熊になりたかった男の話。
「グリズリーマン」(2005米)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) アラスカの大地でグリズリーの保護活動をしていた男ティモシーに迫ったドキュメンタリー映画。
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(レビュー) 野生の熊の群れに入って約13年間、100時間に及ぶ映像を撮ったアメリカ人青年ティモシーを追ったドキュメンタリー映画。監督は鬼才V・ヘルツォーク。
映画は、ティモシーが撮った映像と彼の周辺人物のインタビューで構成されている。作りとしては、いたって普通のドキュメンタリー映画で、特に奇をてらった所は無い。ただ、ティモシーの人となりに迫っていくこの淡々とした語りの中に、彼の人間性や製作サイドが彼をどのように見ているのか?といった複雑な思いが透けて見えてくるので、終始面白く見ることが出来た。
まず驚いたのは映画の冒頭である。巨大な熊とティモシーが仲良く映っている映像から始まる。一般的に言って、熊は肉食の野生動物だから絶対に近づいてはいけない‥というのが常識的な考え方である。しかし、ティモシーは恐れるどころか、熊に名前を付けて親しげに話しかけたり触れたりするのだ。日本ではムツゴロウさんという動物好きなオジサンがいる。しかし、いくら彼でも野生の熊と一緒に戯れるなどしないだろう。はっきり言って、ティモシーの行動は常人には到底理解できないものである。
また、彼はクマ狩りをする人間から熊を守るために戦っている‥と言っている。しかし、劇中で語られている通り、熊の狩猟は一定の範囲で許可されている行為である。しかも、その数は全体からすればほんの僅かである。ティモシーはそれを許せないと言っているのだ。この盲信的思考は、まるでどこぞの過激な自然保護団体のようで見てて共感を覚えるものではなかった。
このように彼は自分の信念を持って、約13年間、毎年熊の活動期間になると森へ入ってテント暮らしを始める。しかし、気の緩みがあったのだろう‥。ある晩、寝ていた時に熊に襲われて殺されてしまう。その時は恋人も一緒だったそうである。
映画の中では、その時に録音されたテープの存在が紹介されている。しかし、余りにもショッキングな内容のために作中では流されない。関係者のことを考えればそれも当然であろう。
こうして見てくると、ティモシーはかなり変わった人間であることがよく分かる。そして、映画の中で紹介されている彼の半生を見ると、その考えは益々強まった。
彼は幼い頃は動物好きなごく普通の少年だった。ところが、大学に進学する頃からドラッグとアルコールに溺れて、学校をドロップアウトしてしまう。その後、俳優を目指してオーディションを受けながら、躁うつ病の傾向があるということでカウンセリングを受け、結局、俳優になる夢は断念してしまう。こうした経歴を見てみると、もしかしたら彼は単に現実逃避をしたかった夢想家だったのではないか‥という見方も出来る。
監督のヘルツォークも、この奇妙な青年にドラマチックな”映画的素材”を見出したのだろう。
ヘルツォークのフィルモグラフィーには一つの特徴がある。最大の盟友、怪優K・キンスキーとの愛憎は、彼の作家としてのアイデンティティを決定づけたといっても過言ではない。そして、キンスキー演じる主人公は必ず孤高のアウトローだった。彼の主演作である「アギーレ・神の怒り」(1972西独)然り。「フィツカラルド」(1982西独)然り。そこには、何人たりとも寄せ付けない”狂人”の姿が写っている。ヘルツォークは、そのキンスキーと同じ匂いをこのティモシーに見たのではないだろうか。
更に言えば、文明対自然という構図も過去作で何度も描かれてきた共通テーマである。ティモシーはその狭間で揺れ動く、言わばどちらにも属さないアウトローである。彼はその狭間で、誰からも理解されずに一人で格闘していた人間である。ヘルツォークがティモシーの半生をドキュメンタリーにしようとした理由が何となく分かってきて面白い。
ティモシーを怪優K・キンスキーが演じるアウトローに重ねて見て、彼を変り者と一蹴することは容易い。しかし、同時にそこには我々一般人を惹きつけてやまない”奇妙”で”狂った”魅力も確かに存在する。自分は、世界の片隅にこんな青年がいたのか‥という思いで大変興味深く見ることが出来た。
製作サイドの3D表現の狙いは画期的。勇気を貰えるドキュメンタリー映画。
「フラッシュバック・メモリーズ」(2012日)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル音楽
(あらすじ) 2009年、交通事故で高次脳機能障害になったディジュリドゥ奏者GOMAの半生を描いたドキュメンタリー映画。
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(レビュー) GOMAは木管楽器ディジュリドゥを演奏する日本人男性である。ディジュリドゥの発祥はオーストラリア大陸の先住民アボリジニに始まる。おそらく我々日本人にとっては余り耳慣れない音楽だろう。実際に劇中で演奏されているが、この軽快なリズムとディジュリドゥの低音は何とも言えないトランス感を生み出している。おそらくクラブなどではかなり映える音楽ではないだろうか。
尚、自分はGOMAについてはこの映画を見るまでは全く知らなかった。
このドキュメンタリー映画は、そんなGOMAの現在と過去を”ある映像的仕掛け”によって紡いで見せていく。この”ある仕掛け”といのが今作の肝である。後述するが、これはかなり画期的な手法だと思う。
