M・ストリープの成りきり演技が見所。
「マーガレット・サッチャー 鉄の涙の女」(2011英)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 政界を引退して数年後、イギリスの元首相マーガレット・サッチャーは認知症に悩まされながら孤独な暮らしを送っていた。最近、彼女は時々亡き夫の幻覚を見る。政界進出を後押ししてくれた夫との思い出は、彼女にとってはかけがえの無いものだった。しかし、それは決して楽しい日々ばかりではなかった。女性初の首相として様々な障害が彼女前に立ちはだかった。その時の苦難の道のりが回想されていく‥。
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(レビュー) イギリス初の女性首相マーガレット・サッチャーの伝記映画。
かつて「鉄の女」の異名を取り一時代を築いたサッチャーであるが、昨年4月に多くの人々に惜しまれながら他界した。個人的には彼女の政治手腕には疑問を覚える部分もあるのだが、しかしあの当時は世界中が新自由主義へ傾倒していった頃である。彼女の政策も右に倣えで、これも一つの時代の流れだったのだろう。尚、本作の中でも、サッチャリズムに対する国民の不満は大々的に描かれている。
何と言っても今作の見所はサッチャーを演じたM・ストリープの演技だろう。特殊メイクをして本人になりきった演技は必見である。若い頃から晩年までを一人で熱演し、彼女は本作で見事に3度目のオスカーを受賞した。尚、同時に本作はメイクアップ賞も受賞している。
ただ、正直な所、映画の出来自体には余り感心を持てなかった。このブログでは、伝記映画を作るのは大変難しいと再三言っているが、この作品もその点では失敗していると言わざるを得ない。若年から晩年にいたる大河ドラマを描こうとした結果、作りが散漫になってしまっている。
更に、この映画は現在と過去が頻繁に交錯しながら展開する。しかも、時間軸が飛び飛びで、ここまでフラッシュバックが横行すると中々物語に集中することはできない。加えて、現在パートには認知症のサッチャーが見る幻視、亡き夫との幻想的なやり取りまでもが入ってきて、正直ここまで時制と虚実が入り乱れてしまうとストーリー自体の求心力は失われてしまう。
サッチャーの出自、夫との愛、フォークランド紛争など、出てくる一つ一つのエピソードは、それなりに魅力的な素材だっただけに、もっと素直な構成で作っていれば普通に感動できる映画になったように思う。
そんな中、唯一時制の往来で成功しているシーンがある。それは終盤、いよいよ首相の座から退陣を要求されるという場面。彼女は少女時代の悔しい思い出を想起する。
それは、食料品店の娘として生まれた彼女が店の前で働いていると、通りかかった同じ年頃の少女たちに笑われる‥という回想である。恋もせずひたすら家の手伝いと勉学に打ち込んできたサッチャーは、他の少女たちのように自由な時間は無かったのである。その悔しさ、惨めさは計り知れない。
その回想がこの退陣シーンにフラッシュバックされることで、何とも言えぬ虚しさが沸き立った。現在と過去が重なりドラマチックである。
幻想的な反戦映画。
「ウォー・レクイエム」(1989英)
ジャンル戦争
(あらすじ) 車椅子に乗った元老兵士が戦時中の思い出を振り返る。目の前で親友を亡くしたこと。多くの市民や兵士が戦火で焼かれてしまったこと。そして、暗い塀の中に閉じこもってしまった彼の心は、若く美しい看護師との出会いで次第に癒されていく。しかし、戦争の犠牲者は彼以外にもたくさんいた‥。
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(レビュー) 異端の映像作家D・ジャーマン監督によるオペラ劇。
様々な戦場の記録映像を挿入しながら戦争の酷さを訴えている。
映画はイギリスを代表する音楽家ベンジャミン・ブリテンの「ウォー・レクイエム」をバックに展開されていく。例によって、登場人物にセリフはなく、第一次世界大戦に出兵して亡くなった詩人ウィルフレッド・オーウェンの詩が時折流れるだけである。尚、今作の主人公はそのオーウェンである。
正直、イメージの連鎖で紡がれた映像叙事詩といった作りで、物語性を求めてしまうと退屈してしまう映画である。一応、オーウェンが辿った戦争体験を思い出と共に振り返る‥という物語構造は確認できるが、所々に挿入される幻想的なシーンがこの映画から”物語性”を排除している。したがって、基本的には今回もジャーマンが作り出す眩惑的な映像世界を堪能するという見方をした方が良いだろう。
実際、映像はグラフィカルな様式美が随所に登場し、また斬新なデジタル処理も施されていて見応えを感じた。ジャーマンが常に既存の映画表現方法に捕われない極めて先鋭的な”アーティスト”であったことが改めて再確認できる。
個人的に最も衝撃を受けたのは、中盤に登場する戦場を捉えた記録映像のコラージュだった。これまでも戦場の記録映像は色々と見てきたが、改めてここに映し出される悲惨な光景を目の当たりにすると暗澹たる気分にさせられる。明らかにこれはジャーマンの反戦メッセージに他ならないだろう。
と同時に、これはジャーマン自身がコメントで残しているのだが、今作はエイズで亡くなった友人たちに対する手向けとして作った‥ということである。
劇中に登場する、薄暗い塀の中で疲弊する男たちは、おそらく戦争に駆り出された青年兵士たちの魂を表しているのであろう。しかし、その一方で彼らにはもう一つの意味が込められているような気がする。それは過去作
