ディズニーアニメ史上最高のメガヒット。映像と歌曲の素晴らしさを堪能。
「アナと雪の女王」(2013米)
ジャンルアニメーション・ジャンルファンタジー・ジャンルロマンス
(あらすじ) アレンデール国王の娘エルサとアナは大の仲良しだった。ところが、エルサには触れたものを何でも凍らせるという特殊な能力があり、それによってアナは負傷してしまう。山奥に住むドワーフの力によってどうにか一命をとりとめたが、それがトラウマとなりエルサは部屋に閉じこもる生活を送るようになってしまった。その後、更なる不幸が姉妹を襲う。国王と女王が海難事故で亡くなってしまったのだ。それから数年後、二十歳になったエルサは新女王としての載冠式に出席する。喪に服していた城門が開かれ国民は祝賀ムードに湧いた。アナも久しぶりのエルサとの交流に暫しの幸せを噛みしめる。ところが、あることがきっけでエルサの力が暴走してしまう。美しかった王国は辺り一面氷に覆われてしまい‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) アンデルセンの童話「雪の女王」をモティーフにして作られたディズニー・アニメ。
本作はあの
「トイ・ストーリー3」(2010米)の興行収入を抜いてディズニー映画史上最高のヒットを記録した。今年のアカデミー賞では長編アニメーション賞を受賞し、まさに名実ともに今のディズニーを代表する作品になったと言っていだろう。
家族そろって楽しめるファミリー向けとして、あるいはカップル向けとして、実にそつなく作られている。万人が楽しめる内容になっていて、この華々しい栄冠も納得という感じである。
実際、映像のクオリティは相変わらずハイレベルで感心させられた。これをコンスタントに出せるディズニーはやはり凄い。
特に、今回は氷の表現が素晴らしい。エルサは何でも凍らせるという魔法を持っており、そこが映像的な大きな見せ場となっている。スタッフの力の入れ具合がビンビン伝わってきた。また、人物の肌の質感もリアルで素晴らしかった。アナの肩のそばかすなどは、大きなスクリーンで見るとその凄さがよく分かる。
ただ、映像的には確かに素晴らしいのだが、ストーリーの出来という点に関して言えば決してクオリティが高いというわけではない。今作は基本的にミュージカル映画である。なので、ストーリーは駆け足気味に進行するのだが、それにしても首をかしげたくなる部分が幾つかあった。
例えば、アナが国政の代理を、会ったばかりのハンス王子に任せるのは如何なものだろうか?ここは彼女に一言アドバイスをくれるようなサブキャラが欲しかったかもしれない。今作の登場人物は非常にシンプルにまとめられている。それゆえ大変見やすくていいのだが、余りにも簡素である。ここに、幼い頃からエルサとアナの世話をしている爺やのようなキャラクターがいたらどうだろう?彼がアナに一言アドバイスをするだけで、このシーンは大分スムースに見れたかもしれない。
また、アナの記憶はどこで蘇ったのか?それもよく分からなかった。後半でドワーフが再登場するのだが、自分はあそこで、てっきり彼女が記憶を取り戻すものと思っていた。ところが、ミュージカルシーンの影に隠れてしまい、そういった大切な部分はぼやかされてしまっている。
他にも、エルサの魔法がその時々で弱くなったり強くなったりするのも、ドラマの都合でそうなっているように思えてならなかった。
これらは決して小さな突っ込み所ではないように思う。一旦スクリーンから距離を置いて冷静に見てしまうと解せないことが多い。
ただ、そういった詰めの甘さはあるものの、やはりアニメーションは動いてなんぼである。美しい映像の数々には有無を言わせぬ魅力があり、画面を見ているだけで自然と引き込まれてしまう。
特に、エルサが雪の宮殿を作るシーンは名シーンと言っていいだろう。彼女の心情を表したパワフルな歌曲も、より一層このシーンをドラマチックに盛り上げている。
また、クライマックスも上手く作られていると思った。アナにとっての選択、葛藤が見事に集約されている。
エピローグも綺麗にまとめられていると思った。正に至れり尽くせりの満漢全席なサービス精神には頭が垂れる思いだ。言い方は悪いが力技で持って行ったという感じもするが、ここまで出来てしまうのが今のディズニーの強みであろう。
尚、今回は吹き替え版2Dでの鑑賞だった。アナ役は神田沙也加、エルサ役は松たか子が演じている。夫々に好演していると思った。
また、歌曲に関しても特に問題なく聴けた。ただ、主題歌である「Let It Go」はオリジナル版の方を先に聴いてしまったので、どうしてもそちらのイメージが強い。果たして字幕版ではどんな風になっているのだろう?ちょっと興味が湧いた。
ちなみに、同時上映の短編アニメ「ミッキーのミニー救出作戦」も素晴らしい快作である。白黒時代の古いミッキーと現代の3Dミッキーが、入れ代わり立ち代わり現れる‥というアイディア勝負の逸品となっている。
