う反戦映画。ラストが印象的。
「ダンケルク」(1964仏伊)
ジャンル戦争・ジャンルロマンス
(あらすじ) 第二次世界大戦下のフランス。連合軍はドイツ軍の侵攻で撤退を余儀なくされた。フランス軍のマイア曹長は隊からはぐれてダンケルクへ向かう。そこでイギリス軍の艦船に便乗して脱出を試みようとした。ところが、敵の波状攻撃にあい中々出航できなかった。足止めを食らったマイアは、仕方なく仲間たちと脱出の機会を伺う。そんな折、彼は市街地でジャンヌという娘に出会う。
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(レビュー) 戦争の虚しさをシニカルに綴った反戦映画。
ひたすら敗走する連合軍をリアルタイムに描くだけなので、決してスカッとするよう戦争映画ではない。ただ、無数の死体が散乱するダンケルクの浜辺の映像はスペクタクル的には十分であるし、度重なるドイツ軍の空爆にも迫力が感じられた。
尚、ダンケルクと言えば、以前見た
「つぐない」(2007英)の中にも印象的に登場してきた。あの時の混沌とした戦場風景を捉えた長回しは見事だったが、今作もスケール感、迫力では劣っていない。
監督H・ヴェルヌイユの情に堕さない演出も中々味わいがある。
たとえば、爆死した死体をリヤカーに乗せて運ぶ序盤のシークエンス、パラシュートで脱出したドイツ兵めがけてイギリス兵が一斉に発砲するシーン、マイアの代わりに水を汲みに行った兵士の末路等、戦争の"虚無″をヴェルヌイユはひたすらドライなタッチで切り取っている。普通なら尊い生命を重んじて"死″を衝撃的に描こうとするものだが、ヴェルヌイユはシニカルでブラックな悲喜劇として料理しているのだ。この一貫した姿勢は見事である。
ただし、淡々と進むので中には退屈感を覚える人もいるかもしれない。確かにマイアは銃を持って勇ましく戦うタイプの主人公ではなく、どちらかと言うと仕方なく戦争をやっている人間だ。また、彼の周りの兵士たちも絶体絶命のこの状況をどこか達観した眼差しで見つめるだけである。戦争映画の割にシナリオは緊迫感が薄い。
しかし、案外敗走する部隊などという物はそんなものかもしれない。必死になって脱出を試みるも敵の攻撃に阻まれて何度も失敗に終わり、それが繰り返されれば誰だって無気力になってしまうものだ。決して腹を括ったというわけではないのだが、この期に及んでジタバタしたってしょうがない、あとはなるようになれ‥的な境地に達するのも無理もない話である。ある意味で、ダンケルクの浜辺は前進も後退もできない"煉獄″とも言える。そして、マイア達のこの虚無感は戦争の虚しさを見事に表現していると思う。
映画は中盤に入ってくると、マイアの前にジャンヌというヒロインが登場してロマンスドラマが展開される。この顛末も非常に虚無感漂う締め括り方になっていて印象に残った。マイアが見たのは幻想か?それとも現実か?判然としない所が味わい深い。
ただし、彼女のヒロインとしての掴み所の無さは今作の減点である。生家を守るために避難せずに残る‥という心理が理解できない。彼女の言動は浮世離れしすぎていて、どうにも俺にはついて行けなかった。
そもそも、ジャンヌはモラトリアムに生きるマイアを変えるべく登場してきたヒロインである。現に、それまで戦争というシステムの中で無為に殺し合いをしてきたマイアは、彼女が"ある事件″に巻き込まれることで初めて自らの意志で銃を持つようになった。つまり、語弊はあるかもしれないが、彼は戦争によって"殺された人間″から、ジャンヌとの出会いで恋に"生きる人間″になったのだと思う。こうした二人の関係性を、ジャンヌというヒロインを通してもっと濃密に描いて欲しかった。
少年院の実態に迫った問題作。
