「ホドロフスキーのDUNE」(2013米)
ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 鬼才アレハンドロ・ホドロフスキーが監督するはずだった未完のSF大作「デューン」の製作裏話を、ホドロフスキーと関係者のインタビューを交えながら振り返ったドキュメンタリー。
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(レビュー) SF小説「デューン」の映画化はD・リンチによって「砂の惑星」(1984米)として実現されたが、それ以前にアレハンドロ・ホドロフスキーの手によって映画化される企画があったとは驚きである。結局、資金難によりその計画は頓挫してしまったが、もし完成していたら、さぞかしエポック・メイキングな作品になっていただろう。ホドロフスキーをはじめ、当時の製作にかかわったスタッフの証言を聞くだに、いかに壮大なプロジェクトだったかがよく分かる。
絵コンテはフランスのバンド・デシネの巨匠メビウスが担当し、劇中のプロダクション・デザインは「エイリアン」(1979米)などで知られるH・R・ギーガーが務め、特殊効果もやはり「エイリアン」などで知られるダン・オバノンが務める予定だったそうである。当時はまだそこまでの知名度はなかったが、今となっては実に錚々たる面子である。
キャストも豪華で、映画監督のオーソン・ウェルズ、芸術家のサルバドール・ダリ、ミュージシャンのミック・ジャガー等、当代きっての有名人が予定されていた。
もし実現していたら間違いなくSF映画の一つの金字塔になっていただろう。
しかし、この計画は資金が膨らみすぎて中止に追い込まれてしまった。大手ハリウッドのスタジオに話を持ち掛けたが、出資に至らず”夢”のまま終わってしまったのだ。
ホドロフスキーは映画=芸術と考えている人である。ハリウッドのプロデューサーからしてみれば「ホドロフスキー?あのワケの分からない映画を撮る”変人”か?」と一蹴されておしまいである。
更に言えば、本人が劇中で語っていたが、上映時間は12時間、可能なら20時間を想定していたというから恐ろしい。今でこそ超大作のシリーズ化は当たり前になったが、当時はそのような長大なストーリーを映画にする前例はなかった。
冷静になって考えてみれば、本作の映像化は土台、無理だったのではないかと思えてくる。残念な話ではあるが、企画だけは完璧に出来上がっても、諸々の事情で実現に至らなかった例はこれまでにもたくさんある。今回もその一例だった…ということなのだと思う。
それにしても、映画化は断念したものの、ホドロフスキーはこれを実に楽しそうに話しているのが良い。見ていて何とも微笑ましく、余り悲壮感を感じられないのが救われる。
数年後にD・リンチの手によって完成した「砂の惑星」を見て、ホドロフスキーは完全な失敗作だと笑っていたが、実際にこの作品は興行的には失敗に終わった。
こうした経緯を考えると、「デューン」の映像化は映画人たちにとっての一つの鬼門のようになっている。来年、D・ヴィルヌーヴの手によって映画化されるが果たしてそちらはどうなるのか?期待しつつ公開を待ちたい。
「AMY エイミー」(2015米英)
ジャンルドキュメンタリー・ジャンル音楽
(あらすじ) 27歳の若さで急逝した英国の天才女性シンガー、エイミー・ワインハウスの波乱に満ちた生涯を描いたドキュメンタリー。
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(レビュー) 正直なところエイミー・ワインハウスのことは名前くらいしか知らず、曲も数度聴いたくらいで、それほど詳しいわけではない。彼女が悲劇の死を遂げた時は、ニュースになったので覚えているが、その時も「そうだったのか…」と思った程度で特別に強い思い入れがあるわけではなかった。
そんな自分がこの映画を観た時に、一番強く感じたのは、彼女は生き急いだ天才だった…という思いである。
最も強く印象に残ったのは、セルビアで行われたコンサートのシーンだった。エイミーは酔っぱらってフラフラの状態でステージに立って1曲も歌うことなく会場から大ブーイングを浴びせられる。あの華々しい大活躍を見せたスターが、ここまでの醜態をファンの前に晒したことが衝撃的だった。