GOMAの過去は実に波乱に満ちている。彼は10代の頃に単身、オーストラリアへ渡りディジュリドゥに出会った。そして、この楽器に魅了され、言葉も通じない土地で孤軍奮闘、音楽活動を始める。やがて結婚して子供も生まれ、地道な活動が報われてCDが発売される。ライブも世界各地で大盛況を得、このまま順風満帆に行くかに思えた。ところが、ある日不幸が彼を襲う。事故に遭って高次脳機能障害に陥ってしまうのだ。これは脳の損傷によって記憶の断片が失われてしまうという大変厄介な病気である。これによって彼の人生は一変してしまう。
映画は全編、病気と戦いながら演奏をするGOMAの姿で構成されている。先述した”ある仕掛け”はここで登場してくる。バンドを率いてディジュリドゥを演奏する彼のバックに、これまで歩んできた彼の半生を写した”映像”が流れるのだ。この重層的映像構成は実にドラマチックである。
尚、今作は3D映画として製作された作品である。これまでは飛び出す映像、奥行きのある映像、つまり視覚に訴える効果を狙った使われ方をしてきたが、今回はそれらとはちょっと違う使われ方をしている。酸いも甘いも味わった「過去」と、事故の後遺症から立ち直ろうと奮起する「現在」。この二つの時代を重ねることで、人間の人生を立体的に見せようという狙いが感じられる。3Dの使い方として、これは中々ユニークな手法だと思った。
もっとも、自分が今回見たのは2D版だったが‥。果たして3Dだったら、どんなふうに見えたのだろう‥と思うと悔やまれる。
尚、個人的に最も琴線に触れたシーンは、GOMAが娘の誕生日に自転車をプレゼントするエピソードだった。これはGOMAの日記を元にした一場面であるが、嬉しそうな娘の写真と「神様この記憶だけは消さないでください‥」というGOMAの筆跡が重なり切なくさせられた。
また。ラストの「自分を信じることから始めよう」という力強いメッセージにも感銘を受けた。言葉だけを聞くと空々しく感じるかもしれないが、彼の半生を見せられた後ではズシンと心に響いてくる。
また、映像演出的にはそれほど凝ったものは無いが、一部でアニメーションやデジタル処理されている所がある。色々と工夫が凝らされていて面白かった。
職業物として興味深く見れる。ウェルメイドに作られてるので入り込みやすい。
「舟を編む」(2013日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 出版社の営業部で働く馬締の取柄は真面目なことだけ。どう考えても営業向きではなかった。そんな彼を辞書編集部の荒木が目を付ける。彼は退職間近で後任を求めていた。こうして辞書編集部に異動した馬締は、そこで新しい辞書「大渡海」の編纂に取り組むことになる。そこにはお調子者の西岡や、先生と呼ばれる初老の編集者・松本といった個性的な面々がいた。彼らとの交流も次第に慣れて行き、馬締はこの仕事に生きがいを見つけていくようになる。一方、プライベートでは下宿先の大家の孫娘・香具矢に出会い一目惚れする。彼女は板前になる修行をしているバイタリティ溢れる女性だった。不器用ながらも二人は交際を始めていく。
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(レビュー) 真面目だけが取り柄の青年・馬締が辞書の編集に情熱を傾けていくヒューマン・コメディ。同名小説を俊英・石井裕也が監督した作品である。
かなりカリカチュアされたキャラクターとストーリーで、見てて余りリアリティは感じられなかった。ただ、エンターテインメントに振り切ったという意味においては、よく出来ている作品だと思う。石井監督の作品はこれまでずっと見てきたが、ここまで娯楽性に富んだ作品というのは初めてだろう。その手腕に将来性を感じるとともに、日本映画界を牽引していく新しい才能に期待が膨らんだ。
その一方で、やはり彼本来の毒味や演出が薄みになってしまった所には不満を持った。本作はこれまでのような自主製作作品ではないし、原作ありきの作品だ。そこは職人に徹したと割り切るしかない。
物語は、馬締が新しい辞書「大渡海」の編集に携わるドラマを中心にしながら軽快に展開されている。
彼は元々、大学院で言語学を専攻していたので、この仕事は性に合っていたのだろう。編集者として逞しく成長していく所に、職業物の映画としての面白さが味わえた。
また、無口で無表情な馬締は自分の気持ちを上手く表現できないタイプに人間である。それが「言葉」の「海」にドップリと浸かることで、改めて自分なりの「言葉」を見つけ出していく‥というドラマも、彼の成長を描くという意味においては常套ながらよく出来ていると思った。「舟を編む」というタイトルの意味もよく理解できた。
そして、その「言葉」を使う相手。つまり、本作のヒロイン・香具矢に対する恋愛も微笑ましく描かれている。若干二人の関係性が希薄に写ったのは残念だが、必要以上にベタベタしないこの距離感は馬締らしいと言えば馬締らしいのかもしれない。二人の微妙な距離感が新鮮で面白く見れた。
石井監督の演出は、ここまでくるともはや完成の域にまで達している。これまでの特徴だったオフビート感はほどほどに、かなりウェルメイドな作りで整えられている。特に、馬締が香具矢に宛てた恋文は傑作だった。余りにもマンガ的だが、そこが微笑ましい。
また、劇中には海の音が時々バックにかかるのだが、これは「大渡海」の編集に携わる馬締の心象を表しているのだろう。「言葉」の「海」に溺れそうになる彼の不安が巧みに表現されており、この効果音の演出は実に冴えていた。
一方、今作で不満だったのは、局長の扱いである。彼は、儲からない辞書作りにストップをかけようとする、言わば今回の敵役である。その彼と馬締の対決が尻つぼみになってしまったことは非常に残念である。もう少し敵役としての本領を見せてくれたなら、クライマックスは更に盛り上がっただろう。ウェルメイドに作っている割に、このあたりの詰めが甘いのが惜しまれる。
