結構きついネタもあるが中々楽しめるロマンス映画。パリのイメージが変わるかも?
「パリ、恋人たちの2日間」(2007仏)
ジャンルロマンス
(あらすじ) ニューヨーク在住の女性写真家マリオンは、恋人でインテリアデザイナーのアメリカ人・ジャックとヨーロッパを巡る旅に出ていた。アメリカに戻る前に二人はマリオンの故郷パリに寄ることにした。久しぶりの帰郷に喜ぶ家族。恋人ジャックのことも歓迎した。しかし、ジャックは文化の違いもあり何だか居心地が悪くなってしまう。更に、マリオンの部屋から他の男のヌード写真が出てきて‥。こうして二人の関係は次第にギクシャクしていく。
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(レビュー) 交際2年目の男女が破局を迎えていく様子を、シニカルなジョークと軽快な演出で綴ったロマンス作品。
製作・監督・脚本・編集・音楽・主演はJ・デルピーが一人で担当している。今作はそれまで女優一本でやってきた彼女の初監督作品である。見せるべき所はきちんと見せ、流すところは適度に流し、中々の演出手腕を見せている。
まず、今作の魅力は何と言っても脚本ではないだろうか。まるでW・アレン作品のような機知に富んだ会話劇が楽しい。
元々、デルピーはR・リンクレイター監督の「ビフォア・サンセット」(2004米)で主演兼脚本を務めている。「ビフォア~」はリンクレイターや共演したI・ホークとディスカッションしながらの即興的にシナリオを作り上げていったそうである。3人の共同なので負担は分散される。しかし、今回は彼女が一人で製作から編集まで全てをこなしている。過去の経験があるにせよ、オールマイティに挑む彼女の姿勢は"ホンモノ″と言う事が出来るのではないだろか。以後も、デルピーは監督・脚本・主演の映画を立て続けに撮っている。
会話の中にはブラックな下ネタも多数登場してくる。このあたりは見る人を選ぶかもしれないが、個人的にはそこも含めて楽しめた。
中にはフランスに対する辛辣な揶揄もあるが、これはデルピーの本音なのかどうか‥。フランス人である彼女が自国をこんな風に見ていたとしたら、これは興味深い。それまで外国で活躍することが多かった彼女だからこそ、客観的に自分の国を見つめることが出来るのだろう。
例えば、パリと言うと小粋なレストランや高級ブランド店が建ち並ぶお洒落な街‥というイメージがあるが、今作にはそういった風景は余り登場してこない。むしろ、猥雑な下町風景が登場してくる。
マリオンの父親の画廊などはその最たるものだろう。裏道にひっそりと佇む小さな店で、中に展示されているものは男女の性交をもじったようなシュールな絵ばかりである。それを"しまむらルック″な人達がアートを分かったような気で鑑賞している。
また、マリオンがジャックに案内する市場も、衛生的に問題があるのでは‥と心配になるほど雑然としている。売られている物も少々グロテスクだ。
マリオンの実家も同様、壁にはアオカビがこびりつき、水道管がすぐに破裂して床が水浸しになるようなボロ屋である。
もちろん、中には優雅な暮らしを送っている人もいるだろう。しかし、本作は敢えてそうした人々よりも庶民の暮らしぶりを見せることで、皆が知らない"裏のパリ″を積極的に描こうとしている。こうした視点でパリを切り取ろうとしたデルピーの狙いは、作品に"新鮮さ″をもたらしている。
物語はジャックの視座で進行する。マリオンの過去には様々な恋があった。それを知った彼はマリオンに見切りをつけようとする。そして、彼女に対する憎悪は、彼女の周囲、ひいてはパリという街、フランスという国までにも膨らんでいく。二人の運命やいかに‥という所が見所である。
ただ、会話の妙は申し分ないが、ストーリーその物は決して動きがあるわけではない。至ってシンプルなドラマなので、あくまで"小品"というスタンスで見てあげるべきだろう。
また、冒頭とラストはマリオンのモノローグによって表現されている。全体がジャックの視座で進行するのに、ここに視座の不整合を感じてしまう。ジャックに同情を与えるように作られているのか?それともマリオンの心情に寄って作られているのか?曖昧な感じがした。マリオンの心情で締め括るのであれば、そこに見る側が自然にフィットできるようなドラマを組み立てる必要があっただろう。しかし、今作はそうは作られていない。彼女がどうして最後にああいう心理に至ったのか?その理由が納得できるような筋道が劇中に欲しかった。
尚、最も笑えたのは体温計のネタだった。そんなバカな‥と思ってしまうが、マリオンが言うと何だか本当のことのように思えてしまう。それと、風船のネタも笑えた。
一方で、人種差別や少女買春等、笑うに笑えないネタも登場してくる。フランスは歴史的に見ても基本的人権の先陣を切った国というイメージがあったが、そのイメージが見事に覆された(苦笑)。
今年の米オスカーは主要部門が全部バラバラという混戦でした。作品賞は
「アルゴ」(2012米)が受賞。ハリウッドの"軌跡″に協会員が胸打たれた‥という証でしょう。監督賞にノミネートされなかったベン・アフレックにとっては嬉しい受賞だったかもしれません。最大のトピックはダニエル・デイ=ルイスが史上初の3度目の主演男優賞を受賞したことでしょうか。個人的には「リンカーン」の失速が意外でした。
さて、本家が出た所で自分も去年見た映画のベスト10を挙げてみたいと思います。去年劇場で見た作品32本の中から選出してます。
1「桐島、部活やめるってよ」個人的に思い入れが強くなってしまった作品。
2「ニーチェの馬」映画の醍醐味はストーリーじゃない。体験することである‥ということを実感させてくれた作品。
3「アーティスト」斬新な手法で作られた稀有な<映画賛歌>映画。映画の魅力がふんだんに味わえる。
4「ドライヴ」70年代臭がツボに入りまくり。とにかく主人公が格好良い!
