恋愛ドラマと社会的な問題を上手く掛け合わせた作品。
「終の信託」(2012日)
ジャンルロマンス・ジャンル社会派
(あらすじ) 呼吸器内科の折井医師は、重度の喘息患者・江木の担当医師だった。幸い病状は次第に回復し退院の日にちが決まった。その頃、折井は不倫関係にあった同僚・高井に捨てられたことで自殺未遂を起こす。落ち込む折井を江木は慰め、次第に二人は固い絆で結ばれていくようになる。
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(レビュー) 女性医師と患者の交流を描きながら、尊厳死の是非について問うた骨太な社会派恋愛ドラマ。同名小説の映画化である。
監督は周防正行、主演はその妻である草刈民子と役所広司が務めている。この布陣はアメリカでもリメイクされた同監督作「Shall we ダンス?」と同じである。ただし、作品の傾向はガラリと異なる。「Shall we ダンス?」は明朗なエンターテインメント作品だったが、本作はシリアスなドラマである。
物語は折井と江木の関係を綴る前半、折井が検察の取り調べを受ける後半。この二つで構成されている。
前半は、医師と患者、孤独な者同士が支え合いながら親密になっていくラブストーリーになっている。丁寧に描かれていて大変面白く見れた。特に、折井のキャラクターが興味深い。
彼女は聡明な女性医師で、患者から熱い信頼を受け、周りの医師からも評価されている。いわゆる出来たエリートである。しかし、人間としては未熟な女性だったのではないか‥そんなふうに思った。
まず、彼女は同僚の医師と不倫関係に及んでいる。そして、相手に捨てられると今度は自殺未遂を起こしている。普通であれば、こんなことをすれば自身のキャリアに傷がつくし、周囲に与えるショックも相当なものだと考えるだろう。しかし、彼女は考えなしに自暴自棄な行動に出てしまった。医師としての自覚も無ければ、一人の人間としても酷く個人主義的で自分勝手な女性に思えた。それは裏返せば、とても脆く壊れやすい女性だという言い方も出来る。表と裏の顔のギャップ。これが面白い。
そして、そんな彼女だからこそ、自分の担当患者である江木との淡い恋情に慰められてしまったのだろう。これには説得力が感じられた。
後半から時制が飛び、江木殺害の被疑者となった折井が検察の取調べを受ける密室劇となっている。観客は、前半で二人の関係を見ているので、あんなに愛していたのにどうしてこんな事になってしまったのか?折井の已むに已まれぬ感情を知り尽くしたうえで、ここからの展開を見ることになる。そこでの彼女の葛藤はこれまた面白く見れた。
そして、ここには尊厳死の問題が絡んでくる。尊厳死については賛否が大きく分かれる問題で、今でも大きな議論となっている。
ただ、今回のケースだけを考えてみると、やはり折井に色々と落ち度があるように思った。まず、第一に折井は江木の家族へ十分に情報を提示していない。また、院内でのコミュニケーションの怠慢もあったし、治療に際する投薬の仕方にも明らかなミスがあった。これはどう弁明しても言い逃れできない事実であろう。したがって、今回のケースでは、折井の起訴も止む無しという風に思えた。
ただ、その一方で、彼女だけに責任があったのか?という疑問も抱いた。今回の件は、江木自身にも問題があったのではないだろうか。そもそも、彼が周囲に自分の意志をはっきっりと示していれば、ここまで問題がもつれることにはならなかったと思う。実は、江木自身も折井同様、周囲から孤立した人間だった。彼がもっと家族に自分の意志を伝えていれば‥と悔やまれる。
この後半は、折井と検察官の緊張感あふれるダイローグ劇となっている。折井演じる草刈民代の熱演は大いに見応えがあった。元々バレリーナだった彼女は、本作を機にバレエを引退して女優一本で活動することになった。その意気込みはこの熱演から存分に伝わってきた。
また、この後半は周防監督の前作「それでもボクはやってない」(2007日)で見られたような、検察の取り調べの問題も暗に示されている。被疑者を精神的に追い詰めながら疲弊させ、最終的に罪を犯したことを認めさせてしまう強引なやり方。それが今回の映画にも見られた。前作から引き続いて周防監督が訴えたかったテーマだろう。
しかし、確かにこの問題意識の高さは素晴らしいことだと思うが、1本の作品として見た場合、後半でそれが突出してしまったことによって尊厳死という本来のテーマが影に隠れてしまった印象を受ける。あるいは、監督が草刈の熱演を前面に押し出すべく執拗に取り調べのシーンをクローズアップしてしまったような節も伺える。メインのテーマは孤独な男女の悲恋であり、その顛末として尊厳死という問題があるのだと思う。それが後半の作りによって、ぼやけてしまった感じを受けた。
尚、最も印象に残ったシーンは、中盤の江木の安楽死のシーンである。生と死の境界を残酷に、そして並々ならぬ緊張感と迫力で切り取った所に見応えを感じた。江木を演じた役所広司の熱演も見事だった。
最後のどんでん返しは見事。
「やさしい嘘と贈り物」(2008米)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 孤独な老人ロバートは、ある日近所に住むメアリーという女性とひょんなことで知り合い、一緒に食事をすることになった。とは言っても、彼は女性との交際に不慣れだった。そこで勤めているスーパーの上司にアドバイスを受ける。そのおかげもあってメアリーとの食事はとても楽しいものとなった。こうして二人はデートを重ねていくのだが‥。