B・キートンのアクロバティックなギャグが堪能できる。
「キートンの大列車追跡」(1926米)
ジャンルコメディ・ジャンルロマンス・ジャンルアクション・ジャンル古典
(あらすじ) 南部の鉄道会社に勤める機関士ジョニーはアナベルのことが好きだった。ところが、彼女は軍人である恋人に夢中だった。その後、軍人は南北戦争に出征していった。ジョニーもアナベルに促され入隊しようとする。しかし、元来ひ弱な彼に兵役など無理で門前払いを食らってしまう。そんなある日、北軍の脱走兵が機関車「将軍号」を奪取するという事件が起こった。何とその列車には偶然アナベルが乗っていた。ジョニーは彼女を救出しようと追いかけるのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) B・キートン監督・主演によるドタバタ・コメディ。
全編に渡って機関車の追跡劇がコミカルに描かれており、終始楽しく見れる作品である。高い身体能力を活かしたキートンのアクロバティックなアクションも素晴らしく、正にエンタテインメント極まれり‥といった感じの快作となっている。
ただ、キートン扮するジョニーが最後に戦争の英雄となってしまうのは、いささか右傾的でスッキリとしない。また、ヒロイン、アナベルとのロマンスが薄みなのも物足りない。しかも、彼女が「軍に入隊しなければ口もきいてあげない‥」とジョニーに言い放つあたりはかなり冷酷だ。これが時代の風潮だったとしても、アナベルが酷い女に見えてしょうがなかった。
アクション的には、前半の大砲を使ったギャグ、後半の橋の陥落等、ダイナミックな見せ場が用意ざれている。いずれもトリックなしの映像で感心させられた。分岐器や電柱を使った小道具ネタも面白い。
また、北軍の将校の邸宅に侵入したキートンがテーブルの下に隠れるギャグも、お約束ではあるが中々スリリングで面白く見れた。ここでようやく彼は拉致されたアナベルを見つけることになる。将校の一人が煙草の火でテーブルクロスに穴をあけて、そこからアナベルの姿を発見するのだが、ここも小道具の使い方が抜群に上手いと思った。
尚、この映画は現存するソフトによってタイトルがまちまちなので注意したい。別名として「キートン将軍」、「キートンの大列車強盗」という邦題がつけられている。いずれも中味は同じであるがタイトルが違う。
セシル・B・デミルの大作「十戒」のオリジナル版。
「十誡」(1923米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル古典
(あらすじ) エジプトに、神の遣いモーゼ現れる。彼はファラオ王にイスラエルの民の解放を求めたが、王はそれを拒んだ。その結果、エジプト中の長子は一夜にして全員死んでしまった。モーゼはイスラエルの民を率いてエジプトを後にする。
現代のアメリカ。ジョンとダンの兄弟は、信心深い母親から幼い頃より十戒を教え込まれていた。ジョンは真面目な大工職人になったが、ダンは自堕落な青年に成長した。ある夜、ダンは家の前でメリィという貧しい少女と出会う。2人は惹かれあって結婚する。しかし、実はジョンも彼女のことが好きだった。数年後、兄弟の運命は大きく変わる。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 巨匠セシル・B・デミル監督が撮ったサイレント時代の歴史大作。
古代と現代の二つの時代をまたにかけて、人間の罪と罰を皮肉的に描いて見せている。
尚、彼は1956年に今作をリメイクしている。
自分はリメイク版「十戒」(1956米)を小さい頃にTVで見て、そのスケール感に圧倒された覚えがある。特に、海が割れるシーンは映画史に残る名シーンで、あの迫力は今でも強烈に記憶に残っている。実にダイナミックな映像だった。
今作にもそれは登場してくる。ただ、さすがに特撮の技術がおぼつかないこともあり、リメイク版に比べるとやや迫力は落ちてしまう。これでも当時は相当凄い映像だったのだろうが、やはり今見ると少々厳しいものがある。
その代わりと言ってはなんだが、今作では巨大なオープンセットを目にすることが出来る。序盤の豪華絢爛なエジプト宮殿は、いかにも豪華主義なデミルらしい。一体いくらの資産と労力が投入されたのか‥。かつてのハリウッドの底力を見る思いであった。
また、モブシーンのスケール感も相当なもので、これも絵面的には大変豪華だった。砂漠を旅するイスラエルの民の群衆にはCGでは出せない”生”の迫力が感じられた。
一方、ストーリーの方だが、こちらはリメイク版とかなり違っていて驚いた。リメイク版は純粋な古代史劇だったが、このオリジナル版は古代編と現代編、二部構成になっている。
