火星を舞台にしたSFアクション作品。カーペンターらしいB級臭がたまらない。
Happinet(SB)(D) (2015-09-02)
売り上げランキング: 43,406
「ゴースト・オブ・マーズ」(2001米)
ジャンルSF・ジャンルアクション・ジャンルホラー
(あらすじ) 西暦2176年。人類は火星に植民地を築き豊富にある天然資源を採掘していた。火星警察のメラニー警部補は、鉱山町シャイニングの刑務所に収監されている囚人ウイリアムズを護送する任務を負う。しかし、到着してみると町の人々は無残に殺され、生き残っていたのは牢獄にいるウイリアムズを含む数人の犯罪者だけだった。彼らは町を全滅させた謎の存在と対決していく。
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(レビュー) 鬼才J・カーペンターが撮ったSFバイオレンス作品。
火星にはゴーストが居ついていた‥という設定から、おどろおどろしいホラー映画を想像したが、案外痛快なアクション映画になっていた。カーペンターらしいB級然とした作りは相変わらずで、氏のファンであれば突っ込みを入れながら中々楽しめる作品ではないかと思う。
正直、物語は大して新味はない。氏の「要塞警察」(1976米)と「遊星からの物体X」(1982米)を足して2で割ったようなストーリーである。確かに魅力的な素材は揃っているが、上記の傑作群と比べると作りが中途半端で物足りない。
ただ、SFと西部劇を掛け合わせたシチュエーション、テイストは今回の新味かと思う。火星のゴーストは明らかにアメリカ先住民のメタファーであり、それを追放しようとする地球人が痛いしっぺ返しを食らう‥というのも皮肉が効いたドラマである。
あるいは、穿って見れば、天然資源を独り占めする地球人に現代の超大国のエゴみたいなものを見る事も可能である。いずれにせよ、今回も脚本をカーペンター本人が書いているが、かなり鋭い風刺を忍ばせていることは間違いない。
また、今回のストーリーは、ゴーストとの戦いから帰還したメラニーが警察本部に報告する、という回想形式で綴られている。この入れ子構造もドラマのミソである。メラニーの話をまるっきり信じていなかった警察本部のお偉いさんが、最後にエライ目にあう。中々ブラックなオチで面白かった。できれば最後にそれを具体的に見せるような描写があれば、尚良かったと思う。
アクションシーンは敢えて細かくカットを割らないで、全体像を俯瞰で捉える演出がとられている。見ようによっては迫力不足とも言えるが、これも昔ながらの西部劇タッチと言えるかもしれない。
CGに極力頼らないアクションも大変古風だ。火星を走る列車も敢えてCGではなくミニチュアを走らせて撮影している。合成が丸分かりだったりするのはご愛嬌(笑)。今時これはないだろうというチープさも、B級映画らしくて良い。見ていて何だかほのぼのとしてしまった。
カーペンターは今回、音楽も担当している。彼は時々自身の作品で音楽も手掛けるが、今回はほぼハードなメタルサウンドが流れている。これが作品のパワーに繋がっていると思った。そう言えば、敵のゴーストの親分も見た目は何となくブラック・メタル風な造形で面白かった。余り強くないというのが難点だが‥。
キャストは中々の曲者が揃っている。囚人たちのリーダー、ウィリアムズにラッパーでもある黒人俳優I・キューブ。メラニーの上官にブラック・ムービーのアイコン、P・グリア。メラニーの同僚に、まだピンで主演を張る前のJ・ステイサムが扮している。夫々にアクの強い演技をしているので、それだけですでにキャラクターが立っている。特に、I・キューブが最後に見せる表情が抜群に格好良かった。見た目は太ったオッサンなのに何という男前!これだけでこの映画はカタルシスが10パーセント増しである。
長ったらしいサブタイトルである。
J.V.D. (2002-04-05)
売り上げランキング: 225,546
「マイドク/いかにしてマイケルはドクター・ハウエルと改造軍団に頭蓋骨病院で戦いに挑んだか」(1983ニュージーランド)
ジャンルホラー・ジャンルアクション
(あらすじ) 少年マイケルは、父と共に医療研究をしていたドクター・ハウエルの策略によって両親を殺害され精神病院に収監された。7年後、退院したマイケルは友人たちと一緒に小島にバカンスに出かけた。そこで偶然ハウエルを目撃する。彼はその島で恐ろしい人体実験を繰り返していた。
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(レビュー) 随分と長い副題がついているが、原題は「DEATH WARMED UP」である。直訳すれば「死の準備」といった所か。何故にこのような長ったらしい副題がついたのか理解に苦しむが、おそらくはS・キューブリック監督の「博士の異常な愛情/または私はいかにして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(1964米英)に対抗して付けたのだろう。しかし、だからと言って、本作がかの傑作に並ぶほどの作品かと言えば完全にノーである。
はっきり言って演出、シナリオ共に稚拙で決して褒められた出来ではない。B級映画として見る分にはそれ相応の満足は得られるかもしれないが、真面目に見てしまうと突っ込み所満載でゲンナリさせられるだろう。
例えば冒頭。何故マイケルは走っているのか?何故セクシーなホモホモしいシャワーシーンがあるのか?脈絡なく唐突に挿入されるベッド・シーンはサービスのつもりなのか?マイケルの友人の一人がレオタード姿なのはどういうつもりなのか?等々。書いたらきりがないくらい構成、設定、演出が”謎”である。
本作で唯一見応えを感じたのは、ドクター・ハウエルの手術シーンである。ここだけは生々しい特殊メイクで見応えを感じた。少しグロいので耐性の無い人は見ない方が良いだろう。
