石油も水も枯渇した近未来。愛する家族を守れなかったトラウマを抱えながら砂漠を当てもなくさすらう元警官マックスは、資源を独占して辺り一面を支配する独裁者イモータン・ジョー率いる戦闘軍団に捕まり、彼らの輸血袋として利用される。そんな中、ジョーの右腕だった女戦士フュリオサが反旗を翻し、ジョーに虐げられていた5人の妻を連れて逃亡する。怒り狂ったジョーは軍団を率いて追跡を開始。マックスはこの戦いに巻き込まれていくようになる。
(レビュー) ジョージ・ミラー監督&メル・ギブソン主演で製作された「マッドマックス」シリーズが約30年の時を経て復活。新マックスをトム・ハーディーに据えて新たに取り組んだシリーズ第4作である。
尚、シリーズとは言っても話が繋がっているわけではない。一応前シリーズのオマージュが何箇所か出てくるので、見ていればより楽しめるだろう。しかし、とりあえず話を理解する上では別に見てなくても大丈夫である。
今作は長年ジョージ・ミラー監督が温めていた企画であり、構想期間を含めると何と10年にも及ぶ。それだけに氏の熱い思いがギッシリと詰ま込まれている。
奇怪な造形のキャラクターたち、”はっちゃけた”デザインの改造車、アイディアとセンスを凝らしたアクションのつるべ打ち。ほぼ全編、大追跡劇で構成される今作は、アクション映画として近年稀に見る傑作となっている。「バニシング・ポイント」(1971米)、「激突!」(1971米)等、過去にも優れた追跡劇映画はあったが、迫力とスピード、そしてバイオレンスの過激さにおいて、頭一つ抜きん出た感がある。監督とスタッフが時間をかけて作り上げたイマジネーションを具現化するには、昨今の映像技術の進化あればこそであり、そう言う意味では、やはりこの10年という長い年月は必要だったのかもしれない。この前代未聞の”高密度な映像作品”は、おそらく今後カルト的に語り継がれるであろう。
物語はいたってシンプルである。”死”のトラウマを引きづるマックスが、”生”を渇望するフュリオサの戦いに巻き込まれることで、次第に自身も”生”を目覚めさせていく‥というドラマである。死から生へ、生から死へというドラマツルギーは古今東西、数多のドラマに共通する主題だが、それが今回の物語には非常にシンプルな形で落とし込められている。
ただ、今作にはマックスの他に幾つかのサブストーリーが用意されていて、決してマックス一人の物語というわけではない。個人的にはむしろ、そちらのサブストーリーの方に魅力を覚えた。
まず、何と言っても女戦士フュリオサのドラマが印象的である。彼女は独裁者イモータン・ジョーに反抗し、虐げられていた彼の妻たちを連れて逃亡する。自由のための戦い、文字通り”生”を獲得する闘争を始める。実の所、この映画はフュリオサの戦いがメインであり、どちらかと言うとマックスはそれに巻き込まれる形で参加しているだけである。したがって、ストーリーの牽引者はフュリオサの方にあり、彼女が主役と言われても何ら不思議はない。彼女の戦う姿は実に健気で美しい。そして、夢見た故郷の喪失に愕然とする砂漠のシーンの何と印象的なことか‥。ここには哀切極まってしまった。
また、彼女の必死の戦いは、強い女性像という80年代以降のアクション映画のメソッドが見事に踏襲されており、今までの「マッドマックス」シリーズとは一線を引いた、ジョージ・ミラー監督の新たな”試み”みたいな物が感じられた。
この映画には母乳が印象的に登場してくる。これは、とりもなおさず母性賛歌の表れであろうかと思う。そもそも、この映画は5人の妻たちを守りながら戦うというドラマであり、非常にフェミニンな映画とも言える。
一方で、血は”生”の象徴であると同時にバイオレンス、”死”の象徴とも捉えられる。中盤でマックスが血で汚れた顔をミルクで洗うシーンが出てくるが、これは”死”を”生”で洗い流す儀式のような意味を持っているような気がした。このシーンに代表されるように、この映画は全編に渡って”生”と”死”の相克が渦巻いている。