おそらくデミルは、十戒をモチーフにして、人類の永遠の”業”を表現したかったのだろう。いずれのドラマもラストに冷徹な断罪が下る。やや俯瞰的な視点ではあるが、実に普遍的な物語が創出されていると思った。
ただ、シナリオ的に見ると少々駆け足気味で、登場人物のの心情が上滑りするきらいがある。特に現代編でそれが顕著だった。
現代編は信心深い兄と俗物な弟の愛憎が、ヒロイン・メリィを巡って熱っぽく展開されるのだが、ダンとメリィの結婚までの展開が表層的である。その結果、ジョンの嫉妬が今一つ弱い。また、完成間近の教会に母親が突然訪れるというのも必然性に欠くが展開だ。色々と隙があり結末が締まらない。
これを見ると、リメイク版を古代編に絞ったのは正解だったように思う。二つのドラマが上手く絡み合えば感動も2倍になるが、よほど緊密に作らなければかえって散漫になってしまう。今作が正にそうだろう。
教示的メッセージは十分に伝わってくる作品であるが、純粋に1本のドラマとして見た場合、どうしても前半と後半で二分されてしまうため、入り込むほどの感動は得られなかった。
ロマコメの古典。
「結婚哲学」(1924米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ・ジャンル古典
(あらすじ) 青年医師フランツはシャーロットと幸せな結婚生活を送っていた。一方、彼の友人ストック教授は妻ミッツィと離婚寸前にあった。実は、ミッツィは以前からフランツに惚れていた。あるパーティーの夜、彼女はフランツに強引に迫った。その頃、シャーロットはフランツの親友グスタフから愛を告白されていた。彼女はグスタフの求愛を拒むのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 二組のカップルの恋愛模様を軽妙に綴ったロマチック・コメディ。
監督はエルンスト・ルビッチ。彼はサイレント映画時代に数多くのコメディ作品を残しており、軽妙洒脱な作風はルビッチ・タッチと称された。今で言えばハリウッド風のロマコメ作品と言えばいいだろうか。この「結婚哲学」はその走りとも言える作品である。
個人的にはB・ワイルダーの作品も連想させられた。例えば、小道具の巧みな使い方などは、明らかにワイルダーに影響を与えている。尚、彼はルビッチの弟子でもあった。
物語は序盤からテンポよく進行し、今見ても全然古臭さを感じない。ただ、各キャラクターの思惑が明確に提示されるまでに時間がかかるため、入り込むまでに少々時間がかかる。また、各人を均等に描いているせいで主役がすぐに絞り切れない。基本的にはフランツとシャーロットのカップルが主役なのだが、冒頭にストック教授とミッツィ夫妻のドラマが過分に入り込んでいる。逆に、今作のもう1人の主要人物であるフランツの親友グスタフの影が薄く、こちらはもっとフィーチャーしても良かったような気がした。
しかしながら、こうしたストーリー上の難はあるものの、映画のクライマックスから幕引きにかけての展開は見事である。
クライマックスは、ミッツィからフランツに宛てた1通の手紙から始まる。この手紙に対するフランツの返信。そして、その手紙を読んでしまったシャーロットの行動。更にはグスタフの気を利かせた心遣い。これら全てが絶妙のタイミングで組み合わさり、ラストは大団円へと結びついていく。これほど爽快な味わいを残してくれるロマコメ作品はそうそうないだろう。尚、その後に続くエピローグも中々コミカルで良かった。
イスラム社会のかすかな光を予感させる青春映画。
「少女は自転車にのって」(2012サウジアラビア独)
ジャンル青春ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) サウジアラビアの首都リヤド。小学生のワジダはクラスで一番のお転婆な少女。ある日、近所に住む少年アブダラの自転車を見て自分も欲しくなる。母親にねだるが、女の子が自転車に乗るなんてもってのほか‥と叱られる。仕方なくワジダは学校で小遣い稼ぎをしながらコツコツとお金を貯めていった。そんなある日、学校でコーランの暗誦コンテストが開催されることになる。それに優勝すれば賞金がもらえるというのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 少女の瑞々しい成長を通してイスラム社会の実態を描いた青春映画。
イスラム社会がいかに女性に差別的なのかは自分も一応知っていたつもりだが、まさか自転車に乗ることが禁止されていたとは‥。この映画を見て初めて知った。
物語は実にシンプルである。主人公ワジダは禁じられている自転車に乗ろうとして色々な試練を乗り越えていく‥という、ただそれだけの物語である。確かに壮大な物語ではないし、心にズシンと響くようなインパクトもない。しかし、このシンプルなドラマの中にはイスラム社会の現在がしっかりと描き込まれている。抑圧に屈せず力強く生きていこうとする少女の姿を通して、イスラム社会の現在を静かに告発しているのだ。このメッセージは心に残る。