それと、クライマックスの頭蓋骨病院での戦いも、チープではあるが中々頑張っていると思った。さながら”走るゾンビ”映画のごとき恐怖で描かれている。また、その後に続く人を食った想定外のオチも、個人的には面白かった。中にはこのオチを見てポカーンとしてしまう人もいるだろうが、そもそもコレに突っ込みを入れていたら今作は見れない。何しろ最初から行き当りばったりの展開が続くのだから、当然ラストだって行き当りばったりになる筈である。
また、ニュージーランド映画という事で、同時期に製作されたオーストラリア映画「マッドマックス」(1979豪)の影響が強く感じられた。マイケルが離島に向かうフェリーの中で喧嘩になるバイカーたちの姿が完全に「マッドマックス」に出てきた暴走族集団のそれと一緒である。そして、その後には当然カーチェイス・シーンとなる。しかし、悲しいかな、本家「マッドマックス」の迫力には遠く及ばず実に凡庸である。
尚、この頃のオーストラリア映画は世界マーケットを目指して活気づいていた頃であり、先述の「マッドマックス」のJ・ミラー監督や、「レイザーバック」(1984豪)でデビューしたラッセル・マルケイ監督等、地元資本で映画を撮った後に渡米して夫々に成功を収めていった。今作の監督も右に倣えで渡米し、数本のホラー映画を撮った(未見)。しかし、その後は続かず、結局目が出ずに終わってしまった。今回の作品を見ればそれも納得である。
「サスペリア」と銘打っているが続編ではない。
TCエンタテインメント (2013-02-27)
売り上げランキング: 34,326
「サスペリア PARTⅡ<完全版>」(1975伊)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 透視能力を持つテレパシスト、ヘルガが超心理学会の壇上で、来場客を相手にその能力を披露していた。その最中、突然彼女は席の中に殺人者がいると叫んで気絶してしまった。その夜、彼女は何者かによって殺されてしまう。その現場を、偶然ロンドンから来ていたピアニスト、マークが目撃していた。警察の取り調べが始まる中、彼は女性記者ジャンナと知り合い、この殺人事件を捜査していく。
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(レビュー) イタリアのホラー作家D・アルジェント監督が撮ったスリラー作品。
タイトルが「サスペリアPARTⅡ」となっているが、同監督作の「サスペリア」(1977伊)と話が続いているわけではない。まるで続編のような邦題を付けたのは、「サスペリア」の大ヒットを受けた配給会社の東宝東和である。そもそも今作は「サスペリア」の前に製作された作品である。タイトルに騙されないように。
尚、今回見た完全版は劇場公開版よりも20分ほど長い2時間7分版である。この手のジャンル映画としては長尺となっている。
さて、本作は「サスペリアPARTⅡ」というタイトルが付けられているが、決して「サスペリア」のようなオカルト映画ではない。どちらかと言うと、それ以前にアルジェントが撮ってきた
「歓びの牙」(1969伊)や
「私は目撃者」(1970伊)、
「4匹の蝿」(1971伊)といった初期作品のようなスリラー・タッチな映画となっている。というか、設定やストーリー仕立ては、「歓びの牙」の焼き直しと言えなくもない。
主人公が旅行者であること。偶然殺害現場を目撃してしまうことで捜査に首を突っ込んでいくこと。犯人の殺害動機の裏には過去のトラウマが関係していること等。いずれも「歓びの牙」と共通する設定、展開である。したがって、ストーリー自体に決して新味はない。ただ、それでもアルジェントの巧みな演出が冴えわたり、結果的には中々面白く見れる作品になっている。
例えば、最初の殺害シーン。ヘルガが殺される瞬間を偶然目撃したマークが殺害現場へ急行する。ここには犯人に繋がるヒントがすでに隠されている。鏡を利用した映像トリックである。よく見ていれば一発で分かるかもしれないが、こうした図像的アイディアは大変面白いと思った。
他にも、バスタブの湯気を使ったトリック、写真を使ったトリック等。アルジェントは随所に技巧的な演出を仕込みながら観客を煙に巻いていく。
一方でアルジェントと言えば、やはりショック演出である。彼らしいハッタリの効いた演出も今作の醍醐味の一つである。
例えば、からくり人形を使ったショック演出は相当恐ろしかった。また、赤ん坊の人形や子供の歌声といった小道具を使いながら、見る側に不穏な気持ちを植え付ける演出も見事である。生来のスリラー作家アルジェントの才気が伺える。
殺害のアイディアでは、ラストの犯人の顛末、マークの捜査に協力する心理学者ジョルダーニの顛末が、かなりえげつなかった。アマンダの死に方には
「エンゼル・ハート」(1987米)の元ネタ的な発見も出来る。このあたりの凄惨な殺害シーンの数々はジャッロ映画の大家アルジェントの面目躍如といった感じである。
また、恐怖の狭間に一服の清涼剤的なユーモアを挟んでくるのも中々良かった。マークとジャンナのやり取り、特に腕相撲をするシーンは微笑ましく見れた。ジャンナが乗る車が中古のフィアットというのも可愛らしい。お喋りな警視のキャラクターも良い味を出していた。こうしたユーモアもアルジェント作品の特徴の一つだろう。
映像も図像的に計算されたカメラワーク、シンメトリックな構図、豊富な色彩設計が至る所で見られ、これまで以上にアルジェントのこだわりが感じられた。初期三部作から確実にステップアップしていると言える。
一方で、ストーリー上で首を傾げたくなる部分があり、そこについては少々突っ込みを入れたくなった。それはアマンダが何故殺されなければならなかったか‥である。結局、あの殺害現場に残されていた証拠が原因で犯人は追い詰められることになったわけで、このあたりの犯人の愚行はよく理解できない。今作は推理劇的な面白味を売りにした作品でもある。そこに、こうした犯人の迂闊なミスが出てくるとお粗末と感じるしかない。
