「三度目の殺人」(2017日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) エリート弁護士の重盛は、同僚が放り出した依頼人・三隅の弁護を引き継いだ。三隅は、自分を解雇した会社社長を殺害して遺体に火をつけた罪で起訴されていた。彼は30年前にも殺人事件を犯しており、今回の刑が確定すれば死刑は確実だった。さっそく重盛は無期懲役に持ち込むべく調査を始める。そこで三隅と被害者の娘・咲江に意外な接点があったことが判明する。
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(レビュー) エリート弁護士が殺人罪で起訴された男の過去を調べていくうちに意外な真実を発見していく法廷サスペンスドラマ。
監督、脚本は今や世界的な注目を浴びる是枝祐和。
これまでは人間ドラマを主に撮ってきたが、今回は珍しく法廷ドラマに挑戦している。とはいえ、事件の裏側に見える複雑な人間模様は、やはりこれまで是枝監督が描いてきた家族のドラマであり、テーマ自体は一貫しているように思った。
面白いと思ったのは、今回の主人公、重盛のキャラクターである。
彼の弁護スタイルは極めて合理的で、依頼人に同情や共感は一切しない。この手の作品にありがちな正義感に溢れたステロタイプな弁護士でないところがユニークだ。
映画前半で、後輩の弁護士見習い、川島とのやり取りからそのスタンスが伺える。
まだ駆け出しの川島は弁護士という仕事に誇りと希望を持っている。どんな人間でも最初は善人だったという性善説を信じている青年である。
一方の重盛は凶悪犯は死んで当然だと思っている。今回の三隅のようなケースはビジネスとして割り切って請け負っているだけで、実のところは死刑になっても仕方ないと考えている。
そんなドライな重盛だが、三隅と面会を繰り返し、彼の過去を調べていくうちに徐々に変化が訪れていく。本当は三隅は殺していないのではないか?誰か他に真犯人がいるのではないか?そうした疑問に駆られ、それまでの仕事に対するスタンスを改めていく。そして、三隅に感情移入していくようになるのだ。
重盛のこの心理変化は画面演出からも明確に見て取れる。
二人の面会シーンは常に両者のクローズアップのカットバックで構成されている。しかし、最後の面会シーンだけは二人のバストアップを真横から捉えたロングテイクで表現される。しかも、面会ガラスに映る二人の顔をオーバーラップさせるという形で合成させている。これは重盛が三隅にシンクロしていることを明確に指し示したものであろう。
初めは依頼人に同情も共感もしなかった重盛が、三隅に関わったことでいつの間にか彼に共感してしまう所が面白い。重盛のこのキャラクターアークは実に魅力的だった。
例えるなら、それはサイコスリラーの傑作「羊たちの沈黙」(1991米)におけるクラリスとレクターの関係、
「凶悪」(2013日)における山田孝之演じる記者とリリー・フランキー演じる連続殺人犯の関係に近いかもしれない。
事件の当事者と事件を追う者の関係が徐々に密接になっていく所が非常にスリリングで面白い。
そして、思えば映画前半で、重盛は長女の涙を見て驚いていた。おそらくだが、彼はそれまで娘の孤独など全然知らなかったのだろう。父親としては完全に失格であるどころか、他者の心を推し量り、寄り添うことができない冷たい人間だったことが、このシーンから分かる。
そんな彼が最後に三隅の心に迫ることができたというのは実に皮肉的だと言える。重盛は犯罪者である三隅のおかげで「人間らしさ」を取り戻すことができたのだから…。
尚、事件その物のからくりは、途中でネタが分かってしまった。保険金目当ての殺人、怨恨といったミスリードを設けているが、咲江の足が不自由という設定が事件の大きなヒントになってしまい容易に想像がついてしまう。この設定はむしろ無かったほうが良かったのではないだろうか?
