イラク戦争にまつわる恐るべき実態を描いた社会派サスペンス劇。
「フェア・ゲーム」(2010米)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) 9.11同時多発テロ後のアメリカ。ブッシュ政権は、イラクが核兵器を開発しているのではないかという疑惑を元に調査に乗り出した。早速、CIAの女性諜報員ヴァレリーは、イラクの元原子力研究者に接触する。彼からかつての仲間の名前を聞きだしたヴァレリーは、その情報を元に縁故者を訪ねて潜入作戦を計画した。一方、ヴァレリーの夫で元ニジェール大使ジョーも、ウラン買い付けの真偽を確かめるべく現地へ飛んだ。しかし、調査の結果は白だった。CIAは調査結果をホワイトハウスに上申する。ところが、その報告は鵜呑みにされ、ブッシュ政権はイラクへの攻撃を開始してしまう。
楽天レンタルで「【Blu-ray(ブルーレイ)】 フェア・ゲーム」を借りよう映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) イラク戦争の開戦を頑なに批判した元CIA諜報員の夫婦の物語。実話の映画化である。
大量破壊兵器を理由にイラクに攻撃しようとするブッシュ側と、それを阻止しようというヴァレリー、ジョー夫婦の対立は、実話という前振りもあり、かなり興味深く見ることが出来た。実際にこうした政府の陰謀と強圧があったかと思うと空恐ろしくなる。作り物ではない。本当のストーリーだからこそ感じられる怖さだろう。
ただ、開戦を巡るスリリングな夫婦の捜査は前半で大体片づけられてしまう。後半からは、どちらかと言うと夫婦愛に焦点を絞った作りになり人間ドラマ的な趣になっていく。個人的には前半のテイストで最後まで貫いて欲しかったが、おそらく作り手側はこの事件によって崩壊してしてしまう夫婦ドラマの方を描きたかったのだろう。社会派で押すのか?人間ドラマで押すのか?どっちつかずな印象になってしまったのが惜しまれた。
とはいえ、ヴァレリーたちが権力に押しつぶされていく様は中々重厚にできていて、決して退屈するようなことはなかった。そこに懸けた作り手側の姿勢も真摯に受け止めることが出来た。
今となってはアメリカの開戦理由に大義がなかったことは明らかだが、それよりも本作を見て恐ろしく感じたのは当時の人々の風潮である。捜査の結果を握りつぶされたジョーは新聞でブッシュ政権を批判する記事を載せる。それが元で彼とヴァレリーは、左翼だの、非国民だのとマスコミや周囲から攻撃されていくようになるのだ。二人は仕事を奪われ徐々に精神的に追い詰められていくようになる。更には、二人の幼い子供たちにまでも危険が迫るようになる。元々この夫婦は、ヴァレリーがCIAという特殊な仕事をしていることもあり、決して円満に行っていたわけではなかった。しかし、この件がきっかけに夫婦の関係は更に悪化していくようになる。
9.11のこともあり、当時のアメリカ国民の多くはこの戦争を正義の断罪と信じ込んでいたのであろう。しかし、今にして思えば、これはある種ヒステリックな状態にあったのだと思う。何の疑念も抱かずに一つの方向に流されてしまう民衆の愚かさ、それによってヴァレリーたちの家庭が破壊されていく恐ろしさを、今改めて見て自省する必要があるように思う。
監督は
「ボーン・アイデンティティ」(2002米)、
「Mr.&Mrs.スミス」(2005米)のダグ・リーマン。ライトなアクション・コメディから硬派な作品まで手際よく料理する職人監督といった印象が強い彼が、こうした重厚な社会派作品を撮ったことは意外だった。演出はこれまで通り堅実な物を見せてくれている。特に、序盤はロケ地を転々と換えながら、軽快にストーリーが進行されている。CIAや政府の要人、捜査情報なども手際よく整理されていて感心させられた。
ただ、この監督はカットバックを多用するクセがあり、一部で少し時制を混乱させるような箇所があったのは惜しまれる。決して時系列に沿った場面交錯をしているわけではなく、そこは見ていて若干、不自然に感じられた。
キャストはヴァレリーを演じたナオミ・ワッツ、ジョーを演じたショーン・ペン、夫々に好演していると思った。特に、ナオミ・ワッツは、妻としての顔とCIA諜報員としての顔、二つの顔を堂々と演じ分け見事な好演を見せいている。また、彼女の父親役としてS・シェパードが少しだけ登場してくる。こちらは出番こそ少ないが、終盤のナオミ・ワッツとの語らいで中々印象深い演技を見せている。年を重ねることで演技の方にも円熟味が増してきた感がある。娘を思う父の愛が味わい深かった。
チャールズ・マンソン事件をドキュメンタルに描いたサスペンス作品。
「ヘルター・スケルター」(1976米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 1969年8月、ある屋敷で5名の惨殺体が発見される。その二日後、別の場所で殺人事件が起こった。警察はチャールズ・マンソンを中心とした近隣に住むヒッピー集団を別件で逮捕し事件を追及する。しかし、証拠不十分で釈放されてしまった。その2か月後、再び彼らは逮捕される。担当弁護士プリシオは法廷でマンソン・ファミリーの恐るべき本性を暴いていく。
映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) チャールズ・マンソン事件をドキュメンタリータッチで描いた法廷ドラマ。同名ルポルタージュを元にしたTV用映画で、日本では再編集されたものが劇場用作品として公開された。
この事件は、被害者の中に
「ゴーストライター」(2010仏独英)や