「不良少年」(1961日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 不良少年・浅井は友人たちと強盗をして逮捕された。家裁での審判を経た後、首謀者である彼だけが特別少年院に収監される。クリーニング部に配属になった彼は、そこで年長者たちから虐めを受けるようになる。
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(レビュー) 不良少年たちの少年院生活をドキュメンタルに綴った異色の青春映画。
銀座の街を歩いたことはない、護送車の中から見ただけだ----
浅井のこのモノローグから始まる今作は、公開当時、果たして大人たちの目にはどう映ったのだろう?おそらくかなり強烈に映ったのではないだろうか。余りにも生々しい青春ドラマで、正に時代を証憑した映画のように思う。
監督・脚本は羽仁進。演技未経験の実際の不良少年たちを臨場感たっぷりに切り取った撮影スタイルは、彼の過去作
「絵を描く子供たち」(1956日)、
「教室の子供たち」(1954日)といったドキュメンタリー映画の延長線上にあるように思う。子供たちをカメラに慣れさせてから撮影に入ったと言われている前2作は今見ても新鮮に感じられるが、今度は素人に演技をさせるという難題に挑戦している。いかにもドキュメンタリー出身の羽仁監督ならではのアイディアであるが、それが見事に作品のリアリズムに繋がっているように思った。普通の劇映画には無い臨場感が感じられた。
たとえば、浅井と年長者が取っ組み合いの喧嘩をするシーンがある。これなどは手持ちカメラで延々と追いかけながら二人の闘争心を生々しく切り取っている。また、浅井の回想シーンの一つ、歓楽街を悪友たちとぶらつく光景は延々と望遠レンズで捉えられており、これも生々しかった。
このようにカメラは過度に浅井の心中に迫らず、孤独感、怒り、悲しみといった心情をあくまで客観的な位置から見つめ続けるのみである。何となくベルギーの巨匠ダルデンヌ兄弟の映画を彷彿とさせる。しかし、こちらはほとんどが演技経験ゼロの実際の不良少年たちである。演技を付けるのはプロの俳優よりもかなり難しい。それを難なくやり遂げてしまう羽仁進の手腕には驚かされるばかりだ。
但し、今作は映像スタイルこそドキュメンタリー・タッチが貫かれているが、物語自体は少年院で育まれる友情という、言ってしまえばかなり通俗的なものである。そのため映像と物語の食い合わせが若干悪いように感じる個所が出てしまっている。
例えば、度々挿入される浅井のモノローグは、自身の心中を饒舌に"言わされてしまっている″感があり、余り生々しさは感じられない。幼少時代の回想シーンもバックストーリーの説明に終始するばかりで、そこにどうしても作為性が滲み出てしまう。映像は終始ドキュメンタリー・スタイルだが、所々の演出に関してはむしろドラマチックに仕向けようとする意識が感じられる。
尚、本作の白眉は何と言ってもラストだろう。塀の中から見た浅井の後ろ姿で終わるのだが、この突き放したショットが映画全体を引き締めている。荒廃した少年院生活を終えた彼に待ち受けているのは明るい未来か?それとも厳しい現実か?そこを曖昧にしたまま終わらせている。この少年が辿る先に何を見ますか?と監督が問いかけているような感じがした。余韻を引くエンディングである。
個人的には、前半の家裁での少年の態度を見る限り、今回も更生した"振り″をしているだけではないのか‥という感じがした。彼の目の前にはやはり厳しい現実が待っているのだ‥と解釈した。
劇中には特別少年院の実態が色々と出てくるので、そこも興味深く見ることが出来た。
例えば、教官は絨毯を敷いてその上を歩いて各部屋を巡回をする。足音で感づかれないように監視するためである。また、独房の中で手製の煙草を作るシーンなどは、本来ドラマには余り関係ないのだが、かなり丹念に描写されている。実際に取材しないとこうした所作は分からないだろう。こうした細かい所に対するこだわりも今作のリアリズムに繋がっている。