また、事件を解くカギとして十字架の「印」が登場してくるが、これはやや宗教性を強めてしまった感がある。この映画自体そこまでキリスト教の宗教観にこだわっているようには思えないのだが、果たしてどういう狙いで十字架を出してきたのだろうか?ましてや三隅はそこまで信心深い男ではない。
アメリカならいざ知らず、ここ日本では宗教に特別な意味を持たせないと、逆に全体の作劇から浮いてしまいかねない。もしかしたら海外の映画祭を狙ってこうしたアイテムを持ち込んだのかもしれないが、奇をてらい過ぎという気がした。
「クリーピー 偽りの殺人」(2016日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 大学で犯罪心理学を教える元刑事の高倉は、郊外の一軒家に引越しして妻・康子と新しい生活をスタートさせる。隣には西野家という家族が住んでいた。主は謎めいた中年男で、妻は病床に伏し姿を見せず、高校生になる一人娘の姿がたまに見かけられた。ある日、高倉の元に、元同僚の野上から6年前に起きた未解決の一家失踪事件の分析を依頼される。事件の鍵を握るのはただ一人残された長女・早紀だった。しかし彼女の当時の記憶は曖昧で、事件の核心にはなかなか近づくことができなかった。
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(レビュー) 元刑事が6年前の一家失踪事件を調べるうちに、意外な真実に突き当たっていくサスペンス・スリラー。
隣に住む謎めいた男、西野が事件のカギを握るのは映画のタイトルでバラしているようなものなので、推理劇としてはそれほど面白味はない。ただ、高倉と康子が目にする西野の特異な言動。そこにはゾクゾクするような興奮と、見方によってはブラックコメディのような可笑しさがあった。そこがこの映画の醍醐味だろう。
何と言っても、西野を演じた香川照之の怪演が見事である。得体の知れぬ”闇”と”狂気”を抱えた演技が、随所で光っていた。
監督、共同脚本は黒沢清。現在の日本映画界を代表するベテラン監督である。元来この手のスリラーはお手の物で、今回はある種、不条理劇っぽいテイストを多分に盛り込みながら高倉達が味わう恐怖をジックリと再現している。このジメっとした嫌らしさは彼の真骨頂という感じがした。
平穏な”日常”と犯罪が匂う危険な”非日常”を混濁させる高倉夫妻の変化も、いかにも黒沢清ワールド全開である。
「岸辺の旅」(2015日)、
「リアル~完全なる首長竜の日~」(2013日)、
「トウキョウソナタ」(2008日)、
「叫」(2006日)等、彼はこれまでにも”日常”と”非日常”をテーマに映画を撮ってきた。本作にもそのテーマは一貫されている。
例えば、康子が退屈な日常から逃れるように西野の罠にはまっていく心理、高倉が6年前の事件捜査にのめり込んでいく心理。これらは、明らかに日常から非日常への”逃避”であり、人間の悪しき欲動その物である。サイコスリラーというジャンル映画と見せかけて、実は人間の業に迫った所が本作の妙であり、黒沢清らしいところだと思った。やはり彼は他の作家とは一線を画す稀代の作家である。
本作を観て思い出されるのが、悪魔に魅了された人間「ファウスト」の物語である。
西野をメフィストフェレスと捉えると分かりやすい。高倉と康子は彼に魂を売り渡して己の欲望に浸りきってしまった…という風に読み解けば、これは正に「ファウスト」のドラマそのものである。
映画のラストも実に意味深である。ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか、観客を不安にさせるような終わり方になっている。
確かに一見するとハッピーエンドに見えるかもしれないが、全ては西野の掌の上で踊らされていた…という風にも解釈できるのだ。高倉の「正義」は本人がそう思い込んでいるだけであって、実は悪魔(西野)に導かれてそうしているだけかもしれない。言うなれば、彼の「正義」はただの「私刑」なのかもしれない。
ラスト直前の西野の顔が何となく微笑んでいるように見えたのが不気味だった。まるで「悪」が不滅であることを暗に示しているかのようだった。
「バッシング」(2005日)
ジャンル社会派・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 北海道の海辺の町。ホテルでアルバイトをしている有子は、ある日突然クビを宣告される。彼女はかつて中東の戦時国でボランティア活動をしていたことがあり、その時に武装グループに拉致・監禁され人質となった女性だった。無事に解放されたはいいものの、帰国した彼女は世間から厳しいバッシングを受け、ホテルの支配人も煙たがっていたのである。しかし彼女を待っていた不幸はこれだけで終わらなかった。