「エンジェリック・カンヴァセーション」(1985英)を見ていれば、何となく想像がつく。
「エンジェリック~」では、薄暗い洞窟の中で愛し合うゲイのカップルが映し出されていた。それは世間から疎外された同性愛者たちの悲しみを表現したものである。それと、ここに登場する薄暗い塀に囲まれた青年兵士たちはどこか重なって見えた。つまり、ジャーマン自信がそうであったように、彼らはエイズに苦しむ多くの人々の姿そのものなのだと思う。
ジャーマンはこの後に「ザ・ガーデン」(1990英)という作品を撮る。薄暗い塀の世界を飛び出して、美しく温もりに満ちた田園風景を物語の舞台とした。無論そこでも彼の作家としての反骨精神は確認できるのだが、同時に美しい映像の数々からはエイズ患者たちの生命に対する賛歌も感じられた。
「ウォー・レクイエム」と「ザ・ガーデン」。この二作品から明らかに作風の方向転換が見られる。何が原因でそうなったのかは分からないが、しかし彼がこの境地に至るまでには相当の苦悩があったということだけは、この「ウォー・レクイエム」の絶望的なトーンから想像できる。
尚、本作はイギリスが生んだ名優L・オリヴィエの遺作でもある。彼は冒頭に登場する老兵士役として出演している。
また、ジャーマン映画のミューズ、T・スウィントンも出演している。中盤の彼女の慟哭を捉えたロングテイクには目が離せなかった。戦争に対する悲しみ、憤りが強烈に体現されている。
自身の半生を様々な映像をコラージュさせながら作った異才の意欲作。
「ラスト・オブ・イングランド」(1987英)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 1人の男が暗い部屋で過去の記憶を辿っていた。それは両親と楽しく過ごした幼年期の思い出...。少年は成長するとゲイになった。そして戦争が始まり街が破壊される。テロリストに婚約者を殺された女は絶望に打ちひしがれ、空は深い夕闇に寝食されていくのだった‥。
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(レビュー) 異才D・ジャーマン監督による私的フィルム。
前作
「エンジェリック・カンヴァセーション」(1985英)同様、セリフを排した映像コラージュで構成されている。但し、映像の傾向は前作と大きく異なる。基本的にはゆっくりとたゆたうような映像が続くが、今回は幾つかドラマのポイントとなる場面で目まぐるしい編集が見られる。まるでサブリミナル効果を狙ったかのような明滅的な映像は実に荒々しい。とりわけ中盤の「戦争」の混乱を象徴したであろう超高速編集は、何と6分間に1600ショット入れたと言われている。これは他に類を見ない斬新な映像である。
一方、ストーリは散文的で、何か大きな幹となるようなドラマは用意されていない。一応、5つの断片的なエピソードは確認できるが全てがバラバラで、そこから何を感じ取るのかは見た人それぞれに託されている。
まず一つ目は、部屋で男が物思いに更けながら日記か何かを見ているエピソードである。薄暗いモノトーンで表現されており何とも陰鬱な雰囲気が漂っている。過去の様々な思い出を振り返っているのだろうか?
次に、ジャーマンの両親や祖父によって撮られたホーム・ムービーが登場してくる。そこには幼い頃のジャーマン自身が写っていて、温もりに満ちた家族の愛情が感じられた。
3つ目は、孤独な少年の日常を描いたエピソードである。少年はドラッグをキメてカラヴァッジオの絵画に下半身を擦り付けながら自慰にふけっている。少年の暗く荒んだ心情が滲み出ているエピソードである。
4つ目は、イギリスがテロ戦争に巻き込まれるという、一種異様なSF的エピソードとなっている。主人公はゲイの青年で、彼はテロリストと交わったことで悲劇的な運命を辿っていく。
そして、最後に登場するのが、婚約者を失った花嫁の慟哭である。
この他にも、廃墟の中を松明を持って歩く男、焼け野原で腐った野菜を食べて嘔吐する全裸男といった映像が挿入されている。自分にはそれらが何を意味しているのか理解できなかったが、おそらく何かを象徴する者たちなのであろう。そこに込められた意味よりも映像が印象的だった。
この映画はこうした断片的なエピソードを紡ぎながら展開されていく。それが見ようによってはワケが分からない、退屈だと思う人もいるだろう。ただ、確かにバラバラではあるのだが、一つ一つのエピソードを租借しながら読み解いていけば、大きなメッセージ、テーマは導けるような気がする。
幸せだった幼年期、鬱屈した少年期、ゲイとしての目覚めた青年期、そしてエイズを告知され死を待つ現在。実は、これらはすべてジャーマン本人が辿ってきた半生と一致する。つまり、今作は彼自身の生涯を紡いだ壮大なページェントなのではないだろうか。特異な映画作家の人生、苦悩、幸福が凝縮された1本のように思う。
そして、もう一つ。製作されたイギリスの時代背景を考えてみると、幻想的な作風の中にも鋭い風刺が所々に読み取れるのも興味深い。80年代のイギリスと言えば、経済不振が続き国中が停滞ムードに陥っていた頃である。以前紹介した
「THIS IS ENGLAND」(2006英)にもそのことは如実に表れていた。若い失業者やホームレスが道端で物乞いをするような暗く寒い時代だった。