5「灼熱の魂」その熱量、卓越した語り口に圧倒された作品。
6「希望の国」震災後に改めて考えながら見てみたい映画。
7「おおかみこどもの雨と雪」細田監督はおそらく今後日本アニメ界を牽引していく作家になっていくことでしょう。
8「ヤング≒アダルト」サラリと描いているけど深い小品でした。
9「サニー 永遠の仲間たち」泣かせ方が上手い作品でした。
10「バトルシップ」たまにはバカ映画からランクインという感じで‥。
作品:「桐島、部活やめるってよ」
監督賞:タル・ベーラ(「ニーチェの馬」)
脚本賞:吉田大八、喜安浩平(「桐島、部活やめるってよ」)
男優賞:ライアン・コズリング(「ドライヴ」)
女優賞:ルブナ・アザバル(「灼熱の魂」)
次点は
「最強のふたり」、
「ザ・レイド」、
「私が、生きる肌」、
「ル・アーヴルの靴みがき」1,2位は不動の順位ですが、3位以下はほとんど順不同。敢えて順位を付ければ‥という程度で余り差はありません。
去年は忙くて映画館に行く機会が減ってしまいました。今年は時間を作ってもっと映画館に行きたいですね。
ジャンル俺アカデミー賞
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ハートウォーミングに描いているが実は恐ろしい物語。
「ハーヴェイ」(1950米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 大富豪の子息エルウッドは、普通の人には見えない"ある物″が見えた。それは体長1.9メートルの巨大なウサギ、ハーヴェイである。彼は人目をはばからずハーヴェイと会話をするので、町ではちょっとした有名人になっていた。そんなエルウッドを姉は快く思っていなかった。娘の結婚が遅れているのは彼の悪評のせいだと思っていたのである。ある日、姉は娘の婿探しのために町の若者たちを招待してパーティーを開くことにした。ところが、運悪くそこにエルウッドがやって来てパーティーは台無しになってしまう。姉はついにエルウッドを精神病院に入れようとするのだが‥。
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(レビュー) 妄想癖を持った男が周囲に様々な騒動を巻き起こすハートウォーム・コメディ。
低予算ながら奇抜なプロットで話題を呼んだ青春サスペンス映画「ドニー・ダーコ」(2001米)は、おそらく本作からアイディアを得ているのではないだろうか。普通に考えれば明らかに気味の悪い妄想男で、「ドニー・ダーコ」はそこを上手くサスペンスに転嫁していたのだが、本作は逆にコメディとして料理している。
何と言ってもこの映画は、エルウッドの妄想に感化されていく周囲の人々の姿が可笑しい。その理由付けは若干弱く感じたが、一種のナンセンス・コメディと割り切ってみれば中々楽しめる。世の中には思い込みが激しい人と、そうでない人がいる。正常or異常という線引きは、実は相対的な問題でしかないのかもしれない。以前、
「精神」(2008日)というドキュメタリー映画を観たが、そこでも印象的に語られていた。主観的な立場に立って考えれば、誰が異常で誰が正常かなんていう問題は、それほど意味がないことなのかもしれない。
エルウッドが何故ハーヴェイを見るようになったのか?その理由は生い立ちにあるように思った。彼は母の死がショックで、その寂しさがハーヴェイという虚像を生み出したのだろう。
幼年性妄想癖という病気がある。これは、小さな子供が寂しさを紛らそうとして目には見えない"イマジナリー・フレンド″を頭の中で勝手にこさえて一緒に遊ぶ‥という精神的な病である。エルウッドは大人であるが、正にこの症状に当てはまるような気がした。現に、彼はまるで子供がそのまま大人になったような純粋な人物で、人を疑うことをせず、自分に正直に生きている。まるで純真無垢な子供そのものである。元来、子供というものは欲望に忠実に生きる暴君だったりもするわけで、そう考えるとエルウッドが巻き起こすこの騒動はどこか屈託のない"子供の悪戯"のようにも見えてくる。
エルウッドを演じるのはJ・スチュアート。見えないハーヴェイを相手に演技をするのは骨が折れたろうが、飄々と演じて見せたあたりは上手い。バーの裏で過去を告白するシーンは今作一番の名演と言えるだろう。しみじみとさせられた。
本作には他にも様々な個性的なキャラが登場してエルウッドの巨大ウサギ騒動に翻弄されていく。中でも、主治医と看護婦のロマンスは中々味があって良かった。
オチについては色々と考えさせられた。先述の通り正常と異常の違いは紙一重である。だとすると、エルウッドのことを異常者扱いしていた人々が果たして正常な思考の持ち主と断言出来るだろうか?もしかしたら、狭量な視野しか持たない彼らの方こそ異常者なのではないか‥?そんな風に思えた。正常と異常の線引き。その曖昧さを観客に考えさせるような作りになっている。
