実話の映画化。T・ハンクスが絶妙なさじ加減でアメリカそのものを体現している。
「キャプテン・フィリップス」(2013米)
ジャンルサスペンス・ジャンルアクション・ジャンル社会派
(あらすじ) 2009年、ケニアへの援助物資を運ぶコンテナ船が、ソマリア沖で海賊に襲撃される。一度は撃退したものの、翌日再び襲撃を受け、武装した4人の海賊に船を乗っ取られてしまう。艦長のフィリップスは乗組員を機関室に避難させて金庫の金を差し出した。しかし、海賊たちはそれでは足らず多額の身代金を要求した。こうして、フィリップスと海賊の戦いが始まる。
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(レビュー) 実際にソマリア沖で起こった事件を、社会派作家P・グリーングラスがT・ハンクスを主演に迎えて描いた海洋サスペンス作品。
事件そのものはニュースで聞いたことがあるが、ここまでの詳しいことは知らなかった。今作を見ると、舞台裏ではこういうことが行われていたのか‥ということが分かり興味深い。尚、原作は今作の主人公リチャード・フィリップス本人の共著となっている。海賊との生々しいやり取りは、当人にしか分からないリアルさがある。これは本作の大きな強みだろう。
今回のこのドラマには、超大国アメリカの傲慢さとそれに虐げられてきたソマリアの根深い対立の関係が読み取れる。
ソマリアは実に数奇な運命をたどってきた国である。1980年代後半に激化した内戦によって国は泥沼の戦場と化した。R・スコット監督が撮った「ブラックホーク・ダウン」(2001米)はソマリアに派遣された米軍を中心とした多国籍軍の活躍を描いた戦争映画である。この時の地獄絵図と化した戦場の様子は衝撃的であった。アメリカはその後もアルカイーダの構成員が潜むとしてソマリアに軍事介入したことがあり、連綿と続く因縁が両国の間には存在する。ソマリアの海賊は無差別に相手を襲うが、相手がアメリカ人だと聞くと俄然凶暴になる。それは単にその場だけの空気ではなく、やはりアメリカという国に対する特別な感情があるからであろう。
物語は実にシンプルである。余計なものが一切ないサスペンス重視の構成になっている。確かにドラマ的には喰い足りないが、逆にここまでドラマを削ぎ落としたことによって、P・グリーングラス監督のサスペンス・タッチはより主張されることとなった。フィリップスと海賊たちのやり取りがドキュメンタリータッチで捉えられていて、終始目が離せなかった。彼のアメリカでの出世作「ユナイテッド93」(2006米)を想起させるほどの生々しさが感じられた。
また、ハリウッド映画の場合は、実録物の場合であってもアメリカ側に拠った視点で物語を紡ぐ傾向にあるが、本作はその辺も公平である。海賊側に立ったドラマも所々に挿話され、それが一定の深みを生んでいる。言わば、戦争には勝者も敗者もないということを辛辣に語っている。
例えば、今回襲撃に参加した海賊は、皆銃もまともに扱えない年端もいかぬ少年ばかりである。彼らは青春を犠牲にして戦いに身を投じなければならなかった。その姿に憐憫の情が湧いてしまう。
また、リーダーのムセは、大金持ちになってアメリカへ渡るのが夢だとフィリップスに語る。おそらくそれは皮肉でも何でもなく本音なのだと思う。普段は銃を持って凶暴に振舞っていても、素は純真な少年なのである。このあたりには、今もってなくならない先進国と発展途上国の格差を見てしまう。
キャスト陣も夫々に好演している思った。フィリップス役のT・ハンクス、海賊を演じた少年たち。皆、熱度の高い演技合戦を見せている。
特に、T・ハンクスはヒロイックとアンチヒロイックの中間を絶妙なさじ加減で体現している。そこには超大国アメリカへの皮肉が込められていることは間違いないだろう。嫌みなくサラリと主張するあたりに上手さを感じた。
トランスジェンダーの葛藤をスタイリッシュな映像で綴った野心作。
「わたしはロランス」(2012仏カナダ)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 1980年代末、カナダのモントリオールで国語教師をしているロランスは、映像ディレクターの恋人フレッドと幸せな暮らしを送っていた。実は彼には秘密があった。男でありながら心は女になりたいと思っていたのである。ある日、彼はそのことをフレッドに打ち明ける。初めは戸惑うフレッドだったが、愛する彼の支えになるべく理解しようと努めた。その日から、ロランスは学校でも街でも女性の恰好で出かけるようになった。しかし、中にはそんな彼を奇異の目で見る者達もいた。一方、フレッドの身にも異変が起きる。ロランスの子供を身ごもってしまったのだ。考えあぐねた彼女は一つの決断を下す。
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(レビュー) 性同一性障害の男と彼を愛した女の10年に渡る愛の軌跡を、ファッショナブルな映像で綴ったロマンス作品。
今となっては性同一性障害は広く一般にも知れ渡っているが、このドラマの時代設定である1980年代末~90年代頃はまだそれほど浸透していなかった。今回のロランスも家族や周囲から冷たい目で見られるようになる。しかし、彼は自分自身には嘘つけないと、フレッドとの愛を貫こうと格闘する。
以前、このブログでC・マーフィー主演の
「プルートで朝食を」(2005アイルランド英)という作品を紹介したことがある。あれも本作のロランス同様、性同一性障害で苦悩する青年のドラマだった。時代背景もアイルランド紛争が激化する1970年代で、この病気がまだ公に認知されていなかった頃である。今回の作品からも「プルートで朝食」からも、性同一性障害者の憤りと悲しみが切々と伝わってくる。異端者である自分の居場所をどこにも見つけられず彷徨う姿は、正しくマイノリティーの苦しみを代弁している。今敢えてこの題材を取り上げた意義は正にここにあると思う。いつの世にも存在するマイノリティ。彼らの生き様。そこに自分は作品の普遍性を見た。
対する、ロランスの恋人フレッドだが、こちらはこちらで更に深い問題を抱えている。彼女はロランスを愛しているが、やはりどうしても受け入れがたい物も感じてしまう。更に、彼女自身が妊娠し、それによって精神に追い詰められていくようになる。これは大きな問題である。その葛藤は女としての、もっと言えば母親としての葛藤と言えよう。これも実に深刻な問題として受け止められた。
