戦争の狂気を抉った作品。
「野火」(1959日)
ジャンル戦争
(あらすじ) フィリピン戦線のレイテ島。敗戦濃厚だった日本軍は食糧難に悩まされていた。田村一等兵は食糧にありつくために仮病を使って病院へ出入りしていた。しかし、とうとう門前払いを食らい路頭に迷ってしまう。外には田村と同じように病院から追い出された兵士たちがいた。その集団に一時身を寄せる田村。そこにアメリカ軍の空襲が始まる。どうにか小さな集落に逃げ延びた彼は、そこで現地人を射殺して僅かな塩を手に入れた。その後、田村は隊からはぐれた3人の兵士達と出会う。彼らは人肉を食って生き延びたと言うのだが‥。
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(レビュー) 戦争の狂気を描いたという意味では、かなりの衝撃作である。この手の事件は、以前紹介したドキュメンタリー映画
「ゆきゆきて、神軍」(1987日)でも語られていたが、極限状態に置かれた人間の飽くなき生への執着、死への恐怖が大きな見所となる。
今作には同名原作がある。そこで描かれているのは、原作者の戦争実体験が元になっているそうだ。戦争でこうしたカニバリズムが行われたというのはよく聞く話であるし、本当にあったのだと思う。映画を見終わった後にはズシリとした鑑賞感に襲われた。
尚、戦時中の出来事ではないが、アメリカにもカニバリズムを題材にした映画はある。実際に起きた雪山遭難事件を描いた「生きてこそ」(1993米)は割とメジャーな作品だろう。主演がイーサン・ホークだったとうこともあり、かなり話題にもなった。また、この事件を追いかけたドキュメンタリー映画「アンデスの聖餐」(1975ブラジル)という映画もある。
物語は、敗走する田村と周辺人物の絡みを織り交ぜながらサバイバルドラマのように展開されていく。正直、前半は余りにも淡々としているのでそれほど興味をそそられなかった。爆撃、現地人の銃殺、敵陣突破作戦等、いわゆる普通の戦争映画で、人肉事件という本題に中々入っていかない。一番知りたいのはそこであるし、映画のテーマもそれを描くことにある。しかし、前半は敗走する田村の姿をひたすら追いかけるドラマとなっていて、少しじれったく感じられた。
いよいよ後半からカニバリズムの話になっていく。ここからドラマは田村の葛藤を中心に描かれるようになって見応えが感じられた。
田村は戦場を敗走する途中で、空を眺め続ける痩せこけた老兵士に出会う。老兵士は鳥を「蝿だ‥」と言って自分の糞を食う。そして、自分が死んだら食っていいぞ‥と田村に腕を差し出す。戦争の‥と言うより飢えの狂気に呑み込まれてしまった憐れな老兵士の姿はショッキングだった。
その後、田村は前半に登場した永松と安田という兵士たちと再会する。この3人のやり取りは後半のドラマの大きなスパイスになっている。彼らは常に相手を出し抜いて自分だけ生き延びようと考えている。つまり、相手を”食って”でも生き延びようと虎視眈々と隙を狙っているのだ。そして、ラストでこの3人はとんでもない結末を迎えてしまう‥。
普通はこういったセンセーショナルな題材を映画にすると、どうしても見世物映画的な方向に走ってしまいがちである。怖いもの見たさを煽ってエンターテインメントに料理してしまい、結果、事件の真相に何も近づけない‥というようなことになってしまう。しかし、本作はこのラストが物語っているように、メッセージはあくまで「人間の尊厳」という所にある。これがただの見世物映画では終わらない、作り手側がこの題材に真摯に向き合っていることの証である。
監督は名匠・市川崑。事件そのものは非常に隠滅としているが、前半はブラック・ユーモアとシニカルなテイストがかなり主張されている。
例えば、田村は歩きすぎて靴がボロボロになると、死体から靴を奪って次々と履き替えていく。しかし、それもバカバカしくなってくると彼は靴を捨てて裸足で歩き始めるのだ。田村を演じた船越英二のとぼけた味わいもあるのだが、死屍累々と化した戦場を飄々と渡り歩いていく様は実にユーモラスだった。
生真面目な演出家ならば、悲惨一辺倒でゴリ押しするところを、市川監督はこのような独特のテイストで描いている。
キャストでは、やはり田村を演じた船越英二の演技が印象に残った。彼は終始、虚ろな目をしながらまるで夢遊病者のように戦場を徘徊する。決して感情を爆発させたり、狂気に苛まれたりせず、淡々とした演技で戦争を体験していくのだ。これが映画全体に独特のテイストを与えている。また、大幅に減量して役作りをした所にも見応えが感じられた。
後半のキーパーソンとなる永松を演じたミッキー・カーティスも面白い。演技が砕けすぎなきらいはあるが、彼独特の存在感がここでも良い方向に発揮されていて印象に残った。
S・スピルバーグ監督の劇場映画デビュー作。
「続・激突!/カージャック」(1974米)
ジャンルサスペンス・ジャンルアクション
(あらすじ) 前科歴のある主婦ルー・ジーンは、テキサス州の囚人更生施設にいる夫クロビスを訪ねる。赤ん坊が福祉局に取り上げられて里親に出されてしまったのだ。二人は赤ん坊を取り戻そうと施設を脱け出してパトカーをカージャックする。そして、赤ん坊がいるシュガーランドに向けて走り出す。
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(レビュー) S・スピルバーグ監督の初の劇場用作品。タイトルに「続・激突!」とついているが、今作はスピルバーグがTV用映画として作った「激突!」(1971米)とはまったく関係がない。これだと続編だと勘違いして見る人もいると思う。こういう邦題のつけ方はいかがなものだろうか‥。
ちなみに、「激突!」はスピルバーグが映画界に入るきっかけとなったカーアクション映画で、彼のスリラー演出が冴えわたった初期の傑作である。今もって新鮮に見れる作品で、様々な映画でパロディにもされている。
本作はそんなスピルバーグが満を持して臨んだ劇場用作品である。但し、全体の印象は「激突!」とは大分趣を異にする。「激突!」で披露したスリラー演出はほとんど見られず、どちらかというとユーモアを中心とした作りになっている。これは完全に脚本の狙いがそうなのだろう。ホラー的な作劇だった「激突!」に比べて、こちらは我が子を取り戻そうとする夫婦の絆を中心とした人間ドラマになっている。前半は笑えるシーンもあり、割と楽観的に見れるように作られている。