キャストでは、馬締を演じた松田龍平の演技が好印象だった。
他に、様々な個性的なキャラクターが登場してくるが、いずれの役者も堅実に演じていて良かった。
ただし、香具矢を演じた宮崎あおいは、元々が童顔ということもあり、女性板前を目指すにしてはやや線が細く感じられた。頑張っている感じはよく出ていたが、何せ調理シーンがほとんど無いというのが致命的である。これでは役柄としての説得力が感じられなくなってしまう。もう少し角が立った女優の方が良かったのではないだろうか‥。
それにしても、普段何気なく使っている辞書であるが、こんな風にして作られているのか‥ということが知れて大変興味深かった。馬締達が「大渡海」を完成させるまでに約12年かかっている。劇中で語られいたが、あの「大辞林」にいたっては実に28年もかかったそうである。それだけ心血を注いで作られた辞書。今後はもっとありがたく活用しなければ‥と思った。
満島ひかりの妙演が良い。同監督作
「ガール・スパークス」(2007日)の発展形。
「川の底からこんにちは」(2009日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 上京して5年目のOL佐和子は職を転々としながら、現在は勤めている会社の上司と交際中だった。相手の男・健一はバツイチの子持ちで再婚を望んでいた。しかし、佐和子は中々踏み切れないでいた。そんなある日、田舎の叔父から連絡が入る。父が入院したので実家のしじみ工場を継いで欲しいと言われる。仕方なく実家に戻る佐和子。その直後、会社を首になった健一も一緒について来ることになった。こうして佐和子は慣れない工場経営を始めるのだが‥。
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(レビュー) 無気力な元OLの奮闘をオフビートなタッチで綴ったヒューマン・コメディ。
監督・脚本は若き俊英・石井裕也。2007年のPFFでグランプリを受賞して今作で商業デビューを果たした才人である。演出にまだ粗さは見つかるものの、この独特の感性はやはりこの人ならでは物がある。所々のセリフも魅力的だし、今回も終始楽しく見ることが出来た。
物語はいたってシンプルな女性の成長ドラマになっている。
主人公・佐和子は「しょうがないから」「所詮、中の下ですから」が口癖な平凡なOLである。上京5年目にして5つ目の職場、5人目の恋人と付き合っている。将来の目標は無く、日々漫然と暮らしている。そんな彼女が、ある日突然、父の入院で倒産寸前にある実家のしじみ工場を引き継ぐことになる。はてさてどうやって再建してくのか‥?というのがこのドラマの主幹である。工場に勤務するおばちゃんたちや恋人・健一との関係などが、時にコミカルに時にシリアスに綴られている。
特に捻りは無いが全体がウェルメイドに作られているので、過去の石井作品よりもかなり取っつきやすい。おそらく今まで一番入り込みやすい作品だと思う。
ただ、佐和子は少し感情移入しにくいキャラクターとなっている。対人関係は常に冷めていて、時々刺々しい言葉を吐いたりもする。そこがしんどく写ってしまうと映画に入り込むのは少々きついかもしれない。
見所はなんと言っても後半の佐和子の変身振りである。ほとんど開き直りとも思える剛腕を発揮して傾きかけていた会社の立て直しに全精力を傾けていくのだが、これが何とも痛快だった。何事に対しても冷めた態度だった佐和子が、熱い情熱を持った女性へと変身していく。そこにカタルシスを覚えた。
また、そこに至るまでのドラマのスパイアラルアップも上手く組み立てられていると思った。
佐和子はずっと父を憎んでおり、本当は実家になど帰りたくなかった。しかし、父が自分をどんなに愛していたか、どんなに大切に思っていたか。それをを知ることで憎しみが解消される。その瞬間、佐和子は本気で会社を立て直そうと決心するのだ。この佐和子の内面変化は実に周到に構成されている。見ているこちら側に、彼女の思いがすんなりと入ってきた。
更に、この物語には佐和子と父の関係以外に、佐和子と連れ子の関係も描かれている。ここにはもう一つの彼女の成長が読み取れる。言わばこれは佐和子の母性の開眼という言い方が出来るかもしれない。
実は、佐和子は幼い頃に母親を亡くしている。母の遺影を肌身離さず持っていたことを考えれば、佐和子は今でも母を愛しているのだろうが、彼女は母の愛を知らずに育った女性である。そんな佐和子が、連れ子に対して良き母親たらんとする姿は実に神々しい。それが最もよく感じられるのは、幼稚園へ送り迎えをするシーンである。これはもう完全に一人前の母親の姿である。あの佐和子が‥と感動的だった。その前段、動物園でのやり取りとの対位演出も上手く効いている。
佐和子を演じるのは満島ひかり。石井監督のオフビートな演出には上手くハマっていた。ただ、序盤の大仰な演技には少し違和感を持ってしまった。ここはもっと淡々としてても良かったかもしれない。
一方、後半からの意気揚々とした演技は上手かった。特に、工場のおばちゃんたちに「所詮私は中の下ですから!逆にそうじゃない人がいたら手を上げてください!そうでしょ!皆そんなもんなんですって!だから頑張るしかないんですって!」とタンカを切る所は素晴らしい。彼女にはこうしたハイテンションな演技がよく似あう。また、ラストシーンの演技も印象に残った。女優・満島ひかりの良い部分が上手く出た1本だと思う。
主婦の反乱を軽妙に綴った石井作品第4作。
