ゴジラとの戦いが今から楽しみ。
「キングコング:髑髏島の巨神」(2017米)
ジャンルアクション・ジャンルSF
(あらすじ) 第二次世界大戦時、米軍パイロットが未開の島に不時着した。彼はそこで巨大な生物キングコングと遭遇する。それから30年後、ベトナム戦争が終結を迎えつつある1970年代。米国政府特務機関“モナーク”は南太平洋上に未知の島、髑髏島を発見し調査隊を派遣する。リーダーを務めるのは、ジャングルでのサバイバルに精通した英国陸軍の元兵士コンラッド、ベトナムで米軍ヘリ部隊を率いていたパッカード大佐、勇敢な女性カメラマン、モナークの研究者たちといった面々である。早速、髑髏島に乗り込んだ彼らは、そこでキングコングと遭遇する。その後も様々なモンスターの襲撃を受けながら決死のサバイバルを始める。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 「GODZILLA ゴジラ」(2014米)を製作したレジェンダリー・ピクチャーズが、当代きっての巨大モンスター「キングコング」をリブートした作品。尚、本作の後にはゴジラとの戦いを描く続編の製作が決定している。
実の所、またキングコング?という今更感があったのだが、ゴジラとのコラボがあるというので何としてもチェックしなければ…という思いで鑑賞した。正直な所、ドラマは今一つ乗り切れなかった。ただ、迫力あるアクションシーンは十分堪能できたので、少なくとも映画館で観れたことは良かったと思う。
今回のキングコングは先に”対ゴジラ”ありきで作られた作品だと思う。だから物語は過去の「キングコング」から大幅に変えられている。時代設定はベトナム戦争が終結する直前。登場人物もこれまでのリメイク作とはまったく異なった布陣で、過去のコングの見所の一つである人間の美女とのロマンスも排されている。全ては後に繋がる対ゴジラ戦に向けた話作りという感じがした。
このタイトルは、古くは1933年に製作された「キング・コング」(1933米)から始まっている。もはや特撮映画の古典として今でも語り継がれる名作だが、このタイトルは以後も様々な形でリメイクされてきた。1976年には大作志向のプロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスによって製作された「キングコング」(1976米)。そして、2005年には「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを大成功させたP・ジャクソン監督が万感の思いを込めて撮り上げた「キング・コング」(2005米)が作られた。こうしてキングコングという稀代のモンスターは多くの人々によって愛されてきた”キャラクター”である。しかし、今回の作品は過去の設定や物語を刷新し、新たなキングコング像が作り上げられている。まず、そこはかなり挑戦的だと思った。
ただ、こうした新機軸を見せてくれたのは良いのだが、実際に作品自体の出来はというとかなり問題がある。第一、ドラマがシンプルな割にかなり回りくどい。具体的には、島に降りて以降の展開。ここでヘリ部隊はコンラッドのチーム、パッカードのチーム、チャップマンのチームの3つに分かれるのだが、これがドラマの求心力を失速させてしまっている。少なくともこの中の一つ、チャップマンのチームは明らかにストーリー上、不要である。
どうして今回は人間たちのストーリーを分けて展開したのか?その狙いは何となく想像できる。コンラッド率いるチームとパッカード率いるチームに分けることで、共和派と強硬派というイデオロギーの違いを表現したかったのだろう。怪獣退治の映画にこうした人間側の葛藤を盛り込むことは決して珍しくはない。東宝版のゴジラ・シリーズでもやられてきたことであるし、もっと言えば過去の「キングコング」でもそうした人間同士の衝突は描かれてきた。昔から存在する葛藤なのである。それを今回は明確に区分するために、敢えて二手に分けたのだろう。
それは理解できるのだが、しかしそうであるなら本作はこの二つのルートをもっと早めに合流させて、コンラッドとパッカードの対立をドラマの中で上手く熟成させるべきだったのではないだろうか?2つのチームが合流するのは後半に入ってからである。それまでの間、ドラマは分散してしまうので、どうしても見てて集中力が切れてしまう。