今作は何と言ってもワジダのキャラクターが良い。普通、イスラム社会の女性のドラマというと、苦しい、悲しいを訴えるドラマになりがちだが、この映画にはそういった重苦しさは余りない。唯一あるとすれば、ワジダの母親のエピソードであろうか。これは確かにイスラム社会の悲劇を描いて見せたエピソードである。しかし、これを除けば基本的に今作は瑞々しい青春映画として楽しく見ることが出来る。
そして、そう見れる最大の貢献は、ワジダのキャラクターにあるように思った。
ワジダは女性に厳しいイスラムの戒律に反発して自由気ままに生きている10歳の少女である。その姿は実に晴れ晴れとしていて頼もしい。
例えば、他の皆が顔にベールをする中、彼女だけは素顔で登校する。服装は常にジーンズとスニーカー姿。規則を破って教師に叱られても決してメソメソしない。近所の男の子と喧嘩をしたりもする。ワジダは周囲を気にせず常に前を向いて歩ている少女なのだ。
我々からしてみれば、本作は遠い異国を舞台にした映画である。しかし、この明るく活発なワジダのキャラクターがその距離を少しだけ縮めてくれる。ここがこの映画のミソだろう。自然と親近感が湧ていくる。
そして、そんな彼女が禁止されている自転車に乗ろうというのだから、これは実にパンクなドラマである。言わば、今作は型破りなアウトロー映画としても楽しめる娯楽作になっているのだ。
ラストも良い。ワジダのアップで終わるのだが、その眼差しの先には何があるのか?きっとそれは新しい未来なのかもしれない‥。そんな希望が感じられた。
ただ、確かにメッセージは崇高であるし、この手の作品の中では今までにないテイストを見せてくれたという意味で新鮮だったが、映画のクオリティについては若干物足りなさを覚えた。
何しろシンプルで素朴なドラマである。物語の深みは母のエピソードを絡めることで一定の広がりは感じられるが、キャラクターが図式的過ぎて物足りない。
加えて演出が若干、平板だと思った。例えば、クライマックスの暗誦コンテストには何らかの”事件(アクシデント)”を持たせるなどの工夫は欲しかっただろう。映画自体は丁寧に作られているのだが、漫然と見れてしまう所に物足りなさを覚えた。
子供の散り違えを題材に紛争の虚しさを唱えた意欲作。
「もうひとりの息子」(2012仏)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) テルアビブに暮らす少年ヨセフは兵役検査で両親と血液型が異なることを知る。湾岸戦争の混乱時に別の赤ん坊と取り違えらえたのだ。相手の子供はパレスチナ自治区に住むヤシンという少年だった。夫々の家族は動揺し、この現実を中々受け入れられなかった。やがて二つの家族は今後について相談を始める。しかし、両方の父親はいきなり口論を始めてしまった。その一方で、母親たちと本人たちは次第に交流を芽生えさせていく。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 運命の悪戯によってイスラエルとパレスチナ、二つの世界に引き裂かれてしまった家族のドラマ。
先頃見た
「そして父になる」(2013日)と同じ、子供の取り違えの問題を扱った映画である。但し、こちらは民族の違いが絡んで来る分、問題はより深刻だ。イスラエルとパレスチナと言えば長年にわたって争いを繰り広げてきた因縁の関係にある。このバックボーンは両家族にとって非常に大きい。
現に今作における夫々の父親、あるいはヤシンの兄は、同胞を殺した憎むべき敵として相手を決して受け入れようとしない。
一方、夫々の母親たちは、いがみ合うのではなくこの事態に冷静に対処していく。また、ヨセフとヤシンには夫々妹がいるが、彼女たちはまだ幼い子供ということもあり無垢な交流を育んでいく。
この不幸な事態に対する男女のリアクションの違いは見ていて実に興味深かった。銃を持って戦う男とそうでない女の違いなのか。社会や対面を重んじるのが男で、臨機応変に思考出来るのが女ということなのか。色々と考えさせられてしまった。
そして、この問題の最大の被害者である当人たち。彼らも意外に意気投合していく。ガールフレンドの話をしたり、将来の夢を語り合ったり、バイトを手伝ったり等々。同じ年頃ということもあり自然に友達のような関係を築いていくのだ。ある意味で、彼らは”自分分は自分”という割り切り方ができているのかもしれない。この年にしてこの達観した姿勢は実に立派だと思った。
映画は最後にヨセフとヤシン、2人の選択で終わる。今の暮らしにとどまるのか?あるいは本来自分がいるべき場所へ戻るのか?その選択が示されて終わる。これも実に立派な選択に思えた。