この国中に蔓延した絶望感が、病魔に侵されたジャーマンにこのようなデカダンでカオスな作品を撮らせた‥という風には考えられなくはないだろうか。自身の崖っぷちの人生とイギリスという国の破綻をどこかで重ねているようにも見える。これが当時のD・ジャーマンの正直な心情の吐露であり、イギリス社会の実情だったのかもしれない。
映像は例によって8ミリ、16ミリ、ビデオを織り交ぜながら様々なフィルターで色彩加工されている。鬱症的なブルーを基調とした寒色トーン。戦争、死、血を連想させる刺激的な赤。そして、彼の幼い頃を捉えたホーム・ムービーは暖色トーンで切り取られている。様々に使い分けられる色彩トーンに映像アーティスト、D・ジャーマンの才能が伺える。
異才D・ジャーマンの私的フィルム。この浮遊感に身を委ねて見るべし。
「エンジェリック・カンヴァセーション」(1985英)
ジャンルロマンス
(あらすじ) どことも分からぬ荒涼とした大地。複数の男たちが何かを求めて彷徨っていた。やがて男たちは洞窟の中で愛し合う。そして再び荒涼とした大地へ帰っていくのだった‥。
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(レビュー) イギリスの異才D・ジャーマン監督による幻想的な作品。
ストーリーはほとんど無いに等しく、基本的にはイメージ映像のような作りになっている。おそらく多くの人が、何を言いたいのか分からない‥となるだろう。これはD・ジャーマンという作家のバックボーンを知っていないと厳しい映画かもしれない。
自分は全てではないがD・ジャーマンの作品を何本か観ている。彼が辿ってきた人生も少しだけ知っているので、その中でこの映画が何について描いているのか?何を訴えているのか?ある程度想像できる。
D・ジャーマンはゲイであることを公言し、52歳で亡くなった短命な作家である。最後は私的フィルムの極みとも言うべき「BLUE ブルー」(1993英日)という作品を残している。この「BLUE ブルー」は自身の失明の危機との闘いを描いた75分に及ぶ実験的作品で、何と全編青い画面を写しただけの作品である。彼の映画作りのスタンスは、この「BLUE ブルー」に代表されるように常に自己表現の場なのである。
そして、彼は大学で美術を専攻してから映画界に入ってきた映像派の才人である。元々アート志向の強い人で、したがって映画作りもエンタテインメントを目的とするのではなくアートを目的としている。
こうしたバックボーンを理解した上で本作を見ると、作品が放つメッセージも何となく理解できるのではないだろうか。
つまり、ここに登場する愛し合う男たちはゲイだったジャーマン自身の自己投影に他ならない。そして、彼らが荒野をさ迷い歩く姿は、社会から阻害される自身の孤独を表現しているのだろう。彼の他の作品を見ても同性愛というテーマは必ずと言っていいほど入っており、この「エンジェリック・カンヴァセーション」にもそれは色濃く反映されている。紛れもなく本作はD・ジャーマンという作家の本質がダイレクトに表現された作品と言っていいと思う。
映像的に見ても本作は非常に美しい。他の作品と比較しても、ここまで明るさに溢れた作品というのは珍しいのではないだろうか。実在した同性愛の画家カラヴァッジオの半生を描いた「カラヴァッジオ」(1986英)、中世時代の王の退廃的な愛を描いた戯曲の映画化「エドワードⅡ」(1991英日)等で見られた深い”闇”に対するこだわりも一部で見受けられるが、それすらも”光”に相殺されて禍々しさは余り感じられない。むしろ、”闇”は同性愛者が逃げ込む場所であり、どこか哀しみすら誘発する。
そして、ジャーマンの映像の特徴と言えば、フィルムとビデオを巧みに混在させた映像処理である。今回は8ミリをブローアップしており、より”私的”映像の匂いが感じられた。言ってしまえば、低予算をカバーするための苦肉の策なわけだが、これが奏功し彼にしか作れない独特の映像世界が形成されている。
尚、今作にはセリフはない。あるのはイギリスの名優J・デンチが朗読するシェイクスピアのソネットが映像に被さるだけである。シェイクスピアのソネットは愛について謳った詩集だが、ここではそれが愛し合う男たちの映像に被さることでジャーマンの同性愛に対する賛歌のように聞こえてきた。
前半は楽しめたが後半で失速。
「テルマエ・ロマエ」(2012日)
ジャンルコメディ・ジャンルファンタジー
(あらすじ) 古代ローマ帝国。ハドリアヌス皇帝の元でテルマエ(公衆浴場)を建設しているルシウスは、ひょんなことから現代の日本の銭湯にタイムスリップしてしまう。そこで彼は日本の風呂文化を目の当たりにして驚愕した。そして、様々なアイディアを流用してローマに新しい公衆浴場を作り出世していく。その後も、彼は度々現代の日本にタイムスリップする。そして、漫画家志望の真美という女性と出会う。
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(レビュー) 人気の同名コミックを実写映画化した作品。
この原作の面白さは、古代ローマ人のルシウスが現代の日本の風呂文化にショックを受けながらそれを取り入れていくという、言わばカルチャーギャップにあるように思う。そういう意味では、映画前半は原作に沿った作りで素直に楽しめた。