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(レビュー) 孤独な老人と老婦人の恋をハートフルに描いた作品。
ただし、ラストで意外などんでん返しが用意されている。それを見ると少し怖い映画にも思えた。
物語は実にシンプルである。今まで友人も恋人も作ってこなかった孤独な老人ロバートが、向かいに住む老婦人メアリーと親しくなることで愛を知っていく‥というドラマである。
自分の人生を振り返って何も無かったことを後悔するロバート。そんな彼に優しく「今を楽しむのよ‥」と語り掛けるメアリー。その関係に温かみが感じられた。
しかし、ドラマ的には少々弱いという感じも持った。そもそも、この手のドラマ自体それほど珍しくはないし、第一善人しか出てこない所にどうしてもご都合主義が感じられる。過去数十年に及ぶロバートの孤独を癒すメアリーの愛に説得力が余り感じられなかった。
ただ、この映画は終盤から大胆な方向転換を見せる。そこだけは面白く見れた。というか、映画のオープニングからこの方向転換は匂わせていたのである。不穏なBGM、不気味で謎めいた映像。これらは映画の途中で何回か登場してくるが、それは全てこのどんでん返しの伏線だったわけである。
そんなわけで、見ている最中は今一つ乗り切れなかったのだが、終盤の方向転換で一気に自分は映画の中に引き込まれてしまった。
キャストでは、ロバートを演じたM・ランドー、メアリーを演じたE・バースティン、共に味わい深い演技を披露している。特に、バースティンの朗らかさを前面に出した演技は、一部で嫌らしさは感じられたものの、概ねその慈しみ深い愛には心が洗われた。
ちょっとファンタジックな人間ドラマ。
「チキンとプラム~あるバイオリン弾き、最後の夢~」(2011仏独ベルギー)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルファンタジー・ジャンルロマンス
(あらすじ) 天才的なバイオリニスト・アリは、妻に大切なバイオリンを壊されたことで自殺を決意する。それから8日間、彼は部屋に引きこもって過去を回想した。愛する娘との思い出、実弟との確執、息子や妻との関係、悲しくも切ない初恋の思い出‥等々。そして、8日目に彼はベッドで最後の夢を見ながら自らの命を絶とうとする。
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(レビュー) あるバイオリニストの最期の8日間を、彼の回想を交えて描いた人間ドラマ。
物語は主人公アリの視点で、現在と過去を巧みに往来しながら展開されている。
一日目は愛する娘とのドラマが回想される。娘は幼い頃から母の束縛を受けて育った。その反動で彼女は成長すると不良娘になり殺伐とした人生を送るようになる。何とも悲痛なドラマであるが、それがアリの視点によって温もり満ちた思い出として綴られる。
二日目は実弟との確執が回想される。アリと弟は同じ兄弟でありながら性格も素質も完全に違っていた。弟は勉強が出来たが、アリは落ちこぼれで何をやってもダメで、そのせいでアリは劣等感を抱いた大人に成長してしまう。アリにとって最も辛い思春期時代が、その黒歴史と共に振り返られていく。
更に、三日目にはアリと息子の関係が、四日目は妻との関係、五日目は初恋のドラマ‥といった具合に、これまでの半生がアリの視点で回想されていく。そして、その中から彼が自殺しようとした理由も判明してくる。
原作・監督は自伝的コミック「ベルセポリス」(2007仏)の映画化で世界的に注目を浴びたイラン出身の女流監督マルジャン・サトラピ。「ベルセポリス」は未見だが、彼女の監督しての才能は今作を見て確かなものと感じ入った。
まずは何と言っても本作に通底する様式美が見事である。アニメーションやミニチュアによる特撮、ポップな画面設計、ファンタジーな美観等、映像の作り込みが極めて独特である。元々コミック・ライターだったことを考えると、このあたりの映像センスには彼女の才能が如何なく発揮されているのだろう。実に面白い映像だった。
特に、アリと息子の関係を描いたエピソードは一番画面が凝っていて面白く見れた。息子はアメリカへ渡って結婚をして幸せな家庭を築くのだが、その家庭風景が完全にアメリカのホームドラマのようである。ポップな色彩で塗り固められたセット、古いホームドラマには付き物の外野の笑い声等、完全にパロディを狙ったものである。また、ピザの食べ過ぎで妊娠に気づかなかったという馬鹿げた話も、ほとんどアメリカン・ジョークのような面白さがある。カリカチュアされた映像、ギャグは今作随一だった。
ただし、その一方で、映画全体の構成を考えると少々疑問を禁じ得ない。
8日間に渡ってアリと周囲の関係が紹介されるというストーリー構成は、ともするとエピソードを単に横並びに並べただけで散漫な印象になってしまう。一つ一つは面白く見れるのだが、いざそれらがクライマックスを盛り上げる起爆剤になるかと言うとそうはならない。