本作では、エイミーがアルコールとドラッグに依存していたことが赤裸々に語られている。死の直接の原因もアルコールの過剰摂取ということで、こういっては元も子もないが、ミュージシャンには付き物の”お約束”のオンパレードである。得てしてスターというものは、富と名声と引き換えに大切なものを失い、孤独に陥り、酒とドラッグに溺れていく…というのがパターンである。その意味では、エイミーも正にそのパターンに当てはまる人生を送ったシンガーだったように思う。
薬を断つために更生施設に入ったエイミーのスチール写真が出てくるのだが、あのふくよかな彼女が痩せこけて完全に風貌が変わっていたことに驚いた。まるで別人である。改めてドラッグの恐ろしさが実感される。
ドキュメンタリーとしての作りは非常にオーソドックスである。彼女の家族や仕事の関係者のインタビュー、当時の記録映像で彼女の半生が淡々と振り返られている。
一つ面白いと思ったのは、彼女の歌がバックに流れるのだが、それがドラマに密接にリンクしていたことである。エイミーは自分の経験を歌詞に乗せて歌うシンガー・ソングライターでもある、彼女が辿って来た人生と歌詞が微妙に重なるのだ。この演出がこの映画をかなりドラマチックなものにしている。
そんな中、エイミーの元夫のお騒がせ男ブレイクと、彼女に”たかろう”と傍について回る父親の存在は、彼女の人生の中では大きな意味を持っていたように思う。おそらく彼らはエイミーの人生における”負”の部分と言えよう。もう少しマシな男と付き合っていれば、もう少し彼女のマネジメントが上手くいっていれば、また彼女の人生も変わっていたかもしれない。
「容疑者、ホアキン・フェニックス」(2010米)
ジャンルコメディ・ジャンルドキュメンタリー
(あらすじ) 2008年末に俳優のホアキン・フェニックスが突然、俳優業を引退しラッパーに転向することを宣言する。その過程を追ったモキュメンタリー。
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(レビュー) 「her/世界で一つの彼女」(2013米)や
「ジョーカー」(2019米)、
「バッファロー・ソルジャーズ 戦争のはじめかた」(2001英独)等で知られる俳優ホアキン・フェニックスが突然ラッパーに転向するという事件は、当時多くのメディアで報道されたので記憶している人もいるだろう。自分も半信半疑だったが、その後本作が公開された直後に、実はすべてこの映画を作るために仕組んだ”やらせ”でしたということが分かり、何とも人騒がせな…と思ったものである。
元々、エキセントリックな演技を得意とする人だったので、さもありなんという感じもするが、それにしても多くの周囲の人間を騙してここまでウソをついたのだから、まったくもって質が悪い。
監督はホアキンの義弟ケイシー・アフレック。彼も様々な作品に出演しており、中々良い演技をする俳優である。最近では
「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(2016米)でアカデミー賞の主演男優賞を獲得した。
そんな彼が初演出したのが本作である。兄弟揃ってよくもまぁこんな映画を作ろうとしたものだなぁ…と。
ただ、実際に映画を観てみるとそこかしこに”やらせ”の片りんは見て取れる。観る人が観れば明らかに本作が嘘のドキュメンタリーであることは見抜けるはずである。
例えば、ホアキンが運転する自動車がガードレールに衝突するシーンがある。社内のカメラと社外のカメラ。2台で撮っているのだが、社外カメラは明らかにそこで事故を起こすことを想定してセッティングされている。そうでなければ、事故の決定的瞬間をタイミングよく撮れるはずがない。初めから2台のカメラで撮影にのぞんだのだろう。
他にも、ホアキンがヘロインを堂々とカメラの前で吸うシーンが登場してくる。これも明らかに”やらせ”だと分かる。
このようによく見れば、この映画がリアルなドキュメンタリーなどではなく、全て”やらせ”であることは容易に想像がつく。
ある種バラエティショーだと割り切って観ればそれほど腹は立たないのだが、しかし中には「けしからん!冗談にもほどがある!」と怒りたくなる人がいても当然だと思う。