ところが、後半から皇帝の後継者争いというシリアスなドラマへシフトしていく。更に、真美というオリジナルキャラもメインのドラマに絡んできて、何だか原作から離れてしまい今一つ乗り切れなかった。別にオリジナルのストーリーをやることが悪いとは思わない。しかし、本作の肝とも言うべきカルチャーギャップ・ネタも無ければ、風呂文化に対する”こだわり”も余り感じられない。ルシウスが歴史の改変を止めようとする、タイムスリップ物にはよくあるドラマになってしまった。
加えて、真美が古代ローマの世界にすんなり溶け込んでしまうのも、面白みに欠ける。ここはもっと突っ込んで描けば、いくらでも彼女のヒロインとしての魅力や笑い所を作れたはずである。
また、皇帝の後継者争いのバックグラウンドが明確に示されていないのも×である。オチも常套過ぎてもう一捻り欲しい所だ。
今作で評価したいのはイタリアのチネチッタのオープンセットを使った壮大なロケである。これは流石に見応えがあった。この見事な絵図が、バカバカしい物語をよりいっそうバカバカしくしている。
また、ルシウスが言う所の”平たい顏族”の日本人キャストも良い。よくぞここまで日本人的な顔を集めてきたなと感心させられた。
キャストではルシウス役を演じた阿部寛、ハドリアヌス皇帝役を演じた市村正親が奮闘している。二人とも目鼻立ちがはっきりとしているので周囲の外人キャストに交じっても全然違和感を感じなかった。
まさかのミュージカル!
「愛と誠」(2012日)
ジャンルロマンス・ジャンルアクション・ジャンル音楽
(あらすじ) 1972年、東京の裏街道で喧嘩に明け暮れていた不良少年・誠は、ひょんなことから早乙女財閥の令嬢・愛と知り合い、彼女が通う名門・青葉台学園に転入させられる。実は、二人は幼い頃に運命的な出会いを果たしていた。誠は愛の命の恩人だったのである。愛はそんな誠を何とか更生させようとする。しかし、当の誠は愛の想いをよそに喧嘩騒動を起こして退学になってしまう。その後、彼は不良の溜まり場として有名な花園実業に転校する。誠を追いかけるようにして愛も転入するのだが‥。
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(レビュー) 梶原一騎・ながやす巧による同名コミックを鬼才・三池崇史が監督した作品。不良少年と財閥のお嬢様の恋を歌とダンス、激しいバイオレンス描写で綴った痛快エンターテインメント・ムービーである。
漫画ファンの間ではよく知られている有名な原作であるが、実はこの作品は1974年に西城秀樹・早乙女愛主演で映画化されている。自分は未見であるが、映画はヒットし、その後2本の続編が製作された。当時は時代設定的にそれほど変わらないので、割と自然な形で映像化されたのではないだろうか。
しかし、今となってはやはりどこか古臭く感じるドラマである。それをどうやって今の観客に楽しんでもらえるように映画化できるか。おそらく三池監督も相当苦心したのではないだろうか。そして、出来上がった物は何とミュージカルである!
なるほど、いかに古い原作でも、こうしてミュージカルという、一種異空間で行われる物語として作れば、確かにフィクションとして素直に楽しめるかもしれない。原作ファンからすれば賛否は出てくるかもしれないが、個人的にはこういうやり方も”あり”と感じた。
今作にはそうした1974年版へのオマージュも入っている。序盤に74年版で主演を果たした西城秀樹の往年のヒット曲「激しい恋」がかかる。しかも、誠が不良グループをバッタバッタとなぎ倒しながら、歌謡ショーよろしく大立ち回りを演じるのだ。もはやこのノリ、完全に大衆演劇のようである。
かように今作は何の前触れもなくミュージカルをかましてくるので、最初で入り込めなければ最後まで見るのは少々厳しい映画かもしれない。リアリティを求めず、純粋にエンターテインメントとして割り切って見るべき作品である。
そもそも、映画の幕開けはアニメーションから始まる。ここからして三池監督の劇画タッチの宣言に他ならない。完全にリアリズムを払拭した導入部である。
物語の方は展開に荒唐無稽な部分もあるが、愛と誠が真の愛で結ばれていく過程は上手く描けていると思った。加えて、誠には自ら抱えるトラウマを克服するというドラマが用意されてる。こちらも綺麗にまとめられている。
ビジュアルも面白い。原作が1973~76年に発表された作品なので、映画の時代背景もそれに合わせて設定されている。サイケでグラマラスな美術がどこかファンタジーの様相を呈し、独特の空間を形成している。人工的で演劇的な背景が横溢するので、そこで歌やダンスが行われてもそれほど違和感はない。逆に、ナチュラルな風景の中でそれが行われると違和感を持ってしまう。個人的には、愛が歌う「あの素晴らしい愛をもう一度」のシーンは白けてしまった。
ミュージカルシーンは今作の大きな見所である。序盤の誠の大立ち回り、井原剛志が怪演する権太の登場シーンは特に印象に残った。権太は見た目からして厳ついキャラなのだが、それがTVアニメ「オオカミ少年ケン」の主題歌で登場してくるのだ。この選曲センスは素晴らしい。しかも、撮り方が完全に「ストリート・オブ・ファイヤー」(1984米)や80年代のPV風なノリである。当然そのあたりも狙ってやっているのであろう。思わずニヤリとさせられた。
主要キャストは今時のイケメン、美少女で固められている。誠役は妻夫木聡、愛役は武井咲が演じている。物語の時代背景に不似合な今風の人気俳優をキャスティングしたことで、そこに背景とのギャップが生まれる。これがまた珍妙で面白かった。特に、武井咲の天然ボケなお嬢様振りが面白い。