大島渚が他界した。日本映画界の異端児にして世界に通じる偉大な作家だったように思う。彼の作品を「少年」を見てみた。
「少年」(1969日)
ジャンル社会派・ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 当たり屋をしながら全国を旅する詐欺一家がいた。少年は走っている車にわざとぶつかって慰謝料を奪って家族を養っていた。前科者の父は仕事もせず、その金で自堕落な暮らしを送っていた。継母もそんな父にベッタリで少年につらく当たった。ある時、たまらなくなった少年は家族から逃げ出そうとする。
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(レビュー) 当たり屋をしながら家族を養う少年の荒んだ青春をシリアスに綴った社会派ドラマ。終盤で実話がベースになっていることが明かされ驚いた。いかにも昭和的な事件であるが、陰鬱なモノクロ画面も相まってゾッとさせられる。
物語は実際の事件を意識するかのようにドキュメンタリータッチで進行する。展開のバイブレーションには乏しいものの、後半にかけてドラマチックな事件が用意されていて面白く見ることが出来た。そして、その最大の功労は継母の存在にあるように思う。
彼女は、家族とは名ばかりのバラバラな関係の中で常に中心に存在している。冒頭、彼女は妊娠をきっかけに、それまで自分がやっていた当たり屋を少年に強要する。また、彼女には幼い連れ子(少年にとっては義理の弟)がいて、二人の接し方がまるで違う。自分がお腹を痛めて生んだ子供の方に当然愛情を注ぐのだ。少年にとって、この継母は正に鬼母以外の何者でもないだろう。
ところが、彼女は夫に堕胎を命じられたのをきっかけにして、それまで犬猿の仲だった少年と共闘して夫に反乱を起こしていくようになるのだ。
家族間の愛憎が刻一刻と変化する所が面白い。全ては、この継母の立ち回りがあるからで、一体この歪な家族はどうなってしまうのか‥という興味で最後まで飽きなく見ることが出来た。
もっとも、ここで描かれている家族の愛憎ドラマは、現代の家族にそのまま当てはめて考えることは難しいと思う。第一に、当たり屋の存在自体、昨今では見られなくなってしまった。親のエゴに束縛される現代の子供たちの苦悩は、また違った形で表現されるだろう。
例えば、親が子供に保険金をかけて殺害する‥なんていう事件が実際に起こっている。また、これが少年ではなく少女だったら、親が売春を強要するという惨たらしい事件にも置き換えられよう。現代では昔よりも親子関係がドライになってきた分、児童虐待、ネグレクト等の問題が多い。怪我くらいで済む当たり屋は、殺したり、性の道具にしたりしない分、まだマシな方ではないだろうか。
監督は大島渚。脚本は田村孟。両作家に共通する鋭い社会風刺は今回も健在である。
ただ、これはもう大島渚の性癖であろう。自身の政治的発言が今回も所々に出てきて、若干ドラマの邪魔に写った。彼の監督デビュー作
「愛と希望の街」(1951日)でも感じられたことだが、彼は社会に対する痛烈な批判を浴びせる一方で、それを作ってしまう政治に対する不信、不満を物語の本筋を超えた所で声高らかに発言してしまうような所がある。
例えば、今作で言えば、黒の日の丸が堂々と映し出されるオープニング、日本の国旗が意味なくバックに掲げられる終盤、父の戦争体験の熱弁等、これらは余り本筋には関係ない。こうした強烈な思想的発言は過激な作家・大島監督の特徴の一つであるが、個人的にはそれが作品の"雑味″に映ってしまう。
一方、大島が作り出す映像については、今回も面白く見れた。モノクロをフィルターで着色した独特のトーン、夜行列車から捉えた深い闇のトーン、家出した少年が行きつく海岸における幻想的なトーン、いずれも面白い。彼の美的感性には毎度のことながら惚れ惚れさせられる。