例えば、ライブイベントでラップをバカにされたホアキンがステージを飛び降りて観客と乱闘騒ぎを起こすシーンがある。仮にやらせだとしても、周囲に対する迷惑行為であることを考えれば、これは洒落では済まされない。
実際、本作は世間から大ひんしゅくを買い、一時はホアキンもケイシーも仕事を干されてしまった。
尚、劇中にはベン・スティラーやジェイミー・フォックスといったハリウッドの俳優たちも登場してくる。彼らも本作が”やらせ”だと知って出演したのだろうか?もし知らないで出演したのなら少し気の毒である。
「博士と彼女のセオリー」(2014英)
ジャンル人間ドラマ・ジャンルロマンス
(あらすじ) イギリスの名門ケンブリッジ大学院で理論物理学を研究する天才学生スティーヴン・ホーキングは、パーティで出逢った女性ジェーンと恋に落ちる。ところが、その頃からスティーヴンの体調に異変が起き始める。やがてALSと診断され、余命2年と宣告されてしまった。将来を悲観しジェーンとの未来も諦めるホーキングだったが…。
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(レビュー) 実在した天才物理学者スティーヴン・ホーキングの伝記映画。
著名な物理学者でテレビや雑誌などでよく目にしていたので、一体彼がどんな人生を歩んだのか?その一点で興味深く観ることができた。
本作は彼の学者としての偉業はもちろん、妻との出会い、結婚、介護といったプライベートに至るまでかなり詳しく綴られている。単なる偉人伝で終わらなかったのが妙味で、表舞台では見れない裏の素顔まで描かれているのが面白い。
尚、原作は彼の元妻ジェーン・ホーキングが書いた伝記小説である。おそらく本作もこの本から余りはみ出ない形で製作されているのだろう。
ああ見えてかなりユーモアを持った人物であったこともよく分かったし、障碍者になったコンプレックスを抱いて生きてきたということもよく理解できた。伝記映画としてはかなり上手く作られているのではないかと思う。
更に、本作にはもう一つ大きな見どころがある。それはホーキングを演じたエディ・レッドメインのなりきり演技である。これが実に素晴らしいと言うほかない。
ある日突然倒れて歩行困難になり、そこから徐々に体と顔がねじれていき、ついには車椅子の生活を送るようになってしまう。ALSという難病だそうだが、その病状進行をエディは実に的確に演じて見せている。しかも、元々の顔立ちがそうなのか、本人に結構似ていて、本作のホーキング博士にはリアリティが感じられた。
特に、後半はほとんど言葉も話せなくなるので顔の表情だけの演技になる。この限られた条件の中でエディは見事に微妙な心理変化を表現して見せている。尚、彼は本作でアカデミー賞の主演男優賞を受賞した。それも納得の演技である。
物語も軽快に進みストレスなく追いかけることができた。この手の難病物に付き物のお涙頂戴モノにしなかった所に好感を持てる。
前半は二人の出会いと結婚、仕事での成功といった明るいトーンに覆われている。
しかし、中盤以降は教会で働く聖歌隊の指揮者ジョナサンが登場し、ホーキングの介護に疲れ果てたジェーンの心が徐々に彼へと移っていくようになる。ここからホーキングの病状も悪化し、映画は陰鬱なトーンで支配されていくようになる。ただ、かなり抑制された演出が通底されているおかげで、この辺りも決して嫌味な感じを受けなかった。
監督は主にドキュメンタリー映画を撮ってきたジェームズ・マーシュという作家である。イギリス人らしい堅実な演出が作品全体を落ち着いた雰囲気にしている。これは決して地味だということを言っているわけではない。オーソドックスであるが、時に流麗に、時にスタイリッシュに上手くメリハリをつけながら1本の作品としてまとめていると思った。
また、先述したようにホーキング博士は、ああ見えて結構お茶目な所がある。彼と周囲のやり取りがユーモアに溢れていて、作品に対する手触りを柔らかくしているのも良かった。
例えば、後半に登場する看護師エイレンとホーキングのウィットに富んだ会話は、暗くなりがちな物語を明るい方向へと上手く持って行ってるような気がする。
一方、気になったのは、子供たちの描き方である。ホーキング夫妻の間には3人の子供がいるが、今一つ彼らの存在感が薄みで物足りなかった。編集で収まりきらなかったのだろうか?本作で唯一そのあたりが不満に残った。