後半に入って来るといよいよ髑髏島からの脱出劇となる。しかし、ここからもストーリーの足を引っ張るキャラが登場してくる。それが先述した第3のルートを行くチャップマンである。彼がいることで、更に話はややこしいことになってしまう。
本作はどこからどう見てもアトラクション志向の強い娯楽大作である。こういう映画はもっとシンプルな展開でスッキリと見せた方がいいと思う。
映像は大変見応えがあった。コングの巨大感や迫力は十分に味わえたし、様々なモンスターが登場してくるので観てて飽きなかった。クライマックスなどは良い意味で怪獣同士の”プロレス”を見せてくれているので痛快である。
過去作のオマージュが幾つか見られたのも良かった。例えば、コングが鎖に縛られる所などは明らかに過去作のオマージュであるし、美女とのロマンスということで言えば少しだが女性カメラマンと心が通い合うシーンがあり、そこは観てて心温まるものがあった。リブートとは言っても、やはり長年愛されてきたキャラクターである。このあたりは過去作を観ている人へのサービスだろう。
また、ベトナム戦争という時代設定から「地獄の黙示録」(1979米)へのオマージュも感じられた。前半のヘリで島に乗り込むシーンなどは正にそうであるし、船でジャングルの中をサバイバルする終盤の展開にもそれを感じた。面白いことに、キングコングをカーツ大佐と見立てると、案外この2作品には似ている点が多い。
キャストでは、パッカードを演じたサミュエル・L・ジャクソンが完全に場をかっさらうアクの強い演技を披露しており相変わらず強烈な個性を発揮していた。自分の部下を殺された恨みを晴らすべくコングに勇猛果敢に立ち向かう姿は彼にしかできない演技だろう。そして、彼の十八番のセリフ「マザー・ファッカー!」はいつ出てくるのか?そこも見所である。
尚、エンドクレジットの後にオマケがついているので最後まで席を立たずに見るべし!
文字通りクズでブスでゲスイ連中しか登場してこない完全なる悪道映画。
「クズとブスとゲス」(2015日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 母と2人暮らしの無職のスキンヘッド男は、行きつけのカフェで孤独そうな女性客を見ると、言葉巧みに誘惑して裸の写真を撮って脅迫していた。あの夜、いつものように女を捕まえるが、その女がヤクザの下で働く商売女だったために逆に窮地に追い込まれる。ヤクザに1週間以内に200万円を払わないと殺すと脅される。その頃、前科者のリーゼント男は、会社の面接に向うも悪態をついて不合格となってしまう。恋人が待つアパートへ帰宅すると、明日が誕生日だと言われて困惑する。彼女を祝ってやる金もなかったからだ。後日、馴染のバーへ行くと旧知のマスターからヤクの密売の仕事を依頼される。リーゼント男は止む無くそれを引き受けることにするのだが‥。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 数奇な運命に呑み込まれていく人々の非情な姿を激しいバイオレンスを交えながら描いた犯罪映画。
「クズとブスとゲス」という奇妙なタイトルが目を引くが、正しく本作に登場するキャラクターは皆「クズでブスでゲス」な人間たちばかりである。
特に、主人公のスキンヘッド男は一度見たら忘れられない強烈な外見をしている。演じるのは本作で監督・脚本を務める奥田庸介。彼が画面に登場するだけで何かヤバいことが起こりそうな、そんな不安と緊張に襲われ最後まで気の抜けない作品となっている。
ちなみに、本作は彼の長編2作目ということだ。
物語は、スキンヘッド男がヤクザの商売女に手を出して窮地に追い込まれていくドラマ。それと、恋人の誕生日のために金策に奔走するリーゼント男のドラマ。この二つで構成されている。映画前半は夫々のストーリーが並行して描かれるが、中盤でこの二つが交錯する。2人には共通する知人がいて、彼を介して皮肉的な運命の巡り合わせで引き寄せられてしまう。そして、映画の最後はこの二つが意外な形で融合し、どこか虚無感漂う幕引きによって締めくくられている。物語自体はシンプルでとても分かりやすかった。
ただし、本作はこの危険で邪悪なタイトルから想像できるように、決して見てて気持ちの良い映画ではない。