また、少年が自分で作った雪だるまを宇宙人に見立てて、義弟の前で粉々に破壊するシーンも印象深かった。ここは超スローモーションで表現されている。親や社会に対する少年の怒りと悲しみが鮮烈に感じられた。名シーンだろう。
逆に、雑と感じる演出もあり、後半の雪道の事故はどう見ても死亡事故には見えない。もっとリアリティのある演出を心掛けてほしかった。また、当たり屋にあった加害者のリアクションも一部で愚鈍な演出がある。これも手を抜かないで演出して欲しかった。
グランドホテル・ドラマの語源にもなった古典的作品。
「グランド・ホテル」(1932米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルロマンス・ジャンル古典
(あらすじ) 様々な人間が宿泊するベルリンの高級ホテル。そこにガイゲルン男爵がある目的を持ってやって来た。余命僅かの中年男クリンゲラインは最後の豪遊を楽しもうとしてやって来た。他にも、スランプで落ち込む有名バレリーナ、グルシンスカヤ、合併話を成功させようと躍起になっている会社社長プライジングが宿泊していた。ガイゲルンはそこで1人の美女に出会う。彼女はプライジングに雇われてやって来た速記タイピストのフレムという女性だった。彼は翌日のダンスパーティーに彼女を誘うのだが‥。
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(レビュー) 一つの舞台に繰り広げられる群像劇、いわゆるグランドホテル形式ドラマの出発点となった作品。尚、これより3年ほど前に同じ邦題のドイツ無声映画が公開されている。残念ながらそちらはソフト化されていないので見る機会はないが、両作品は同じドイツを舞台にしているということで何か繋がりがあるのではないか‥と思った。しかし、ストーリー自体は異なるらしい。本作は元々は有名な原作があり、その舞台版を映画化にしたものである。ドイツ版の方はどういう映画なのか分からない。
次々と覚えにくい名前が出てくるので最初は戸惑うが、キャラクターの人数は意外に少なく比較的シンプルな群像劇となっている。
物語はガイゲルン男爵の視座を中心にして進行する。不治の病気を患い最後の贅沢をしようとする小市民クリンゲラインとの友情、人気が低迷し自殺まで考える世界的バレリーナ、グルシンスカヤとの数奇な関係、女優になる野望を持ってモデルやタイピストをしている少女フレムとの淡い恋心などが綴られている。
ここで注目したいのはガイゲルン男爵の正体を伏せた作劇とその顛末だ。彼は自分を男爵と語っているが、実はそれは仮の姿である。本当は1人の平凡な男で、ある企みを持ってこのホテルにやってきた人物なのだ。そのバックボーンが判明してから、このドラマは俄然面白く見れるようになった。そして、彼が周囲の人々の生き方に影響を及ぼしていく所に、このドラマのテーマが浮かび上がってくる。ラストにはしみじみとさせられた。
結局、ガイゲルンは平凡な一人の男だったかもしれないが、周囲にとっては夢や希望を与える天使だったのだと思う。クリンゲライン、フレム、グルシンスカヤ。彼らは夫々に苦悩や問題を抱えている。それがガイゲルンと出会うことで、最後には夢や希望に向って進んでいくようになる。
一方、そんなガイゲルンの顛末は‥というと、これが実に皮肉的なものである。確かに結果だけを見れば身から出た錆‥という言い方が出来るかもしれないが、それまでの他者との交流を思い返すと不憫としか言いようがない。
見終わって人生について色々と考えさせられた。夢や希望、幸福は金で買えるという考え方がある。今作のクリンゲラインはそういう考え方の持ち主だった。フレムのラストの選択にもこの考え方は当てはまるかもしれない。しかし、一方でガイゲルンは金で人生を狂わされてしまった人物だ。会社社長プレイジングも、ある意味ではそうである。これら双方の生き方、顛末を見ると、果たして人生にとって大切なのは金なのか?金では買えないもっと大切なものがあるのではないか?と考えさせられてしまう。