フレッドはその後、元同僚から誘われたパーティーで、ロランスよりも経済的にも社会的にも裕福な男性に出会い恋に落ちる。しかし、それでも彼女はロランスと過ごした日々を忘れられず、時折空虚な表情を滲ませる。おそらくだが、彼を選択したのは、母親になりたいという願望がもたらした”合理的な選択”でしかなかったのだと思う。二人の私生活が酷く表層的にしか描かれていないのが何よりの証拠である。彼女はロランスと別れても、彼への愛をずっと忘れられずにいたのだ。彼女のこの葛藤は、今作のもう一つの大きな見所となっていて、その一途な思いには感動させられた。
このように今作は、マイノリティの葛藤と、マイノリティを受け入れる側の葛藤。その両方をディープに捉えることで、愛に障害は付き物というメロドラマ的な構造を見事に形成するに至っている。
この手の”性のマイノリティ”を描いたものでは、過去に「ボーイズ・ドント・クライ」(1999米)や「ブロークバック・マウンテン」(2005米)といった作品が思い出される。いずれも傑作と評されているが、今作もそれらに引けを取らないくらい重厚に、そして丁寧に作られており、当事者の苦しみや迷いが切々と伝わってきた。
尚、個人的にはラスト直前のカフェのシーンでホロリときた。あそこで二人が背を向けたのはどうしてだろうか?セリフで明示されてないので、想像するしかない。すでにかつてのような情熱が無いことを二人とも悟ってしまったからなのか?相手が追いかけてくると思って強がってみせたのか?色々と考えられる。
また、この時フレッドはトイレに入って、鏡に写った自分の顔を暫く見つめていた。ここで彼女は一体何を考えていたのだろうか?ここも見た人それぞれが想像するしかない。
欧州映画は単純明快なハリウッド映画と比べて煮え切らない作品が多いから苦手‥という人がいる。しかし、そこを観客一人一人が噛みしめながら答えを導き出すことによって、その作品は何倍にも味わい深くなってくるものである。映画は観客の思考と共に完成されるものであることを忘れてはならない。確かに単純明快でスッキリする映画は見ているだけで楽しいが、本当の意味での『作品』とは心に何かを残してくれる映画のように思う。
ラストシーンも胸にこみ上げてくるものがあった。中盤で二人が決別するシーンがあるが、この時に少し奇抜な”蝶々”の演出が出てくる。見ている最中はこれに一体何の意味があるのかさっぱり分からなかったのだが、それがこのラストシーンで判明する。これにはグッときてしまった。
今作の難は上映時間が長すぎることだろうか‥。このテーマをじっくり描くならある程度長くなるのは仕方がないが、それにしても2時間50分弱は長すぎである。もっとスリムに出来る話だと思った。
監督・脚本は今作が長編3作目となる若干23歳のグザヴィエ・ドラン。この若さでこの重厚なテーマを取り上げた所に驚かされる。しかも、映像はドキュメンタルであったり、幻想的であったり様々なスタイルを見せ、すでにベテランのような技量を見せている。
特に、ロランスとフレッドが憧れの土地を旅行するシーンで、空からカラフルな色の洗濯物が降ってくるシーンはファンタスティックで印象に残った。まるで2人の幸せを神様が祝福しているかのようである。その前段で洗濯物は2度ほど登場してくるが、それらはいずれも現実の描写であり、ここのファンタジックな描写とは正反対である。この対比が実に上手く効いていた。
また、画面の構図がシンメトリックだったり、色使いがグラフィカルだったり、映像に対しては卓越した美的センスも感じられた。今後どういう作品を撮っていくのか非常に楽しみである。
キャスト陣も好演している。ロランス役を演じたメルヴィル・プポーは、F・オゾン監督の「ぼくを葬る(おくる)」(2005仏)で末期がん患者を印象的に熱演していた。今回も難しい役どころをペーソスを交えながら演じている。そして、フレッドを演じたスザンヌ・クレマン。こちらは初見だが、これも見事な熱演である。特に、カフェでの激昂、ロランスにずっと隠していた”秘密”を打ち明ける終盤の演技。これらには震撼した。
5年後を舞台にした人気シリーズ第3弾。
「ALWAYS 三丁目の夕日'64」(2011日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 昭和39年、東京オリンピックの開催で賑わいを見せる夕日町三丁目。小説家の茶川はヒロミと淳之介と貧しいながらも幸せな暮らしを送っていた。ヒロミのお腹には第一子が身籠っていた。一方、茶川は新人作家・緑沼アキラの登場で連載が打ち切りに追い込まれる。彼らの対面に住む鈴木オートでも事件が起きていた。六子が毎朝出会う青年医師・菊池に一目惚れしてしまったのだ。偶然、彼の自動車を修理したことから六子はデートに誘われる。
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(レビュー) 西岸良平のコミックを映画化した「ALWAYS 三丁目」(2005日)シリーズの第3弾。今度は前作から5年後の昭和39年を舞台にしたストーリーが展開されている。スタッフ、キャストがそのまま引き継がれているので、これまでのシリーズを見てきた人ならすんなり入り込めるだろう。
正直、前作
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(2007日)は話が詰め込み過ぎて、最後の方はまとめるの四苦八苦していたように見えた。その点、今回は随分自然に見れる。話を変に膨らませなかったおかげだろう。この程度のボリュームなら一つのエピソードをじっくりと見せることが出来て丁度いいと思う。
今回の話は大きく分けて2つある。茶川の小説家としての苦悩を描くドラマ、六子の結婚のドラマである。この二つが相関しない所に若干の物足りなさは覚えたが、少なくとも前作のような窮屈感は無かった。その分、面白く見ることが出来た。
尚、個人的には六子のエピソードよりも、茶川のエピソードの方により感銘を受けた。緑沼アキラの正体が判明する辺りから”出来すぎ”な感じは受けたが、そのクライマックス。茶川と緑沼の激しやり取りは中々見応えがあった。本作は基本的に泣かせ映画である。ここで泣いてくださいと言わんばかりに大仰なBGMが結構かかるおで少々白けてしまうことがあるのだが、このシーンだけはBGMが一切かからない。そのおかげですんなりと二人の感情にすり寄ることが出来た。
また、この場面はその前段で描かれた茶川と実父の過去のエピソードが上手く効いている。実は、茶川は小説家になりたいと言って実父に勘当された過去がある。それがこの場面に被さることで、より一層の感動が味わえるのだ。
ただ、これは前作には感じなかったことなのだが、今回の茶川は総じて身に降りかかる事情を早くに呑み込む傾向にある。とにかく、至る場面で相手の言葉を何の疑いもなく素直に受け入れてしまうのだ。それだけバカ正直な男‥と言われれば確かにそうなのだが、これだけ物分かりが良いキャラになってしまうと感情のリアリティが損なわれてしまう。