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(レビュー) 2004年にイラクで起こった日本人人質事件を題材にした社会派作品。
監督・脚本は
「春との旅」(2009日)、
「愛の予感」(2007日)、
「海賊版=BOOTLEG FILM」(1999日)等の小林政広。氏らしい非常にミニマルな作品である。
元となった事件は今でも覚えている。ちょうど「自己責任」という言葉が流行ったこともあり、被害者女性に対する世間の声は厳しいものだった。どうして国が税金を使って多額の身代金をはらわなければいけないのか?どの面下げて帰ってきた等々。被害者女性に対するバッシングが相当あったと記憶している。
こうした潮流は今でもあるように思う。ましてや現代はSNSによって情報の拡散も昔とは比べ物にならないくらい早くなった。大衆が一斉に同じ方向に向かうのは昔よりも容易になっている。
本作は非常に中立的な立場で作られた作品のように思う。主人公である被害者女性を擁護するでもなく、彼女をバッシングする周囲を批判するでもなく、最後は観客に問題提起をする形で終わっている。観客夫々にこの問題について考えて欲しいという監督の狙いがあるのだろう。社会派作品としてみた場合、これは実に真摯に作られていると思った。
物語は主人公・有子の視点で展開されていく。勤め先から理不尽な理由で解雇され、買い物に行けば嫌がらせを受け、自宅にはいたずら電話がひっきりなしにかかってくる。挙句の果てに父親の人生までも狂わされてしまう。
観てて実にやるせない思いにさせられた。ただ、有子の方にも問題が無かったかと言えばそうではない。彼女は少々人間的に問題がある。
例えば、あれだけ酷い目にあったのに再び戦地へ行こうとしたり、その金を親に無心したり、周囲から自分がどう思われているのか、どうして反感を持たれるのかということをまったく理解していない。ただ盲目的に自分のしたいことだけをしているのである。要するに物事を客観視する能力に欠ける女性なのである。
一見するとこの映画は有子を可哀そうに描いているが、彼女に共感させようとしていないことは明らかだ。彼女を思慮の浅い女として描いているからである。
したがって観客は彼女に同情することはあれ、決して感情移入するまでには至らないだろう。
本作はあくまで中立的な立場から「バッシング」という問題を扱っているのみなのである。
演出はドキュメンタルに拠っている。音楽を排した淡々とした作りは、いかにも小林政広らしく、本作のハイライトとも言える有子の表情を捉えたロングテイクにも見応えを感じた。
一方で、映画らしいユーモアも各所に散りばめられており、有子のおでんに対する一連の執着には、ある種の病的なほどの頑固さが伺えニヤリとさせられた。
また、コンビニの前に立てられた「子育ては『やめなさい』と言える大人の思いやり」という標語にもクスリとさせられた。劇中の有子と両親の関係を示唆しているのだろう。
脚本もよく出来てると思った。実際の事件を知っていれば有子の置かれている状況は容易に想像つくが、知らなくても映画を観ていれば段々と分かってくるように作られている。有子のバックストーリーが解き明かされていく構成が見事である。
ただ、幾つか不自然に思える箇所があり、そこは残念だった。
例えば、有子が別れた恋人の元へ向かうシーン。ここで初めて彼女は笑顔を見せるのだが、その前後の二人のやり取りを考えれば首をかしげたくなる演出だった。
また、これはキャスティングの不満になるのだが、有子が偶然再会する過去の女性友達の演技が素人丸出しである。1シーンのみではあるが違和感を覚えた。
ただ、それ以外はキャスト陣は概ね好演している。中でも有子の葛藤を深く演じきった占部房子の存在感が抜群だった。
「皇帝のいない八月」(1978日)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) 盛岡でパトカーが機関銃で銃撃されるという事件が起きる。内閣情報室の利倉は陸上自衛隊、刑務部長の江見に捜査の協力を仰ぐ。軍事クーデターの可能性を考慮した江見は、早速自衛隊内外の不穏分子の洗い出しを始める。リストアップされたのは江見の一人娘、杏子の夫でかつて自分の部下だった藤崎だった。その頃、杏子の元恋人で新聞記者の石森は取材を終えて博多から東京行きの寝台列車に乗ろうとしていた。そこには藤崎が率いる自衛隊員の一団が同乗していた。
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(レビュー) 自衛隊の軍事クーデターを描いた社会派サスペンス作品。同名原作(未読)の映画化である。
架空の物語であるが、現代にも通じる社会の閉塞感、腐敗した政治の裏舞台が垣間見れるのが面白い。