スキンヘッド男は、ナンパした女性を薬漬けにしてヌード写真を撮って脅迫するし、出所不明の大麻を堂々と持ち歩いて売り捌くし、アル中の母親の指を包丁で切り落とそうとするし、道徳や良心と言った物が一かけらもない男である。これを見て彼に感情移入しろというのは到底ムリだろう。
方や、もう一人の主人公、リーゼント男も、せっかく受けた会社の面接でわざと難癖付けて落ちたり、恋人のためにと言いつつ一向に就活する様子も見せないし、挙句の果てにヤクの売人に成り下がってしまう。こちらも極めて幼稚な男で、見ててイラつくばかりだった。
更に、本作にはもう一人クズな男が登場してくる。それはスキンヘッド男を脅迫するヤクザのボスである。彼は妻と死別して高校生になる一人息子と暮している。息子との関係は完全に冷え切っていて一言も会話がない。それでも彼は優しい父親を演じようとするのだが、誰がヤクザの父に敬意を払えよう…。息子の荒んだ目が痛々しく父を突き放す。終盤のスーパーのシーンは傑作だった。万引きをした息子のために店長に平謝りする姿が実に滑稽だった。
このように、本作にはロクでもない連中しか出てこない。しかも、彼らは改心するどころか、むしろどんどんダメな方向へと突っ走て行き、最後まで誰も報われないまま終わってしまうのである。
タイトルの「クズとブスとゲス」とは正に言い得て妙である。見ててムカつくだけ、不快極まりない‥。そんな風に思う人はたくさんいるだろう。
逆に、ここまで悪漢を尽くした作品はそうそうないという点で、これは他に類を見ない非常に稀有な作品とも言える。
ロクでもない連中がロクでもない行動に突っ走り、最終的には内輪もめのような形で対立しあいながら、なし崩し的な形で活路を見出すという物語‥。ドラマどうこういうのは置いておき、監督の訴えたいもの、狙いみたいなものは決して悪くはないと思った。第一、かなり挑戦的な映画である。
我々の一般的な倫理観や道徳観をこれ見よがしに吹き飛ばしながら、ひたすらその価値観を挑発するというスタイル。ある種ブラックコメディとして観れば、中々面白いのではないだろうか?
現に、この映画は中盤まではかなりシリアスなトーンで描かれているが、リーゼント男の恋人が転落して以降、急にコメディ色が強まってくる。恋人を追ってリーゼント男がホテルに入っていくシーンなどは、明らかにギャグっぽく撮られているし、終盤のスキンヘッド男の逆襲などは、どう見ても笑いを取ろうという狙いが感じられる。ドラム缶に圧死するヤクザの子分の姿も単純に笑えてしまった。 こうした毒っ気のあるコメディトーンは、全体の陰惨なドラマを幾ばくか和らげる効果があり、そこまで眉をひそめながら見るタイプの作品ではないのではないか‥とも思える。
奥田監督の演出は荒削りで拙い部分もあるが、勢いに任せた”熱度”みたいなものが画面全体から感じられた。特に、バイオレンスシーンにおける容赦のない描き方には目を見張るものがあった。これは演者たちの熱演、特に監督自身が演じた主人公の血涙を流した演技も奏功している。この身体を張った演技を見ても、彼がどれだけ本作に強い思いをかけて撮っているのかが分かる。
一方、アナクロ風味な臭い演出が幾つか見られたのは残念だった。一番それを強く感じたのはリーゼント男にまつわるシーンである。このあたりはパロディとして狙ってやっているのかもしれないが、セリフ一つ取ってみても今時そんな大仰な話し方はしないだろうと苦笑してしまうし、見るからにオラオラ系なファッションもカリカチュアがきつい。この辺りは全体のバランスから言って少々違和感を覚えた。
また、2度に渡って登場するチンドン屋も奇をてらい過ぎである。全体の物語から乖離した演出で全く持って意味不明だった。
犯罪にのめり込んでいく若者たちの刹那的な生き様を渇いたタッチで描いた作品。
「ケンとカズ」(2016日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 小さな自動車修理工場で働くケンとカズは高校からの腐れ縁である。2人は仕事の傍ら、工場のオーナー藤堂が元締をする覚醒剤の密売に手を染めていた。ある日、ケンの恋人・早紀が妊娠する。これを機にケンは今の仕事から足を洗いたいと考え始める。ところがカズは藤堂を裏切って敵対するグループと手を組んで商売を始めた。ケンはそれに巻き込まれていくようになる。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 覚醒剤の密売に手を染める二人のチンピラの生き様を渇いたタッチで描いた犯罪映画。