「ばけもの模様」(2007日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 幼い息子を事故で亡くした夫婦、順子と喜一の心は完全に離れていた。順子は息子の幻影に取りつかれてノイローゼ気味。喜一も会社のOLと不倫関係にあった。そんなある日、順子は買い物に出かけた時に、奇妙な恰好をした青年・世之介に出会う。彼はメロンパンの移動販売員をしている孤独な青年だった。メロンパンを売るために全身緑色のコスプレをしていて、それがなぜか順子の心を捉えて放さなかった。その後、二人はパンを焼く機械を乗せた販売車に乗って旅に出る。
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(レビュー) 息子を失くした夫婦と孤独な青年の関係を独特のユーモアで描いたヒューマン・コメディ。
監督・共同脚本は自主映画界の俊英・石井裕也。本作は彼の長編4作目にして最後の自主製作映画となる。
物語は、前作
「ガール・スパークス」(2007日)を彷彿とさせるような、女の”イライラ”を描くドラマとなっている。
主人公・順子は、息子が死んだ現実を受け入れられず精神的に病んでいる。どうしてあの時助けてやることが出来なかったのか?どうして夫は無力なのか?そうした苛立ちと後悔の念を引きずりながら生きている。そして、溜まりに溜まったストレスは彼女を時々奇行へと走らせる。例えば、死んだ息子を探しに夜の公園へ出かけたり、鬼のお面を被って家事をしたり、カッパを探しに川へ行ったり、野球のバットで素振りをしたり等々。傍から見れば完全にカウンセリングを勧めたくなるレベルの精神的疾患者である。ちなみに、劇中ではこの”イライラ”を便秘に例えているが、このあたりにはいかにも石井監督らしい皮肉が感じられた。溜まった物はさっさと吐き出せということか‥。
ただ、前作との共通点は幾つか見られるものの、こちらは主人公が成人した女性である。前作はティーンエージャーの成長ドラマだったが、こちらにはまた違ったテーマが用意されている。順子が息子の死を受け入れて再生していくという、いわゆる”喪の仕事”を描くドラマとなっている。これまでよりも少し大人びたドラマになっていて、そこが今回面白く見れる所だった。
映画は軽快なテンポで進んでいく。精神的に病んだ順子は、ある日全身緑色のメロンパンの恰好をした販売員・世之介に出会う。世之介はパン屋のおばちゃんと暮らしている気の弱い童貞青年である。順子は彼を見て更に”イライラ”を募らせていくのだが、その一方で不器用な彼にどこか愛らしさも覚えてしまう。世之介の純粋さに失われた母性を開眼させたのか?あるいは、夫に対する反発、閉塞感に満ちた今の暮らしから脱出したいという思いがあったのか?いずれにせよ、順子は世之介と一緒に車に乗って旅に出る。
映画はここまでコメディ・ムードで展開されていく。しかし、ここからが一筋縄でいかない石井作品の面白さで、映画はこの後に起こる”ある事件”によって徐々にブラック・コメディ的なテイストを含んだサスペンスへと転じていくようになる。このあたりは
「反逆次郎の恋」(2006日)と似たような構成だと思った。悲喜劇の絶妙なバランスが中々上手い。エッジが効いたキャラクターがドラマを軽妙に見せている点も面白く、低予算ながらよく出来た作品だと思った。
石井監督の演出はこれまで以上に洗練されている。独特のオフビートなタッチは今回も相変わらず面白いと思った。
また、今回は死んだ息子のナレーションが時々挟まり、これがこの物語に奇妙な味わいをもたらしている。映画のラストを考えると、この不思議なナレーションの意味は改めて噛みしめられるのだが、この実験的な演出は予め計算された物なのだろう。感心させられた。
また、短いシーンでバックストーリーを説明してしまう所にも上手さを感じた。例えば、喜一がコンビニで立ち食いをするシーン、夜の街を弘美と部長が腕を組んで歩くシーン。このあたりにはベテランのような手際の良さを感じた。
一方で、今回も不用意なシーン、シュールなギャグ演出が幾つかあり、このあたりは今一つ自分の肌には合わなかった。例えば、石井監督は必ず自作にチョイ役で出演するが、今回の役柄については全く意味不明、且つドラマ的に何の意味も持たないキャラである。明らかに不要であろう。
また、終盤のサスペンス展開におけるパン屋の叔母ちゃんの存在感の薄さも気になる所だった。順子と部長が公園で戯れるシーンもシュールすぎて受け付けがたい。
キャストでは、これまでの石井作品の常連・桂都んぼが世之介役に抜擢されている。今までも脇役で強烈な印象を残していたが、今回は堂々の準主役である。中々良い味を出していた。
少女の自律を独特のユーモアで綴った快作。
「ガール・スパークス」(2007日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) 今時の女子高生・冴子は、ネジ工場を経営する父と小さな田舎町で暮らしている。彼女は父のことを毛嫌いしている。というのも、父は女装をして家事をこなすような変人だったのだ。そんなわけで冴子は、学校でも家庭でもイラつく事ばかりでいつも周りに当たり散らしていた。そんなある日、クラスメイトの男子が冴子に好意を持っているということが分かる。彼は虐められっ子をパシリに使って冴子に近づこうとする姑息な少年だった。冴子は更にイライラを募らせていくようになる。
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(レビュー) 今時の女子高生・冴子と行き場を失ったダメ人間たちの奮闘を、独特のユーモアで描いた青春映画。