他にガムコを演じた安藤サクラのスケバンぶりも印象に残った。元々こうしたやさぐれキャラは得意とするところであるが、今回は周知のように完全に劇画チックな世界である。完全に振り切った演技が堪能できる。
しかも、このキャラは原作ではチョイ役だったらしいが、今回の映画化にあたって大きくフィーチャーされたキャラクターである。第三のヒロインとして、メインの二人に引けを取らないほどの存在感を見せつけ印象に残った。
特に、病院のシーンは中々味わい深い。彼女は誠に惚れているのだが、立場上身を引かねばならぬ定めにある。その想いを胸に仕舞って、誠が入院している病室の前にそっと花を置いて去っていく姿が実にいじらしかった。
ただ、ガムコのドラマは最後に投げっぱなしなままで終わっているので、そこは少々勿体ないという感じがした。これでは暗すぎるし中途半端である。彼女は悪ぶっていても本当は乙女の心を持ったロマンチックな少女である。せっかくここまでフィーチャーしたのだから、そのあたりを鑑みてもう少し救いのある締めくくり方にしてほしかった。
他には、愛に恋焦がれるクラスメイト・石清水弘を演じた斎藤工も中々に良かった。特に、クライマックス直前の釣堀のシーンは彼の見せ場である。このドラマに登場する人物は皆、誰かが誰かを愛しているが、その相手が他の誰かに夢中である‥という、非常に入り組んだ人間関係となっている。石清水の場合は愛を愛しているが、愛は誠を愛している。どんなに恋焦がれても彼の想いは愛には届かないのである。その切ない恋心がこの釣堀のシーンで露わになる。「愛する人が幸せになることが僕にとっての幸せだ。」彼は序盤で誠にそう言い放つが、そのセリフがここで反芻されしみじみとさせられた。非常に暑苦しい演技であるが、それがかえって胸を打つ。
中山美穂の美しさとロケーションが光る作品。
「東京日和」(1997日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 写真家・島津巳喜男は妻ヨーコと仲睦まじく暮らしていた。しかし、巳喜男の稼ぎだけでは食って行けず、実際にはヨーコが家計を支えていた。ある日、編集者を集めて自宅でパーティーが開かれる。巳喜男とヨーコは些細なことで口論となり、それから3日間ヨーコは家を出て行ったきり帰ってこなくなった。その後、ようやく戻ってくると、彼女は次第に情緒不安定になっていく。巳喜男は何もすることができず、ただ優しく見守ることしかできなかった。
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(レビュー) アラーキーこと写真家の荒木経惟と妻・陽子の共著「東京日和」をモチーフに、竹中直人が監督兼主演で映画化した作品。長年連れ添った夫婦の愛を静かに描いた感動ドラマである。
映画はいかにもセットであることが丸分かりなベランダのシーンから幕開けする。そのチープさに多少不安を覚えたのだが、ドラマが進むにつれて次第に素晴らしいロケーションが登場してくる。
主人公・巳喜男は様々な場所へ出掛けて写真を撮るのだが、その景色が一々凝っている。東京の下町、東京駅、銀座、九州の厳木(きゅうらぎ)駅、そして大林宣彦監督の
「廃市」(1984日)でも印象的だった福岡県柳川市の緑豊かな町並み。いずれも、どこかレトロチックな景色で、時代が微妙にずれている所に面白さを感じた。
中でも、二人が空き缶を蹴りながら延々と歩くシーンは白眉である。それまで2人の関係はギクシャクしていたのだが、その”わだかまり”が一掃される心温まるシーンとなっている。ここに登場する東京の片隅に存在するであろう、どこかの裏道は、実際には何の変哲もない風景なのに不思議と風情が感じられた。撮り方の上手さとロケハンのおかげだろう。
尚、この空き缶のシーンを筆頭に、本作は小物の使い方が抜群に上手い。国木田独歩の小説、猫、花といったアイテムがドラマを上手く盛り上げている。特に、ラストの”アレ”には参ってしまった。日常の隅に隠された小さな文字にまで目くばせした脚本の巧みさである。冒頭の伏線が見事に回収され感動させられた。
本作の脚本は岩松了。彼の印象と言うと、三木聡監督のコメディ映画などで独特の芸風を見せる”面白いおじさん”である。その彼がこうしたセンチメンタルなストーリーも書けるとは驚きだった。夫婦の確かな絆がゆったりと筆致されていて感心させられる。
その一方で、同じ団地に住む少年とヨーコの交流には、少しホラー的な要素が見られた。ヨーコが情緒不安定になっていく原因は、どうもここに関係があるんじゃないか‥ということが、このエピソードによって少しずつ判明してくる。つまり、ヨーコは母親になれない女性であり、少年への特別な愛情は彼女の疑似母性愛の表れであると想像できるのだ。このねじ曲がった愛は、悲しくもあるが怖くもある。母性の狂気がかすかに透けて見える所に、面白味を感じた。
ただ、これは個人的な好みの問題もあろう。前半はストーリーを進展させるよりも設定の説明に注力されるので、観ていて少々退屈してしまった。出来れば映画の取っ掛かりとして、何か一つドラマの方向性をはっきりと示すような事件があった方が良いと思った。どうしてもダラダラとした感じになってしまう。
竹中直人の演出はこれといって斬新ではないが手練れたものを見せている。彼の初監督作品「無能の人」(1991日)から一貫するオフビートな笑いを忍ばせながら、しみじみとした味わいで夫婦愛を紡いでいる。