もう一つ、感動的だったのは、イモータン・ジョーの戦闘兵士”ウォーボーイ”の一人、ニュークスのドラマである。”ウォーボーイ”は放射能汚染の後遺症で長く生きられない若者たちで、イモータン・ジョーのために戦って死ぬことで魂が救われると信じ込んでいる。言わばカルト教団の信者のようなもので、ニュークスもジョーを盲信的に崇めている一人である。
彼もまたマックス同様、殺伐とした世界に身を落とす”死”に取りつかれた青年である。それがフュリオサ追跡に参加することで”生”を獲得していく。しかして、その顛末は実にドラマチックだった。ジョーに魂を捧げることを名誉としていた男が最後にこういう決断を下すのか‥と、胸が熱くなった。
また、こう言ってはなんだが、彼はかなり間抜けなキャラである。自尊心は人一倍強いくせに、大事な所でドジを踏むという脇の甘さが人間味にあふれていて自然と愛着感が湧いてしまう。途中でフュリオサ追跡を諦めてしまう所がやや説得力に欠けるが、このユーモア担当キャラは終始、活き活きと描かれており今作で一番好きなキャラだった。
この他には、ジョーの妻の一人スプレンディドの運命も中々ドラマチックだった。5人の妻たちは夫々に個性的にキャラ分けされている。このあたりの造形もよく考えられていると思った。
このように今作はマックスのドラマ以外にも複数のサブキャラのドラマが織り込まれている。そして、そのどれもが過不足なく描き込まれている点に感心させられてしまう。シンプルなドラマとはいえ、中々懐は広い。
他にも、ビジュアル面で強烈なキャラがたくさん登場してくる。イモータン・ジョーの圧倒的存在感は言わずもがなであるが、彼と共闘してフュリオサを追跡する武器将軍と人食い男爵も中々アクの強い造形をしている。サディスティックな変態性が外に滲み出ている。軍団の戦闘心を鼓舞するように延々とギターを弾く男も、そのキッチュなビジュアルが印象に残った。
アクション・シーンの見所は、最初から最後までハイテンションに突っ走る今作では、ほぼ全編と言いたい所であるが、敢えて挙げるとするなら、クライマックスのアクロバティックなアクション演出だろうか。このアイディアは白眉である。
他に、序盤の嵐のシーン、トゲトゲ車とのチェイス、バイクとのチェイス。このあたりの迫力は凄まじかった。とにかく、この映画はいきなりクライマックス級のテンションで始まるので、この後どうなるかと心配してしまうが、そんな心配をよそに、そのテンションが最後まで持続してしまうのが凄い。
また、今作は基本的にCGに極力頼らない方法で撮影が行われている。”生身”の人間が”本物”の車に乗って”昔ながら”のカー・スタントをしているのだ。パソコンだけで作られた映像ではない。血肉の通った肉体が作り出した映像だからこそ、見てる方も心を揺さぶられてしまうのだろう。
キャストでは、フュリオサを演じたC・セロンの熱演が素晴らしかった。ハリウッドきっての美人女優だが、この人は顔に似合わず時々とんでもない汚れ役を演じることがある。「モンスター」(2003米)では体重を増やしてレズビアンのシリアルキラーを演じたり、
「ヤング≒アダルト」 (2011米)では”やさぐれた”負け犬キャラを演じたり、かなりクセのある役を自ら進んで演じることがある。今作にもその女優魂ははっきりと確認できた。スキンヘッドにして顔に真っ黒のペイントを施しながら激しいアクションに果敢に挑戦している。片腕が無いというハンディキャップにはバックストーリーを色々と想像させられた。
新マックス役のトム・ハーディーも渋い演技を見せている。寡黙でワイルドなキャラクター性は、前シリーズのM・ギブソンと共通しているが、よりストイックに荒んだ演技が追求されているような気がした。
イモータン・ジョー役は第1作でトゥーカッターを演じたヒュー・キース=バーンが演じている。30年経って再びマックスの敵役となる運命的なキャスティングに思わずニヤリとさせられた。