監督・脚本は本作が長編デビュー作となる小路紘史。
役者の表情に迫ったクローズアップが印象的で、映画全体に息詰まるようなサスペンスを生み出している。
例えば、冒頭の強盗シーン。ケンたちが敵対する売人を襲撃する場面における、空気が張りつめたようなピリピリとした緊張感は尋常ではない。このオープニング・シーンから一気に画面に引き込まれた。
監督の演出意図に見事に応えたキャスト陣も素晴らしい。本作はインディペンデント作品なので有名な俳優は一切登場してこない。しかし、これは逆に言えばイメージが付いていないまっさらな状態でその役者の演技を見ることが出来るわけで、ヘンなバイアスがかかっていない分、登場人物がみな活き活きと見えてくるようになる。これが名の通った有名俳優であれば、こうはいかないだろう。登場人物に対する感情移入もすんなりできて、終始彼らの心情に寄り添いながら観ることが出来た。
ケンを演じたカトウシンスケは、どことなく若い頃の原田芳雄を彷彿とさせる風貌で印象的である。一方のカズを演じた毎熊克哉も何となく的場浩司に似ていて不良的な佇まいがこの役にシックリときた。本作はこの両者の熱演が一つの見所である。
物語はいわゆる田舎にくすぶる若者たちの鬱屈した青春と友情を描いたドラマとなっている。この手のドラマは古今東西どこにでもあるが、逆に言うと普遍的な面白さがあるので安心して見ることが出来た。
ケンとカズは高校時代からの親友で、ある種ホモセクシャルなテイストも嗅ぎ取れるが、決してベタベタとした馴れ合いの関係ではない。互いのことを厳しく見ながら、時には意見を対立させて激しい喧嘩もする。そんな二人の関係は、ある意味バディ・ムービーのような感覚で観れる。
そんな二人の関係は、あることをきっかけに破綻してしまう。ケンの恋人、そしてカズの母親の存在によって崩壊してしまうのだ。
ケンは、生まれてくる子供のために真っ当な仕事に就いて欲しいと願う恋人の情にほだされて、カズは日に日に認知症を悪化させていく母を施設に入れるため、二人は生きる道を異にするようになる。ケンはヤクザ稼業から身を引き、カズは益々裏社会の深みにハマっていくのだ。
最終的に二人とも悲劇的な結末を迎えるのだが、これにはアメリカン・ニュー・シネマ的な喪失感、哀愁が感じられた。裏社会に生きる若者たちの非情な運命を見事に画面に焼き付けることに成功していると思う。
本作でもう一つ面白いと思ったのは、ケンとカズの関係が対等な物から徐々にカズの方が優位になっていく事だった。生きる上での”覚悟”と言えばいいだろうか‥。その”覚悟”はカズにはあったがケンにはなかった‥という所がミソで、それが二人の結末の差に繋がっているのかな‥と考えさせられた。
また、本作はシナリオもよく出来ている。2人が犯罪に走ってしまう動機付けがきちんと説明されているのでドラマの芯がしっかりしている。ケンは恋人と生まれてくる子供のために、カズは認知症の母を介護するために大金を手に入れなければならない。その切実なる思いはひしひしと伝わってきて、こうした人物のバックボーンも本作は丁寧に描かれていて好感を持った。
小路監督の演出は荒削りな部分もあるが、見せる所はじっくりと見せ、流す所は流すという風に全体的にメリハリを上手く効かせていたと思う。
ただ、ケンが見るイメージカットだろう。恋人が赤ん坊を抱いて微笑むカットが度々挿入される。温かみに溢れたスローモーション映像なのだが、これはややクドイという感じがしなくもない。過度に抒情性を持たせた演出でどこか香港ノワールのテイストを想起させ、全体をクールに包み込む本作においてはやや浮いていると感じた。
この他にも編集、場面構成で首をひねりたくなる箇所が幾つかあり、このあたりが洗練されれば更に作品の完成度は増しただろう。とはいえ、長編デビュー作であることを考えれば、まずまずの出来栄えである。
むしろ、これらの稚拙さを補って余りある勢いとパッション。そこに自分は魅力を感じた。今後の日本映画を占う意味でも一見の価値がある作品かもしれない。