冴子のあらゆる物に対する反抗は、この年頃に特有の反大人、反社会といった”自己”の萌芽に始まる感情としてダイレクトに伝わってきた。年頃の娘が父親を嫌煙するというのも、よくある話と言えばよくある話である。思春期真っ只中ということを考えれば、これはいわゆる反抗期のドラマという見方も出来る。
もっとも、冴子の場合は他の子たちとは、ちょっと違う事情がある。そして、そこがこのドラマの独特の面白さを形成しているように思う。
冴子の家庭環境はかなり特殊である。父子家庭で、父親がかなり変人なのである。例えば、母親がいないからと言って自分が母親になり代わって女装したり、自分の会社の社員を自宅に住まわせたり、やることなすこと常軌を逸している。こんな父親と一緒に暮らしているのだから、冴子の気苦労も絶えない。これでは性格も捻くれてしまうだろう。
本作はこんな感じで終盤まではずっと、冴子の苦労とイライラを描く物語となっている。
監督・共同脚本は石井裕也。本作は彼の3本目の長編作品となる。お馴染みのスタッフとキャストで作られた自主製作映画だが、これまでに比べるとかなり作りは洗練されてきている。オフビートなタッチもこれまで以上に手練れた感があり、見てて余り不自然と感じるような箇所は無かった。更に、冴子と父の会話を短いカット割りで見せる所などには、今までとは違った演出センスが確認できる。今回はこれまで以上に細かな所に気を配って演出しているような気がした。
また、ブラックだった前作
「反逆次郎の恋」(2006日)の反動からか、今回はコメディ色がかなり強められている。まるでシチュエーション・コントのような物から、ちょっと切なげな笑い、実に多様なギャグが用意されている。
例えば、冴子と彼女のことが好きな男子生徒のやり取りに出てくる「もみもみ」という言葉の使い方。これには思わず吹き出してしまった。絶妙なフレーズの掛け合いである。
また、2人組の虐められっ子も各所でクスリとくるような笑いを演出していて、何だかこの二人を見ていると心が自然と和んでしまった。ちなみに、彼らは後半で、今まで自分たちを虐めていたクラスメイトと仲良くなっていくのだが、これにはしみじみとさせられた。サラリと描いているあたりが味があって良い。
また、父親の女装姿を見て冴子が驚くシーン、冴子がセクハラを受ける授業シーン。こういった所にはこれまでの石井作品で見られた”毒”が少しだけ入っている。こうしたブラックな笑いも、もはや堂に入っている。
その一方で、前作のようなシュールな演出も見られた。冴子は時々空を見つめて飛行機を妄想するのだが、これは一体何だったのか?映画を見終わっても明確な答えは提示されない。逆に言うと、そこが今作の妙味で、映画を見終わった後に不思議な余韻を引く”仕掛け”になっているように思う。
以下、この飛行機に付いて考えてみた。
冴子は常々、ここではないどこかへ行きたいと願っている。嫌な父親、退屈な学校から早く解放されて独立したいと思っている。そして、物語の後半。冴子はついに単身、東京へと出る。ところが、彼女はそこで気付いてしまう。自分は単に”現実”から逃げていただけだったのではないか‥。今までの自分は周囲に甘えていただけだったのではないか‥と。この上京経験は冴子を一歩大人の女性へと成長させる。そして、田舎に戻って彼女は”新しい冴子”に生まれ変わるのだ。
このことから考えるに、冴子が度々妄想していた飛行機は、”現実”から飛び立ちたいという彼女自身の飛翔願望の表れだったのではないだろうか。自由気ままに大空を飛び回る飛行機に自分を重ね、今の閉塞感漂う暮らしから一刻も早く抜け出したいという願い。その心象だったのではないかと想像できる。
ただ、この飛行機が彼女だけに見えるのなら、この解釈は合点がいくのだが、映画の終盤で彼女の親友も一緒になって飛行機を目撃している。ここは解釈を惑わせる部分である。果たして、この場面の飛行機は現実だったのか?それとも皆に共通する妄想だったのか?
キャストでは、冴子を演じた井川あゆこの存在感が印象に残った。憮然とした表情を貫きながら、終盤では思いもかけぬ素敵な笑顔を見せてくれる。少女の自律、成長ドラマとしてのカタルシスが存分に感じられる笑顔だった。そして、極めつけは終盤の彼女のモノローグ。「女の子やめて女になります、冴子」これが実に格好良かった。本作のテーマを集約しているとも言える。
脇役陣には、これまでの石井作品の常連が揃えられている。もはや勝手知ったるという感じで、ああ、あの人か‥という風に見れた。処女作からここまで一気に見続けてくると何だか自然と親近感が湧いてくる。
シュールで過激な恋愛映画。
「反逆次郎の恋」(2006日)
ジャンルロマンス・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 気が弱くて何をしてもダメな孤独なセールスマン次郎は、ある日工場勤務の女・倫子と出会う。いつも仕事をサボってタバコを吸っている彼女に奇妙なシンパシーを覚えた。倫子の方もそんな次郎を気に入り2人は同棲生活を始める。ある日、二人はピクニックに出かけることになった。そこで次郎は恐ろしい光景を目撃してしまう。これがきっかけで二人の関係はぎこちないものとなっていく。
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(レビュー) 俊英・石井裕也監督の長編2作目。劇場作品ではなくビデオ用として製作された作品である。
前作
「剥き出しにっぽん」(2005日)と同じく、小さな田舎町を舞台にしたミニマムなロマンス作品である。但し、今回はかなり”毒”が効いているので好き嫌いがはっきり分かれるだろう。特に、後半で次郎たちが遭遇する凄惨な事件、それをきっかけとした愛憎劇の顛末。このあたりは、見る人によっては嫌悪感を覚える人がいるかもしれない。自分はある種ホラー的な怖さを覚えると同時に、ラストの余りの衝撃に打ちのめされてしまった。確かに石井監督の初期時代の短編作品にはこういうブラックなテイストが度々登場していた。そこから考えると、今回の猛毒振りは当然と言えば当然なのかもしれない。
