緊張感が持続するサスペンス作品。T・シェリダンの手腕に脱帽。
「ウインド・リバー」(2017米)
ジャンル社会派・ジャンルサスペンス
(あらすじ) ワイオミング州にあるネイティブアメリカンの保留地ウインド・リバー。ここで野生生物局の職員として働いている白人ハンター、コリーはある日、ネイティブアメリカンの少女の死体を発見する。彼女は親友の娘だった。FBIから新米の女性捜査官ジェーンがやって来て、早速捜査を開始する。コリーもそれに協力するようになるのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) ネイティブアメリカンの居留地で起こった事件を、地元の白人ハンターとFBI女性捜査官が捜査していく社会派サスペンス作品。
監督、脚本は
「ボーダーライン」(2015米)や「最後の追跡」(2016米)の脚本で注目されたテイラー・シェリダン。緊密に組み立てられた構成が今回も素晴らしく、最後まで息をつかせないスリリングな作品となっている。
また、社会派的なメッセージが重厚に盛り込まれている点も評価できる。ネイティブアメリカンが辿ってきた歴史と悲惨な境遇が事件の背景から見えてくる。
加えて、コリーのバックボーンにささやかなウェットを忍ばせており、これが鑑賞感をより一層芳醇な物にしている。エンタテインメントして上質に仕上がっており、コリーがこの事件にどんな思いで向き合っていたのかが最後に分かりホロリとさせる。
とはいえ、非常にシビアな映画であることに間違いはない。事件の解決はみるが、これをもってハッピーエンドというわけではない。ネイティブアメリカンに付いて回る根深い問題は決してなくなることはない。このメッセージが問題提起という形でしっかりと発せられている所に作品としての真摯さを見た。
かつて、先住民居留区を扱ったアメリカ映画は何本も製作された。そもそも先住民と白人の関係性は古き西部劇の時代からあり、例えばJ・ウェイン主演の「捜索者」(1956米)などがいい例だろう。
最近でも、モホーク族とアメリカ人のシングルマザーの友情を描いたクライム映画
「フローズン・リバー」(2008米)。孤独な中年男がオートバイの世界最速大会に挑戦する
「世界最速のインディアン」(2005ニュージーランド米)。若い青年が大自然の中に生活を追い求める実話の映画化
「イントゥ・ザ・ワイルド」(2007米)といった映画が作られた。そこに登場する先住民は皆、白人から財産を奪われ、外界と断絶した暮らしを送っていた。彼らは自分たちから土地と財産を奪った白人に対して一定の反感意識を持っている。
この映画でも先住民の反感意識は見られる。事件の捜査に乗り出す白人女性警官ジェーンは、”よそ者”である。彼女と先住民の間には決して取り崩すことのできない”壁”がある。
一方でこの土地でハンターとして働くコリーは、白人であるが、地元の人々に信頼され固い絆で結ばれている。彼はこの居留区の中では唯一の例外である。実に頼もしい”ヒーロー”と言える。
テイラー・シェリダンの演出は実に端正にまとめられている。
映画冒頭から緊張感のある出しで、今後の展開を期待させるオープニングで、自分は一気に画面に引き込まれた。コリーとジェーンの関係をヘンにべたつかせなかったのも見てて心地よかった。
そして、何と言ってもクライマックスシーンにおける回想挿入のスマートさ。これが見事である。ドアをノックするという”アクション”で繋いだところにセンスを感じた。
また、コリーの娘と被害者少女の関係を記念写真というアイテムでさりげなく明かした演出も光る。コリーがいかなる思いでこの事件に執念を燃やしていたかがよく分かるナイスな演出だった。普段はクールな彼が、ここで少しだけ涙する所にグッときてしまった。
総じてシェリダンの演出は手練れており、脚本家としてだけでなく監督としても中々の力量を感じさせる。
キャストでは、コリーを演じたジェレミー・レナーの渋い演技が素晴らしかった。欲を言えば、余りにもクールすぎるので少しくらい”汚れる”部分があっても良かったかもしれない。強く逞しい肉体と精神を併せ持つ、かつてのカウボーイを彷彿とさせるキャラとして造形されているのだろうが、リアリティということを考えた場合、どこかで人としての脆さは出してほしかった。
不穏なトーンが持続する前半に惹きつけられる。
「ヘレディタリー/継承」(2018米)
ジャンルホラー