本作のメインのエピソードはアリの初恋のエピソードである。これをもっと深く描けば更にメッセージの強い映画になったのではないだろうか。実際、このエピソード自体はクラシカルなメロドラマとして、それなりに感動できるように作られている。重要なアイテムの置き時計の使い方も中々味があって良かった。一つのエピソードとして見れば決して悪くはない。それだけに、ここにサブ・エピソードを効果的に絡ませたかった所である。
何とも例えようもない不思議な映画。
「ブンミおじさんの森」(2010英タイ仏独スペイン)
ジャンルファンタジー
(あらすじ) タイ北部の小さな村に腎臓の病気を患うブンミが住んでいた。彼の見舞いに南部の都会から義妹のジェンと甥のトンがやってくる。その夜、彼らは楽しい夕食をした。ところが、そこに死んだはずのブンミの妻フエイと、行方不明になっていた息子ブンソンが猿の姿になって現れた。彼らはブンミを心配して森からやってきたと言うが‥。
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(レビュー) 余命わずかな男の周囲に起こる様々な出来事をファンタジックに綴った作品。
どうにも評価に窮する作品である。基本的には幽霊や森の精霊が登場するファンタジー映画なのだが、作品が訴えたいテーマはタイという国の歴史、政治、あるいは農村で暮らす人々の佇まいといった”現実”である。非現実的な事象の中に社会的・歴史的テーマを描こうとした試みはユニークだと思うが、実際に見てみると余りにもファンタジー色が強すぎて今一つピンと来なかった。
ドラマは、ブンミの亡き妻フエイと、行方知れずになっていた息子ブンソンが変わり果てた姿で戻ってくる所から始まる。ここだけを見ると家族の絆を巡るドラマのように思うのだが、ストーリーはそう安易に進まない。
ブンソンが猿になった理由はぶっ飛んでいるし、古代の王女が出てきて森の中で妖艶な体験をするし、軍人が突然出てきて猿を捕らえたり、不思議な出来事が次々と登場してくる。これらが何を意味するかは、タイという国の歴史、政治をある程度知っていれば理解できるだろう。しかし、予備知識なしで見たら、何のことかさっぱり分からないと思う。全てメタファーとして描かれているのだ。
確かに、夫々のシーンは一つの独立した”見世物”として捉えれば中々面白く見れる。ただ、全体のドラマとしての芯が無く、映画の作りとしてはいささか乱雑である。しかも、ファンタジーの器に無理やり現実的なテーマをはめ込んでしまったために、どうにも掴みどころのない映画になってしまった。
森の風景は美しく撮られていて見応えがあった。特に、王女が滝つぼで体験する不思議なシーンは美しかった。また、後半の鍾乳洞のシーンには独特の幽玄さも感じられた。
ラストは賛否あるかもしれない。ジェンとトンが何故ああいうことになってしまったのか、それが何を意味しているのかは、おそらく多くの人にとって理解できないだろう。自分も見た時には狐につままれたような感じになってしまった。
しかし、後になって色々と振り返ってみると、非常にミステリアスで秀逸な結末だと思った。おそらく、ブンミと一緒に森の中へ入っていったジェンとトンは、あの神秘の体験に触れることで自らも現実とファンタジーに分離してしまったのではないだろうか。だからあのようなシュールなラストになったのだと思う。
このように、本作は見た人によって解釈が色々と分かれそうな映画である。あれこれと想像しながら何回も観る。そうすることが本作の醍醐味のように思う。
癌におかされた青年の悲喜こもごもを軽妙に綴った作品。
「50/50 フィフティ・フィフティ」(2011米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) ラジオ局に務める青年アダムは、ある日医師から癌を宣告される。5年後の生存率が50%いう難病だった。同僚のカイルや同棲中の恋人レイチェル、離れて暮らす両親に支えられながら彼は治療を始めた。そして、同じ病気を患う老人たちと仲良くなったり、新米セラピスト・キャサリンに色々と相談にのってもらいながら、闘病生活は順調に続いて行った。しかし、治療は想像以上に厳しく、次第にアダムは精神的に疲弊していく。
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(レビュー) 実際にあったドラマを、今作で助演を務めたセス・ローゲンが製作を兼ねて映画化した作品。脚本家は自分の実体験を元に本作のシナリオを書いたということである。
いわゆる難病物なのだが、決してお涙頂戴物になっていない所が良いと思った。また、本作は単に癌を克服するだけのドラマではなく、一人の青年の心の成長を描いたドラマにもなっている。そこに普遍性が感じられた。
主人公のアダムはラジオ局で番組の制作をしている真面目な青年である。彼の周囲には親友で同僚のカイル、同棲中の恋人レイチェルといった人間がいて、彼らに支えられながらアダムはそれなりに満足した生活を送っている。
ここで面白いと思ったのは、カイルのキャラクターである。彼はアダムと正反対のイケイケなナンパ男で、生真面目なアダムとの対比が面白い。
また、恋人レイチェルのキャラクターも、アダムとの関係性に於いては絶妙だと思った。彼女は画家を夢見ている女性で、いわゆるアーティスティックな一面を持っている。これが視聴率優先のラジオ番組を製作しているアダムには無い資質となっている。しかも、アダムはどちらかと言うと受け身な性格であるが、反対に彼女は割と行動派である。この対比も面白かった。