ただ、個人的には、この選択自体はどちらでも良いという思いも持った。映画を見ていると二人はどちらの家族にも上手く溶け込めそうな気がするし、周囲のわだかまりも時間の経過と共に解けていった。結局一番大切なのは過去の対立の歴史ではなく、現在であり身近な家族である‥ということなのだろう。いがみ合ってばかりいないで共存の道を模索するのが大切。そんなことを言われているような気がした。
このようにメッセージ自体は非常に友愛に満ちている。家族の在り方という問題も深く突き詰められており、大変意義深い作品だと思った。また、イスラエルとパレスチナの紛争を、こういう家族ドラマに託して描いたところも大いに評価したい。
ただ、この事態に対する男女のリアクションの差が余りにも極端すぎること、ヨセフとヤシンが少々出来すぎた少年たちであること。このあたりはやや図式的且つ安易な気がした。ドラマのリアリティという点ではやや物足りない。
特に、これは演出上の不満なのだが、ヤシンの兄とヨセフの父が深夜の道路で対面するシーンがある。あそこをあっさりとしか描かなかったのは非常に残念だった。最後まで頑なに現実を拒んでいたヤシンの兄が、こうも簡単に憎むべき隣人を受け入れてしまうとは‥。じっくりと腰を据えた演出をのぞみたかった。
悪しき因習にとらわれた真実の物語。
「あなたを抱きしめる日まで」(2013仏英)
ジャンル人間ドラマ。ジャンルサスペンス
(あらすじ) イギリスに住む敬虔なカトリック信者・フィロミナは娘のジェーンにある秘密を打ち明ける。それは50年前のこと----姦通の罪で修道院に預けられた彼女は、そこで赤ん坊アンソニーを出産した。ところが、修道院は彼女からアンソニーを取り上げて無断で里子に出してしまったのである。フィロミナは今でもそのことを後悔していたのだ。その後、ジェーンは仕事先で元BBCの記者マーティンに出会う。彼女はこの事を記事にしてほしいと訴える。それを受けてマーティンは早速、フィロミナを連れて件の修道院を訪ねるのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 閉鎖的な修道院で起こった人身売買事件を、被害者の女性の目線で綴った社会派人間ドラマ。実話の映画化である。
以前見た映画で「マグダレンの祈り」(2002英アイルランド)という作品がある。これは婚外交渉した少女たちがマグダレン修道院(別称:マグダレン洗濯所)に入れられて様々な抑圧、虐待を受けるという映画だった。本作を見てそれを連想した。
マグダレン修道院は表向きは教義に則った更生施設ということになっているが、実際にはまったく違っていて女性たちに様々な人権侵害を与えてきた収容所だった‥ということが、この映画では語られている。「マグダレンの祈り」によってその実態は明らかにされ、公開当時ヨーロッパ全土は大きな衝撃を受けた。
本作のフィロミナも「マグダレンの祈り」の少女たちと同じような境遇に立たされた女性である。彼女は毎日洗濯の重労働を課せられ、施設から一歩も外に出してもらえず厳しい暮らしを強いられる。そして、愛する我が子アンソニーを奪われてしまう。フィロミナは50年間ずっとこの事を黙っていたが、どうしてもアンソニーを忘れることが出来ず全てを告白する。そして、成長した息子に一目会いたいと思い元BBCの記者マーティンの協力を得ながら捜索の旅に出る。
映画は、彼女とマーティンのロードムービーとなっている。ラストで判明する修道院の隠蔽体質、悲劇的結末には実にやるせない思いにさせられた。劇中に”邪悪なシスター”という言葉が出てくるが、今回の事件を表するのにこれほどピンとくる言葉もないだろう。神に仕える者が悪魔に魂を売るのだから、これには戦慄を覚えるしかない。
ここまでの話を聞くと、本作は大変重苦しい映画のように思うかもしれない。しかし、適度にユーモアが挟み込まれているので、事件自体の陰惨さとは裏腹に大変見やすい作品となっている。
監督はS・フリアーズ。このあたりは流石はベテランと言った感じで、実に手堅い演出で安心して見ることができた。
そして、このユーモアの最大の肝要は、敬虔なカトリック信者であるフィロミナと無神論者のマーティン。この二人のやり取りにあるように思う。世代や宗教観、性格の違いから来るチグハグな絡みが要所で笑いを生んでいる。
例えば、フィロミナが自分が読んだ本のあらすじをマーティンに教えてやるクダリは傑作だった。彼女は結末まで全て話してしまう癖があり、マーティンはほとほと困ってしまう。
2人の関係は、年の功でどうしてもフィロミナの方が一枚上手で、常にフィロミナが上位になる。彼女の旅に付き合わされるマーティンは災難と言えば災難かもしれないが、彼も基本的にお人よしなのでついついフェロミナに対しては何も口答えできない。この関係が終始楽しく観れた。
尚、本のあらすじを教えるシーンは後の伏線にもなっている。このあたりの洒脱を利かせた作りも大変上手かった。