(あらすじ) グラハム家の祖母エレンが亡くなり、娘のアニーは夫のスティーブに支えられながら高校生の息子ピーターと13歳の娘チャーリーと静かに暮らしていた。ある日チャーリーが異常な行動をとり始める。心配するアニーだったが、自分もミニチュア・アートの仕事を抱えていてそれどころではなかった。あの晩、ピーターがパーティに出かけることになり、アニーはチャーリーも連れていくように言うのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) ある一家にまつわる恐怖を静謐なタッチで描いたオカルトホラー。
淡々とした作風なので見る人によっては退屈してしまうかもしれない。しかし、ジックリと恐怖を味わいたい人にはたまらない作品だろう。現に自分も前半はかなり惹きつけられた。
特に、チャーリーの存在感が抜群に良い。ちょっと年齢不詳なビジュアルも含め大変目立っていた。そして、おそらく彼女をメインに話が進んでいくんだろうな…と思っていたところで、彼女は”ある悲劇的な事故”によって退場してしまう。これはかなり衝撃的だった。ここでのピーターのリアクションも生々しくて良い。
監督・脚本はこれが長編デビュー作となるアリ・アスター。アメリカのホラー作家らしからぬ、寒い方の”クール”な演出は中々堂に入ってる。どことなくヨーロッパ映画的な沈殿したトーンが良い味を出している。しかも、それだけではない。前述のチャーリーの悲劇的事件のようなショッキングな演出も突如繰り出してくる。観客を実にイヤ~な気持ちにさせてくれるという意味ではミヒャエル・ハネケに通じる物を持っていると感じた。
ただ、個人的にこの映画は終盤に行くにつれて興が削がれてしまう。一家の中で起こる霊的現象を中心に話が展開し、割と普通のオカルト映画になってしまっている。
アニーはセラピーで謎の中年女性に出会い、彼女から降霊術を教わる。そんなに簡単に霊を呼び出せるのか…という感じもするし、それを目の当たりにしたピーターのリアクションにも苦笑せざるを得なかった。
また、終盤に入って来ると”こけおどし”的なショック演出も増えてくるので陳腐に見えてしまう。例えば、ピーターが何者かに襲われる悪夢を見たり、アニーが虫の大群の悪夢を見たり等。
ヘンな話、日常に潜む怖さ。例えば、Jホラー的と言っても良いだろう。深夜にうっすらと人影が見えたり、チャーリーの癖である舌を鳴らす音がどこからともなく聞こえてくるといったシーンの方が断然恐ろしい。単にビックリさせるだけの”こけおどし”的な描写に余り恐ろしさは感じない。
オチについては、何だか狐につままれた気分になったが、オカルト映画として観れば納得の結末だった。実はこのオチに至る伏線は前半で巧妙に張られていたことに気付かされ驚かされる。祖母の葬式のシーンでチャーリーを見てニヤニヤ笑っていた男がいたのだが、あれが大いなるヒントになっている。
キャストでは、アニー役のトニ・コレットの怪演が素晴らしかった。これだけ恐怖に引きつった顔芸はそうそう見れないだろう。「シャイニング」(1980英)のシェリー・デュヴァルも真っ青といったハイテンションな演技はホラー映画ファンならずとも必見である。
全編PC画面で繰り広げられる特異なスタイルのサスペンス映画。
「search/サーチ」(2018米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 妻に先立たれ、女子高生の娘マーゴットと2人暮らしのデビッド。ある日、勉強会に行ったはずのマーゴットと連絡が取れなくなる。警察に失踪届を出したデビッドは、担当刑事のヴィックとともに、マーゴットのパソコンにログインし、失踪の謎に繋がる情報を収集していくのだが… 。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) シングルファザーが娘の失踪を捜索するうちに意外な真実を目の当たりにしていくサスペンス作品。
本作の売りは、何と言ても全編PCの画面で展開される特異な作品スタイルである。厳密に言うとスマホの画面で表現されている場面もあるので、全てがPCというわけではない。しかし、いずれにせよ中々凝ったスタイルでこういうやり方があったか…と思わせるアイディア重視の作品となっている。
ちなみに、全編PC画面上で描かれる映画というのはすでにあって、「アンフレンデッド」(2015米)というホラー映画がそうである。自分は未見なのだが、こういったアイディア勝負の映画というのはいかにも同時代的で面白いと思う。
一方、ストーリー自体もかなり良く出来ている。実にオーソドックスなサスペンス劇と言えるが、二転三転する所も含め、クライマックスにかけてのボルテージの上げ方が実に上手い。
デビッドはマーゴットが残した写真や動画。更には、SNSで繋がりのあった人物を探りながら娘の失踪の謎を解き明かしていく。ちょうどそれらはラストに繋がる伏線になっていて事件解明の中で見事に集約されていく過程が圧巻だった。観ててゾクゾクするような興奮を味わえた。