例えば、緑沼アキラの正体の告白や、父の愛情の告白ついては、実はこういういことでした‥と言われても、普通ならば素直に受けれ難いものがあるだろう。確かに少しは戸惑っていたが、描写が余りにも軽い。もっとじっくりと描写してくれるとリアリティが増したであろう。
VFXについては今回も見応えが感じられた。前作のオープニングのような見世物的カタルシスは無いが、これまでのようにしっかりと作られている。ただ、出来れば東京オリンピックの様子もどこかで見せて欲しかった。
尚、劇中ではサッカーが不人気だった‥と言われている。今では想像も出来ないことであるが、当時の日本人には余り馴染のないスポーツだったのだろう。
また、時代の風俗を表すという意味では、菊池が発する「オー・エル」、「バカンス」、「エンジニア」といったカタカナ言葉も面白かった。今では普通に使われている言葉だが、当時はまだそれほど世に浸透していなかったのだろう。言葉は時代の流れでどんどん変わっていくことががよく分かる。
キャストでは、淳之介と一平の成長した姿に驚かされた。第1作ではまだ小学生だった彼らが随分と大人になっていた。こういう成長を見れるのもシリーズ物ならではの楽しみだと思う。
アイディアは面白いのだが‥。
「ステキな金縛り」(2010日)
ジャンルコメディ・ジャンルファタジー
(あらすじ) 失敗続きで後がない女性弁護士エミは、資産家妻の殺害で捕まった男の弁護をすることになる。男は犯行時間に山奥の旅館に泊まっていたと言う。そして、眠っている最中に落ち武者の幽霊に出くわして金縛りにあったと言う。俄かには信じられない証言だったが、エミは藁をもつかむ思いでその旅館を訪問した。すると、本当に落ち武者の幽霊・更科六兵衛が出てくる。エミは六兵衛に裁判に出て立証して欲しいと頼むのだが‥。
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(レビュー) 三谷幸喜監督・脚本によるファンタジックなハートウォーム・コメディ。
三谷監督の中には、かねてから裁判映画を撮りたいという熱望があったらしく、今回の話は長年温め続けていた企画だそうである。その分、思い入れも相当強かったのだろう。その意気込みは評価したい。ただ、その割に演出やシナリオは精彩が欠く。彼の作品作りの持ち味が大衆娯楽の追求であることは重々承知であるが、それにしたってここまでサービス精神が過剰に重ねられると、さすがに気持ち良く乗っかることが出来ない。
確かに楽しめる所もある映画である。幽霊の意志をどうやって法廷で証明するのか?そのアイディアは面白かった。ここでエミが用いる小道具もさりげない形で伏線が張られていて感心させられた。幽霊の姿が公の場で披露された時に卒倒する人々のリアクションも可笑しかった。
ただ、三谷幸喜がやりたかった”法廷”コメディとはこんなものだったのか‥という落胆も感じた。
第一にこの映画は法廷物としてのサスペンスが弱い。幽霊騒動ばかりに執着して肝心の事件その物が放ったからしなのだ。ここはサスペンスを押し出しながら、幽霊騒動と法廷サスペンス。その両方の面白さを狙って欲しかった。
また、法廷映画には法廷映画独特の臨場感、緊張感というものがある。静まり返った空間だからこそ描けるギャグもきっとある筈で、本作にはそこも足りない。これだけブラックでナンセンスな事態は、それだけでもかなり美味しい素材と言えるわけで、それを尽く情に訴える明快なユーモアで塗り固めてしまったやり方には物足りなさを覚える。
他にも演出面での不満が幾つかあった。
一つは検察官の”犬”にまつわるエピソードである。この検察官はエミと真っ向から対立する徹底したリアリストで、このキャラクター・ギャップは大変良いと思う。しかし、彼がどのタイミングで、どんな理由でエミに”敗北”するのか?それがこの”犬”が登場するエピソードになるわけだが、その演出が余りにも軽すぎる。何だか取ってつけたような”敗北”で白けるしかなかった。
第一に、シーンの舞台がレストランというのもいただけない。情緒皆無でつまらない。
加えて、六兵衛が柱の影から”犬”を連れて出てくる絵面も無頓着でドラマチックさにほど遠い。映画を撮る場合、シチュエーションというのは大切である。この場面はそのセンスに欠ける気がした。
また、ラスト直前の法廷シーンも大いに不満が残る。一旦退出したはずの検察官がちゃっかり再登場するという軽薄な演出。これには目を疑った。
三谷幸喜と言えば日本を代表する喜劇作家である。それだけに見る方の目も当然厳しくなってしまうのだが、今例に挙げた批判は、その彼にしてこの演出は無かろう‥という意味で述べたものである。今回は幽霊というファンタジーなドラマなので敢えてマンガチックに料理しているだろうか?だとしても、この作りの甘さは今までに比べてもクオリティが断然落ちてしまう。彼は、かつて「12人の優しい日本人」」(1991日)という傑作を書いた才人である。その才能を知っているだけに、同じ法廷劇を描いた今回の作品は残念でならなかった。
尚、この映画で唯一心の底から笑ったのはタクシーの運転手である。彼がいつの間にか法廷に潜り込んでチラッと顔を見せるシーンには笑った。確かに演出的に強引ではあるのだが、今回登場したキャラの中では造形が出色であった。また、段田も良いキャラをしていた。逆に、インチキ霊媒師・阿部つくつくは、ギャグがしつこくてゲンナリさせられた。
高畑勲渾身のアートアニメ。
「かぐや姫の物語」(2013日)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 竹林にやってきた翁は、光る竹から不思議な赤ん坊を拾う。翁は天からの授かりものとして婆やと一緒に大切に育てた。やがて赤ん坊は、近所の子供たちと一緒に野山を駆け巡りながら、明るく元気な少女に成長した。その後、翁は同じ竹林から金と着物を見つけた。翁は少女にかぐや姫と名付けて、その財産で都に屋敷を構えることにする。
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(レビュー) 有名な「竹取物語」をスタジオ・ジブリの高畑勲が、8年という歳月をかけて作り上げたファンタジー・アニメ。
昔から馴染のある物語だが、改めてこうして見ると、このドラマは人間の欲心を痛烈に皮肉った風刺劇だったことがよく分かる。ストーリーはシンプルだが、そこに隠されたテーマは中々鋭いと思った。
今回の物語で一番驚かされたのは、かぐや姫に悪女的なキャラクターが混じっていたことである。彼女はその神秘的な魅力で周囲を虜にし、関わった者を皆不幸に陥れていく。例えば、彼女にプロポーズしに来た5人の皇子などはそのいい例だろう。そこにかぐや姫の「罪と罰」のドラマが見えてくる。
