漫画家を目指す少年たちの熱い情熱は観てて心地よい。
東宝 (2016-04-20)
売り上げランキング: 16,853
「バクマン。」(2015日)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) かつて週刊少年ジャンプに連載していた亡き叔父の影響で漫画家を目指していた高校生の最高は、ある日ひょんなことからその高い画力を買われて、秀才のクラスメイト秋人に“俺と組んで漫画家になろう”と誘われる。最初は渋っていた最高だったが、声優を目指す片想いのクラスメイト亜豆と“お互いの夢が叶ったら結婚する”という約束を交わして漫画家の道を歩むことを決心する。こうして2人は週刊少年ジャンプの編集部に持ち込む原稿を描きはじめるのだが…。
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(レビュー) 漫画家を目指す二人組の高校生の成功と挫折を描いた同名コミックを、
「モテキ」(2011日)の大根仁監督が実写映像化した作品。
尚、今回の実写版に先駆けて2010~2012年にかけてTVアニメ化も作られた。自分はそちらを先に観ていたので、大体のストーリーは知った上での鑑賞である。
アニメ版は原作にかなり忠実に作られており、最高たちのサクセス・ストーリーはもちろんのこと、彼らの周辺人物を含めた群像劇も丁寧に描かれていて大変面白く観ることが出来た。「週刊少年ジャンプ」に関する固有名詞が実名で出てくるのもリアリティが感じられて良かった。
そこからすると、今回の実写版は設定やストーリーがかなり省略されている。長尺の原作を2時間の映画にまとめるのだから、この辺りは仕方がないだろう。
ただ、欲を言えば、最高の家庭環境だけは最小限で良いので押さえて欲しかった。これがないと後半の入院シーンが不自然に感じられる。病室に彼の家族が見舞いに来るといった描写があるだけで、ここは俄然リアリティが増しただろう。実に勿体ない。
そもそも高校生が週刊漫画で連載すること自体、リアリティに乏しい”夢物語”である。劇中で秋人が語っているが、漫画家という職業は一発当たれば大金持ちになれるが、大抵は海の藻屑と消えてしまう。要は完全に博打の世界なのである。将来漫画家になると言ったら、普通であれば親に反対されるのが当然だろう。そして、実際に原作ではそのような描写があった筈である。しかし、本作では最高の家族関係がバッサリとカットされているため、こうした家族とのやり取りも全然出てこない。
さらに細かな点を挙げれば、アシスタントの存在が皆無なのも不自然に写った。週刊連載と言えば、毎週のように締切がやって来る地獄のようなスケジュールである。たった二人で、しかも現役の高校生が毎週描きあげられるものではない。このあたりも原作ではきちんとフォローされていた。
こうした設定の省略は見てて大変気になる所だった。本作は曲がりなりにも”職業物”の映画である。漫画家という職業について全然知らない人ならまだしも、少しでも実情を知識として持っている人が観ればこのあたりは誤魔化しのきかない所である。そういう意味でも、ディティールには気を使って欲しかった。
ストーリーは概ね面白く見ることが出来た。「週刊少年ジャンプ」の連載漫画には「友情、努力、勝利」というキャッチフレーズが存在する。この言葉はジャンプ・ファンのみならず、漫画ファンであれば誰もが知っている言葉で、今回のドラマはそれをテーマにしながら上手く作られている。青春映画らしい若々しさ、情熱が画面からひしひしと伝わってきて、見終わった後には清々しい鑑賞感で満たされた。
また、最高がマンガの道を歩もうとする動機も、過去の叔父との関係からよく分かるように構成されている。叔父と因縁関係にあった編集長との対立が、最終的に味わい深くまとめられているのも良い。
大根監督の演出は終始軽快で飽きさせない。時折見せる大胆且つポップな映像センスが素晴らしく、例えば最高たちが机に向かっている背景に漫画のコマを重ねて見せたり、ライバルである新妻エイジと競う読者投票対決をCGを駆使した華やかなアクションで表現したり、様々な工夫を凝らしている。
