ノスタルジックで切なくなる青春ロマンス作品。
「コクリコ坂から」(2011日)
ジャンルアニメ・ジャンル青春ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 東京オリンピック直前の横浜。高校生・海は、両親が残した下宿屋を切り盛りしていた。父は戦争で亡くし、母は仕事でいなかった。しかし、彼女はいつも明るく気丈に振る舞い、周囲の人々から愛されていた。ある日、学校で新聞部の部長・俊と運命的な出会いをする。俊は校舎の離れに立つ文化部の建物カルチェラタンの建物取り壊しの反対運動の主導部の一人だった。海は彼と交友を育むうちにその運動に参加していくようになる。
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(レビュー) 同名コミックをスタジオジブリが製作した作品。監督はこれが2作目の作品となる宮崎吾朗。脚本は父・宮崎駿が担当している。
宮崎吾朗の前作「ゲド戦記」(2006日)は余り芳しい評判を聞かなかったため自分は未見なのだが、今回の作品を見る限り彼の演出は言うほど酷いとは思わなかった。前作が一体どういう経緯で製作されどんな代物になっているのか分からないので何とも言えないが、宮崎吾朗の2作目は素直に面白く見ることが出来た。
特に、坂本九の「上を向いて歩こう」をバックに海と俊が自転車で二人乗りをしながら坂を下っていくシーンなどは、いかにも青春ドラマらしい清々しさ、開放感に満ちていて心温まった。また、様々な文化部学生たちが集うカルチェラタンの佇まいも悪くない。モブの動きが活気に溢れているのは、さすがにジブリと思わせてくれた。何となく宮崎駿作「ルパン三世 カリオストロの城」(1979日)のクライマックスのモブを連想した。実にユーモラスである。この温かみとユーモアこそジブリ作品の真骨頂だろう。
物語は古い青春ロマンスという体で、今見るとかなりノスタルジックに写る。敢えて現代にこのドラマを描いた製作サイドの狙いは果たして何だったのか?そこは少し疑問に思った。このドラマでは今の若い人に受けるとは到底思えない。これまで子供から大人まで幅広い層に支持されてきたジブリである。敢えて「三丁目の夕日」テイストの映画を作ったことで観客層を狭めてしまう理由が分からない。
これは想像だが、脚本を担当した宮崎駿、プロデューサーの鈴木敏夫のエゴが反映された結果なのではないだろうか。宮崎駿はともかく鈴木敏夫は団塊の世代、つまり学生運動真っ盛りの世代である。この映画に登場する学生集会や反権力的な闘争は、明らかに学生運動のそれに通じるものであり、そこに個人的な思いが反映されているのではないか‥と穿ってしまう。
もし、このノスタルジックな作品から普遍的なテーマを読み取るとすれば、それは元気がないと言われている今の若者たちに、熱き闘争に燃えていた当時の学生たちの姿を見せて、今自分たちが何をやるべきかということについて考えて欲しい‥という老婆心的なメッセージだと思う。恋に生きよ、大人たちの古い価値観を打破しろ‥というメッセージである。ただ、これも出過ぎるとかえって押しつけがましくなってしまう危険性がある。そもそもオッサンの独善的な説教ほど迷惑な話はないわけで、果たしてどこまで若者たちに受け入れられるのか‥。
しかし、ここまでネガティブな分析をしておいて何だが、今作は実際には劇場で公開された時にはヒットした。これまでのジブリ作品の興収に比べれば目劣りするが、それでもこの年の邦画第1位である。これは、純粋に若い男女のロマンスに感動したのと、ジブリブランドがまだ生きているという証なのかもしれない。
美しい自然映像と戦争の残酷さを対比しながら描いてみせた反戦映画。
「美しい夏キリシマ」(2002日)
ジャンル戦争・ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 1945年、宮崎県の霧島。中学生の少年・康雄は祖父母の家で療養生活を送っていた。彼には戦争による深い心の傷があったのだ。しかし、祖父の重徳は戦争という現実から目を逸らす康雄を非国民と詰った。家には二人の奉公人が働いていた。康雄と同じ年のなつと年上のはるである。重徳ははるに縁談の話を持ってくる。相手は戦争で片足を失った帰還兵だった。はるは意を決してその縁談を受け入れる。一方、なつは複雑な家庭の事情を抱えていた。父が戦死し、母が地元の兵隊と度々関係を持っていたのである。なつは父の位牌を持って家を出てしまう。
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(レビュー) 戦争の直接描写無しに反戦を説く黒木和雄監督のライフワーク、いわゆる戦争レクイエム三部作の2作目に当たる作品。尚、1作目は長崎の原爆を題材にした
「TOMORROW 明日」(1988日)、3作目は広島の原爆を題材にした
「父と暮せば」(2004日)である。
実は、黒木監督自身、中学時代に勤労動員の経験があり、空爆で級友を亡くした過去を持っているそうである。それを知ると、その経験が今作の主人公・康雄に投影されているのだな‥ということがよく分かる。康雄も目の前で友人を亡くし心に深い傷を負っている。戦争という大きな波に巻き込まれながら自分自身を見失っていく姿は黒木監督自身の姿なのかもしれない。
実に不憫な康雄であるが、彼は奉公人のなつと交流することで次第に閉ざしていた心を開いていくようになる。そして、このなつという少女も複雑な問題を抱えている。それは康雄と同様、家庭環境の問題である。
この映画はそんな二人の繋がりを中心に、周囲の人間模様を交えながら一種群像劇のようなスタイルで進行していく。