「スノーデン」(2016米)
ジャンル社会派・ジャンルサスペンス
(あらすじ) 9.11同時多発テロに衝撃を受けた青年エドワード・スノーデンは、軍への入隊を志願した。しかし過酷な訓練で足を負傷し除隊を余儀なくされる。その後CIAの採用試験に合格した彼は、コンピュータの知識を高く買われ、指導教官コービンからも一目置かれる存在になった。一方、プライベートではSNSで知り合ったリンゼイと愛を育んでいく。そんな中、ジュネーヴにあるアメリカの国連代表部に派遣された彼は、そこで情報収集の驚くべき実態を目にしていく。
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(レビュー) アメリカ政府による大規模な監視システムの恐怖を描いた実録映画。
2013年6月、エドワード・スノーデンは米国家安全保障局(NSA)が米電話会社の通話記録を毎日数百万件収集していることをイギリス紙ガーディアンに暴露した。この映画はそこに至るまでの経緯を、事件背景とスノーデンのプライベート、両側面から描いている。
原作はスノーデンに関するノンフィクションということだが、果たしてどこまで脚色されているのか?映画としてよくできているのでそんなことを穿ってしまうのだが、それほどスノーデンの半生はドラマチックなものである。
監督・共同脚本はO・ストーン。この題材は、いかにも社会派作家ストーンの面目躍如といった感じである。氏の国家権力に対する疑心の目は今回も揺ぎ無い。
ただ、本作はゴリゴリの社会派映画かというと、そこまで硬派な作りにはなっていない。演出やドラマの組み立て方にエンタテインメントとしての工夫が色々と凝らされていて、誰が観ても楽しめるような作品になっている。
例えば、現在と過去を交錯させた構成は、観る側の興味を惹きつけるという意味で一つの妙味となっている。
スノーデンがガーディアン紙の記者に事の真相を暴露する現在パートと、彼のこれまでの半生が語られる過去パート。この二つが交互に描かれている。世間的にも大きく報道された事件なので、ことの顛末について知っている人は多いだろう。最初から結末が分かっているので時系列に描いたのではつまらない。だとすれば、このように時世を交錯させながら事の真相を徐々に解き明かしていく方法は中々上手いやり方である。
映画は先に”結末”を提示し、見る側の興味をそこに至る”経緯”へと持って行っている。要するにスノーデンがいかにしてアメリカを裏切りロシアへ亡命したのか?そこの部分を本作のメインテーマとしてるのだ。事件の大雑把な概要しか知らない自分のような人間にとっては、知りたい部分を教えてくれるという観点で興味深く観ることができた。
演出も軽快で観やすい。SNSの広がり方をCGで表現したり、NSAを舞台にしたクライマックスもスパイ映画さながらの緊張感で描かれていてハラハラさせる。キーアイテムであるルービックキューブの使い方も洗練されたユーモアだった。
ユーモアと言えば、恋人リンゼイとのロマンスも一つの妙味になっている。緊張感が続くドラマを上手く和らげることに奏功している。
但し、これは功罪あって、逆に緊張感を緩める”水差し”になってしまった…という言い方もできる。社会派映画として見た場合、このエピソードがあることで全体の鑑賞感が散漫な感じなってしまった感は否めない。
尚、劇中には難しい専門用語が飛び交うので、理解するまでに難儀した。さすがに略称された固有名詞はさっぱり分からず、見終わった後で調べるしかなかった。、リアリティを追求するあまりエンタテインメントとしてはいささか難解な作品になってしまった。
キャストではスノーデンを演じたジョセフ・ゴードン=レヴィットのなりきり演技が◎。本人によく似せていて感心した。
「コンプライアンス 服従の心理」(2012米)
ジャンルサスペンス・ジャンル社会派
(あらすじ) ファストフード・バーガー店に警察から1本の電話がかかってくる。女性店員ベッキーに窃盗の疑いがあるというのだ。店長のサンドラは早速ベッキーを呼び出して問い詰めるが、彼女は身に覚えがないと無実を訴える。電話口の向こうの警官はサンドラにベッキーの身体検査をするよう求めるのだが…。
