安楽死をユーモラスに描いたシニカルコメディ。

「ハッピーエンドの選び方」(2014イスラエル)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルコメディ
(あらすじ) エルサレムの老人ホームで妻レバーナと暮らす発明好きな老人ヨヘスケル。ある日、彼は末期の病気で望まぬ延命治療に苦しむ友人マックスに依頼されて、苦しまないで死ねる安楽死の装置を発明する。レバーナはそれを使うことに猛反対するが、同じホームの仲間たちの協力を得てマックスは静かな最期を迎えた。ところが、秘密にしていたはずのその発明は、瞬く間にイスラエル中に評判が広まってしまう。こうして安楽死の依頼がヨヘスケルの元に殺到してしまい…。
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(レビュー) 安楽死をテーマにしたヒューマン・ドラマ。
気が滅入るようなシリアスなドラマだが、所々に笑いが散りばめられているので最後まで面白く観ることが出来た。
と同時に、死とは誰のためにあるのか?という難しい問題に深く切り込んだ所に見応えを感じた。
周囲の家族のため、本人のため、色々と考え方はあろうが、本作はそれを単に問題提起だけにとどまらず、その回答をきちんと出している。安楽死というデリケートな問題だけに躊躇してしまう向きもあるが、そこに果敢に挑んだ勇気は評価されてしかるべきだろう。観た人それぞれが、この問題について自分なりの回答を見つけて欲しい。
それにしても、イスラエルでこういう映画がつくられたということに驚かされる。自分がこれまで観たイスラエル映画の多くは政治的な問題を扱った作品がほとんどで、本作のように人生そのものを正面から捉えた映画というのは珍しい。しかも少ないとはいえ笑いもそこそこある。
例えば、マックスの病室を訪ねて安楽死を実行しようとするシーン。身体に繋がれた脈拍計はナース室で管理されているので、安楽死装置が作動している最中は気付かれないようにしなければならない。そこでヨヘスケルの仲間に繋いでごまかそうとする。しかし、さすがにこれから人命を奪おうとするのだから皆、心穏やかではない。全員が興奮して誰に付けても脈が速く計測されてしまい困ってしまう。
あるいは、ヨヘスケルがスピード違反の難を逃れるシーン。同じ警官に二度も検挙されるクダリが可笑しかった。
また、安楽死装置を作動した瞬間、突然の停電で止まってしまうシーンも皮肉的で笑える。
こうした笑いの演出は、シリアスなドラマにあって、一服の清涼剤的な役割を果たしている。作品を取っつきやすくしているという意味では大きな魅力だろう。
もっとも、後半のミュージカル・シーンについては個人的にはやりすぎ…と感じた。自然にそういう流れになるのなら良いが、別にミュージカル映画でもないのに余りにも唐突に歌い出すのには違和感を覚えてしまう。
本作は基本的には尊厳死を題材にしているので、テーマが顕現化していく後半はやはり重苦しくなっていく。
これまで他人のために安楽死装置を使ってきたヨヘスケルが、認知症に苦しむ妻レバーナのために使うことを余儀なくされてしまう。自然死か?安楽死か?という究極の選択を余儀なくされ、その葛藤に迫っていく所にグイグイと惹きつけられた。
ただ、このレバーナの認知症の描写に関しては詰めの甘さを感じてしまう。画面上ではそれほど重度に見えないのである。世の中にはもっと厳しい状況の中で死と面している人々もいる。そうした深刻さに比べると、レバーナにはそこまでの切羽詰った事情が感じられない。普通に周囲とも会話が出来るし、意識もしっかりしているので、この状態で安楽死を望むのはさすがにどうだろう…という疑問を持ってしまった。
冤罪事件をシニカルに切り取った問題作。

「偽りなき者」(2012デンマーク)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) デンマークの小さな町で幼稚園の教師をしているルーカスは、離婚の悲しみを乗り越え、仲間たちと狩猟を楽しむ穏やかな日々を送っていた。そんなある日、彼にプレゼントを受け取ってもらえなかった園児クララが、軽い仕返しのつもりで発した言葉が周囲に波紋を起こす。ルーカスにいたずらされたと嘘をついたのだ。これを鵜呑みにした人々はルーカスを糾弾し始める。