ただ、中盤から逃走する夫婦が徐々に窮地に追い込まれることでシリアス色が強められていく。ラストはアメリカン・ニューシネマ張りのペーソスで幕引きされ、映画の始まり方からは想像もつかないような終わり方になっている。
「激突!」ほどのインパクトはないが、こちらはドラマ的な面白さが追及されており、且つ様々なテイストが入った幕の内弁当的な面白さが感じられる作品になっている。
それにしても、この夫婦のやることは全てが”でたらめ”で、見ていて歯がゆくさせられた。まだ若いカップルなのだが、まともに赤ん坊を育てられるようには思えない。彼らを追跡するベテラン刑事タナーが彼らを指して「まだガキだ」と言うが、本当にそのとおりである。
例えば、警官を人質に取ってパトカーをカージャックするということからして、何とも行き当りばったりである。冒頭の施設の逃走劇にしてもそうだ。あそこでバレてしまったら、赤ん坊を取り戻す計画はそこで終わっていた。更に、見通しの良い大通りで呑気に飯を食うこと自体、全くもって危機感がない。実際、あの場面は警察に狙撃されてもおかしくなかった。
このように、この夫婦は行動も思考も全てにおいて幼稚である。だからこそ、この逃走劇は中盤までユーモラスに見れるのだが、しかしこの映画は実話を元にしているということだ。事実は小説より奇なり‥というが、実に奇妙な事件である。
同じ実話ベースの事件物としては、A・パチーノ主演、S・ルメット監督の「狼たちの午後」(1975米)を連想させられた。犯人が警察を翻弄しながらマスコミに祭り上げられていく様がよく似ている。「狼たちの午後」は、ある種社会の滑稽さを風刺したような所があるが、今作のカージャック事件にも同様のことが伺える。かなり脚色されている部分もあるのだろうが、夫婦が巻き起こす騒動に振り回される警察と世間の姿は傍から見ると実に滑稽である。おそらくスピルバーグもそこにアイロニーを込めたのだろう。
先述したようにスピルバーグの演出は、中盤まではユーモラスに料理されている。例えば、冒頭の逃走劇におけるルー・ジーンの機転を利かせたキス、ノロノロ運転の老夫婦、事件に巻き込まれるアル中オヤジ、簡易トイレのクダリ、ガス欠のクダリ等、見ていて思わずクスリとさせられた。とりわけ『チキン』と書かれた レストランの看板は秀逸なネタだった。
しかし、夫婦が旅の終点に近づくにつれて、スピルバーグの演出はシリアスなトーンに傾倒していく。
例えば、ルー・ジーンは警察、市民、マスコミから追い回されることで徐々に精神が不安定になっていく。そして、やっとの思いで旅の目的地に辿り着いた時、彼女は現実を受け入れられなくて錯乱してしまう。母性の狂気化、暴走化をスピルバーグは悲痛に切り取っている。
また、この逃走劇には夫婦以外にもう一人のメインキャスト、人質にされた新米警官も登場してくる。3人は一緒に旅をするうちに互いに情が芽生えていくのだが、このあたりの人間模様もペーソスを交えながら上手く作られていると思った。新米警官のバックストーリーがやや薄みという気がするが、三者の最後のやり取りには味わいがある。
音楽はJ・ウィリアムズ。スピルバーグ監督とのコンビは今作から出発している。オーケストレーションのイメージが強いJ・ウィリアムズだが、ここでは舞台がテキサスということもありカントリー・ミュージック系で統一されている。今となっては意外な感じがした。
撮影監督はV・ジグモンド。言わずと知れた、アメリカン・ニューシネマの潮流の中で活躍した名カメラマンである。ナチュラルな映像美が印象的で、特にラストショットは脳裏に焼き付いて離れない。夕焼けが反射する川辺に写るシルエットが、旅の終焉を哀しげに見せている。
ちなみに、彼が撮影監督を担当した作品で「さすらいのカウボーイ」(1971米)という映画ががある。これはP・フォンダ監督・主演で作られた幻のアメリカン・ニューシネマとして一部でカルト的な人気を誇っている。確かに自分もこれは彼の光と影の巧みな映像センスが突出した傑作だと思う。今作のラストにはそれに匹敵するような美しさが感じられた。
脱獄囚の実話の映画化。
「穴」(1960仏)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 青年ガスパールは殺人未遂の罪で刑務所に収監される。彼が入った部屋には4人の男たちがいた。3度の脱獄歴を持つロラン、目つきの鋭いマニュ、お調子者のボスラン、女好きなジョー。実は彼らは脱獄を計画していた。ガスパールはそれに加わることになるのだが‥。
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(レビュー) 刑務所からの脱獄をリアリズム溢れるタッチで描いた実話サスペンス。
非常にシンプルなドラマだが、監督・共同脚本のジャック・ベッケルの演出が奏功し、ガスパールを含めた5人の囚人の脱獄への執念には目が離せなかった。
元々、ベッケルという監督はフィルムノワールを得意とする作家である。その資質は今回も存分に出ていて、陰影を凝らしたシャープなモノクロ・タッチが上手く緊張感を生んでいる。彼の熟練した演出が味わえるという意味では後期の傑作と言っていいだろう。尚、本作は彼の遺作となる。
また、今回は小道具を使った演出も見事だった。例えば、”鏡”はラストのインパクトを見事に演出している。これには思わず見ている方としても「アッ!」と声が漏れてしまった。薬瓶を使った砂時計のアイディアも秀逸だった。刑務所という限られた空間で展開されるドラマだけに、こうした微細な演出が今回は冴え渡っていたように思う。
一方、5人の男たちが織りなす人間ドラマはやや希薄で食い足りなかった。今作は脱獄計画をドキュメタリータッチで追いかけていく作りになっていて、彼らの内面にまでは深く言及されていない。対立、融和といったドラマもなく、唯一、ジョーだけが一匹狼的な存在で目立っていた。夫々の設定は個性的に色分けされているのだが、アンサンブル・ドラマにまでは発展しない。5人の素顔が分かるようなシーンがもう少しあっても良かったように思った。