映画前半は初々しい恋愛ドラマで進行していく。見てるこちらが、はがゆくなるような脱童貞のドラマになっていて、このあたりは前作同様、微笑ましく見れた。
物語が中盤に入ってくると、それまでの平穏がある事件によって突如として崩壊する。森へピクニックに出かけた次郎と倫子が、その先で凄惨な光景を目撃してしまうのだ。映画はこから一転、スリラー・テイストに切り替わり二人の恋愛は破綻へと向かっていく。
どうして二人の恋が終わらなければならなかったのか?それは見終わっても正直分からなかった。次郎はこの事件をきっかけに徐々に奇行に走るようになり、倫子はそんな彼を理解できずどんどん心が離れて行ってしまう。この時の次郎の心理に一体どんな変化があったのか?死という究極のエロティズムに惹かれてしまったのか?映画を見てても最後まで理解できなかった。
しかし、だからこそこの純愛の果てに訪れる理不尽なラストには衝撃を覚えてしまう。これは、いわゆる<愛>というものに対する強烈なアンチテーゼではないだろうか。
世間一般で言われている<愛>は、大体は”温もり”や”癒し”といったポジティヴなニュアンスで使われることが多い。しかし、<愛>とはそんなに一括りに割り切れるものではないと思う。<愛>は時に人を残酷にするし、時に人生を破滅へと追い込んでしまうこともある。<愛>と<憎しみ>は表裏一体である。人は孤独ゆえに愛するが、同時に相手を憎むこともできる動物である。本作のラストを見るとこの事を痛感させられる。そして、改めてタイトルの「反逆次郎」の意味を噛みしめたくなる。
石井監督の演出は今回もオフビートなタッチが貫かれている。ただ、前作のような笑いは少な目で、逆に不安や恐怖といったものを表現するために援用されているような気がした。現在の作品に比べると決して完成度が高いわけではないが、荒削りな所が良い意味で面白い。
主要キャストは石井作品のインディペンデント時代の常連で揃えられており、もはや知った仲という感じである。中でも次郎を演じた内堀義之はその強烈な外見も相まって強く印象に残った。誰からも相手にされない非モテ特有の屈折した求愛を、幾ばくかの狂気を忍ばせながら上手に演じている。
また、ヒロイン・倫子のヤンキー振りも中々に板についてた。
他に、次郎の友人としてインディーズ・バンドのミュージシャンが登場してくる。これが後半で意外な役回りを見せ、中々面白い存在になっている。また、倫子の元カレの女々しさにはクスリとさせられた。
一方、低予算な小品の割に、不要に思うシーンが幾つかあった。
例えば、劇中には次郎の先輩社員が二人登場してくる。彼らは自分たちのことを棚に上げて、仕事の出来ない次郎をいじめて鬱憤晴らしをしているダメ社員である。本編には彼らのやりとりが複数回登場してくるが、これは無駄に思えた。出社してこなくなった次郎の部屋を訪ねるシーンも不要である。
また、宇宙服を着た男が度々登場してくるが、これが最後まで謎だった。確かに面白い存在ではあるのだが、果たして何のために出てきたのか‥。余りにもユニークなのでかえって始末におえない。完全にストーリーの邪魔になってしまっている。
俊英・石井裕也監督の長編デビュー作。
「剥き出しにっぽん」(2005日)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 太郎は高校を卒業後、何をするでもなく無為な日々を送っていた。その頃、気になる存在、元クラスメイトの洋子は近所の和菓子屋で働いていた。太郎は時々それを見に行ったが、その想いは伝わることなく悶々とする日々が続いた。そんなある日、太郎は1件の不動産情報を目にする。それは郊外の畑付きの小さな家だった。太郎は一念発起して、洋子を誘ってそこで自給自足の暮らしを始めようとする。洋子も彼に付いていくことを了承した。夢のような同棲生活が始まると喜ぶ太郎だったが‥。
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(レビュー) 日本映画界の若き才能・石井裕也監督の初の長編作品。今作は大学卒業制作作品として作られた映画であるが、2007年のぴあフィルムフェスティバルに出品され見事グランプリを受賞した作品である。
石井監督の特徴は、いわゆるオフビート・タッチなコメディにあると思うが、この処女作も例に漏れず、その特色がよく表れた映画である。最後にはシリアスな展開もあり、中々面白い作品だと思った。
登場してくる俳優たちは、いずれも無名な俳優ばかり。後の石井作品の常連で固められている。映画の舞台も寒々しい小さな町に限定されており、そういう意味ではいかにも低予算、自主製作らしい肌触りが感じられる小品となっている。身の丈に合ったドラマ選定も好印象である。
何と言っても、今作の魅力はキャスト陣の魅力。そして、彼らが演じる活き活きとしたキャラクターにあるように思う。先述したように、有名な俳優は一人も出てこないが、それがかえってこの物語を新鮮に見せている。
例えば、悶々とした欲望を抱えながら童貞をこじらせる主人公・太郎には、この年頃の青年の等身大の姿がよく出ていると思った。いかにも甘えん坊な造形もピタリとハマっていて見事である。
会社をリストラされて行き場を失った太郎の父の情けなさも味があった。一見してダメ中年なのだが、時折見せる太郎に対する優しさが抜群に良く、キャラクターに見事な奥行きを持たせている。何となく岩松了のような、ちょっととぼけた親しさも良かった。