尚、音楽はアルジェント作品の常連ゴブリンが担当している。今回も作品内容にフィットした魅力的なスコアを書き上げており、両者の相性の良さがよく分かる。
メッセージも普遍的だがフランキー堺の好演も本作を名作にしている。
東宝 (2008-10-24)
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「私は貝になりたい」(1959日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル戦争
(あらすじ) 高知で理髪店を営む豊松の元に召集令状が届く。妻と生まれたばかりの赤ん坊を残して彼は戦地へ赴いた。そこで彼は上官の命令で二人の米兵を処刑した。終戦後、元の平和な生活に戻る豊松。そこにMPがやってきて彼は逮捕されてしまう。
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(レビュー) 戦争の理不尽さを強烈にアジテーションした反戦映画。元陸軍中尉だった加藤哲太郎の遺言を元に、橋本忍が脚本・監督を務めて製作した作品である。尚、前年に同じフランキー堺主演でテレビドラマ化もされている。今回はその反響を呼んでの映画化である。
改めて思うことだが、ここで描かれる悲劇には胸を痛めるしかない‥。何度も映像化されている名作なので、結末を知っている人も多いと思うが、それでも豊松が辿る運命は不憫極まりなかった。彼の最後の「私は貝になりたい」というセリフが胸に突き刺さってくる。そして、そのセリフを受けて描かれるラストシーンも印象的だった。
豊松は実直で、お人良しで、臆病な、どこにでもいる普通の男である。優しい妻と赤ん坊に恵まれ、小さいながらも地元の人々に愛される理髪店を営業している。そんなある日、彼の元に召集令状が届く。これによって彼の人生は狂わされてしまう。戦地へ赴いた彼は、上官の命令で仕方なく米兵を処刑する。彼は帰国後、その罪を問われることになる。そして、絞首刑の判決が下される‥。
ドラマはこの後に、元上官との交流や、判決の撤回に追いすがる姿などが丁寧に描かれている。少しユーモアも交えながら描いているのが特徴で、隠滅になりがちなドラマもこれによって見やすいものとなっている。しかし、そうは言っても、そのユーモアもどこか”終末の優美”に見えてくるのが切なかった。結末が分かっているだけに余計に豊松の笑顔が物悲しく映る。
中でも、元上官との和解のドラマにはしみじみとさせられた。元をただせば彼の命令で豊松は今回の裁判にかけられたようなものである。だから、同じ刑務所に収監されても、最初は彼のことを憎んで口も利かないで無視し続ける。しかし、この元上官も一人の人間である。その素顔に接し、罪を償う姿を前にした時、豊松は全てを許そうとする。彼もまた戦争という狂気に取りつかれた憐れな男であり、自分と同じ罪を背負う男であると‥。こうして二人はわだかまりを捨てて、一人の人間として互いを敬うようになる。暗いドラマに少しだけ明かりが灯ったような気がして、何だかホッとさせられた。豊松が元上官の髪を散髪する姿が印象的である。
橋本忍の演出はオーソドックスにまとめられている。彼にとっては今回が初演出ということだが中々堅実だった。少なくとも怪作
「幻の湖」(1982日)よりは随分と”まとも”である。ロングテイクで俳優の演技を漏れなく画面に収めながら、感情の機微を上手く掬い上げている。
特に、刻一刻と絞首刑の瞬間が迫り来る中、死に怯えながらワインを飲むクダリで豊松の表情を丁寧に捉えている。1杯目では死に行く実感が湧かず放心状態のまま飲み干す。2杯目になると徐々に自分の置かれている状況を飲み込み、3杯目には恐怖にむせび泣く。豊松の恐怖と憤りを1カットに詰め込んだ演出が素晴らしかった。
一方、豊松を演じたフランキー堺の好演も見事である。平時の飄々とした演技と、収監後の神妙な面持ちの使い分けが抜群に上手かった。また、彼の平民的な造形が良い。この主人公をどこか身近に感じてしまう。これは彼が主演した
「世界大戦争」(1961日)についても同様のことが言える。平民をやらせると、これほどハマる俳優もいない。つまるところ、彼の存在が本作のリアリティを支えていると言っても過言ではないような気がする。
難病物だが笑いとペーソスが合わさった独特のテイストが面白い。
TCエンタテインメント (2014-11-21)
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「ぼくたちの家族」(2013日)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 東京郊外に暮らす若菜家。主婦の玲子は自営業をしている夫、結婚を機に家を出た長男・浩介、都内で一人暮らしをしている大学生の二男・俊平と、仲睦まじい家庭を築いていた。ある日、玲子が軽度の認知症にかかってしまう。病院で診察した結果、脳腫瘍ができていると宣告される。それを聞いて愕然とする家族たち。浩介は仕事と身重の妻を抱えながら奔走し始める。そんな折、俊平は玲子が作った多額の借金を見つける。
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(レビュー) 母の病気をきっかけに家族が一つにまとまっていく様をユーモアを交えながら描いた感動作。
同名の原作を俊英・石井裕也が監督・脚色をして作り上げた作品である。石井裕也と言えば前作
「舟を編む」(2013日)が大いに評判を呼び、一躍メインストリームに頭角を現した若き作家である。今回は前作よりも、より普遍的なテーマを追求した所に表現者としての成長が伺えた。
今作は言ってしまえば難病物である。しかし、それを安易な感動物にせず、かすかなペーソスとユーモアを交えながら巧みに料理した所に氏の才気を感じる。