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(レビュー) いわゆる冤罪事件について描いた作品で、大衆の盲信、偏見を皮肉的に描いて見せた所が実に残酷で、観終わった後には苦々しい気持ちにさせられるとともに、この話は現代社会にも通じる実に普遍的なドラマなのではないか…と思った。事件になるまでの経過に関して(特に糾弾する側の描写がカリカチュアしすぎていて)納得いかない部分もあったが、この映画が言っていることは中々鋭いと思った。
かつて冤罪事件を題材にした映画で「それでもボクはやってない」(2007日)という傑作が日本にもあったが、それに通じる批判性が感じられた。
本作はまず何と言ってもルーカスを演じたM・ミケルセンの演技が素晴らしい。言わば魔女狩りにおける犠牲者的な立場に追いやられていくのだが、その悲壮感溢れる演技は観てて実に痛ましく感情移入せずにいられなかった。
そして、そんな孤独の淵で唯一の心の救いとなるのが、離れて暮らす息子マルクスである。過去に何があって離れ離れになってしまったのかは映画を観てもよく分からないが、マルクスの父に対する敬愛ぶりを見ていると、自ずとルーカスの善良な人間性がクローズアップされていく。このあたり脚本の上手さだろうと思うが、平凡でどこにでもいる気の優しい父親という側面が垣間見えて、益々彼のことを応援してしまいたくなった。
一方で今回の事件の発端となった少女クララの無垢な演技も素晴らしかった。罪の意識なしについた嘘が周囲に混乱を巻き起こしてしまったことを、彼女はどう思っているのか?そのあたりの心理が今一つ掴めない所も含めて、その純真無垢さは実に残酷に映る。果たして彼女は大人になったらこの事件をどう思い起こすのだろうか?そう思うと少し気の毒にも思えてしまった。
また、この映画はラストも良い。ルーカスの誤解は一応解かれるのだが、それでも一度ついてしまった偏見はそう容易く拭えない。そのことを暗に示すかのように不安感がこびりつくようなエンディングになっている。これがあることで、本作の鑑賞感はずっしりとした重みを増す。すんなりドラマを終わらせなかった結末が見事だ。
確かに見てて延々と鬱積が溜まる作品であるが、偏見や嘘に振り回される人間の愚かさ、正義と罪を問うた骨太なメッセージに作り手側の強い意志が実感される。力作と言えよう。
本作で唯一残念だったのは、ルーカスを糾弾する周辺人物の造形がやや淡泊に映ったことだろうか…。
幼稚園の園長は典型的なフェミニストで、証拠もなしにルーカス糾弾の先鋒となっていくし、クララの両親も何も考えず彼女の言葉を鵜呑みにしてルーカスを敬遠してしまう。いくら可愛い娘を思ってのこととはいえ、ルーカスとは長年の親友である。ストーリー上、この両親の大人としての冷静な対処を1シーンでいいから追加してあげれば、このストーリーは更にリアリティを増したであろう。悪役は悪役という風にドラマを単純化しすぎてしまった感がある。
実話の宮廷メロドラマ。

「ロイヤル・アフェア 愛と欲望の王宮」(2012デンマーク)
ジャンルロマンス
(あらすじ) 18世紀後半。英国王ジョージ3世の妹カロリーネは15歳でデンマーク王クリスチャン7世と結婚する。しかし、世継ぎが誕生してから二人の関係は冷め切ってしまいカロリーネは王宮で完全に孤立してしまう。そんな折、外遊先のドイツで王が病に倒れてしまう。王は医師のストルーエンセに救われ、彼を侍医として採用した。ストルーエンセは孤独なカロリーネの良き相談相手となっていくのだが…。
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(レビュー) デンマーク王室史上最大のスキャンダルと言われた禁断の愛を美麗な映像で描いたメロドラマ。
王に仕える侍従と王妃が恋に落ちるという、よくある物語である。しかし、これが史実と言うから事実は小説より奇なりである。
ストルーエンセは類まれな才能の持ち主で、医師としてはもちろんのこと、政治家としての手腕にも長けている。そして、周囲の人間を惹きつける人望も持っていて、それによってクリスチャンとカロリーネは懐柔されてしまう。そして、この3人はストルーエンセがカロリーネと関係を持ってしまったことにより、破滅の道を進んでしまう。
実に俗っぽいドラマであるが、ストーリー自体は中々よく出来ていて、二人の関係がいつバレるのか?というサスペンスもドラマを上手く盛り上げている。
更に、今作はストルーエンセとクリスチャンの友情ドラマも中々味があって良い。