この映画のもう一つの見所はロマンスである。ガイゲルンとグルシンスカヤ、フレムの淡い三角関係は中々魅せる。ガイゲルンの顛末を二人の女性はどう受け止め、今後どういう人生を歩んでいくのか?そこを想像してみると今作は更に味わいが増してくるだろう。
サスペンス自体は今一つだが、奥深いドラマで色々と考えさせられる。
「幸福」(1981日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 都内の大通りに面した古書店で銃乱射事件が起こる。現場に駆け付けた北刑事は被害者の中に自分の恋人・庭子を見つけて半狂乱になる。その後、先輩刑事・村上に頼み込んで捜査に執念を燃やしていく。一方、村上は妻に出て行かれたシングルファザーである。狭い団地に二人の小学生の子供たちと暮らしていたが、仕事ばかりでろくに子供たちの面倒を見てやれない。父親としての務めを果たせない心苦しさはあったが、今はそれどころではなかった。北や上司の野呂警部と共に事件の捜査に執心していく。早速、遺族を訪問して犯人の手掛かりを探ろうとするのだが‥。
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(レビュー) 銃乱射事件を捜査していく刑事たちの活躍を描いたヒューマン・サスペンス作品。
原作はエド・マクベイン87分署シリーズの一遍「クレアが死んでいる」。それを市川崑監督が翻案して映像化している。
サスペンスとして見た場合、どうしてもTVの2時間ドラマ的な内容で食い足りない。同じ87分署シリーズを翻案した黒澤明監督の「天国と地獄」(1963日)と比較すれば一目瞭然である。スケール感が余り感じられず小品という域を抜き出せていない。
しかし、今作はサスペンスの傍らで登場人物たちの人間ドラマも繰り広げられている。どちらかと言うと、映画はそちらの方に重点が置かれていて、そこに注視すれば中々見応えのある作品である。
メインとなるのは村上刑事の子育て奮闘記である。仕事で中々相手をしてやれない分、躾には人一倍気を使っていて、その気苦労が各所で描かれている。しっかり者の長女は積極的に家事をするのでまだいいが、問題は長男の方である。まだ母親が恋しい小学校低学年である。父親に度々反抗的な態度を取って怒られたりする。そんな3人の暮らしぶりは今作にユーモアとペーソスをもたらしている。
たとえば、長女がジャガイモを洗濯機で洗ったり、壊れたトースターでパンがまる焦げになったりするエピソードは微笑ましく見れた。また、夜中に父が出かけていくのが寂しくてドアに鈴をつける長男の姿にはしみじみとさせられた。実にいじらしい。
一方、村上と一緒に犯人を追いかけていくもう一人の刑事・北に関しては、ひたすらシリアスなトーンで描かれている。事件を解明していく中で、彼は事件の犠牲者である恋人の知られざる過去も知っていくようになる。ネタバレになるので詳しくは書かないが、これには切なくさせられた。
市川崑の演出は特に奇をてらうようなことがなく、全体的には手練れたものを見せてくれている。本作は銃乱射事件の捜査を描く現在と、北刑事が携わった過去の事件の回想で展開されていく。その接合も自然に行われていた。
ところで、何となく意味深な「幸福」というタイトルだが、映画を見終わって改めてこのタイトルに込められた意味について考えみた。
本作に登場する人物は皆、不幸を背負って生きている。これのどこが「幸福」なのか‥と最初は思った。しかし、考えてみれば「幸福」とは絶対的な指標があるわけではなく、1人1人に固有の価値観である。グラスの中のワインのたとえ話が有名だが、「まだ半分残っている」と考えるか、「もう半分しかない」と考えるか、それは人それぞれである。市川監督はそれをこの映画で問いたかったのではないだろうか?