尚、今作で最も印象的だったのは、クライマックスのガスパールの葛藤と選択だった。これにはズシリとした重みが感じられた。今作のテーマは正にここに集約されていると言っても過言ではない。これが人間の卑しさか‥。見ていて、そう思わずにいられなかった。
全編通して非常に緊密に作られた完成度の高い作品だ思う。ベッケルの最高傑作と評する人が多いのも頷ける。自分も確かにそう思う。しかし、一つだけ演出的に大きな不満があって、そこいついては残念だった。それは壁を壊す時の音である。あれだけ大きな音を立ててるのに周囲に気付かれないというのはどう考えてもリアリティに欠く演出である。映画的なサスペンス効果を狙っているという理論は、この場合当てはまらないように思う。そもそも5人は穴を掘る時に小さな声でヒソヒソ話をしているからだ。この音の演出の”ちぐはぐさ”は大いなる疑問である。
今作は実話原作を元にした映画である。わざわざ冒頭で原作者自身が登場して、全ては事実を元にして作られています‥とまで語っている。また、実行犯の一人が実際にロラン役として映画にも出演しているということである。そこまでリアリズムにこだわった作品なのに、何故音の演出を疎かにしたのか‥。そこは勿体ないと思った。
実際の事件を豪華キャストで描いたクライム・コメディ。
「アメリカン・ハッスル」(2013米)
ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) アーヴィンとシドニーは高利貸し業でのし上がってきた詐欺コンビである。アーヴィンには家族がいたが、2人は愛人関係にあった。ある日、FBIの捜査が入り2人は逮捕されてしまう。FBI捜査官リッチーは政治と金のスキャダルを暴いて出世を目論む野心家だった。そこでアーヴィンたちの天才的な詐欺の手口を利用して大物政治家を逮捕しようと企む。3人は架空の石油王をでっち上げて、アトランティックシティのカーマイン市長に近づき賄賂を渡そうとするのだが‥。
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(レビュー) 1979年に起こった政治スキャンダル事件を、豪華キャストで描いたクライム・コメディ。
自分は事件その物を全く知らなかったが、別に知っていなくても内容的には十分楽しめた。個性的なキャスト、最後まで予断を許さないストーリー、軽快な展開。エンタテインメントとして実に上手く作られている。
物語はアーヴィンとシドニーの出会いから始まる。彼らは夫々に貧しい出自で、貧困から脱するためにコンビを組んで詐欺稼業を始める。そこにFBI捜査官リッチーが絡んできて物語は展開される。二人は彼の計画に付き合わされることになるのだ。
その計画とは、市民から絶大な人気を誇るカーマイン市長に近づいて賄賂を渡す‥というものである。その現場を抑えればリッチーの手柄になる。つまりアーヴィンたちは彼の出世の手伝いをさせられることになるのだ。しかし、ことは思うように運ばない。善良なカーマインはそれを受け取らなかった。これによってアーヴィンたちは、あれよあれよという間にとんでもない事態に巻き込まれてしまう‥。
大変不謹慎な言い方かもしれないが、この映画を見ると政治家もFBIも詐欺師も全員、同じ穴の貉のように思えてしまう。彼らは皆、口では上手いことを言っても、結局自分のことしか考えていない。やはりこの世は弱者と善人だけが損をするの世の中なのか‥。そんな浮世の習いが思い知らされる。
逆に言うと、私利私欲しか考えない悪人たちの駆け引きは、それだけで面白いとも言える。何故なら、騙し騙される所に人間の本質が見えてくるからだ。この映画はそんな人間の欲望をコメディのオブラートに包みこみながら皮肉的に見せている。
このように、どいつもこいつも自分のことしか考えていないワルばかりだが、唯一、善人の部類に入れてもいいと思うキャラがいた。それはアトランティックシティのカーマイン市長である。確かに彼はマフィアとの繋がりがあった。しかし、やり方に問題はあったかもしれないが、カジノを建設して市の発展を純粋に願っていた政治家だったように思う。純粋すぎるがゆえにアーヴィンたちに騙された‥とも言える。彼に関しては、映画を見終わって少し同情してしまった。
それに、物語の舞台となるアトランティックシティという街を考えると、カーマインがマフィアの”お伺い”になってしまったのにも仕方がない面があるように思う。以前、L・マル監督の「アトランティック・シティ」(1980仏カナダ)という映画を見たことがある。これはタイトルが示す通りアトランティックシティを舞台にした犯罪映画である。そこに登場するのは、やはり金と権力に取りつかれたワルばかりだった。街の実態は完全にマフィアによって支配されていたのである。したがって、今作のカーマインが裏でマフィアと蜜月な関係にあったのは、市政を行う上では必然だったのだと思う。
尚、今作に原作は無い。おそらく実際の事件をリサーチした上で映画的な脚色を色々としたのだろう。全体的にはコメディなので割と明るく作られている。ただ、事実は酷くシリアスだったのではないだろうか。ラストも綺麗にまとめているが、実際にはこれほど丸く収まるとは思えない。娯楽映画としては実によく出来ているが、実際の事件はどうだったのか?少し興味が湧いた。
監督・共同脚本はデヴィッド・O・ラッセル。ラッセルの演出は前作
「世界にひとつのプレイブック」(2012米)よりも更にアップテンポになっている。前々作
「ザ・ファイター」(2010米)あたりから作品スタイルは変わったように思うが、得意のオフビートな”間”は今回はほぼ封印されている。当時のヒットナンバーをBGMに、ほぼ全編に渡り流麗な場面展開が続き、この軽快さに新境地を感じた。
シナリオも中々よく出来てると思った。若干もたつく個所もあったが、演出が比較的軽快にまとめられているので余り苦にならない。
特に、クライマックスの怒涛の展開は白眉の出来栄えである。見ている最中、色々と疑問に思う箇所があったのだが、こういうオチならその疑問も綺麗に払拭された。