では、具体的に彼女の「罪と罰」とは何だったのか‥ということになるのだが、これがかなり深い。それを考える場合、彼女が地球にやって来た理由を探っていかなければならないと思う。かぐや姫が地球に来た理由は、最後のシーン、余りにも有名なかぐや姫と翁たちの別れのシーンで判明する。月からの使者の口から、実はかぐや姫自身が月で罪を犯し、その罰として汚れたこの地球に送り込まれた‥ということが語られる。
では、彼女は月でどんな罪を犯したのか?残念ながら、そこははっきりとしない。しかし、何となく想像はできる。彼女は月から美しい地球を眺めてずっと憧れていた。いつか地球に行きたい‥。そう思ったのだ。おそらくこれが彼女の罪だったのだろう。
しかし、彼女は憧れの地球で残酷な現実に打ちのめされてしまう。彼女の美しさに身を亡ぼしてしまう皇子たち。名声に目がくらんでしまった翁。自分の存在によって全てのものが狂ってしまう現実に、彼女の地球に対する憧れは無残にも散ってしまうのだ。更に、愛する人と引き裂かれて窮屈な暮らしを強いられるようになったことで、彼女は地球での暮らしに嫌気がさしてしまう。その結果、彼女は地球を去る決意をする。自分がいなければ、皆が普通に暮らしていけるのだ‥と考えるのだ。
確かに地球人からすればかぐや姫は厄介な悪女ということになろう。しかし、悪女というものは自発的に他者を虜にするものである。彼女にはその自覚がない。ただ純粋に地球とそこに住む人々を愛しただけだった。全ては彼女の罪作りな美が招いた結果だった。彼女は悪女と言うより、やはり姫の名にふさわしい高貴な存在だったように思う。
こうやって考えてみると、かぐや姫が抱え込んでしまった地球での罪の意識とは、実はかぐや姫自身に原因があるわけではなく、彼女をそこまで追い込んでしまった周囲の人々に原因があるように思えてくる。愚かで強欲な地球人が純粋な彼女に罪の意識を背負わせてしまった‥というように。
そして、かぐや姫のこの苦しみは必然だったように思う。つまり、その罪の意識は月の人々がかぐや姫に与えた罰だったのではないか‥ということだ。
かぐや姫の罪とは”地球に憧れたこと”で、その罰とは”地球での暮らし”だったのではないだろうか。
結局、高畑勲がこの物語で何を伝えたかったのかというと、それは人類の業だったのだと思う。
ラストで高畑監督は月からの使者を天女とその一行として描いた。伝承されてる昔話もそうなっているが、これは明らかに天界と現世の対比を成している。愚かなる人間の業の深さ、言い換えれば人間というものに対するペシミズムを、ここまで突き放した形で俯瞰で捉えた所に凄味を感じてしまう。
ラストでかぐや姫は月へ帰って行く。その目に地球はどう映ったのだろうか?あの憧れていた地球とは全く違って見えたに違ない。そして、かぐや姫の心の中には地球に対する未練がまだあった‥ということも確かであろう。それを思うと切なくさせられる。
映像はまるで水彩画のような淡いタッチが貫かれている。これは高畑監督の前作「ホーホケキョ となりの山田くん」(1999日)から続く氏のこだわりであろう。描線と色使いの柔らかさに温かみが感じられた。アニメーションでこれを表現するのはかなりの労力と時間がかかったことと思う。そういう意味では、製作期間8年という長さも頷ける。
声優陣は概ね安心して聞けた。ジブリは声優経験の少ない俳優やアマチュアを起用することが多いが、今回は皆好演していると思った。特に、翁役を演じた地井武男が抜群に良かった。
これは見る映画ではなく体感する映画。
「ゼロ・グラビティ」(2013米)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 地上600kmの上空でスペースシャトルの修理をしていた女性エンジニア・ライアンとベテラン宇宙飛行士コワルスキーが、予期せぬ事故で宇宙空間に放り出されてしまう。宇宙服の酸素が徐々に減っていく中で、彼らは絶望的なサバイバルを始めていく。
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(レビュー) 音もない、重力もない広大な宇宙空間に放り出された二人の宇宙飛行士のサバイバルを臨場感溢れる演出で描いたSF映画。製作から監督、脚本、編集までをこなしたA・キュアロン渾身の力作である。
尚、今回はIMAX3Dでの鑑賞である。監督自身が、本作は3Dにこだわって作られた作品なので2Dよりも3Dでの鑑賞がベターだろうと語っている。確かにその通りで、映像と音が良いIMAXだとより迫力と臨場感が味わえると思う。
完成までに実に4年の歳月をかけたと言われている本作だが、こだわり抜いた映像に関してはまさに驚異の一言で、このリアリズム追及には目を見張るものがあった。特に、キュアロンは前作
「トゥモロー・ワールド」(2006米英)あたりから意識してロングテイクを用いている。今回もここぞという場面ではそれが登場し、孤立無援の状態に置かれたライアンたちの恐怖と不安を見事に表現している。
例えば、冒頭のシーン。広大で静かな宇宙空間に少しずつ見えてくるスペースシャトル。修理の作業にあたるライアンたちが事故に遭遇するまでを延々と1カットで描いている。見る者を自然と映画の世界に引き込んでしまうロングテイクは実に巧みだ。また、クライマックス直前のライアンの心情吐露を追った1カット1シーン。これも彼女の絶望感が見事に表現されていると思った。
こうしたロングテイクは、映画にリアリティを付帯し、観客を画面に強く引き込む効果がある。監督によってはこれを持ち味としている人もいるが、お金と時間がかかるSFジャンルでそれを実践している人は、おそらく世界広しといえどA・キュアロンくらいではないだろ。自分はまるでライアンたちと一緒にこのサバイバルを体験しているような、そんな興奮を味わえた。
加えて、今作にはライアンの一人称になるカメラアングルが時々登場してくる。これも無論、この極限状態を観客に疑似体験させようという演出上の狙いであろう。
ストーリーの方は至ってシンプルである。そもそも今作の上映時間は約90分である。これは最近の映画にしては大変短い方である。映画は、ライアンたちが体験する恐怖をほぼリアルタイムで切り取っており、サスペンスを主とした濃密なドキュメンタリー風のストーリーになっている。ピンチの連続で攻めまくったことで、まるでジェットコースターにでも乗っているようなアトラクション感覚で楽しめる。しかし、その一方でドラマとキャラクターはやや物足りない。