また、本作は父娘の情愛ドラマとしても中々よく出来ている。妻の死からデビッドとマーゴットの関係は空疎なものとなり、それが今回の事件の発端になっている。デビッドはマーゴットの交友関係も私生活も全く知らない。したがって、彼女がPCに残したログからそれを探っていくしかない。
この空疎な関係はつまるところ、親子と言えど本性が見えない仮面家族、面と向かって話し合わない現代的な人間関係、PC画面上における匿名性、作られたキャラクターそのものとも言える。
本作は決していたずらにスタイル”だけ”にこだわった映画ではない。そこにはちゃんとした意味とテーマがある。つまり、ネット上の”虚構”にしがみつく現代人の病理が投影されているのだ。そこに自分は溜飲が下がった。
そして、そんな”現実”に向き合うことすらできなくなってしまった父娘の悲しみがこのストーリーには通底している。その悲しみは最後に浄化されて感動的に締めくくられているのだが、本作はこうした父娘の情愛ドラマにも抜かりはない。結果、鑑賞感は実に満足のいくものだった。
更に言えば、このドラマにはデビッドとマーゴット以外にもう一組の親子が登場してくる。それは担当刑事であるヴィックと彼女の息子だ。実は、この二組の親子は対象関係となっていて、それが本ドラマを一段と奥深いものにしている。この対位もよく考えられていると思った。
加えて、現代のSNS社会に対する皮肉もよく効いている。
例えば、マーゴット失踪を涙ながらに語るクラスメイトの動画が登場してくる。彼女はマーゴットとは友達でもなんでもない。ただ、目立ちたくて芝居をしているだけである。これもPCの中における偽装、現代人の象徴と言えよう。
また、娘の生存を信じで奔走するデビッドに対する世間の賛否もリアリティがある。このあたりは
「ソーシャル・ネットワーク」(2010米)以降よく目にするものだ。
確かに少し出来過ぎと感じる部分もあるにはある。
例えば、真犯人に繋がる手掛かりはアッサリと見つかってしまうし、デビッドがマーゴットのPC画面に張り付いているせいでドラマ上、不自然に思える箇所が幾つかあった。学校の交友関係を知りたければ、普通は学校に行った方が効率的である。しかし、この映画はPC画面だけで進行するために、そうしたシーンは一切出てこない。この辺りは脚本上の”ムリ”が透けて見えてしまう。
とはいえ、それを感じさせないくらい物語はスピーディーに展開されるので、観ている最中は余り気にはならなかった。演出の巧みさでグイグイ引き込まれてしまった。
監督、脚本は新人のアニーシュ・チャガンティ。インド系アメリカ人でこれが長編初監督らしい。巧みな話法と活きの良い演出。今後が楽しみな監督がまた一人出てきたという感じである。
三島由紀夫の生き様を当時の世相を交えながら活写した実録ドラマ。
「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」(2011日)
ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 学生運動が過熱化する中、三島由紀夫は文筆業の傍ら、民族派の学生たちと親交を持つようになり独自の民兵組織構想を具現化する“楯の会”を結成した。彼らは自衛隊と連携して訓練を重ねながら、来るべき決起の時を待ちわびるのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) 文豪・三島由紀夫と彼を信奉する学生たちの実録ドラマ。
企画、製作、監督、共同脚本は若松孝二。2007年に監督した
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2007日)で学生運動の終焉を冷徹に描いた氏が、本作ではその反対側。つまり体制側の目線に立って描いた青春映画である。
彼は右にも左にも与しない客観的姿勢を貫く作家だが、この二つの作品を観るとそのあたりのことがよく分かる。若松はゲバ棒を担いだ学生たちにも、日本刀をこよなく愛した三島にも寄り添うことなく、あくまで第三者的な目線でルポルタージュしている。
そして、この第三者的な目線は、作中の出来事をどこか滑稽にも見せている。あるいは、時代や社会の流れに翻弄された悲しくも愚かな事として描いて見せている。賛辞を贈るわけでもない。殉教者として讃えるわけでもない。あくまで事の成り行きを淡々と紡いで見せるあたりに作品の普遍性が感じられる。