例えば、浩介に子供ができた祝いの席で見せる玲子の勘違いな言動。玲子が嫁の名前を微妙に間違えるという、この可笑しさ。劇中ではいたってシリアスなトーンで描かれているのだが、周囲の反応を見ると笑えてしまう。と同時に、このシーンは玲子の認知症が症状として現れた一例となっており、忍び寄る病魔の怖さも感じた。
あるいは、中華料理屋での携帯電話を巡る浩介たちと店員のやり取り。他のお客様の迷惑になるからと言って、店内での携帯電話の使用を禁じる店員に浩介の父は噛みつく。自分たち以外にお客はいないのに誰に迷惑がかかると言うんだ!と普段は温厚な父が憤慨するのだ。このシーンは傍から見ればコントのようである。そして、浩介が受けた電話からは入院した母のパニックに陥る叫び声が聞こえてくる。このシリアスなトーンへの切り替え方も実に絶妙だった。
また、仮眠する浩介の元に、玲子の看病で泊まり込んだ父から何度も電話がかかってくるシーンも笑えた。浩介の「もう朝だし‥」に爆笑である。
このように本作は大筋ではシリアスな感動ドラマなのだが、所々に笑いが絶妙に配分されている所が面白い。当人たちからしてみれば相当深刻な状況であるはずに違いないが、客観的目線で見る我々観客からしてみればどこかブラック・コメディのように楽しめるのである。この笑いとシリアスのバランスが非常に面白い。
また、余り深刻にならないで済んでいるのは演者の妙縁による所も大きいと思う。浩介を演じた妻夫木聡は終始シリアスな演技を貫ているが、当の玲子を演じた原田美枝子、二男・俊平を演じた池松壮亮の軽妙な演技が全体をまろやかにしている。
特に、池松演じる俊平は、兄の浩介とは性格が反対で少々だらしない青年である。深刻な状況にあって唯一人、病気の母に明るく接する楽天家である。普段は親のすねかじりをしている不肖の息子だが、案外家族思いな一面を持っていて非常に魅力的なキャラだった。また、終盤で見せる彼の涙にも感動させられた。
感動的と言えば、玲子が栽培していたサボテンにまつわるシークエンスにもしみじみとさせられた。ご存知の方も多いと思うが、サボテンはどんな過酷な状況においても繁殖する生命力を持っている。これは明らかに玲子そのものの生命を表しているし、また彼女を見守る周囲の家族をも象徴しているように思う。ストーリーの中における、このサボテンの使い方が実に上手かった。
逆に、今作で今一つだったのは浩介の嫁の存在である。今作は基本的に浩介を中心とした家族のドラマであり、血の繋がりのない浩介の嫁や彼女の両親については余り触れられていない。玲子と嫁の関係は余り良好とは言えず、その確執は何となく見て取れるのだが、しかし嫁が改心して玲子の見舞いに行くというラストが今一つピンと来なかった。彼女の葛藤を追う描写が不足しているからだろう。
また、玲子の症状が快方へ向かっていく終盤。再検査をすることによって、もしかしたら脳腫瘍ではないかもしれないということが判明する経緯も、説得力という点では物足りなかった。そもそも病院では経過検査という物はしないのだろうか?いくら手の施しようがな末期患者だからといっても、医師は患者の身になって考えて欲しい。更に言えば、「あと1週間が峠です」と簡単に言い放つあたりにも違和感を持った。そんなに簡単に断定して良いものだろうか?
こうした描写を含め、今作は医療関係に関する描写に手抜き感をおぼえてしまう。もっと説得力を伴う描写をして欲しかった。
密やかで静かな恋物語をノスタルジックに綴った名匠山田洋次監督の作品。
松竹 (2014-08-08)
売り上げランキング: 37,257
「小さいおうち」(2013日)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 大学生の健史は、亡くなった大伯母・布宮タキから彼女が遺した自叙伝を託される。そこには健史が知らない戦前の人々の暮らしと、若かりしタキが女中として働いていた平井家の秘密が綴られていた――。昭和初期、タキは山形から東京に女中奉公にやって来る。彼女が住み込みで世話になる平井家には、会社重役・雅樹と妻の時子、小学生の息子・恭一が暮らしていた。3人ともタキに親切に接してくれて、タキも彼らのために一生懸命働いた。そんなある日、平井家に雅樹の部下・板倉がやって来る。美術学校出身の心優しい板倉に時子は好意を寄せていくようになる。
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(レビュー) 同名の直木賞原作を名匠・山田洋次が監督したノスタルジックなロマンス作品。
いかにも山田洋次らしい、しみじみとしたテイストが散りばめられており、古き良き日本人の奥ゆかしさが感じられる美しい作品となっている。
また、戦前、戦時中の風俗、文化が、そこかしこにしたためられているのも興味深く見れた。例えば、南京陥落でデパートが戦争大売出しセールをしたというのは、この映画を見て初めて知った。当時の日本は何となく暗いイメージしか持っていなっかたのだが、決してそればかりではないということが分かる。
もっとも、物語の舞台はほとんどが平井家の中である。平井家はどちらかと言うと裕福な家庭であり、いわゆる一般庶民よりも贅沢な暮らしを送っているようにも見える。だから、この映画の明るいトーンは特別な物であり、庶民の暮らしぶりはこれよりもっと粗末なものだったに違いない。
物語は、現在の健史のドラマと、生前のタキのドラマ、それとタキの自叙伝に書かれた回想ドラマ。この3つで構成されている。時制の往来はカッチリと区分されており、大変見やすかった。
そして、現代の大学生・健史の目線を通してタキの回想ドラマを描く‥という構成も中々上手い。いわゆる戦争を直接知らない現代人でも、この戦時下のドラマに感情移入しやすいように工夫が凝らされている。これは中々上手い作りだと思った。
そんな3つのドラマが行き交う中、話の中心となるのがタキの回想ドラマである。