キャスト陣も豪華である。アーヴィンを演じたC・ベールは体重を増やしての出演である。映画のオープニングでいきなり彼のデップリとしたお腹がアップに写って驚いた。彼は「マシニスト」(2004スペイン米)と「ザ・ファイター」でガリガリに痩せたが、今回は逆に丸々と太った。もはや肉体改造ならお手の物といった感じであるが、現在は次回作に向けて再び体を引き締めているらしい。体には決して良くないのでそろそろ心配になってしまうのだが‥。
シドニー役を演じたA・アダムスも、胸が大きく開いたドレスを着て大胆な演技を披露している。これまでは大人し目の役が多かったが、今作で一皮剥けたという感じがした。
そして、アーヴィンの妻ロザリンを演じたJ・ローレンス、彼女の強烈な演技はかなり印象に残った。市長に招かれたディナー、愛人シドニーとの対決、マフィアの幹部を手なずけるバーのシーン。正にやりたい放題、暴走機関車、恐れを知らぬ女性とはこの事である。
この映画は詐欺の駆け引きの一方で恋の駆け引きも描かれている。その中心となるのが彼女である。出番は他の主要キャストに比べると少ないが、一つ一つのシーンで彼女の存在感は圧倒的だった。
他に、カメオ出演としてR・デ・ニーロが登場してくる。わずか1シーンながら中々の存在感を見せつけている。
孤独な鑑定士とミステリアスな女性の愛をスリリングに描いた作品。
「鑑定士と顔のない依頼人」(2013伊)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ヴァージルは一流の美術鑑定士で世界的なオークショニアである。実は、彼は裏でビリーという男と組んで、高価な女性の肖像画を落札して自分のコレクションにしていた。ある日、彼の事務所にクレアという女性から鑑定依頼が来る。早速、彼女の屋敷へ行くが下男しかいなかった。聞けばクレアは留守中らしい。顔を見せない依頼人に腹を立て一度は鑑定を断ったが、再び彼女に懇願されヴァージルは仕方なく仕事を引き受けることにした。その後、鑑定で屋敷を何度か訪ねるうちに彼は隠し部屋の存在に気付く。実はクレアはずっとそこからヴァージルを監視していたのだ。彼女は幼少時代のトラウマから外に出れなくなっていた。ヴァージルはそんな彼女に次第に惹かれていくようになる。
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(レビュー) 孤独な中年鑑定士とミステリアスな女性の愛をスリリングに綴ったサスペンス作品。
全体的に緊密に作られており、画面に登場する数々の名画を含め丁寧に構成されている。人物の心情を繊細に捉えた所も真に迫っていて中々の見応えを感じる作品だった。
また、ここで描かれているドラマは実に悲劇的なものであるが、同時に愛の残酷さ、虚ろさといったものも見事に捉えていると思う。感傷に堕さず現実をしっかり見据えた所は見事と言えよう。テーマも力強く発せられている。
監督・脚本はG・トルナトーレ。彼はメロドラマを主とした抒情性の高い作品を撮ることが多い。だが、彼が他の作家たちと一味違うのはそこに必ずサスペンスの要素を持ち込んでくることだ。
「海の家のピアニスト」(1999米伊)しかり、「題名のない子守唄」(2006伊)しかり。幻視的な愛をミステリアスに紐解きながら人間の哀しく切ない心情を丁寧に筆致する。
今作の主人公ヴァージルは、他人との関わり合いを極端に嫌う偏屈な中年男である。無機的な邸宅に一人で住みながら、仕事以外ではほとんど誰とも接触しない。そして、今まで収集した絵画を飾った秘密の部屋で、一人酒を燻らすのを唯一の楽しみとしている。傍から見れば、なんと退屈な男だろう‥。そんな風に思えてしまう。
しかし、ヴァージルはミステリアスなクレアに出会ったことで愛を欲するようになる。クレアも幼い頃のトラウマから部屋に閉じこもって生きるようになった女性で、ある意味では他人に壁を作って生きるヴァージルとよく似ている。そんな2人が壁越しに会話し、電話を通して互いの心を探りあっていく姿には、孤独な者同士でしか分かり合えない切愛がしみじみと感じられた。
しかし、愛というのものは一旦火がついてしまうと、留まることを知らないもので、ヴァージルは声だけでは我慢できずクレアの姿を一目見たいと思って一計を案じる。ここからドラマは急転していく‥。
結局の所 、ヴァージルは美術品の真贋を見極める眼力は持っていても、人間の愛までは見極められなかった‥ということなのだろう。この結末はひどく残酷であるが、しかしそこはトルナトーレ監督らしい味付けが施されている。かすかな哀愁が添えられていて切なくさせられた。
正直なところ、今回の事件の裏事情については、自分は映画開始早々に想像がついてしまった。クライマックスに結びつく伏線が幾つか張られているが、これだけ揃っていればある程度は察しがついてしまう。例えば、途中から登場する黒人女性の行動などは、どう見ても不自然過ぎて、明らかに誰かの指図で動いているとしか思えない。その誰かも容易に想像がついてしまった。
唯一、暗記の達人の女性が度々画面に登場してくるが、彼女の見顕しについては想定外だった。まんまと一杯食わされたという感じである。
また、シナリオ上、中盤にマンネリズムを感じてしまうのも勿体なかった。機械人形のクダリがシークエンス的に単調なのでもう少し工夫が欲しい。
とはいえ、こうしたサスペンス的なつまらなさは置いておくとして、先述したように今作で主となるのは、あくまでメロドラマの方である。サスペンスはサイドメニュー的な扱いと考え、ヴァージルとクレアのスリリングなロマンス。そこについては十分の見応えが感じられた。
キャストでは、ヴァージルを演じたJ・ラッシュの演技が印象に残った。冷淡な面構えを貫きながら、クレアに翻弄される愚かさを痛々しく体現している。こう言っては何だが、彼はどちらかと言うと悪役の面構えである。決して美形ではない所にリアリティが付帯する。憐れな中年男の落ちぶれていく様を、やや大仰ではあるが上手く演じていると思った。常に手袋をつけているビジュアル的な工夫も良い。
尚、E・モリコーネの音楽は今回も素晴らしかった。ラストの幕引きの感動に彼のスコアが大いに寄与していたことは間違いない。
グザヴィエ・ドランの処女作は自伝的作品。母子の対立が赤裸々に描かれている。