太郎の祖父も面白キャラクターだった。年の割に性欲旺盛で太郎のエロ本を見てオナニーしようと苦闘するシーンは最高に可笑しかった。彼は太郎が家の中で唯一心を開ける存在である。
他に、太郎の高校時代の友人二人組、チンピラ風の先輩、太郎がエレベーターで遭遇する色情婆といった脇キャラも一々個性的でユニークである。
このように、登場人物に関してはどこかマンガチックであるのだが、その一方で一定のリアリティも感じられ、それが本作の独特のトーンを形成しているように思った。
石井監督の演出は基本的にはオフビートなタッチで整えられている。変にドラマチックに盛り上げることをせず、敢えて淡々と紡いで見せている。
ただ、クライマックスの太郎と洋子の衝突だけは、それまでの溜まりに溜まっていた二人の感情が一気に爆発するので衝撃的である。この時の「でっかい穴」というセリフのセンスも秀逸である。太郎の卑小さ、洋子の包容力を暗に示したものとして、何だかしみじみときてしまった。
正直な所、石井監督の演出は現在に比べれば荒削りでまだ洗練されてない。但し、創作とは変なもので、作れば作るほど完成度は増していくが、逆に初期時代にあった”味”みたないものは失われてしまうものである。おそらく石井監督も、今となっては本作のような”味”は二度と出せないであろう。完成される一歩手前の青臭さとでも言おうか‥。それが愛おしく感じられるところがこの作品の良い所だと思う。
時代の空気が嗅ぎ取れる青春映画。
「星空のマリネネット」(1978日)
ジャンル青春映画
(あらすじ) 暴走族のリーダー・ヒデオは、峠を走っていた時に他の暴走族と喧嘩をして入院してしまう。病院で腐っていた所に友人のヒロシが見舞いにやって来た。ヒロシは医者の息子でヒデオとは正反対の人生を歩んでいる青年だったが、何故か彼のことを慕っていた。しばらくしてヒデオが退院する。しかし、かつての仲間は彼の元から皆離れて行き、彼は独りぼっちになっていた。そんなある日、ヒデオは喫茶店でアルバイトをしているアケミという少女と出会う。
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(レビュー) 若者たちの刹那的な生き様を渇いたタッチで描いた青春映画。
実にやるせない終わり方をする作品である。明らかにアメリカン・ニューシネマの影響を受けたラストで、当時の若者たちはこれが格好良いと思ったのだろう。個人的には「イージー・ライダー」(1969米)のエンディングと重なって見えた。
本作は、ヒデオという一人のイジけた青年がただひたすら暴走するだけのドラマであり、見ようによっては何とも冷めた感想で一蹴できてしまいそうな代物である。ただし、彼の不幸なバックボーンについて色々と考えてみると、そう安易に扱ってはいけない作品とも言える。
ヒデオの不幸は幼少時代の母の死から始まる。その死に様は余りにも壮絶で言葉が出ないほどだった。こんなのを見せられたら誰でもこたえるだろう。これはヒデオの心に相当大きなトラウマが植え付けたに違いない。その後、彼は父と暮すようになる。しかし、たった一人の肉親でありながら、二人の生活は実に空疎で暗い。顔を合わせても知らんぷり。必要以上にコミュニケーションを取らない。何とも冷め切った関係である。
こうした家庭環境を考えてみると、ヒデオが辿ってきた荒んだ人生には幾ばくかの憐憫の情も湧いてしまう。自暴自棄的にしか生きられなかった理由というのも何となく分かってきて、「イージー・ライダー」よろしく惨めで刹那的な彼の人生の幕切れには少し哀愁を覚えた。
今作にはヒデオの他に二人の若者が登場してくる。こちらもヒデオ同様、荒んだ青春を送っている。
まず一人目は、ヒデオの親友ヒロシである。彼は裕福な医者の一人息子で、ヒデオに比べたら随分と恵まれた環境にある。しかし、それは外見だけで、その出自はヒデオの家庭環境同様、かなり複雑である。ブルジョワ一家によくある話と言えばそれまでだが、彼の暮らしにはまったく愛が無いのである。家の中に居てもヒロシの心は虚しいばかり。当然、彼は家から出たがるようになる。そして、暴走族のリーダーとして自由気ままに生きるヒロシに出会い彼に憧れる。やがてその憧れは同性愛的な感情へと膨らんでいく。
もう一人はアケミという少女である。彼女は喫茶店でアルバイトをする、あっけらかんとした今時の少女である。彼女はヒデオにナンパされて付き合い始める。ところが、これがヒデオとヒロシの関係に亀裂を入れてしまう。ここに男女3人の愛憎が生まれ、以降の物語にロマンス要素が配分されていくようになる。
そのクライマックスとも言える中盤、ヒデオとアケミの仲を嫉妬したヒロシがシンナーを吸って入水自殺をするシーンはとても印象に残った。静寂な川面に流れていくヒロシの真っ白なシャツが何とも言えぬ悲しみをもたらす。
そして、物語は後半からヒデオの父が絡んできて更にショッキングな愛憎劇に突入していく。
ある晩、ヒデオは自慰行為をする父の後ろ姿を偶然目にしてしまう。ヒデオはそれを不憫に思ったのか、父に恋人のアケミを差し出してセックスをさせるのだ。この心理は自分には理解できなかった。ヒロシの死のこともあり、この頃のヒデオとアケミの間には、もはやかつての愛は無くなっていた。しかし、そうだとしても仮にも自分の恋人であるアケミを長年憎々しく思っていた自分の父親に抱かせるだろうか?この展開は自分の予想の遥か斜め上をいく超展開で、見ていて一瞬「え?」となってしまった。
その後のヒデオの行動を考えるに、彼はアケミを捨てて全てを空っぽにして自分の人生にケリとつけようとしたのかもしれない。あるいは、父にアケミを抱かせることで、彼の心に一生のしこりが残るような傷を付けようとしたのかもしれない。このように幾つか想像はできるが、いくら考えてみてもこれという確証は得られない。それを読み解く作業はこの映画が残した最後のミステリーのように思えて実に興味が尽きなかった。
