長い雨季が訪れたハンガリーの寒村。タフネはどこからともなく聞こえてきた鐘の音で目を覚ました。しかし、村の教会の鐘は壊れていて鳴るはずがなかった。不気味な予感に襲われるタフネ。その後、シュミットがクラーネルの妻に村の金を持ち逃げしようという計画を話にやってくる。それを盗み聞きしたフタキはその話に自分も加わりたいと言うのだが…。
(レビュー) 貧困に喘ぐ寒村を舞台にした静謐にして大胆な寓話。
監督、脚本は
「ニーチェの馬」(2011ハンガリー仏独スイス)で監督業を引退したハンガリーの鬼才タル・ベーラ。
本作は長らく幻の映画として語られてきた伝説的作品で、劇場公開される機会は中々なくソフト化もされていない。25年前の作品であるが、このたび4Kリマスター化されたということで観てきた。
尚、7時間18分を約150カットという驚異的な長回しで構成する、とんでもない大作である。
何しろ長回しの連続なので、観る方も根気がいる作品である。中には、これはいくら何でも長すぎるだろう…と思ってしまうカットもあり、睡魔に襲われる瞬間もあった。
しかし、冒頭の家畜の脱走シーンや、町の中を馬群が駆け回るシーン、知的障害の少女エシュテイケが猫を虐待するシーン等は、まさに奇跡的なショットで一体どうやって撮影したのか分からないという興味も含め、全体的には面白く観ることができた。
ドラマ的にはたいして意味がないロングテイクもあるにはある。例えば、ドクターが酒を何杯も飲んでトイレで小便をするまでを1カットで捉えるショットが出てくる。ドラマ的にはどうということはないカットだが、観ている側にとってはドクターの日常がありのままに映し出されることで、まるでドキュメンタリーを観ているような錯覚に陥る。
こうした長回しは画面に臨場感をもたらし、我々が生活する<時間>とまったく同じ<時間>がそこに流れていることを錯覚をさせる。つまり、それが作品のリアリズムに繋がっているのだ。このリアリズムは尋常ではない。下手な作為性がない分、真摯に観れてしまう。
但し、本作は雨のシーンが多く、風、雨、霧といった自然現象にはいくつかの作為的な演出が施されている。
暴風の中を延々と歩くカット、霧の中から廃墟と化した教会が現れるカット等は、超然とした画面で神秘的ですらある。こうした少しファンタジックな映像は日常描写とのギャップから、かなり特異的なものに映る。しかし、それもまた作品に奇妙な寓話性をもたらすという意味では実に面白い試みに思えた。
本作は撮影に2年もかかったという。言われてみれば確かにそれも頷ける話だ。準備のかかる長回しが連発するのだからそうなるのは当然である。例えば、冒頭に出てくる牛は1か月かけて調教したそうである。そんな話を聞くと、タル・ベーラは全カット妥協することなく、周到に計算して撮影したのではないか。そんな風に思えてくる。
また、本作は全編モノクロ映像で、モノクロならではの光と影が織りなす独特な美しさにも魅了された。
例えば、前述した霧の中から現れる廃墟と化した教会の荘厳さには見とれてしまった。あるいは、飲んだくれのドクターが暗い森の中にぼんやりと人影を目撃するシーンの悪夢的映像。果てしなく続く泥と雨水に覆われた広大な土地を捉えたショット。そこをいつまでも歩き続ける登場人物たちの姿等。画面の細部にまで光と影のコントラストが計算されつくされている。
かように映像については驚くことばかりの本作であるが、一方の物語もかなり大胆且つ難解なものとなっている。とはいっても、決して複雑な物語ではなく、解釈を迷わせるという意味での難解さである。
前半はタフネや、シュミット、クラーネといった村人たちの群像劇となっていて、彼らが荒涼とした土地に縛られながら自堕落な生活を送るスケッチ風ドラマになっている。
後半になると視点がガラリと変わり、この村を久しぶりに訪れるイリミアーシュという男の目線で紡がれるようになる。このイリミアーシュは本ドラマのキーパーソンと言える。
彼はかつてこの村に多大な富を与えた救世主である。その後、彼は村人たちの前から姿を消し、どこかで死んだという噂が流れる。その彼が再びこの村にやってくる…というのが後半の見どころとなる。果たしてイリミアーシュは何のために村に戻ってくるのか?村人たちは疑心暗鬼になり不安に駆られるようになる。
このイリミアーシュという男が指し示すものは一体何か?映画を観ながらずっと考えていた。
前半は救世主のようにも思えたのだが、後半からが悪魔のようにも思えてくる。さらに言えば、「ニーチェの馬」の時にも感じたのだが、どこか教示めいたニュアンスを含んだキャラクターのようにも思えてくる。
おそらく、本作を観た人の解釈が分かれるのはこの部分であろう。村人たちにとってイリミアーシュは善だったのか?悪だったのか?そして彼の存在は何を表しているのか?そこの汲み取り方が多種多様にできるのだ。
また、貧困に喘ぐ村の様子は共産主義国家だったハンガリーの社会情勢を反映したものとも取れる。終盤に登場する警察官は民衆を抑圧する権力を象徴しているとも取れる。そのあたりから、この映画は風刺の映画という見方もできよう。
いずれにせよ、ラストの解釈も含め、一筋縄ではいかない作品であることは間違いない。観た人の想像を喚起する哲学的な作品となっている。
尚、自分は、利己的な村人たちの争い、彼らを混乱に陥れるイリミアーシュの悪辣さを見て、人間とはどうしてこうも”さもしい”生き物なのだろう…と暗澹たる気分になった。ただ、それが人間の本性であり真実の姿なのだろう…と痛感させられたりもした。
そして、そんな中、最も印象に残ったのはエシュテイケという少女の末路である。純真無垢な彼女がたどる運命は実に悲劇的であるが、同時に醜い俗世から解脱したかのような安らぎもおぼえた。猫に対するおぞましい素行で観る者は驚かされるかもしれないが、彼女の気持ちを察するとそれも理解できなくはない。未来のない社会に見切りをつけた彼女が採った選択が、実は誰よりも一番の幸福だったのかもしれない…などと哀しい気持ちになった。