「袋小路」(1965英)で知られる映画監督R・ポランスキーの妻シャロン・テートが含まれていたことで有名である。その後のポランスキーの数奇な人生を考えると、この事件が大きなトラウマとして彼にのしかかっていたことは間違いない。事件後、彼は私生活を荒れさせ、1977年に少女淫行の罪で逮捕された。これが直接の原因で、ポランスキーはアメリカを出ることになってしまった。以後、彼は逮捕・収監される可能性があるアメリカに二度と戻れないでいる。
シャロンの死がポランスキーの人生を変えてしまったかもしれないということ考えると、この連続殺人事件にはゴシップ的な好奇心が掻き立てられる。
しかし、この事件が世間に衝撃を与えた理由はもう一つあって、それは犯人がカルト教団だったということである。どちらかと言うと、当時の人々はむしろそちらの方に強い関心を寄せたのではないだろうか。
本編でも語られているが、主犯であるチャールズ・マンソンの経歴が実に荒んでいる。孤児だった彼はスラム街で育ち、幼少の頃から犯罪に手を染め人生の半分を刑務所の中で過ごした。そんな彼がカルトに目覚めたのは、ビートルズの曲に出会ってからである。突然、彼らの歌詞を誤った形で解釈・信奉しカルト教団を形成していったのだ。実は、後で調べて分かったのだが、マンソン自身が一時期、音楽業界に身を置いていたことがあり、その時にはまったく目が出なかったそうである。もしかしたら、その反動があったのかもしれない。
ちなみに、彼がビートルズのどこに啓示を受けたのかは、映画の中では少ししか触れられていない。なので、後で個人的に調べてみた。ビートルズの曲に「レボリューション9」という曲がある。どうやら、マンソンはこれをヨハネの黙示録第9章と関連付けて、ビートルズのメンバーを使徒と捉えたらしい。そして、同じくビートルズの「ホワイト・アルバム」に収録されている「ヘルター・スケルター」という曲を、白人対黒人の終末戦争と解釈し、世界の破滅を予言したのだ。今風に言えばさしずめ中二病という事になろうが、マンソンはこの啓示を掲げてヒッピーたちをまとめ上げていったのである。
普通に考えたらありえないような話だが、オウム真理教だって似たような洗脳で信者たちの心を掌握していった。まったく現実味がないわけではなく、おそらく本当にマンソンはそうやって教団を指揮していたのであろう。
物語は、プリシオ弁護士(今作の原作者でもある)の視点で、法廷闘争がドキュメンタルに綴られている。無駄のない簡潔な作りで中々良く出来ていると思った。欲を言えば、マンソンの生い立ちやファミリーの成り立ちについてもっと詳しく知りたかったが、さすがに時間的に余裕が無かったのか、そのあたりはサラリとしか描かれていない。それでも事件背景は一通り分かるようには作られているので、サスペンスとして十分面白く見ることが出来た。
また、演者の好演が本作のクオリティの大きな要となっている。マンソン役の狂った演技、実行犯の一人スーザンのラリッたような演技には見応えが感じられた。TV映画ということで、どちらも有名な俳優が演じているわけではないのだが、その迫力に圧倒された。チープなTV映画と侮るなかれ。中々の歯ごたえを持った作品となっている。
負け犬たちの音楽賛歌映画。
「オーケストラ!」(2009仏)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル音楽
(あらすじ) ロシアのボリショイ交響楽団で劇場の清掃員をしているアンドレイは、実は世界的に有名な指揮者だった。過去のユダヤ人弾圧によって彼の楽団は散り散りになってしまったのである。そんな彼にパリの劇場から公演の依頼がくる。アンドレイはかつての団員たちを訪ね歩き、約30年ぶりに演奏しようとするのだが‥。
楽天レンタルで「オーケストラ!」を借りよう映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 物語自体はよくある"過去の栄光をもう一度"的な奮闘ドラマで、特に新味はない。ただ、ユダヤ人弾圧という歴史の一幕をミステリー仕立てにして織り込んだところは中々面白いと思った。
そのキーマンとなるのが、今回の公演でアンドレイが声をかけた天才的ソリスト、アンヌ=マリーである。彼女は自らの生い立ちをまったく知らない孤児で、それをこの事件との関わりの中で知っていく。全てが明かされるクライマックスは実に感動的であった。
また、アンドレイが何故楽団を率いてわざわざ危険を犯してまでパリにやって来たのか?その理由もここから分かってきて、見終わった後にはしみじみとさせられた。
そして、この感動の味わいは、劇中で奏でられる音楽による所も相当大きいと思う。楽団員たちは言葉を交わさなくてもアイコンタクトだけで意思疎通をしているかのようである。栄光を取り戻そう!過去の悲劇に苦しんでいる人々のために演奏しよう!という思いが音楽によって奏でられていくのだ。音楽もスポーツに似たような所があって、皆が一つのことに力を合わせて頑張る所に感動が湧きおこる。
また、個性的な団員たちのキャラクターもそれぞれに面白く描けていると思った。
アンドレイの相棒サーシャは救急車のドライバーで、彼らはこれに乗って散り散りになった仲間を集めていく。まるで昔に戻ったような愉快な旅は面白く見れた。
かつてのマネージャー、ガヴリーロフはKGBの職員である。アンドレイたちは過去に彼の裏切りによって楽団を失ったのだが、今回再び彼がマネージャーに就くことになる。何とも因縁めいた関係で、この対立関係も面白かった。
他に、楽団のスポンサー役に強引にさせられてしまうガス王や、喘息持ちの老人、ジプシー等、一癖も二癖もある連中が周囲に揃っていてドラマを賑々しく盛り立てている。