「マイ・マザー」(2008カナダ)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) 16歳の高校生ユベールは母のことを嫌っていた。父とは別居中で、家の中では常に険悪なムードが流れている。ある日、ユベールは母に一人暮らしを始めたいと申し出た。しかし、母はそれを許さず、ユベールは益々憤る。そして、同級生のアントナンの部屋に転がり込んだ。実は、二人は同性愛の関係にあった。そのことがアントナンの母親からばれてしまい‥。
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(レビュー) 思春期の少年と母の葛藤をスタイリッシュな映像とリアリズム溢れるタッチで描いた青春映画。
「わたしはロランス」(2012仏カナダ)で世界的に注目されたグザヴェイエ・ドラン監督の長編デビュー作である。「わたしはロランス」がミニシアター系で話題になったこともあり、日本では旧作品が一挙に劇場公開されることになった。尚、監督第2作「胸騒ぎの恋人」(2010カナダ)も遅ればせながら公開中である。
現在、世界中から熱い注目を受ける若き俊英ドランであるが、今作が製作された当時はまだ19歳だったというから驚きである。しかも、本人が製作・脚本・主演まで務めている。早熟の天才とはどの世界にもいるものだが、ドランは正に今の映画界における"若き天才”の内の一人と言っていいだろう。
今回の映画には私的な部分が相当入っていると言う。実際に彼は母親に対してこうした鬱積した感情を持っていたのだろう。その感情を感傷に溺れることなく公正に描いた所に末恐ろしさを感じる。
しかも、テーマが実に普遍的である。この年頃の男子にとって、母親という存在は大変疎ましいものである。現に自分もユベールと似たような感情を母親に対して抱いたことがあった。さすがにここで描かれているほどの憎しみは無かったが、おそらく誰もが一度は通る道ではないだろうか。それをドランは赤裸々に表現して見せている。
ただ、ユベールと母親は何故ここまで”こじれた”関係になってしまったのか?そこは映画を見てもはっきりとしない。彼らが今日に至る経緯が描かれていないので、そこは想像するほかない。考えられるヒントとしては、父親が別居中ということだろうか‥。
劇中の母やユベールの話によれば、父は子育てに向かない父親だったらしい。おそらく仕事ばかりで家庭のことを蔑にしてきた、そんな父親だったのだろう。そのせいで母は人一倍ユベールに愛情を注いだ。現に、ユベールの幼少時代を写した記録映像が出てくるが、それを見ると昔の二人はとても仲の良い母子だったことが分かる。
しかし、時が経てば人は成長する。ユベールはいつまでも無垢なユベールではない。成長するにつれて自立心が芽生え、母親とはいえ彼女を一人の人間として見るようになる。そして、自分が今まで気づかなかったような欠点が見えてきて、過去の愛情は次第に幻滅へと変わっていった‥。そんな風に想像できる。
人間である以上、誰でも欠点はある。しかし、他人だったら見て見ぬふりが出来ても、一緒に暮らす家族同士では中々そうはいかない。逆に言えば、そこを受け入れることが出来るのが家族である‥と言い方も出来るのだが、ユベールにはそれが出来なかったのである。
もはやここまでくるとこの関係は修復不可能のように思えた。長い時間を過ごしてきたからこそ、その溝を埋めるのは容易ではない。
ラストは見ていて実に辛いものがあった。少々煮え切らない終わり方であったが、これが製作当時の監督の正直な心情だと思うと切なくさせられた。
正直な所、厳しく見てしまうと、さすがにデビュー作と言うこともあり、まだまだ作りに粗い面がある。ただ、ドランのセンスはシンメトリックな映像構図、色彩設計などに鮮やかに出ており、10代が作った作品とは思えぬ完成度である。
リュック・ベッソン、ジャン=ジャック・べネックス、レオス・カラックス。かつて80年代のフランスではヌーヴェルヴァーグの再来とも、”恐るべき子供たち”とも称された若き天才作家たちがいた。しかし、一番若いカラックスでさえデビュー作は23歳である。そのことを考えてみても、グザヴィエ・ドランの19歳という年齢は実に驚きである。
また、監督自身の演技も中々真に迫っていた。今の自分を等身大に演じたという感じで、母に対する愛憎が痛々しく体現されていて強く印象に残った。
シュールなドラマは賛否が分かれそう。
「オンリー・ゴッド」(2013仏デンマーク)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) タイのバンコク。ムエタイのジムを経営するジュリアンは、裏では兄と麻薬密輸業をしていた。ある日、兄が少女を強姦して殺害する。警官隊と謎の男チャンがやって来て兄は捕まった。そこに被害者の父親が呼び出される。そして、チャンに促されるようにして父親は兄を殺した。兄の死亡を聞きつけた母・ジュナがアメリカからやってきた。彼女はジュリアンに兄の復讐を命じるが、彼は実行することが出来なかった。そこで彼女は地元マフィアを使ってチャンを暗殺しようと考える。
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(レビュー) 復讐に復讐を重ねる人間の業をダーク且つシュールに綴った寓話。
監督・脚本はニコラス・ウィンディング・レフン、主演はライアン・ゴズリング。この二人は前作
「ドライヴ」(2011米)でコンビを組み、映画ファンの間でかなりの評判になった。スタイリッシュな映像、過激なバイオレンス、そしてゴズリングのニヒルな佇まいが大変魅力的な作品だった。おそらく前作を見た人の多くは今回の新作を大いに期待したに違いない。しかし、内容的に色々な意味でぶっ飛んでいて、果たしてどれだけの人が納得できるか‥。スタイリッシュな映像やニヒルなムードなどは前作に共通するが、設定が判然としなかったり、見た人に解釈を委ねるような所がある。とにかく、実にユニークな作品となっている。
ただ、確かに色々と解釈に困る部分もあるのだが、見終わった後には何となく一つのテーマは読み解けた。映画の邦題は「オンリー・ゴッド」。原題は「ONLY GOD FORGIVES」である。翻訳すると”神のみが赦す”といった意味になる。つまり、ここで言う神とは誰なのか?そこが分かればこの難解なドラマからもテーマは導き出せよう。要するに、これは罪業を重ねる人間に神の裁きが下る‥というドラマなのだと思う。