エンディングのアイディアも秀逸である。往年のジャンプ・ファンなら思わずニヤリとするだろう。
キャストでは最高を演じた佐藤健、秋人を演じた神木隆之介、夫々に好演していると思った。漫画原作なので多少の誇張はアリと想定したが、案外現実味のある造形になっていて安心した。また、担当編集・服部を演じた山田孝之も抑制された演技で良かったと思う。
一方、小豆を演じた小松菜奈に関しては演技が固く、存在感も薄くて物足りなかった。物語のヒロインとしてもっと延び延びと演技して欲しかった。映画が始まって早々に最高と離れ離れになってしまうので出番自体が少なくなってしまったのは仕方がない。しかし、そうであるならば、彼女の視点で描くドラマをどこかに挿入することで、最高に対する想いをもっと強く引き出してやるべきだったのではないだろうか。このままではヒロインとしては中途半端である。
「モテキ」であれだけ多彩な女優陣を魅力的に描いて見せた大根監督にしては、今回のヒロインの”おざなり”感はいただけない。
バイカーたちの刹那的な青春を描いた快作。
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2007-08-25)
売り上げランキング: 86,800
「ワイルド・エンジェル」(1966米)
ジャンル青春映画
(あらすじ) 暴走族エンジェルのリーダー、ブルースは、親友のルーザーを誘ってツーリングにでかけた。ところが、その先で対抗するグループと遭遇し激しい抗争となる。その最中にルーザーは駆けつけた警官に撃たれて病院に運ばれてしまった。ブルースは仲間と共に警察の手からルーザーを救い出そうとするのだが…。
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(レビュー) バイカーたちの生き様を鮮烈に描いた青春映画。
監督・脚本がB級映画の帝王R・コーマンということで、いかにもチープな作りの作品である。しかし、キャストは今見るとかなり豪華な布陣で興味深い。
いわゆるコーマン門下から出たスターたちは何人かいるが、彼らは夫々に今でも師のことを敬愛し大切に思っている。そのあたりのことはR・コーマンのこれまでの映画創作を追ったドキュメンタリー
「コーマン帝国」(2011米)を観るとよく分かる。
そんなスターたちが実際にどういう下積みのキャリアをコーマンの下で積んだのか?その片鱗を観ることが出来るという意味で、本作は興味深い作品となっている。
主人公ブルースを演じるのはP・フォンダ。彼はこの後にアメリカン・ニューシネマの代表作「イージー・ライダー」(1969米)に出演することになるが、その原型を本作に見ることができた。オープニングでさっそうとハイウェイを走るピーターの姿は、「イージー・ライダー」にそのまま引き継がれているような気がする。ひたすらニヒルな佇まいを貫き通すダンディズム。哀愁に満ちたラストの姿が印象に残った。
そして、ルーザーを演じたB・ダーンも印象に残った。彼はその名の通り仕事を転々とする負け犬(ルーザー)で、うだつの上がらない人生から逃れるようにバイクにのめり込んでいく。しかし、運悪く警官に撃たれて重傷を負ってしまう。情けないと言えば余りにも情けない人生である。仲間たちが見守る中、自らの人生を述懐するシーンの熱演が素晴らしかった。
更には、ブルースの恋人役を演じるのは、あのF・シナトラの実娘ナンシー・シナトラである。正直、映画俳優としては今一つパッとしなかった女優で、ここでも余り印象に残らない役所だったが、演技自体は決して悪くはない。
このように本作は中々興味深いキャスティングとなっている。それを見れるだけでも本作の価値は十分にあるように思う。
また、当時はバイカー・ブームというのがあって、本作はその流れに乗って作られた作品である。元々こうしたバイカー映画は、古くから作られており、その聖典がM・ブランドが主演した「乱暴者(あばれもの)」(1953米)と言われている。権力に抗う不良のイメージを強烈に体現したブランドの存在感は圧倒的で、この作品がヒットしたからこそ、その後のバイカー映画は作られ続けた。キャストが身に着けるファッションを含め、当時の風俗を知るという意味で、この手の作品は興味深く観ることができる。