このように若者のネガティブな感情が全編に渡って渦巻く本作は、終始悶々とさせられる作品である。ただ、自分自身の命や愛する人さえも放げ出すヒデオの生き様には、当時の無気力な若者たちが投影されていることは間違いないように思う。それは当時の藤田敏八監督が撮った数々の青春映画などにも色濃く反映されている。
あの頃の若者が何を思い、何に憧れ、何に反発していたのか?それを垣間見ることが出来ると言う意味では、今作は時代の証憑として興味深く見れる作品ではないかと思う。
トム・クルーズの若々しい演技が見所。
「卒業白書」(1983米)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルサスペンス・ジャンルコメディ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 高校生ジョエルは大学受験を控えた悩み多き青年。両親が旅行に行くことになり、思い切り羽を伸ばせると喜んだ。ところが、何故かそこにゲイの娼婦が突然訪ねてくる。それは悪友の悪戯だった。出張代をガッポリとられて散々な目に合ったが、その埋め合わせにラナという娼婦を紹介される。早速彼女に電話をかけるジョエル。そして、勉強もそっちのけで彼は見事に初体験を済ませた。しかし、翌朝目を覚ますと母親が大事にしていた高価な置物が無くなっていた。盗んだのはラナだった。ジョエルはそれを取り戻そうと彼女を探し始める。
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(レビュー) トム・クルーズが恋と進路に悩む青年を初々しく好演した青春コメディ。
背伸びしたい年頃の青年にありがちな、ある種の青臭き冒険談‥といった感じで微笑ましく見れた。
個人的には、同時代に製作された青春映画作家J・ヒューズ監督の一連の作品を思い浮かべてしまう。当時はこうした青春グラフィティ物の映画がたくさん作られ、そこそこの人気を博していた。そんなヒューズ作品の中でも一番お気に入りなのがM・プロデリックが主演した「フェリスはある朝突然に」(1986米)なのだが、本作もそれと同じ”ウブな少年”の一日を綴った”冒険談”というドラマになっている。
ただし、どちらかというと楽観的だったJ・ヒューズ作品のテイストと比べると今作は大分違う。あそこまでの爽快感は無く、むしろほろ苦いテイストで締め括られるあたり。少々ビターな青春ドラマになっている。このあたりが本作の妙味のように思う。
ただ、いきなり言うのも何なのだが、正直なところ1本の映画として見た場合、今作は決して出来の良い映画とは言い難い。第一にシーンの展開に強引さが目立つし、見てて混乱させられるような場面もある。
例えば、悪友の一人グレンがジョエルの留守中に彼の家にいる理由が分からないし、ラナのヒモが何故ジョエルの家を探し当てることが出来たのかも謎である。更に、ジョエルがラナと食事をするラスト。それまで音信不通だった彼女にどうやってコンタクトを取ることが出来たのかも謎である。こうした展開の説得力のなさは、映画の完成度を確実に落としている。
とはいえ、こうした雑な作りはあるものの、所々の映像については中々光るものがあり、そこについては見応えが感じられた。言ってしまえば当時のPV風なノリなのだが、例えばジョエルとラナの初めてのセックスシーンなどは中々魅力的に撮られている。窓が突然開いて風が入り込んで2人はその中で情熱的なセックスをする。臭いと言えば確かにそれまでだが、この臭さがケレンに満ちていて良い。また、後半の地下鉄のセックスもアーティスティックな映像感性で撮られていて魅力的だった。更に、ジョエルには妄想癖がある。それを表現した一連のシーンも眩惑的なトーンで撮られていて面白かった。
また、写真を使った”小ワザ”も中々のセンスを感じさせる。劇中にはジョエルの子供時代の写真が2度に渡ってさりげなく映し出される。現在と過去(写真)のジョエルを同一ショットで結ぶあたりは中々味のある演出に思えた。
音楽を担当するのは、ドイツのロックバンド、タンジェリン・ドリーム。スリリングな電子音がシーンに不思議な印象を与え、ジョエルの現実を幻想的に色付けしている。今作の独特なトーンを影から支える功労者と言っていいだろう。
キャストでは、やはりジョエルを演じたT・クルーズの初々しい姿が印象に残った。例えば、パンツ一丁になってレコードに合わせて歌いながら踊るシーンの若々しさといったらない。今の彼を見慣れている人にとっては驚きであろう。
尚、彼は後年、「マグノリア」(1999米)という作品でインチキ教祖を演じていたが、その時の過剰なパフォーマンスを、このシーンを見て思い出した。あるいは、
「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」(2008米)で演じた傲慢プロデューサーのダンス・シーンなんかも、これに近いものが感じられる。
これらのトムの演技に共通するのは、いわゆる理性のタガが外れた”俗物的”パフォーマンスで、「ミッション・インポッシブル」シリーズのアクション・スター然とした顔、「7月4日に生まれて」(1984米)などで見せるシリアスな演技派として顔とは違った面白さがある。このダンス・シーンから、その原型が見て取れた。若かりし頃の作品を見ていると、時々こういう発見があるから面白い。
一方のヒロイン、ラナを演じたレベッカ・デモーネイも、当時はデビュー間もない頃だったが、美しい肌を見せながら体当たりの演技を見せている。小悪魔的な魅力を振りまいてジョエルを虜にする姿がとても輝いていた。