本作の三島には微塵もカリスマ性は感じられない。確かに彼を信奉する若者たちは三島を崇拝し、彼の信念のためなら死をも辞さない覚悟でついていく。しかし、映画を観る限り、そんな彼らもどこか子供っぽく映った。
三島を演じるのはARATA改め井浦新。本作の三島由紀夫を見てイメージに合わない、ミスキャストだと言う人もいるかもしれない。しかし、これは若松監督が敢えて狙ったキャスティングであり、三島のカリスマ性を必要上に顕現化しないための方策だったように思う。
実際の三島由紀夫は筋骨隆々の身体をしていたが、今作の井浦はお世辞にも筋肉質の体型をしていない。サウナのシーンが何度も登場してくるのも明らかに狙ってやっていて、実際の三島と井浦のギャップを観客に見せつけるために敢えてそうしているのだろう。若松は三島に必要以上にカリスマ性を持たせず、時代や社会に翻弄された”か弱き者”として描いているのだ。これは中々斬新な造形である。
物語は綺麗に三幕構成になっている。
まず前半は、三島と早稲田大学の民族派の学生たちの交流を中心にして描いている。学生運動が盛り上がる中で、彼は一つの覚悟を持って彼らと共に”楯の会”なる民兵組織を創設し、有事の際は自衛隊と共に出動しようと、その機会を伺うようになる。ところが、自衛隊は一向に動かず、学生運動の鎮圧に向ったのは官僚である警察だった。
映画後半は、これに落胆した三島が徐々に疲弊し”楯の会”が収縮していく様が描かれる。
そして、迎えるクライマックスは、余りにも有名な市ヶ谷駐屯地の占拠、いわゆる三島事件である。三島の自決までの過程をじっくりと紐解いて見せており、その生々しさは真に迫るものがあった。その時の三島の心理を想像すると興味が尽きない。
よく言われることであるが、彼にはナルシストの側面が少なからずあった。その彼が口を酸っぱくして言うのが、いかにして死ぬかという言葉である。
彼はかつて
「憂国」(1966日)という中編作品を発表している。これは自作自演のほとんどオレ様映画であり、そこで彼は自ら切腹して死に絶えた。実際の三島由紀夫も最後は割腹自殺をして命を潰えたわけで、この映画をそれを予見しているとも言える。それくらい彼は”死”というものに対して究極のヒロイズムを感じていたのだろう。
しかし、一方でこうも思う。時代が変わり、世間が自分の訴えに耳を貸さなくなってしまったことで、三島は”仕方なく”自らの命を絶ったのではないか…と。この映画を観ると、何となくそうした心理の方が強かったのではないか、と思えてならない。
事件を起こす決断は、彼の右腕・森田必勝の強い説得によるものとして描かれており、その頃はすでに三島の心も弱気になっていた。このままでは憲法改正はおろか、自衛隊まで”腐ってしまう”という焦燥がありありと見て取れた。そんな弱った彼の心をつき動かしたのが、若い森田の決死の覚悟だった…というのが面白い。あの強靭なイメージの三島がここまで追い詰められていたのか…と。
本作はいわゆる若松プロダクション製作による自主製作映画である。低予算な作品なため世界観の広がりに欠くという難点はあるが、かなり詳細に取材していると感心させられる場面もあり、全体的には中々の力作になっていると思う。
例えば、三島と東大全共闘の討論会は、そこに集まった学生たちの造形やファッションを含め、かなり忠実に表現されていると思った。このやり取りは記録映像として残っているので、比較してみるとよい。背景のセットこそ若干雰囲気は異なるが、セリフを噛んでしまう所も含めよく再現されている。
キャストでは、井浦新の熱演。これに尽きると思う。先述したように一見するとミスマッチに思えるが、なかなかどうして終盤の演説などは三島のしぐさや口調をよく研究している。これもネットなどで記録映像が見れるので比較してみるとよい。
森田を演じた満島真之介の目力も良かった。本作が彼の映画デビュー作である。この頃は女優の満島ひかりの弟というイメージしかなかったが、その後めきめきと頭角を表し、今では有望な若手俳優へと成長している。今後の活躍が楽しみな一人である。
F1レーサーたちの熱き戦いを描いた実録ドラマ。
「ラッシュ/プライドと友情」(2013米独英)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルスポーツ・ジャンルアクション
(あらすじ) ジェームズ・ハントとニキ・ラウダは、F3時代からの宿命のライバルだったが、その性格とレーススタイルはまるで対照的だった。天才肌のハントは酒と女を愛する享楽主義のプレイボーイ。対するラウダはマシンの設定からレース運びまで全てを緻密に計算して走る頭脳派。1976年、そんな2人がF1の年間チャンピオンを巡って熾烈なデッドヒートを繰り広げる。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) F1レーサーたちの熱き戦いを激しいレースシーンを交えて活写した実録ドラマ。