先述したように、本作は低予算で作られたB級映画である。ストーリーはシンプルで食い足りないし、妙に間延びした展開も気になり、正直な所、退屈する映画だった。
ただ、世のバイカー達のために明確なコンセプトが打ち出されており、そこにはジャンル映画に通じるような潔さが認められる。そういう意味において、観客のターゲットを絞った映画作りをモットーとしたR・コーマンの創作姿勢はここでも貫通されているような気がした。
損をしない映画作り。彼にとって最も重要なのはこの部分である。それが本作でもきちんと実践されているところに、この人は本当にブレないなぁ‥と実感される。これもまたクリエイターとしての一つの姿勢であろう。
ミック・ジャガーが実在のアウトローを演じた西部劇。
「太陽の果てに青春を」(1970英)
ジャンル青春ドラマ
(あらすじ) オーストラリアの西部。犯罪者の息子として生まれたネッド・ケリーは、馬泥棒の冤罪で3年の服役から解放された。家族はネッドを温かく迎えるが、一度警察に目を付けられた彼は執拗に嫌がらせを受けるようになる。そして、彼の留守中に家族が逮捕されてしまう。ネッドは弟のダンや仲間たちと共に反乱を起こす。
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(レビュー) ローリング・ストーンズのヴォーカリスト、ミック・ジャガーが、伝説のアウトローを熱演した犯罪青春映画。
尚、彼が演じるネッド・ケリーは実在した人物である。自分は不勉強で知らなかったのだが、19世紀中頃にオーストラリアで方々を荒らしまくった盗賊だそうである。彼を主人公にした小説や映画は何本も作られており、今回の作品はその中の1本となる。
まず、冒頭から「THE END」のテロップが出て面食らった。いきなりネッドが死刑になってしまうのだ。しかし、まさかこれで映画が終わる筈もなく、ここから物語は数年前に遡って彼の半生が綴られる。
ドラマ自体は非常にシンプルで、当時の潮流もあったのだろう。いわゆるアメリカン・ニュー・シネマの影響を受けた、若者の”刹那的な反乱”を描いたドラマとなっている。
犯罪者のレッテルを貼られたネッド率いるケリー一家は、理不尽な警察権力の支配から逃れて銃を片手に戦いを挑んでいく。しかし、圧倒的な戦力を前に次々と仲間達は倒れ、最後はネッドも非情な顛末を迎える。
印象的だったのはクライマックス・シーンである。警官隊に取り囲まれた仲間を助けるために、ネッドが鉄の鎧を身に着て助けに向かう。しかし、それを警官隊に待ち伏せされ、彼は雨あられと銃弾を浴びせられる。そのほとんどは鉄の鎧で食い止めることが出来るのだが、さすがにこれだけ受けると着弾の衝撃は避けられない。やがてネッドはついに道半ばで倒れてしまう。
ここはアメリカン・ニュー・シネマの傑作「俺たちに明日はない」(1967米)のラスト。主人公のボニー&クライドが87発の銃弾を浴びて絶命したシーンと重なって見えた。
この壮絶なクライマックス・シーンは劇画調であり、それまでのリアリティ路線からかけ離れた演出になっているが、ネッドの生き様、体制に抗う信念が象徴的に表された名シーンのように思う。バックにかかる時計の秒針音も何だか虚しく響き非常に印象に残った。
本作の難はストーリーが性急で、登場人物の整理がままならない点だろうか…。これは編集が雑なせいもあるように思う。
例えば、1シーンをたった数秒の描写で済ませてしまうような箇所が幾つか見受けられる。ダイジェスト風な描写で作品のトーンを統一しているのならまだしも、こうした簡略表現が脈絡なく出てくると違和感を覚えてしまう。
また、クライマックスの籠城シーンもケリー一家の誰と誰が撃たれたのか、さっぱり分からず、いつの間にか生き残っているのは二人だけになっていて呆気にとられてしまった。