厳格な元軍人で村の実力者、康雄の祖父・重徳のドラマ。なつと一緒に奉公する、はるの結婚生活を描くドラマ。死んだ夫を忘れようと彼の親友と度々関係を持つなつの母のドラマ。重徳の家の食料倉庫を荒らす不良兵士のドラマ。重徳の三女と特攻隊員のロマンス。実に多彩なドラマが登場してくる。どれも戦争に翻弄される人々の運命が克明に描かれており、そこから黒木監督が描きたかった反戦というメッセージが強く感じられた。
ただ、メッセージは十分こちら側に突き刺さってくるのだが、さすがにこれだけたくさんおエピソードが詰め込まれると映画全体は散漫な作りになってしまう。エピソードの取捨選択をもう少し整理して欲しかった。そうすれば作品自体のパワーはもっと増したろう。
ラストは色々と考えさせられた。康雄の慟哭の意味する所。そこを探ってみると面白い。
康雄は戦死した友人から借りたキリストの絵と聖書を大切に保管していた。それを見て彼は神について自問したに違いない。この場合の神とは、キリストであり天皇陛下である。この二つを対置させたところが本作の肝だろう。
キリストは磔にされた3日後に復活して神となった。一方の天皇陛下は、戦時下において日本国民から「神」のように言われていた。
ここで康雄は疑問に思った。神とは一体何なのか‥と。そして「天皇=神」という価値観を否定する。彼の思想は、当時の風潮からすれば極めて禁忌的なものだった。現に康雄は祖父から非国民と罵倒された。しかし、思想というのは、その人にそれぞれ固有の物である。西洋の宗教に神を求め、天皇を神として認めなかった彼の主張は誰からも否定されるべきものではないだろう。そして、康雄は最後まで戦争に疑問を呈し、この信念を貫き通した。その姿は社会に抗したアウトロー然としており実に天晴に思えた。
そして、この映画が実に冷静だと思うのは、彼のこの反戦思考を安易に肯定していない点である。彼がいくら反戦を訴えても戦争は止まらないし、キリストの絵と聖書を貸してくれた友人は生き帰ってこない。非情な現実を突きつけて終わるのだ。この虚無感、絶望感がラストの康雄の慟哭には込められているのだろう。見ていて実に切なくさせられた。
今作は映像美も見所である。蝶が度々康雄の周囲を飛び回る光景は、まるで楽園を思わせる美しさだった。花や緑色の平原、川のせせらぎといった自然風景も美しく撮られている。こうした美観は戦争の残酷さをかえって際立たせたりもしている。
特に、康雄が母の姿を幻視するシーンは白眉だった。幽玄的な雰囲気を漂わせた神秘的な光景に思わず引きこまれてしまった。
演者陣はベテラン陣の起用が奏功し、全体的に安定したアンサンブルを見せている。
ただ、康雄役の柄本佑は映画初出演・初主演である。そのプレッシャーが演技を固くしてしまっているように見えた。父・柄本明の息子ということで役者としての血筋は受け継いでいるのだろうが、さすがにいきなりの主役では荷が重すぎるという気がした。
戦争の悲惨さを独特のユーモアとペーソスで綴った快作。
「血と砂」(1965日)
ジャンル戦争・ジャンルアクション
(あらすじ) 中国の北支戦線に小杉曹長率いる少年軍楽隊が慰問でやってくる。小杉はそこで若い脱走兵の銃殺刑を見て怒りに震えた。彼は銃の引き金を引いた犬山一等兵と上官の佐久間大尉を殴って営倉に入れられる。その夜、軍楽隊は小杉の釈放を求めて一晩中、音楽を鳴り響かせた。しかし、あっけなく楽器を取り上げられてしまう。一方、小杉に想いを寄せる慰安婦・お春は佐久間に色仕掛けで釈放を懇願した。こうしてどうにか小杉は釈放される。しかし、その代わりに彼が率いる軍楽隊は最前線へ送り出されることになり‥。
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(レビュー) 実戦未経験の少年兵たちの戦いをエモーショナルに活写した戦争映画。
監督は「独立愚連隊」シリーズで戦争の虚しさを痛烈に炙り出した鬼才・岡本喜八。今回はその「独立愚連隊」シリーズと同じ北支戦線を舞台にしたドラマとなっている。銃など撃ったこともない素人の寄せ集めである少年兵たちが小杉曹長と戦場へと向かう様は実に悲惨であるが、そこには当時のリアルな戦争体験が反映されているのだろう。それは同監督作の
「肉弾」(1968日)にも言えることだ。これは本当に酷い話である。
しかし、過去の「独立愚連隊」シリーズを見ていれば分かるとおり、岡本喜八という監督は「戦争」=「悲惨」というロジックをゴリ押しする監督ではない。彼の映画作りのスタンスはあくまで観客を楽しませようとするエンタメ性にある。つまり“笑い”を決して忘れないのだ。今作も独特のユーモアを使って、戦争の無為、残酷さを皮肉的に見せている。このあたりの彼の創作姿勢は終始一貫している。
今回は「戦争」と「音楽」という、言わば「死」と「生」の象徴物を対位させた作劇となっている。そもそも「戦争」と「音楽」の組み合わせは、作品をドラマチックに見せる上では格好の素材であると言える。以前、紹介した
「戦場のアリア」(2005仏英独ベルギールーマニア)などはその一例である。更に、音楽に限らず「芸術」という括りでいけば、この組み合わせは枚挙にいとまがない。
どうしてこの組み合わせがしっくりくるかと言うと、「音楽」を含めた「芸術」全般は人に精神的な豊かさをもたらす物だからである。それは人の精神を殺してしまう「戦争」とは相反するものだ。だから、「戦争」と「芸術」の組み合わせはドラマチックな物となるのである。
現に、ハーモニーを求めて戦火の中を生き延びようとするラストには胸が熱くなってしまった。少年たちが本来持つべきは銃ではなく楽器だったのだ‥ということを思い知らされ涙がこぼれてしまった。ベタと言えばベタだが実に感動的である。