いわゆるオーソドックスなストーリー展開に、主人公が”行って帰ってくる”というドラマがある。今作も、ライアンが宇宙に”行って帰ってくる”ドラマと言うことが出来よう。しかし、映画の中では最初から彼女は宇宙に”行っている”状態、全体のドラマから言うとすでにクライマックスの状態から始まっている。つまり、彼女が宇宙に”行く”部分が無いのである。ということは、彼女は何を目的に宇宙へ行き、この任務を達成することで何を得られるのか?それが明確にされてないのである。したがって、本作を見た人の中には、ただ宇宙に行って酷い目にあいました‥というだけのドラマに写りかねない。確かに、ラストは感動的である。しかし、その感動はこのサバイバルを勝ち抜いた感動であって、ライアンの中の変化。つまり、彼女が何かを得たか、という感動ではない。
逆に言えば、キュアロン監督はそこの部分を観客一人一人の解釈に委ねた‥とも考えられる。見た人夫々に解釈はあると思うが、自分はこう解釈した。ライアン自身の口から語られる”娘の死”をヒントに、この映画の”帰ってくる”部分が次のように考えられる。
ライアンは自分の不注意のせいで娘を死なせたことを深く後悔している。そして、その罪を背負いながら、今回のミッションに就いた。彼女が向った先は無重力の宇宙空間。そこは空気のない死の世界である。おそらくだが、今回の事故でライアンは改めて地球の重力(グラビティ)の偉大さ、生命の源である母なる大地の尊さを知ったのではないだろうか。更に深く解釈すれば、宇宙=死の世界からの帰還は、”娘の死”からの解放とも取れる。地球と宇宙、重力と無重力が生と死のメタファーとするなら、ラストの海水も羊水のメタファーと捉えられよう。そして、クライマックスに登場する赤ん坊の泣き声。ライアンはそれを聞いて安堵する。これも生の象徴だろう。このように考えてみると、このドラマは一人の母親の再生ドラマ‥という解釈ができるのではないだろうか。
今作にはライアンとベテラン宇宙飛行士コワルスキー、たった二人しか登場しない。コワルスキーには彼女のような過去のドラマは用意されていない。そのため彼のキャラクターが弱く、ライアンとの間で構築されていく信頼関係のドラマが今一つパンチに欠けるのは残念だった。このあたりの弱点は、二枚目俳優、J・クルーニーの持ち味で何とか持たせようとしている。しかし、欲を言えば彼の背景にも何らかの事情を用意して、ドラマ的な膨らみを持たせて欲しかった。確かに、3D映画の場合、映像に集中する分、なるべくストーリーはシンプルな方が良い。しかし、今回はスリムにし過ぎた感じがする。
尚、二人の間で繰り広げられる会話の中には、所々でユーモラスな物が見つかる。これは、絶望的な状況を和らげる効果があって中々良かったと思う。そういう意味では、今回のシナリオはエンタテインメントとして上質に出来上がっていると思った。
ライアンを演じたサンドラ・ブロックも中々の好演を見せている。特に、クライマックスの演技に見応えを感じた。サンドラはここ最近は演技派としてどんどん活躍の場を広げるようになってきた。今回はJ・クルーニーとの絡みはあるが、ほぼ彼女の1人芝居が続く。プレッシャーも相当あったと思うが、その期待に見事に応えていると思った。
感動の実話なのだが‥・
「しあわせの隠れ場所」(2009米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルスポーツ
(あらすじ) スラム街に住む黒人少年マイケルは、父親の勧めで高校進学を決めた。ところが、勉強について行けずクラスから取り残されてしまう。家では継母に邪険にされ、次第にマイケルの心は腐っていった。その後、父は自殺してしまう。路頭に迷ったマイケルは荒んだ暮らしを送るようになる。そこに白人女性リー・アンが現れて、彼を引き取ることになった。彼女は外食産業のオーナーをしている夫と二人の子供と幸せな暮らしを送る裕福な主婦だった。彼女のおかげでようやくマイケルの未来は開けていくのだが‥。
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(レビュー) 実話の映画化ということだが、まるで絵に描いたような美談である。これをどこまで真摯に受け止められるかは人それぞれだろう。俺などは出来すぎた物語という感じがして、今一つ身が入らなかった。ドラマ、キャラクターが浅薄で、実話の割りに余り信憑性が感じられない。シナリオや演出の問題だろう。
なるほど、リー・アンは確かに出来た女性だと思う。彼女のマイケルに注ぐ愛情には頭が垂れる。きっと彼女に拾われてなかったら、マイケルの人生はお先真っ暗だったに違いない。リー・アンの慈悲深い愛は実に素晴らしいものに思えた。
ただ、いかんせん何故彼女がマイケルの世話をそこまで進んでするのか?その動機が、この映画を観てもよく分からなかった。一晩の宿を貸すぐらいならともかく(現に彼女の夫は最初はそのつもりだった)、家族として迎え入れ、大学進学まで面倒を見てやる。ここまでの善意を自ら進んでする人はそうそういないだろう。したがって、どこかリアリティのない物語に写ってしまった。
俺はこの映画を見ながら、きっとリー・アンにも過去に何かドラマがあって、そのせいでマイケルに特別に愛情を注ぐようになったに違いない‥と思ったのだが、どうもそういうわけではなかった。結局、彼女の善意が何に基づいてどこから発せられていたのか、それが見つからないままであった。
更に、彼女の家族のマイケルに対する対応も、同様に善意に凝り固まり過ぎである。普通は見ず知らずの他人が突然、家庭に入ってきたら様々な問題が起こるだろう。しかし、この映画はそこもサラリとスルーしてしまっている。終始、マイケルを温かく包み込む家族の姿は実に尊いが、しかし果たして善行だけを見せられても、はいそうですかとは納得できるものではない。
このように、この映画は過剰なまでの美談で感動を売ろうとしている。それがリアリティのある物だったら素直に感動できるのだが、少なくとも自分にとってはまるで絵に描いた理想像にしか見えず余り入り込めなかった。
もっとも、今作はリー・アンたちの善意を中和するべく、中立的な立場のサブキャラを周縁に散りばめている。例えば、リー・アンを囲む主婦仲間、マイケルに厳しい教師、終盤に登場する保護司等は、事あるごとにこの善意に疑問を呈する。一応こうしたドラマの障害があるにはある。ただ、これも描き方が形骸的で浅薄である。何か一つでも良いから、リー・アンの善意を脅かすような人物、事件があれば、このドラマはもっと骨のあるドラマになっていただろう。