その一方で本作には感動もある。フィロミナとマーティンはアンソニーを探す旅をするうちに次第に信頼関係で結ばれていく。その過程が丁寧に綴られていてしみじみとさせられた。
また、初めはこの取材に余り乗り気でなかったマーティンが、徐々に記者魂を燃え上がらせていく過程も中々感動的だった。落ち目の記者が奮闘していくというドラマには多くの人が感情移入できるのではないだろうか。
フィロミナ、マーティン。夫々を演じるのはJ・デンチとS・クーガン。J・デンチは緩急をつけた硬軟自在の演技でこのドラマを味わい深いものにしている。
一方のS・クーガンも中々の好演である。彼は本作で製作と共同脚本を手掛けるという活躍ぶりで、その熱意は存分に伝わってきた。
一方、物語の展開は非常に流麗で見やすく構成されているが、やや流され気味な個所もあるので、そこは若干気になった。
例えば、フィロミナが何故今になってジェーンに過去を告白する気になったのか?その決定打となるような理由が見当たらない。ここは何かフォローが必要だったろう。また、中盤に出てくる若きマーティンの秘話も、どうかするとご都合主義に見えてしまう。ここは段階を経て明かすか、そうでなければむしろ省いた方が賢明だったろう。
このようにシナリオ上、幾つか手薄に感じる箇所があった。ただ、全体的には中弛みすることなく一気に展開されていくので、それほどストレスなく観ることが出来た。第一にこれだけヘビーな題材を陰鬱一辺倒にしなかった所が大変良い。娯楽作品として実に周到に作られていて、誰が見ても楽しめる作品になっている。
約30分にも及ぶクライマックスは必見。
「十三人の刺客」(1963日)
ジャンルアクション・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 江戸時代末期。江戸家老・間宮が老中・土井邸の門前で割腹自殺をした。彼は徳川家慶の弟・松平斉韶(なりつぐ)の暴君振りを訴えて死んだのである。その意志を汲んだ土井は、御目付・島田新左衛門に斉韶暗殺の命令を下す。新左衛門は早速、11人の凄腕の武士を集めて暗殺計画を企てる。一方、斉韶の側近で新左衛門のかつての同門・鬼頭半兵衛がこの企てを嗅ぎつけた。彼は新左衛門の元を訪ね探りを入れようとしたが、それは失敗に終わる。やがて、斉韶が参勤交代の途に就くことになった。新左衛門たちはその道中を急襲しようとするのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 13人の男たちが極悪非道の暴君の暗殺に命を賭けて挑んでいくアクション時代劇。
三池崇史監督がリメイクしたことでも知られる作品であるが、自分は
リメイク版の方を先に見ていてこちらは未見だった。今回、遅ればせながら観てみた。
三池版はアクションに割り切った作りでそれはそれでいいのだが、どうにも情緒が不足気味でそこが自分的には食い足りない部分だった。今回見たオリジナル版はそこが少しだけピックアップされている。
具体的に言うと、ラストの新左衛門の顛末である。ここは宿敵・半兵衛との対決になるのだが、彼の胸中にはどんな思いがあったのか?色々と想像してみたくなる。全てを成し遂げて果てるも本望‥ということだったのか?あるいは、武士の時代の終焉と共に己の人生にもケジメをつけよう‥ということだったのか?言葉にして出さない分、ここは味わい深く感じられた。
ただ、ストーリーの流れは三池版とほぼ同じで、改めて見てみると新味は薄い。逆にこちらを先に見ていれば面白く見れたのかもしれないが、こればかりは仕方がない。
そんな中、唯一リメイク版と異なる点もあって、そこは今回の新たな発見だった。それは13人目の刺客のキャラクターである。三池版では山奥に生息する奇妙な青年だったが、このオリジナル版では決戦の場となる宿場に住む青年になっている。山の民はひときわ異彩を放つキャラクターだったが、やはりあれは三池流の遊び心から生まれた”異物”だったことが改めて分かる。話の筋から言えばこちらの青年の方が自然に見れるだろう。ただ、山の民に比べると余り面白味はないが‥。
また、三池版でも思ったことだが、このオリジナル版でも13人全員のキャラクターは完全に消化しきれていない。今回はクライマックスの決戦シーンは約30分間に及ぶ長丁場である。三池版の約50分に比べれば大分短いが、それでも残りの90分で個々のドラマを引き立たせるのは難しい。個性的な武士たちの集団抗争時代劇として黒澤明の「七人の侍」(1954日)と比較される本作であるが、濃密なキャラクター・ドラマとしてに成立している「七人の侍」と比べるとやはり今作は物足りない。あちらは7人でこちらは13人。上映時間もこちらは短い。物理的な限界もあろうが、そこは残念だった。
13人の中では、片岡千恵蔵扮する主人公の新左衛門、西村晃が演じる剣技の達人・平山、里見浩太朗が演じる落ちぶれた浪人・新六郎のドラマはそれなりに充実している。