田舎から出てきたタキが心優しい平井家の人々に囲まれながら幸せな奉公生活を送るのだが、中盤から戦争を背景とした時子と板倉のメロドラマになっていく。少々楽天的過ぎるきらいはあるが、決して下世話な色恋沙汰になっていない所がいかにも山田洋次らしい。ドロドロとした昼メロ路線とは一線を画した、実に奥ゆかしいドラマとなっていて味わい深い。
また、禁忌に触れた男女の背徳感や戦争の暗雲といったネガティブな要素が徐々に幅を利かせ、後半からシリアス色が強められていく。浮ついた所がなく中々の見応えを感じた。
一方、現在パートでは、タキの孫・健史を中心としたドラマになっている。タキの生き様を追いかけながら、彼は時子の真の愛を知って行く。終盤にかけてややご都合主義になってしまったのは残念だが、ラストの海のシーンにはウルッとさせられた。演出の巧みさだろう。
尚、明確に描かれていないが、タキと時子の間に何となく同性愛的なニュアンスが嗅ぎ取れたのは実に興味深かった。
例えば、タキが時子をマッサージするシーン。ここでの手のクローズアップには、時子のタキに対するセクシャルな好意が僅かだが感じられた。間違いなく意識して描写しているように見える。
また、その後に続く正月のシーン。平井家に会社の人間が集まって宴会が始まるのだが、それを時子が皮肉交じりにこう語る。「男ってやーね。戦争と仕事の話ばかりで。」穿った見方をすると、これは男という存在に対する彼女の嫌悪感から出た言葉のように思える。
あるいは、後半に登場する、男装の麗人で時子の親友・睦子の存在。ここにも時子の同性愛趣味が感じられた。
ただ、今挙げた例は時子の同性愛的感情をハッキリと明示する物ではない。いずれもそれとなく匂わすように演出されており、彼女にそうした性癖があったのかどうかは断定できない。また、時子は板倉と男女の関係にあったことは間違いないわけで、少なくとも彼女は男性を愛することは出来たと思う。細かなニュアンスで表現されているので、見る人によっては全然気付かないかもしれないが、自分はこれがとても気になった。
キャストでは、時子を演じた松たか子の好演が光っていた。人妻でありながら、夫の部下に惹かれていく複雑な女心を実に的確に演じて見せている。さりげない所作も堂に入っているし、正装時の凛とした佇まいも板についていた。
晩年のタキを演じた倍賞美津子も安定した好演を見せている。腰を曲げて実年齢以上老け役を見事に演じきっていた。
若い頃のタキを演じた黒木華は、今作でベルリン国際映画祭の銀熊賞(女優賞)の栄誉に輝いている。確かに好演とは思ったが、松たか子の存在の前には影が薄いと感じた。外国人からしてみれば、今回の奥ゆかしい役柄に古風な日本人女性像という、ある種の理想形を見てしまったのかもしれない。海外の受けが良いのはよく分かる。
しかし、本作で一番輝いていたのは、間違いなく松たか子の方だと個人的には思う。
一つのホテルを舞台にした悲喜こもごもを軽妙に綴った作品。
復刻シネマライブラリー (2013-03-11)
売り上げランキング: 73,764
「カリフォルニア・スウィート」(1978米)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) ハリウッドのホテルに4組の旅行者がやって来る。アカデミー賞の授賞式に出席するために、はるばるイギリスからやって来たベテラン女優ダイアナ。晴れの舞台を前にして不安なダイアナは夫のシドニーと喧嘩になってしまう。思春期の娘を持つ悩める母ハンナの元に分かれた夫がやって来る。娘の親権を巡って言い争いを始めるのだが‥。甥の成人式を祝いにやって来た中年男マービンは、酔いつぶれてコールガールと一夜を過ごしてしまう。そこに妻がやって来て‥。兄弟夫婦でバカンスにやって来た黒人カップル。楽しいはずの旅行はトラブル続きで台無しになってしまう。
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(レビュー) 一つのホテルを舞台にした4組のカップルの群像劇。彼らの悲喜こもごもを軽妙洒脱に描いたスケッチ風の映画である。
監督はハーバート・ロス。ニール・サイモンが自身の戯曲を脚本化している。このコンビは前年に「グッバイガール」(1977米)を撮っており、それだけに今回の作品も息がぴったりと合っているという感じがした。
もっとも、両作品は全くタイプの異なる作風で、「グッバイガール」の方は一組のカップルにじっくりと迫ったドラマだった。それに対し、今作はいわゆるグランドホテル形式のシチュエーション・ドラマになっている。‥とは言っても、夫々のエピソードが交錯するわけではないので、厳密に言うとグランドホテル形式とは言えず、どちらかというと単発のエピソードを4つ集めました‥という方が正しいかもしれない。そして、この作りがドラマ的なカタルシスを失してしまっていることは確かである。「グッバイガール」よりもドラマ性が弱い感じがした。
しかし、だからと言って今作が前作よりも劣ると言うつもりはない。群像劇としての面白さは十分堪能できるし、軽妙洒脱な会話と演出は相変わらず健在で最後まで飽きなく見ることができた。
一番印象に残ったのは、最初に描かれるハンナと元夫ビルのドラマである。二人は家出をした娘を巡って喧嘩を始めるのだが、ここでのやり取りが実に面白かった。2人が何者であるか?何を巡って喧嘩をしているのか?そういったものがセリフの端々から徐々に判明してくるような作りになっていて、正に名戯曲家サイモンの面目躍如といった感じである。目の離せない会話劇になっている。
また、ここではハンナを演じたJ・フォンダの演技も見逃せない。母親としての喪失感、子育てに対する恐れ。更には前夫に対するジェラシー。老いに対する不安。そうした中年女性の複雑な感情を繊細さと大胆さを混じえながら巧みに表現している。この独壇場の演技は絶品だった。
次に面白く見れたのが、老女優ダイアナのドラマである。いわゆるハリウッドの内幕モノなのだが、何気にアメリカ映画に対する皮肉がちょいちょい出てくるのが可笑しい。また、夫の”ある秘密”には驚かされた。果たしてダイアナは夫のこの性癖を知ってて結婚したのだろうか?こちらもサイモン節全開な会話劇になっていて楽しめる。