長い、難しいと言われる原作を分かりやすく映像化した作品。
「カラマーゾフの兄弟」(1968ソ連)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) カラマーゾフ家には3人の兄弟がいた。長男ミーチャは直情的な性格の軍人、次男イワンは無神論者の秀才、三男アリョーシャは教会に仕える修道僧だった。それぞれに父フョードルとの関係は芳しくなかった。特に、ミーチャは愛するグルーシェンカを巡って父と対立していた。元々ミーチャにはカテリーナという婚約者がいた。しかし、彼女に多額の借金をしていた負い目があり、中々別れを切り出せずにいたのである。業を煮やした父は、戦地のミーチャを呼び戻し、早速口論となる。こうしてミーチャは父と絶縁し、周囲の反対を振り切ってグルーシェンカと一緒になる決意する。
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(レビュー) ドストエフスキーの世界的名著を全三部作で映画化した作品。
原作は未読なので一体どこまで映像化されているのか分からないが、どうやら随分と端折られているらしく、一部の原作ファンからは余り芳しくない評価を得てるようである。ただ、それでもあの長大な原作を4時間という大作に仕立て上げたのだから結構見応えはある。基本のドラマはしっかり押さえられている。
物語はミーチャとグルシェーンカのロマンスを中心にしながら、兄弟たちの確執、父との対立といったドラマが繰り広げられていく。第2部では一家に更なる波乱が起こり、第3部ではある殺人事件が起こる。そこから3人の運命も悲劇的なクライマックスへと向かっていく。実に重厚なドラマで見応えがあった。
ただ、先述の通り原作の設定が一部で省略されている。そのせいだろう。感動という所までは至らなかった。
原作ではアリョーシャは腹違いの息子という設定らしいが、映画の中ではそのあたりについては詳しく描かれていない。その設定にこだわらなくとも物語は不都合なく進行させることができるが、あるとないとでは大きく違う。この設定を踏まえることで更にこの物語はドラマチックな展開を見せることが出来たような気がする。また、彼はこの物語の中では狂言回し的な立ち位置になっているので、若干葛藤も弱く映ってしまった。
演出は全編、演劇的なアプローチが続き大仰な感じを受けた。おそらくだが、長い原作を切りつめるための苦肉の策なのだろう。一つ一つの演出に抑揚をつけていては時間が延びるだけである。ならばより軽快に、ストレートに演出すれば時間の削減にもつながる。見る方も入り込みやすい。そう考えたのだと思う。
現に、神の存在について家族が意見を対立させる冒頭のシーンはセリフが理屈っぽいし、演技も過剰である。まず、ここで違和感を覚えてしまうと、以後もこの映画には入り込むことはできないだろう。全編この調子で続くからである。自分も見ていて少し引いてしまったが、ただこれだけドロドロとした愛憎ドラマならむしろこのくらいのハイテンションな演出の方が合っているとも言え、多くの戯曲の映画化がそうであるように、本作もまた原作重視のスタンスを取っているのだろう。そういう意味では、こうした演劇的なアプローチの演出は納得できるところである。
そんな中、個人的に最も"映画的″な感動が味わえたのは第2部の終盤、ミーチャとグルシェーンカが束の間の幸福に浸るシーンだった。ここは楽隊の使い方や映像的な艶やかさによって、非常にロマンチックに仕上げられている。セリフに頼るような演劇的な理屈っぽさもなく、二人が寄り添っていく過程がごく自然に描かれていた。また、どちらかと言うとロシアの寒々しい風景が続く中、ここだけは温かみのあるトーンで描かれているので、それも良かった。
本作は映像も一つの見所と言えるだろう。この頃のソ連はトルストイ原作の「戦争と平和」(1966~1967ソ連)に代表されるように、国家的規模で映画作りが行われていた。「戦争と平和」も4時間半弱という大作で、あそこまでのスケール感は古今東西どこを見渡しても早々お目にかかれるものではない。本作も雄大な自然を所々に挟みながら作品にスケール感をもたらしている。
ところで、このドラマは最後に"ある謎″を残して終わるのだが、これについては色々と想像を掻き立てられた。第3部で頭角を現すキャラで、カラマーゾフ家に仕える使用人スメルジャコフという人物がいる。彼の真意を探ってみると、このドラマが訴えるテーマは深く探究できよう。
そこには同じドストエフスキー原作の「罪と罰」に通じるようなテーマが読み取れる。それは、宗教と人間の非力さの関係についてである。
本作の殺人事件も「罪と罰」で描かれる殺人事件も、結局は人間の心の弱さが生んだ事件だと思う。では、何故人は罪を犯すのか?何故、罪の意識に苛まれるのか?このあたりを探っていくと興味が尽きない。