タイのバンコクを舞台にした群像ドラマ。
「バンコクナイツ」(2016日仏タイラオス)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) タイの首都バンコク。そこには流暢な日本語をしゃべるタイ人ホステス、通称“タニヤ嬢”を揃えた日本式クラブが軒を連ねていた。タニヤ嬢の一人ラックは日本人のヒモと高級マンションで暮らしながら、故郷の家族に仕送りを続けていた。ある日、彼女は昔の恋人オザワと5年ぶりに再会する。オザワは日本を捨てた元自衛隊員である。二人は再び惹かれ合っていくのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) タイの歓楽街を舞台にした人気娼婦ラックと元自衛隊員オザワの愛の物語。
タイの風俗、貧富の差、タイ人と日本人の関係、過去の戦争の歴史。様々な内容が詰め込まれたボリュームタップリ、上映時間3時間を超える大作である。
但し、メインのドラマはあくまでラックとオザワの恋愛ドラマであり、そこに注視すればもっとスッキリとした構成に出来たのではないかと思う。映画を魅力的に見せる素材として様々なテーマを盛り込むのは結構だが、余りにも欲張り過ぎて散漫になってしまったという印象だ。
例えば、ラックの故郷であるイーサン地方のエピソードは少々クドイという気がしなくもない。都市と地方の格差、そこに住む人々の純粋な生き方、それらを包み込む大自然の美しさといったものは十分に伝わってきた。ラックの出自を描くこのエピソードは確かに全体のドラマにとって必要不可欠なものだったと思う。
しかし、本来であればオザワは仕事でラオスへ行く予定だった。その途中で彼はラックに促される形でこの地方に立ち寄ったわけである。彼は最初はすぐにラオスへ出発する予定だったが、思わぬ形でそこに長居してしまう。のんびりとした暮らしぶりは観ててどこか癒される。しかし、自分はその先の話をもっと見てみたいと思った。ラオスに何があるのか?オザワの仕事はどうなるのか?そちらの方に興味が湧いてしまい、イーサン地方のドラマは少々長すぎると感じてしまった。
また、戦争の犠牲者が幽霊となって登場してくるエピソードがある。以前観たタイ映画で、アピチャッポン・ウィラーセタクンが監督した
「ブンミおじさんの森」(2010英タイ仏独スペイン)という作品がある。あそこにも幽霊が出てきて摩訶不思議な精神世界が展開されていたが、そこにはタイにおける陰惨な戦争の歴史が投影されていた。おそらくだが本作の幽霊はそれにインスパイアされたのだろう。確かにアイディアは面白いと思う。しかし、この幽霊は2度も登場する必要はあっただろうか?
本作には、こうした水増し的な展開が幾つか見られる。リアリティを追求するために敢えてそうしている節もあるが、しかし人物の葛藤が描かれているわけでもなくドラマがいたずらに停滞してしまっているのはいただけない。
そして、そうしたストーリーの緩慢さとは逆に中途半端のまま放棄されてしまっているエピソードがある。
オザワと元上官の関係がそうだ。オザワは彼の命令でラオスへ向かうのだが、結局まともな仕事も出来ずに戻ってくることになる。その後、二人の間にどんなやり取りが行われたのか映画では描かれていない。
また、ラックのヒモだった男は一時身の危険を感じて隠れるような暮らしを送っていた。しかし、彼もその後どうなったかは分からない。
本作は様々な人物が登場してくる群像劇となっている。娼婦の仕事を斡旋する男、オザワを”兄さん”と慕うポン引き、ラックの家族や友人や仕事仲間たち。拝金主義者や義理人情を重んじる者、日本の暮らしに絶望してタイに住処を移した元印刷工員等。混沌としたタイの夜の街を徘徊するヤクザたちの人間模様は物語をとても魅力的に語っている。しかし、余りにも風呂敷を拡げた結果、中途半端なまま終わってしまっているエピソードがあり、そこは観てて消化不良に感じてしまった。
本作を製作したのは独特のスタイルで映画作りを実践している映像製作集団「空族」。監督・脚本は富田克也。キャスト、スタッフ共に、いわゆるメジャーな人材を登用することなく自分たちで賄っているということだ。自分は未見だが前作「サウダーヂ」(2011日)はかなり話題となり都内ではロングラン上映された。