この二つは割とシリアスなエピソードだが、他の二つは完全にコメディ寄りなエピソードとなっている。
一つ目は、妻に浮気がばれないように奔走する男のドタバタ騒動劇である。これも実にサイモンらしいシット・コムでクスクス笑いながら見れた。よくある話と言えばそれまでだが、男のどうしようもないスケベ心が出ていて微笑ましい。
もう一つは、黒人の二組の夫婦が散々な目にあうエピソードである。次々と災難に見舞われる様子をスラップスティックに描いているのだが、残念ながらこちらは今一つだった。全エピソード中、最もパッとしない出来である。個々のキャラの掘り下げが甘いのが原因のように思う。
キャストでは、先述したJ・フォンダの他に、ダイアナを演じたM・スミス、その夫を演じたM・ケインというイギリス陣が印象に残った。また。サイモン映画の常連W・マッソーも、いつも通りの安定した演技を見せている。
尚、冒頭に劇中劇という形でJ・コバーンがチョイ役で出てくる。彼はM・スミスの夫役として自家用飛行機を操縦して登場するのだが、これが映画のラストに繋がるという構成が実に心憎い。
また、映画のオープニングの小洒落た雰囲気も好きである。こういうオープニングは今では中々見られなくなったが、昔は結構凝って作っていたものである。
W・アンダーソン監督の独特の感性が詰まった愛らしい作品。
Happinet(SB)(D) (2014-11-05)
売り上げランキング: 6,816
「ムーンライズ・キングダム」(2012米)
ジャンルロマンス・ジャンルコメディ
(あらすじ) 1965年、アメリカのニューイングランド沖の小島。ボーイスカウトのサマー・キャンプに参加していた少年サムが突然疾走する。ウォード隊長や地元警官シャープを中心に、早速サムの捜索が始まった。その頃、島の反対側では厳格な両親に育てられた少女スージーも家出をしていた。実は、サムとスージーは1年前から文通をしていて、この日に駆け落ちする約束を交わしていたのだった。大人達の捜査が進む中、2人は逃避行の旅に出る。
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(レビュー) 少年と少女のロマンスをポップな画面とコミカルな描写で綴った愛らしい作品。
共同製作、監督、共同脚本はW・アンダーソン。独特のオフビートなユーモアと、時折見せるシニカルなジョークはこの人ならではの感性で、好き嫌いがはっきりと別れそうだが、ツボに入る人には堪らない物があるだろう。今作も彼の作家性がよく出た作品である。
また、シニカルなジョークも決して嫌味に見えない所が良い。どうしようもない人物がたくさん登場してくるが、彼の眼差しは常に彼らに寄り続けている。人間って弱い生き物だなぁ~と思いつつも、そこはかとなく愛情が感じられるのが見てて心地よい。
卓越した映像センスも相変わらず冴えている。
例えば、オープニングのスージー邸のシーケンス。真正面&シンメトリックなアンダーソン作品特有の画面構図と、モノローグによるスピーディーな画面展開でグイグイと作品世界に引き込まれた。
色彩のセンスも要所で凝った物を見せている。基本的にはパステルを基調とした画面で構成されているが、クライマックスは一転。モノトーンの映像に切り替わり、どこかクラシカルな匂いを感じさせる。また、都会の福祉局は寒色、島の風景は暖色トーンで統一されており、この対比も面白く見れた。全体的に画面のメリハリが上手く効いていて”目で見て楽しめる”作品となっている。
物語自体はこじんまりとした感は否めないが、W・アンダーソン版「小さな恋のメロディ」と思って見れば悪くはない。
子供=純粋、大人=不純という対比でドラマを回していったのは安定感があった。サムは両親から捨てられた孤児。スージーは弁護士をしている両親から束縛されている籠の中の小鳥。境遇は異なるが、2人は愛に飢えた可哀そうな子供たちである。そんな彼らが、親や周囲の大人達に反発しながら愛を成就していく様は素直に面白いと思った。
敢えて言えば、ストーリーの視座が基本的に子供たちにあるので、大人達のドラマが若干ステロタイプになってしまったのが不満である。もう少し視野の広いドラマにしても良かったのではないだろうか。アンダーソン映画の中ではかなり万人受けしそうだが、逆に彼のこれまでの作品を見てきた者としては少し物足りなかった。
尚、子供のロマンスなので直接的な性表現はないが、それを匂わすようなニュアンスはそこかしこに見られる。例えば、サムがスージーの耳にピアスの穴を開けるシーンは、明らかに処女喪失の暗喩であろう。W・アンダーソンはこうした洒落た演出が大変上手い。
キャストは豪華な顔ぶれが揃っている。B・ウィリス、E・ノートン、B・マーレイ、F・マクードマンド、T・スウィントン、そしてW・アンダーソン作品の常連J・シュワルツマン等が癖のあるキャラを演じている。いずれも主役級のキャストなので見応えがあった。
また、主役の少年、少女は今作が映画デビューということである。こちらも微笑ましく見れた。特に、スージー役を演じたカーラ・ヘイワードは、W・アンダーソン作品によく出てくる、少し病んだゴス系少女として造形されている。彼女の存在感は、他の大物俳優たちに全然負けてないない。彼女の今後の活躍に期待したい。
独特のテイストで紡がれる悲喜こもごもに魅了される。
「さよなら、人類」(2014スウェーデンノルウェー仏独)
ジャンルコメディ
(あらすじ) ある日、別々の場所で3人の男たちが死亡した。その頃、冴えないセールスマン、ヨナタンとサムは2人で面白グッズを売り歩いていた。しかし、誰にも相手をされず落ち込む。一方、フラメンコ の女教師はレッスンを受けに来た青年の身体を触りまくって逃げられてしまう。フェリーの船長は船酔いが原因で理容師に転職した。ヨナタン達がよく行くバーの女店主は第二次世界大戦時の記憶に思いをはせた。ヨナタンたちは奇妙な通りに迷い込み、そこでロシア軍と戦う中世時代の軍隊に遭遇する。