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(レビュー) サンドラは警官に言われるままにベッキーの服を脱がせて身体検査をし、更に下着を袋に入れて持って来いと言われる。ここまで来たら普通は疑うだろう…と突っ込みを入れたくなった。店の誰もニセ警官だと怪しまないので、途中からほとんどコメディのように見えてしまったのが残念である。余りにも非現実的な展開である。
ただ、昨今叫ばれる企業のコンプライアンス問題を、こうした形で切り込んだところは評価したい。しかも、これが実話を元にしているというのであるから驚きである。本当にこんなことがあるの?という疑問は残るものの、本作の製作意義は確実にあると思う。
監督は新鋭の作家。演出はドキュメンタリズムに傾倒し、その場の緊張感を上手く作り出すことに成功してると思った。クローズアップの多様で演者の心理に肉薄していく作風は、キャスト陣の演技力あってこそだろう。
その意味では、サンドラを演じたアン・ダウドの好演は見逃せない。若い女性店員ベッキーに嫉妬するハイミスの店長という役所で、実に冷徹に演じて見せている。しかも、冷徹一辺倒にならず微妙な心理変化も上手く表現していた。
警官に指図されるままにベッキーを辱める行為をエスカレートさせていくと、徐々に彼女の中で申し訳ないという気持ちが増していく。そして、ついに涙を流しながらベッキーの下着を脱がせるのだ。このシーンは大いに見応えがあった。
「トレジャーハンター・クミコ」(2014米)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) クミコは東京でOLをしながら鬱屈した日々を送っていた。そんな彼女の唯一の心の支えはアメリカの映画「ファーゴ」だった。冒頭に出る「実話に基づく」という言葉を信じて彼女は劇中で埋めた大金入りのブリーフケースを探しに単身アメリカへと飛ぶ。
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(レビュー) 実話を元にしたストーリーと前置きされているが、これは少々誇張した表現のように思う。後で調べて分かったのだが、本作のクミコのモデルとなった女性が本当に「ファーゴ」(1996米)を信じて渡米したかどうかは不明ということである。実際には別れた恋人に未練があってアメリカへ渡ったということらしい。そこから考えると、これはあくまで都市伝説を元にして作られた作品ということになる。
とはいえ、そうした眉唾はあれど、映画自体は中々興味深く観れた。
そもそも「ファーゴ」には実話を元にしているというテロップが出るが、それは監督のコーエン兄弟が仕掛けた嘘で、話自体は完全なフィクションである。
しかし、クミコはそれを信じ込んでしまう。いろいろと調べれば、それが嘘だということはわかるのだが、彼女はそれを信じた。あるいは、信じたかったのだろう。それだけ彼女の精神は不安定な状態にまで追い込まれていたのだと思う。このあたりは孤独に陥る現代人の心の闇が垣間見えて少し気の毒に思えた。
映画前半は、日本を舞台にしたクミコの日常描写で構成されている。クミコが会社で孤立する姿。夜な夜な「ファーゴ」を観る姿。一人寂しくコンビニ飯を食う姿等々。正直、展開が単調で余り面白みは感じなかった。
映画後半は、渡米したクミコが様々な人々との交流を描くロードムービーになっていく。ここから徐々にストーリーに起伏ができて面白く観れるようになっていった。
そして、旅の途中で出会う人々が、尽く寛容で優しいのが印象に残った。ここまで善意に満ちた人ばかりか?という突っ込みはあるが、これは明らかに前半で描かれた日本人の冷淡さとの対比からそうしているのだろう。確かに海外から見た日本人のイメージは、勤勉だが情に薄いといった面があるのかもしれない。この辺りは同じ日本人として少々複雑な思いにさせられるが、ともかくドラマの構成としては上手く工夫されていると思った。
そして、訪れるラスト。果たしてブリーフケースがあったのかどうか?その答えはハッキリとは画面に示されないが(そもそもあるはずはないのだが)、実に美しく綺麗にまとめられていた。おそらくクミコからすれば、これはハッピーエンドと言えるのではないだろうか。少し切なく感じると共に、不思議な安らぎを覚えた。