冒頭の庭子のアップは幸せそうな表情をしていた。電話の相手・北も幸福の絶頂に浸っていた。事件によってその「幸福」は奪われてしまったが、しかしこの瞬間こそが彼らにとって"ワインが満ちた″瞬間だったのだろう。「幸福」とは一過的なものでしかない。永遠い続く「幸福」なんてものはないのである。だから、我々はその一瞬、一瞬を大切に生きていかなければならないのだ。
そして、煮え切らないまま終わってしまった村上家の関係をあれこれ想像してみた。人生とはその瞬間、その瞬間を大切に生きていかなければならない‥とするのなら、どうかこの家族には再び「幸福」が訪れて欲しいと思う。なぜなら「幸福」とは、ふたたびやって来るものでもあるからだ。ワインが無くなればまたつげばいい。そうやって人生は続いていくものである。
ちなみに、映像技術的なことを言うと、今作は同監督作の
「おとうと」(1960日)で実用化された「銀残し」が再び採用されている。少し色あせた色調になっていて、独特の雰囲気の画作りになっている。何故、市川監督はこの色調にこだわたのか?その意味を考えてみるのも面白いかもしれない。
主人公を演じた伊藤雄之助の演技が良い。独特の味わいがある。
「プーサン」(1953日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 都内の補習高校で数学を教えている野呂は、のんびりとした性格の中年男。帰宅中にトラックに轢かれそうになって右腕を負傷する。まともに授業が出来ず生徒に手伝ってもらい、その手間賃としてお金を請求された。さすがに校長の信頼を失い、野呂は夜間部の担当に格下げされた。彼が下宿する先にはカン子という活発なキャリアウーマンがいた。野呂は彼女の頼みでストリップ劇場に連れて行かされる。初めてのデートである。しかし、当の彼女は余り面白くないと不機嫌で、結局デートはあっけなく終わってしまった。野呂はそんなカン子に次第に惹かれていく。その後、野呂は教え子にそそのかされて一緒に学生デモに参加する。これが問題となり彼は教師をクビになってしまう。
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(レビュー) 臆病でシャイな中年男の悲哀をコミカルに綴った社会風刺劇。
原作は横山泰三の同名4コマ漫画。それを和田夏十が脚色、市川崑が監督した作品である。
スケッチ風な作りになっているのは原作のスタイルをそのまま踏襲したからなのか‥?エピソードが散漫で1本の映画として見た場合少しまとまり感に欠く。
例えば、野呂が通う病院に来る喘息の青年などは、エピソードが投げっぱなしである。また、戦記物で売り出した代議士・五津も、戦争体験者である野呂の"陰″の部分を表したかったのだろうが、中途半端なままに終わってしまった。学生運動を巡る少年たちの対立も最後はどうなったのか?これも結末が描かれていない。
原作は未読だが、ここまで乱立したエピソードを見せられると、どうも製作サイドは1本の作品として何か大きなお題目を挙げようという気持ちは初めから無かったのかもしれない。あくまでオムニバス風なスケッチドラマとして作ろうとしたのだろう。それを割り切った上で見れば、個々のエピソードはそれなりに楽しめる。
中でも、派出所のシーンは面白かった。殺人犯が自首してくるのだが、丁度そこに居合わせていた臆病な野呂は怯えてしまう。ところが、巡査は慣れた手つきで彼に対処する。その後、少年が鼠を殺したと言って入ってくる。人殺しに驚かなかった巡査が鼠の死体を見て腰を抜かしてしまう。唖然とする野呂‥。これは可笑しかった。
また、警察に自殺の電話が2本同時にかかってくるシーンも面白かった。片方は老人の首つり自殺、もう片方は若い女の服毒自殺。署内の警官はこぞって女の方へと駆けつける。大勢の警官に取り囲まれた女は驚いて目を覚ます。結局、女は自殺未遂に終わる。
こうした笑い所はあるが、後半に入ってくるあたりから本作は徐々にシリアス色が強められていく。