傍から見れば、頭の切れる侍医が幼稚な国王をまんまと手なずけた‥という風に映るが(現に王室の大臣たちはそう見ておりストルーエンセを追放しようと画策した)、後半で2人は本当の信頼関係で結ばれていた…ということが分かりしみじみとさせる。
ストルーエンセの裏切りとも言える不倫によって、二人の友情がどう変化していくのかは、本作の大きな見所だ。その葛藤は、国家を揺るがす重大さも相まって実に面白く観ることができた。
もう一つ、本作で興味深く観れたのは政治である。
ストルーエンセはクリスチャンから事実上の権力を引き継ぎ国政の改革に着手する。出版物の検閲を廃止し、町の浄化を目的に清掃員を増員し、貴族である大臣たちの年金を減らして国民の税負担を軽減する。彼は国民のための政治を実行し、多くの支持を得て、まさに王政の牙城を崩していく。ある意味では、実に理想的な執政と言えよう。しかし、民主政治が永続しないことは歴史が証明している。彼の指導力は次第に衰えていく。
まず王室の不倫が囁かれ始めると、人々はストルーエンセを非難し始める。身から出た錆びとはいえ、あれほど歓迎されていた”英雄”が、たった一晩で罪深き”罪人”となってしまうのだから大衆とは恐ろしい。それまで煮え湯を飲まされてきた貴族たちも、ここぞとばかりに彼を吊し上げ、政局はあっという間に一変してしまう。この辺りの悲喜こもごもは実にドラマチックで、ストルーエンセとカロリーネのロマンスの傍らで上手くドラマを転がしていると思った。
本作は美術や衣装といったプロダクション・デザインも豪華絢爛で見応えがあった。映像の一つ一つに手抜き感が無く全体的にクオリティが高い。
キャストではストルーエンセを演じたM・ミケルセンの好演が素晴らしかった。今やハリウッドでも活躍する注目の俳優であるが、それ以前には、こうしたヨーロッパ映画で数々の重厚な演技を披露していた。その実力が認められてハリウッドに招へいされ、現在に至る。「スター・ウォーズ」シリーズやマーベル作品等、今後も活躍の場は更に広がっていくだろう。今最も注目の俳優だと思う。その出自を見ることが出来るという意味では、本作は一見の価値があると思う。ファンなら押さえておきたい。
もう一つの世界に迷い込んだ男の数奇なドラマ。

「ザ・ドア 交差する世界」(2009独)
ジャンルファンタジー・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 不倫中に娘を事故で亡くした画家ダビッドは、酒に溺れて自堕落な人生を送っていた。ある夜、自殺を試みるが、そこで不思議な扉を発見する。その扉は娘がまだ生きていた過去へと繋がっていた。ダビッドは扉の向こう側へ渡り娘を救出することに成功する。しかし、そこにはその世界で生きるもう一人の自分がいた。とっさに彼を殺してしまったダビッドは証拠を隠滅して、その世界で普段通りの暮らしを始める。
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(レビュー) 現実とは違うもう一つの世界に入り込んでしまった男の数奇な運命をスリリングに描いたファンタジー・サスペンス。
中々凝った設定のドラマで興味深く観ることが出来た。
自分の不注意で愛する娘を亡くしたダビッドは、その過去をやり直そうともう一つの世界の扉を開ける。そして、失った人生を愛する家族と共に取り戻してくようになる。これはある種、並行世界を旅行するタイムトラベルのドラマと言っていいだろう。
本作の面白い所は、ダビッドがその世界に住む自分自身を殺して彼に成りすまして生活するという点である。いわゆる成りすましコメディのようなシュールでナンセンスな可笑しさが誘発し、こう言ってはなんだが、第三者的な目線で観ればダビッドの奔走劇はシリアスになればなるほど、どこか滑稽に見えてくる。
例えば、遺棄した死体を発見されないように工作する所などは、ヒッチコックの「ハリーの災難」(1955米)を想起させる。もちろん映画のトーンはいたってシリアスに整えられているので、決して笑わそうとして作っているわけではないのだが、しかし冷静に考えればこれほど意地悪なブラック・コメディは無いだろう。
こうしてダビッドはもう一つの世界の自分に成りすまして愛する妻子と幸せな暮らしを送るようになる。しかし、天網恢恢疎にして漏らさず。どんな悪事も白日に下に晒されるのが世の常である。ダビッドの正体を怪しんで詮索する人物が2人登場してくる。
1人目は彼が救った愛娘。もう一人は隣に住む中年男である。特に、この中年男がダビッドの邪魔になる。正体をばらすぞと脅され窮地に追い込まれてしまうのだ。