また、ケリー一家はアイルランド系移民で、周囲から理由なき差別を受けている。実は、このバックストーリーは非常に重要で彼の反抗の理由の一端になっている。しかし、この設定がドラマの中で上手く機能しているように思えなかった。ネッドの戦いに感情移入させようとするなら、この説明はもう少し丁寧に掘り下げた方が良いだろう。
尚、本作には要所で度々、劇中歌が流れてくる。いずれもネッドの心情を表したかのような歌詞なのだが、歌詞が少々ナルシスティックで鼻についてしまった。しかも、肝心のミック・ジャガーが歌っているのは、その内の1曲というのも何だか残念である。
本人もこの映画に関しては良いコメントを残しておらず、余り良い思い出はないようである。
現在、国内ではDVD化されておらず、ミック・ジャガーのファンにもサジを投げられた感じのする本作であるが、ただ個人的に撮影に関しては所々に素晴らしいものがあり、それを見れただけでも良かったと思う。撮影は実際にオーストラリアで行われ、戦いの最中にふと見せる美し自然風景が心に沁みた。
まったく感情移入できなかったが解釈次第ではとても魅力的な作品となる。R18指定。
KADOKAWA / 角川書店 (2014-09-05)
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「17歳」(2013仏)
ジャンル青春ドラマ・ジャンルエロティック
(あらすじ) 17歳の少女イザベルは、家族と来たリゾート地でドイツからやってきた青年と初体験を済ます。しかし、何故か彼女の心は満たされなかった。その後、パリに戻った彼女は、SNSで知り合った男たちに身体を売るようになる。
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(レビュー) 性に奔放な少女の姿を淡々と綴った青春映画。
監督・脚本はF・オゾン。女性の描き方に定評のある監督だけに、今回の『少女の売春』というテーマをどう描くのか。興味を持って観ることが出来た。
ただ、結論から言うと、表層的過ぎてイザベルの心中が見ているこちら側に余り響いてこず、結局彼女は何をしたかったのか?何が目的だったのか?分からなかった。彼女は別に金が欲しくて身体を売ったわけではない。複雑な家庭事情に対する反発から自暴自棄になったわけでもない。もちろん、単純に快楽を求めたわけでもない。一体、イザベルは何のために次々と男たちに身体を提供したのだろうか?自分の理解力不足なのかもしれないが、そこがさっぱり分からなかった。
ただ、この”さっぱり分からない”という感想こそがオゾン監督の狙い‥という気もした。
17歳といえば肉体的にも精神的に不安定な年頃である。社会的道徳では計り知れない”深い闇”をかかえていたりする。我々大人には到底理解できないような動機がきっと彼女の中にはあったのだろう。そして、それは永遠に理解できない物なのかもしれない。
オゾン監督は、この繊細でアンニュイで、時に大人が予想できないような大胆な行動に出る思春期の少女の”謎めいた生態”を画面を通して突きつけたかったのだろう。映画の語りが完全に客観的な作りになっているので余計に彼女の心中を察することはできない。敢えてオゾン監督はイザベルの内面を語らない方法で、少女のミステリアスさを描きたかったのだと思う。
そんな中、自分はイザベルと義弟とのやり取りだけは素直に面白く観ることが出来た。
二人の間に血の繋がりはないのだが、お互いの気持ちをよく理解しあっているように見えた。時に喧嘩をすることもあるのだが、まるで本当の姉弟のように仲が良く、そこが無邪気に見えて心が和んだ。
例えば、義弟も年頃の少年である。イザベルのことをやはりどこかで性的な眼差しで見ている。ある晩、彼女のベッドに全裸で寝ていた所を見つかり取り乱す。このシーンなどは可笑しかった。一方のイザベルもサバサバとした表情で「どいて!」と言うので、変に淫靡にならないで済んでいる。
全編性愛の世界が展開される本作で、唯一この姉弟の関係だけはユーモラスに見れた。
また、ラストに関しては、見た人によって様々な解釈が出来るようになっており、このあたりにはF・オゾンらしい観客に対する”知的”な”挑戦”が伺える。