尚、今作と同じスラム街を舞台にした青春ドラマでは「ボーイズ’ン・ザ・フッド」(1991米)という映画がある。そこにも、今作のマイケルと同じような、フットボールの才能に恵まれた不良少年のエピソードが出てくる。ただ、結末に関しては今作とまるで正反対なテイストになっている。「ボーイズ’ン~」の方がシビアで、スラム街の現実を真正面から捉えていると思った。現実には人の善意などという物は今作のように甘ったるい物ではなくて、時に無力である。そのことをきちんと描いている。そうすることで、初めて物語は真摯に受け止めることが出来るのではないだろうか。
キャストではマイケルを演じた黒人少年の造形が、このキャラクターに上手くマッチしていると思った。力持ちで気は優しいという朴訥とした役柄を自然に演じている。演技力云々という以前にこれは造形の魅力だろう。
リー・アンを演じたのはS・ブロック。今作で念願のオスカーを受賞しているが、それはこの役柄のおかげが相当あったように思う。ここまで一寸の曇りもない強い母性像を体現してくれたら、それは確かに見事という印象を見る者に植え付けるだろう。ただし、個人的にはこの次作
「ものすごくうるさくて、ありえないほどほど近い」(2011米)の演技の方を高く評価したい。今作と同じ母親役だが、そちらには母性の脆さ、弱さをもはっきりと体現されている。出演シーンが今作に比べて少ないにも関わらず、役柄には深みが感じられた。
M・フリーマン、J・ニコルソン。名優二人が魅せる人生の終末ドラマ。
「最高の人生の見つけ方」(2007米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 自動車整備工のカーターが病に倒れて入院する。大富豪の実業家エドワードと同室になり、暫く一緒に過ごすことになった。その後、夫々に余命6か月と宣告された。二人は残された人生をどう生きようかと思案する。そして、死ぬまでに叶えたいリストを書いて一緒に旅に出た。
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(レビュー) 貧しいながらも大家族に恵まれたカーター。名声を手にしながらも孤独な人生を送るエドワード。対照的な二人の中年男が人生にやり残したことを実現していくために一緒に旅をする人間ドラマ。
いわゆる難病物だが、ここで語られているポジティヴなメッセージには多くの人々が勇気づけられるのではないだろうか。語り口が明快で大変親しみやすい作品になっている。
尚、死を宣告された直後に”やりたいことリスト”を作成するというのは、以前見たS・ポーリー主演の「死ぬまでにしたい10のこと」(2003カナダスペイン)に非常によく似ていると思った。日本人にはこういう感覚は余りないと思うが、向こうでは結構あるのだろうか?わざわざリストにして書き出すことで、余生をどう生きていくかということを自覚したいのかもしれない。日本人は思っていることを余り口に出さない民族であるのに対して、外国人は自己を主張することが重要とされている。その差なのかもしれない。
なんと言っても、今作はテーマが胸に染みる。人は死に際して現実をどう受け止めていくのか?言ってしまえば、死の覚悟みたいなものを今作は示している。
その時になってみないと中々考えないことだが、しかし死というのは、いつどこでやって来るものか分からない。いざという時にはどう受け止めればいいのか?絶望に苛まれて塞ぎ込んでしまうのか?あるいは自暴自棄になってしまうのか?人それぞれだろう。
今作のエドワードとカーターは、大切な人と一緒に過ごすこと、若い頃に出来なかった物に挑戦すること等、色々とリストに書いて実践していく。2人はただ病院のベッドで静かに死を待つよりも、残された少ない時間を自分自身のために使おうと活発に行動していく。つまり、ネガティブに考えるのではなくポジティブに死を捉えていくのだ。その姿は実に輝いて見える。
そして、そこで育まれていく友情も良い。孤独なエドワードはカーターと一緒に旅をすることで、自分の知らない価値観を知っていく。そして、彼自身が抱える過去の"ある問題”を修復していく。一方のカーターも、エドワードのおかげで世界中を見聞し、何物にも変えがたい充実した経験をしていく。そして、家族愛の素晴らしさについて教えてもらう。彼らは敢えて延命処置をせずに、孤独や過去の遺恨を払拭していくのだ。遅きに失したと言うことも出来るが、この姿勢は実に天晴で見る者の胸を打つ。
考えてみれば、彼らのこのポジティブな生き方は、普通に生活を送っている我々にも見習うべき点が多いように思う。人生とはタイムリミットのある道程である。ただ何となく過ごすのではなく、人生をより良いものにしようと精進していくことは、生きる上で常に大切なことだと思う。それこそエドワードとカーターのように、死に際して慌ててリストを作るようなことがないように、我々は日々悔いを残さないとうに懸命生きることが大切ではないだろうか。
一方で、今作を見て 末期患者にそんなこと出来るわけないじゃないか‥と思う人もいるかもしれない。病院を抜け出して世界中を旅するなんて荒唐無稽だ。現実はそんなに甘いもんじゃない。多くの人は大して事件もなく安らかに死を待つものだ‥と。確かにその通りである。単に理想を掲げただけでは、それは夢物語に過ぎない。しかし、今作はそのあたりの不満も、きっちりとシビアな現実を描くことで応えている。
今作は後半に入ってくるあたりから徐々にシリアス色が強められていく。二人の会話の中に神、天国といったフレーズが出てきて、死がすぐそこまで来ている現実を突きつける。2人の旅は一時の夢でしかなく、現実に戻れば相変わらずの闘病生活、家族とのギクシャクした関係、会社の重責といった問題が待ち受けているのだ。この映画は、後半からそうした現実問題を照射していくことで、単に夢見て終わり‥というだけのドラマになっていない所が良い。そこに一定の歯ごたえが感じられる。
監督はロブ・ライナー。洒脱なコメディからシリアスなサスペンスまで器用にこなす職人監督で、個人的には「恋人たちの予感」(1989米)、「ミザリー」(1990米)が好きである。最近では
「迷い婚-すべての迷える女性たちへ-」(2005米)という作品を紹介した。今回も彼の持ち味である軽妙な演出が前面に出た作りになっていて、最後まで肩の力を抜いて見ることが出来た。特に、世界各地を旅する一連の描写は、明るく開放感に満ちていて楽しめた。
また、深刻になりかける後半も、カーターとエドワードのユーモラスなやり取りを前面に出すことで大変見やすく作られている。例えば、トランプやスカイダイビング、レース場のシーンで見せる二人のやり取りは微笑ましく見れた。こうしたトーンの抑揚のつけ方は、さすがに第一線で活躍し続ける職人監督ならでは‥という感じがした。終始、安心して見ることが出来た。
ただ、シナリオには少しだけ文句をつけたい。カーターが妻を捨ててエドワードと旅に出る動機。ここが少し独りよがりなものに思えてしまった。カーターと妻の冷え切った関係をプレマイズしておく必要があっただろう。