尚、平山の死に様は壮絶で印象に残った。あそこで剣を捨ててしまったことに演出上の甘さを感じてしまうが、ともかくもトラウマ級の最期である。
アクション的な見せ場は当然、クライマックスのチャンバラとなる。三池版でも大きな売りとなっていたが、スケールの差はあれど今回もかなりテンションが高くて見応えがあった。剣技で魅せる戦いではなく、敢えて不格好な斬り合いにしたのは演出上の狙いであろう。本当の殺し合いはそんなに格好良い物ではない‥というリアリズム。それを出したかったのだと思う。と同時に、この不格好さが武士の時代の衰退を表しているようにも思えた。
尚、音楽は伊福部昭が担当している。東宝特撮チックな過剰なBGMに違和感を覚えた。余り時代劇っぽくない所が伊福部らしいといえば確かにそうだが、しかし彼は「座頭市」シリーズでも時代劇の音楽を務めている。そちらとの比較から言っても、今回の音楽は余り雰囲気に合っているとは言い難い。
勝新主演の座頭市シリーズ最後の作品。
「座頭市」(1989日)
ジャンルアクション
(あらすじ) 市は知り合いの漁師を頼って銚子のとある漁村にやってきた。そこは五右衛門一家と赤兵衛一家が対立する荒れた村だった。五右衛門と赤兵衛は夫々に、村を監督する八州取締役に近づいて実質的な支配権を我が物にしようと目論んでいた。ある日、市は五右衛門一家の賭博場で大立ち回りを演じる。女親分・菩薩のおはんの取り計らいでどうにかその場は収まった。一方、赤兵衛は市の剣の腕に目を付けて彼を用心棒として迎え入れようとする。しかし、市はそれを断った。その後、市は凄腕の浪人と出会い意気投合する。彼は五右衛門一家の用心棒だった。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 勝新太郎が主演した座頭市シリーズ第26作目にして最終章。今回は勝自身が監督・共同脚本を務めている。
前作「新座頭市 笠間の血祭り」(1973日)から大分間が空いての最終章である。このシリーズは「笠間の血祭」以降、1974年からTVに舞台を移して製作された。TVシリーズも好評を受けて第3シーズンまで続き1979年に終了する。それから約10年後、こうして「座頭市」は再びスクリーンに帰ってきた。
しかし、10年間というのは大変長いブランクである。その間、勝新太郎の身には様々なスキャンダラスな事件が起こっていた。アヘン所持による逮捕、黒澤明監督の「影武者」(1980日)の降板、自身のプロダクションの倒産等々。おそらく勝自身にとっても散々たる10年だったろう。正直、映画の製作どころではなかったように思う。しかし、一方でこのままでは終われないという強い思いもあったのだろう。そのままシーンから消えることなく、彼は自身の代表的シリーズと言っても良いこの「座頭市」をもう一度蘇らせたのである。
しかし、この映画でも不幸な事件が起こってしまう。真剣を使った撮影で死者が出してしまったのである。これがマスコミに取り上げられて、この映画は内容よりも別の所で話題になってしまった。せっかくの復帰作がまたしてもスキャンダラスな事件になってしまったのである。勝自身にとっても弱り目に祟り目である。
もっとも、これが奏功したのか映画はヒットを飛ばした。これも実に皮肉めいている。今作はこの年の邦画の興行収入では11億円。第7位という成績を残している。
映画の中味の方はこれまで通り「座頭市」らしい作りとなっている。ストーリーはお約束めいた物であるが、逆に言えば安心して見ることが出来る。
ただ、脚本の構成自体は決して良いとは言えない。五右衛門一家と赤兵衛一家の抗争劇を中心としたドラマに、市と浪人の友情ドラマが入ってくるという構成になっている。しかし、この二つが余り噛み合わない。正直、ストーリの芯がぶれているような気がした。加えて、おはんの立ち位置も今一つ不明瞭で、説明が足りない。
wikiによれば脚本の段階でかなりの試行錯誤があったようである。いずれにせよ、ストーリーはかなり乱雑で締りがないという印象を持った。
一方、アクション・シーンはクライマックスで大きな見せ場が用意されている。これにはかなり興奮させられた。時代の流れもあろう。1カットで見せる昔ながらの「座頭市」ではなく、鋭いカットで紡ぐスピーディーなアクション演出に切り替わっている。どことなくジャッキー・チェンの映画を彷彿とさせたりもした。
それにしても、撮影当時、勝新太郎は58歳である。この年齢でこれだけの殺陣が演じられるとは正に驚異的としか言いようがない。
そして、今回は緒方拳演じる謎の浪人が宿敵として登場してくる。市との勝負は最後の一斬りだけだが、交友を深めていく様を饒舌に演じている。また、市から借りた鏡で自身の顔を見るシーンが妙に印象的だった。一体、彼はそこに何を見たのだろう?