個性溢れる魅力的なキャラクターも楽しく見れた。小杉を演じる三船敏郎、佐久間を演じる仲代達也。この両雄は、言わずと知れた黒澤明の「用心棒」(1961日)、「椿三十郎」(1962日)では宿敵同士にあった仲である。ここでも同様の関係性が伺える。ただ、今回は完全に敵役同士というわけではなく、途中からその関係が奇妙な友情に発展していく。そこが面白い。
ただ、欲を言えば小杉のキャラクターにもう少し膨らみが欲しかったかもしれない。小杉はひたすらスーパーマン的な強さを誇示するのみで、リアリティという点でやや物足りない。
逆に、佐久間の方がキャラクターが深く掘り下げられており、自分はそちらの方に面白味を感じた。
実は、映画前半は彼の改心を描くドラマにもなっている。冷淡な職業軍人である佐久間が人情味に溢れた小杉と出会うことで少しずつ人としての情を芽生えさせていく‥というキャラクター・アークがしっかりと認められ、これが中々ドラマチックに見れる。中盤の煙草のシーンは彼の変化が最も端的に表れてるシーンである。自分の命令で銃殺刑にしてしまった脱走兵への悔恨と情がはっきりと見て取れる。
できれば、こうしたキャラクター・アークが小杉にも欲しかった。そうすれば、彼の人間的な魅力に更に磨きがかかったであろう。
他にも、個性的なサブキャラが多数登場してくる。伊藤雄之助演じるプロの葬儀屋はとぼけた味わいが楽しかった。佐藤允演じる元板前の熱血漢な炊事長もハマリ役である。非暴力主義を信条とする天本英世演じる一等兵は終盤に大きな見せ場が用意されている。同監督作の
「戦国野郎」(1963日)に通じる、ある種狂信的なカリスマ性はこれまた印象に残った。
ただ一方で、これだけ周囲に濃い面子が揃ってしまうと、肝心の楽隊の若者たちはどうしても影が薄くなってしまう。彼らは小杉に楽器名で呼ばれるのだが、個性と言えばそれくらで個々の内面ドラマは語られない。せめて中心となるようなリーダー格を立てることで、小杉との師弟ドラマを演出するなどの工夫は必要だったろう。これではどうにも味気ない。
岡本喜八の演出は相変わらず快活明朗に徹している。難しいことを一切考えずに楽しめた。チューバの音を屁と言ったり、敵の目の前でキャンプ・ファイヤーをしたり、戦場ということを忘れてしまうほどの脱力テイストが貫かれている。真の戦争を描いていないと言われれば確かにそうかもしれないが、これこそが岡本喜八にしか出せない彼なりの戦争に対する痛烈なカウンターである。笑いながらいつの間にか悲しくなってしまう‥。そんなアイロニーは氏独特の物がある。
だからと言って、単に戦争を娯楽として描いているわけではないことも付け加えておきたい。今作は終盤から徐々に悲劇色が強められていく。それまでの笑いは無くなり反戦メッセージが痛切に訴えかけられていて、最後は心にズシリと響いてきた。締める所は締める。こうした所のトーンの切り替えも本作は見事である。
劇画チックな痛快アクション時代劇!
「戦国野郎」(1963日)
ジャンルアクション
(あらすじ) 戦国時代、武田勢の冷酷無残な振る舞いに嫌気がさした吉は追っ手から逃れながら山奥を彷徨っていた。途中で播磨という男と猿のような顔をした田舎侍と出会う。3人は通りがかった馬借隊の群れに潜り込んだ。馬借隊は主に食料の運送などをしていたが、山賊などに襲われる危険があった。リーダーの宗介は、剣の腕の立ちそうな吉たちを雇うことにした。吉はそこで宗介の娘で女棟梁・さぎりと親しくなっていく。一方、吉と一緒に付いてきた田舎侍は、宗介に仕事の話を持ち掛けた。それは織田家に300丁の火縄銃を運んでほしいというものだった。実は彼は織田の家臣・木下藤吉郎だったのである。こうして馬借隊は危険な旅に出発するのだが‥。
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(レビュー) 火縄銃の運搬に命をかけた馬借隊の戦いを、血沸き肉踊るアクションシーンの連続で描いた痛快時代劇。
監督・脚本は岡本喜八。メインキャストは加山雄三、中谷一郎、佐藤允といった喜八作品の常連が揃っている。
全編にわたってキビキビとした演技、軽快でユーモラスな演出が続き、まさに痛快娯楽時代劇と呼ぶに相応しい作品になっている。ただし、リアリティに欠けるため本格的な歴史劇を期待してしまうと肩透かしを食らってしまうだろう。あくまで娯楽作として割り切った上で楽しんだ方が良い。
やはり一番面白かったのはクライマクスシーンだった。時代劇なのに余りにも荒唐無稽すぎてファンタジー映画を観ているような感覚にとらわれた。というのも、このシーン。まるっきり「ロード・オブ・ザ・リング」の戦のシーンである。弓矢の使い手・ぢごく丸はレゴラスだし、途中から加勢する播磨はまるでアラゴルンのようだ。
ちなみに、ぢごく丸を演じるのは、これまた喜八作品ではお馴染みの天本英世である。出番はそれほど多くないが、実に印象に残る役柄だった。寡黙なニヒリストでありながら、ここぞと言う時には馬借隊と親方を守るためにその身を呈する熱き魂を持った用心棒である。セリフは最後にたった一言だけ。これには切なくさせられた‥。
吉の宿敵・雀の三郎左を演じた中丸忠雄の造形も劇画チックで面白い。最期があっけなくて拍子抜けするが、吉をどこまでも追いかける執念の形相はこれまた印象に残った。
今作は戦いの一方でささやかなロマンスも用意されている。こちらは吉とさぎりの淡い関係を中心に、恋敵である馬借隊の若頭を絡めて盛り上げられている。男同士の友情やアクションシーンに比重を置いたため、幾分淡泊な作りになってしまったが、さぎりを挟んだ吉と若頭の因縁関係はまずまずの出来栄えと言っていいだろう。
そして、もう一つ。今作はサスペンス的な面白さも見所である。その肝要を担うのが曲者・藤吉郎だ。冒頭の紹介シーンからして、見るからに胡散臭いのだが、そのトリックスター振りはサスペンスを効果的に盛り上げている。