デモに参加して教職をクビになった野呂は仕事探しを始めるのだが、戦後特需で景気が良くなっていた時代とはいえ、まだこの頃は社会全体が活気を見せるほどではなかった。一部の富裕層と一般庶民の間では大きな格差があった。野呂のように職にあぶれた連中は、日銭を稼ぐのに必死になって職安に詰めかける。しかし、のんびり屋の野呂に当然仕事など見つかるはずがない。次第に困窮していく野呂。その姿は見ていて悲惨である。最後に残った食料、キャベツを頭にのせてキチガイの真似をする所などは、笑うに笑えない哀しさがあった。
後半からはこうした悲劇色を打ち出しながら、時代の”闇”が徐々に表象されていく。見ていて少々鬱になるが、これが当時の社会だったのだろう。カリカチュアはされてはいるが何となく理解はできた。
キャストでは野呂を演じた伊藤雄之助の妙演が良かった。マンガチックな造形に堕することなく、世渡り下手な中年男の悲哀を見事に演じきっている。こういう情けない男って本当にいそう‥と思わせる説得力が感じられると共にどこか愛着感も覚えた。極端な話、今作はキャラクター映画的な所がある。野呂という男の存在感。それで持っているような映画であり、そこは大いに楽しめた。
凱旋後のイーストウッドの姿に痺れる。
「奴らを高く吊るせ!」(1968米)
ジャンルアクション
(あらすじ) 元保安官のクーパーは牛追いをしていた。しかし、その牛は騙されて買った物であることが分かる。追いかけてきたならず者たちに、牛泥棒とみなされてクーパーは首を吊るされた。その後、囚人を護送中の保安官に救出され、彼は罪人として投獄されてしまう。このままでは無実の罪で死刑になってしまう‥。そう思った矢先、町の権力者で判事のフェントンがクーパーの職歴に注目して彼を新たな保安官に任命した。こうしてクーパーは自分を襲ったならず者たちを追いかけるのだが‥。
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(レビュー) マカロニ・ウェスタンで一躍人気スターになったC・イーストウッドがアメリカに凱旋して初めて撮った西部劇である。設定など一応西部劇の体をとっているが、どことなくマカロニ・ウェスタンっぽい作りになっているところがユニークである。おそらく彼のイタリア時代の作品を相当意識して作られたのだろう。
物語は、クーパーが自分を縛り首にした9人のならず者たちを捜し出して復讐を果たそうという、いわゆる復讐劇となっている。
まず、クーパーは判事から、ならず者たちを生きて捕まえるよう命令される。しかし、私怨を燃やす彼はそれを無視して、正当防衛を理由に彼らの一人を射殺する。このあたりは如何にもマカロニ・ウェスタン調だ。
しかし、中盤から彼の復讐心は揺らぐ。一味の仲間、若い二人の少年を逮捕するのだが、まだ年端もいかぬ未成年であること、リーダーの命令には逆らえなかったこと、縛り首に直接手を貸さなかったことなどを理由にクーパーは彼らを許そうとする。
更に、後半に入ってくると、過去を引きずって生きる悲劇のヒロイン・レイチェルの登場で、彼は慈愛の精神、復讐の無意味さを彼女から教わっていく。
一見するとマカロニ調なハードなリベンジ・ムービーから、中盤から復讐の意味を問うた骨のあるドラマになっていく所が面白い。クーパーのキャラクター・アークもはっきり示されていて中々ドラマチックな展開を見せている。
ただし、ラストに関しては余り感心しなかった。何というか、中途半端な終わり方になってしまっている。そもそも、彼の復讐はクライマックスで終わっており、その後の展開はどう見ても惰性でしかない。バッジを巡って判事とやり取りする所で、彼がどのような決断をとるのか?それは見ている観客が考えればいいのであって、映画の中で語るべきものではないだろう。作品のテーマはその手前で決着しているので、その後の展開は蛇足に思えた。
キャストでは、やはりイーストウッドのニヒルな佇まいが良かった。それまでに培われてきたヒーロー性、男臭い色気が、随所に魅力を放っている。
また、彼以外の個性的なサブキャラ達も中々に良かった。
特に、法の下で正義を翳すフェントン判事の”含み”を持った造形が素晴らしい。準州であるオクラホマを正式な州にしようと犯罪の取り締まりに邁進していく彼は、問答無用に絞首刑を敢行するせいで人々から批判を受けるようになる。町の浄化に勤めようとすればするほど、行き過ぎた行動として捉えられてしまう。しかし、それでも彼は絞首刑を止めない。