特に、後半の”見せない”キスシーンは、今の時代には不似合いなほどの奥ゆかしさで、こう言っては何だが、このシーンを描くためにこのドラマは存在するのではないか‥と思えるほど素敵なシーンになっている。全編レトロフィーチャーなテイストにも、このキスは上手くハマっていた。
キャストでは、竹中直人本人の演技については、良くも悪くもいつもの竹中直人である。多少大仰になってしまうのは如何ともしがたい。それが彼のカラーである。これを見ると、やはり彼はシリアスよりもコメディの方が映えると思った。
一方、ヨーコを演じた中山美穂は、そのビジュアルだけで最後まで持って行ったという感じである。演技云々を言ってしまうと少々厳しいものがあるが、ビジュアル的な魅力は存分に感じられた。特に、ファインダー越しの彼女の表情には惚れ惚れするほどだった。女優を美しく撮れる監督は名監督というが、まさに本作の中山美穂の美しさはそれを証明して見せている。
その他に、今作には様々な映画監督や有名俳優がチョイ役で登場してくる。おそらく竹中監督の繋がりなのだろう。意外な所では、映画監督の森田芳光と歌手の中島みゆきの掛け合いなんていうのも見られる。これは大変珍しいと思う。
尚、原作者であるアラーキー本人も特別出演している。しかし、さりげなく登場するならまだしも、結構重要な場面で、しかも堂々と登場してくるので面喰ってしまった。あの通り強烈な個性を持った人なので、彼が出てくると途端に映画の世界から現実の世界に引き戻されてしまう。これこそ、もっとさりげない形でのカメオ出演に留めて欲しかった。
まるで演歌の世界ような切ないメロドラマ。
「約束」(1972日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 自分の素性を隠し続ける女・蛍子。飄々とした喋りで彼女に語りかける男・朗。二人は日本海を北上する電車で出会った。やがて電車は小さな町に辿り着き、蛍子は隣に座っていた中年女性と降りて行く。朗も彼女たちの後を追いかけて行った。その先で彼は蛍子が抱える秘密を目撃していく。
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(レビュー) 男女の悲恋を抒情的に綴った作品。
まるで演歌の世界のようなウェット感タップリなドラマであるが、簡潔で無駄のない語り口、哀愁を漂わせた映像美は大いに見応えがある。
物語は電車の車内から始まる。合席になった男女3人がこのドラマの主役たちである。一人は過去の罪を背負って生きる蛍子という女。彼女の隣に座るのはどこか気品の漂う初老の中年女性。そして向かい側に座るのはお調子者のフウテン青年・朗。3人のやり取りの中でいったい彼らが何者なのかが徐々に判明していく。この序盤のシークエスからして惹きつけられた。新聞記事や途中で乗車する刑事と囚人といった、小道具、サブキャラを駆使した演出も、3人の素性をそれとなく分からせるヒントになっていてミステリ映画のような面白さも感じられる。
その後、3人は電車を降りてある港町に辿り着く。ここからドラマは本格的に始動していく。
蛍子は過去にある罪を犯しており、その罪に苦しんでいた。そして、朗はそんな彼女の全てを受け入れて、蛍子を愛するようになる。そして、彼らは”ある約束”をして一旦別れる。ところが、実は朗も他人には言えぬ複雑な事情を抱えており、その約束を果たせるかどうか分からなくなっていく。そこが本ドラマの最大のクライマックスである。
メロドラマとしての高揚感、抒情性に溢れた作りが見事である。やや雰囲気重視でリアリティ云々を言ってしまうと少々苦しいものがあるが、セリフで語るのではなく映像で語るのも映画表現の大きな醍醐味である。本作はそれが徹底された作品のように思う。
蛍子と朗が電車を降りてキスするシーンも切迫感に溢れていて良かった。二度と会えぬと承知で最後の賭けに出た朗の心情を察すれば、このシーンは実に切なく見れる。と同時に、理性と欲望の狭間で揺れ動く蛍子の心中にも計り知れない葛藤が渦巻いていただろう。これまた切なくさせる。バックに流れる踏切の音が、二人の別れを急かすように鳴り響き秀逸である。
蛍子を演じるのは岸恵子。朗を演じるのは萩原健一。人生に焦燥しきった大人の女性を体現した岸の好演もさることながら、宛てのない人生を転がり落ちて行くショーケンの痛ましい演技も印象に残った。終盤の洋服店での演技などは、朗の幼稚性が見え隠れし、何とも居たたまれなくなった。思うに、彼は蛍子に母性を求めていたのかもしれない。現に、「あんたの母性をくすぐってやったのさ」と冗談交じりに蛍子に言う場面がある。大らかな愛で包み込んでほしいという朗の無意識の本音と取れなくなくもない。
もう一人の主役、蛍子の見張りをする中年女性であるが、キャラ立ちという点では主役二人に負けず劣らすの存在感を出している。彼女にもある過去があり、それは中盤で蛍子に託される手紙から読み解ける。言わば、彼女は愛に見放された孤独の身であり、今にして”女”である自分にケリをつけようと、この旅を始めたもう一人の悲劇のヒロインだったのかもしれない。その手紙には何としたためられていたのだろうか?実際に映像として見せてないので、あれこれ想像してみたくなる。
監督の斎藤耕一の演出は抒情性を引き出すことに一貫している。特に、序盤の”支払い”に関する伏線を回収したクライマックス・シーンの上手さが光っていた。この時、ラーメンの代金を支払わなかったのは、蛍子の朗に対する求愛に他ならない。口に出さずに行動で示す奥ゆかしさ。正に”演歌”の世界である。
この映像美に痺れる!