自分はF1にはまったく興味はないのだが、それでもこの作品を最後まで楽しめた。それは対照的な男たちの愛憎が単純に面白く観れたからである。軽快且つアクションタップリに綴った構成も見事で飽きさせない。
監督は職人監督のR・ハワード。彼はこれまでに実話の映画を何本も撮っていて、「アポロ13」(1995米)、
「フロスト×ニクソン」(2008米)、「ビューティフル・マインド」(2001米)と夫々ヒットさせている。実話を元にするとどうしても事実に寄せることに注力するあまり、映画的な面白味が失われてしまう場合があるが、彼が撮るとそのあたりがきちんとエンタメに昇華されているから感心する。事実は小説より奇なり、という言葉を地でいくような面白さがある。
今作は天才レーサー、ハントとラウダの出会いから、世界最高峰の舞台であるF1サーキットでの戦いを一気に見せる構成になっている。夫々の視点で紡ぐ序盤でキャラクターを明確に確立しつつ、中盤で激しいデッドヒートを繰り広げ、後半でラウダの事故という劇的な展開を持ってくる。このまるで”作った”かのような三幕構成は、まさにR・ハワードの面目躍如といった感じである。実話をベースにしながら、彼は”物語”としての面白さを引き出すテクニックを持っている。単にダラダラと二人のドラマを展開させるのではなく、ことごとく対立させながら盛り上げていく構成が見事だ。そして、この構成があるからこそ、クライマックスの1976年の二人の対決がドラマチックなものとなる。
最も印象に残ったのは、瀕死の事故から奇跡的なカムバックを果たしたラウダがハントと久しぶりに再会するシーンだった。あれだけハントのことを見下していたラウダがこう言う。
「君のおかげで生きる闘志が湧いた」
これにはグッときてしまった。ライバルがいてこその俺だ。そしてお前には絶対負けたくない。その気持ちが俺を死の淵から甦らせたんだ…。そんなラウダのハントに対する”感謝”の意と”挑戦”が感じられた。
映像の繋ぎや、小物の配置、色彩の組み立て等、画面の作り込みも申し分ない。もちろんレースシーンも最新のCGIを駆使しながら迫力あるシーンに仕上げられている。
ただ、クライマックスの日本グランプリのシーンで、おそらくアメリカのテレビ中継だと思うのだが、外の風景が明るかった。日本とアメリカの時差を考えると生中継という前提で考えればこれはおかしい。見てて不自然に映った。
それと、復帰会見でラウダに失礼な質問をした記者にハントが暴行するシーンがあったのだが、あれも事実なのだろうか?仮に事実だとしたら後で訴えられたりしなかったのだろうか?そこが見てて気になってしまった。
もっとも、エンタメ性を重視するR・ハワードのこと。このあたりはかなり脚色しているものと思われる。そもそもの話になってしまうが、2人は決して犬猿の仲というわけではなくF3の時代からかなり仲が良かったという話もある(wiki参照)。
これを知ってしまうと、実話と謳う本作に嘘偽りあり‥と批判する人がいるかもしれない。ただ、そこはそれ。あくまで映画的な面白さを追求した結果こうなりましたと思えば腹も立たずに観れる。それにレースの事故自体は事実であり、そこからごくわずかな期間でラウダが不死鳥のごとく復活したことも事実なわけで、本作は決して全てが誇張されて描かれているわけではない。
キャストでは、ラウダを演じたD・ブリュールが、孤高の天才ドライバーの素顔を好演している。妻との出会いで見せるユーモラスな演技も中々に良く、心のどこかでハントを求める複雑な心理も見事に表現されていた。今回は本人に似せるために特殊メイクを施して役作りしている。
名脚本家の数奇な半生を綴った伝記映画。
「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(2015米)
ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 米ソ冷戦体制の時代、アメリカでは赤狩りが猛威をふるっていた。ハリウッドの売れっ子脚本家ダルトン・トランボもその餌食となる。公聴会で証言を拒んだ彼は議会侮辱罪で収監され、最愛の家族と引き離されてしまう。それから1年後、ようやく出所したトランボだったが、すでにハリウッドではブラックリストに載っていて仕事の依頼は一切来なくなってしまった。仕方なく彼はB級映画専門の脚本を偽名で書き始めることになるのだが…。
ランキング参加中です。よろしければポチッとお願いします!