キャストではクミコを演じた菊地凛子が印象に残った。今回は内向的なキャラクターということで、カロリーの少ない演技を貫いている。ただし、終盤で母親との電話のやり取りが出てくるのだが、ここでは一転、ブーストをかけた熱演を披露している。この辺りのメリハリの利かせ方は堂に入っていた。また、今回は大雪原の中での撮影も敢行しており、彼女の体を張った熱演も見ものである。
「アウトレイジ 最終章」(2017日)
ジャンルアクション
(あらすじ) 山王会と花菱会の抗争が終結し、大友は日韓に大きな影響力を持つフィクサー張会長を頼り韓国へ渡った。そこで花菱会の幹部・花田とトラブルを起こし、張会長の手下が殺されてしまう。これが引き金となり、張会長率いる張グループは花菱会と一触即発状態になってしまう。一方、そんな花菱会も新会長を巡って内部対立が起こり…。
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(レビュー) 北野武が監督・主演を果たした「アウトレイジ」シリーズの最終章。
登場人物やドラマが引き継がれているので、なるべく前2作を観たうえで鑑賞したほうがいいだろう。一見さんには少し辛い内容である。
さて、いよいよ大ヒットシリーズも3作目(最終章)となる。今回もヒットマン大友の破天荒な生き様がスタイリッシュに描かれている。ただ、今回は前2作に比べると大分毛色が異なる作風となっている。
本シリーズの売りの一つだった過激なバイオレンス描写は大人し目で、やや枯れた味わいの作品になっている。
端的に言うと、今回は足を洗うヤクザ者の終焉のドラマである。多くの罪を背負いながら闇社会をサバイブしてきた大友の最後の戦い。そして、その罪に対する自らのケジメの付け方が哀愁タップリに描かれている。
そもそも演じる北野武も還暦である。体力的にもビジュアル的にも衰えを隠せないのは否定しようがない事実である。であるならば、それを前面に押し出すことでキャラクターにリアリティをもたらしたのは、むしろ正解だったかもしれない。変に若作りするよリは、よっぽど良い。
物語は前作から数年後を舞台にしている。
すでに山王会は花菱会の傘下に入り、新たに頭角を現してきた韓国系の新興ヤクザ張グループが台頭してくる。そんな中、花菱会の幹部・花田が張グループの手下を殺したことで、二つの組織は抗争を勃発させる。その一方で、花菱会では内部分裂が起こり、若頭の西野が会長の座を狙い暗躍するようになる。
基本的には前半はこの二つが話の中心となっている。その間、大友はどうしているかというと、海外で身を隠している。なので、彼の活躍はほとんど描かれない。彼が本格的にストーリーに絡んでくるのは中盤からで、激化する抗争を鎮火すべく日本に呼び戻される。
こうした物語構成のため、大友の存在は前2作に比べるとやや影が薄くなっている印象を受けた。これが良いのかどうかは問題であるが、ともかく前2作に比べると今回のドラマは大局的な捉え方になっている。
毎回斬新なバイオレンスシーンで度肝を抜かせてくれる本シリーズであるが、今回もユニークなアイディアが見られた。それは花菱会会長・野村の殺害シーンである。ビジュアル上では見せてないのだが、想像するだに恐ろしかった。こういうアイディアを考える北野武はやはり生粋のサディストなのかもしれない。
また、今回は新会長の野村や幹部の花田が、かなり道化寄りなキャラクターとなっている。コメディリリーフとまでは言わないが、彼らの言動がいい塩梅でユーモアを創出し作品に対する肌触りを若干柔らかくしている。
このあたりは、いかにも北野武流のエンタメである。観る人が嫌悪感をもよおすようなブラックなユーモアもあるが、こうしたファニーなユーモアも彼の作家性の大きなチャームポイントだろう。
そして、このバランスが「アウトレイジ」シリーズでは全体的に上手くいっているような気がした。これまではアート志向が強い作品や、逆に悪ふざけが過ぎるクセの強い作品を連発し、かなり迷走していた北野武であるが、今回のシリーズは完全にエンタメに振り切っており、彼の中でも何か確信めいたものを掴んだのではないだろうか。その意味では、本シリーズが巷でヒットしたことは喜ばしいことだと思う。