他にも、個性的なキャラクターが揃っていて、馬借隊のムードメーカー・松の存在も忘れがたい。舞台袖から映画を活き活きと盛り立てている。更に、播磨と吉の師弟関係、播磨と海賊の女棟梁・滝姫の関係等、まだまだ魅力的な人間ドラマが登場してくる。
これだけの短い時間にこれだけの内容を詰め込んだ岡本喜八の手腕には唸らされるばかりだ。元々、彼の作家性は短いカッティングを重ねるアクションシーンにその本領を見ることができるが、今作ではアクションシーンのみならず全編にわたってそれが徹底されている。作品自体がコンパクトにまとまった要因は、この演出力に拠るところが大きいように思う。ただし、催眠術にあんなに早くにかかるのはいくらなんでも強引な気がしたが‥(苦笑)。
ともかく、歴史的な考証を真面目に考えると突っ込みどころ満載な作品であるが、岡本喜八らしいサービス精神がたっぷり詰め込まれた痛快活劇となっている。ファンのみならず広く一般にも受け入れられそうな作品だと思う。
シュールでユーモアに満ちた反戦映画の傑作。
「肉弾」(1968日)
ジャンル戦争・ジャンルコメディ
(あらすじ) 昭和20年、陸軍の幹部候補生、桜井は空腹に耐えかねて食料倉庫に忍び込んだ。そこを上官に見つかり、罰として衣服の着用を赦されないまま訓練を受けさせられた。理不尽な仕打ちに憤りを覚える桜井。彼は徐々に軍隊生活に虚無感を覚えていく。やがて広島に原爆が落とされソ連が参戦し戦況がひっ迫してくると、桜井を含めた候補生たちは特攻隊へ編入される。出発の前日、一日だけの外出許可を貰った桜井は、女郎屋で初々しいおさげの少女に出会い一目惚れする。そして「彼女のためなら死ねる!」と思った。翌日、彼は対戦車地雷を抱えて特攻する"肉弾″となった。敵の侵攻に備えて配備された海岸沿いで彼は一人の少年と出会う。
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(レビュー) 戦時中、日本ではバンザイ突撃という言葉があった。特攻兵が玉砕覚悟で敵に向って突っ込むのである。ここに登場する桜井も自らの”肉体”を”弾”に替えて敵の懐に飛び込む特攻兵、つまり“肉弾”となっていく。
戦争末期の狂気を描いた反戦映画であるが、意外にも作りはユーモアに満ちていて楽しく見れる。これは監督・脚本の岡本喜八の作家性だろう。コミカルにあっけらかんと戦争の理不尽さ、無為を説いており、油断をしながら見ていると最後には強烈なメッセージに、のされてしまう。かなり大胆な作品である。
主人公・桜井は、厳しい訓練に耐えながら軍隊生活を送っている普通の青年である。彼はこの戦争をどこか達観した眼差しで捉えている。生きるも死ぬもすべて運次第、今更じたばたしたって何も始まらない、戦争なんてバカバカしい‥と冷ややかに眺めているのだ。彼の決まり文句は「大したことはない、大したことはない」である。どんなに過酷な状況に陥っても彼はこの言葉で凌いでいく。
しかし、後になって段々と分かって来るのだが、この「大したことはない、大したことはない」は彼の強がりの言葉だったのである。本当は厳しい訓練なんて逃げ出したい、戦場になんか行きたくない。そう思っていた。そして、自らの臆病さを隠そうとして、あるいは恐怖心を抑え込もうとして、無理してこの決まり文句で冷静さを装っていたのである。
現に、映画は中盤から後半にかけて、彼の死にたくない、生きたいという本音が露わになってくる。
まずは古本屋のシーン。桜井は、空襲で両腕を無くした店主から、小便をしたいので手伝ってくれと頼まれる。実に気持ち良さそうに小便をする店主を見て桜井は考える。小便するのってこんなに気持ちいものなのか?もし死んだらこんな風に気持ちいいことは二度とできなくなるよな‥と。ここは彼が初めて「死」を意識した瞬間のように思う。
次に、女郎屋で出会った少女との初恋のシークエンスが描かれる。彼女との交際の中で、彼は更に「死にたくない」という気持ちが強まっていく。二人が雷鳴の中でびしょ濡れになりながら特攻ごっこをするシーンがある。桜井の中で確実に戦争の現実味が増した瞬間であろう。
こうして徐々に桜井の中から「大したことはない、大したことはない」という言葉が消え、代わりに「怖い、死にたくない」という気持ちが強まっていくようになる。
この古本屋のシーンにしろ、女郎屋のシーンにしろ、岡本喜八は実にあっけらかんと描いている。ここが彼の才覚であり今作の肝だと思う。これから死ににゆく者とは思えぬほどに桜井の笑顔は輝きに満ちており、だからこそ戦争の悲惨さ、恐怖が逆説的に汲み取れるのだ。
尚、女郎屋の少女の正体には謎があって、この見顕しは人を食っていて面白かった。
後半は、ひたすら桜井の生への渇望、死に対する恐怖という葛藤を軸に展開されていく。反戦メッセージも非常にストレートに発せられている。
例えば、海辺で出会った少年と彼の兄とのエピソードには、桜井の戦争に対する怒りがストレートに出ていると思った。前半の彼ならおそらく少年たちを見て「大したことはない、大したことはない」と言って傍観していただろう。しかし、今や「怖い、死にたくない」と思う彼には放っておけなかった。
そして、クライマックス以降は、桜井の飽くなき生への執念がそれこそサバイバル・ドラマのような過酷な状況の中で綴られていく。ここでは死の意味にまで言及され、軍の命令で死ぬのか?愛する人のために死ぬのか?という死生観。言い換えれば、無為な死or意義のある死という究極の選択にまで櫻井は追い詰められていくようになる。ここまでくると、もはや冷めた態度を取っていた序盤の面影は微塵も感じられない。
本作は、1人の特攻兵が追い込まれていく中に、戦争の無為、怖さを説いた反戦映画である。ただし、作りは非常にユーモラスで、岡本喜八という作家性が前面に出た傑作だと思う。これまでに彼の作品を続けて取り上げてきたが、その中では最も印象深い作品となった。