被害者の父親が仇に復讐を果たし、復讐された側は再び報復をするという堂々巡り。その中でどんどん人間性を失っていく主人公たち。最後にジュリアンはそれを止めるために”ある行動”に出る。つまり、本作における「GOD」とは主人公のジュリアンのことを指しているものと思われる。
ただ、こうした解釈は出来ても、やはり見終わった後に今一つ呑み込めない感情も湧いてくる。そもそも神である所のジュリアンの存在が実にユニークなため素直にラストの”行動”に感情移入できないのだ。普通は神を描こうとしたら、こうしたキャラクターにはしないだろう。どうしてこのように造形したのか?そこに引っ掛かりを覚えた。
もっと言えば、そもそもカラオケ好きな神様っている?ということである。これはレフン監督のユーモアなのだろう。確かに斬新ではある。しかし、何ともぶっ飛んでいてついていけないというのが正直な感想だった。これでは何だか新興宗教の教祖みたいではないか‥。はっきり言って苦笑ものである。
一方、こうした判然としないストーリーはともかくとして、映像からはレフン監督の独特の美学がビシビシと伝わってきた。
今回、特に目立つのは端正な画面設計である。キューブリック、あるいはD・リンチのような様式美が追及されており、色彩もダークな色調が極められている。とりわけ血の色を連想させる”赤”は今作のイメージカラーと言わんばかりに象徴的に登場してくる。全編に渡ってコントロールされ尽くされた映像は、見ているだけでため息が出てしまうほどの完成度だった。
また、ゴズリング演じるジュリアンを含め、チャンや娼婦など、一部のキャラクターは完全に無表情を貫いている。そこが無機的且つ冷淡なC・ドライヤーのタッチを連想させた。これによって、作品の世界観が一種異様なムードに染められ、まるでこの殺伐とした世界の中で彼らは感情を殺すよりほかなかったのか‥と悲しい気持ちにもさせる。
一方で、暴力場面は前作を超える凄惨さ、過激さで、こちらも中々見応えがあった。ただ、衝撃度という点では前作ほどのインパクトは感じなかった。というのも、今回は全編に渡ってバイオレンスのオンパレードなので、やっていることは過激な割にショッキングに写らない。抑揚がないのである。もっとも、ラスト直前のジュリアンの行動には驚かされたが‥。「スクールデイズ」というアニメがあったが、あれを連想した。
主演を張ったR・ゴズリングは今回も基本的には「ドライヴ」の主人公に通じるような役作りをしている。しかし、ここまで能面を貫かれるともはや演技云々での評価はしずらい。どことなく暴力の匂いを漂わせた「ドライヴ」に比べると、随分と平坦な演技に感じたが、これもレフン監督の演出意図なのかもしれない。逆に敵役となるチャンのインパクトが凄まじく、今回は完全に食われてしまった印象もある。
尚、神様が最後にカラオケで歌った曲がモトリー・クルーの「Home Sweet Home」のように思えたのだが気のせいだろうか?現地のタイ語なのでカバー曲かもしれない。この曲の歌詞が分かるとラストの意味も何となく計り知れる。「Home Sweet Home」はツアーに疲れたバンドが早く家に帰って休みたい‥という内容の歌詞である。
夫婦の絆の崩壊を残酷に描いて見せた衝撃作。
「ブルーバレンタイン」(2010米)
ジャンルロマンス
(あらすじ) ディーンとシンディは結婚して一児を設け幸せな暮らしを送るはずだった。ところが、現実にはディーンは仕事を辞めて酒浸り。シンディは看護師の仕事をしながら幼子フランキーを一人で育てている。ある朝、フランキーが可愛がっていた飼い犬が自動車事故で死んでしまう。夫婦はフランキーに本当のことを言えず、互いに罵り合う。後日、ディーンはシンディの機嫌を取ろうと、久しぶりに夫婦水入らずのデートに誘うのだが‥。
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(レビュー) 一組のカップルの出会いと別れを交互に綴った恋愛ドラマ。
普通、物語は起承転結に沿って描かれるものであるが、この映画にはその構成が当てはまらない。ディーンとシンディの険悪な関係が続く現在のドラマ。そして、その合間に過去の馴れ初めのドラマが挟まる。つまり、二人が結婚した直後のドラマが描かれていないのだ。楽しかったであろう新婚生活や、フランキーの誕生、幸せの絶頂から現在のような生活に転げ落ちて行く経緯などは一切描かれていない。そのあたりのことは全て、観客の想像に委ねられている。本作は、起承転結で言えば”承”と”転”が無いのである。
こういった作りの映画は大変珍しい。過去に
「(500)日のサマー」(2009米)という映画があった。あれも一組のカップルの出会いと破局を交錯しながら描いていた。二人がどうして別れることになったのか?その理由が”必然”として見る側に突きつけてくる面白い映画だった。
今作もこうした変則的な構成が大変よく似ている。ただ、決定的に違うのは、今作には何故別れなければならなかったのか?その過程が描かれていないので、破局の理由も「(500)日のサマー」ほど明確ではない。結果、見終わった後にもやもやとした感情が残る。
しかし、だからと言って今作が失敗作だと言うわけではない。二人が別れる決定的な原因をぼかしたことで、かえってミステリアスな映画になった。現在の二人の葛藤のみに焦点を絞りながら破局の原因を観客にそれとなく想像させるように、実に周到に作られているのだ。
それに現実問題として離婚は様々な問題がからみ合って起こるものである。浮気、仕事のストレス、育児、生活環境等、単純に原因が割り切れるものではない。一体、夫婦の間でどんなことが起こり、どうして心が離れてしまったのか?それを追求していく作業は、この作品を見る際の一つの醍醐味のように思う。
自分はこの映画を観ていて、おそらく原因の発端はここにあったのではないかと感じた。実に身も蓋もない言い方になってしまうが、ディーンの甲斐性の無さ。これに尽きる。
彼は朝から酒を飲んで仕事もせずダラダラとした生活を送っている。これではシンディも溜まったものではない。当然心だって離れてしまう。