このラストシーンはよく見ていれば分かるが、ベッドの左側に寝ていたイザベルがラストでカットが切り替わると右側に移動している。そして右側に寝ていた”レア”という中年女性役を演じたS・ランプリングが姿を消している。実は、イザベルはSNSで彼女の祖母の名前”レア”を名乗っていた。つまり、このラストシーンには二人の”レア”がベッドに寝ていた‥ということになる。このシチュエーションは一体何を意味しているのか?そこを考えてみると面白い。
自分は次のように解釈した。
S・ランプリングは過去に夫の愛を喪失した女である。それに対してイザベルはランプリングが失った愛を文字通り”殺した”女性と言うことが出来る。この二人の”レア”がラストシーンで出会う幕切れは実にドラマチックで、自分がまったく理解できなかったというイザベルの売春の意味がここに隠されているような気がした。
つまり、レアが何のために売春していたのかというと、それはランプリングと出会うためだったのではないだろうか?そして、過去のレア(ランプリング)は消え、現在のレア(イザベル)だけが後に残される。このラストはレアが新しく生まれ変わった‥ということを意味しているのではないか。そんな風に想像できた。
もちろん、このラストを見て別の解釈をする人もいるだろう。しかし、このように想像してみると、とてもロマンチックな結末に思えてくる。
尚、本作はポルノチックなシーンが頻繁に登場してくるのでR-18作品となっている。ボカシは他の作品と比べてかなり大きめである。このあたりは一体どういう基準になっているのか分からないが、フルボディのショットに半分近くのボカシがかかるのは流石に興醒めしてしまう。入れるにしても、もう少し考えて欲しい。
幻想的な世界観に魅了される。
「彷徨える河」(2015コロンビアベネズエラアルゼンチン)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 先住民族の唯一の生き残りであるシャーマンのカラマカテは、アマゾン川流域のジャングルに一人で住んでいた。そこに病に苦しむドイツ人民俗学者が救いを求めにやって来る。自分たちを亡ぼした白人に対する憎悪から一旦はそれを拒むカラマカテだったが、このまま見殺しにすることも出来ず、治療に必要な聖なる植物ヤクルナを求めてカヌーを漕ぎだす。数十年後、孤独によって記憶や感情を失ったカラマカテの前に、ヤクルナを求めるアメリカ人植物学者が現われる。カラマカテは彼と共に再びアマゾン深部へカヌーを漕ぎだすのだが‥。
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(レビュー) アマゾンのジャングルを舞台にしたアドベンチャー・ドラマ。現在と過去を交錯させながら、文明によって滅ぼされた先住民の生き残りと白人の数奇な旅を寓話的なテイストで描いた作品である。尚、本作はコロンビア映画として初めてアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。
何とも不思議なテイストを持った映画である。南米特有のマジック・リアリズムが横溢し夢とも現ともつかぬ奇妙な味わいを残す。今作には二人の白人が出てきて、先住民カラマカテにアマゾンの奥地へと誘われるが、まさに見ている自分も未だ見ぬ新天地へ連れて行かれるような、そんな新鮮な感覚に捉われた。
尚、今回の現在と過去のドラマは、実在した白人探検家の手記をベースに敷いているそうである。そう考えると、ここで描かれる様々な出来事は全くのデタラメと言うわけではないのだろう。だからか、余計に現実と虚構の境を見失うような不思議な印象を残す。
監督・脚本は今回が初見となるシーロ・ゲーラ。すでに本作を含め、これまで撮った作品はいずれも世界各国で話題となっており、コロンビアが生んだ俊英として注目されている。
連想させるのは、やはり南米出身のA・ホドロフスキーの一連の作品であろうか‥。「エル・トポ」(1970メキシコ)に代表されるように、彼の作品は難解、シュールと評されるが、その独特の語り口からカルト的な人気を得ている。「百年の孤独」の作者であるガブリエル・ガルシア=マルケスにしてもそうであるが、ラテン・アメリカには元々こうしたマジックリアリズム的な作風を生む土壌があるのだろう。