但し、一つだけ気になった点がある。それは、後半に登場する赤十字の女性達のエピソードである。この映画は後半に行くにつれて徐々に寓話的なトーンが混入されていくのだが、彼女たちの存在もどこか非現実的である。確かに奇抜で面白いが、しかし物語上の存在意義は余り感じられない。また、その意味する所も今一つよく分からなかった。ここは不要だったのではないだろうか。
キャストでは主演の寺田農の演技。これに尽きると思う。減量した役作りは正に熱演と言っていいだろう。食糧難の状況にあった日本軍の実情をリアルに体現していると思った。
尚、彼は本作で自分のことを人、牛、豚、神、鼠、モグラと称している。この形容も戦争の狂気をユーモラスに例えた言葉だと思った。つまり、人にあって人に非ず。人からどんどん遠ざかっていく我が身を称しての人、牛、豚~なのだろう。この例えは最終的に映画のタイトルである「肉弾」に繋がっていくのだと思った。実に皮肉的な例えである。
平凡なサラリーマンのボヤキが面白く見れる。
「江分利万満氏の優雅な生活」(1963日)
ジャンルコメディ・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 飲料メーカーの宣伝部で働く江分利は、郊外の社宅に老いた父と気立ての良い妻、小学生の息子と平凡な暮らしを送っていた。ある夜、飲み屋街で婦人誌の編集者と知り合い、酒の勢いで意気投合。何と小説を書くことになってしまう。彼は一介のサラリーマンならではの眼差しで、自分の半生を振り返っていく。
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(レビュー) 平凡なサラリーマンが自伝小説を書いて直木賞まで受賞してしまうコメディ作品。同名の実録エッセイを岡本喜八監督、井出俊郎が脚本した何とも奇妙な可笑しみをもった作品である。
江分利満は「えぶりまん」と読む。英語にすると「Everyman」、つまり「普通の人」ということだ。その名の通り彼は見た目やライフスタイル、辿ってきた人生、全てにおいて平均的な男である。現在38歳で会社の社宅に父と妻、息子と住みながらローンの支払いに追われている。そんな彼は夜な夜な飲み屋街に繰り出してこう呟く。「つまらない人生だ‥」と。そして、なんという運命か、その呟きをたまたま聞いていた雑誌編集者から声を掛けられて、彼は小説家デビューすることになる。人生どこでどうなるか分からない。映画は彼の執筆に呼応する形でその半生が振り返られていく。
尚、製作された当時、日本は高度経済成長期真っ只中だった。劇中であくせく働くサラリーマンたちの姿は、かなりカリカチュアされているが鋭い社会性が感じられた。社内での立ち回り方や隣近所との付き合い方、はたまた一家の大黒柱としての心構えなどといったサラリーマンの悲哀が江分利の目線で綴られている。要するにオッサンのボヤキなのだが、不思議とそのボヤキが苦にならなかった。その口調がどこかユーモアめいてるからだろう。本作はある意味で、時代の写し鏡のような映画である。
岡本喜八の演出は軽妙にまとめられている。アニメーションや合成特撮、スローモーションなどを駆使しながら、日常風景をシュールに切り取り、エンタテインメント的な面白さが追求されている。
最も可笑しかったのは、江分利の出勤風景だった。給料の大半を家具の購入、妻や息子の習い事などに持って行かれて、彼は着る物もろくに新調できない。せめての身だしなみと、とりあえずスーツだけはそれ相当の物を着て出かけるが、下着や靴下、その他諸々の外目に出ない持ち物は安物、払下げ、お歳暮の残り物といったもので間に合わせている。それを紹介するクダリが笑える。何とパンツ一丁で出勤する江分利のナレーションで語られるのだ。これはむろん妄想である。現実にそんなことはしない。あくまでアイロニーなのである。また、戦争の演習シーン、オフィスでの一人芝居も非日常的な演出で面白かった。
一方、母の葬式のシーンには何とも言えぬペーソスが感じられた。江分利の父親は戦争特需で成り上がった事業家だったが、落ちぶれてからは酒とギャンブルに狂ってしまった。それを影から支えてきたのが母親である。その苦労を見てきた江分利は、全ての法事を終えて、一人遅い食事をとる時にふと涙を流す。江分利自身が語っているように、この涙は喪失感から出た涙ではない。母に苦労をかけた父に対する怒り、出来そこないの兄の能天気さに対する悔しさから出た涙なのである。実にしんみりとさせる良いシーンである。
そして、普通の映画粗ここで終わって次のシーンに切り替わるだろう。ところが、岡本喜八はそうはしない。彼は悲しい場面を悲しいまま締めくくるのではなく、最後の最後に喜劇的なタッチを入れて見る側の意表を突くのだ。最後の「おかわり」のセリフ。これが秀逸だった。この悲喜の落差にまんまとやられてしまった。人間は残酷で奇妙な生き物である‥。そのことを実感させる名演出と言っていいだろう。
残念なのは終盤だろうか。江分利のボヤキが余り面白くない。しかも延々と続くので少し退屈してしまった。江分利の戦中派としての憤りのアジテーションが強すぎるため押し付けがましく聞こえてしまった。彼の話にうんざりする社員達同様、自分も何だか酔っ払いの愚痴に付き合わされてるような感じがして白けてしまった。むろん、このシーンがあるから、一人たたずむ江分利のラスト・ショットが引き立つわけだが、余りにも間延びした演出は岡本喜八らしからぬ演出に思えた。
キャストでは江分利を飄々と演じた小林桂樹の上手さが印象に残った。また、妻・夏子を演じた新珠美千代の健気さと明朗さも魅力的だった。他にも様々な個性的な俳優が登場してくるが、皆コメディライクな演技で統一されていてよくまとまっている。
ラジカルな喜八演出に呆気にとられる!