例えば、シンディがスーパーで元カレと再会するシーンがある。彼女は言葉にこそ出さなかったが、この時不倫の予感に浸ったに違いない。実際、この再会の直後、不機嫌だった彼女の表情は少しばかり緩んでいる。一方のディーンも流石にバカではない。何かあったに違いない‥と感付いてネチネチと嫉妬し始める。こうして二人はいつもの険悪なムードに陥ってしまう。
このカップルは万事この調子で、それまで良好だった雰囲気が、些細なきっかけで急に喧嘩になってしまうのだ。しこたま酒を飲んでベッドインしたかと思えば急に背を向けてしまったりする。もはや酒の力ですら互いの気持ちを誤魔化すことが出来なくなってしまっているのだ。
ここまで来たら、夫婦関係は修復不可能である。今作は二人の出会いと別れしか描かれていない。ディーンの甲斐性の無さがそもそもの発端だと思うが、ここまで関係がこじれてしまったのは、おそらくこうした些細な衝突の積み重ねが原因となっているのであろう。修復すべきポイントが一つに絞り切れない所は現実問題と一緒で、そこにドラマのリアリティが感じられる。
出会いがあれば別れがある‥とよく言うが、今作ほどこの言葉が痛切に響いてい来る映画はない。なぜなら、ただひたすら一方的に終焉に向かっていく必然的な残酷さがこの作品の中にあるからだ。
監督・共同脚本は今作が長編劇映画デビュー作となる新人デレク・シアンフランスである。それまでドキュメンタリーを中心に撮ってきた作家だそうだが、演出スタイルもやはりドキュメンタリータッチが貫かれている。ただ、美術や照明、陰影、色彩などは人工的で、ただ生々しいだけのドキュメンタリータッチでない所が面白い。例えば、ホテルの室内はブルーのトーンで統一されており、どこか幻想的で冷淡な印象を与える。そうかと思うと、シンディが妊娠を告白するシーンなどは、澄んだロケーションの中に幸せの在り様を暖色トーンで切り取っている。こうした各所の映像トーンに彼の美的センスが感じられた。
キャストではディーンを演じたR・ゴズリングの好演が印象に残った。現在と過去の造形の差は、一人の俳優が演じたとは思えぬほどの役作りである。
「ラースと、その彼女」(2007米)と
「ドライヴ」(2011米)の間に挟まる今作は、丁度役柄的にも二つの中間みたいな感じになっている。少し野卑で、少し情けない。この微妙な佇まいが大変魅力的だった。
シンディ役のM・ウィリアムズも好演している。こうした幸薄い役どころは「ブローバック・マウンテン」(2005米)でもハマっていたが、やはり今回も悲劇色を前面に出した役作りとなっている。
尚、本作はエンディングも良かった。劇中で流れた音楽が再びここで使用されるのだが、ドラマの肝とされる”あるシーン”が反芻され切なくさせられた。構成の妙としか言いようが無く、エンディングで一層切なくさせられた映画は初めてだった。
かなり痛々しいドラマだが見応えがある。
「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」(2008米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1950年代、閑静な住宅街、レボリューショナリー・ロードにフランクとエイプリル夫婦は住んでいた。彼らは二人の幼子と理想的な家庭を築いていた。しかし、それは表から見た姿に過ぎない。本当はフランクもエイプリルも夫々の心は満たされないでいた。そこで2人は心機一転、パリに移住することを決意するのだが‥。
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(レビュー) 中産階級の夫婦に起こる問題をシビアに捉えた人間ドラマ。
フランクとエイプリルは結婚して7,8年目くらいだろう。傍から見れば幸せな夫婦に見えるが、本当は夫々に今の人生に満足していない。フランクは父親が勤めていた会社に就職し、我慢して退屈な仕事をしている。エイプリルは女優志望の夢を諦めて家庭に収まった。二人とも過去を振り返り、こんはんずじゃなかった‥と後悔しているのである。
ある時、エイプリルはフランクにパリに移住することを提案する。ただ漠然と彼女は今の暮らしから離れたくてパリ移住を提案するのだ。当然、フランクも最初は戸惑う。しかし、彼女の言葉に諭されてパリ行きを決心する。
アメリカでは50年代から60年代にかけて郊外人口が爆発的に増えた歴史がある。交通網や産業化が進んだことによって労働者の多くは都市に住まなくても郊外に住みながら通勤できるようになった。今作のフランクも毎朝通勤電車に揺られながら都市部の会社に出勤している。こうした郊外に住む人々描いた映画は俗にサバービア・ムービーと呼ばれている。今作も正にサバービア・ムービーの定型と言っていいだろう。
郊外に住む人々は、地価が高い都市部に住むほど裕福ではないが、ある程度の知識と社会的地位を持った中産階級者がほとんである。そして、保守的な思考の持ち主も多い。本作に登場するフランク達の隣に住む夫婦、不動産を経営している中年夫婦などは典型的な例である。彼らは皆、夫は外で働き妻は家庭を守るという古い慣習を当然のように受け止めている。
一方、エイプリルはかつては女優を目指しただけあって、自立心が強い進歩的な女性である。彼女にはここでの旧態然とした暮らしが退屈に思えてならなかった。そして、一刻も早く抜け出したい‥という考えから、”花の都・パリ”行きを考えたのである。
このような社会的背景を考えてみると、エイプリルの気まぐれとしか言いようがないパリ移住計画にも、なるほどと思えてくるような一面が出てくる。つまり、これは主婦という枠に押し込まれた一人の女性の反動のドラマなのである。
そして、このエイプリルの反動は時代の証憑として捉えることも可能である。
女性解放運動は20世紀に入って大きなうねりとなって世界中を駆け巡ったが、アメリカでは50年代に入ってくると既婚女性の社会進出が積極的に促進されていくようになった。今作の時代背景も丁度50年代である。主婦であるエイプリルの反動は時代の流れとも合致する。今作の時代設定を敢えて50年代にしたことは実に興味深いことである。