但し、藤崎の武力闘争はリアリティ云々を言うと流石に荒唐無稽な感は否めない。
第一に藤崎は寝台列車に乗って博多から東京へ向かうが、万が一の場合を考えれば民間人と一緒に移動することは得策ではないだろう。実際に映画が製作されるにあたって、このずさんな計画は指摘されたらしい。しかし、元々の原作がそうなっていることもあり、というかそこがサスペンスの要であるので変えることは出来なかったのだろう。
また、ドラマ面でも各人物の心情があやふやで感情移入するまでに至らなかった。
杏子は藤崎に抱かれて彼の妻になるが、一体どこに惹かれたのだろうか?石森も杏子を忘れて今では愛すべき家庭を築いているが、杏子との再会にまんざらでもなさそうである。利倉とバーのママがかつて恋仲にあったという過去が一瞬だけフラッシュバックされるが、ドラマ的にはまったくの不要であり、その説明もない。ただ単に太地喜和子の濡れ場をサービスショットとして入れたかったけのようにしか思えないのだが…。
このように全体的にとっ散らかった印象の作品で、完成度という点ではやや劣る。
監督、共同脚本は山本薩夫。
「真空地帯」(1952日)、
「不毛地帯」(1976日)、
「金環食」(1975日)といった社会派大作から
「華麗なる一族」(1974日)、
「台風騒動記」(1956日)等のエンタテインメント、
「荷車の歌」(1959日)のような独立系の硬派な作品も撮り上げる巨匠である。彼は”赤いセシル・B・デミル”と言われるように左翼思想を持った作家だったが、そんな彼が本作を撮ったことは実に意外だった。軍事クーデターという右傾化思想は、それまでの彼の思想とは全く相反するものである。
とはいえ、演出は軽快にまとめられており、最後までストレスなく観ることが出来た。結構本人的には乗り気でやっていたのではないだろうか。このあたりは流石にベテラン作家といったところである。
但し、後半の電車内と内閣情報室のカットバックは余り上手く噛み合っておらず今一つ盛り上がりに欠けるのは残念だった。また、クライマックスのスローモーション演出も抒情性を過度に演出していて少々いやらしい。
予算が少ないせいもあろう。新幹線のミニチュア撮影が行われているが、これも同時代に作られた「新幹線大爆破」(1975日)に比べると貧相だ。列車内のモブの少なさにも予算の少なさがうかがえる。
一方、劇中にはチリの軍事クーデターの記録フィルムが出てくるが、そこに石森と杏子を上手くはめ込んだ点は見事だったように思う。まるで本当にその場に居るかのように違和感なく観れた。
このように色々と不満に思う所もあるのだが、しかし現代の日本にもし軍事クーデターが起こったら?というシミレーションとしては中々に興味深く観れる作品である。
また、社会派作家・山本薩夫の面目躍如が堪能できるという点においても、まずまずの異色作となっている。
「サバイバルファミリー」(2017日)
ジャンルコメディ・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 東京に暮らす鈴木家は父・義之、妻・光恵、長男・賢司、長女・結衣からなる、ごくありふれた一家である。しかし、義之は仕事一筋で家庭のことを一切構わない人間で、家族の仲はバラバラだった。そんなある日、電気、ガス、水道、更には自動車までもが原因不明の異常現象で止まってしまう。復旧の見通しがないまま一家は東京を離れることを決断するのだが…。
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(レビュー) 原因不明の異常事態ですべてのライフラインがストップしてしまったことで、平凡な家族がサバイバルを余儀なくされてしまうパニック・コメディ。
最初はよくあるパニックムービーかと思いきや、さにあらず。この映画はバラバラだった家族の絆の再生を描いたホームドラマとして実にしたたかに作られている。合理化された現代社会に対するアイロニー、ブッラク・ユーモアもそこかしこに感じられ、気軽に見れるコメディとは一線を画した中々の佳作になっている。
監督・原案・脚本は矢口史靖。軽妙なタッチを得意とする氏らしい演出が横溢し、時に笑いを、時にチクリと突き刺さるような皮肉で一家のサバイバルをユーモラスに描いている。前作
「WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~」(2016日)と比べるとパワフルさという点では見劣りするが、氏の資質は存分に出ている。
まず、序盤のパニックシーンから素晴らしい出来である。かなりブラックなテイストで演出されており、氏のデビュー当初のカラーが感じられた。今でこそ大衆向きな作品を量産する職人監督として活躍しているが、初期時代には結構危険なネタを連発してた。それに少しだけ戻ったような感じを受けた。