ただ、こうした感動とは別に、純粋に映画の作りとして見た場合、幾つか強引な箇所も見受けられた。本作は基本的にはシリアスなドラマであるが、所々にコメディ色が入ってくる。特に、前半はコメディ要素が強く、かなり作りが緩い。
たとえば、遠征費用の調達や偽造ビザ作成などはリアリティに欠けるという気がした。また、クライマックスの逆転劇もご都合主義と言えばご都合主義である。もう少し説得力のある展開を望みたかった。
キャストではアンヌ=マリーを演じたメラニー・ロランの美しさが印象に残った。初見は
「イングロリアス・バスターズ」(2009米)だったが、今回はそれよりも美しく感じられた。特に、レストランでのアンドレイとの対話は大きなの見所である。本作で最もヘビーなシーンであり、彼女のシリアスな演技が存分に堪能できる。彼女の今後の活躍に注目したい。
心の琴線に触れる音楽人情ドラマ。
「ここに泉あり」(1955日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル音楽
(あらすじ) 終戦直後の群馬県高崎市。ここに細々と活動する市民フィルハーモニー管弦楽団があった。しかし、楽団員たちは皆、困窮し練習どころではなかった。そこに一人の才能あふれるヴァイオリニスト・速水がやって来る。彼の音楽に対するストイックな姿勢は周囲との間に深い溝を作るが、マネージャー井田の尽力もありどうにか一つにまとまっていく。そして地元の小学校で初めての演奏会が開かれる。結果は散々だったが、彼らは一つのスタートを切ったという思いを強くした。そんなある日、速水の元に東京の有名楽団から引き抜きの話が持ちかけられる。しかし、彼は楽団のピアニスト・かの子と相思相愛の仲にあり、その話を蹴って楽団に留まる事を決意した。1年後、二人は晴れて結婚する。しかし、相変わらず食うや食わずの生活が続き、ついに楽団解散の話が持ち上がる。
映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 田舎町の小さな楽団に起こる悲喜こもごもを感動的に綴った音楽映画。
貧しくとも希望を絶やさぬ楽団員達の苦労は、見ていて可哀そうになるくらいだったが、周囲の人々や巡業に出向く山村の子供たちとの朴訥とした交流に救われる。これがあることで、この映画は最終的には清らかな鑑賞感を残す。
特に、前半の小学校での演奏会に始まるシークエンスには、何とも言えぬペーソスが感じられた。この時の聴衆は皆、地元の人間ばかりである。戦後間もない頃の地方農村の人々にとって、西洋のクラシック音楽など全く関心がない。彼らは楽団の演奏に退屈し途中で帰ってしまったり、おしゃべりをしたり、あまつさえ子供たちは目の前でカルタまで始める始末‥。楽団仲間は全員、肩を落として帰る。そこに一人の名もなき少女が駆け寄ってきて花束を渡す。たった一人かもしれない。しかし、確実に自分たちの演奏は彼女に届いたのだ‥というささやかな満足感から、楽団員たちの顔が自然とほころぶのだ。それを見て何とも心温まった。その後に披露されるアカペラはちょっと臭い気もしたが、しみじみとさせる良いシークエンスだった。
監督は今井正。所々に大仰な演出が目に付くが、大衆娯楽作品として割り切った上で見れば実に堅実にまとめられていると思った。また、この監督は何も感傷的なドラマばかりを撮っているわけではなく、時に重厚な社会派作品を撮ることもある。物事を厳しく見つめる確かな目も持っていて、そのリアリズムが今作では良い方向に働いていると思った。
例えば、最後の演奏会などはいかにも"泣いてくれ″と言わんばかりの演出になっている。しかし、それすらも朴訥とした子供たちの素の表情の前では、相対的に抑制され感動的に受け止められる。見た所、この子供たちはほとんどがエキストラだと思う。彼らのリアルな佇まいが演出の臭みを相殺している。この絶妙なバランスは見事と言うほかない。
また、ハンセン病療養施設での演奏場面も然り。患者達は疾患のせいで皆、手に包帯をしているので、拍手をしてもパタパタという音しか出ない。演奏している速水達、楽団の身になって考えてみると、何とも居たたまれない風景だが、この場面はかの子の出産シーンとのカットバックで構成されている。慰問の演奏とかの子の出産のボルテージが相乗効果的に盛り上げられており、これも患者達のリアルな描景が、ある種出産というベタな感動を見事に中和している。
シナリオも起伏に富んでいて中々良かったと思う。約2時間半の大作だが、展開が軽快なため中弛み感はなかった。若干、中盤の合同演奏会が長く感じたが、それ以外はテンポよく進むので最後まで飽きなく見れた。尚、劇場公開時は約3時間だったそうである。どこがカットされているのか分からないが、現在ソフト化されているのは2時間半バージョンである。
一方、楽団のサブメンバーのエピソードは、雑に処理されてしまった感がする。個性的な人間が揃っているのだが、いかんせん人の出入りが激しく、中には途中からエピソードが放ったらかしにされてしまっている者もいる。速水の葛藤に焦点を当てたメインのドラマは丁寧に描かれているが、それ以外のサブエピソードはもう少し整理してくれた方が映画としてはまとまったと思う。
キャストは夫々に好演していると思った。おそらく演奏シーンは吹き替えだろうが、皆上手く演じている。特に、速水役・岡田英次のヴァイオリン、かの子役・岸恵子のピアノの演奏は、いかにもそれっぽく演じていてて感心させられた。
尚、故・大滝秀治が本作で映画デビューを果たしている。楽団員の中の一人を演じているのだが、見ている最中は気付ず、あとで検索して分かった次第である。
堕ちていく若者たちの姿を鮮烈に綴った青春ロマンス。