この映画が優れている点は正にここで、主役に平凡な男を据えて、周囲にアクの強いキャラクターを揃えたことである。病魔に侵されたアダムが彼らとの交流を通して、本当の自分を見つけていく、自分の殻を破っていくというドラマ構造が見事に形成されているのだ。ある意味で、この映画は自分探しの旅のドラマ‥とも言える。
クライマックスでは、何事に対しても逃げてきたアダムが、ついに逃げも隠れも出来ない状況に追い込まれてしまう。ここで初めて彼は泣き叫ぶ。カイルやレイチェルの影に隠れて生きてきた自分を捨てて、ついに本当の自分を思いっきり曝け出すのだ。この感情の爆発には胸が熱くなった。
尚、アダムは両親とも不仲である。母親は過保護で、父親はアルツハイマー病を患っていて、彼は実家に寄りつこうとしない。しかし、癌を宣告されて初めて彼は両親に正面から向き合おうとする。死に際して家族の重要性を知っていくのだ。これも自分を見つめ直す行為と言えよう。
そして迎えるラスト。映画はアダムと女性セラピスト・キャサリンの会話で終わる。ここは興味深かった。彼女がアダムに、今後どうするの?と尋ねても、アダムはただ微笑むだけである。そのまま映画は終わってしまう‥。観客に答えを託した結末が深い余韻を引く。
自分はこのラストを見て、あぁ、アダムは新しい人生を選択したんだな‥と思った。見る人によって捉え方は夫々になるかもしれないが、自分にはアダムの”新たな出発”のように感じられた。
キャストでは、アダム役を演じたJ・ゴードン=レヴィットの熱演が中々良かった。苦しい闘病演技を上手く表現していた。
ただ、個人的には悲劇一辺倒になりかねない今作に絶妙なユーモアを持ち込んだカイル役のセス・ローゲンの方を強く買いたい。
カイルは非常に陽気な男で、シリアスなアダムとは性格は正反対である。他人の考えを気にしない独善的な部分もあるが、心根は優しい男でアダムのことを本気で心配する。病気で落ち込んでいる彼に、良い気晴らしになるからと言って色々とおせっかいをする。それによってアダムの私生活は乱されることもあるのだが、二人の友情は絶対に壊れることはない。カイルはアダムにとって唯一の親友。何でも言い合える、真の友情が二人の間を取り持っているのである。これをセス・ローゲンが独特の愛嬌で妙演していて印象に残った。
姉妹の確執をミニマムに綴った佳作。
「レイチェルの結婚」(2008米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 薬物依存症で施設に入っていたキムが実家に戻ってくる。家族は姉レイチェルの結婚式の準備で慌ただしくしており、キムは自分の居場所を見つけられないでいた。その夜、親戚や友人が集まって祝賀パーティーが開かれる。皆が結婚の祝辞を述べる中、キムは自分の過去を暴露して祝いのムードに水を差してしまう。
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(レビュー) 姉妹の対立と葛藤をハードな会話劇で描いたヒューマンドラマ。
実の姉妹でありながらここまで互いを憎み合うとは、一体この二人にどんな過去があったのか?本作はそこを追求していくドラマとなっている。
最初は人間関係が不透明なままストーリーが進行していくが、キムが麻薬常習者だったこと、姉レイチェルと過去に因縁があったこと、別離した母との確執、そういったものが徐々に露わになってくるに連れてキムの立ち位置が判明してくるようになる。そして、レイチェルとの関係性も徐々に明るみになっていく。安易に回想で説明するのではなく、現在のやり取りから巧みに紐解かれていく所に見応えを感じた。脚本がよく出来ている。
本作の脚本を担当したのは、名匠S・ルメットの実娘ジェニー・ルメットである。彼女は今回が初めての映画脚本らしい。ここまで緻密に描けるとは誠に恐れ入った。父親譲りの才能かもしれない。
監督はJ・デミ。「羊たちの沈黙」(1990米)でブレイクして以降、今一つ目立った活躍がない監督だが、今回はこれまでのサスペンスとは異なるジャンルに挑戦している。いわゆる人間ドラマだ。ただ、演出自体はドキュメンタリー・タッチを推したサスペンス風味で、やはり今回も作り自体は一貫している。人間ドラマというよりもサスペンス・ドラマといった感じで見れる。そして、このタッチは姉妹のギスギスした関係描写に見事にハマっており、最後まで息の抜けない緊迫したドラマを作り上げている。
例えば、祝賀パーティーでのキムのスピーチ。姉のレイチェルに対する嫉妬と敵対心から、自分が辿ってきた人生を卑屈にひけらかし、その場を凍り付かせる場面。ここなどは、見ているこちらまでその場にいるかのような臨場感が味わえた。
そもそも、この場面におけるキムが座る席の位置がよく計算されている。彼女だけが家族と離れているのである。キムの孤立感、がよく分かる演出で、こうした細かな所への目くばせには感心させられる。
また、レイチェルが妊娠していることを告白するシーン。このタイミングでそれを切り出すか?‥というような絶妙のタイミングで飛び出す。これには唖然とさせられた。ほとんどシニカル・コメディのような毒気が入り混じった可笑しさがあった。
