(レビュー) フィクションの世界で精神病院を舞台にした映画は今までに何本か見たことがある。例えば、アメリカン・ニューシネマを代表する傑作「カッコーの巣の上で」(1975米)、チェコのアニメーション作家J・シュバンクマイエルの怪作「ルナシー」(2005チェコ)、岩井俊二の初期時代の作品
「PiCNic」(1996日)等である。しかし、本物の精神病の患者をカメラで捉えた作品というのは中々ないのではないだろうか。以前見た相田和弘監督の
「精神」(2008日)というドキュメンタリー映画があるが、思いつくのはそれくらいである。数が少ないということは、それだけこの手の題材はタブーとされてきたのだろう。
今作は中国の雲南省の精神病院で3か月にわたって撮影されたドキュメンタリー映画である。中国と言えば、今や世界第2位の経済大国である。しかし、何せ広い国なので貧富の差は想像以上に酷い。経済発展をしたのは上海や北京といった一部の都市だけで、中国の西側地方などは未だに貧しい暮らしを強いられているのが現状だ。富裕層と貧民層の二極化が進み、それが社会問題になっている。
この精神病棟に送り込まれた患者たちは、ほとんどが貧民層である。そして、全てが精神に異常をきたしてここにやって来たわけではない。ある者は犯罪を犯して、ある者は政治的な問題を起こして、ある者は一人っ子政策に反したとして強制的に収容された。だから、患者の中には正常な人も混じっているのである。
ある患者はこう言う。
「ここにいると精神異常者になってしまう‥」
多分、彼が言うように、ここにきてから精神がおかしくなった人間はいると思う。それくらい酷い環境なのである。
映画は何人かの患者にスポットを当てながら展開されていく。ただ、彼らの過去や収容された経緯などは全く解説されないので、見る方はどんな人物なのかを想像するほかない。おそらくそれが予め分かっていれば、このドキュメンタリーは患者に感情移入しやすい作品になっていただろう。しかし、本作は敢えてそれをしていない。どこまで行っても患者たちの日常風景を客観的に捉えるのみで、さながら鉄格子の中の動物を眺めるような‥そんな感覚で見るしかないのである。
最初に登場するのは、ヤーパという聾唖の少年である。病棟の部屋は全て相部屋で、彼は他人のベッドに潜り込んで寝るのが好きで、よく隣のベッドに忍び込んでいる。時々奇声を発したり、幻覚で見る虫をスリッパで叩いて回ったりしている。
その次に登場するのは、マーという青年である。裸で病院を走り回ったり、突然暴力的になったり、かなり素行の粗い患者である。目がうつろで何を考えているのか分からない所に、近寄りがたい恐怖を覚えた。
その次にカメラは新しく収容されたチョンという中年男に向けられる。ある日、彼の娘が面会にやって来るのだが、その受け答えを見る限り、どう見ても彼は健常者に思えた。ちゃんと会話もできるし、早く家に帰りたいと訴えている。もしかしたら彼は何か犯罪を犯してここに収容されたのかもしれない。
他にもこの映画の中には様々な患者たちが登場してくる。家に電話をかけたいと言って職員に暴行された挙句、手錠をかけられる男。DVか何かで妻に訴えられてここに入れられた男。十数年ぶりに退院する男等々。映画は4時間、ずっと彼らの一挙手一投足をナレーションも音楽もなく淡々と切り取っていく。
画面に出てくる突飛な行動にも驚かされる。例えば、廊下で小便をしたり、壁に自分のペニスを擦り付けたり、全裸になって水道水を頭から浴びたり等々。
しかも、ベッドの布団は取り替えてる様子はなく、食事も不衛生である。先の証言のように、こんな環境に居たらまともな人間でもすぐに頭がおかしくなってしまうだろう。人間らしい生活とは、とても言えない。
ただ、全編不快感極まる映像が続く中で、唯一ホッと安堵させられるエピソードもあった。それは、ある中年男と女性患者のささやかなロマンスである。病棟は3階建てになっており、3階が男性患者の部屋、2階が女性患者の部屋という風に分けられている。旧正月を祝う花火が打ち上げられる中で、3階の男が2階の女に鉄格子越しに愛を囁くシーンが出てくる。このシーンだけは微笑ましく見れた。周囲にばれないように廊下の電気を消す所も慎ましい。
しかし、このエピソード以外は、患者たちの奇行が延々と映し出されるだけなので、誰かに感情移入するとか、ドラマを求めたりとかすることは到底出来ない映画になっている。しかも、退院した男のエピソード以外は、カメラは終始、病院の中に固定されているので、見ている自分もこの異常な世界に紛れ込んでしまったかのような、そんな圧迫感に襲われる。
正直、4時間という長丁場をこれに付き合わされるのは苦行以外の何物でもない。しかし、逆に言えば、この過酷な現状を訴えようとするのなら、やはり4時間の上映時間は必要だったように思う。
それに、ここまで徹底して精神病棟の実態に迫ったのは凄いことだと思う。また、ある意味で国家の恥部とも言えるこの映像を世界に曝け出すことをよく中国政府は許可したな‥という驚きもある。いずれにせよ、数多あるドキュメンタリー映画の中でも、今作は大変稀有な作品であることは間違いない。
監督はワン・ビン。彼の作品は今回が初見であるが、これまでに数本のドキュメンタリー映画を撮っていて、世界では高い評価を得ているということである。今作を見る限り、被写体をどこまでも追いかける粘着的なカメラワークが特徴のように思った。そこには、偽りのない物を突き詰めようというドキュメンタリー作家としての使命のようなものが感じられた。
また、得てしてこういう映画の場合、悲惨な現状を声高らかに訴えたがるものだが、敢えて客観的な作りに徹した所にも冷静さを感じる。メッセージを強制せず、観客に考えてもらおうという作りが徹底されている所に好感が持てた。