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(レビュー) この映画はストーリーだけを追いかけていくとかなり散文的で物足りない。一応、中心となるエピソードはヨナタンとサムのエピソードになるのだが、これも淡々と日常シーンが続くだけなのでドラマ性はない。彼らの他に、理容師に転職した元船長、講演を聞きに来て土砂降りの雨にあう不運な男、フラメンコの女性教師、バーの女店主等が登場してくるが、彼らのドラマは一部で重なる部分もあるが、基本的には別個のエピソードで群像劇というわけでもない。だから、ドラマ的にはどうしたって薄みにならざるを得ない。
このように、今作は変にドラマ性を求めてしまうと、確実に肩透かしを食らう作品である。それよりも、1シチュエーション型のコントの集積‥という割り切りで見た方が楽しめると思う。個人的にはモンティ・パイソンを連想した。ブラックでシュールな笑いが散りばめられているのも、モンティ・パイソンを想起させる。
出色だったのは、中盤でヨナタンとサムが出くわす不思議な事象である。突然、馬に乗った国王率いる中世時代の軍隊が彼らの前に姿を現す。時空を超えた”怪現象”とも言うべき異常事態に、ヨナタンはもちろん、その場に居合わせた周囲の人々も呆気にとられてしまう。これが非常に可笑しかった。しかも、劇中ではこの怪現象について何の説明もしていない。正しくナンセンス・ギャグの極み。モンティ・パイソン的な笑いである。
その一方で、しみじみとくるシーンもあった。それは、ヨナタンたちが通うバーで回想される、第2次世界大戦時の思い出である。そこの女店主は文無しの兵士に金の代わりにキスで酒を振舞う。国のために戦う彼らを労う意味か。あるいは、単に女店主の欲求不満の解消か。いずれにせよ、その中の一人であろう老人が、今でも常連客としてこの店に通っている。約70年に及ぶ女店主と老人(元兵士)の交友を想像すると、何とも言えぬ情感が湧いてくる。このあたりの時制の演出には脱帽だった。
また、ゾッとするような怖いシーンもあって、それは終盤に登場するヨナタンの悪夢だった。帝国主義時代の白人が鎖で繋がれた黒人奴隷を巨大な鉄製の筒に入れて火あぶりにして、それを現代の成金たちが笑いながら見物するという、極めてシュール且つブラックな悪夢である。帝国主義に対するアイロニーか、それとも即物的快楽主義への批判なのか分からないが、タチの悪いジョークでは済まされない不謹慎さがある。
このように、かなりクセを持った笑い、怖さがあるので、好き嫌いがはっきり分かれそうな作品である。また、全てのエピソードが楽しめたかと言うとそういうわけではなく、中には今一つピンと来ないエピソードもあった。例えば、窓辺で煙草を吸う男女のエピソード、電話で「元気そうで何より」を繰り返す人々、チンパンジーの動物実験、ラストのバス停のエピソード等、どこをどう笑えばいいのか?あるいは、どんなメッセージが隠されているのか?よく分からなかった。
また、場面によってヨナタンの顔が白塗りになるのだが、これにもどんな意味があるのか分からなかった。映画の冒頭に出てくる3つの死のエピソードでは、死ぬ人が皆白塗りをしていた。もしかしたら死相を意味していたのかもしれない。つまり、あの白塗りは、ヨナタンが生きることに疲弊し死の世界に近づいた‥ということを意味する物だったのかもしれない。しかし、これもはっきりとは断定できない。
監督・脚本はロイ・アンダーソン。前々作「散歩する惑星」(2000スウェーデン仏)はコアなSFファンの間で評判を呼び、大いに話題になった。氏が作り出す独特の脱力テイストは今回も健在である。抑揚を押し殺した演出、1カットのロングテイクで紡ぐオフビートな笑いは唯一無二の物として中々面白く感じる。
尚、監督自身は、今回の作品で「散歩する惑星」から続く”人間についての3部作”は完結するということである。自分は第2作の「愛おしき隣人」(2007スウェーデン独仏デンマークノルウェー)が未見なので機会があればいずれ見てみたい。個人的に「散歩する惑星」が今一つ楽しめなかったので躊躇していたのだが、今作を見て俄然前作に対する興味が湧いた。
青春物の王道。ベタな展開に少しのサプライズ。そしてこの青臭さがたまらない。
「心が叫びたがってるんだ。」(2015日)
ジャンルアニメ・ジャンル青春ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) 幼い頃に発した何気ない一言で家族がバラバラになってしまった少女・成瀬順。彼女はそれがトラウマとなり、言葉を発するとお腹が痛くなり喋ることができなくなってしまった。高校2年のある日、順は担任から年に一度のイベント地域ふれあい交流会の実行委員に任命される。一緒に任命されたのは、心を閉ざした無気力少年・坂上拓実、チアリーダー部の優等生・仁藤菜月、甲子園を期待されながらヒジの故障でやさぐれてしまった野球部のエース・田崎大樹というまるで接点のない3人だった。やがて担任の独断で出し物がミュージカルに決まる。順は歌うことなら自分にもできるかもしれない‥と思い始める。
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(レビュー) 2011年に製作されて大ヒットを記録したテレビアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」のスタッフが製作したオリジナル長編アニメ。言葉を発せなくなった少女と周囲の成長を感動的に綴った青春ドラマである。