ちなみに、この映画には、このシーン以外にも鏡を使った演出が何度か登場してくる。鏡は人の心、内面と写す物とも言う。中々洒落た演出に思えた。
キャストでは他に、内田裕也が中々の存在感を見せつけていた。彼が演じる赤兵衛親分は、いわゆる手下を見殺しにするような卑小な暴君で、内田裕也にしか出せない独特の雰囲気が面白かった。
おはんを演じた樋口可南子も、荒っぽい男優陣に呑み込まれることなく、したたかな振る舞いで場をさらう好演を見せている。勝新との濡れ場も大胆に披露しており、この幽玄的な妖しさは印象的だった。
勝新太郎の才気がほとばしるシリーズ24作目。
「新座頭市物語 折れた杖」(1972日)
ジャンルアクション
(あらすじ) 市は旅の途中で三味線を持った老婆と出会う。老婆は市の前で橋から落ちて死んでしまった。市は残された三味線を持って女郎屋にいる娘・綿木を訪ねてそれを渡した。そして、助けられなかったことを悔いて彼女を身請けすることにした。早速、その資金稼ぎに市は賭博場に入った。そこで彼は元締めの鍵屋万五郎に目をつけられる。一方、綿木には心に決めていた丑松というヤクザがいた。市に身請けされる話を聞いた丑松は、密かに綿木と逢瀬を重ねるのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 勝新太郎が強烈な個性で盲目のアウトローを演じた座頭市シリーズの第24弾。今回は勝新太郎自らが監督した意欲作である。
監督としてはすでに
「顔役」(1971日)で独特の演出手腕を発揮しているが、今回も要所要所でその才気が感じられる。これまでのシリーズを見てきたファンには少々戸惑うような所があるかもしれないが、個人的には勝新の意欲が伝わってくるという意味で興味深く見ることが出来た。
例えば、極端なクローズアップで捉えた賭博場のシーンなどは、息詰まるような圧迫感、緊張感が感じられる。見ているこちらも、このプレッシャーには押しつぶされそうになった。
また、今作の舞台は寂れた漁村である。雄大な海をバックにしたショットが度々登場してくるのだが、そのいずれもが望遠レンズで捉えられている。これはスケール感があって見応えがあった。青い海、白い砂浜、人物の影が織りなす強烈なコントラストもどこかアート的で美しい。
他に、露光を極限まで開放することで、真夏の焼け付くような暑さを表現した映像も印象に残る。画面が真っ白になって何も見えなくなってしまうので普通なら許されない演出だが、勝新太郎は敢えてそうした掟破りな演出を大胆にやってのけている。
こうした荒々しくも、どこかアーティスティックな作風は、明らかに今作を特異な作品にしていることは確かだ。シリーズを見てきたファンには余り受けが良くないらしいが、逆に言うと通俗的な作りとは一線を画した奇妙な魅力を持った作品と評することも可能である。正直、勝新太郎の刺激的で大胆な演出の数々には感心させられるものがあった。
一方でストーリーには問題があるように思った。
今回は市と綿木と丑松の関係を軸にした人情ドラマになっている。そこに市を狙う万五郎一家が絡んでくることでスリリングに展開されている。確かにここまでは中々良く出来ている。しかし、問題は幼い姉弟のドラマの方にある。これがほとんどメインのドラマに絡んでこない。そのため全体的に散漫なストーリーになってしまっている。姉弟ドラマはむしろ外した方がスッキリしたのではないだろうか?
加えて、今回は市と対決する剣豪として鍵屋の用心棒が登場してくるのだが、これが今一つ魅力に欠ける。いつもならここにゲスト俳優を迎えてクライマックスの戦いを大いに盛り上げるのだが、残念ながら今回はそこまでのカリスマ性が感じられなかった。したがって、エンタテインメントしても突き抜けるような痛快さはない。
キャストでは、綿木を演じた大地喜和子の妖艶な演技が印象に残った。身請けしてくれた市を誘惑するシーンの艶っぽさと言ったらない。
また、万五郎を演じた小池朝雄も頑張っている。先述の通り今回は市と肩を並べるほどのライバル剣士が登場しないため、クライマックスは彼が代わって盛り上げている。相変わらずの憎々しい演技が今回も冴えわたっていた。