「ああ爆弾」(1964日)
ジャンルコメディ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 大名組の組長・大作は3年の刑期を終えて、子分の太郎を引き連れて出所した。ところが、出迎えたのは息子の健作だけだった。聞けば、妻は宗教にのめり込み、組員たちは選挙活動で忙しいと言う。大作は早速その足で組を訪ねると、以前とはまったく様変わりしていて驚く。事務所には組の社長・矢東弥三郎の選挙ポスターが張られていたのだ。大作と太郎は、弥三郎から組を取り戻そうとするのだが‥。
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(レビュー) ヤクザが自分の組を乗っ取った男に復讐していくスラップスティック・コメディ。
監督・脚本を務めた岡本喜八のやや暴走気味な演出、それと大作を演じた伊藤雄之助の怪演。この2点が本作の見所である。
岡本喜八の演出は終始コミックタッチで、オープニングからして度肝を抜かされる。牢屋の中で大作と太郎が歌舞伎の浄瑠璃に合わせて延々と踊るのだ。見る者を否応なく引き込む奇怪な演出は、これから一体どんな映画が始まるのか‥と興味を持たせる。その後、出所した大作は太郎と協力して爆弾を作って弥三郎に復讐を果たそうとするのだが、なるほど‥。この展開からオープニングの意味はこれか‥と想起される。要するに、彼らは"傾き(かぶき)″者なのだ。
今回の喜八演出の大きな要素として「音」の使い方が挙げられる。様々な「音」を駆使しながらセリフのやり取りや場面転換をリズミカルに見せている。
例えば、大作の妻が唱える南無妙法蓮華経の太鼓の音、汽車の走る音。こうした音を映像に賑やかに被せる演出は、まるでミュージカル映画さながらの躍動感である。後半にはミュージカルその物とも呼べるような群舞まで登場してくる。何度も登場する浄瑠璃も然り。和製ミュージカルのようなものである。この映画では「音」や「音楽」は大変重要な役割を果たしている。
そしてもう一つ、今回の演出の大きな特徴に場面転換のスピーディーさがある。余韻や「間」といったものを尽く切り詰めながら、登場人物たちはまるで瞬間移動でもしたかのように、まったく離れた場所のまったく異なるシーンに突如として表れるのだ。その間の移動シーンもなければ説明セリフもない。
その最たるは大作が2号の家を訪ねるシーンだろう。大作が襖を開けるとそこは真っ暗な空間。長い廊下を渡っていくと目の前に突如として"過去の幻影″が現れる‥。この廊下は歌舞伎で言えば、さしずめ「花道」か‥。それを渡って何と大作は時空をトリップしてしまうのだ(多分‥)!
乱暴と言えば実に乱暴なシーン接合だが、この極端な省略演出は今作の大きな魅力の一つである。
このように今回はラジカルな演出が至る所に頻出する。一連の破天荒な岡本喜八作品を知る人でも、ここまで極められると少し困惑するかもしれない。逆を言えば、氏の意気込みと情熱には首を垂れるしかない。実に実験的で野心的な一品である。
一方、シナリオはかなり破綻しているという印象を持った。後半から大作がストーリーのメインから降り、代わりに子分の太郎が活躍していくようになる。主役が入れ替わる格好になってしまい感情移入が削がれてしまう。シナリオはかなりチグハグな印象を受けた。
ちなみに、ギャグとして最も笑えたのは、バキュームカーが散髪屋に乗り込んでいくシーン、爆弾ペンシルのシーンだった。特に、後者はいつそれが爆発するか‥というスリリングさで目が離せなかった。爆弾ペンシルは人から人へと渡り皮肉的な結末を迎える。この人を食った顛末は見ようによっては人間の愚かさを風刺しているとも言える。ピリッとした辛めなところも岡本喜八ならではのテイストだろう。
老人パワーが炸裂しまくったシニカル・コメディ。
「近頃なぜかチャールストン」(1981日)
ジャンルコメディ
(あらすじ) 大富豪・小此木家の次男、次郎は婦女暴行未遂の罪で留置所に入れられた。そこには国会議事堂で無銭飲食を働いた奇妙な老人集団がいた。彼らは夫々に自分たちのことを独立国家ヤマタイ国の大臣だと言った。翌日、彼らは釈放され、次郎もお手伝いタミ子の証言で解放された。ヤマタイ国に興味を持った次郎は彼らの後をつけるのだが‥。一方その頃、小此木家では父・宗親の失踪で騒然となっていた。妻は親交のある寺尾市会議員に相談し、宗親の捜索が始まる。その捜索を特別に任された大作刑事は、ヤマタイ国の存在を突き止め、彼らが住んでいる土地が小此木家の土地であることを知り、失踪事件に関与していると睨むのだが‥。
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(レビュー) 不良老人と不良少年が巻き起こすドタバタ騒動をシニカルなユーモアで綴ったコメディ作。
国家権力に反旗を翻す老人たちの抵抗がラジカルに描かれている。製作・監督・脚本を担当した岡本喜八の作家性がよく出た作品だと思った。タイトルが2回登場するという遊び心を含め、人を食った実験精神溢れる作りも意欲的である。
ちにみに、タイトルのチャールストンとは、戦後日本で流行したダンス・ミュージックということである(自分は知らなかった)。不良老人たちは、この陽気なリズムに耳を傾けながら日本の再興を眺めてきた人達である。つまり、この音楽は彼らにとっての思い出の曲なのである。