このように、和やかな雰囲気だったのが突然気まずい雰囲気になったり、喧々諤々とした騒動が、ある一言によって笑いに転嫁したり、終始飽きない作りが徹底されている。限定された室内劇という小さな芝居を、ここまで引き立たせたデミ監督の手腕は見事である。
また、小物の使い方も中々上手いと思った。過去の悲劇を表わす食器、美容室の鏡といったアイテムがキャラクターの心理、バックストーリーを饒舌に語っている。これもシナリオと演出の上手さだろう。
キャストではキムを演じたA・ハサウェイの熱演が光っていた。どちらかと言うとアイドル的な出発をしたこともありラブコメ専門の女優というイメージがあったが、今作で演技派として一皮むけたという感じがした。近年の
「レ・ミゼラブル」(2012米)で見せた熱演も忘れがたい。
全体的に完成度が高く中々の佳作となっている。デミ監督の久々の快作といっていいだろう。
ただ、結末については少しアッサリしすぎた感じを持った。小さな枠組みのドラマなのでカタルシスを求めても仕方がないのだが、姉妹の”戦い”は結局の所、夫々の人生に何の影響も与えないまま終幕してしまっている。この結婚式がキムに何をもたらしたのか。あるいは彼女の中で何が変わったのか。そのあたりをもっと明確に発して欲しかった。このままではどうしてもインパクトに欠けてしまう。
今最も注目されている俊英ドランの新作は寒村を舞台にしたサスペンス。
「トム・アット・ザファーム」(2013カナダ仏)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) モントリオールの広告代理店で働くトムは、同僚で恋人のギョームの葬儀に出るために彼の実家を訪れた。彼の実家は農場を経営しており、母アガットと兄フランシスが住んでいた。アガットはトムを歓待するが、フランシスは何故かトムを邪険にし、弔辞を読んだらさっさと帰るよう脅した。しかし、トムは葬儀で弔辞を読めなかった。寂しい葬儀になってしまったことでアガットは更に悲しみに暮れた。それを不憫に思ったフランシスは、もう暫くトムにここに留まるよう命令する。
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(レビュー) 亡き恋人の実家を訪れた青年の恐怖をスリリングに描いた異色のサスペンス作品。
製作・監督・脚本・編集・主演はカナダの新鋭グザヴィエ・ドラン。日本では
「わたしはロランス」(2012カナダ仏)で一躍注目を浴び、その後に処女作
「マイ・マザー」(2009カナダ)、「胸騒ぎの恋人」(2010カナダ)と立て続けに過去作品が上映された。ドランは今最も波に乗ってる若手監督の一人と言っていいだろう。しかも、彼は外見も中々のイケメンで、自作に度々主演もする。
尚、彼のこれまでの作品は全てオリジナルの脚本だった。それが今回は初めて原作が付いている。元々は戯曲らしいが、それでもこれまでの作品に通じるような設定、テーマが読み解けたことは興味深い。
ドランは自分がゲイであることを公言している。そのことは「わたしはロランス」の中にも投影されていた。そして、ここでも彼が演じるトムはギョームと同性愛の関係にある。表立っては語られていないが、それとなく読み取れるニュアンスは至る所に散りばめられており、今回の作品にも自己はハッキリと投影されている。
そしてもう一つ、処女作「マイ・マザー」からも分かる通り、ドランにとって母親という存在は実に苦々しい存在、生きる上での大きな障壁とされている。この母親観は、今作におけるアガットとフランシスの関係に読み取れる。母と息子との関係。これもドラン作品を語る上で欠かせない大きなテーマと言っていいだろう。
以上、2つの点を知っていると、今作は中々面白く見ることが出来る作品だ。
ただ、前者に関しては、セリフによる説明がないため見ていて気付かない人がいるかもしれない。何故町の人々がそっけないのか、何故フランシスがトムに辛く当たるのか。このあたりは作品単体で見た場合は少々分かりづらい。基本的にドランの創作スタンスは”私的”な表現から始まっている。それを知っていれば、ゲイというマイノリティに対する偏見、弾圧であることはよく理解できるのだが、初見の場合はちょっと分かりづらいかもしれない。
もう一つの母との関係というテーマ。これは、フランシスとアガットの関係に見ることが出来る。
例えば、前半の食事のシーン。フランシスはアガットに突然平手打ちをされる。何も言えずしょんぼりとするフランシスの姿には母への畏敬の念が読み取れる。
また、中盤の母屋のシーン。フランシスはトムに対して、アガットを仕方なく面倒を見ているというような告白をする。母の呪縛から解放されない息子の葛藤。それがこの告白から読み取れる。
ドランの演出は、今回は少し毛色を変えてきたという感じがした。
物語の全貌を容易に明かさないミステリアスな語り口は、サスペンス的な面白さを狙った物であり、これまでにない面白さを感じた。牛の搾乳、小牛の出産、死骸といったガジェットも映画に異様な雰囲気をもたらし中々秀逸だった。
惜しむらくは、サラの登場によって、それまで築き上げられた緊迫感が失われてしまった事だろうか‥。トム、アガット、フランシスという3人の緊密なドラマがここで弛緩してしまった。彼女の登場はトムの話の中だけに留め、とことん3人の関係に迫るような作劇にすれば更に濃密なサスペンスになっただろう。