逆に、シナリオの上手さで光っていたのは伏線の張り方である。旅のリスト、エドワード愛用のコーヒーメーカーといった小物は、伏線としてドラマの要所で上手く機能していた。また、登山のクダリも伏線の巧みさでしみじみとさせられた。
キャスト陣は、カーター役のM・フリーマン、エドワード役のJ・ニコルソン、共に好演している。ストーリー自体よく出来ているというのもあるが、それを活かしきった彼らの演技も忘れがたい。今作はある種バディムービーのような楽しさがある。その魅力を引き出した二人の名優のパフォーマンスには素直に拍手を送りたい。
ネルソン・マンデラ氏追悼ということで、M・フリーマンの成りきり演技を鑑賞。
「インビクタス/負けざる者たち」(2009米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルスポーツ
(あらすじ) 1994年、南アフリカに初の黒人大統領ネルソン・マンデラが誕生する。しかし、アパルトヘイト撤廃後も白人と黒人の争いは絶えず、マンデラは国民を束ねる施策に苦慮していた。くしくも翌年は自国でラグビーのワールドカップが開催されることになっていた。マンデラはこれを機に国民を一つに束ねたい考える。そこで早速、彼は代表チームはのキャプテン、フランソワを官邸に招くのだが‥。
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(レビュー) 南アフリカ初の黒人大統領マンデラと、ラグビー代表チームのキャプテン、フランソワが、ワールドカップ優勝を目指して奮闘していくスポーツ人間ドラマ。実話の映画化である。
自分はラグビーには疎いのだが、ここで描かれる奇跡のドラマには素直に感動させられた。弱小チームが優勝を目指して奮闘する姿は、それだけでも見ていて心揺さぶられるものがある。更に、当時の南アフリカが置かれていた社会的状況を併せ考えてみると、この物語には更なるドラマチックさも覚えた。国民が一つにまとまって自国の代表チームを応援する。そんな風潮は昨今のサッカーW杯を見てもよく分かるが、マンデラがやろうとしたことは、つまりそういうことである。過去の遺恨を払拭し、人種の違いを超えて共に手を繋いで行こうじゃないか‥という未来への希望。それを世界中に見せたかったのである。これは実に崇高なドラマだと思った。
監督はC・イーストウッド。「許されざる者」(1992米)以降、徹底したリアリズムで世界の闇を炙り出してきた氏だが、ここに来て一転。未来への希望を示すような明るいメッセージを主張した作品を作り上げた所に注目したい。「許されざる者」以降テーマにしてきた、人間の悪心、偏見主義、戦争の虚しさとは異なる、実に清々しい作風になっている。もしかしたらこの転機は、オスカー常連で世界中の映画ファンから期待されるようになった"巨匠”としての使命感から出てきたものなのかもしれない。今回はネガティブな世界を一旦袖に置き、ポジティブなメッセージを声高らかに謳っている。
そして、映画監督イーストウッドの凄い所は、これだけ実直で見る人の襟を正すようなテーマを扱っていても、娯楽映画としての味付けを決して忘れていない点である。これまでのリアリズム志向のイーストウッドなら、ひたすら説教臭い映画になっていただろうが、今回はそこにサスペンスというエンターテインメントを盛り込むことで、誰にでも興味を持って見れるような作品にしている。
例えば序盤、マンデラが二人のSPを付けて早朝の散歩に出かけるシーンがある。マンデラの後ろに怪しい黒塗りのバンが接近しくてる。もしや彼を狙った反乱者か‥と思った瞬間、それは新聞配達の車でした‥ということが分かりホッとさせられる。いわゆるスカシの演出だが、こうした所にサスペンスの小技を盛り込むあたりにイーストウッドの手練が感じられた。
また、クライマックスのマンデラ暗殺の危機感を募らせたサスペンス演出も、手に汗握るボルテージの高め方で画面に引き込まれた。この手の大観衆を背景にした大掛かりなサスペンスは、それだけでも迫力があるが、伏線の張り方の上手さもあってハラハラドキドキさせられた。流石に謎のサングラス男については強引な気もしたが、ともかくも今回は頭でっかちな社会派作品にするのではなく、適度なエンタメを盛り込んで一級の娯楽作品に仕上げようという狙いが至る所で見て取れる。
ちなみに、マンデラを警護するSPチームが織りなす人間模様にもエンターテインメントは隠されている。このチームはマンデラの指示で黒人と白人の混合チームとなっている。彼らは最初はギクシャクするのだが、マンデラの理想を見習って次第に一つのチームとしてまとまっていく。その過程がいい塩梅で今作にユーモアをもたらしている。
このSPチームのように、今作は黒人と白人の融和というのが大きなテーマとなっているが、そういう意味では、フランソワ邸で働く黒人女性のメイドも味のある存在だったように思う。フランソワが彼女に試合のチケットをさりげなく渡すシーンにしみじみとさせられた。これも小さなシーンであるが、しっかりとテーマに関連付けて見せているあたりが上手い。
そして、今作最大の盛り上がり所、クライマックスシーンにおける映像的なカタルシス、実話としての感動も見事である。"硫黄島の戦い二部作”を除き、これまでは割とミニマムな作品を撮ってきたイーストウッドだが、このクライマックシーンにはかなりの迫力が感じられた。こうした大掛かりなシーンを難なくこなすあたりに、イーストウッドの演出家としての力量が改めて確認できる。社会派的なメッセージと観客を楽しませるエンターテインメントを両立させた彼の手腕には、改めて感服してしまう。
一方、今作は当時の社会状況やマンデラという実在の人物を分かりやすく見せようとした結果、彼の内面描写がやや薄みになってしまっている。おそらくマンデラの苦悩は劇中で描かれている以上に、相当大きなものがあっただろう。しかし、残念ながら本作はそこに対する踏み込みが浅く感じられた。
大統領の至上命令で弱小チームをまとめ上げていくフランソワも然り。本当は彼も、チームの強化にかなり頭を悩ましたに違いない。しかし、映画はそうした苦悩や葛藤を表層的にしか描いておらず、弱小チームが強くなっていく過程も型どおりにしか描いていない。割とトントン拍子に進んでしまうので、そこは安易に写ってしまった。
今回、イーストウッドは明らかに重苦しいトーンを極力排除して、エンターテインメントに特化しようとしている。この安易さはその功罪と言えよう。娯楽映画としての完成度云々という以前に、テーマの追及の仕方においては若干の甘さを覚えてしまった。
前作以上の過激さで描いた衝撃の問題作第2弾!