今作は構想10年、延べ2年に渡る現地リサーチをして撮影に取り掛かったという力作である。タイの夜の街並みや、イーサン地方ののどかな風景、ラオスの爆撃跡地等、ロケーションの素晴らしさは周到なリサーチの賜物だろう。また、タニヤ嬢たちの佇まいやイーサン地方の雄大な自然風景も現地でしか出せない味として強く印象に残った。
特に、村の青年が出家するシーンは映像も美しくて脳裏に焼き付いた。家族総出で派手な音楽を奏でながら青年を送り出していた。こうした各所の映像には感心させられる。
音楽ということで言えば、本作には現地の音楽が多数使用されており、そこも聴き応えがあった。タイの流行歌から古い民族音楽にいたるまで、はてはカラオケで日本語の歌も歌われる。中には”ガンジャ”の歌なんていうものまで出てきて驚かされた。劇中でタニア嬢たちが”アイス”という俗称で呼んでいたが、バンコクの風俗街ではドラッグが蔓延している。
キャスト陣は決して上手いとは思えなかったが、見ていくうちにそれも自然と慣れていった。先述した通りプロの俳優を起用しておらず、ほとんどがアマチュアで構成されているので止む無しである。オザワ役は監督自身が演じ、ラック役の女優は現地の歓楽街でスカウトしたということである。
尚、エンドクレジットでキャスト、スタッフが和気あいあいと撮影している風景がメイキング映像として流れるが、これは不要に思った。明快なコメディならまだしも本作はシリアスな人間ドラマである。全体のトーンから言ってもこれは場違いだろう。
第一次世界大戦から100年後の高級ホテルを舞台にした群像サスペンス。
「サラエヴォの銃声」(2016仏ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) 第一次世界大戦の開戦から100年、その発端の地となったサラエヴォで記念式典が行われようとしていた。ホテル・ヨーロッパでは式典に出席する要人が準備に取りかかっていた。屋上ではジャーナリストが事件とサラエヴォの歴史についてインタビューを行っていた。そんなホテル・ヨーロッパは今や倒産寸前にあり、従業員たちは給料の未払いを理由にストライキを画策していた。そんな中、ただ一人フロント係のラミアだけは健気に働くのだった。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 第一次世界大戦の式典を目前に控えた高級ホテルを舞台に、様々な人物が交錯する群像サスペンス。
まずこの映画を観る前に第一次世界大戦の発端となったサラエヴォ事件について、ある程度事実を把握しておいた方が良いだろう。劇中で女性ジャーナリストが歴史家達に事件の成否や概要をインタビューしているのでそれを見ていれば大体は分かるが、事件そのものがどうして起こったのかは詳しく語られていない。
事件当時、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリア・ハンガリー帝国に併合されていた。しかし、ボスニアの中にはオーストリアに不満を持っていたセルビア人がいて、彼らは青年ボスニア党を結成してナショナリズムに傾倒した活動していた。そんな彼らの怒りがこの事件を引き起こしてしまう。1914年6月28日、サラエヴォを視察中だったオーストリア皇太子が青年ボスニア党のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺される。オーストリアはセルビア政府に宣戦布告し、やがてこれがヨーロッパ全体を巻き込む第一次世界大戦へと発展していった。
今回の物語にはこのサラエヴォ事件が大いに関係している。
例えば、インタビューを受けるセルビア人青年の名前はガヴリロ・プリンツィプという。そう、サラエヴォ事件を引き起こした犯人と同じ名前である。彼は言う。ガヴリロは英雄だった‥と。
映画のクライマックスで彼は数奇な運命を辿るが、これはサラエヴォ事件の歴史的重さを知っていると実に皮肉的に見える。運命の悪戯とでも言おうか‥。戦争の歴史を繰り返してはいけない‥という製作サイドの崇高なメッセージも感じ取れる。