「葛城事件」(2016日)
ジャンルサスペンス・ジャンル人間ドラマ
(あらすじ) 葛城清は家業の金物屋を引き継ぎながら、妻・伸子と2人の息子に恵まれて郊外の一軒家で幸せな暮らしを送っていた。しかし清の理想への執着は、いつしか家族を抑圧的に支配してしまっていた。ある日、長男の保が結婚することになる。家を出て自分の家庭を持つが、会社から突然リストラされてしまう。一方、次男の稔はバイトも長続きせず部屋に引きこもるようになってしまう。
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(レビュー) ある家族の崩壊を鮮烈に描いたサスペンス・ホームドラマ。
現在と過去を交錯させながら葛城家の崩壊をミステリアスに解明していく構成にグイグイと引き込まれた。
稔がなぜ服役中なのか?清はなぜ酒浸りのクズになり果ててしまったのか?こうした疑問が映画の進行とともに明らかにされていく。
物語の視座は、最初は稔の婚約者である順子にあるが、基本的には清の告白(回想)によって展開されていく。
最も印象に残ったのは、映画中盤。伸子と稔が暮らすアパートに清が乗り込んでくるシーンだった。二人は暴君的な清から逃れて古いアパートで暮らし始める。そこに清が連れ戻そうと怒鳴り込んでくるのだ。日当たりの明るい部屋は清の登場とともに徐々に陽が暮れて薄暗くなっていく。この時間経過を表した照明効果が実に素晴らしかった。不穏な空気感を見事に表現しているし、一触即発の対峙にヒリヒリとした緊張感をもたらすことに成功している。
そして、このシーンの後に、保の身に衝撃的な事件が起こる。これも実にショッキングだった。彼の心情を察すると実にやるせない気持ちにさせられた。先のアパートの一件が事件の決定打になったように思う。
もう一つ印象に残ったのはクライマックスの稔の凶行である。世間からドロップアウトしたルーザーの自暴自棄な行動と言えばそれまでだが、現代社会の”闇”を赤裸々に表していると思った。
このように本作は終始隠滅としたドラマなので、観てて不快感を覚える人もいるかもしれない。
ただ、観客にそう思わせることができれば、おそらく製作サイドの狙いは成功しているのだろう。不景気、ニート、DV、死刑制度といった社会問題を、ある家族の崩壊を通じて観る側に正面から突きつける。それこそが狙いなのだろうから…。たとえ嫌悪感を覚えたとしても、間違いなく強烈な印象は残る作品である。
監督、脚本は赤堀雅秋。初見の監督さんだが、元々は劇団の主宰者だそうである。本作の元となった舞台を演出したらしく、映画監督としてはこれが2本目のようだ。ただ、2本目とは言いながらも、演出は中々どうして。実に端正にまとめられていると思った。
特に、金物屋における清と保のやり取りは、一見すると何の変哲もないシーンに見えるが、中々味わい深い。清が座る金物屋のレジの席に保が座る。ただそれだけなのに、保の心の機微が見えてくるから凄い。セリフでは一切語らず映像だけで保の敗北感と無力感、そして清の荒んだ心を見事に表現している。
また、所々にオフビートなユーモアを配したのも絶妙だった。
例えば、面会室における稔と順子のやり取りは時折クスリとさせる。缶コーヒーは甘いものに限るという稔の子供じみた主張は、緊迫した面会の中で不意に笑いを誘う。
あるいは、清がスナックでカラオケを歌うシーンにも苦笑してしまった。
本作で唯一よく分からなかったのは、順子がなぜ獄中の稔と婚約するに至ったのか?その経緯である。死刑制度の反対のために結婚しようとしたのだろうか?だとすれば、彼女もかなりファナティックなキャラクターである。
以前観た
「接吻」(2006日)という映画を思い出した。あれも獄中の殺人犯にヒロインの孤独なOLがシンパシーを覚え、徐々に恋愛感情を芽生えさせていくという話だった。
あちらはドラマの芯がしっかりとしていたのでいいのだが、こちらは順子の気持ちに迫りきれていないため今一つ説得力が感じられなかった。唯一本作で釈然としなかった点である。
キャスト陣では、清を演じた三浦友和の怪演が印象に残った。ややカリカチュアが過ぎた感はするものの、独善的かつ昭和的父権の象徴を堂々と体現している。