「青春の蹉跌」(1974日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 大学の法学部に通う賢一郎は、アメフト部に所属しながら法律の勉強に勤しんでいる学生。彼は女子高生・登美子の家庭教師をしていた。晴れて彼女が大学に合格し一緒にスキー旅行に出かけることになった。そこで二人は情熱的に愛し合い登美子が妊娠する。しかし、その一方で賢一郎は学費を援助してもらっている伯父の娘・康子にも惹かれていた。賢一郎は登美子に子供をおろせと言うが‥。
映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 夢に挫折する若者たちの姿を鮮烈に活写した青春映画。
いかにも当時のシラけ世代を風刺したような映画で興味深く観れる。70年代前半には閉塞感を抱えた若者を描いた青春映画が数多く作られ、一定の評価を受けていた。怠惰で刹那的な空気が若者たちの間で蔓延していた証がこの中に確認できる。今作は同時代的な匂いが存分に嗅ぎ取れる作品となっている。
何と言っても、クライマックスの雪山のシーン以降の展開が強烈だった。賢一郎が身重の登美子を連れて、かつて愛し合った思い出の場所へと向かうのだが、ここでのスリリングな愛憎劇には目が逸らせなかった。山の斜面を滑り落ちていく二人の眼下には滝が‥。夢や希望に打ち破れていく彼らの人生を暗喩するかのようなシチュエーションに息をのんでしまった。
監督はロマンポルノ出身の神代辰巳、脚本は伝説の映画監督・長谷川和彦。各所に登場してくる濡れ場には、いかにも神代らしいエロティズムが感じられた。かなり赤裸々に描写されている。
一方で、堕ちていく若者の姿には、やはり長谷川らしさも伺える。自身が監督を務めた
「青春の殺人者」(1976日)を想起させるような、稚拙で愚かな若者の姿が冷酷に筆致され、見ていて何とも歯がゆくなった。
例えば、このあっけない結末は、二人に因果応報が下ったと考えても今一つ釈然としないオチである。あるいは事故ではなく自殺だったのかもしれない‥という想像もでき、見終わった後には奇妙な虚無感に襲われた。これは当時のシラケ世代の虚無感とイコールで結びつけて考えることも可能である。余りにも突き放して描いているものだから、余計に色々と想像させられてしまう。
また、見た人の中には、登美子を思慮の浅いバカな少女と言う人もいるかもしれない。しかし、自分はどうしても彼女に一定の憐憫の情を禁じ得なかった。確かに彼女の行動は短絡的だったかもしれない。しかし、彼女のバックスボーンを考えた場合、その人生は実に忍びない。例えば、継母は情夫を連れ込んで昼間から目の前で堂々と肉体関係に及んでいる。これ一つとっても、家庭の中に登美子の居場所はどこにもなかったことがよく分かる。したがって、孤独な彼女が、唯一信頼できる賢一郎に心の拠り所を求めたのも無理もない話である。彼女は一途に賢一郎を思い続けた悲劇のヒロインなのである。
神代監督の演出は実に軽快で、映画は全般的にミニマムに構成されている。コンパクトにまとめられている分、ストレスなく見ることが出来た。ただ、件のクライマックスを除けば余りにも展開が流麗に流れていくので、もう少しメリハリがあっても良かったかもしれない。途中にインパクトのあるシーンが散りばめられていれば、更に映画に深みが生まれただろう。
それと、所々に入る意味不明なカットは個人的には余り感心しなかった。つり橋で転ぶ登美子のカット、新宿歌舞伎町の噴水に入るカット、自転車のペダルを漕ぐカットなどは、イメージカットとしては面白いが、少し奇をてらいすぎな感じを受けた。出来ればこのあたりは、ストーリーと相関させて欲しかった。
キャストはそれぞれに好演している。煮え切らない賢一郎を演じた萩原健一は正に敵役であるし、登美子を演じた桃井かおり、康子を演じた檀ふみもコントラスを効かせたヒロイン像を見事に造形している。この頃の桃井かおりは何かというとすぐに脱いでいたが、今作も例に漏れず。大胆なセックスシーンを身体を張って演じている。メンヘラ的な気だるさは、彼女にしか出せない味だろう。ドラマの支柱的存在感を見せつけている。尚、檀ふみの方は本作が映画デビューとなる。
若枝を演じた和泉雅子の熱演が見物。
「非行少女」(1963日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 仕事に失敗して故郷に戻ってきた青年・三郎は、昔なじみの少女・若枝と再会する。若枝は学校にも行かずみすぼらしい格好で町を彷徨っていた。不憫に思った三郎は彼女にスカートと靴を買ってやった。若枝の家には、一日中飲んだくれている父親と意地悪な継母がいた。家に彼女の居場所はどこにもなかった。一方の三郎も実家にはいずらい身だった。兄が町会議員に立候補し家族総出てその応援に忙しく、彼は肩身の狭い思いをしていたのである。二人は孤独な者同士、固い絆で結ばれていくようになる。そんなある日、若枝が盗難罪で捕まってしまう。この事件をきっかけに二人は離れ離れになってしまう。
映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 荒んだ青春を送る若い男女の悲恋をしみじみと綴った青春ロマンス作品。
「非行少女」というタイトルから何となく陰鬱とした青春物をイメージしていたのだが、そんなことはなく実に清々しく、切なく見れるメロドラマだった。
劣悪な家庭環境に育った若枝は、親から虐待を受け、学校にも行かせてもらえない可愛そうな少女である。見ていて実に不憫極まりないが、だからこそ、そんな彼女が三郎にだけ心を開いていく過程にはしみじみとさせられた。若枝に幸せになってもらいたい‥という感情が自然と沸き起こり、この初々しい恋愛にはついつい見入ってしまった。