その一方で、この異常事態には先の東日本大震災も連想させられた。鈴木家の奔走劇は確かに滑稽に映るが、同時に笑ってばかりはいられない深刻さもうかがえる。
コンビニから食料が消え、水を求めて人々が行列を成し、ろうそくだけで夜を過ごすという非日常は、正に我々が東日本大震災で体験してきたことである。それを思うと、ここで描かれるパニックシーンにはリアルな恐ろしさを感じてしまった。
便利に慣れてしまった人間が裸一貫で外に出された時、果たしてどうやって生き延びていくのか?という命題を突きつけられているな感じを受けた。前作でも同様の文明批判的なメッセージは投げかけられていたが、今回はまた違った形でそれが強く押し出されている。
そんな中、後半に登場する大地康雄演じる農夫は、このドラマのキーパーソンとして強く印象に残った。彼は都会暮らしだった鈴木家とは正反対に自給自足な生き方をしている。自然と共存するような暮らしを送っている。
鈴木家は彼と関わり合いを持つことで、人間本来の生き方、つまり大切なものは『物質』ではなく『心』だということを教わる。こう書くと非常に青臭いが、矢口監督はこれを上手くエンタテインメントの形に乗せて描いている。したがって、説教じみた所がなく、自然と観ているこちら側にテーマが入ってくる。
映画は後半に入ってくると徐々に悲壮感を増していくようになる。笑いも少なくなりサバイバルがシビアになっていく。
このあたりはやや監督の迷いが出たかな?という印象を持った。テーマを追求するためにドラマの引き締めにかかったのだろうが、それまでの緩いトーンとは別物になっていく。
ただ、ラストは清々しく締めくくられているので、決して後味が悪いわけではない。このあたりの捌き方も実に上手く、結果、映画の鑑賞感も満足いくものとなった。
1点だけ不満を挙げるとすれば、離散した鈴木家が再会を果たす終盤の展開だろうか…。
シリアスなトーンからコメディへの切り替えに違和感を持った。かなりご都合主義であるし、正直言ってここまで安易な再会だと素直に感動することはできない。もっと自然な形で再会してほしかった。
「Fukushima 50」(2019日)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ・ジャンル社会派
(あらすじ) 最大震度7の巨大地震が東日本を襲った直後、福島第一原子力発電所は巨大津波によって全電源を喪失。1~3号機の原子炉は冷却機能を失い非常事態に陥った。当直長の伊崎ら現場作業員たちは、吉田所長の指揮の下、懸命に状況の把握と事態の収拾に奔走するのだが…。
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(レビュー) 2011年3月11日に起こった東日本大震災を映像化した作品はこれまでに何本も作られてきた。園子温監督の
「希望の国」(2012日英台湾)、ドキュメンタリー
「フタバから遠く離れて」(2012日)等。ただ、直接原発事故の現場を描いた映画と言うのはこれが初めてではないだろうか。そういう意味では、大変意義深い作品だと思う。
実際、現場で奔走する作業員たちの決死の姿は実に尊く、改めて事態の大きさと、本当にあれだけで済んで良かった…という気持ちにさせられた。ニュースだけでは分からない当時の現場の実態が分かりやすく描かれていて、一見の価値がある作品になっている。
主役は二人の男たち、福島第一原発の吉田所長と彼の元で働く当直長の伊崎である。想定外の巨大津波に襲われ全ての電源を失った原子炉は冷却不能となりメルトダウンの危機にさらされる。彼らはそれを何とか未然に防ごうと陣頭指揮を執る。放射能に汚染される危険を顧みず作業員たちは現場に足を踏み入れていく。
ソ連の原子力潜水艦の事故を描いた「K-19」(2002米英独)、スリーマイル島の原子力発電所の事故を描いた「チャイナ・シンドローム」(1979米)といった作品があるが、これらの作品同様、原子力の危険性がシビアに啓発されている。特に、前者との共通点は多い。
リアリティの追及にも熱意を感じた。巨大セットを組み立てた撮影。事故当時の混乱をドキュメンタリータッチで表現した構成が緊迫感と焦燥感を見事に再現している。2時間の尺をまったくダレることなく一気に観れた。
ただ、この映画、当然のことながら実話をベースに敷いているのだが、果たしてこれは過剰な演出ではないか?と疑われる部分も無くはない。
例えば、その一つが首相の造形である。かなり恣意的にカリカチュアされており、実話ベースと前置きしている割に随分と浮いて見えてしまった。観る人は当時の総理だった菅直人氏に重ねるのは当然だろうが、余りにもキャラが違い過ぎる。
また、吉田とテレビ会議でやり取りをする東電本社の幹部の融通の利かなさも酷いもので、このあたりはどこまで事実に即して描かれているのか?