監督はサム・メンデス。偶然にも彼の監督デビュー作にしてオスカー受賞作「アメリカン・ビューティー」(1999米)もサバービア・ムービーだった。アメリカの典型的な中産階級の裏側を暴いて見せたことで世間に大きな衝撃を与えたが、基本的に今回もその時と同じ家族崩壊ドラマとなっている。互いのエゴを激しくぶつけ合いながら対立していくフランクとエイプリルの姿は見ていて実に痛々しいが、同時に強く引き込まれる物もあった。それはメンデスの生々しい演出のおかげであろう。
例えば、冒頭の車中での口論、堕胎器具を巡る後半の喧嘩等、演者の表情に肉薄するドキュメンタル・タッチには目を逸らすことを許さないほどの力強さが感じられた。メンデスは元々、イギリスの舞台演出家だけあり、こうした息詰まるようなダイアローグは流石に手練れているといった感じがある。実に生々しく切り取られている。
その一方で、クライマックスでは少し斬新な映像演出も見られる。ネタバレを避けるために詳しくは書かないが、エイプリルの身にあることが起こり、これにも目が離せなかった。明暗のコントラストを効かせながら刺激的な赤色を配色して鮮烈なシーンを作り上げている。
尚、撮影監督のR・ディーキンスはサム・メンデスとのコンビが多く、先頃観た
「007 スカイフォール」(2012米)でも見事なカメラワークを見せいていた。彼の他の作品を見てみると、明暗のコントラスを巧みに操ることで、シーンのトーンを官能、冷淡と器用に使い分けている。今回もその変幻自在なトーンの操り方には感心させられた。
キャストでは、フランク役のL・ディカプリオ、エイプリル役のK・ウィンスレット、共に好演していると思った。
特に、K・ウィンスレットの懐の深い演技は見事である。クライマックス直前、朝食のシーンにおける彼女の微妙な表情が印象深い。注意して見ていれば、その表情から明らかに不穏な感情が感じ取れる。
脇役では、不動産屋の息子ジョンを演じたマイケル・シャノンが中々の好演を見せていた。彼は精神分裂症気味な青年役でドラマを大いに掻き回している。やや作りすぎな感じは受けたが、造形からして物凄いインパクトなので印象に残った。そう言えば、先日見た
「マン・オブ・スティール」(2013米)では悪役ゾッド将軍を演じていたが、これもかなり濃い味系のキャラ作りだった。ひょっとしたら今後、彼は個性派俳優として頭角を現してくるかもしれない。
B・ワイルダーの傑作「情婦」を思わせる法廷劇。女は怖くて悲しい生き物である‥。
「妻は告白する」(1961日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 大学助教授・滝川の妻・彩子が夫を殺害した容疑で起訴される。殺害当時、彼女は滝川の研究成果を買っていた薬品会社の社員・幸田と不倫関係にあった。検察は保険金目当ての殺人として彩子を追求する。幸田は証言台に立って彼女を擁護するのだが、そこから意外な真実が明らかにされていく‥。
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(レビュー) 夫を殺害した妻の愛憎をシリアスに綴ったサスペンス作品。
監督は増村保造、主演は若尾文子。このコンビは以前に、
「「女の小箱」より 夫が見た」(1964日)を紹介したことがある。その時にも思ったことなのだが、増村作品における若尾は他の作品よりも艶っぽく感じられるから不思議である。これは増村保造にしか出せないカラーなのだと思う。彼は他に若尾を主演に立てて「卍(まんじ)」(1964日)という作品も撮っている。その時の彼女もすこぶるエロティックだった。二人は数多くの作品を残しているが、それらを見るとまさに名コンビだったことがよく分かる。
今回、若尾が演じる・彩子は、悪女的な立ち振る舞いを見せるワケあり未亡人である。夫を殺害した容疑で裁判にかけられるが、検察の追及を巧みにかわしながら無罪を主張する。その姿は凛とした美しさに溢れている。しかし、その裏側には魔性の顔を秘めている。
このギャップは大変魅力的だった。女とは二面性を持った生き物である‥ということを、したたかに演じた若尾文子の好演を評価したい。
特に終盤、雨でずぶ濡れになった彩子が、幸田が勤める会社を訪れるシーンには息をのんだ。普段はきっちりと和服を着こなしている彼女が、ここだけは服装も髪も乱れて登場する。それが妙に艶めかしかった。こんな彩子を初めて見た‥という思いから、ドキリとさせられてしまった。
こうして見ると、彩子は夫を殺した悪女と思われるかもしれないが、しかし自分は彼女が決して生来の悪女だったわけではないように思う。確かに事件の結果だけを考えれば糾弾されても仕方がない。しかし、公判の中で明らかにされる事件に至る経過を知れば、一方で同情も湧いてしまう。
彩子は貧しい出自で、夫の滝川はその弱みに付け込んで強引に関係を迫って結婚をした。元々、彩子の方に愛は無く、この結婚はすぐに冷め切ってしまう。次第に滝川は彩子に冷たい仕打ちを浴びせるようになる。そして、今回の事件が起こった。元を辿れば、これは滝川が自分で招いた結果とも言える。
更に、事件当時の状況を考えてみると、この殺人は仕方がない面があると言わざるを得ない。何せ事件の発端は登山中の事故であり、あの状態では救出は無理だった。
こうした過去の経緯、事件当時の状況を考えてみると、自分は彩子が何だか不憫に思えてしまった。
この映画の面白い所は正にここで、彩子に対する見方が前半と後半でガラリと変わってしまうことである。最初は恐ろしい夫殺しの殺人犯だったのが、最後には愛に見放された憐れな女に見えてくる。180度見方を変えてしまう作劇、若尾文子の演技プランの妙であろう。
‥と同時に、彩子が辿る顛末を見ていると、人間の業の深さも思い知らされてしまう。
彼女は夫の保険金が下りるとすぐに高級マンションに引っ越した。普通、こんなことをしたら誰だって怪しまれると考えるものである。しかし、彼女はそうした冷静な判断が出来なかった。富と愛に飢えていた彼女は、過去の貧しかった自分を一刻も早く捨て去りたかったのである。人間の弱さが垣間見える。
増村監督の演出は非常に堅実にまとめられている。他の作品に比べると際立ったショットはそれほどないが、登山シーンのロケーションの迫力等、力強さが感じられた。
特に、3人の男女が1本のロープで繋がれる登山シーンは、男女の愛憎を極めてスリリングに象徴したシチュエーションとして脳裏に焼き付いた。3人の個々の表情に肉薄した演出が秀逸である。