特に後半からの展開が良い。若枝は児童相談所に送られ徐々に更生の道を歩んでいく。やや見慣れたエピソードと言う気もするが、隣人との衝突、融和というドラマが丁寧に紡がれ、尚且つ彼女の成長もしっかりと描かれている。安定感のある語り口で安心して見ることが出来た。
また、その中で彼女は孤独から解き放たれ、自分の進むべき道をしっかりと見据えていくようになる。そのきっかけが愛する三郎との別れだったのは実に皮肉的なことだが、成長とはそういうものである。何らかの苦難を経て初めて人間は成長できるのである。彼女のこの成長には、ドラマとしてのカタルシスが十分に感じられた。
監督・共同脚本は浦山桐郎。監督デビュー作「キューポラのある街」(1962日)で、まだ若かりし吉永小百合から瑞々しい演技を上手く引き出した氏が、今回も同じような年頃の少女を主人公にしている。ただし、今回の若枝は、親思いでしっかり者だった吉永とは正反対に、親から見捨てられた不良少女である。凛とした佇まいで優等生的な魅力を放っていた吉永に比べると、どこにでもいそうな平均的な少女で、よりリアルに造形されている。浦山監督はそんな若枝を突き放して描きながらも、幾ばくかの愛情を示しながら彼女の成長を丁寧に筆致している。
若枝を演じるのは和泉雅子。前半の荒んだ表情、三郎との交流における純な表情、そして更生するに連れて引き締まっていく後半の表情。実に幅広い演技を見せ好演している。
特に、印象に残ったのは、若枝が児童相談所に連れて行かれるシーンである。雨が降る中、窓越しに見送る父親との対面は、彼女の絶望感をひたすら悲しげに見せている。この時に父を睨みつける眼差しが絶品だった。
また、雪の中のラブシーンも印象に残った。ここは音楽も泣かせるのだが、久しぶりに再会した若枝と三郎が窓越しにキスをする今作一番の名シーンとなっている。切ない恋心をロマンチックに体現している。
全体的に浦山監督の演出は明快でエモーショナルである。火事のシーンなどの大掛かりな撮影もそつなくこなしていて実に堅実だと思った。
ただ、若干過剰に写る場面もあって、例えばクライマックス・シーンなどは少々演出が気負いすぎて入り込みづらい。三郎の主観で捉えた周囲の喧噪が、突然シュールで眩惑的な映像に切り替わるのには違和感を持った。その後の彼のセリフも、別れたいのか、別れたくないのか今一つはっきりとしないし、最後にタバコを燻らせるのもいかがなものか‥。ここはもっとストレートに悲しみの表情で締めくくっても良かったのではないだろうか。その方がしっくりとくる。
尚、全然関係ない話になるが、劇中には若枝と三郎だけの隠れ家が登場してくる。これを見て
「あらかじめ失われた恋人たちよ」(1971日)を思い出した。あそこに出てきた隠れ家も丁度こんな感じの海辺の廃屋だった。しかも、「あらかじめ~」は過去の学生運動のアジトだった所で、こちらは過去の基地反対運動派のアジトである。まるで時間が止まってしまったかのような過去の闘争の場所が、若い男女の隠れ蓑になっているところが面白い。主人公たちの置かれている状況を惨めに見せる舞台としては、この寂れた感じが中々似合っていると思った。
作りは粗いが主役3人の瑞々しい演技が好印象。
「ションベン・ライダー」(1983日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 中学生のジョジョ、ブルース、辞書は仲良し3人組である。いつもガキ大将のデブナガに虐められていたが、そのデブナガが人違いでヤクザに誘拐されてしまった。日頃の仕返しをしてやろうと3人はデブナガを追いかけた。そして、その先で厳平というヤク漬けの中年男に出会う。彼は今回の事件を起こした主犯格だった。しかし、部下の身勝手な暴走でデブナガは名古屋に拉致されてしまったという。早速3人は名古屋へ向かうのだが‥。
楽天レンタルで「ションベンライダー」を借りよう映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 若者たちのひと夏の冒険を快活に綴った異色の青春犯罪映画。監督は名匠・相米慎二。
若者の大人への反抗というテーマ自体、大変俗っぽいが、しかし相米監督の手にかかれば決して甘ったるい鑑賞感ばかりに堕さない。幾ばくかのほろ苦さが加味され、ある種正しい青春ドラマがキッチリと確立されていると思った。
ただ、この頃の相米作品はまだ初期時代ということもあり、決して完成度が高いわけではない。そこだけを取って観てしまうと後期の作品よりも見劣りしてしまうことは確かである。しかし、一方でまだ若かりし相米監督の荒々しいタッチには洗練される一歩手前の魅力も感じられる。この当時にしか撮れなかった作品だということを考えれば、これはこれで面白く見れる。
まずは、相米監督と言えばなんと言っても長回しである。今作には所々でそれが炸裂している。
例えば、冒頭の約10分にも及ぶ長回しはテクニック的には稚拙だが、画面の賑々しさ、スピーディーな事件展開で一気に画面に引き込まれた。
3人が厳平の根城に侵入するシーンも然り。拳銃という危険極まりない小道具を使って、ジョジョたちと厳平の対峙を1カットでスリリングに捉えている。
極めつけは貯木場のシーンであろう。皆が川に浮かぶ不安的な木材の上を走りながら、実にみっともない追跡劇が繰り広げられている。リアルに描けば本当に怖いのだが、そもそもこの誘拐犯はどこからどう見ても間抜けで拳銃の扱いもままならない。そのためまったく緊張感が感じられず、むしろ滑稽に写り、どこか"祝祭感”さえ漂う。
自分は相米慎二の長回しの魅力とは、正にこの"祝祭感”にあると思う。編集で誤魔化すのではなくリアルタイムで役者の生身のアクションや事象を捉え、映画にリアリティと興奮をもたらす。それが彼の長回しの一番の効果だと思う。それによって、俳優は活き活きと画面に息づき、観客は彼らに愛着感を持つに至るのだ。今回、自分は3人の若者たち旅に同行しているような‥そんな親近感を持って、この映画を観ることが出来た。全ては"祝祭感”に満ちていたからである。
