かつて人気スーパーヒーロー映画「バードマン」で主演を張ったリーガンは、今ではすっかり落ち目の俳優になっていた。そんな彼が再起をかけてブロードウェイの舞台に立つ。上演するのは、俳優になるきっかけを作ってくれた小説家レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』。ところが、共演相手の負傷で急遽代役としてやって来た実力派俳優マイクは人一倍自己顕示欲が強く、リーガンは彼の横暴に振り回される。更には、薬物中毒で施設から戻ってきた娘サムとの関係も悪化する一方。こうして開演初日を前にしてリーガンは精神的に追い詰められていくようになる。
(レビュー) 旬を過ぎたハリウッド俳優が再起をかけてブロードウェイの舞台に上がるまでを、シニカルな笑いと痛烈な風刺を交えて描いたヒューマン・コメディ。
監督、共同脚本はアレハンドロ・G・イニャリトゥ。今作は今年のアカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞した。
いわゆるルーザー映画なのだが、少し変わった作りになっている所が面白い。幻想的なトーンが入ってくるので寓話色が強い映画となっている。
主人公リーガンは、スーパーヒーロー”バードマン”役として人気絶頂だった。しかし、今ではすっかりその面影はなく、髭面で中年太りの冴えないオッサンになっている。かつてのような輝きはどこにも無い。そして、バードマンの幻影に今でも取りつかれている。
この映画は、そんな彼がバードマンの幻影から逃れるようにしてブロードウェイの舞台に立つ‥という所から始まる。実力派俳優としてキャリアを再出発させようというわけだ。しかし、物事はそう上手く運ばない。様々な障害が立ちはだかりリーガンを苦しめる。
バードマンの幻影が現れてリーガンを嘲笑したり、薬物中毒の娘サムと険悪になったり、共演相手の女優から妊娠を告白されたり、代役でやって来たトラブルメーカーで有名な俳優マイクの横暴に振り回されたり‥等々。こうした問題を抱えながら開かれたプレショーは散々の結果に終わってしまう。リーガンは徐々にストレスを悪化させ、ついに舞台から逃げ出そうと考える。
この映画で面白いと思ったのは、ルーザー映画にありがちな再び栄光を‥という美談で終わらせなかった点である。普通であれば、多くの喝采を浴びて華麗なカムバックを果たしてカーテンコール‥となる所を、確かに”別の意味”でリーガンは喝采を浴びるが、それは本人の意とするところではなく、むしろ俳優としては実に皮肉的な結末を迎える。バードマンを演じていた頃とまったく同じ‥。いや、むしろ更に”みっともない”恰好を晒してしまうのだ。何とも残酷である。
尚、映画の結末は少し判然としない終わり方になっている。先述したように、今作は幻想的なトーンが入っているため寓話色が強いのだが、このラストなどは正にそうした一例である。見た人それぞれに解釈を委ねるような、そんな不思議な結末になっている。自分は次のように解釈した。
リーガンはバードマンの幻影から逃れる方法として、俳優人生そのものを終わらせてしまったのだと思う。それは何も彼の”死”を意味しているわけではなく、俳優を辞めてどこかへ旅立って行った‥という意味においてである。
この映画は幻想的な演出が何箇所かあり、この直前にも劇場から逃げ出したリーガンが空を飛んで劇場に戻ってくるといったシーンがある。そこでの演出を考えると、このラストもやはり彼は空を飛んで行った‥という幻想。つまり、病院を脱け出して外へ出て行った‥という風に想像できる。
何より最後に彼はバードマンの幻影にきっぱりと別れを告げている。これは明らかに「ファウスト」におけるメフィストフェレスを意識した造形に思えるが、だとするとリーガンは最後にようやくメフィストフェレスとの契約を断ち切って魂を取り戻した。つまり、俳優を引退して別の人生を歩む決心をした‥ということになるのではないか、と考えられる。
そして、ここが重要なのだが、リーガンがいなくなった部屋で見せるサムの表情がとても意味深である。今作は彼女が空を見上げて終わる。この時の表情にはどこか清々しさが感じられた。あるいは、サムの見つめる先には、リーガンの”飛翔”もイメージされる。つまり、リーガンは自分に嘘をついて生きる”俳優”という職業から解放されたのではないか‥と思えるのだ。