人間はエゴを持った生き物である以上、罪を犯すことからは逃れられない運命にある。では、避けがたい罪を「悪」と決めつけるのは誰だろう?「神」である。では、その「神」を作ったのは誰だろう?「人間」である。「人間」の弱き心が「神」という存在を作り、結果、「人間」はそれに縛られて生きることを運命づけられているのだ。例えが正しいか分からないが、これは「鶏が先か、卵が先か」という問題に似ているような気がする。要するに、「罪」を犯すから人は「罪人」なのか、あるいは元々が「罪人」であるから「罪」を犯すのか?「神」という概念を作った時から、人間はこの問題に捉われてしまったような気がする。
本作のスメルジャコフも「罪と罰」のロージャも、宗教との関係の中で葛藤した人物たちである。しかし、こうした「罪」の意味という所については、結局答えは得られなかったのではないだろうか‥。
大きなテーマを語る方法としてこういうやり方もある‥という事を改めて知らせてくれる逸品。
「かぞくのくに」(2011日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 都内で小さな喫茶店を経営する在日朝鮮人一家の元に、北朝鮮に行っていた一人息子ソンホが25年ぶりに帰ってくる。彼は日本から北朝鮮へ移住する帰国事業の犠牲者だった。脳腫瘍の治療のための3か月という期限付きだったが、両親や妹のリエは久しぶりの再会に喜んだ。しかし、家族の傍には常にヤンという監視人が付いていた。そして、ソンホも何故か浮かぬ表情を滲ませる。
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(レビュー) 在日朝鮮人一家の数奇な運命をシリアスに綴った社会派人間ドラマ。
日々のニュースで北朝鮮の様子については見聞しているし、かつて"地上の楽園″と言われて向こうへ渡った人がたくさんいるということも知っている。しかし、多くの日本人にとってはその実態は知らないだろう。渡航した人々のその後はどうなったのか?残された家族はどうしているのか?この映画はそのあたりの所に深く切り込んでいる。
監督・脚本は在日コリアン2世ということだ。そういう意味ではかなりの真実味も感じられる。また、ここまで実態に迫った映画は日本人には到底撮れまい‥とも思った。
物語はソンホの帰国から始まる。歓迎する家族、友人達を前に何故か彼は浮かない表情を滲ませる。久しぶりの再会にどう喜んでいいか分からないという戸惑い。あるいは、北朝鮮政府から言動を慎むよう厳しく言い渡されているということもあろう。だが、彼が苦虫を潰したような表情を崩さない理由は、これらとは別にもう一つあった。それは後半で判明する。噂ではよく聞くが、実際にはこんな風にして"行われている″のか‥ということが分かって興味深かった。
この映画は国家間の狭間で犠牲になった家族の悲惨な姿を通して、体制・政治批判というテーマが熱く語られいてる。実に社会派的な側面を持った作品だと思う。
ただ、物語のベースとなっているのはあくまで家族ドラマである。そこに我々一般人が見てもフィットしやすい"語り口″の工夫が凝らされている。フラットな目線で見ることができ、我々が知らない所で一体何が行われているのか?彼らはどんな苦しみを抱えているのか?それがストレートに伝わってきた。
ちなみに、北朝鮮を批判する映画は過去にもあった。例えば、脱北した男が家族の元へ帰ろうと苦闘する
「クロッシング」(2008韓国)という映画は記憶に新しい。あれも根本には家族愛のドラマがあった。そして、その背景には北朝鮮に対する憤りがあった。これは体制が変わらない以上、決してなくなるものではないだろう。
劇中で脳外科医の医師がこんなことを言っていた。これは個人ではどうにもできない問題です‥と。ソンホと家族の絆は、もはや国家間のレベルでしか修復できない問題となっている。25年にも渡る彼らの苦しみには、抗えない血、国家という枷が重くのしかかっている。これを解消するのは容易なことではないと思う。
ラストが秀逸だと思った。抗えない血、国家に戦いを挑もうという強い信念が感じられたからだ。監督が伝えたいメッセージは、このラストに集約されていると思う。
また、今作はソンホたち家族の一方でヤンという監視員の葛藤も描かれている。こちらも見応えが感じられた。任務が絶対的な命令である彼の立場は極めて危うい。彼にも家族がいるし、一人の人間である以上良心だってあるはずである。そんな彼は、ソンホ達を一体どう見ていたのだろうか?後半のホテルのシーン、ラスト直前の出立のシーン。この二つから彼の揺れ動く心情が見て取れる。彼もまた血と国家に縛られて生きる悲劇の男‥と言えるのかもしれない。