また、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにはボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人という3つの民族が共存している。彼らは過去にボスニア紛争で敵対していたことがあり、その遺恨が未だに拭いきれていない。現在でも一つの国の中で対立しあっている状況なのだ。
中でもセルビア人は人口も少なく他の民族よりも貧しい生活を強いられている。このあたりは
「サラエボの花」(2006ボスニア・ヘルツェゴヴィナオーストリア独クロアチア)を観るとよく分かる。経済格差が厳然と存在している。
今回の物語では、ホテルの支配人と従業員の対立ドラマが描かれている。従業員は給料を2カ月も払ってもらえずストライキを計画していて、支配人はそれを暴力で抑え込もうとしている。そして、その犠牲となるのが本作のヒロイン、ラミアである。彼女は周囲のストライキの声に耳を貸さずひたすら従順に支配人の命令に従っているのだが、最後に可哀そうな運命を辿る。
本作には、こうしたホテル内のゴタゴタを通して、下層労働者の実態、貧富の格差が描かれている。厳しい生活を強いられている一部のセルビア人の苦しみ、悲しみが投影されているのだ。現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナの経済状況がよく分かるドラマとなっている。
監督・脚本はD・タノヴィッチ。彼はボスニア紛争でカメラマンとして従軍していたことがあり、その経験が彼を映画作りへと向かわせた。
監督デビュー作である「ノー・マンズ・ランド」(2001仏伊ベルギー英スロヴェニア)は、そのボスニア紛争を題材にした戦争映画だった。鋭い眼差しと独特なユーモアで戦争の理不尽さを説いていた。
その後、ポーランドの映画作家K・キエシロフスキーの遺稿を元に
「美しき運命の傷痕」(2005仏伊ベルギー日本)というロマンス・サスペンスを撮っている。
しかし、今作を観て改めて思ったが、タノヴィッチはやはり基本的に辛辣な社会派作家だと思う。まるで今の混沌としたヨーロッパの状況を見据えたかのようなテーマに氏の問題意識の高さが伺える。第一次世界大戦以降辿ってきたボスニア・ヘルツェゴヴィナの歴史を踏まえながら、極めて現代的な社会問題を炙り出した手腕は見事というほかない。
また、語り口の上手さも相変わらず冴えていて、例えばクライマックスのクダリにそれを一番強く感じた。ここはホテルの屋上とフロント、二つのドラマが集約するカタルシスも相まって非常にスリリングに観れた。映画の上映時間はたったの90分弱。クライマックスに向けた一点集中のストーリー運びに唸らされる。
難は前半のインタビューのクダリだろうか‥。歴史的背景を説明するために用意されているのは分かるが、少々クドイという気がした。インタビューの相手は3人登場してくる。ガヴリロはその3人目となる。その前に出てくる二人は一人にまとめることが出来たように思った。ストーリーを理解する上では必要最低限な情報さえあればいいわけで、ここはいささか詳細に語り過ぎという感じがしなくもない。
一人の娼婦を追った人間ドラマ。映画初主演の中谷美紀の魅力が全開。
ケイエスエス (2001-02-23)
売り上げランキング: 82,339
「BeRLiN」(1995日)
ジャンルロマンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 風俗ドキュメンタリーを制作しているクルーが、突然疾走したキョーコというホテトル嬢について取材をする。彼女と一緒に働いていた女性や彼女の常連客だったサラリーマンの証言から、一人の青年の存在が浮かび上がってくる。彼・鉄夫はキョーコの同棲相手だった。早速、撮影隊は鉄夫の元を訪ねる。しかし、彼もまたキョーコの行方を知らなかった。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 謎の失踪を遂げた娼婦キョーコと周囲の人間模様を、時制を交錯させながら実験的な手法で描いた寓話。
映画は、キョーコの足跡を追うドキュメタリー撮影隊の映像をモノクロで、取材対象の証言に基づく回想シーンをカラーで表現している。
