元舞台俳優のアイドゥンは、親から膨大な遺産を受け継ぎ、現在はホテルのオーナーとして悠々自適な暮らしを送っていた。村人たちからは尊敬されていたが、誰とも打ち解けず孤独な身だった。ある日、一軒家を貸しているイスマイル家の息子から石を投げつけられる。一家は家賃の滞納で立ち退きを要求されており、その逆恨みを買ったのである。結局、一家との関係は以前にも増して悪化し、アイドゥンの腹の虫はおさまらなかった。更に、家に帰れば、慈善活動に入れ上げる若い妻ニハルと出戻りの姉ネジラがいる。彼女らとの関係も決して良好ではなかった。
(レビュー) 孤独な初老の男性と周囲のぶつかり合いを、世界遺産カッパドキアを背景に描いた人間ドラマ。
まず何と言っても、映画の冒頭に登場するカッパドキアの景観に圧倒された。石の山々に覆われたファンタジックな光景の中に、アイドゥンのホテルは立っている。この映画のためにセットを作ったのだろうか?ともかく、この先に起こるドラマを期待させるという意味では抜群のロケーションに思えた。
その後、賃借人イスマイル家の息子が、アイドゥンの乗った車に投石するという事件が描かれる。アイドゥンは雇人であるドライバーと共にイスマイル家にこの事を報告しに行くのだが、ここで相手の父親が出てきて喧嘩が始まってしまう。どうして石を投げたのか?アイドゥンはどうして憎まれているのか?そのあたりの事情が徐々に判明してきて、ピリピリとした緊迫感も相まって実に引き込まれた。
その後、場面はアイドゥンのホテルに切り変わる。ここで彼の姉と妻が登場してくる。姉の過去、アイドゥンと妻の関係、アイドゥンの孤立した立場が判明してくる密度の濃い会話劇で、これにも引き込まれた。人物の設定、相関を手際よく紹介して見せたシナリオが見事である。
このように、この映画はアイドゥンが周囲の人々と会話することによって展開されていく、いわゆる会話劇映画となっている。更には、ほとんどのシーンがリアルタイムで切り取られており、この生々しさ、リアリズムは半端ではない。会話をじっくりと積み上げていく作りは、映画と言うよりは舞台劇に近い感じがした。
こうした作りで思い出されるのがI・ベルイマンの映画である。とりわけ彼の後期の作品「ある結婚の風景」(1974スウェーデン)は、関係が冷めきった夫婦がエゴとエゴを激しくぶつけ合う会話劇映画で、本作と作りが大変似ている。人物のクローズアップを中心にしたカメラワークも然り。息詰まるような緊張感を演出している。
また、アイドゥンは人一倍プライドが高く相手を見下す尊大な人間である。その性格のせいで誰からも愛されない。人間のエゴが人間の孤独を生み、結果、不毛な人生が炙り出されていく所は、まさにベルイマンが追い続けた”人間の孤独”というテーマと重なって見える。
監督がどこまでベルイマンの映画を意識しているのか不明だが、少なくとも俺が見た限りでは、この映画はかなりベルイマンの映画に影響を受けているような感じがした。
物語は後半から、アイドゥンと妻ニハルの愛憎に迫っていくようになる。ニハルは村の学校を修復するための慈善事業をしているのだが、アイドゥンにとってはこれが面白くない。というのも、この活動仲間の中には、少しばかりニハルに色目を使う独身男性が混じっているからである。アイドゥンは二人の関係に嫉妬して、ニハルからこの慈善活動を取り上げてしまう。いわゆる嫉妬した夫が若く美しい妻を縛り付けたがるという、大変分かりやすい愛憎劇なわけだが、ここでも二人の言葉による”殴り合い”は強烈で目が離せなかった。特に、泣き崩れるニハルが、これまでの不平不満を爆発させる所が凄まじい。
その後、アイドゥンは友人宅を訪ねて酒盛りをする。そこでの会話で出てくるシェイクスピア作品の1節は、今作のテーマを集約していると思った。その1節とは、弱者がすがるのは良心、強者は剣に頼る‥というような言葉だったと思う。ここで自分は、アイドゥンとニハルの夫婦関係を思い出さずにいられなかった。
2人の関係は、経済、知性、名声、全てにおいてアイドゥンの方が勝っている。ニハルは弱者、アイドゥンは強者である。だとすると、ニハルが”良心”にすがり慈善事業にのめり込んでいくのは、ものすごく合点がいく。つまり、まるで籠の中の小鳥のように自分を縛り付けるアイドゥンに抗うには、こうするしかなかったのである。逆に、アイドゥンは”言葉”という剣を振りかざすことで弱者を傷つける強者である。強者による弱者の絶対的な支配。それがこの夫婦関係の中に見えてくる。
そして、今作はこの夫婦関係の軋轢を見せた先で、更にもう一つのテーマを観客に提示している。
アイドゥンに激しく打ちのめされたニハルが、冒頭に出てきたイスマイルの家を訪れるのだ。このシーンは今作で最も印象に残った。ここで下されるニハルの善意に対するイスマイル家の”残酷な仕打ち”。これに思わず声が出てしまった。
この映画の凄いと思う所は正にここである。弱者がすがるのは良心‥と言っておいて、その良心がイスマイル家という更なる弱者によって踏みにじらてしまうのである。
考えてみれば、確かに善意の施しは、必ずしも全員を幸せにするものではない。善意を施した時点で、その弱者は施した相手にとっては強者になってしまう。施された相手にだって人としての尊厳はある。それを無視して一方的に救いの手を差し伸べるのは、余りにも不遜な行為ではないだろうか。ましてやニハルは大家のアイドゥンの妻である。イスマイル家にとっては、自分たちを借家から追い出そうとしている憎むべき敵の身内である。そんな相手から施しを受けるなんてプライドが許さなかったのだろう。
尚、このブログでは以前に羽仁進の監督作
「彼女と彼」(1963日)という映画を紹介したことある。あの中でも、善意が本当に相手のためになるのかどうか?ということが問われていた。
確かに善行とは大変尊いものである。誰にでも出来ることではない。しかし、一方で世の中には”偽善”という言葉も氾濫している。ひょっとしたら、善意とは当人の優越性を証明する自己満足でしかないのではないか‥。そんなことを考えさせられた。
今作の難は上映時間である。3時間20分弱というのはかなりの長丁場である。しかも、派手なエンターテインメントがあるわけではなく、会話が続くだけの作品なので、退屈する人は退屈するだろう。実際に、アイドゥンと姉の喧嘩が2度に渡って繰り返されるのだが、さすがに自分も2度目は睡魔に襲われてしまった。しかも、アイドゥンの書斎という変わり映えの無いシチュエーション、不毛な議論が延々と続くので、見ていて退屈してしまう。
欲を言えば、もっとシナリオを刈り込んでコンパクトにまとめて欲しかった。馬、犬、ウサギ等、アイテムの使い方にこそ、映画ならではの巧みな表現が光っていたが、ほぼ全ての会話がリアルタイムで描写されるのは流石にどうだろう‥。どうしても途中でダレてしまう。