ラストはなるほど‥と思えるようなオチだった。これをオチと言えるかどうかは賛否あるかもしれないが、監督の言いたいことは、この”エンディング”にすべて集約されているように思った。つまり、ドランはアメリカという国に表現者としての憂いを感じているのだろう。その心情は歌詞を聞くとよく分かる。
ただ、それまでの”私的”な映画から一転、政治的なメッセージに突然傾倒してしまった感は否めない。そういう意味では、釈然としない思いも残った。
女の性の旅を描く問題作後編。
「ニンフォマニアックvol.2」(2013デンマーク独仏ベルギー英)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルエロティック
(あらすじ) ジョーは再会したジェロームと幸福な暮らしを始めた。ところが、ある晩セックスの最中に突然不感症になってしまう。次第にジェロームとの関係は疎遠になり、夫婦生活は破綻していった。そして、ジョーは”快感”を取り戻そうと異常な性愛にのめり込んでいくようになる。
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(レビュー) 大胆な描写で女性の性編歴を描いた大作「ニンフォマニアック」2部作の後編。
ここからジョーは本格的に破滅の道を歩んでいくようになる。とはいっても、彼女が淫欲の世界にひたすら溺れていくだけなので、vol.1に比べるとドラマはかなりシンプルである。最後の第8章「銃」を除けば、ある種見世物小屋的な作りが徹底されており、ドラマのアップダウンは少ない。それゆえvol.1を見て期待した自分にとって、このvol.2は少々物足りなかった。
さて、彼女が不感症になった理由は、劇中でははっきりとは明示されていない。したがって、ここは想像するほかなく、そこがこのvol.2の面白さだと思う。長い間無茶なセックスをしてきたことから来る精神的なストレスなのか、子供を授かったことによる女から母への覚醒なのか、色々と想像できるが、自分は次のように解釈した。
ジョーは思春期時代に仲間とセックス・クラブを作った。そこでは、一人の男と2度以上セックスしてはならないという決まり事がある。何故かというと、愛という感傷を引きずってしまったら奔放に男と遊べないからである。だから、彼女たちは愛という物に徹底的に反発し、純粋に身体的快楽のみを追求していった。
そこから考えると、ジョーが初恋のジェロームと愛を育むというのは、彼女のこれまでの生き方と相反することである。長い間愛のないセックスをしてきた彼女の身体は、愛を拒むように作られている。だから、愛のあるセックスをしようとすると快感を得られないのである。純粋に快楽のみを求める彼女の身体的機能は、ジェロームとの愛によって崩壊してしまったのだ。
その後、ジョーは精神と肉体のバランスを欠き、失われた快楽を取り戻すべく倒錯的な性の世界へと溺れていくようになる。見知らぬ黒人とのセックス、SMプレイ、犯罪への傾倒。飽くなき淫欲の追及が赤裸々に描写され、その数々には確かに圧倒されてしまった。ただ、先述したように、見世物小屋的な面白さはあるが、ドラマ的にはそれほど面白いわけではない。何しろジョーの転落がひたすら続くだけなので、ドラマが停滞する。
ただ、その中から確実に一つのテーマは見えてくる。これは監督のラース・V・トリアーが、これまでもずっと追い続けているテーマである。”愛は罪である”というテーマだ。
それが最もよく出ているのが最後の章となる第8章「銃」である。ここでジョーはPという孤児に出会い、彼女の母親代わりになっていく。これはジョーの純粋な母性から生まれた愛ではなく、闇社会に生きる者としての打算だった。しかし、やはりそこは心を持った人間である。一緒に暮らしていくうちに次第にPに情がうつっていく。ジョーは、かつて淫欲の世界にのめり込んで我が子を失った過去を持っている。その後悔があるのかもしれない。彼女はPに失った母性、つまり愛を再び注ぐようになっていく。
しかして、この愛はまたしてもジョーに皮肉的な運命を背負わせることになる。これは母が子を捨て、拾われた子が母に復讐を果たすという輪廻のドラマとも言える。”愛は罪である”というテーマが自ずと浮かび上がってくる。
実に不幸な結末であるが、根っからのペシミスト、ラース・V・トリアー監督ならではのネガティブな愛の捉え方である。
また、このvol.2ではジョーのドラマだけでなく、彼女の話を聞くセリグマンの方にもドラマが用意されいる。彼は実はジョーとは正反対の人間、身も心も清い人間だったということが分かってくる。つまり”聖人”だったというわけである。その”聖人”がラストで”ある行動”に出る。こういう結末を予想してなかったわけではないが、見ていて唖然とさせられた。大変人を食ったオチであるし、元来現実主義者であるトリアーらしい締め括り方で、見てて思わずニヤリとしてしまった。意地の悪い結末である。
尚、このvol.2から、回想のジョーはvol.1のステイシー・マーティンではなく、現在のジョー役S・ゲンズブールに切り替わる。2人は外見上決して似ているわけではないので、このキャスト移行はかなり不自然に写った。このあたりは演出の工夫でカバーできれば良かったのだが、トリアーはそのあたりはかなり無頓着である。ただ、ゲンズブールと言えばこれまでにもトリアー作品で体当たりの演技を見せてきたミューズである。ここでも見事な熱演を見せており、これには圧倒されてしまった。