稔役を演じた若葉竜也のナチュラルな演技も見事だった。初見の俳優さんだが、セリフ回しの自然さに感心する。なんでも大衆演劇界の”ちび玉三兄弟”と言われ、幼い時から舞台にあがっていたそうである。意外にキャリアが長いので、この好演はホンモノだろう。
「淵に立つ」(2016日)
ジャンルサスペンス
(あらすじ) 郊外で小さな金属加工工場を営む利雄は敬虔なクリスチャンの妻・章江と10歳になる娘・蛍と平穏な暮らしを送っていた。ある日、利雄の旧友・八坂がやってくる。利雄は章江に断りもなく、最近出所したばかりだという彼を雇い入れ自宅の空き部屋に住まわせるのだが…。
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(レビュー) ある平穏な一家に起こる事件を独特のタッチで描いたヒューマン・サスペンス。
監督・脚本は
「歓待」(2010日)、
「ほとりの朔子」(2013日)、
「さようなら」(2015日)の深田晃司。人間ドラマにユーモアとシニカルな味付けをするのが特徴の作家である。国際的にも注目され、本作はカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で審査員賞を受賞した。
ストーリーは、ある平和な一家に突然ミステリアスな人物がやってきて周囲に不穏な空気をまき散らす、という筋立てで進行する。こういったストーリー自体は決して斬新というわけではない。それこそ深田監督の過去作「歓待」のシチュエーションとまったく同じである。また、三池隆史監督が撮った「ビジターQ」(2000日)、そして日本映画史に残る傑作「家族ゲーム」(1983日)も、このタイプに入るプロットと言える。
ただ、本作は中盤から予想外の展開に入っていく。八坂を含めた一家が揃ってキャンプに行くのだが、ここから物語は一気に加速する。八坂の突然の豹変。それに続く彼の衝撃の”凶行”は想像の遥か斜め上をいくものだった。
この後、映画は一気に時間が経過して数年後に飛ぶ。八坂が起こした”凶行”のせいで平和だった家族はバラバラになってしまうのだ。何とも悲惨で観てて非常に辛かった。ただ、こうなってしまったそもそもの原因を考えると、これは罰が当たった…という言い方もできる。端的に言えば、悲劇の連鎖と復讐の虚しさ…ということになろうか。
正に深田監督らしい、シニカルでアンビバレントな結末になっていて、観終わった後に色々と考えさせられた。
この映画でもう一つ面白いと思ったのは、章江のクリスチャンという設定である。この設定があることで、この復讐のドラマにはどこか宗教的な意味合いが帯びてくる。
例えば、章江は簡単に八坂を信頼してしまうが、それは彼女の中で彼を聖人化したいという願望があったからに相違ない。つまらない夫・利雄、退屈な日常からの逃避とも解釈できるが、それ以上に彼女の根底には「信じる者は救われる」的なキリストの教えがあったからだろう。
あるいは、章江は八坂に身も心も許してしまうが、普通の感覚で見れば彼女のこの急激な心理変化は説得力に欠けると言わざるを得ない。しかし、彼女が敬虔なクリスチャンだったというバックボーンがあると、この心理変化もなるほどと思えてくる。聖母マリア的慈愛の精神が章江の中にはあったのだろう。
このような宗教的モティーフを鑑みれば、今回の復讐のドラマにはどこか虚しさも覚えてしまう。人間の愚かさ、救われぬ魂といった非常に教義的な教えが読み取れた。
深田監督の演出も相変わらず冴えわたっている。独特のオフビートなトーンは健在で、ヒリヒリとした緊張感もここぞという場面を大いに盛り上げている。
例えば、映画の後半に孝司という青年が登場してくる。彼にはある秘密があり、後半のドラマのキーマンとなっていく。その彼が利雄から突然平手打ちを食わされるシーンがある。利雄の怒りも分からないではないが、孝司にしたら実に理不尽極まりない。このシーンには爆笑してしまった。
また、利雄が孝司の後姿をじっと見つめるシーンが何度か出てくるが、これにはゾワゾワするような不穏な感覚を覚えた。この辺りのさりげない演出を観ていると改めて深田監督の手練には唸らされてしまう。
キャストでは、章江を演じた筒井真理子の熱演が光っていた。前半は気立ての良い貞淑な妻といった雰囲気を貫くが、事件後の後半からは徐々に精神的に追い詰められ狼狽していく。このギャップが素晴らしかった。