「津軽じょんがら節」(1973日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 東京でホステスをしていたイサ子は、ヤクザの恋人・徹男と一緒に故郷の津軽海峡の寒村に逃げ込んだ。徹男が組の幹部を刺したのである。イサ子はそこで働きながら徹男を支えた。そして、漁で亡くなった父と兄の墓を立てようとした。一方の徹男は、何もない田舎暮らしに暇を持てあましながら堕落した生活を送るようになる。ある日、彼は盲目の少女ユキと出会い‥。
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(レビュー) 日本海に面した寒村を舞台に男女の愛憎をドラマチックに綴った作品。
監督・共同脚本の斎藤耕一の映像感性が傑出した作品だと思う。
何と言っても、随所に登場する荒々しい海が印象に残った。まるでイサ子たちを呑み込む悲劇的運命を暗示するかのように浩々と画面に広がり、何とも言えぬ寒々しさを覚えた。
また、望遠レンズによるナロウ・フォーカスの多様が、このドロドロとした愛憎をどこか虚無的に見せている。このあたりのスタイリッシュな画作りには惚れ惚れさせられる。派手なきらびやかさは皆無であるが、一つ一つのショットが重厚で、見返したくなるような深みに溢れている。
今作は色彩センスにも卓越したものが見られる。日本海の港町が舞台ということで背景は全編寒色トーンが貫かれている。その中に赤いコートを着たイサ子、黒いスーツを着た徹男等、ポイントの配色の妙技が光る。背景と人物のコントラストがイサ子たちの異端性を強調。更には、彼らがいかにしてこの環境に適合していくことができるのか?という葛藤を見事に表現している。実に計算されつくされた色彩設計だと思う。
一方、物語の方はというと、映像の虚無感とは対照的に実に情熱的なメロドラマとなっている。物語の視点が常にイサ子たちに寄り添っているので、夫々の心情は見ているこちら側によく伝わってきて、イサ子の徹男に対する愛、徹男のユキに対する愛には深い感銘を受けた。基本的にドラマの構成自体は端正に組み立てられている。
中でも、徹男の心理変化は最も興味深く見れる部分だった。
彼はイサ子のヒモとし一日中ダラダラとした暮しを送っている。能天気な彼にこの暮らしは性に合っていた。しかし、それも最初だけである。何しろ田舎には娯楽が少ない。次第に彼は今の”何もない”暮らしに息苦しさを覚え始めていく。そんな時に盲目の少女ユキと出会い、徹男は今の暮らしから逃れるように彼女との交流を重ねていくようになる。
無論、これは徹男の一方的な性的欲望から始まった交流である。しかし、ユキの純真さに触れることで徹男の荒んだ心は徐々に潤っていくようになる。
幼き障害者に対する慈愛と言えば感動的だが、その裏側にイサ子に対する反抗心がかすかに読み解けるのが興味深い。あるいは、惨めな自分よりも更に惨めなユキを労わることで、自分の生きる糧を見出したのかもしれない。いずれにせよ、そのあたりの心理を深読みしていくと、このドラマは面白く見ることが出来る。
一方、イサ子にしてみれば、どれほど献身的に支えても、その愛が徹男に届かないという所が不憫である。それは愛情ではなく、単なる”甘やかし”に過ぎない‥という見方が出来るかもしれない。
そして、そんなイサ子がラストで見せた冷酷な”選択”。これには戦慄を覚えた。その直前の徹男に対するセリフも印象深い。彼女は徹男にこんな言葉をかけて去っていくのだ。
「あんた、故郷が見つかって良かったね」
この時の「故郷」の意味は色々と推察できる。
一般的に「故郷」と言えば、自分が生まれ育った場所ということになろう。しかし、この港町はイサ子が生まれた場所であって、徹男の生まれた場所ではない。なのに、なぜ彼女は徹男に「故郷が見つかって良かったね」と言ったのだろうか?