日本は高度経済成長を経て経済的に豊かな国になった。しかし、彼ら、ヤマタイ国の老人たちはこれに反意を唱える。政治は腐敗し、皆が日本人の魂を失ってしまった‥。果たしてこれが本当の意味での幸せと言えるのか‥と。こうして彼らは日本から独立してヤマタイ国、つまり民家に籠って自分たちの国家を名乗ったのである。
正直に言って、彼らのやっていることは反社会的な行為であり、とても正気の沙汰とは思えない。仕事を持たない彼らは収入が無いので、ギャンブルや盗みで食いつないでいる。映画後半では電気、ガス、水道を止められ、とうとう誘拐、恐喝、強盗、人殺しまでやってしまう。
彼らにシンパシーを覚えて行動を共にする不良少年・次郎もただのボンクラである。大富豪のボンボンなので罪を起こしても示談金は親が払ってくれるし、仕事もしなくてもいい。言うことだけは一人前だが、こう生きたいという信念を持たない甘えた若者である。
しかし、自分は彼らの反社会的な行為の数々に不思議と嫌悪感を抱かなかった。映画の作りがコメディ寄りになっているおかげもあるのだが、彼らの活き活きとした姿を見ていると何だか羨ましくなってしまった。生きる喜びとでも言おうか‥。老いて果てようとする老人たちがとても輝いて見えた。
それに、彼らの言っていることは決して間違ってはいないように思う。我々は日々の暮らしの中で、果たしてどれほど幸せの本質や、自分らしさというアイデンティティについて考えているだろうか‥?経済的な享受に騙されて心の豊かさを失っているのではないだろうか‥?死んだときに幸せな一生だったと思えるような人生を送っているだろうか‥?そういった疑問を、我が身を振り返って感じてしまう。
ヤマタイ国の老人たちは経済的には極貧である。しかし、仲間と賑やかに共同生活を送りながら、時に悪さをしながら活気のある暮らしを送っている。きっと死んだときには仲間に見守れながら幸せな顔であの世に行けるだろう。もしかしたら、人生にとって最上の幸せとはこういうことなのかもしれない‥。ふとそんなことを思った。
ただし、彼らの自国愛の精神を鑑みると、アメリカで発祥したチャールストンにノリノリになるのは、流石にどうだろう‥。そもそも、こんな日本にしたのは戦勝国アメリカなんだぜ‥という突っ込みは入れたくなってしまったが‥。
岡本喜八の演出・構成は実に軽快でテンポよくまとめられている。警察署内のスピーディーな会話、留置所での老人たちと次郎のやり取りなど、夫々のキャラの個性を引き出しながら上手く組み立てられていると思った。
また、もはや狂騒とも言うべきクライマックスにおける歯切れの良い演出もたまらない。活劇の写真屋・喜八の真骨頂であろう。
ただ、一方で大仰過ぎる場面もあり、一部のギャグに寒さを覚えたのは事実である。例えば、謎のスナイパーが次郎の命を狙って何度も登場してくるが、彼は毎回銃弾を外す。1,2度ならまだしも、こうも繰り返されると流石にあざとく見えてしまい白ける。若手刑事を演じた本田博太郎のオーバーアクトも確かにこの人らしいが、ここまでクドい演技が続くと鬱陶しいだけである。
尚、一番好きなシーンは、大蔵大臣とタミ子がお尻を触りながら台所の仕事をしている場面である。ちょっとしたエロとちょっとしたユーモア。この演出は今作随一であった。
更に内容てんこ盛りな第3弾。シリーズの中では一番面白かった。
「どぶ鼠作戦」(1962日)
ジャンル戦争・ジャンルアクション
(あらすじ) 終戦間近の北支戦線。林一等兵は命令で、ある小隊に合流しようとしていた。その道中、中国側の情報を日本軍に売る白虎という男と出会い意気投合する。二人は一緒に連れ立って小隊に到着した。ところが、来て早々林は上官を殴って営倉に入れられてしまう。そこにはすでに隊のお荷物である問題児が居座っていた。その後、小隊に新しい参謀・関が到着する。冷酷非情な彼は中国人捕虜を拷問した上に裁判もかけずに銃殺刑にした。その後、関は任務に出て中国軍に捕まってしまう。白虎、林、営倉に入っていた問題児たちは、関救出の特命を受けて出撃する。
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(レビュー) タイトルに「愚連隊」は無いが、今作は岡本喜八監督が撮り上げた「独立愚連隊」シリーズの第三弾である。スタッフやキャスト、ロケ地が前2作とほとんど一緒で、同じ路線で作られた作品であることが分かる。尚、3本ともストーリー的な繋がりは一切ないので単品でも楽しめるようになっている。
岡本監督らしい快活な語り口は今回も健在である。自身が手掛けた脚本は一部で乱暴な個所もあったが、それを凌駕してしまうほどのパワフルな演出は流石である。それによって見る者をグイグイと引きつけていく。
出てくるのは5人の個性的なアウトローたちである。佐藤允演じる中国人スパイ・白虎を中心に、脱走常習犯の林一等兵(加山雄三)、殺人罪で投獄された空手の使い手・三好軍曹(中谷一郎)、三好を敵視する穴山上等兵(田中邦衛)、忍術研究家の佐々木二等兵(砂塚秀夫)。彼らは愚連隊を組織して中国軍に捕われた関参謀救出に向かう。個々のやり取り、敵との交戦などが実に濃密に、そして軽快に綴られていて楽しめる。