本作も時に観念的で神秘主義的、何とも掴みどころのない”事件”が登場して惑わされてしまうが、この独特な世界観は唯一無二と感じた。これは、ジャングルという魅惑的な舞台設定によるところが大きいと思う。
星空が煌めく夜空の美しさ、ゆっくりと流れるアマゾン川の包み込むような優しさには、本来自然が保有する生命の恵みが実感でき、それらを前にしては人間同士のイザコザなどは、どうしようもなく卑小なものに思えてくる。この「自然」対「人間」の対比がドラマを面白く見せていることは間違いない。自然の圧倒的な美しさに惹きつけられてしまう。
但し、本作はモノクロ作品である。一部でカラー映像に切り替わるが、基本的には深みのある白と黒の陰影で構成されている。美しいとは言っても、決して華やかな美しさはない。どちらかと言うと、渋みのある美しさだ。ただ、これがかえって自然のシビアさを強調し、息苦しいほどの圧迫感で観る者を圧倒してくる。極論してしまうと、本作の主人公はカラマカテの背後に存在する「自然そのもの」とも言える。それくらいのリアリズムと説得力が、この映画からは感じられた。
また、オープニングの蛇がうごめくタイトル・シーン、豹が蛇を食らうシーンといった動物の描写は生々しく切り取られており、この辺りにも監督の執拗なこだわりが感じられた。
原題は「Embrace of the Serpent」。翻訳すると「蛇の抱擁」という意味になる。タイトルにもなっているくらいなので、蛇はこの映画の中では非常に重要な意味を持っている。蛇は何を意味しているのか?そのあたりのことを考えてみると、より一層この映画のテーマを深く探求することができるだろう。自分は、蛇はカラマカテたち先住民族を亡ぼした白人、つまり入植民を暗喩したものと解釈した。
尚、本作を見て幾つか連想した作品があるので付記しておこうと思う。
カラマカテの旅は現在と過去の二つで構成されているが、実は二つとも同じ道程を辿る。これには”時”の普遍性を意識させられるが、同時に旅の終わり方が違うことを考えると、カラマカテの過去の”清算”を意味しているような気がした。彼は過去に成しえなかった悔恨がある。その悔恨を現在の旅を通じて彼は解消させていく。
そして、この現在と過去の旅の中で、カラマカテは宣教師に支配された村にたどり着く。いずれも衝撃的な結末が待ち受けているが、これを見て自分は鬼才V・ヘルツォークが監督した「アギーレ・神の怒り」(1972西独)の一場面を思い出した。「アギーレ」は、伝説の黄金郷エル・ドラドを目指してスペインの探検隊がアマゾンの奥地を旅するいう映画である。舞台設定が同じジャングルという事で共通しているし、現在パートに登場した怪しげな宣教師が「アギーレ」で先住民を蹂躙する怪優K・キンスキーにダブって見えた。
また、この宣教師は先日観た
「グリーン・インフェルノ」(2013米)よろしく凄惨な結末を迎える。そこには監督のブラック・ユーモアも感じられた。実を言うと、映画を見始めてすぐに、まさか「グリーン・インフェルノ」みたいな展開が待ち受けていたりして‥と心の中で想像していたのだが、案の定そうなってしまったのでここは笑いがこらえられなかった。
また、ジャングルの奥へ奥へと遡上していくシチュエーションに、フランシス・F・コッポラ監督の「地獄の黙示録」( 1979米)も連想した。言わずと知れた戦争映画の傑作で、ジャングルの奥地に潜む”狂気”に見ているこちらも呑み込まれてしまうような恐ろしい映画だった。そんな「地獄の黙示録」同様、本作も狂気の世界を”彷徨う”体験が出来る映画である。
倒錯したマジック・リアリズムの世界に身を委ねながら、「自然」と「文明」、「神」と「人間」について考えてみるのもいいだろう。さすれば劇中の植物学者のように”新しい世界”を発見することが出来るかもしれない。
いずれにせよ、映画館を出て現実の世界に引き戻されてホッと胸をなでおろしたのは久しぶりだった。それくらい眩惑されっぱなしの2時間であった。
奇妙な宇宙人が巻き起こす風刺コメディ。笑えて泣けて考えさせられる快作!