彼が目に涙を浮かべながら死刑執行を命じるシーンがある。当然これは一種のパフォーマンスであろう。町の人々に、自分は仕方なくやっているのだ‥ということを必死にアピールしているのである。彼は、復讐を果たすことで徐々に無情を知っていくクーパーとはまったく正反対なアプローチを辿っていくキャラクターである。二人のキャラクター・アークの対比がこのドラマを面白く見せている。
また、レイチェルのミステリアスな造形も中々に良かった。彼女は囚人が町に護送されてくると必ず全員と面通しをする。その理由は終盤に判明するのだが、実は彼女もクーパー同様、復讐に燃える悲劇のヒロインだったことが分かる。このあたりの”含み”を持たせた演技も見事だった。
他に、敵役である9人の内の一人、ストーンの顛末も印象に残った。人間の心の弱さをよく表している。
一方、今作で勿体ないと思ったのは、一部の特殊メイクだろうか‥。クーパーの首には吊るされた時にできた痣があるのだが、これが場面によって付いていたり付いてなかったりしていた。細かな所だが重要な所である。気を配ってほしかった。
西部劇だと思ってい見ていたら意外なメッセージに気付かされる異色作。
「三人の名付親」(1948米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルアクション
(あらすじ) ボブを中心とした3人の強盗団がある町にやってきた。早速、銀行を襲撃するが、一番若いキッドが銃弾に負傷する。一行は水を求めて砂漠を逃走した。ところが、彼らの行く手にパーリー保安官隊が待ち受けていた。仕方なく3人は進路を変更すると、その先でインディアンの襲撃に遭った帆馬車に出くわす。中には瀕死の身重の女性が乗っていて‥。
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(レビュー) 罪を犯した強盗団が赤ん坊の面倒を見ることで改心していく人情西部劇。
タイトルから察する通り、いたってストレートなドラマだが、そこで繰り広げられる強盗団の葛藤は中々面白い。これまでの罪滅ぼしとばかりに、3人は赤ん坊の面倒を見ることになるのだが、誰一人として育児などしたことがない。赤ん坊の母親が持っていた育児書を読みながら赤ん坊の世話に四苦八苦する姿は見ていて微笑ましい。
後半からパーリー保安官との壮絶なサバイバル劇が繰り広げられ、それまでの安穏としたトーンから一転、シリアスモードに転じていく。
また、赤ん坊の母親が持っていた聖書を元に、少し教示的なセリフ、メタファーが随所に登場してくるようになる。ここが他の西部劇には見られない本作ならではの特異点だろう。
映画を見ていくと、段々この赤ん坊がキリストの暗喩であることが分かってくる。3人の強盗団は聖書に書かれた3人の賢者であるし、彼らが赤ん坊を抱いて目指すニュー・エルサレムという町は聖地エルサレムを意味するものであろう。つまり、後半からこの映画は単なる西部劇ではなく、聖書に書かれた筋書そのもののドラマになっていくのだ。
ただ、個人的には後半からの宗教臭は、少し押しつけがましく感じられてしまった。西部劇にこうしたテーマを持ち込んだ意欲は買いたいが、ここまで強烈に宗教観が顕示されるとしつこく感じる。せっかくの西部劇である。前半で見られたような人情劇を単純に楽しみたかった気がする。
監督は名匠J・フォード。いかにも氏らしいヒューマニズム溢れるドラマになっていて、作りも実に堅実にまとめられている。特に、前半から中盤にかけてのユーモラスなやり取りに彼の真骨頂が伺えた。また、序盤の激しい追跡シーンは自身の「駅馬車」(1939米)を彷彿とさせる迫力が感じられた。3人とパーリー保安官の体面も人を食っていて面白い。
一方、今まで銃しか撃ったことが無い彼らがそう簡単に助産を出来るか‥という疑問は残った。この映画は出産シーンを省略してしまって実際に映像で描いて見せていない。そこを見せることで少しでもこの疑問を払拭されただろう。演出の甘さが感じられる。
また、負傷したキッドが赤ん坊を抱えるのは、どう考えても危険すぎる。普通に考えれば他の誰かが抱くべきであろう。演出上のミス‥というよりも、次の事件を起こす"きっかけ″を無理やり作っているように見えてしまい、ややご都合主義に思えてしまった。