キャストは見事なアンサンブルを見せている。ソンホ役の井浦新、リエ役の安藤サクラ、父役の津嘉山正種、母役の宮崎美子等、夫々に見事な好演を披露している。
ヤン役は
「息もできない」(2008韓国)で鮮烈な監督デビューを果たしたヤン・イクチュンが演じている。「息もできない」の時とはガラリと変えた役作りで意外だった。
尚、このドラマは実にオーソドックスなプロットに則って作られていると思う。物語の基本定型。主人公が行って帰ってくる‥というドラマであり、取り立てて目新しいわけではない。結末は悲劇的な締めくくり方になっているが、これは"上昇″or"下降″のドラマで言えば後者に当たる。このプロットを借りれば他にもいくらでもドラマは作れる。しかし、要は本作のような秀逸なモチーフ選び、そこが肝なのだろう。改めて映画はモチーフが重要であるこを認識させられた。
ただし、一つだけ演出で余り好きになれなかった箇所があった。劇中で"ある歌″が印象的に登場してくるのだが、これをラスト直前で口ずさむのはベタ過ぎて個人的には受け付けがたい。出来ればあそこはそのままそっとしておくか、別のアイテムを用いて悲しみを表現して欲しかった。
現実と虚構の判別がつかなくなる不思議な映画。
「塀の中のジュリアス・シーザー」(2012伊)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ローマ郊外にあるレビッビア刑務所では、毎年囚人達による演劇会が催されていた。今年の演目はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」に決まった。オーディションで選ばれた囚人たちは早速、演技の練習に励む。ところが、ブルータス役の囚人が次第に現実と役柄を混同していくようになり‥。
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(レビュー) 実際の刑務所を舞台に、実際の囚人達を使って撮影された異色の演劇ドラマ。
監督・脚本はイタリアの巨匠タヴィアーニ兄弟。個人的には初期作品が好きで最近の作品は余り追いかけてないのだが、今回は特異な題材が目を引き久しぶりに彼らの作品を見たいという気になった。
昨今、文芸映画などの大作趣向が強かった彼らだが、今回はミニマルに徹している。上映時間も80分足らずという短さで非常にコンパクトにまとめられている。
物語は実にシンプルだ。囚人達の稽古風景を綴りながら、その合間に時々日常風景が挟まるといった構成で、正直ドラマの動きは少ない。役柄に入り込み過ぎて現実との区別がつかなくなってしまう者。過去のトラウマを思い出して上手く演じられなくなる者。そういった囚人達の葛藤はごくわずかに描かれるが、基本的には練習風景を延々と写すだけである。
このシンプルさはタヴィアーニ兄弟の計算なのだろう。「ジュリアス・シーザー」のリハーサル風景はまるでドキュメンタリーのようでもあり劇映画的でもあり‥。自分は今までに感じたことが無い不思議な感覚にとらわれた。つまり、複雑なドラマ、人物の葛藤を必要以上にしたためなかった彼らの演出意図が、見事に本作をドキュメンタリーなのかフィクションなのか分からなくしてしまっているのだ。
尚、自分は見ている最中、囚人達たちは全員プロの俳優だと思っていたのだが、最後に本物の囚人だということが判明し驚いた。実際に彼らは刑務所で「ジュリアス・シーザー」の公演をしているのである。別に騙しの映画ではないのだが、もうこの時点で俺はタヴィアーニ兄弟の仕掛ける策にまんまとはまったというわけである。
映画が進んでいくと、リハーサルは刑務所の至る所で繰り広げられていくようになる。屋内から屋外へ飛び出し、ある者は消灯後もベッドの中でセリフを練習し、ある者は休み時間でも役柄になり切って練習をする。囚人達の日常生活(現実)とリハーサル(虚構)が段々不明瞭になっていく。
これはストーリーを語る映画ではない。現実と虚構の曖昧さを描こうという、野心溢れた実験的な作品なのだと思う。
ところで、今作を見て羽仁進監督の
「不良少年」(1961日)を思い出した。あの映画も実際の不良少年を使って実際の刑務所で撮影された半ドキュメンタリーな作品だった。今回も実際の囚人が演じているという点では共通しているように思う。
ただ、ドラマがあった「不良少年」に比べると、本作にはそれが無いのが物足りなかった。タヴィアーニ兄弟の実験精神溢れる挑戦は大いに評価したいが、やはり映画を見る以上何らかドラマも見てみたい‥というのが率直な感想である。
豪華なミュージカル大作。
「レ・ミゼラブル」(2012英)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル音楽