「PK」(2014インド)
ジャンルコメディ・ジャンルSF・ジャンルロマンス
(あらすじ) 留学先のベルギーで悲しい失恋を経験して帰国したジャグーは、テレビ局に就職し、そこでニュース番組のレポーターの仕事に就く。ある日、“神様が行方不明”というチラシを配る奇妙な男を見かける。さっそく取材してみると、PK(酔っぱらい)と名乗るその男は、自分は宇宙人で宇宙船と交信するためのリモコンを盗まれて帰れなくなってしまったと言う。そのリモコンを見つけてもらうために神様を探しているらしい。最初は信じなかったジャグーだが、彼の奇跡の能力を目の当たりにして、リモコン探しに協力するようになる。
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(レビュー) 本国インドで歴代興行ナンバーワンの大ヒットを記録し、日本でも小規模の公開ながら口コミで大好評を博した
「きっと、うまくいく」(2009インド)の監督・主演コンビで作られたSFロマンチック・コメディ。
いきなり宇宙の視点から始まり驚かされるが、ストーリー自体はいたって現代的でPKの姿形も地球人と一緒なので特に構えずとも見れる所が良い。監督・主演が一緒なので「きっと、うまくいく」を面白く観れた人なら、本作も十分に楽しめるだろう。
この映画はPKが地球人の習慣や宗教、メンタリティな部分に疑問を抱き、それに問題提起をする‥という構成で綴られている。いわゆるカルチャーギャップ的な面白さを狙ったコメディ作品である。しかし、笑いながら見ている中に彼の問題提起が社会風刺として浮かび上がってくる作りが上手く、見終わった後には色々と考えさせられた。
例えば、宗教の問題はこの映画における大きなテーマの一つである。
インドは多くの宗教がひしめく多宗教国家で、ヒンズー教、キリスト教、イスラム教、仏教等、地域や民族によって多種多様である。PKは宇宙船を呼ぶリモコンを盗まれてしまい、それを見つけ出そうと方々を巡るのだが、最終的には人々が言う”神様”に頼むことになる。しかし、一体どの宗教の神様にお願いすればいいか分からなくなってしまう。そして、神様なんて嘘つきだ。いくらお願いしてもちっとも叶えてくれない!と不信感を募らせていくようになる。彼のこの不信感は終盤で”ある事件”に巻き込まれることによって決定的な物となるが、この”ある事件”などは明らかに今もって絶えることのない宗教間紛争に対する皮肉と捉えられる。
このように絶妙な形で現代風刺がスパイスのように効いており、通り一辺倒なお気楽コメディになっていない所が中々侮れない。
この作り方は、ちょうど社会の常識を手玉に取って笑いに仕立てたC・チャップリンの映画に通じるものがある。彼も「チャップリンの独裁者」(1940米)で当時のヒトラーを痛烈に批判した。宗教と政治を笑いのネタにするのは相当勇気がいるものであるが、本作もチャップリンの映画同様、それをかなり大胆にやってのけている。実に大したものである。
そう言えば、常に目を見開いた表情、猫背な姿勢、腕を振らない走り方等、PKの独特のルックも、チャップリンの風貌、所作から発想を得ているのかもしれない。PKの特異なキャラを強烈に印象付けている。
ちなみに、PKとは「酔っ払い」という意味である。彼の言動を見た人々が口をそろえて”お前はPK(酔っ払い)か”と言うものだから、彼自身がPKと名乗ることにした。しかし、考えてみれば彼ほど純粋な眼差しで物事を見る宇宙人もそうそういない。むしろ、酔っぱらっているのは、宗教を拠り所とした争いや偏見を止められない地球人の方なのではないか‥と、そんな風に思った。PK(酔っ払い)という呼び名が皮肉めいて聞こえる。
本作のもう一つのテーマはロマンスである。
PKはテレビ・レポーターをしているジャグーに声をかけられて親交を深めていく。ジャグーにとってみれば、珍奇な言動をする自称”宇宙人”PKは格好の取材のネタである。住む家がないと言う彼を自分のアパートに住まわせて、一緒に暮らし始める。しかし、彼女は昔の恋人のことを今でも忘れられず、PKのことはあくまで友人としか見ていない。
一方のPKは宇宙人とはいえ男である。一緒に過ごすうちに、優しくて可愛い彼女に惚れてしまう。結局、彼のこの想いはクライマックスで悲恋に転じていくのだが、この辺りは涙無くして見れない。PKの純粋な優しさに泣かされてしまった。「男はつらいよ」シリーズの寅さんを連想した。