セリグマン役のS・スカルスガルドの演技もvol.1に続き堅実だった。少しユーモアを忍ばせた所が中々心憎い。
また、トリアー作品の常連ウド・キアーも登場してくる。但し、こちらは1シーンのみの出演で少し残念だった。
同様に、W・デフォーもそれほど出番は多くない。確かに彼らしい闇の組織の首領という役所ではあったが、彼本来の魅力が十分引き出せているとは言えず、少し勿体ない使われ方をしてしまった印象である。
もっとも、今回鑑賞したのは完全版よりも1時間も切り詰められた短縮版である。そのしわ寄せが編集やサブキャラの描き方に行ってるのは間違いなく、できることなら完全版でそのあたりの真価を見極めてみたい‥という気持ちにもなった。
女性の”性”の軌跡を赤裸々に描いた問題作。
「ニンフォマニアックvol.1」(2013デンマーク独仏ベルギー英)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルエロティック
(あらすじ) ある雪の降る夜、孤独な中年男セリグマンは、傷つき倒れる女性ジョーを介抱する。彼女は自分を罪深き人間だと言う。セリグマンは彼女が辿ってきたこれまでの半生を聞く---幼少時代のジョーは人一倍、性に対して好奇心が旺盛だった。幼馴染のBと共に自慰行為に目覚め、思春期を迎える頃には近隣の青年ジェロームと初体験を済ませる。そして、Bと共に欲望の赴くままに次々と男たちを漁っていった。こうしてジョーは次第に色情狂になっていく。
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(レビュー) 鬼才ラース・V・トリアー監督が、過激な性描写を交えて描く女性の半生ドラマ。計4時間強、2部作という大作である。本作は
「アンチクライスト」(2009デンマーク独仏スウェーデン伊ポーランド)、
「メランコリア」(2011デンマークスウェーデン仏独)に続く、トリアーの”鬱三部作”の最終章となる。
尚、あからさまな性描写が出てくるのでご注意を‥と言っても、日本ではボカシが入っている上に、ベルリン映画祭で公開された5時間を超える尺よりも1時間ほどカットされているので、完全版の体を成していない。おそらくだが、カットされた中にも過激なセックスシーンはあるのだろう。今回はそのあたりは確認できず残念。
物語は、色情狂(ニンフォマニアック)を自認するジョーの半生をセリグマンが聞くという形で進行する。このvol.1では全8章の内の第1章から第5章までが描かれる。その内容は、ジョーの性の目覚め、屈辱的な初体験、奔放に男たちを渡り歩いた思春期時代、父の死、初体験の相手との再会‥といった所までが描かれる。夫々にサブタイトルが付いているのでテーマは明快で理解しやすい。
自分はジョーのような色情狂という人間を現実に知らなかったので、今回の映画は新鮮に見れた。トリアーの映画はほとんどが寓話なので、過度な演出は当然あるが、それにしてもジョーの数奇な人生には見入ってしまう。
また、トリアー自身が鬱病に苛まれ続けたことによって創作された”鬱三部作”とはいえ、過去の2作品に比べると所々にコメディタッチが入っていて、今までにない新鮮さが感じられた。それによって、本来シリアスな物語もどこか屈託なく見れてしまう。
例えば、ジョーとセリグマンの会話は一々愉快である。
ジョーの絶望的な告白は、劇中劇という構成のバイアスがかかっているため、客観的に見れば現実かどうか分からない。ひょっとすると、全て彼女の作り話かもしれない。当然、セリグマンは半信半疑で彼女の話に様々な疑問と驚きを呈していくのだが、これがまるでコントにおけるボケと突っ込みのようで面白かった。
また、第3章「ミセスH」の艶笑風なタッチには思わず笑いがこぼれてしまった。この章は、複数の男と付き合っていたジョーが痛いしっぺ返しを食らう‥という訓話になっている。まず、付き合っていた不倫相手の男が妻を捨ててジョーの部屋に転がり込んでくる。その後に捨てられた妻ミセスHと子供たちが乗り込んでくる。更に、別の彼氏がそこにやって来て、その場で修羅場が展開される。まるでどこかで見たことがあるようなベタな昼メロであるが、ミセスHの掻き回しっぷりが最高に可笑しく、このエピソードには笑わされた。
その一方で、当然シリアスなエピソードもある。第4章「せん妄」ではジョーと父の関係が描かれる。
この映画の中には、幼少のジョーが父と一緒に森の中を散歩するシーンが何度か登場してくる。おそらく彼女にとってこれが今までの人生の中で最も大切にしたい思い出なのだろう。雪積もる森の風景が清らかで、淫欲に溺れてしまった現在のジョーとの対比から強く印象に残った。
しかし、そんな愛する父が病に倒れてしまう。病床の父をジョーが看護する時、彼女は知らず知らずのうちに濡れてしまうのだ。死はエロティックな物である。身体の中に根付く性衝動をどうすることも出来ない彼女の心中を察すると、切なくさせられた。孤独な彼女が唯一心を開ける存在。それは父だけなのに、その死に際に彼女の性衝動は抑えられないのである。実に悲しいことである。
そして、迎えるvol.1のクライマックス、第5章「リトル・オルガン・スクール」では、ジョーの身に劇的な変化が訪れる。彼女自信、予想だにしてなかったような展開に突入し、果たしてジョーはどうなってしまうのか?次を期待させるような”引き”を提示しながらvol.1は終了する。これも悪くない。