一方、相米監督は時々意味不明な演出を出して、見る側を混乱させるような所がある。今回も幾つか不自然に思えるシーンがあった。
例えば、熱海のホテルのシーンで、部屋の窓から見える花火があからさまに合成になっている。これは何か意味があって敢えて狙ってやっているのか?あるいは予算的な原因なのか?よく分からなかった。また、遊園地の観覧車のシーンで、3人がフェイス・ペンティングをしていたのだが、これも意味が分からなかった。クライマックスで突然、歌が飛び出すのも理解に苦しむ。
そもそも今作はストーリー的にも突っ込み所が多い。デブナガが誘拐された理由も、それを3人が追いかける理由も、今一つ説得力が感じられなかった。
キャストでは、主演を務めた3人の、はつらつとした演技が良かった。永瀬正敏、坂上忍、河合美智子が、夫々に映画初出演・初主演を果たしてる。まだ若いという事もあり演技力を言ってしまうと大変苦しいものがあるが、ナチュラルさを前面に出した所には好感が持てた。叫び、走り、泣き、笑いといった感情の噴出をダイレクトに体現することで画面に躍動感をもたらしている。
また、3人はかなり危険な撮影に挑んでいることも注目したい。例えば、ブルースが川に飛ぶ込むシーンは、例によって相米監督らしい1カットのロングショットで捉えられているのだが、よくよく考えたらスタントもなしでよく飛び込んだな‥と驚かされた。自転車に乗ったジョジョがトラックの荷台に飛び乗るシーンも、かなり危険な撮影である。もし怪我をしたら‥と冷や冷やだった。ただ、こうしたライブ感を意図した長回しにこそ相米監督の真骨頂があるわけで、3人ともそれを理解した上でこの演出を受け入れたのだろう。その後3人とも出世したことを考えてみても、彼らはただの可愛い、格好良いだけのアイドル俳優ではない。
一方、厳平役の藤竜也は流石の貫録を見せている。麻薬に溺れた中年ヤクザという役どころを、時に激しく、時に悲哀を滲ませながら好演している。3人の若者たちを冷めた態度で突き放しながら、心のどこかでその若々しさに嫉妬している‥。そんな複雑な心情も見事に表現されていると思った。
いかにも70年代カウンター映画な1本。
「赤い鳥逃げた?」(1973日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) チンピラ青年・宏は弟分の卓郎と日和見な生活を送っていた。ある日、宏は会社社長の依頼で妻の不倫現場を押さえる。ところが、報酬を貰おうとする段階で社長が金を出し渋ったことからトラブルになり、宏たちは警察に追われる身となってしまう。二人は暫くの間、卓郎の恋人・マコの部屋に転がり込むことにした。マコは、資産家の令嬢の友人・京子に代わってこの部屋に住んでいた。同居するうちにマコは次第に宏に惹かれていくようになる。その後、宏は会社社長の入院先を突き止めて乗り込んでいった。しかし、彼はそこで待ち構えていた警察に捕まってしまう。一方、卓郎も街中でヤクザに絡まれて怪我をしてしまう。
映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) チンピラ青年達の刹那的な生き様をエッジの効いた演出で描いた青春ドラマ。
ここで描かれる宏たちの社会や権力に対する反発は、いかにも70年代の若者たちの間でくすぶっていた「本音」なのだろう。ベトナム戦争が終わり、学生運動の機運が失われていった時代。ある種、若者たちの熱が冷めていった時代だったのかもしれない。しかし、そんな中でも一部の若者はまだ熱を持っていた。それが今作の宏たちである。彼は劇中でこう言っている。
「このままじゃ俺は29歳のポンコツになっちまう」
宏のこのセリフには、ポンコツな大人になるくらいだったら、とことん突っ張って死んだ方がましだ‥という意味が込められているのかもしれない。
こうした時代のカウンターを表した映画は、60年代から70年代前半にかけて作られたアメリカン・ニューシネマを筆頭に、古今東西いくらでもある。確かにこれらの作品と並べてしまうと今作に新味はない。しかし、宏たちのアウトロー然とした生き方には、変な言い方かもしれない奇妙な魅力を感じてしまう。それはつまり、宏たちのような自由な生き方に心のどこかで憧れている‥という証なのかもしれない。
今作は何と言っても映像が面白い。撮影監督は名手・鈴木達夫が務めている。彼のスタイリッシュで活劇度の強いカメラワークが、宏たちの荒々し姿を見事に活写している。
例えば、序盤の宏たちの逃走シーン。画面を歪めるようなトリック撮影を交えながらスピーディーに切り取られている。また、卓郎が目撃する自動車事故のシーンは、極端に短いカッティングで表現されていて迫力が感じられた。一方で、所々に登場する黄昏時の都会の風景はどこか儚げで、まるで宏たちの青春時代の終焉を暗示するかのようで抒情的である。このように、今作は至る所に鈴木達夫のテクニックが登場し、映像に関しては色々と見所が尽きない作品となっている。
監督・脚本は藤田敏八。藤田の演出も、鈴木達夫のカメラ同様、今回はかなりスタイリッシュに攻め込んでいる。特に、赤を多用した色彩演出は中々洒落ていて、これまでの氏の作品では余りお目にかかれない映像演出だった。タイトルの「赤い鳥」に掛けているのだろう。
また、紙幣を街路に放り投げたり、レコードを川に投げたり、宏たちの自暴自棄的とも言えるアクションの数々は、やや臭いながらも中々鮮烈である。