前作「きっと、うまくいく」も相当長尺の映画だったが、今回も2時間半を超える大作である。この程度の長さは満漢全席なインド映画では珍しくもないが、しかし今回は前作に比べるとストーリーが割とシンプルなため若干中だるみを起こすのは残念だった。控えめながらインド映画には付き物の歌とダンスもあるし、全編軽快なテンポで進むので、決して退屈するということはないが、内容的に言ってもう2,3回捻りがあると更に楽しめたかもしれない。例えば、PKとジャグーの家族の間を深く突っ込んで描いたり、リモコンを盗んだ犯人捜しをもう少しフィーチャーしても良かったかもしれない。このあたりが割とアッサリ気味だったのが少し残念な所だった。
ご都合主義が目立ちすぎて余り乗れず‥。
キングレコード (2014-06-25)
売り上げランキング: 73,317
「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」(2013日)
ジャンルアニメ・ジャンルファンタジー・ジャンルアクション
(あらすじ) 魔の国に暮らすヨヨとネネは、呪いを掛けたり解いたりする“のろい屋”を営む魔女の姉妹である。ある日、森に突然ビルが次々と現れる。調査に向かったヨヨはそこから現代の日本に飛ばされる。彼女はそこで両親を化物に変えられた少年、孝洋と出会う。ヨヨは背後に何かよからぬ呪いが存在していると踏んで解決に乗り出す。一方、魔の国に残されたネネは、ヨヨの捜査のサポートをすることになるのだが‥。
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(レビュー) 魔の国の魔女が現代の日本に現れて大活躍を繰り広げるファンタジー・アニメ。「月刊コミックリュウ」に連載されていた「のろい屋姉妹」(未読)を映画化した作品である。
アニメーションを製作したのは、2007~2010年にかけて劇場公開された「劇場版 空の境界」を作ったufoableというスタジオである。「空の境界」の映像美はマニアの間でかなりの評判になり、多くのファンが劇場に駆け付けた。結果的に単館ロードショーという形式だったが、興行的にはハイアベレージな数字を上げ、いわゆるコアなアニメ層に向けた興業戦略というものがきちんと成立するということを証明して見せた。
本作はそのufoableが製作した作品である。それだけに映像のクオリィは折り紙付きである。
実際に画面の作り込みは非常に素晴らしく、活き活きと動くキャラクターたち、カタルシスをもたらす痛快なアクション、異世界の独特の世界観等、見所が満載である。
但し、ストーリーに関して言うと、かなり難があると感じた。
一言で言ってしまえば、ご都合主義の連続である。第一に、登場人物たちが皆、周囲の異常な状況をいとも簡単に受け入れてしまうのが不自然過ぎる。ストーリーを前進させるためなのだから、ある程度は仕方がないと言う事も出来るが、それにしたってクライマックス以降の展開は強引過ぎる。
例えば、ヨヨは自分の魔力が落ちかけていると言っておきながら、その後は何事もなかったかのように平気で使っている。
あるいは、彼女のお供として付いてきた異形の生物”ビハク”を見た時の祭りの人々のリアクションも、どう考えても軽すぎる。普通であれば、あんな生物を見たら驚くだろう。
そして、これが最大の突っ込み所なのだが、今回の一連の事件を作ってしまった犯人たち。彼らは周辺の異変に気付きながら何をしていたのだろうか?あのままゲームアプリの開発を続けていたとでも言うのだろうか?普通に考えればパニックに陥ってそれどころではないはずである。
更に言うと、なぜヨヨが現実世界に来ると成長した姿に変わってしまうのか。その説明も映画の中では全然されていなかった。
もしかしたら、こうした不信感は原作を読んでいれば解けるのかもしれない。しかし、1本の映画の中にこれだけの欠陥を感じてしまうと、作品に入り込むことは出来なくなってしまう。この作品のことを初めて見る観客に対してもう少し丁寧な描写が必要だったのではないだろうか。
映像は魅力的だっただけに、このようなご都合主義、説明不足が引っかかってしまい全体的には最後まで乗れなかった。そういう意味では非常に惜しい作品である。