俳優という職業をやっていれば誰だって、多くの人に愛されたい、注目を浴びたいという思いがある。しかし、その一方で良い演技をして批評家たちから評価されたいという思いも持っているはずである。この二つが噛み合えば正に理想である。しかし、現実には中々そう上手くはいかない。いくら良い演技をしても誰からも注目されなければそれまでである。その逆に、CGがふんだんに使われた大作でクソみたいな演技をして人気スターになる俳優もいる。どちらにしろ、俳優という職業は、多くの人間に見られて”何ぼ”である。だから、彼らは他人の愛に貪欲なのだと思う。
リーガンは正にそうだった。かつてのように世間から注目を浴びたいと願い、批評家から称賛されたいと願い、その狭間で延々と葛藤した男だったように思う。実にやるせないが、それが俳優が背負った”業”なのだと思う。
そして、突き詰めていけば、これは何も俳優に限ったことではなく、我々にも言えることなのではないだろうか?インターネットが発達した現代では、誰もが有名人になる可能性がある。人々は俳優と同じように何かを演じ、そして注目を浴びたいという欲望を心のどこかに持っている。今作にはツイッターのクダリが何度か登場してくる。ツイッターなどは、多くの人に愛されたい、注目されたいという人間の”業”を利用したツールのように思える。
こう考えてみると、劇中で演じられていた「愛について語るときに我々の語ること」という舞台劇には、人間の愛されたいという”業”が暗に投影された劇のような気がしてしまう。
映画の中で演じられるシーンは決まって同じシーンである。それは主役を演じるリーガンが、妻の不倫現場に踏み込んで愛に絶望するというクライマックスである。愛を渇望し愛に拒まれる、その姿は実に痛ましい。これは人間本来の”業”を表しているのかもしれない。
この「愛について語るときに我々の語ること」は実在する小説で、イニャリトゥ監督によれば、これが今作のモティーフになっているということである。
イニャリトゥの演出は、虚実入り混じった語り口に、その才気を感じた。前作
「BIUTIFUL ビューティフル」(2010スペインメキシコ)でも、虚実を交錯させた演出は見られたが、今回はリーガンが見る幻想として全編に散りばめられている。ただし、派手な映像トリックがあるわけでなく、実にシンプルに作られているので幻想的と言っても”マジックリアリズム”的なそれである。イニャリトゥはメキシコ出身の監督なので、ラテン・アメリカ的な気質は生来から持っているのだろう。その出自からして、”マジックリアリズム”的な感性は彼の資質にあると思う。
一方で、終盤の戦闘シーンには派手なCGが使用されている。これはCG全盛時代に対する監督のアイロニーに思えた。
オスカーを獲得したE・ルベツキの撮影も素晴らしかった。全編を1カットで捉えたような流麗なカメラワークは、まさに驚異的としか言いようがない。A・ヒッチコックの監督作「ロープ」(1948米)も全編1カットで撮ったように見せていたが、室内劇という限定されたシチュエーションだった。それに対し、今作は基本的には劇場の中で展開されるものの、カメラは部屋から屋外に出たり、空を飛んだりもする。現代ならではのCGによるトリック撮影であるが、この驚異的な撮影は未だかつて誰もやったことがない大胆な挑戦である。しかも、俳優の出し引きやモブの扱い等も含めると、非常に労を要した撮影に思える。オスカー受賞も納得だった。
音楽も実験的で面白かった。ドラムを叩く音が映画のほとんどを占める。このドラム音がリーガンの切迫感をスリリングに演出している。
キャストでは、何と言ってもリーガン役を演じたM・キートンの熱演が素晴らしかった。彼自身、かつて「バットマン」シリーズで一躍脚光を浴びた俳優である。今回のドラマに氏の実人生を見ずにいられない。同じように第二の人生に再起をかけるルーザー映画では、M・ロークが華々しいカムバックを果たした
「レスラー」(2008米)が思い出される。あの時と同じような感動を、今回のM・キートンの演技から感じられた。