(あらすじ) 19世紀のフランス。1枚のパンを盗んだ罪で投獄されたジャン・バルジャンは、19年間の重労働を終えてようやく仮釈放される。しかし、空腹に耐えかねた彼は、施しをくれた教会で再び盗みを働いてしまった。この時、司祭は彼の罪を許した。その後、心を入れ替えたバルジャンはマドレーヌと名前を変えて、遠くの町で人々から愛される市長になった。そこにかつての自分を知るジャベール警部が赴任してくる。一方その頃、バルジャンが経営する工場をクビになったファンティーヌは、里子に出した娘のために売春婦に成り果てていた。バルジャンは彼女を見かけて救いの手を差し伸べるのだが‥。
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(レビュー) ヴィクトル・ユゴーの原作はこれまでに何度も映画化されているが、今回はミュージカル版の映画化である。ストーリーは一応知っているので、今回は一体どんな風にミュージカルとして料理されているのか?そこを中心に見た。
まず、一番驚かされたのは、全編セリフが歌で表現されていることだ。過去に「シェルブールの雨傘」(1963仏)という作品があったが、あれと同じスタイルである。
監督は
「英国王のスピーチ」(2010英オーストリア)で注目されたT・フーパー。セリフと歌が混在することで起こるミュージカル映画特有の不自然な鑑賞感を、全編歌にしてしまったことで払拭したアイディアは評価したい。この手法で見る者をスパッと割り切らせたフーパーの演出は、力技で持って行った感じもするが見事である。
ただ、撮り方、編集については少々疑問を禁じ得ない。通常の映画のようなカット割りで作り上げてしまっているので、どうにも見ていてミュージカル映画っぽくないのだ。
第一に、この映画はフェイスアングルが異様に多い。歌っている者の顔のアップを多用し、その切り替えでシーンを形成している。しかし、本来ミュージカル映画とは演者の歌唱・演技・運動を漏れなく大局的に捉えることでダイナミックな音と映像的魅力を放つのが本文である。いわゆる群舞などはその最たる例だろう。しかし、これだけフェイスアングルが多用されてしまうとそのカタルシスは失われてしまう。カットが目まぐるしく変わっては、演者の歌唱・演技はじっくりと堪能できない。監督は生音にこだわったそうだが、ならばどうしてそれに被さる映像をぶつ切りに編集してしまったのか?これでは素晴らしい歌唱シーンもせわしなくて見づらいだけである。
全編歌曲で構成された本作は、まぎれもないミュージカル映画である。しかし、俺は今までのミュージカル映画に比べると、撮影や編集が雑で余りミュージカル映画っぽくないような感じがした。
もっとも、全てががそういう撮り方・編集になっているわけではない。中には、幾つかミュージカル映画然とした輝きが感じられるシーンはあった。
一つ目はファンティーヌの慟哭、もう一つは失意のエポニーヌのシーンである。この二つはいかにもミュージカル映画っぽい作りになっている。夫々を演じたA・ハサウェイ、サマンサ・パークスの歌唱が見事という事もあるが、彼女らの熱演を1カットで追った映像が奏功している。心揺さぶられた。
ちなみに、今回初見だったサマンサ・パークスという女優は、元々が舞台版の女優であることが後で調べて分かった。なるほど、それなら堂に入っているのも当然である。脇役ながら見事な存在感を見せつけ「ドリームガールズ」(2006米)で鮮烈なデビューを飾ったジェニファー・ハドソン以来の新星という感じがした。今後は舞台と映画、どちらを活躍の基盤とするのか分からないが頼もしい。
キャストでは他にバルジャンを演じたH・ジャックマンも中々良かったと思う。元々トニー賞で主演男優賞に輝いた経歴もありミュージカルは今回が初めてというわけではない。その経験も生かされているのだろう。特に、神の前で新しい人生を決意する序盤のシーンは素晴らしい。
逆に、限界を感じたのはジャベール役のR・クロウである。この役はストーリー的にかなり重要で出番も多いのだが、他に比べて力不足を感じてしまった。H・ボナム=カーター、サシャ・バロン・コーエンも芸達者にコメディーリリーフに徹した所は見事だが、歌自体は及第点という感じで主要キャストらに比べるとやや落ちてしまう。
話をT・フーパーの演出に戻すが、唯一映画的なカット割りと歌唱が上手く噛み合っているシーンがある。それはいよいよ革命の蜂起が開始されるという直前、夫々が戦地へ向かうシーンだ。個々の顔をカットバックで繋げたダイナミックな映像構成、高らかに盛り上がっていく歌唱。この二つが相乗効果的にボルテージを高めあっていくシークエンスには鳥肌が立った。
同様に、ラストも見事な盛り上がりを見せてくれる。力技で持って行ったという感じもするが、本来ミュージカル映画にはこれくらいのケレンミと大胆さがあっても良いような気がする。正直、ここは涙腺が緩んでしまった。先述のファンティーヌの慟哭、エポニーヌの失意に続く、本作3番目の泣かせ所である。
多彩な女たちが魅せるハードなロマンス・サスペンス。