後半で宏が不意に見せる涙も然り。かなりインパクトがあった。彼は普段は突っ張っているが、本当は寂しい男なのである。その証拠に、彼はセックスを見世物にしながら旅の費用を稼ぐ卓郎とマコの傍で何も出来ずに、ただ惨めな気持ちになるだけである。この突然の涙には、そうした彼の寂しさ、孤独感が表れていると思った。実に切なくさせられた。
一方で、やや荒唐無稽で強引な演出も幾つか見られた。例えば、クライマックスで描かれるドタバタ狂騒劇はやり過ぎで少し白けてしまう。そもそも、あれほどまでに野次馬が必要だったかどうか‥。盛り上げようとしているは分かるのだが、ここまでされるとナンセンスである。他に、爆発炎上、警察の銃乱射といったリアリティ無視な演出、展開も見られる。
基本的に今作はクールなタッチの青春ドラマである。そこにこうしたコミック・タッチな表現が入りこんだのは少し残念だった。
藤田敏八と秋吉久美子が取り組んだ青春三部作の最終章。
「バージンブルース」(1974日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 予備校生のまみとちあきは同じ寮に住む幼馴染である。毎日万引きを繰り返していたが、とうとう見つかってしまい仲間が逮捕される。寮に戻れなくなった二人は、仕方なく以前ちあきの部屋に空き巣に入ったアルバイト青年の所で匿ってもらうことにした。しかし、青年の欲情した眼差しに晒され、結局そこも出る羽目になってしまう。行き場を無くした二人は、ある日、ちあきの知人でラーメン屋を経営する中年男・平田と出会う。彼の援助で二人は故郷の岡山に帰ることにするのだが‥。
楽天レンタルで「バージンブルース」を借りよう映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 万引き常習犯の少女と事業に失敗した中年男の逃避行を描いた人間ドラマ。
監督は藤田敏八。まみを演じたのは秋吉久美子。藤田と秋吉のコンビは、本作を含め3本の映画を立て続けに撮っており、これらは藤田敏八監督の”青春三部作”と言われている。今作はその3本目に当たる作品である。
秋吉はこの三部作すべてに主演し女優としての礎を築いていった。尚、本作の他には、若いカップルの成長を綴った
「赤ちょうちん」(1974日)、兄妹の絆を描いた「妹」(1974日)がある。
秋吉は他の2作品同様、ここでも屈託のない表情を見せながら独特の魅力を見せている。ただ、他の作品の彼女はどちらかというと男を引っ張るような快活さ、力強さを持っていたのに対し、今回は極めてモラトリアム気質な非力な少女になっている。どことなく初々しさが感じられるのはこの役柄のせいだろう。アンニュイな雰囲気を醸しながら、これまでに見られなかった小悪魔的な魅力も感じられた。
ただ、本作はクレジット上では彼女が主演となっているが、ドラマを構造的に紐解いてみると真の主役は長門裕之演じる中年男・平田の方にあるように思った。前半こそまみを中心とした作りになっているが、後半は彼女と平田の逃避行になり、そこからドラマの視座が平田の方に移っていく。
平田は脱サラしてラーメン屋を開業した男で、妻と赤ん坊を放ったらかしにしてアタッシュケース片手に各地を放浪する風来坊である。「借金取りに追われている」が口癖で、それでいて"いっぱし”の事業者気取りなのだから、どうしようもない男である。
その彼のダメっぷりが一番よく出ているのは、まみの幼馴染の劇団員に嫉妬するシーンである。「俺にはバージンを守る義務があるんだ!」と激昂する平田が実に傑作だった。良い年をした妻子ある中年オヤジが、若い女に本気で惚れ込み恋敵と一戦交えるなんて‥。一体こいつはどこまで恥ずかしい奴なんだ‥と笑えてしまった。むろんこれは蔑みの笑いではない。この情熱的なアホさ加減が羨ましく映ったのである。尚、この事件を機に、平田とまみの関係は劇的に変化していく。
そして、そんな二人が辿る結末には実に切なくさせられた。
脚本は内田栄一。彼は青春三部作の2作目「妹」(1974日)の脚本も手掛けている。また、先日紹介した根岸吉太郎監督の作品
「永遠の1/2」(1987日)でも脚本を担当している。こちらは原作物だったが、いずれもラストの印象深さが共通している。彼はインパクトのあるラストを作り上げるのに長けたライターのように思う。今回も平田、まみ、夫々が辿る人生の顛末を味わい深くまとめあげている。
ところで、「バージンブルース」というタイトルについて考えてみると、色々と興味が尽きない。これは、社会に出れずボーイフレンドも作れず鬱屈した感情を抱えながら平凡な日々を送るまみのことを指したタイトルだが、映画を見終わってみるともう一つの意味が読み解けるような気がした。
「ブルース」とは日本では主に憂鬱(=Blue)な心情を歌った曲という意味合いで語られることが多い。社会からドロップアウトした平田も、正に憂鬱(=Blue)な人生を送る中年男と言えるのではいだろうか。という事は、まみと平田は憂鬱(=Blue)で繋がる似た者同士。つまり、この「バージンブルース」というタイトルは、二人の関係性にも引っ掛けているような気がする。その意味するところを顧みると、改めて今作の二人の旅を噛みしめてみたくなる。
尚、本編では野坂昭如が登場して弾き語りで同名曲を披露している。以前も書いたが、藤田敏八は歌をモチーフにした映画作りを実践していた時期があり、「妹」と「赤ちょうちん」はかぐや姫の同名曲をモチーフにして作られた作品だった。今作は野坂昭如のこの曲をモチーフにして作られている。また、今作にはその他にも当時の歌曲がたくさん流れるので、そこは一つの聴き所だろう。映画と歌は藤田監督にとって切っても切れない媒体だったことが改めて伺える。音楽から彼の作品を紐解いてみると、また違った面白さが見えてくるかもしれない。
長澤まさみのヒロイン振りが堪らない!