ただ、撮影隊は何のために彼女を追っていたのか?その理由が今一ハッキリとしないのが見てて悶々とさせる。これがセミドキュメンタリーのようなスタイルで統一されていれば少しは本腰を入れて見てみようか‥という気になるのだが、さも記録映像ですよと言わんばかりの作為的な作りが白けるばかりだった。これならばモノクロとカラーの差別化も余り意味がない。普通にフィクションとしてドラマ仕立てにした方が面白く観れるような気がした。
とはいえ、本作にはキョーコを演じた中谷美紀の溢れんばかりの魅力が詰まっており、そういう意味では彼女のファンにはお勧めできる作品となっている。
今や日本を代表する魅力的な女優となった彼女が、初めて主演したのが本作である。まだデビューしたての瑞々しい姿は、娼婦という役柄とは裏腹に実に純粋で可憐だ。こんな子が不特定多数の男性に性的な奉仕をしているのか‥と男性諸氏ならばそのギャップに驚かされることだろう。
そして、彼女の魅力は何も外見のみに留まらない。演技も延び延びとしており、まるで役を通り越してナチュラルな中谷美紀がそこにいるかのような錯覚に捉われる。
本作は新人女優のアイドル映画として観ればかなり上手く作られているように思う。明らかに狙ったようなグラビア的な画作りもあるのでじっくりと堪能できるだろう。
物語は、正直序盤は余り興味をそそられなかった。先述したように、現在と過去をカットバックで繋ぐ構成がドラマを散漫にし、尚且つドキュメンタリーっぽい見せ方が変に鼻についたからである。面白く観れるようになるのは中盤。本作のキーマンであるキョーコの元恋人・鉄夫が登場してからである。
彼は古いアパートに住むフリーター青年で、ひょんなことからキョーコと出会い同棲生活を始める。しかし、ある日を境に彼女は突然姿を消してしまう。原因が何なのかは彼自身にも分からない。キョーコを取材するドキュメンタリー班と鉄夫は、少ない手掛かりを元にその原因を探っていく。
しかし、映画を観終わっても、どうしてキョーコが失踪したのか?どこへ行ってしまったのか?という答えは判明しない。これがもう少し情報が提示されていれば、色々と想像する楽しみ方も出来るのだが、まるで蜘蛛の糸を掴むようで判然としない。したがって、見終わった後にはひたすら悶々とするしかなかった。
ただ、唯一キョーコが出ていった理由はこうではないか?と推測できる手掛かりがある。それは映画の冒頭。彼女がベルリンの壁崩壊のニュースを見て何かに気付いたような顔をするシーンである。
”ベルリン”は映画のタイトルにもなっているので、この映像が大変重要な意味を持っていることは確かだろう。もしかしたら、この映像はキョーコの何かの琴線に触れたのかもしれない。例えば、自分自身も”壁”を壊してどこかへ行きたい。古い自分を終わらせて新しい自分に生まれ変わりたい‥という風に。
同じようにベルリンの壁の崩壊をモティーフにした映画で
「ウォールフラワー」(2012米)という作品がある。あそこには直接ベルリンの壁の崩壊は出てこなかったが、代わりにそれにまつわる歌としてD・ボウイの「ヒーローズ」が流れていた。つまり、ベルリンの壁の崩壊は主人公青年にとっての人生のリスタートを意味していたことになる。
このように”壁”というものは、人生において新しい自分に生まれ変わるために乗り越えなければならない障害という意味を持っている。何かを変えたい。新しい未来を見つけたい。そう考える人の前には必ず大きな障壁が立ちはだかり、それを乗り越えることで人は成長していく。
おそらくキョーコはベルリンの壁が壊される映像を見て、それに触発されたのだろう。男たちの性欲を満たすだけの自分自身のつまらない人生を振り返り、ここではないどこかへ、あるいは新しい自分に生まれ変わるために”壁”を壊したかったのではないだろうか。
ラストの意味についても、かなり解釈を迷うような所がある。これはハッピーエンドを意味しているのか?”あの場所”は天国だったりするのか?大変抽象的で不思議な終わり方になっている。この地に足のつかない幕切れも映画の鑑賞感を悶々とさせる。
本作は観客の方から能動的に解釈をしていかなければならないタイプの映画である。そういう意味では一筋縄ではいかない難物である。しかし、逆に言えば何度でも噛みしめたくなるような、そんな不思議な魅力を持った作品という言い方も出来る。
それとデビューしたての中谷美紀の魅力。それが全て詰っているという意味でも見応えが感じられる作品となっている。ファンならば必見と言えよう。