(レビュー) ハリウッドで活躍した脚本家ダルトン・トランボの壮絶な半生について描いた伝記ドラマ。
トランボと言えば「ローマの休日」(1953米)、「黒い牡牛」(1956米)、「ジョニーは戦場へ行った」(1971米)等、数々の傑作を書きあげた名シナリオライターである。映画ファンであれば彼の名を知らない人はいないだろう。しかし、その彼が1940~50年代の赤狩りにあっていたという事実を知っている人は案外少ないのではないだろうか。
本作はそんな彼の不遇の時代に焦点を当てて作られた映画である。
自分は彼の半生をドキュメンタリーを見ていたのでおおよそのあらましは知っていた。そのせいか、映画前半は表層的でやや退屈してしまった。これならドキュメンタリーでも十分だろう…と思った。
しかし、映画中盤にさしかかってからドラマが徐々に厚みを増していくようになる。周囲の人間たちとの友情、一緒に不幸を背負い込む家族との関係が詳細に語られるようになり、ここから一気に興味深く観れるようになった。
特に、かつての同士である”ハリウット・テン”のメンバーの個々の人生のすれ違いは皮肉的で面白い。
また、トランボが仕事を奪われ困窮していた時代に、名前を隠してB級映画のシナリオのリライトをしていたという事実も、映画好きにはたまらないものがある。実際に彼の名前はクレジットされていないので、一体どれだけの仕事をしたのかは分からないが、本作を観る限りかなりの早業でシナリオを量産していたことがよく分かる。ジャンルや内容に捉われず職人気質で対応する彼の能力の高さは凄まじく、改めて名ライターと言われる所以が分かる気がした。
ちなみに、そんなB級映画の中でもアカデミー賞の原案賞を受賞した「黒い牡牛」は異例中の異例と言っていいだろう。普通ではスポットライトが当たらないこの手の映画をアカデミー会員の目に留まらせたのだから、トランボの実力はホンモノだ。
また、オットー・プレミンジャーやカーク・ダグラスといった映画人たちに引き上げられた逸話も、中々感動的で印象に残った。
中でも、プレミンジャーに関しては色々と想像できて面白い。
プレミンジャーは、F・シナトラの熱演が忘れがたい「黄金の腕」(1955米)や洒脱なロメコメ
「月蒼くして」(1953米)等、様々なジャンルの映画を撮った名匠である。その一方で
「野望の系列」(1961米)や
「枢機卿」(1963米)といった、言わば体制に抗う反骨の人間ドラマも多く手掛けている。
特に、「野望の系列」は、赤狩りに晒された政治家についての映画で、これは前年「栄光への脱出」(1960米)で知り合ったトランボの半生をそのまま重ねているようにも見える。プレミンジャーがトランボに一定の共感を持っていたことは、この事実からある程度想像できる。つまり、プレミンジャーはトランボのことを一映画人としてはもちろん、その生き様から人間として敬意を払っていた…と想像できるのだ。だからこそ、彼はトランボに目をかけたのだと思う。
この映画の中では、他にかの有名な「ローマの休日」の逸話も印象的にフィーチャーされている。ジョン・ウェインやエドワードG・ロビンソンといった有名俳優とのエピソードも映画ファンとしてはニヤリとさせられた。
このように、この映画はトランボを取り巻く当時の映画界の事情を紐解くうえでも、大変興味深く観ることが出来る逸品となっている。
キャストではトランボを演じたブライアン・クランストンが中々渋い演技を披露している。飄々とした表情で余り悲壮感を表に出さない演技が好印象だった。
トランボの妻役を演じたダイアン・レインも久々に見たが、良い年の取り方をしているなと思った。