「モテキ」(2011日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 冴えない草食系男子・幸世は、職なし、金無し、彼女無しの寂しい人生を送っていた。ようやくバイトが決まるが、今度は毎日上司から怒られる日々が続いた。そんなある日、幸世はツイッターをきっかけに、みゆきという女性と知り合いになる。これでようやく彼女が出来る‥そう思ったが、実は彼女には彼氏がいた。悶々とした日々を送る幸世。ある日、みゆきから、るみ子という年上の女性を紹介されてしまう。落ち込んだ幸世は、るみ子と成り行きで寝てしまい‥。
楽天レンタルで「モテキ」を借りよう映画生活ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 同名コミックの映画化。今作の前にTVシリーズが作られており、そのヒットを受けて作られた作品である。尚、スタッフ、キャストはTV版と同じである。
自分は原作もTV版も見ていないが、それでも本作の内容は十分理解できた。どの映画とは言わないが、得てしてTVから派生したこの手の作品の場合、スポンサーのしがらみやキャストの縛りによって、歪な作りになってしまう傾向がある。例えば、TVを見ていないと分からない隠しネタが入っているとかetc.そういったものは本来1本の映画として見た場合、邪道である。その点、本作にはそうした嫌らしさがなく初見でも楽しめるように作られている。純粋に1本の映画としてきちんと成立している所に好感が持てた。
ただ、これは監督のコネクションなのだろう。チョイ役で時々ゲストキャラが出てくるのだが、これがドラマの邪魔になってしまい集中力を欠いた。無名の俳優ならまだしもお茶の間でよく見る顔だけに、かえって始末におえない。
また、これも監督の趣味なのだろうが、挿入歌をこれ見よがしに入れるのもいかがなものだろうか‥。物語の進行上どうしても必要なら良いのだが、果たしてこの曲が本当にこのシーンに必要か?と思えてしまうような箇所があった。
物語は不器用な青年の悶々とした姿を綴ったもので、中々面白く見ることが出来た。「モテキ」と言うと、単に都合のいい夢物語を想像してしまうが、幸世はそれによって恋愛の酸いも甘いも味わっていくことになる。実にまっとうに作られた青春ロマンス映画だと思う。
ただし、クライマックスからラストにかけての展開は大いに不満が残ったが‥。幸世の成長、みゆきの心情変化、共に安易に写った。幸世の激走も、いかにも青春映画という感じで良いのだが、彼の心情までは映り込んでいない。外見だけ取り繕ったみました‥と言う感じで、真に迫るほどの感動は得られなかった。もっと泥臭くしても良かったのではないだろうか。
キャストでは森山未來の好演を評価したい。非モテ特有のテンパった姿が実に微笑ましく見れた。大変イタイタしいが、そこがキャラクターへの親近感を湧かせてくれる。
同じようにイタい女・るみ子を演じた麻生久美子も中々の妙演であった。中盤のトンネルのシーンの彼女が愛おしく感じられた。
そして、みゆき役の長澤まさみは、今回は完璧にヒロインとしての輝きを放っている。彼女の小悪魔的な魅力には、男なら誰でもクラッときてしまうのではないだろうか?確かに余りにも可愛すぎるので、本当にこんな子がいたら劇中の幸世同様ちょっと警戒してしまうが、これくらいパーフェクトなヒロインが確立されているとそれだけで映画が華やかになる。
もっとも、彼女が中心にいることで、他のヒロインがかすんで見えてしまうという功罪はあるが‥。これはドラマとして見た場合、非常に悩ましい問題である。というのも、今作は基本的に主人公とヒロインたちの恋愛パワーゲームを描いたドラマである。それが、ここまでみゆきの揺るぎない絶対性が確立されてしまうと、ゲームのパワーバランスが保てなくなってしまうからだ。みゆきのマイナス面をもう少しフィーチャーしても良かったのではないだろうか。そうすれば、この恋愛ゲームはもっと面白く見れたかもしれない。
中でも、今作の仲里依紗は完全に割を食ってしまった感がある。彼女に関しては、他のヒロインと比べてみても味気ない役回りになっていて残念だった。