しかして、クライマックスでは意外な秘密が明らかにされ、更にダビッドは追い込まれるようになる。
かつて「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」(1956米)という作品を観たことがあるが、アレに近い展開と言えばいいだろうか…。かのラストシーンはSF映画ファンの間では未だによく語られる伝説のシーンであるが、本作も衝撃度という点では決して負けてない。流石に強引過ぎて笑ってしまったが、このくらいハッタリが効いていると観てて気持ちが良い。納得いくかどうかは、観た人それぞれかもしれないが、少なくとも自分はエンタテインメントとしては十分に満足のいくクライマックスだった。
また、ラストも渋くまとめられていて中々良い。ダビッドにとってみれば実に皮肉的な結末と言わざるを得ないが、観る側に大切な教訓を提示している。やはり人間は過去をやり直すことなどできない。目の前の現実をしっかり見据えよ…と語り掛けているかのようである。
全体的に低予算な小品なのでチープな部分もある。しかし、娯楽性も豊富で、タイムトラベル物の亜流として観れば中々魅力的なアイディアが詰まった逸品ではないかと思う。
また、ダビッドを演じたM・ミケルセンの演技も渋いのでファンなら一見の価値があろう。
どこかで見たことのあるような設定だが演出力でグイグイ惹きつけられる。

「リアル~完全なる首長竜の日~」(2013日)
ジャンルSF・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 漫画家として行き詰まりを感じた淳美は自殺未遂を起こして昏睡状態に陥ってしまう。それから1年後。幼なじみで恋人の浩市は“センシング”という最新医療で彼女の意識に潜り込んで自殺の真相を探ろうとする。その中で、浩市は彼女から幼い頃に描いた首長竜の絵を探してほしいと頼まれる。早速、浩市は生まれ故郷である飛古根島へと向かうのだが‥。
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(レビュー) 第9回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した乾緑郎の小説 を黒沢清が監督したSFサスペンス作品。
自殺未遂を起こした恋人のために現実と虚構を彷徨う男の数奇な運命をドラマチックに描いている。ストーリーや設定が原作からかなり脚色されているらしいが、特に不自然に感じる所もなく、後半には驚きの展開も用意されており、個人的には最後まで面白く見ることが出来た。
尚、脚本は黒沢清と田中幸子が共同で執筆している。このコンビは
「トウキョウソナタ」(2008日)以来のタッグとなる。「トウキョウソナタ」も中々によく出来たホームドラマで、黒沢清らしいホラー・タッチで牽引していった所が白眉だった。香川照之演じる主人公にとっての家族の理想形が脆くも崩れ去っていく皮肉な結末は、”現実と幻想の乖離”そのものである。
その”現実と幻想の乖離”は本作でも重要なモチーフとなっている。
”センシング”という最新医療技術によって、浩市は淳美の意識下にダイブする。一見すると、そこはほとんど現実と変わらないリアルな世界となっている。しかし、そこかしこに異形の物体が突然存在したり、非現実な現象が起こったりしてドキリとさせられる。
そして、浩市がこの”センシング”にのめり込んでいくと、今度は彼の現実世界に徐々に不思議な現象が起こり始めるのだ。ここが非常にこの映画は上手い。実は、それらはすべて後半のどんでん返しに繋がる伏線となっている。
例えば、浩市が編集者を乗せて車を走らせるシーン。背景は明らかに合成で非現実感を強調した画面作りとなっている。誰が見ても違和感を抱くだろうこのシーンは後の伏線となっている。
あるいは浩市が博物館で目撃する異形の死体、周囲から浮いた子供たちの姿等も実に不気味で、このあたりも黒沢清らしいビジュアルショック演出が奏功し大変インパクトがある。これらも映画を観終わると全ての意味が判明する。
映像的にもう一つ印象に残ったのは、浩市の故郷、飛古根島の景観だった。かつて巨大リゾート施設を建築しようとしていたがバブルが崩壊したことによって、今ではすっかり見すぼらしい廃墟と化し”死んだ町”となっている。このあたりの”終末観”は同氏の作品
「叫」(2006日)にも通じる物悲しさ、虚しさが感じられた。特に、遠方にそびえ立つ観覧車が素晴らしい。CGで描き足したものなのだろうか?