「ムカデ人間2」(2011オランダ英)
ジャンルホラー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 地下駐車場で警備員の仕事をしているマーティンは、映画「ムカデ人間」のファンだった。勤務中にDVDを繰り返し見ながら、自宅では実際にムカデを飼っている。家では母親と2人で空虚な暮らしを送っていた。やがて彼は抑圧された日々から解放されるように、映画の中の主人公と同じように次々と一般市民を襲っていくようになる。
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(レビュー) センセーショナルな内容で物議を呼んだ
「ムカデ人間」(2009オランダ英)の続編。
製作・監督・脚本は前作と同じトム・シックスである。スタッフが同じなので見世物映画的なテイストは今回も一緒である。ただ、今回は前作以上にハードコアな内容になっている。面白半分で前作を見た人でも今回はかなりきつい内容になっているので、これから見ようという人は覚悟して見た方がいだろう。
さて、前作で主役だったハイター博士が死んでしまったので、一体どうやって続きを作るのだろうか?そんな心配をしたのだが、なるほどそういう手できましたか‥という感じになっている。要するに、前作は映画の中の出来事でした‥というオチにして、今回はまったく新しいストーリーで作られている。
今回の主役は知的障害の中年男マーティンである。彼は映画「ムカデ人間」をこよなく愛する変質者で、映画と同じことを自分でも実行しようとする。映画に影響されて‥という所に多少の短絡さを覚えるが、そこはそれ。彼は常日頃から母親に抑圧されており、そのストレスが今回の凶行の原因になった‥とも取れるになっている。そういう意味では、主人公の狂気の原動は前作のハイター博士以上に深刻なものとなっている。また、あちらは映画の中のフィクションだったのに対して、こちらは本物のキチガイだったという所に恐ろしさも感じられた。
しかし、前作同様、今回も事件の社会的影響がほとんど描かれていない。あれだけマーティンが一般市民を拉致監禁しておきながら警察や周囲は誰も騒がないとは一体どういうことか‥?そこはリアリティを考えた場合、物足りない部分だった。
グロテスクな描写に関しては、前作以上に過激になっている。
マーティンは医者でもなければ科学者でもない。倫理的な問題はあるにせよ、前作のハイター博士には一応、理路整然とした思考があった。しかし、今回のマーティンにはそれすらもないのである。現実と映画の世界をごっちゃにした只の狂人である。
そんな彼が映画の中のハイター博士を真似て手術をしようとするのだから、当然かなり無茶苦茶になっていく。その一連の描写はかなりエグく撮られていて、かなりキツイものがあった。特に、膝の健を切断するシーンと、鋲打器を打ち込むシーンは見ていられなかった。また、前作では敢えて封印したであろうスカトロ描写も今回は画面に大写しとなる。グロテスクさを和らげようとしたのか、今回は全編モノクロ映像となっているが、それでもやはり見る人を選ぶ作品となっている。
ただ、一方で今回もクスリとさせるようなコメディ演出があり、そこについては楽しませてもらった。精神発達障害者であるマーティンは言葉を一切喋らず、感情の全てを行動でストレートに発する。それが時々子供のようなしぐさに見えるのだ。例えば、母に叱られて駄々をこねたり、排せつ物を見てはしゃいだりetc.容姿もまん丸の肥満体でどこか赤子を思わせる。この無垢なる存在には、前作のハイター博士とは一味違ったチャーミングさが感じられた。
そして、マーティンのこの幼児性が強調されれば強調されるほど、今回のドラマにはうっすらと母性の喪失というテーマが透けて見えてくる。これはマーティンと母親の関係にも見ることができるのだが、それ以上に今回拉致された被害者の一人、妊婦のキャラクターにこそ見ることが出来る。
彼女は終盤で”ある行動”に出る。これが筆舌に尽くしがたいほど凄惨で、尚且つ母性というものに対する冒涜として強烈に印象に残った。見ている最中ずっと、何かしら含みを持たせたキャラだな‥とは思っていたが、まさかこういう行動が待っていたとは‥。正直、今作で一番気分の悪くなるシーンだった。
この監督は前作から非人道的な見世物映像を通して、徹底して人間の非人間性を描いてきた。今回はそれを更に過激にヴァージョンアップしたという感じである。ここまでの物を見せつけられてしまうと圧倒されるほかない。
映画のラストは、やや曖昧な終わり方になっている。妄想か?現実か?どちらとも取れるようになっているので、そこは賛否分かれるかもしれない。あるいは、今作は全3部作の予定らしいので、次作を見れば今回のラストの意味が判明するのかもしれない。
いずれにせよここまで過激に突っ走ってきた今シリーズが、どういうクライマックスを迎えるのか?怖いもの見たさというのもあるが、俄然次作に興味が湧いてきた。