穿った見方をすれば、間違いなくドラマを盛り上げるべく”より映画的”な演出を施しているように見えた。
加えて、本作には伊崎家の人間ドラマも用意されている。通り一辺倒な父と娘の確執のドラマに終始し物足りなく感じたが、これもドラマを盛り上げるために用意された”演出”に映ってしまった。
本作には原作がある。「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」というノンフィクション小説(未読)である。原作を読んでみないと比較のしようがないが、映画版は果たしてそのあたりの料理の仕方はどうだったのか?気になってしまった。
「マタンゴ」(1963日)
ジャンルSF・ジャンルホラー
(あらすじ) 7人の若者を乗せたヨットが嵐で無人島に漂着した。そこには一艘の難破船が漂着していたが、乗員の姿はどこにもなく、ただ奇妙な形状のキノコが群生しているのみだった。やがて食料の残りが少なくなり、彼らは恐る恐るそのキノコを食し始める。
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(レビュー) 無人島に漂着した若者が次々とキノコ人間と化していくSFホラー映画。
ゴジラシリーズのヒットなどで知られる円谷英二が特技監督を担当しているが、子供が見て楽しめる怪獣映画というよりも、大人が見て楽しめるホラー映画となっている。そこで繰り広げられる愛憎渦巻く人間模様も含め中々面白く観ることが出来る作品だった。
尚、本作は「美女と液体人間」(1958日)、「電送人間」(1960日)、
「ガス人間第一号」(1960日)という東宝特撮の「変身人間シリーズ」の番外編として位置づけされている。前3作も確かに子供よりもアダルト向けに作られたSFホラーだった。
物語は序盤がやや退屈するが、無人島に到着して以降は引きこまれた。登場人物のキャラ付けは中盤以降きっちりと確立され、個々の対立、駆け引き、内紛が緊張感タップリに描かれている。色欲に飲まれてしまう人間の愚かさ、高度経済成長期を投影したであろう格差社会の象徴といった暗喩も嗅ぎ取れ、後に松竹が製作した
「吸血鬼ゴケミドロ」(1968日)に似た面白さが感じられた。
監督は本多猪四郎。原作は外国の短編小説で、それをSF作家・星新一が原案にまとめ上げている。
(※訂正:実際には星新一はラストシーンに意見を出しただけでほぼノータッチということである)
先述したように漂着するまでの演出が安穏としており、観てて少々退屈するが、難破船を調査するシーンあたりから徐々にホラー・タッチが横溢し魅了される。特に、カビとキノコだらけの船内を探るシークエンスにおける”焦らし”の演出が良かった。
また、プロダクション・デザインも秀逸で、非日常的空間を演出したサイケデリックな色彩が印象に残る。赤や黄色を基調とした原色を刺激的に多用しながら、見る者を不安と恐怖に包み込み、何とも不気味な感覚に襲われた。
映画中盤は、個々の対立ドラマを中心しながら、キノコ人間(マタンゴ)の正体を暴いていくサスペンステイストで進行する。
見せ所は何と言っても、マタンゴのデザインである。異形の怪物としか形容しようがない独特な造形が強烈なインパクトを残す。変身途中の状態だと尚更不気味で、ヘドロ状のドロドロとしたデザインで、子供が見たらトラウマ必至の気色悪さである。
尚、かのスティーブン・ソダーバーグ監督は幼少期に本作を観て、30代頃までキノコを食べられなかったと語っている。
もっとも、完全にキノコ人間になってしまうと、途端に着ぐるみ感満載でどこか愛嬌も感じられる。この辺りの工夫はもう少しあっても良かったように思った。
特撮を担当したのは円谷英二。本作はこうした等身大の怪獣なので、スペクタクルな特殊撮影はほとんどなく、そういう意味では大変地味である。ただ、海岸に漂着した難破船の遠景、霧に包まれた島を捉えたショットなどは、中々のスケール感が感じられ見応えがあった。
そして、本作で忘れられないのは、何と言てもラストである。人間の業、欲心を嘲笑するかのように大胆な幕引きを敢行し観る側に深い余韻を残す。