「「女の小箱」より 夫が見た」(1964日)
ジャンルサスペンス・ジャンルロマンス
(あらすじ) 都内でナイトクラブを経営する石塚は、敷島化工の買収を企てていた。それを察知した敷島化工は、株式課長・川代に買収の阻止を命じる。そんな仕事ばかりの川代に妻・那美子は不満を感じていた。ある日、那美子は親友に連れられて偶然、石塚の店を訪れる。石塚は彼女に近づいて川代が持っている株式名簿の情報を手に入れようとするのだが‥。
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(レビュー) 野心溢れる青年実業家と夫婦生活に不満を抱える新妻が不倫関係に溺れていくサスペンス作品。
ストーリー自体はいかにも2時間ドラマ的な内容で、中には強引な個所もあり余り感心できなかった。大体によって株式名簿を持ち歩くなんて普通に考えたらありえないだろう。
しかし、そうしたシナリオ上の穴はあるにせよ、監督・増村保造のスタイリッシュ且つ軽快な演出が全体を引き締め、中々の快作に仕上がっている。
白眉は壮絶なクライマックス・シーンである。前回紹介した
「曽根崎心中」(1978日)にも言えることだが、増村監督は最後の最後にとんでもない物を見せてくれる。正視できないような過激なバイオレンスを堂々と出してくるのだ。
更に、ここで石塚が採った行動は、人間の弱さ、愚かさを見事に示していると思った。それに寄り添う”相手の女”の愛もよく理解できた。いずれも嘘偽りない本音を曝け出した所に見応えを感じる。
そして、この”最後の選択”を石塚に迫った那美子の残酷な、しかし女としては当然とも言える行動にはぞっとさせられた。確かに彼女の狂気的愛は理解できないと言う人もいるだろう。自分はこれだけ愛している。だからあなたも同じように私を愛しないさい‥という一方的な偏愛は、もはやサイコパス的とも言える。だが、夫に見捨てられた悲痛の彼女を誰が咎められよう。箱入り娘よろしく那美子はまるで少女のように純粋な愛を求めたのだ。その辿ってきた人生を鑑みれば、この時の彼女の言い分はある意味で当然の主張のようにも思えた。
那美子を演じるのは若尾文子。清楚な佇まいとは裏腹に、時折熟れた肉体を持て余しながら各所でエロティックな裸体を披露している。冒頭の入浴シーンの乳房を見せないカット割りには、逆に想像を掻き立てられ助平心をくすぐられてしまった。このあたりの"見せない”増村演出は流石である。増村と若尾のタッグ作は多く、今回も相性はバッチリである。
他に今作には3人の女たちが登場してくる。これも一々個性的で面白かった。
まず、一人目は石塚の計画に協力するバーのマダム洋子である。彼女は石塚の野望ために体を使って株式買収の情報を収集する女である。全ての計画が成功した暁には結婚を約束されていたが、那美子の登場によってそれが叶わなくなってしまう。彼女の嫉妬と情念には恐ろしくなった。岸田今日子が独特のオーラを発しながら怪演している。少女のような佇まいの若尾文子との対照的なキャラ立ても見事であった。
二人目は、石塚の秘書エミである。彼女は今回の事件を起こすキーパーソンである。愛に翻弄され身を亡ぼしていく彼女も、ある意味では野心を持った石塚と同類の人間と言うことが出来よう。その顛末は実に不憫であった。
三人目は那美子の親友で開業医をしている独身中年女性である。彼女は、かつては結婚願望があったようだが、今では気ままな独身生活を満喫している。那美子や他の女性たちと違って、色々な男達と遊んでいるだけあって恋愛の引き際も熟知している。見た目は決して美人ではないのだが、それがかえって深みにはまらないで済んでいる理由なのかもしれない。自由気ままに生きる彼女が、実は一番したたかな女性な感じがした。
このように個性的な女性キャラが登場してきて、この映画は様々な男女の愛憎が繰り広げられている。そして、その根底では必ず男女の性愛が息づいており、この生々しさは増村保造にしか出せないカラーだと思った。
また、セリフも所々に良いものが見つかった。「夫婦は愛ではない、生活だ」「感謝と愛情は別だ」等、色々と含みを持ったセリフが登場してきて考えさせられた。
古典戯曲の映画化。増村保造の才気がほとばしるクライマックスシーンが忘れがたい。
「曽根崎心中」(1978日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 真面目一辺倒な商人・徳兵衛と女郎・お初は相思相愛の仲だった。徳兵衛はいつかお初を身請けしたいと思い、お初も彼以外の客を取らずその時が来るのを待っていた。ある日、徳兵衛は店の主人から娘との祝言の話を持ちかけられる。すでに実家に支度金・銀2貫を支払ったと言われたが、徳兵衛は寝耳に水でこれを断った。その結果、彼は主人から勘当されてしまう。徳兵衛はどうしても主人から許しを請おうと、実家に戻って銀2貫を取り立てて返済しようとした。ところが、戻ってくる途中で友人・九平次に会い、借金に苦しむ彼のためにその金を貸してしまう。一方、その頃お初には上客からの身請け話が持ち上がっていた。