例えば、看板を使った賭け、野グソのシーンには笑わされた。また、白虎の宿敵である中国人ゲリラのリーダー・無双との追跡劇、終盤の関参謀と白虎のやり取りも面白く見れた。前者にはサスペンスの醍醐味が、後者にはペーソスが感じられた。クライマックスで明かされる意外な見顕しも意表を突いた演出で面白い。ユーモア、サスペンス、ミステリをごった煮にした満漢全席な内容は、これまで以上のサービスぶりで、これぞ正に岡本喜八の真骨頂といった感じである。
お馴染みとなったキャスト陣のきびきびとした芝居も相変わらず良い。
常連・佐藤允の明るい表情は、悲惨な戦争をまるで宝探しをする冒険ドラマのように見せている。彼のリーダーシップが全キャストを引っ張って行っていると言っても過言ではない。
中谷一郎は前作、前々作の主役から、今回は佐藤率いる白虎隊の一員に収まっている。しかし、最後の最後にきちんと見せ場が用意されており、中々美味しい役所だと思った。また、彼と田中邦衛の確執→友情のドラマにはしみじみとさせられた。
他に、無双演じる中丸忠雄は、怪しげな中国語を話しながら第1作
「独立愚連隊」(1959日)の鶴田浩二並みの“いかがわしさ”で登場してくる。最後に見事なケジメを見せた所は立派だった。
藤田進演じる正宗中尉のどこか頼りなさげな軍人も人間臭くて良かった。
難は、先述の通りストーリー上、かなり乱暴な展開が目につく事である。白虎隊は度々、敵に囲まれて絶体絶命のピンチに陥るのだが、その脱出方法が余りにも適当過ぎて萎えてしまう。例えば、ある場面で”体操”というアイディアで窮地を脱する。コミカルさを狙っているのは分かるが、撮り方、演出が悪いせいで余り笑えなかった。こうした所の詰めの甘さは勿体なく感じた。
ただ、翻って見ればこの能天気さこそ、今シリーズに通底した岡本喜八のこだわりであったように思う。要するに、悲惨な戦争を悲惨一辺倒に見せるのではなく、要所にコミカルな場面を入れながら娯楽作品として戦争批判を行おうという姿勢。それがシリーズの狙いだったのだと思う。そういう意味では、こうした作りの粗を一方的に批判することも出来ない。全てはエンタメに昇華するための強引な駆け引き‥そんな風にも捉えられる。
いずれにせよ、このシリーズは彼の代表作なので、ファンなら一度は見ておきたいところである。
更に活劇度が増した第2作。
「独立愚連隊西へ」(1960日)
ジャンル戦争・ジャンルアクション
(あらすじ) 太平洋戦争末期、北支戦線。独立左文字隊は最前線で敵と遭遇する。しかし、両軍とも撃ち合うことなく、左文字隊長は敵の隊長と、再び戦場で会った時には正々堂々と戦おう‥と約束して別れた。その後、左文字隊は戦場に残された日本軍旗を捜索する命令を受ける。彼らは再び最前線へと向かうのだが‥。
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(レビュー) 岡本喜八が監督・脚本を務めた戦争映画「
独立愚連隊」(1959日)シリーズの第2作。
第2作とはいっても続編というわけではない。キャストが被っているが夫々に新しいキャラクターを演じているし、ストーリーも全く繋がっていない。なので、前作を見ていなくても十分楽しめる内容になっている。ただ、前作の敵役・中丸忠雄が今回は前回と打って変わって意外な役回りで登場してくるなど、連作ならではの楽しみ方が出来る。なるべくなら前作を見てから鑑賞した方がベターだろう。
さて、第2作となる本作は、前作以上に活劇度を増した作りになっている。ただ、序盤は少々野暮ったい演出が続くため余り乗れなかった。例えば、冒頭の追いかけっこは少し悪ふざけが過ぎると感じた。また、前作で石井隊長を演じた中谷一郎がここでは中国人のスパイとして登場してくるのだが、これがストーリー上、余り上手く機能しているように見えなかった。中丸忠雄同様、意表を突いた役回りは良いとして、彼の行動が日和見で、本筋の左文字隊のストーリーの邪魔になってしまっている。
正直な所、面白く見れるようになってくるのは中盤、左文字隊が敵に取り囲まれて以降である。ここから岡本喜八らしい活劇がグンと増し、中だるみすることなく一気に最後まで乗って行ける。
加えて、中盤からドラマのキーパーソンが二人登場し、ドラマ的な魅力を上手く引き立てている。一人目は先述した中丸忠雄演じる金山中尉、もう一人は左文字隊の小峯衛生兵の元恋人・羽島である。前者はサスペンス的な面白さ、後者は恋愛ドラマ的な面白さを演出している。
クライマックスの人を食った展開には、根っからの娯楽職人・喜八監督の洒落が感じられた。前作にも言えることだがこのシリーズは反戦がテーマになっている。それがこのクライマックスには強烈に掲示されている。しかも、決して鬱なテイストにならないところが岡本喜八らしく、戦争をコケ下ろしながら痛快に笑い飛ばしてしまうあたり、実に爽快であった。数多ある反戦映画の中でも珍しい結末と言えるだろう。
他にも、軍服を無くした兵士たちがふんどし一丁姿で味方を急襲するとか、日本軍同士の醜い争いとか、前作以上に戦争の皮肉がタップリと込められている。早川の「勲章を欲しがるのは職業軍人か子供だけだ」というセリフも実に皮肉的に聞こえた。
岡本喜八の演出はミステリー主体だった前作以上に歯切れが良くなっている。全体的にセリフ回しが軽快で心地よい。ユーモアを効かせた演出も健在で、銃撃戦の中を悠然と煙草をくゆらす‥なんて静と動のコントラストを効かせたアイディアは実に味があった。後半の出来だけを見れば正に快作と言えよう。