CGと言えば、本作にはクライマックスに首長竜が登場してくる。これも中々によく出来ている。邦画でCGというとハリウッドに比べて今一陳腐なイメージがあるが、本作に限って言えばそんなことはない。もっとも、廃工場のCGは余りにもリアリティが乏しく興醒めしてしまったが…。このあたりは重量感をもっと意識して欲しかった。
物語的には、このクライマックスを経て一応のハッピーエンドを迎える。落ち着くところに落ち着くので鑑賞感は悪くない。
ただ、どうして意識下に首長竜のイメージが強く残っていたのか?その理由は今一つしっくりと来なかった。そこには浩市と淳美を結びつけた”ある物”が深く関わっているのだが、そんな理由で?と思えるような代物で得心がいかない。ここが決まれば鑑賞感はもっと満足いくものとなっただろう。少しだけモヤモヤとした疑問が残ったのは残念だった。
空虚な作風が肌に合わず。残念。

「さようなら」(2015日)
ジャンルSF・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 原発事故で放射能に汚染された近未来の日本。政府は各国と協議の上、策定した避難計画によって国民を海外へ移住させることを決定した。移民のターニャは、幼い頃に父からプレゼントされたアンドロイドのレオナと一緒に地方の小さな屋敷でひっそりと暮らしていた。周囲の人々が次々と海外へ脱出していく中、彼女だけ取り残されてしまう。
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(レビュー) 平田オリザの同名戯曲を、彼が主宰する劇団青年団の一員である深田晃司が脚色・監督した異色のSFドラマ。
本作の下敷きとなった戯曲は短編で、実は以前観た相田和弘監督のドキュメンタリー
「演劇Ⅱ」(2012日)の中でも紹介されていた。人間とアンドロイドの演劇という実験的な試みはかなり革新的で、平田オリザの才気に改めて感心させられたものである。
ただ、この演劇は「働く私」と「さようなら」の二編で構成された舞台で、「演劇Ⅱ」の中で紹介されたのは「働く私」の方だけだったと記憶している。したがって、今回の作品の元となった「さようなら」の方は未見であり、人とアンドロイドのコミュニケーションを題材にした映画…ということ以外は全く知らずに鑑賞した。
原作はたったの20分しかなく、深田監督は今回の映画化にあたって色々とドラマを膨らませている。サブキャラの追加やエピソードの追加、色々とあるが最も大きな変更は、ドラマを原発事故後の未来に設定した点である。この設定を取り入れたのは、おそらく監督が東日本大震災について色々と思う所があったからだろう。
あの時の原発事故は、園子温をはじめ多くの映画監督の創作に影響を与えた。今もって、その時の傷痕が癒えない人々が大勢いる。そのことを考えると、こうした形で自分の作品にこの設定を取り込むことは大いに意義のあることだと思う。ある意味では、映画作家として使命の成せる業と言えるかもしれない。
但し、本作に関して言えば、この設定が果たしてどこまで必要だったのかは疑問に残った。
メインテーマは人間とアンドロイドの死生観の相違ように思う。逃げ場のない絶望的状況において、果たして生きることとは何なのか?死ぬこととは何なのか?そうした死生観を両者の日常風景を通して淡々と訴えかけている。
しかしながら、今回の場合はこの極限的状況を作るために、わざわざ原発事故を持ち込んだ必然性が余り感じられなかった。これが仮に先の東日本大震災を憂うような社会派作品であるのなら納得できる。それがテーマに直接関係しているからだ。しかし、本作のテーマはあくまで死生観、更に言えば奇跡とも言えるラストが示すような”生命の尊さ”であろう。それを描く上で、この設定はかなり邪魔に映ってしまった。
本作は他にもエピソードの膨らませ方が余り上手くないな…と思う箇所が幾つかあった。
例えば、中盤に登場した若いカップルは一体何のために出てきたのだろうか?ターニャとさとしの関係に呼応させるためだったとしても、わざわざ出すほどの意味が感じられない。そもそも、避難民同士の結婚についてはセリフだけで説明が済むはずである。実に回りくどい。
この映画は他にもスローテンポな長回しが多く、かなり水増ししているような印象を受けた。タルコフスキーの映画のように映像に力強さがあればそれでもいいのだが、本作にはそこまでの魅力が感じられない。これまで観てきた深田作品と比べると明らかに間延びしてる。
映像演出でも鼻につく箇所があった。後半から画面が歪になるのだが、これは何の意図があってこうしているのだろう?世界が歪に見えるというターニャの心象を表現しているのだろうか?
ラストも想像通りのオチで残念だった。余りにもストレートすぎて感動できない。
かように今回の作品に限って言えば、深田監督の冴えがまったく感じられず、残念がら凡作という感じがした。
唯一、見応えがあったのは佐野のエピソードだろうか…。最愛の息子との別れがしみじみと描かれ、ここだけで1本のドラマが作れそうなくらい興味深いバックストーリーが想像できた。