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(レビュー) 近松門左衛門の有名戯曲、心中物の代表作とも言うべき古典を鬼才・増村保造が映像化した作品。
文語調なセリフ回し、大仰な演技は、原作を真面目に再現しようとした結果なのだろう。しかし、結論から言うと、映画としてのリアリティを考えた場合それらが少々くどい。ドラマへの集中力を欠き今一つ入り込めなかった。どうせやるならいっそのこと世界観自体も、木下恵介監督作の
「楢山節考」(1958日)のような舞台劇風にしてくれればまだしっくりくるのだが、どうも画作り自体が中途半端である。
また、音楽も今一つしっくりこない。今作に主演している宇崎竜童が音楽も兼務しているのだが、現代的なサウンドが古典の世界に不似合に感じた。野心的な試みは買うが、これも好き嫌いが分かれると思う。
物語自体は長く語り継がれる古典だけあって、しっかりと構成されており最後まで面白く見ることが出来た。シンプルなドラマながら力強さがある。また、サブキャラも上手く機能しており、物語に無駄がない。クライマックスへ至る過程もそつなく盛り上げられており流石である。
印象的なのは、やはり壮絶なクライマックス・シーンである。増村監督ならではのラジカルな感性が炸裂している。
徳兵衛とお初が愛し合うのは序盤だけである。それ以降はずっと引き裂かれた状態が続き、最後の最後にこの衝撃的なクライマックスを迎える。非常にドラマチックである。ちなみに、俺にはこの場面は二人にとっての最後のセックスのように思えてならなかった。過剰な鮮血がどこか艶めかしい‥。
キャストではお初を演じた梶芽衣子の情熱的な演技が印象に残る。九平次に女郎としての生き様を言い放つシーンは正に圧巻の一言である。
また、九平次を演じた橋本功の憎々しい演技も素晴らしかった。先述の通り、今作は全編大仰な演技が横溢するのだが、彼の悪辣外道なセリフ回しと表情は頭一つ抜きんでてる。ここまで憎々しさに徹せられると逆に文句も出ない。
増村&白坂コンビが送る風刺喜劇。
「巨人と玩具」(1958日)
ジャンル社会派・ジャンルコメディ
(あらすじ) キャラメル製造会社ワールドの宣伝部・西は、上司の合田課長と新商品の売り出しに躍起になっていた。実は、合田にはある秘策があった。それは専属モデルを使った大胆な広告宣伝である。すでに合田は下町に住む虫歯の少女・京子を発掘していた。見た目は決して魅力的ではなかったが、プロのカメラマンに預けたことで彼女は華麗に変身する。そして、彼女を使ったCMは思わぬ評判を呼び、見事に商品は大人気となった。その一方で、京子の付添い人になった西は彼女に惚れ込んでいく。次第に恋仲になっていく二人‥。その前に新たな美女、ライバル会社アポロの宣伝担当・雅美が現れる。
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(レビュー) キャラメル会社の宣伝部の悲喜こもごもをシニカルに綴った風刺コメディ。
大の大人がお菓子の宣伝を巡って口論したり、裏切ったり、一体何をしているのか?と突っ込みを入れるようになったらこの映画の「勝ち」だろう。実にバカバカしいのだが、そこが実に面白い。
大筋はいたってシンプルである。ワールド、ジャイアンツ、アポロという業界3社の熾烈な売上競争を背景にした熱き宣伝マンたちの愛憎劇である。大量消費を扇動するマスメディアに対する痛烈な批判も掲げられており風刺劇としての歯ごたえも十分。特に、ラストの西の姿にはサラリーマンの悲哀を見ずにいられなかった。正に会社人間の顛末であり印象に残る。
監督は増村保造。作品が持つテーマをカリカチュアされたキャラを使って明確に打ち出した今作は、彼の監督としての資質に照らし合わせるとかなり異質という気がする。しかし、娯楽要素を多分に入れることで、エンタメに特化した所に彼の手腕が感じられる。オープニングや後半に登場する歌には奇妙な面白さが感じられるし、メディアに祭り上げられていく京子の変化も実にドラマチックで面白かった。
また、異様なくらい軽快なテンポで話が進むのも特徴的だ。ここまでセリフ回しが早いと、まるでB・ワイルダー監督の映画を見ているようで気持ちがいい。
脚本は白坂依志夫。彼は増村保造とのコンビ作が多い。作風はまったく異なるが、江戸川乱歩の強烈な世界観に魅せられた
「盲獣」(1969日)も彼と増村のコンビだった。奇抜な映像先行型の「盲獣」と違い、今回は彼のシナリオが軽快なセリフ回しと早いカッティングで活き活きと表現されており、改めて両者の相性の良さが伺える。