つまり、こういう事なのではないかと思う。この場合の「故郷」とは出生した場所を指すのではなく、本来自分が生きるべき場所、つまりの己が魂の帰巣を意味しているのではないだろうか。人間はどこから来てどこへ向かうのか?ということを考えた場合、結局は”魂”の世界に始まり、”魂”の世界に終わるのではないかと思う。やや哲学的な言い方になってしまうが、要するに徹男はこの港町に自分の生きがいを見つけることが出来たのだと思う。
逆に、イサ子にとって、これほど皮肉的な結末はない。何故なら自分が本来帰るべき場所だったこの港町に自分の居場所を見つけられなかったからであるから。ラストで、イサ子はこの港町を出て一体どこへ向かおうというのだろうか?それを想像すると悲しくなってしまう。
尚、この時の二人の服装も対照的で面白い。徹男は漁師の恰好で、イサ子はここに戻ってきた時と同じ真っ赤なコート姿である。この町に留まる者と出て行く者。二人の人生の選択がこの服装から読み取れる。
キャストでは、イサ子を演じた江波杏子の演技が絶品だった。
篠田正浩監督のラジカルな作家性が色濃く出た異色作。
「心中天網島」(1969日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 商人の息子・紙屋治兵衛は、愛する女郎・小春を身請けするために借金を背負っていた。しかし、豪商の太兵衛も小春のことを気に入っており、ぜひ身請けしたいと申し出る。小春がこれを拒むと太兵衛は逆上し、乱闘騒ぎを起こして辺りを騒然とさせた。そこに通りがかりの侍がやってきて小春を救う。小春は事の次第を打ち明けて、今後も自分のことを守って欲しいと彼に頼んだ。それを偶然目撃した治兵衛は、二人の仲を疑う。実は、その侍は治兵衛の兄・孫右衛門の成り済ましだった‥。
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(レビュー) 近松門左衛門の言わずと知れた同名戯曲を斬新な映像で綴った作品。
序盤の侍の見顕し、おせんと小春の意外な結びつき等、物語の構成が実に巧妙に仕組まれており、二転三転する展開も含めて最後まで面白く見ることが出来た。ただ、登場キャラが揃ってエキセントリックな行動に出るので、決してリアリティのある物語ではないと思った。そこはある程度、割り切って見るしかない。
例えば、治兵衛が小春を切る所や、おせんの父が噂を耳にして彼女を連れて帰る所などは、いくらなんでも感情過多で見ていてついていけない部分である。
今作の見所は何と行っても斬新な演出となろう。
映画は物語のバックステージから始まり、いきなり度肝を抜かされる。その後も各所にシュールな映像演出が登場してきて、いわゆる普通の商業映画とは一線を画した不思議なテイストを持った作品となっている。
中でも、一番インパクトに残ったのは、至る場面に登場する黒子たちである。彼らは人物の所作や舞台装置の補助役を務めながら、その空間をまるで演劇舞台そのもののように見せている。それによってこの映画には一種異様な不思議な空間が形成され、変な言い方かもしれないが、映画と演劇を融合させたかのような奇妙な面白さが感じられた。
また、所々には長回しも登場し、これもいかにも演劇的演出と言っていいだろう。周囲のモブの動作をストップさせて主要人物のみでドラマを進行させる演出も、いかにも舞台の上で繰り広げられる演劇的演出である。
監督は篠田正浩。元々の原作が人形浄瑠璃であることを鑑みれば、こうした数々の斬新な演出が、原作の再現を狙った物であることは何となく想像できる。
篠田正浩の作品は、後年のいわゆる商業的娯楽作品しか見ておらず、今回のようなラジカルな側面は初めて見た。彼の別の一面を見た思いである。後年のマイルドなテイストからは想像もつかない摩訶不思議なテイストに魅了された。
ちなみに、美術セットも中々凝っている。いわゆる日常空間とかけ離れたアーティスティックな室内装飾が、どこかこの世の物とは思えぬ不気味な空間を形成している。
また、不気味という事で言えば、今作は全編モノクロで撮影が行われている。これも男女の愛憎のどす黒さを際立たせていて中々良いと思った。特に、終盤の墓場のシーンは何とも言えない薄気味悪さを覚えた。しかも、そこで行われる”行為”が明らかに常軌を逸した変態的行為に他ならず、この悲恋をことさら異常な物に見せている。
撮影監督は名カメラマン成島東一郎である。
「紀ノ川」(1966日)でも述べたが、彼が作り出す奥行きのある画面設計は今回も際立っており、篠田監督のラジカルな感性を映像面から支えている。
一方、脚本には詩人の富岡多恵子、作曲家の武満徹といった異色の面子が参加している。武満は音楽も担当していて、浄瑠璃をベースに敷いた情熱的で抒情的なセリフを、彼が奏でるドライな音楽が上手く中和していると思った。武満自信が脚本に参加したことで、音楽とセリフが面白いバランスで成立している。
キャストでは、小春とおさんの二役演じた岩下志麻の演技が見応えあった。女郎と女房という、女の二面性を表現した所は見事である。