「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。」(通称「あの花」)はテレビで見て感動した口である。その後「あの花」は劇場版と実写ドラマ化もされて大いに話題を呼んだ。監督の長井龍雪と脚本の岡田磨理は一躍注目され、時代を担うアニメ作家として広く知られるようになった。その主要二人が新作を作るという事で、今回の作品も「あの花」ファンの間では期待された。自分もそのうちの一人である。
しかして期待に胸ふくらませて見たわけだが、結論から言うと今回の作品は実に手堅く作られていると思った。青春ドラマとしての枠組みをしっかり守りながら、エンタメ性も十分織り込みつつ、鑑賞感爽やかに万人受けするように作られている。
ストーリーは明快且つこちらが想像する方向に沿って展開されるので意外性はない。しかし、この予定調和な所が嫌味ではなく、自然な流れで演出されているので気持ち良く乗っかることが出来た。
また、主人公・順の成長も丁寧に筆致され、テーマも真摯に受け止められた。要するに、この映画は「心が叫びたがってるんだ。」というよりも「心が叫び痛がってるんだ。」だと思う。
順はトラウマを抱えながらずっと成長しないでここまで来た子だと思う。言葉を発するとお腹が痛くなるが、これは子供の仮病みたいなもので自己暗示から来る痛みである。それが拓実に出会い彼に恋をすることで、胸(心)が痛む‥という風に変わる。これが成長である。人は誰かを好きになって初めて身体的にも精神的にも成長する。時には失恋も味わう。しかし、それがその人間を一回り大きく成長させる。そこには必ず痛みが伴う。このドラマは順の心の痛みを描くドラマなのだ。
そして、このまま順と拓実の恋が成就すればただの安っぽい”上辺だけ”の成長ドラマになってしまうが、本作はそこにもリアリティを持たせている。テーマが堅確に発せられていて感心させられた。
ちなみに、成長というテーマは、もう一人の主要キャラ大樹からも読み取れる。彼も自分と周囲の関係を見つめ直しながら新しい自分を発見していく。サイド・ストーリーということで、そこまで突っ込んで描かれるわけではないので、カタルシスは薄みだが、これがあることでドラマに幅が出ている。
ラストで少し意外な展開があるが、これは製作サイドが気を利かせたサービスだろう。順の成長という着地点だけで終わらせてしまったら、今回のドラマはかなり後味が悪くなってしまっただろう。そこでこのようなオチを用意したのかもしれない。賛否あるかもしれないが、そこまで目配りしたスタッフの気遣いには感心するほかない。
演出はアニメーションならではのファンタジックな表現を取り入れつつ、各キャラの心理描写に関しては細心の注意を払いながらディティールとリアリズムが追求されている。作画的に少し気になる部分はあったものの、これも大画面で見ればである。おそらくテレビサイズではそこまでは気にならないだろう。また、一部で順の小動物的な萌えリアクションがあるが、これにはそこまでの嫌らしさは感じず、むしろ可愛らしく思えた。
一方で小道具の使い方も中々上手く、特に携帯でのラインのやり取りなどは画面上に上手く幅を持たせていた。言葉を発せない順のコミュニケーション・ツールとして、今回は携帯が大活躍している。しかもガラケーである。おそらく彼女の家の経済的な事情なのだろう。そんな所にも本作は細かく気を使って設定されている。
時制を前後させた演出が、劇中に2度登場してくるが、これに関しては成功している面と失敗してる面があると思った。まず1度目は順が拓実の家から帰るシーンである。バスの車内とバス停をカットバックで構成しているが、余り効果的には思えなかった。むしろ混乱しかねない。
逆に、クライマックスの時制の交錯は”技アリ”である。展開の流れが途切れることなくドラマチックな見せ場を作り上げていた。
また、今回は音楽がドラマを盛り上げる上で非常に重要な役割を果たしている。「オーバー・ザ・レインボー」、「アラウンド・ザ・ワールド」といった「オズの魔法使」(1939米)や「80日間世界一周旅行」(1956米)でお馴染みのスタンダードナンバーから、ベートーヴェンの「悲愴」といったクラシックまで、誰もが一度は耳にしたことがある名曲ばかりが流れる。この中ではクライマックスでの「オーバー・ザ・レインボー」と「悲愴」の意外な使われ方が白眉だった。要は作り手はハッピーエンドとアンハッピーエンドをかけ合わせたかったのだろう。物事には明と暗がある。心の言葉と声に出して発する言葉がある。ハッピーエンドで大団円といきたがる所を二律背反で締めくくった所に今作のテーマ、つまり「成長には痛みが伴う」というメッセージが感じられた。
一方、本作で少し残念に思った箇所もあった。
一つは玉子の存在である。人は誰でも卵の殻を被り中々心の内を見せたがらないものである。そういう意味から、玉子というファンタジックにして直観的なメタファーを持ってきたのだろう。それは理解できる。”玉子”と”王子”という言葉遊びも面白いと思った。しかし、神社で祭られている玉子が担任教師の部屋にあり、それがきっかけで順と拓実に接点が生まれる‥という所に強引さを感じてしまう。何故あの部屋に玉子が置いてあったのだろうか?
そして、この担任教師は時々全てを見透かしたような振る舞いをする。地域ふれあい交流会の実行委員のメンバーを選抜したのは彼だった。その出し物をミュージカルにしたのも彼だった。この教師は一体何者なのだろうか?普段はそれほど優秀な教育者といった風情は見せない。彼のキャラクターとしての造形に何らかの意図や裏設定でもあるのか?そんな邪推をしてしまった。
もう一つ気になったことがある。それは順の母親の冷淡さである。彼女の気持ちを察すれば確かに気の毒に思うが、それにしたって地域ふれあい交流会で自分の期待を裏切られたからといって「やっぱりダメな娘」と一蹴するは如何なものだろう?その前段、車中のシーンで彼女は順にこれまでの冷淡さを謝り、少しだけ心が通ったように見えた。だから、ここでは順を最後まで心配する母親であって欲しかった。終盤の母親の心情がチグハグに思えてしまったのは残念だった。