本作は、女性の”性”を正面から描いたセンセーショナルな意欲作である。トリアーらしい堂々としたポルノ描写の数々も見応えがあり、それによってドラマに説得力をもたらした点を大いに評価したい。その辺のヤワな監督ではここまでは出来ないだろう。創作は常に挑戦である。それを実践し続ける彼だからこそ、ここまでの作品を作り上げることが出来たのだと思う。
無論、彼の演出意図に応えた演者達の熱演も素晴らしい。
何と言っても、若きジョーを演じたステイシー・マーティンの身体を張った熱演が素晴らしく、これには頭が垂れてしまう。しかも、彼女は本作が映画初出演というから驚きである。ロリータ風な外見で男たちを手玉に取っていく様は正に圧巻で、トリアーが見出した新たなミューズという感じがした。今後の活躍にも期待したい。
ジョーの父を演じたC・スレーターの渋い演技も中々に良かった。かつてはアイドル若手俳優として華々しい活躍を見せていたが、ここ最近は御無沙汰で何をしていたのかさっぱり分からなかった。それがすっかり父親役が似合う俳優になっていて懐かしく見れた。特に、病床での熱演が素晴らしかった。
大胆なロケ撮影が素晴らしい。
「野獣狩り」(1973日)
ジャンルアクション・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 舟木明は父・長太郎と同じ刑事として、日々犯罪を追いかけていた。しかし、無鉄砲な所があり、それが長太郎の心配の種だった。ある日、外資系企業ポップコーラの社長が”黒の戦線”と名乗る犯人グループに誘拐される。明たちはこの事件の捜査に加わっていく。
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(レビュー) 「仮面ライダー」でお茶の間の人気者となった 藤岡弘が、その直後に主演した刑事アクション映画。彼が扮する熱血刑事・明の必死の捜査をスピード感あふれるタッチで描いたアクション・サスペンス作品である。
ストーリーはシンプルで食い足りないが、それを補って余りある大胆なロケ撮影、複雑な感情が入り乱れた味のある幕引きが印象に残る。プログラム・ピクチャーながら見所が尽きない作品だった。
まず、なんと言っても撮影監督・木村大作の仕事ぶりが素晴らしい。
犯人グループが都会のど真ん中で犯行声明を発表するシーン、銀座の歩行者天国の追跡劇、そしてクライマックスの衝撃的な展開等、今では考えられないような大胆な撮影が敢行されている。
本作を見て渡哲也主演の「誘拐」(1997日)を思い出した。あそこで描かれていた新宿の大敢行ロケも素晴らしかったが、実は撮影監督は両作品とも同じ木村大作である。今作の映像には、その時の画に負けないくらいの迫力がある。
また、どうやって撮影したのか分からないようなカットもある。中盤で明が犯人一味の一人を追いかけるシーンがあるのだが、ここでカメラはステディカムを思わせるような流麗さで犯人を追いかけていく。延々と走りながら犯人はタクシーに乗り込み、カメラも一緒に車道からタクシーの助手席まで乗り込む。ここまでスムースに撮影できたということは、かなり計算したのだろうが、それにしてもカメラはどうやってあそこまで流れるように移動できたのだろうか?ステディカム撮影で最も有名なのはS・キューブリック監督の「シャイニング」(1980米英)だが、無論あんな大きなカメラを持ってタクシーに乗り込むことなどできない。したがって、ハンディ撮影なのだろうが、まったくもって躍動感あふれる映像である。
一方、ストーリーも軽快にまとまっていて見やすい。今作のランタイムは何と80分という短さである。確かに説明不足でご都合主義な面もあるが、これだけ軽快に進むとストレスなく見れる。
明と長太郎の父子関係、個々の内面造形、バックストーリーはフラッシュバックや周縁との会話、そして捜査の中で十分に説明されている。無駄のない作りが見ていて心地良かった。
ラストの幕引きも余韻を引く終わり方で味がある。
このドラマは、表向きは誘拐事件を追う刑事のドラマだが、その裏側には明と長太郎、親子の世代間ギャップが通底している。
明は猪突猛進に進む血気盛んな若者である。自らの正義を貫きながら、時には上司に殴り掛かってでも職務を全うしようとする青年である。そして、父とも決して慣れ合ったりしない。
一方の長太郎は、犯人逮捕も大切だが人命も大切であるというポリシーを持っていて、少々くたびれた老練な刑事になっている。
この父子の性格の違いは、丁度時代を反映しているように思った。つまり、明や”黒の戦線”といった危険を顧みない若者たちと、彼らの思考を理解できない保守的な大人達。この世代の隔絶が、本ドラマには透けて見える。
そして、若者と大人のギャップを最も印象的に表したのがラストである。
映画は最後に、黒の組織が録音した演説が銀座の街中に延々と流れて終わる。明はその演説を流すカセットデッキを停止しなければならなかった。しかし、それが出来なかった。それは、彼が過激な左翼思想者達だった”黒の戦線”に少なからずシンパシーを覚えたからに違いない。つまり、薄汚い金と権力欲にまみれた社会に風穴を開けようとした彼らの思想に、明は職務を超えた所で共感してしまったのだと思う。だから、彼は停止ボタンを押せなかった。このラストには、そんな明の複雑な心境が読み取れて面白い。